神尾千鶴子 十人の世界

ある日、書棚を整理していた。私はちりを払う手をふと休めて、昭和一九年と書いてある日記帳を手にした。第一頁をそっとめくると、たどたどしい文字の中から疎開地福島の香が私の胸をついてきた。それはいち早く一一年前の私につれ戻していた。あの中村屋旅館の私達の部屋へ——–。
それはまぎれもない昭和一九年八月二三日のことだった。私は生まれて始めて父母の元を離れ見知らぬ土地へ来た。何でも鹿島の駅で降りて旅館や神社や農家の広い庭を過ぎて、私達が入れられた所は相馬郡鹿島町字町一八六中村屋旅館というところであった。そこの二階に上がって行くと、先ず大きな部屋が三つ、からかみもなくつながっており、長い長い机が中央に構えてあるのに驚いた。横にはもう一部屋、十畳が女の子の部屋に割当てられた。私達が着いたのはお昼過ぎだろう。持って来たオニギリが出された時も、ただ私は一日の遠足に出かけた様にしか感じられなくて、いくつも並んでいる部屋の、窓から見える田舎の景色に驚いていただけだった。やがておきまりの様に付近の学校の校長の挨拶、町会長の言葉、この旅館の主人の歓迎、そして先生と寮母の紹介が行われた。そして翌日には御子神社に連れて行かれ、私達のこれから、やっかいになる国民学校へも連れて行かれた。その頃であった、私達がやっと父母の元を離れた淋しさを実感しだしたのは。
ポーッという汽笛が鳴ると、誰からともなく窓にかけ寄って鼻をすすった。「今のはきっと東京行きだわね。」そんな状態が一週間ほど続いた頃に寮母さんから、「もうお止めなさいね。」と言われた程だった。
すこし慣れてきた頃の日記の頁には、こう書いてある。
十一月十二日(日曜)晴
今日は、日曜でいなご取りに行きました。寒かったので少ししかいませんでした。
十一月十三日(月曜)晴
今日のおやつはさつまいもでした。とてもおいしかったです。

