「列車発着変更請願」
「嚮(さき)に海岸線の敷設さるるや岩沼平両駅間に於ける列車発着駅を中村にせんか原の町にせんかとの問題起り両者の間 多少の競争もありけれども位地(位置)の都合上遂に原の町と決定せるものなりしが今回中村町の有志者等は同地繁昌も関係上是非原の町駅午前発一番列車と午後着最終列車だけにても中村駅の発着にせむとの希望を抱き町会の決議を経たる上此程鉄道庁に其変更の議を出願せる由にて許可変更の暁には別に原の町にて異議を唱ふる者も無き様子故多分直ちに実行の運びに至るならむといふ」明治40年8月28日民報
鉄道開設してちょうど10年。常磐線の全通の記念すべき8月28日の記事である。中村町は発着駅を原の町に奪われた影響を10年間の実績の差によって思い知った。
鉄道が産業を刺激し人の往来を呼び込み、活性化の根源であることに気づき、汽車の始発と終点を持つことが、いかに町に利便をもたらすかを痛感し、機関庫はないけれども「始発と終戦を中村に」と臍を噛むような思いで鉄道超に願い出ている。これは、虫のいい内容だが当然の願望である。これが現実の暁には「捌に原の町にて異議を唱ふる者の無き様子」とも記している。すでに恩恵を受けており、始発と終点が中村になっても、原町には別段の影響はない。反対なかったであろう。
原町市史では、発着駅(機関庫)の誘致について、中村での反対運動と水質の問題が、原町リッチの理由だとしているが、これは全く根拠のない俗説による勝手な断定である。
明治29年には、中村ではむしろ発着駅は反対どころか、当然のことのように中村に出来るものと信じられていたフシがある。
「〇中村の近信 同所は相馬中村よき処と歌はるる程ありて昨今旧年末に迫りつつあるも金融は逼迫と云ふ程にあらず実に滑らかにして諸商況至って活発に彼の常磐鉄道の如きも同処を起線とする事とて人気もなかなかに引き立ち居れど当冬は意外にも積雪多くしてこれのみ少々困却の体なりとぞ」
中村が新文明である鉄道に、旧弊で頑迷な思想で反対したために原町に機関庫が置かれた、と原町市史は説明するのだが、全く根拠がない。編者の創作だ。
上記の通り、十年後の請願記事にも「位置の関係上、遂に原の町に決定せるものなり」と明記されている。

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