no.0047

去りゆくものはすべて美しい。
蒸気機関車が消え去ってから何年がたつだろう。常磐線平-仙台区間は電化が遅れ、昭和四十二年九月三十日がふるさとにおける旅客車両を牽いたSL最後の日となった。貨物を牽いたD51が最後にレールを去ったのは昭和43年2月1日。
その日、ぴかぴかに磨き上げられたD51は花で飾られ「長い間ご苦労さまでした 原ノ町機関区」の文字によって、長い間の就業をねぎらわれたのであった。
煙は勢いよく天を焦がした。海辺を、山沿いを汽車は走った。
子供たちは列車が好きだ。
福島の自宅の窓から、東北新幹線の高架をすべるように走る「あおば」「みちのく」が見える。その下で在来線を行き来する「ひばり」も、各駅停車の通学通勤列車も。
「キシャキシャシュッポシュッポ」と、我が家の二歳の娘は歌う。しかし彼女は一度も本物の「汽車」を見たことはない。現在見慣れている、あの長い乗り物は「電車」であって、蒸気の「汽車」ではない。
数多くの写真が、力強いSLの雄姿を焼き付けた。それは多くの場合、雪の北海道の原野を、あるいは日本各地の田園地帯を、海望の丘陵を、目眩むような鉄橋の上を走っている。素晴らしい景観である。
しかし、私の瞼に残るSLは、機関区の構内に、獅子のように雄々しい形で、休息している姿だ。その姿を小学生の頃、何度画用紙に描いたことだろう。
そのころ、私は週に数回機関区詰所に詰めている父のところへ弁当を届けるのが日課だった。
機関区の建物は古く、黒光りしていた。よく整頓された室内は「男の職場」を感じさせた。国鉄マンという人種は暖かく、時間に正確で、それはまるで機関車そのものの属性だ。職員家族慰安会や楽団活動や、家族ぐるみの交流は、子供の目にも、地域社会で生きる上での一つの範であった。
時代は単なる機能を取り残してきただけではないだろう。もっと大きなものを失ったような気がする。
素朴さとか、協調性とか、共鳴できる部分が、あの三十年代には多かった。
特に三十年代の半ばに高まった国民的規模の共感は、その後久しく体験されないものだ。
その三十年代をひたすら力強く走りぬいていったSLは、幻影でないエネルギーがあった。
電化は、効率と経済性の象徴だった。
日本の最良の時代の最後の年を感じさせ、妙な時代の始まりとなった四十年代は、矛盾と葛藤の吹き出す時代であった。
われらは自分たちの最良の時代の、今を最初の年にしなければなるまい。今この時、幼少期という黄金の財産を確かめたいのだ、
私は私の原像を取り戻したい。その一つが、あの懐かしい蒸気機関車たちなのである。

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