故郷への淋しさを後にして私達は急速に福島の地に同化されていった。「手が茶色になるけれど、フクロがガサガサいうけれど、私達、イナゴ取りが上手になったわね、大きな桃がドンブりコッコて流れてこやしないかしら。」「あのね、Aさんはね、もうシラミがいたのですって。」「わあ嫌だ。」
けれど、父母を離れた十歳の女の子の世界には恐ろしい封建社会が発生しつつあった。ああ、あの十畳の私達の世界には「女王が居て、その暴君ぶりを発揮していた事を誰が知ろう。それは痛めつけられた者のみが胸の奥に深い傷をつけているだけなのだ———。
※     ※      ※
私達の寮は男の先生が一人、寮母さんにその子供一八、九になるお姉さんと、二七人の男の子と一〇人の女の子であった。女の子は十畳の部屋にいて、部屋のまわりにめいめいの柳行李を置いていた。その頃もう「女王」の行李は皆の真ん中に位置していた。彼女の行李はには大きくその名前が書かれていた。
誰が彼女を「女王」的存在に祭り上げたかはわからない。一員と考えられるのは、彼女がきれいな顔立ちで、寮母さんのお姉さんに可愛がられていたこと  加えるに二七人の隣の男の子の存在だったと思う。男の子というものは、いつの世でもきれいな女の子の気を引こうとするものだ。私達はいつの間にか彼女に忠誠をつくすさまになっていた。
「女王」の脇には二人の「お付き」がいつも控えていた。この二人は気が強く、いつも周囲のだれにつけば我が身の安全になるかをうかがってゆくタイプだ。内気で気の弱い、おとなしい三四人の女の子がいつも「女王」から攻撃される対象になった。彼女達は何一つ抵抗したことはないのだじぇれど。私を入れた残りの三人は、その中間であった。要するにこの十畳の世界でも歴史にもれなく強い者がいばり、弱い者が常に圧迫を受けていたのだ。
この土地に来てほどなく、ほんの些細な事件が「女王」支配のきっかけを作った。私達は日常、腰までの着物
下はモンペをはいていた。(これは皆、母親が自分の着物をほどいて作ってくれたものだった)。ある日、「女王」の着物の肩上げが、何かのはずみで取れてしまった。「女王」は命じた。「皆、肩上げとるのよ!」 私達は小さな手にハサミを持って皆それに従った。丁度、寮母さんが階段から上がってきて、「アレ、へんな子供達だね、みんな子供なのに肩上げがないよ、どうしてとっちゃったの」と言っていたのを今も思い出す。この時、「誰さんが言ったから…・」と告げ口をしていたら、…あるいはその前に「何で私達までそんなことするの」と反発していたら……と、ずっと悔やまれたのだった。
福島は東京よりずっと寒さが早い。一〇月には火鉢が出された。私はこごえる手を火鉢に近づけた。すると「お付き」が言いわたした。私の座ろうとした「一番暖かいところへ、「お付き」がその両隣へ陣取った。私の座ろうとした一番火が起こってところは「女王」の席なのだ、と。「女王」は一番暖かいところへ、「お付き」がその両隣へ陣取った。そして、「女王」の正面がイジメラレっ子の三人。私達はその中間だった。その命令以後、このように火鉢に座る位置づけがなされた。私達はその火鉢のまわりで東京の話にふけり、あやとりをし、お手玉をして過ごした。
ある日、「女王」は「お付き」に耳打ちをした。「お付き」はおおげさにうなづき、言った。「みんな、Bさんの手をつねるのよ」。「女王」の命令が下った。可哀想にBさんは顔を赤くして、次に真っ青になった。彼女の手は火鉢に置いたまま!。初めは誰も手を出さなかった。「やるのよ」。「女王」は厳しく言った。先ず、「お付き」達が彼女の手をつねった。しもやけの出来上がって赤くふくらんだ手は、残酷な爪跡を残し瞬間青くなっていた。Bさんがヒーヒー泣くのを見なじっと見ていた。以後、誰かが「女王」の気にいらない事をやるとこれが「女王」から出る折檻となった。この「つねり」は火鉢が出されてから、ほとんど毎日続けられた。始めのうちは今日は誰が犠牲になるだろうか、少なくとも自分ではないようにと—–心の中で祈った。「女王」のカンにさわるということだけでその日の犠牲になる。しかも段々とつねり方もひどくなってくる。寒さはきびしくなり皆の手はしもやけが出来てくる。この手で朝、川原で顔を洗い洗濯もしなくてはならない。この対象に、ほとんどイジメられ側の四人が代わる代わる当てられたように思う。特にBさんの手はしもやけがくずれ、内部の赤むけた皮膚が出てきた。そんな手を八人が(「女王」は直接、手を出さない)、命令のままにつねった。その残酷さを誰も告発しないで、さびしさの代償にしていたのだろうか。
私の一番恐れた事は御飯の食べるのが遅い事だった。もし、皆が箸を置いているのに、私だけが箸を持っているところを「女王」に見られたら大変だった。「何でもっと早く食べないの——-」と爆弾が落ちた時、私にはこの間のBさんのしもやけの手が思い出されてぞっとした。そして翌日、私はぼろぼろの御飯をほとんど飲み込むように夢中で流し込んだ。
オカズはただ三切れのタクワンだけだった。箸を置くと男の子でさえも未だ半分程しか食べてはいなかった。食後、「女王」は私のそばにくると「早く食べられるくせに…。」今度からあの位でなくは駄目よ」と命じて去った。私は数日その命令を守った。そしてついに下痢のため床についてしまった。私達のせめてもの楽しい食事、たとえ御飯と少々のオカズでもゆっくりと食べて満腹感を得るようにしたかった。そこに「女王」は眼をつけた。これも「女王」の制裁の一つだった。
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一一月一六非、バアチャンと父が一緒に面会に来てくれた。「女王」はこの事を知ってさっそく「チーちゃん、これあげる」と四角い箱をくれた。彼女は面会者とは仲良くしておkべきだという事をちゃんと心得ているのだ。私はその晩、疎開児童の部屋から出て、一般客用の部屋でバアチャンと一緒に寝て東京の色々な話を聞いた。————
バアチャンが「昔 昔 思惟の木林のすぐそばに小さなお山があったとさあ あったとさ」と「杉の子」の歌を歌ってくれた時、故郷の地に父、母と兄弟達を思い浮かべ、バアチャンと過ごした夜が、私の疎開の思い出の中で一番なつかしいものとなっている。
バアチャンがかえってしまった後、ひとしお淋しくなってしまった。勝手な「女王」が「箱をかえして!」といってきた。気がついてみるとその箱は柳行李の下でつぶれていた。私はかつて、ひとから借りたものやもらったものは大事にする習慣がついていた。今までこんなことはなかったのに。私は丁寧に延ばしてきれいな折紙を貼って、「女王」に出した。「イヤ、始めの通りでなきゃ」。無残にもほっぽられた小さな凾を拾って私は「どうしようか。どうしようか。」と思い、小さな心は初めて泣いた。

