原町無線塔、朝日座など福島県南相馬市原町区(旧原町市)の文献を公開

08 伊賀慶一郎日記 昭和二〇年二月十六日の原町空襲の記録

伊賀慶一郎日記 昭和二〇年二月十六日の原町空襲の記録.
作成: 二上 英朗 日時: 2011年11月10日 7:59 ·
現在執筆中の原稿です。
今般の地震・津波・原発事故の多重災害で、毎日、テレビの警報に神経をとがらせてきた緊張感は、戦時下の空襲にさらされたわれらの父母の経験に匹敵しよう。
二月十六日本日来襲せるは敵艦載機グラマンと判明
第一回目計七機朝九時来襲時工場於は丁度後番者の朝食時なり
不幸にして敵食堂に対し機銃掃射を行ふ。
学校(国民)責任者小松さんは商業学校四年生の斉藤、
身に数発を受け遂に死亡。
同学徒笹森頭部に負傷、炊事の女星、大原の両人、肩足を負傷、
小松先生は重体ときく
他に寄宿舎等にも銃撃ありたるも別の被害は無し
第二回午前十一時、数機 第三回計六機
午後一時空襲警報発令の時はすでに投弾せし後なり
予工場出身の途中なり 山口さんの前にて敵の動きをみる
。四機編隊で悠々原町上空を飛ぶ
鬼畜米グラマン機「畜生ッ」を連呼して見送る。
甚だ残念の至り、
小型爆弾は工場社宅の南朝鮮人畠の中央に六発不発弾二発
いたずらに穴を開けたのみ全然家屋等に被害なし
敵の技術低下の程がうかがはれ飛行場にも数発投弾せるも何等被害なし
今後も来襲のおそれありと工場於ては五時終業帰宅せり
艦載機の来襲を見ても敵機動部隊が近海出現しているものと思はれる
二月拾七日午前八時起床 雪片々と降る
すでに一寸位積りたり昨夜は敵襲なく、しかれど油断禁物
姉さん明日父の祝日の用意のため工場休む。
襲ふ敵間近に居れば一応は考へさせらるる事なきにしもあらず
本日の新聞記事一、 敵機動艦隊近海に出現関東地区静岡県へ艦載機波状来襲
来寇の敵はミッチャー機動部隊とスプルーアンスの第五艦隊相当有
一、 十五日来襲せし約六十機の邀撃戦果十七機に損害与ふ 我方一機
一、 特別斬込隊ナスブブに逆上陸、敵背に潜入重砲陣粉砕
一、 グロガワの赤軍撃退 独軍サカン北方に勇戦
一、 桑港会談期日に重大意義注目されるソ聯の態度
〇四月二十四日この日は日ソ中立条約破棄を通告し得る最後の日であるに重大性が有る。
午後四時三十分、敵弾に不幸死亡せし額と斎藤和夫君の霊柩見送り、
トラックに於て表門より一路我が家へ向ふ君の心境いかばかり。
仇は誓って我等が果さん。増産へ、増産へ。
暗きにも真紅と燃ゆ米英撃滅の敢闘、大戦果裡に十時半今週後敢闘を終了。
二月廿二日(木)曇後雪 午前四時起床。工場へは最近いつも早い。
大須賀氏より伝言。市事犯から八時半頃に敵襲あるかも知れずと。
果して十一時半警報発令さる。
二月廿五日(日)曇。寒さ殊の外なり。
午前二時廿分起床。自転車パンクせるも無理して乗って行く。
午前九時警戒警報発令いくばくもせずして空襲警報発令さる。
あはて過ぎ、反物を焼いてしまふ
〇情報に依れば尾奈浜に敵機来襲、若干の空母遊弋中との事
〇幸ひ、当町には一機の機影認めず。間もなく解除となる。
煙草配給。サガボ配給。
二月廿七日(火)曇後晴。
午前四時起床。歩いて行く。月煌々として明るし。
午前九時半頃か警戒警報発令。退避する。頭上に双発の友軍機飛び行く。
十時頃解除となる。
三月十日(土)第四十回陸軍記念日。
午前一時過、突如警戒警報発令、間もなく空襲警報発令さる。
直に防空服装に身を固め待機せしに、頭上に爆音あり。
味方か敵か不明なるも予、B29ならんと直感せり。
午前二時解除、工場に行きしに某人の言、本日の飛行機は敵機なりと。
南の空赤くなって見え、平方面火災起きしと当日ラジオに於いては東京某所火災発生未だ鎮火せずとこそ言ひたり。今後も頻なりと強調したるなり。

