海岸線の開通

鉄道観風福島より平まで(其の一)明治30年3月2日民報
「日本鉄道会社の施設にかかる常磐線路、即ち常陸の水戸駅を起点として、磐城も海岸を北上し、岩沼駅に到りて奥羽の中央線に連絡すべき亘々たる長躯一帯の鉄道は、三年以前より屹々として企図画策せられ、今や水戸、平間の構工全く其業を竣り、二月三十五日を期して開通の式を挙行するに際り、鉄道会社小野義真氏は慇懃なる招待書を致して、吾人の試乗を勧誘せられたり」
と筆を起こして、吉田菊堂喜捨は福島発の第二列車に投じ出発。沿線の様子を描きながら、午後八時四十五分に水戸駅に到着。
(其の二)
水戸停車場の光景
入口の大緑門の中央にハ蜜柑を以て美麗に綴りたる日鉄開始の社章を附し、これに国旗社旗の大佩を横たへ、庭内には縦横自在に球燈を点綴して、楽隊奏を中位に置き、餠撒場、演舞場等、その左右に案排せられ、賓客及び見物人のここに群衆するもの幾千名」
(其の三)
水戸駅より平駅に到る四十五哩間の鉄路に散在する停車場は、佐和、大甕、下孫、助川、川尻、高萩、磯原、関本、勿来、植田、泉、湯本、綴の十三駅にして、関本以南ハ茨城県に属し、勿来以北は我が福島県に属するなり。
其列車の往復は一日三回にして、通常左の時刻によりて発着す。
水戸発 午前七時十分 平駅着 十時三十分
同   同十一時十分 同 午後二時三十分
同   午後四時十分 同   七時三十分
平駅発 午前七時   水戸着 十時三十分
同   午後四時   同   七時三十分
即ち福島の第一列車(午前六時三十五分)にて出発する時には、小山駅にて午後二時十五分発水戸行の列車に搭ぜらるべからず、若し夫れ福島の第五列車(午後三時十五分)にて出発する時ハ、小山駅にて一泊し、翌朝十時四十分発水戸行の列車に投じて、水戸発第三列車(午後四時十分)に転乗し、同七時三十分平駅に至るを得べし。」
[水戸より平に到る途上の光景」「福島県の圏境」と続け、源義家や紀貫之などの古歌を引用している。古き良き時代ののんびりした印象記述である。

(其の四)
「列車の平駅に着せしは、亭午を過ぐること三十分の頃にして、乗客は楽隊を先駆として停車場の北端なる来賓席に誘はれたり、聘に応じて此席に入りしもの、先着者を併せて大約三百名、さしもの広闊なる式場 帽影履声を以て充満せられたり。
平停車場の光景
平停車場ハ市の西辺なる、平城の残塁に薄りて南北長方形に設置せられ、結構の壮大なること水戸停車場に譲らず、而して軌道の入口、停車場の出入口、来賓席の一方には掛茶屋の如きものありて、これを来賓の休憩所に充てたり。
停車場の外圏には平町紅袂連の踊舞台、見世物小屋等散点して、弦声鼓声湧くが如く、城塁の一畔より間断なく打ち揚ぐる花火爆裂の響と倶に、或は餠撒、蜜柑撒の鬨声と倶に、内外四面に群衆せる一万以上の見物人は、恰も怒涛 岸を噛んで到るか如く、長風の轡を圧し、来るか如く、…・」
(其の五)
予は以上に於て、常磐線鉄道中平線開通式の光景を一瞥し了りたり。
思ふに常磐鉄道は、ただに天資の景勝に富饒なるのみならず、ただに東西交通の至便を開拓したるのみならず、これが為に未だ嘗て発見せられざる、発見せらるるも未だその販路の膨張を来さざる、無尽蔵の天庫天禄は、自ら発見せられ、自ら膨張せられて、国家経済に偉大なる影響を及ぼすべきもの数多くあるべきハ、吾人の固く信じて疑ハざる所其石炭採掘の将来の如きは、直接の結果として最も吾人の所信を強からしむものなり」
と結んでいる。

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