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十二月十三日(水曜)くもりのち晴
今日ははつゆきです。朝おきてみたらゆきが少しつもっていました。でも今日は、お休みです。

雪がちらほら降っている。外を頭巾をかぶった子供達が寒そうに歩いている。家では綿入を着てモンペをはいた住人の女の子が火鉢にかじりついていた。そんな頃、「女王」はネロ皇帝の如くますます暴君ぶりを発揮していった。火鉢には焼けた火箸が炭火の上にらんらんと赤くなっている。その時「女王」の命令が出た。「この火箸をCさんにつけろ」と。私達は青くなった。「お付き」がそれをやったのだ! 私はCさんの襟首が赤くひきつっているのを見て目をそむけた。彼女は泣いた。さめざめと泣いていた。その時寮母さんが上がってくる足音がしてきた。「駄目よ、言っちゃ」。「女王」の一言は皆を黙らせた。しかし、異様な女の子の雰囲気に、さすがにこの事だけは寮母さんの耳に入ったらしい。けれど、何故か「女王」は叱られなかった。
部屋の真中で泣いていたCさんは自分の行李にもたれかかってさめざめと泣き続けた。Cさんの姿を見て私の胸に小さな反乱の火がともった。どうして誰も反乱を起こさないだろう、見な自分がやられないように「とおののいているだけだ。私もそうだ——。でもいつか私はきっと反乱をおこす! きっとCさんの襟首には今も焼けただれた跡があるのではなかろうか。
又、数日後、こんなこともあった。Dさんの髪の毛は普通の女の子より数倍も多かった。それが「女王」のお気に召さぬところとなった。
「抜いちゃいなさいよ」「一人一人皆やるのよ!」 ある者は一、二本wおつまみ、「お付き」達は気にいられようと束のようにつかんで髪の毛をひっぱった。「女王」の見て居る前でカミノケヲ次々引っ張られて泣いて逃げようとしているDさんの姿が今でも見えるようだ。
それをい止めさせる事も出来ない、言いつければ明日は我が身かも知れない。機嫌をそこねないようにするのが当時の私達十人の世界での戦争であった。こんな苦しい世界がある事を誰も知らないのだ。先生も寮母さん立でさえ知らない事が多々ある。まして父母も知らない。そして私の日記には今日は何がありました式の行動の記録だけで心の動きは書かれていない。
これら十人の女の子びよって展開された社会を隣の部屋にいる男の子達は知らない様に、私達も男の子が一緒に朝、川原に行き、学校に行き、近くの農家へ縄編みに行った他の、裏の世界を知らない。ただ、こんな事があった。
私とEさんと二人で絵を描いている時だった。男の子のガキ大将が二人、私にたずねる。「オイ、神尾。男の子で誰が好き? 四人まで言ってごらん」。私はこの二人を含む男の子で優勢な人物の名をあげる。「よし じゃあEは?」 彼女も同じに答える。二人はイバッテ次をまわる。そして彼らは選考する。彼らの考えが一致すると「今日は〇〇と〇〇と〇〇と神尾のドンブリとオワンを揃えてやるぞ!」と叫ぶ。というのは各自持ってきたドンブリとオワンがあるはずだが自分ので食べられるという事は滅多にないのだ。宿の人が階段まで運んで来たのを点検して、このガキ大将たちが自分たちが持ってきたのを見つけて揃えてくれるというわけだ。そんな場合も一も二もなく「女王」は第一候補として挙げられていた。
又、「ワカモト」という薬が引っ張りだこだった。いくらか甘みがあり、飢えを紛らわすのに役立った。「お前、ワカモト持ってるか」。「うん」と答えたらもう、それらはガキ大将たちの手に渡ってしまう。
でも彼らは「女王」と違って、取り上げておいてから分配もしてくれた。

