1特急ゆうづる

6600形 日本鉄道時代 東北本線・常磐線の急行列車を引いて走った。アメリカ・ボ0る動員社製。
日本鉄道が常磐線用として明治30年1897にボールドウイン社より輸入した6600形は、2B1の軸配置が採用された。これは沿線の常磐炭鉱から算出される低質炭を使うのに火床面積を増やすために従輪をおいた設計となっている。この軸配置は当時ヨーロッパの各地で出力を増やすのに普及していたが、我が国では六六〇〇形のみであった。
六六〇〇形のみに終った理由は、この程度の出力のSLでは敢えて広火室を採用する必要がなかったのであろう。また六六〇〇形は客貨兼用として動輪径を一四二二mmとしていたため、スピードもすぐれずまたB形で牽引力が強くなくといった中途半端の性能であった」久保田博著・大正出版「鉄道史録・鉄路の記録」より

8700形 大正3年(1914)盛岡駅北方500m付近を走る常磐線回り青森行急行列車の写真がある。昭和鉄道史には、「右から3両目は2等食堂の合造車、その右は2等・一等の合造 全体に高級車編成。と説明がある。
「イギリスのノースブリテッシュ社の八七〇〇形は、特許の理由で仕様書に外れた飽和蒸気式であった。輸入後の比較テストの結果は、出力、燃料成績とも加熱式に劣ることが確かめられたため、その後全機が浜松工場で加熱式に改造された。」(鉄路の軌跡)より

九六〇〇形
大正2年(1913)に誕生した国産標準機。
大正時代の原ノ町機関区の項目の本文中に説明あり。

C12  〇簡易線用軽量タンク機
C11型を小型化した、軸重の軽いタンク機関車で、近代国鉄の洗練されたスタイルをしている。昭和7年から22年までの長期にわたって293両製造された。昭和50年まで活躍していた。
C12型をテンダー機に改造したのがC56で、ボイラーなどできゅつう部分が多い。
軽量化するために溶接構造を採用している。また、炭水車の形態が従来のものと異なり、炭水部分に大きい段を設け、後方に対する見通しをよくしバック運転に備えている。
構内での出しいれに重宝した庫内機関車である。

C51型 〇栄光の機関車に成長
誕生の時に、18900型と呼ばれたが、その後、称号規定の改正にともない、昭和3年にC51とあらためられた。製造は大正8年。9600型、8600型より以上の強力機が、好景気で輸送量の増加のため要請された。
幹線用の大型旅客機で、狭軌では当時世界最大。大正から昭和期の特急を引き、お召し列車にもたびたび起用された。
289両製造されたうち、汽車会社で249両製作、集中生産でコストダウンを狙った。

C57 〇優美な象徴機関車
近代化標準機の花形で蒸気のプリンセスと呼ばれた。蒸気圧を揚げるためにシリンダ径はC55 より小さいが、引張力は増大。
C57は、C51 C54 C55を経て完成した中型パシフィック機の決定版。近代化標準機のD51 に次ぐ第2陣。C57型の形態美は太平洋戦争で勇戦した零戦に似通ったところがあるのか、C57の三菱製の多いのと関連ありそう。

C62 〇栄光の超大型旅客機
昭和25年の「つばめ」より昭和42年の「ゆうづる」まで17年間にわたって特急を牽引したのは蒸気特急として最長の記録。戦前は輸送の主体が貨物だったため、新製機の主体も、C57 C59型になった。しかし日々深刻化するインフレは、機関車の新製を許さず、余ってきたD52のボイラを使用してこの機関車が生まれた。

D51 〇日本の代表蒸気機関車
大正中期のC51 D50 昭和初期のC53 C50 C11 C55と順次改良されて、日本の鉄道にマッチした国産機関車が続々誕生した。大正初期から約25年間の使用実績と各種の調査研究の結果、誕生したのがD51.10年間で1115両というわが国の機関車として1形式で最大両数が造られたのも、わが国の鉄道に最も適合した優秀な性質であったことを物語っている。

C50 103 をめぐる新聞報道より。
シゴマルの愛称で呼ばれるこの機は、戦後の浜通り常磐線を戦後復興の主役として物流運輸に活躍した。
長く放置されてきたが、「SLを守る会」など、旧国鉄職員OB有志たちの手によって守られ、市立博物館の設立に合わせて、その管理下におかれ、市民の記憶に長く残されるようになった。

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