原町無線塔、朝日座など福島県南相馬市原町区(旧原町市)の文献を公開

昭和史への旅 追々記

昭和史への旅 追々記

鹿又泰氏葬儀の日は、朝から雪霏々と降る空模様であった。
昨夕の通夜には、実に多くの人々が彼の家を埋めた。しかし、この時には彼の死を知らぬ人もまた多かった。
彼の死の直後、私は病院のすぐ近くのカツミヤ駅前店の企画室へ急いだ。店の入り口で、鹿又氏の部下の只野カメラマンに会った。涙をこらえながら彼にこのことを伝えると、彼は信じがたい顔で聞き返した。むりもなきと思った。今しがた対面してきた自分でさえ本当のところ信じられなかった。
松本修三店長に急報を伝えたあと、すぐに自宅へ帰りかけたものの、とてもこのままの状態では心を鎮めることが出来ないので、引き返してそのまましばらく車を走らせて町の中をあてもなくさまよった。独りきりでいたかった。そのじつ誰かに大声で訴えたかった。
兄貴分のような友人の目黒英一氏が最近始めた喫茶店に入って、そこでひとまず心を落ち着けようと思った。体中に悪寒がこみあがって腹がキリキリ痛んできた。死に対する不快感なのだろうか、こんなことは初めての感覚だ。
「どうした。真っ青な顔して」心配そうの声をかけてくれるマスター氏に事の次第を話し、アメリカン・コーヒーを注文する。
現金なもので、暑い飲み物は何とも言えずおいしくsて、腹痛はうそのように消えてしまった。
クラシック好きのマスターが気を利かして第九の四楽章を絞ってかけてくれていた。
曲もトーンも不思議なくらい今の心境を包み込んで魂に滲みた。いくらか心は鎮められ、平静になって帰れる気がした。
けれどもやはり独りになってハンドルを握ると、たっちまち涙がほとばしって信号の明かりをぼやけさす。ワイパーが欲しい程だ。玄関に立つと妻も子供たちもおそくまで起きて待っていた。夕方飛び出して行った私が赤い目をして帰って来たので、妻は万事を解したが、子供たちは朗らかな声をあげて足元にじゃれつきまといつく。
おお何と大人稼業というものはつらいものなのだろう。寄りかかって甘えられる場所はなく、立ったまま泣かなくてならない。
我が家にかかってくる電話の半分は鹿又氏からのものである。従ってかなりの回数を妻が受ける。
「カノマタデスガー、」という優しい声の電話が、もうかかってこないのねえ、と妻がポツリと言う。もうかかってこない、という表現が私の心の中で、崖の彼方に虚空を見せた。
先日(二月一日)も、KFBの「イブニング福島」で原町空襲の本の子とが放送された直後に電話を頂いた。
「今テレビを見てましたよー」無線塔の版g身の時も、時折のニュースに出た時なども、見ていた時は必ず電話が来た。
あのときの電話は、たぶん気を揉んで寄越した電話に違いなかった。私はインタビューの時「明日はガダルカナルの生き残りの人の所へ取材に行く」と言ったので、海軍のソロモン海戦をやりたい鹿又さんは気が気でなかった。
「ベララベラ島の津田さんの絵画展はぜひやって欲しいんです。ガダルカナルは別な機械にやれますから」
死の直前まで、そんなふうに気を揉ましてストレスを与えていた張本人は自分なのではないか、今までさんざん仕事を増やして激務の中へ追い込んだのは自分ではないあ、都市が明けてからさっぱり手伝わないでいたせいで早死にさせてしまったのではないか、などと色々考えてしまう。
眠れず、朝方まで友人い手紙を書いた。前夜、子供を寝かしつけてからかなり長い原稿を書いて、続けてだから眠かったが、眠れない。手紙を書きながら、再び泣いた。深夜おえつをこらえながら寂しさをかみしめた。
通夜には故人の会社の同僚が多数つめかけた。九時半頃、相馬市に住む只野カメラマンを駅まで送りがてら、前夜の茶房ウエリントンへ寄った。只野氏は、花見や社内運動会の時の鹿又氏のことを語った。会社内のことも家庭でのことも全く知らないままつきあっていた自分は、鹿又氏のどれだけの部分を見て居たのだろうか、などと思う。
駅に只野氏をおき、車中で毒りきりになると、また涙が湧いてくる。どれだけ知っているのだろう、本当に。他人の私がこんなに泣くのを知ったら、あの人は恐縮してしまうだろうに。
親兄弟のためにも、こんなに泣くだろうか私は。妻だったら、子供だったらどうだろう。
せめて半年でも、寝たきりでよいから生きていてくれたら、こんなうにうろたえたりはしなかった。
別れの挨拶もせず、突然黙って旅立たれてしまわれた。思いやりを頂くだけで何一つ返さなかった。そういう自分の非情が、呪わしく、情けなく、悔やまれた。私の涙は、これでも足りない位なのかも知れぬ。
聞いておくべき」ことがあまりに多すぎることを想って愕然とする。
その夜も眠れなかった。
葬儀の日は、雪だった。故人が最も気がかりだったのは次回の催事のことだろう。はしがきに掲げた連続企画の催事を一緒に実現してきたパートナーの心情は、たとえ今彼が不在であっても私にはよくわかる。
「津田さんの所へ、何度も足を運んで下さい。私は行けませんから、かわりに行って下さい。」
津田さんのお宅は、海辺にある。
田も土手も橋も空も、一面の白さの中にあった。太田川の河口が海にそそぐあたり、波が立ち浜に打ち寄せている。
雪の海。
ブラームスの一番を久しぶりにかけてみると、雄渾なテインパニーと悲痛な弦がはらわたに響き、魂をふるわした。
あのような禁欲的で緊張を持続し、しかも真にドラマチックなモチーフを、あの人は持っていた。
あのようにすばらしい凛質の人を、私は失ったのだ。
私は失ったものの大きさに思わず涙する。得難い人を、失って初めて意識しはじめたのだ。
もし私に野心があるとしたら、それは生涯にわたって誇れる友人を持つことだ。そして、すでに自分にはそれが満たされていたことを思い知る。私は自分が幸福な男だと思う。だからこそ、支払いきれない大きな負債との差額に泣くのだ。
今走っているこの道は、一週間前に鹿又氏を乗せて津田さん宅へ向かった同じ道である。
あれが、一緒に行動した最後の日だったとは。
出棺まぎわに、鹿又さんの頬に手で触れtみると、固く冷たくすでに彼は「物体」になっていた。こんなに近い場所にいながら、何という遠い距離。また涙だ。
火葬場で本当に最後の別れ。またまた涙。
もう出尽くしたと思ったその晩、寝床で位天井を見ながら、さまざまな想念を追っていて、眠れない。
「今日はカツミヤ休みだったんでしょう。みんなの都合ばかり考えて、最期まで鹿又さんらしいわね」
妻が闇の中からつぶやく。同じことを考えていた。
そんな人だった。虚空と私の間の涙の河。
夜具を濡らして滂沱と流れるものは止まらない。
土日の両日を久しぶりに福島で過ごした。原町へ戻ってきた晩、やはり眠れなくて、泣きながら朝までこれを書いている。私にとって、書くことは祈りである。
つまらぬ本を出すたびに喜んでくれた人に、結局はその人に読んで貰うために私は書いてきたのだ。
この本を、これから誰が読んでくれるのだろう。さようなら鹿又さん。
信仰を持たぬ私も、霊界を信じます。
ぼくは世界中で、あなたがいちばん好きだった。
昭和五十八年二月二十八日朝

はらのまち100年史

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