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昭和二十年一月一日(月曜)晴
今日はお正月です。私も十一才になりました。朝はねをついたり、いろいろなことをして遊びました。夜しろいごはんでした。

昭和二〇年に入ってから一ヵ月余り私は病気にかかった。地元の診察を受け、膀胱炎だったと聞かされた。首筋にできたおできが化膿してばい菌が体内に入ったためらしい。ともあれ私は中村屋旅館のもよ子姉さんに可愛がられ、よくお医者さんに連れて行かれた。私は十畳の部屋の端にふとんを敷き、おかゆを食べ一ヵ月余り寝かされていた。横で見て居る限り十人の世界は楽しそうで何事もなき日は流れて行くように見える。イジメの陰湿さはその中に入らないとわからない。従って寝ている時期の「女王」の支配の世界を私ははっきりと記憶していない。
さすがの「女王」も寝ている病人は無視したので、もよ子姉さんと手をつないで色々な話を聞きながら医者通いをしたこの時期は疎開の思い出の中でものどかな暖かい思いが胸を流れる。
春になって水ぬるむある非、「中間派」三人が川原できれいな意思を探しながら、始めて「女王」について話した。私達、「中間派」三人はとても仲がよかった。「イバッテル」。「あたしにこんな事をした」。「もう言う通りになるのヤメマショウ」。これはまさに革命であった。このころ「女王」は前のような威力がなくなり始めていた。何故だろうか。もしかしたら再疎開の話がちらほらと聞こえたのかもしれない。寮母さんが替わるということも耳に入ったのかもしれない。「女王」はそんなきざしが見えると不思議なもので「お付き」達も前のようにベタベタとくっつかなくなった。「女王」は行李の前に縮こまって、ひとに親切にするような気配さえ見えた。
「女王」支配が始まって半年以上が過ぎただろうか。今日こそはという非、私達三人はしめし合わせて、「革命」を起こしたのだった。私達は「女王」に反省させたにすぎなかったが、かつての暴君も今はただ、泣きじゃくっていた。それからというもの、私達の空気は楽しいものになっていった。———が、それも長くは続かなかった。すぐ再疎開の情報が流れた。

政府は勝っている勝っていると報道していたが、五月に入ると疎開先でもしばしば空襲警報のサイレンが鳴り、B二九が福島の空を飛んでいた。「お母さん、私達は太って丈夫です。」と書いた手紙に反し、体操の時間の男の子達のアバラ骨の何と浮き上がっている事か。そして彼らは歌った。「来るなら来てみろ 赤トンボ。ブンブン荒鷲 ブンと飛ぶぞ——」。
昭和二〇年春には戦況が更に悪くなり、次に私達を苦しめたのは飢えとの闘いだったと思う。日々の食事は更に悪くなり、昼の食事も小さなピンポン玉位のジャガイモ数個だけだったりする。ここ福島の海岸沿いの鹿島も危うくなり再疎開のやむなきに至ったのだ。再疎開先では、仲良し達も離れ離れになるのだ。

朝の川原で私達は元気に歌う。
くぬぎ林にこだまする
朝の体操の元気なかけ声
響け響けよ 山越えて
村のお家の空までも
(音楽の小山先生の作詞作曲)

