午前九時頃だったか翁の使い(ご令息芳衛さん)が来て「父がすぐ来て貰いたい」と言っている」という。私は支度をしてすぐ出かけた。
翁はご令息芳衛さんの離れの一室で病床に伏して私の行くのを待っていられた。以前からいろいろとお世話になっていた関係上、なんの遠慮もなく直に枕辺に見舞った。
翁は大変に気分がよくて喜ばれ、私を迎えてくれた。
「来てもらったのは他でもない。これからオレのいう事を記録して欲しいんだ」
と言われた。
同席の芳美さんが、名入れの便箋を用意してくれたので、私は速記にとりかかった。
翁は床に伏したままの姿で長年計画した夜の森遊園地の事をはじめとして、三十七年前に私財を投じて東奔西走して夜の森駅設置に全力を傾けた当時の経過なら美二請願、許可全文の記憶をとうとうと話し続けた。全文の一字一句も誤りなく、また役所名、発行月日、発送番号等に至るまで、よくも覚えておられるものだとその記憶力の偉大さに、唯々敬服しながら約一時間余で速記の筆を止めて、後日を約して別れた。翁は安心したように休まれた。
それから数日後に翁の病状が急変して遂に不帰の客となられたのだったと思う。」
(坂本英さんの思い出話)
坂本英さんが書き留めた但野翁の口伝によって、夜の森という町の発展が、つぶさに分かるのである。
夜の森発展の歴史についての但野翁の口伝は、次のように伝える。
一、 明治三十五年頃、半谷翁移住、宮本磯エ門一軒のみ
二、 明治四十年春、但野氏一家夜の森に移転
三、 当時の民家戸数
宮本磯エ門、半谷清寿、佐藤金松、但野芳蔵。
四、五 略
六、停車場の現地は元三軒屋の二~三人の共同所有地であったが、後滋賀県犬上郡の寺田秀吉氏の所有となる。
明治四十年、川内公有林の決定に及んで、資源開発には停車場が必要と思い、建設を決心。半谷清寿氏と相談して鉄道用地買収に乗り出した。
大正六年七月十五日、初めて水戸へ行き、東京鉄道管理局水戸運輸局をたずねた。
このほか単独で東京へ行くこと五十五回。ようやくにして解決への道を開き、停車場建設への許可をとるまでの運動で五十町歩の土地を犠牲にするなど、苦労は大きかった。
大正七年十月、許可が下り、実に一年三ヶ月の年月を経て、但野氏の努力は実った。
但野氏の記憶にしっかりと刻み込まれた請願文の文章は次のようなものだった。

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