斎藤清三 戦時中の原女校長

 郡山空襲のあった昭和二十年四月十二日は晴天であり、その朝原町上空にB29が現れ編隊で常磐線に添って北上して来た。銀翼が陽光に輝いて余りにも鮮やかなので恐ろしさを忘れてしばし見とれていたのを今もありありと思い出す。常磐線上を北方に向い岩沼辺りでUターンし東北本線に沿って南下したらしかった。
 福島市上空では僅か数発の投下で、それも市街地を外れていたので大した被害は無かった。米機の目標は郡山の軍需工場であった。
 当時電話は普通だったのでその状況は知る由もなかった。空襲直後警察電話で知ったのであった。当時の郡山警察署長斎藤浩氏が以前に原的及び須賀川の署長をしており、小生須賀川で旧知の間柄だったので特別に通報していただいたのであった。原女の生徒に負傷者が出たのでトラックで迎えに来るようにとのことであった。トラックも当時容易に用意出来なかったが父兄の建設業者の方に依頼して急行した。行くみちみち何名の犠牲者が出たのか心配で仕方がなかった。
 日東紡富久山工場に到着して見たら、他校の生徒はぁなりの人数の死者が出たが、原女には数名の軽傷者だけだったのは不幸中の幸いだった。聞けば原女生徒の大多数は工場から防空壕まで退避する時間がなく、本館の一階に集合したところだった。幸運にも二階には旋盤ボール盤等々の重機類を積み上げてあったので爆弾がそこで止まり生徒たちは危機一髪九死に一生を得たのであった。。まったく奇跡と言うほかはなかった。思わず胸なでおろし、トラックに分乗して帰校した。それにしてもあれが原爆でなくてよかったと思う。

編注。福島に7月20日落とされたのは、通称パンプキン爆弾、原爆模擬弾であり、渡利地区の14歳の中学生が犠牲となった。