後記(平成二年九月)
これは集団疎開から帰って十年程たったある非、ふと回想にふけって私の脳裏にリアルに覚えていたイジメ事件を書き留めておこうと雑書きした一端にすぎない。もし級友と語り合ったらもっともっと様々な事件が挙げられるであろう。事実、二、三年前、約三〇年ぶりで疎開時代の数人の集まりを持ったが、当時のルームメートは私の知り得ない、もっと残酷な事件を知っていた。中村屋の十畳にいた八ヵ月余り、私達は空腹や寒さよりも(親と別れたさびしさよりも)何よりも「女王」支配におびえ、震えていた。集団疎開というと私達は先ずこの「イジメ」というくらいイメージと結びついてしまう。ある意味ではそれが十人の世界の戦争であったと言えよう。
未だ十歳の親元に保護されるべき年齢の子供達が、戦況のためとはいえ、見知らぬ土地に来て、誰にも頼る心の拠り所もなく、先生にも養母さんにも、手紙で父母に言いつけることもしないで、諸々の不自由さを幼い心身で耐え過ごさなくてはならなかった。心の欲求不満に加えて、食糧、身のまわりの品の不足(私はハナカミとノートがいちばん欲しかった。この点ではよく親に甘えた)にいつも耐えていた。
そんな変則的な除隊に置かれた子供の社会が「ゆがみ」を作り上げていった。私が今、強調したいのは、誰が「女王」であったとか、いじめられた側であったとかの問題ではない。自然発生的に出来上がる子供の社会の「こわさ」である。それは又、大人の社会のゆがみの反映であると思う。この時代のゆがみとは第二次世界大戦であった。戦争とは諸々の形でその時代の人間に爪跡を残すものだ。
現代では、数年前から特に中学生を中心とするイジメ事件がよく報道されてきた。異常な程残酷な事件が続く時代はよく見ると大人の社会の考え方にゆがみがあるように思う。
子供が街角で遊ばなくなった。塾通いで親の敷いたレールを歩まされ子供の自由がなくなり、家では一人ファミコン等に没頭し、人との付き合い方を遊びの中で覚えることがなくなると、子供は何かのはけ口を見つけたくなるものだ。私は陰湿ないじめ事件を聞くと、あの「十人の世界」を直ぐ思い出してしまう。子供の残忍性は弱い者、汚いと思うイメージを見つけてそれを好げくしてフラストレーションの解消にあてようとする。しかも、その残忍性はエス彼〇しょんする性質がある。
私はいつも自分の「心」に言いきかせていた。人間は「芯」が弱くては駄目だ。いじめられる人間にはなりたくない。ましてや逆も——-。どんな環境にあっても、人道的に許せないことや心身が本能的に拒否することには「ノー」と言える人間でありたい。ただこのように」単純にはいかないのが「イジメ」であろう。一個人を越えた社会状況を含め根深いところに原因があるようだ。そんな時は問題を煮詰めて知恵をしぼって解決の糸口を見つけ出していく世の中であって欲しい。
この疎開のイジメ事件の後半、「反乱」を起こすところをよく覚えていないのが残念だ。多分、「中間派」を中心に川原で何度か意見を交換し実行したのだと思う。記憶は苦しい時のみを多く留め、楽しい時は流れてしまっている。
「十人の世界」を体験した私は、その後の人生で人間関係の大切さをいつも通関して生きて来た。戦後四十五年たった今でも私達が少年期に受けた心の傷はなかなか癒えるものではない。ある時は自己の内面に深く巣ぐもり、時としては人間不信におちいるほどの傷を残すこともある。疎開と聞くと身震いする、語りたがらない友が今でもいる。私はこの文章を公にして疎開のことでは一つの「つき」が落ちて明るみの方に出たように思えた。疎開のイメージももう時効だと叫びたい。
現在、日本の平和な日々の中で、¥忘れられがちな戦争の歴史、その一こまに十人の女の子のふるえる日々が確実にあった。私が熱心に書きとどめた日記、献立、手紙は昭和十九、二十年の戦争の一頁として意味があるかもしれないと思い、ありのままを資料として使っていただいた。

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