明治29年に建立された、半谷清寿への感謝顕彰碑が日立木駅の神社境内にある。

「松方正義の相馬救済のため広範な土地を買い入れた」事情は、左のとおりである。
  相馬は廃藩置県のとき報徳仕法により「土着制度」の方策をとったが、この土着士族は耕作に慣れず、土地を放す者が多く上田で五円まで下がったという。中央の豪商連が、一時これを大口に買占め、再び売り出したため、相馬野の土地の信用はガタ落ちになった。彼は三田の松方邸を訪ね、相馬の疲弊の事情を説明し、これがバン開削として約二〇〇町歩、反当り三〇円として六〇〇〇〇円の調達をうけて早速実行に入った。(半谷六郎 清寿小伝)

 この松方正義との土地買い入れが、やがて鉄道事件とともに、告発のひとつの理由となったわけである。
 果たしてこれを「相馬救済のため」とみるか否かは、人々の意見の分かれるところと思われるが、経緯力と圧迫に屈せず「農民の利益を守る」闘いであったことはたしかである。
 いまでも日立木立谷部落に鎮座する稲荷神社境内に、農民たちによって建立された半谷清寿の報徳記念碑がある。
 ○路線の決定と住民の確執
当時、明治24・25年頃、鉄道がどこを通るかということについては、住民同士の複雑な利害関係があって、大きな関心の的であった。
 特に南小高を中心に羽二重産業が起こり、市街地形成が進んでいたときでもあり、商工業者にとっては、鉄道が近くを通ることが繁栄の条件と考えられていた。上か下か。
 そのころまでの上町(一区)は金谷口から峠をこえて津島、福島に通ずる陸上交通の玄関口として栄えており旅館、馬市場、うどん屋、もち屋、居酒屋など軒を並べていた。
 下町に駅は開設することによって当然反対の声があがった。しかし、羽二重や大井の「藺草」による「ござ織」を小高の一大産物として発展策を主張する小高実業会の方針が町を制したことは想像に難くない。
 一方農民の動きを見ると、予定路線が神山、耳谷、泉沢と耕地や人家の少ないところであったため、さしたる反対も見られなかった。
 しいていえば、泉沢字八重迫に貯水池を持つ福岡、女場などから貯水池を二分されることについての反対と、岡田部落くらいだったと伝えられる。
 これとは別に、旧金沢地区は全部落あげて、路線の誘致を運動し、住民の大半は「鉄道開設約提証」なるものを作成して、その筋に陳情した動きが記録されている。

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