菊堂 吉田菊堂 本名駿一郎。
福島民報社草創期の記者で、明治30年の水戸平間の鉄道開通時にも特派されてその様子を報告したり、「福島から平まで」というレポートをものしている。
明治31年の常磐線全通も、勝手知ったる菊堂が派遣された。吉田駿一郎は翌翌年の新年に死去し、社葬になっている。原町とはなじみ深い人物で、民報主幹で翌年社長に就任する松本孫右衛門や松本良七らも福島の病床にかけつけて見舞った。

鉄道の布設に地元の政治力を駆使して誘致したのは、民権運動家の生き残りたちが多かった。
中村の新妻、目黒から、双葉の苅宿仲衛らなどに、常磐線の浜通りの各駅を歴訪しては旧友たちと再会している叙述を見ると、若き政治運動家たちとの最後の別れでもあった。
幕末に幼年を過ごして公的な訓練を受け、明治維新で世界に開かれた青春を生きた彼等が、新文明に出会い、古き故郷に東京と世界を受容した。
吉田が、浜通りを訪問した折に泊まったのが小高の鈴木余生だった。
鈴木は本名が良雄という当時若干二十代だったが小高銀行の頭取をつとめて、いっぽう俳句の世界でも高名な文筆家。病弱で二十七で夭逝した。姉に女流俳人鈴木瑛女がいる。
のちの日本国憲法草案の産みの親の鈴木安蔵の父親である。
良雄20歳。

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