原町無線塔、朝日座など福島県南相馬市原町区(旧原町市)の文献を公開

昭和史への旅 あとがき

昭和史への旅昭和史への旅 あとがき

昭和五十七年三月三日。朝。
NHK福島放送局のスタッフと一緒に、原町市内の喜多屋旅館で朝食を摂りながらテレビを見て居た。
昨夕、朝日座で行なわれたレーザー・ショーを収録し、番組制作のヤマを越えた気分で、ほっと一安心というところであった。
放送日は十一日で、東北六県向けの番組を福島局から出すことが決まっていた。その日は富岡町までロケハンにゆき、「原町無線塔物語」のラストシーン近くに使用する原発遠景と旧磐城無線電信局富岡受信所跡地を撮影する手はずであった。
そこにいきなり電話が来た。
日本を訪れている中国残留日本人孤児のなかの、まだ両親の判っていなかったうちの一人の父親が浪江町津島にいることが判明した。
中継バスが今原町に来ているので、急遽津島の父親という人の家へ取材に行ってくれという報道部の要請であった。
番組制作の仕事で来てはいても、機材はすべてそろっているから、取材は起動てkぃにおこなわれる。
FTVではいち早く、リレーニュースでこのことを速報し、この日父親宅へ取材に急行してきていた。
たちまち、あわただしい一日が開始した。
もっとも今日的なジャーナリズムの渦中のテーマである中国残留孤児の日本訪問と両親さがしは、しかし戦争のかげをひきずる最もとりのこされていた部分なのである。
あれじゃらちょうど一年の月日がたち、この短い時間に様々な出来事があった。
一九八二(昭和五十七)年という年は、だから私にとって大変面白い年であった。私の生まれ育った原町市という町の、歴史や構造を書くように見せてくれた年でもあった。
例えば三月の原町無線塔解体や、四月の門馬直孝新思潮の就任、六月東北新幹線開通、七月ヨークベニマル店進出、九月保険金殺人事件、十一月中曽根政権発足と斎藤邦吉行管長官就任等々。
大きな声では言えないが、サラ金を舞台にした県青少年健全育成条例違反の少年逮捕と売春スレスレの不純異性交遊や恐喝のための少女たちの退学。(僕の勤めていた相馬農業高校と原町高校にまたがっていた事件)
火発の燃料変更問題。あげくのはては原発への転換まで取り沙汰されている始末だ。
東北の小さな田舎町に住んでいて、身の周りには「現代」を凝縮したような事件や状況がデパートのようにオンパレードだ。
私に出来たのは、無線塔の総決算的な著作と「空襲の記録」をまとめること。
昨秋いらい、どんなスタイルで描くか決めかねて、結局当初に棄てた編年体ふうにして昭和元年から二十年までということにした。そうでないと、その先の戦後編もSL編も、新聞各紙に予告したようには出せそうになもない。
三十歳の誕生日までに、「わが町」の全部を書き上げようと思って、かなりあせっていた。初めの方で、具体的と視覚的ということについて書いた。
視覚的な方が、より分かりやすいと考えて写真資料はかなり集めていた。写真さえあればその時代が再現できると思い込んでいた。
その誤りに最近気が付いた。それで急いでまた取材の方法を変えた。
写真はたしかに視覚的ではあっても、決定的な情報ではない。むしろ、言葉の力の方が情報としては基本的であり、イメージを喚起する。写真はあくまで説明的なだけなのである。
八月以来、写真展というスタイルで九回の「昭和史」シリーズをダイエーでやってみた。そのための取材が、そのまま本になると思ったのが甘かった。
写真を編集して「昭和史写真帳」という本にまとめようと思ったら、全然まとまらない。風景にはなっても、歴史は浮かんでこないのだ。
信念があけてから、再び「書く」ことに専念した。写真はシャッターを押すだけ。書くのは原稿用紙の一ます一ますを埋める作業である。その行為だけが、ものを考えるための自分のスタイルだとつくづく思った。
私史3として発行されるものの、「原町空襲の記録」の前篇として読んでいただくような位置にある本ですので、後日機会があったらこれをベースに書き直してみたい。
次回はいよいよ自分の時代(!)の到来です。

はらのまち100年史

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