原町無線塔、朝日座など福島県南相馬市原町区(旧原町市)の文献を公開

57 帝国金属原町工場

帝国金属帝国金属原町工場

帝金、と呼ばれていた帝国金属株式会社原町工場について、ほぼ全滅に近い被害を受けた、ということ以外に詳しい内容が判らなかった。
しかも、地元の学校や、戦後ずっと経営の継続されていた原町紡織工場などについては調べれば数多くの証言者に会うことができたが、戦時中の一時期の操業だけの存在であった帝金については。すでに三十七年の年月が経過し、終戦と同時に雲散霧消してしまった軍や軍需工場の資料に頼るべきもなく、ただ当時そこで働いたことのある人々から、前後の事情をたずねる他に方法がなかった。
原ノ町駅の東側の空き地に、広大な敷地を占めていた帝金原町工場は、町民にとっては忽然と出現したような施設であった。
戦時中のことであり、しかも海軍の兵器の部分を製造するという事業内容だったのでそこで働いた多くの原町町民は、口外をはばかった。
少数の会社幹部や技術者を除けば、そこで働いたのは地元の者たちであった。相馬商業学校(原町高校の前身)が、戦時中の一時期、相馬工業学校となり、多くの学徒がこの帝金工場で働いた。
最盛期には、五百人にのぼる人員が就業していたという。
現在の福島県の原町合同庁舎のある土地が、ほぼ工場入り口にあたる。東西に伸びる渋佐街道をはさんで、様々な施設があった。
「第一小学校の敷地か、それ以上の広い敷地だった。当時私は、帝金原町工場の資材課に勤めてました」
ダイエーグループ「カツミヤ」会長松本正さんは、当時をこう回想する。
「全国から集められてきた資材が、山のような野積みになってましてね。資材といっても、廃品、鋼鉄、いろんな金属類、供出されたのを回収したものですね。薬缶だの釣鐘なんかもありました。それがスクラップになって、敷地いっぱいあったんです。
建物は大きかったですよ。長さ六〇間の巾一〇間はありましょうかね。
工場が二棟ずつ四棟がようやく整って、完成品を五百か六百やっと作ったところで、あの空襲でした。
私は、門を入ってすぐの現場事務所へ出てました。事務所の前には大きな防空壕がありまして、そこを使いました。
ですが、一般行員の人たちは、建物から離れた所の方がいいといって、別な場所にたくさん防空壕を作ってましたよ。四百人ぐらいで毎日作業している。仕事なんか、どうしてたんだろねえ」
八月の空襲では、出勤した者は少なかった。身の危険を感じて、工場へは行かないのである。案の定、凄まじい爆撃だった。
「私は家の防空壕に入ってました。隣が石川製糸所で、当時は片倉製糸工場が管理してましたが、郷土部隊の三三一八部隊の本部がありましたから、ここもやられた。今の小野田病院の場所ですね。
百キロ爆弾が落とされると、地響きで一尺二尺(三〇センチから六〇センチ)ぐらいは尻が持ち上がる。そのたびに、砂がざあっと降ってくるので、全身砂だらけ。一時間ぐらい過ぎてから家に戻ってみたら、柱から戸棚から大きな機関砲の弾が刺さってました。
町なみは、まともにちゃんと立ってる電柱なんか一本もないぐらいで、みんな曲がったり折れたり。角材の破片だの何だので、ジャングルみたいなもんです。それを跨いで歩いた記憶がある。

帝金は、そりゃひどいもんでした。あそこは、三〇センチで長さ一メートル半ぐらいの海軍の機関砲の台座を作ってたんですが、きのうまであった建物が行ってみると姿かたちもない。木っ端微塵にやられてました。敷地はボコボコ爆弾で穴だらけでした。
鉄道の官舎なんかも半分以上燃えた。
乱暴狼藉という言葉がありますが、あの爆弾の乱暴狼藉はひどいもんでした。
兵隊のいた建物は、みんな偵察されて狙われたんですね。原一小にも郷土部隊がいてやられた。
私は、あの時三十八歳でしたが、同級生が国内徴用で引っ張られてます。私も引っ張られるのを覚悟して、今日か明日かと思ってました。髪の毛を切って、遺言状を書いておけなんて言われましたから。
徴用で引っ張られるよりは、と帝金に勤めたわけです。工場長は海野という人でした。勝見屋は昭和十年に開店しました。当時は小さな店でした。配給が始まって、コメや油、砂糖などを扱いましたが、コメはやがて無くなった。昭和二十年の初めから品物は無いし開店休業のような状態でした。
一番大変だったのは、食糧ですなあ、やっぱり。毎日毎日、農かへ出かけて行ってはイモや大根を譲ってもらって、家内は一晩かかさずその刻み方ですわ。米にまぜて炊くんですわ。米が少ないから、カジメなんかを入れてね。
勝見屋が再開したのは、昭和二十一年になってからです」

同じく帝国金属原町工場で働いたことのある門馬重清さんは、昭和十九年八月から昭和二十二、三年頃までを知っている。
「帝金は、十九年の三月から始まって、戦後までありましたよ。私が残っていろいろと処理したんですから」
当時、門馬さんは二十六歳。庶務を担当していた。
「爆弾は五、六発落とされたかな。ガラスや屋根なんかは吹き飛ばされちまいましたが機械は使えるのはありましたよ。

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