三月二十四日 B29が高高度で上空を飛行。たぶん偵察飛行ならん。
三月三十日(金)晴。
午前九時過警報発令になる。十時頃解除となる。
工場入社以来初めて直接上掛を学徒三人使いやらせる。経験淡き為、意の如くならず。
後番の田中君に頼み帰る。帰り途中、志賀床屋で散髪す。
四月拾弐日(木)晴。
午前九時頃警戒警報発令、午前九時半解除。
四月拾七日(火)晴。風あり。
正午、警戒警報発令。女工員諸君一目散に逃げたり。
予、学徒山本、西谷地両君と共に原食に行きたり。定食はなく三ツ豆あり。一ツ食ふ。美味なり。甘味豊富。近頃にはめづらしい。
四月二十二日(日)晴。
午前四時起床。少し遅いと思ひしも点呼に間に合ふ。
午前八時半警戒警報発令、最近に於ける東京郡山の軍需工場楽劇の一事に、工場の学徒工員防空頭巾を背に一目散に夜之森に逃げきたり。
社宅のオカミサン連中も我先と避難せり。果してこの一事が笑へるだらうか。予只々あきれざるを得ない。
此様に神経が落ち着かないと云ふ事は敵の術中に陥ったと云ふべきであらう。
三千年の歴史を有する我が帝国臣民としての大和心の持ち主としての襟度を持する事が出来るであらうか。九時解除となる。
四月参拾日(月)晴。普通番。
午前五時起床。本日は学徒も出勤。大多人数。或る者は防空壕、又荷物入れに、工作の手伝に、各々配置せり。 午後一時、儀仗兵の予習をする。
本日の新聞は所在不明。
五月一日(火)曇。隣組常会。普通番。
午前五時半起床。雨でも降りそうな天気。本日合同慰霊祭。
甲班は学校葬に参列する事に決定。乙班は作業。三時迄となる。午前十一時半終了。工員は花を持たされ、三時工場へ着く。すでに工場庭に祭壇があり、従業員一同集合し居たり。三時半近く開始。相馬女子挺身隊員二名の合同葬。予、儀仗兵となり、立つ。
午前五時終了。然れども祭壇の骨箱なかなか取りに来ず、その間我々武装して立つ。
五時半過ぎ来り、列をなし帰りたり。我々に対し御慰労のためブドー酒下さる。計八本。青年学校に於て沢庵。福神漬の肴で高城教官、酒井先生と共に飲む。腹すき居る事とて皆酔ふ。
予、座ってゐる中は何でもなかりしに、立って歩くに従ひだんだん酔ひが廻り、少しフラフラとなる。新妻と二人で帰り路につく。途中タニ叔母の家に廻り、話し、七時過家につく。夕飯食ひたくなし。そのまま炬燵に寝る。予、生まれて初めて酔ひたれば、頭痛く、胸の辺が変であった。口に残るはブドー酒のいやな味ばかり。もう吞むまい。 十一時頃一旦目をさまし床へ入って寝る。
五月十一日(金)曇小雨。
午前十時半起床。昨日特攻隊初日の敢斗に疲れし為か、気缶場の只野氏より馬鈴薯をやると云はれ十一時取りに行く。
九時半頃より警戒警報発令十時半頃解除。
五月十四日(月)晴。防火当番。
午前二時頃警戒警報発令。約一時間後解除。
五月十七日(木)曇後雨再曇。
本日の新聞記事
一、 原町旧無線電信等支柱の地価埋没鉄材搬出作業でこの程四千三百貫がまとまり、十三日県軍需課を通じ第一回献納式を挙げた。約二万貫ありと云ふ。
注。このあと伊賀慶一郎氏は、出征兵士として原町を去った。日記は、五月で中断された。伊賀慶一郎氏は当時、原町紡織工場勤務の社員。
昭和二十年二月十六日の原町空襲を被災した原町紡織工場で目撃。犠牲者の慰霊祭に儀仗兵としても立ち会っている。
当時の軍国教育を受けた青年らしい高揚感や責任感までが伝わってくる、第一級の日記である。 警戒警報、空襲警報の克明な記録を残しており、一次資料としても優れている。
のちに原町、高平、石神、太田、大甕の各地区に5~6人ずつの調査協力員を任命して、原町市は史編纂事業として、数億円の予算と膨大な時間を費やして、戦争体験、空襲体験を聞き取り調査し、また自らの体験を記述提出させている。会議費日当を支払っての座談会は何度となく繰り返されたが、実りあるものには思えない。この人たちの目的は、歴史編纂とは別なところにある。歴史観をもって正確な細部にわたる批判的な眼力がないと、話者の懐かしい回顧談、公民館での茶飲み話に終ってしまう。
しかし、生活圏内の近隣の伝聞が多く、なかには誤謬も含まれ60年もの過去の記憶に頼る回想のため、曖昧で不正確な内容が多かった。
「憲法9条を守ろう」との趣旨で活動を展開しているグループ「9条の会」が、広く市民に呼びかけて体験記を募集し、聞き取り聞き書きを会報に紹介しているものに、すぐれた内容が散見できる。しかし、その中でさえ、自己の記憶でない文献からの知識で自分の見聞のごとく援用しているものもあって、かえって信用性を欠損する例があったりする。
問題は、編集や編纂過程における資料への評価であろう。

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