童顔の火夫たち
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大正7年の機関区員たち

川上巖(かわかみ・いわお)さんは明治三十七年原町生まれ。日露戦争の真っただ中で、親は大山巖の名をとって命名した。大正七年、原町尋常小学校高等科を卒業し、国鉄に就職した。数え年で十五才。今風にいえば中学二年生と同じ十四才だった。
「当時の鉄道総裁・後藤新平が派手好きな人で「服装令」を出した。以後、判任官は剣を吊るした。金の小さな筋があり、襟には丸い七宝焼の徽章。子供心にも好ましかった」と回想する。最後は弘前機関区助役から盛岡機関区助役へ、さらに同区長で退職した。
大正初期には原町駅前は川上さん夫妻の遊び場だった。
昭和二年から三年にかけ半年、東京の教習所を出て、四年に任官した。昭和八年まで指導機関士として原町に勤務。昭和三十三年、三月十五日盛岡機関区長として退職。
「思い出話をせよということだが、喋れば自慢になってしまうから、やめておくよ」
と固辞する。しかし「せっかく熱心に来てくれたんのだから」と、盛岡機関区の助役時代に造った野球場のことや、そのころの文化活動、親睦の様子を収めたアルバムを見せてもらった。そんな中に、いくつか原ノ町機関区の写真もある。原ノ町機関区の車庫(くら)をバックに新任の少年職員たちを迎えて記念撮影。大正7年のころの写真の当時には、満十四才で、かまみがき。機関車を「かま」と呼んだ。

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