原町無線塔、朝日座など福島県南相馬市原町区(旧原町市)の文献を公開

ニュージョージア・ルンガ沖海戦

ニュージョージア・ルンガ沖海戦
昭和十七年七月二十五日、叔父武藤喜吉は臨時招集を受けた。本召集でなかったので、返されるかな、とも思った。
入営先は、中部第四部隊であった。同部隊は岐阜を管轄する。福島県川俣町生まれであったが、勤め先の王子製紙の所在地樺太市、中津川市と転籍したので、岐阜の同部隊に編入された。
十一月十六日、陸亜密三十八師団歩兵二二九連隊に転属の命を受け、十二月十六日、宇品港より出港。
昭和十八年一月五日、南太平洋ニュージョージア島ラバウルに上陸。同日、沼八九二五部隊に転属。
一月二十日、ガバンガを出発。二十二日、ココボ出帆。二十五日、コロンバンガラ島に上陸した。
二月二十六日、コロンバンガラ出帆。同日隣のニュージョージア島ムンダに上陸。
敵襲をおそれ、すべて夜間の行動である。
ムンダで五か月過ごした。
七月十八日、ムンダにおいて米軍上陸。同日朝の戦闘で右大腿部、左胸部に砲弾破片創を受け、戦死。同日、上等兵同日兵長に昇進。
武藤喜吉の軍隊手帳の記録と、戦死公報をたどると、こうなる。
戦死とあるからには、誰かが確認したのだろう。戦傷の箇所もほぼ正確だから、と本人は言う。
中津川の妻のもとへ、広報が知らされ、毎日新聞にも「大東亜戦争の華」という記事になって写真入りであった。ムンダ玉砕のことは、「鬼神も哭くムンダの戦い」という記事にもなった。
当然ながら、葬式も出された。
本土では死人扱いであったが、どっこい、彼は生きていた。
昭和十八年二月二十六日から七月までの五か月間は、飢餓との闘いだった。
コロンバンガラ島上陸の時から、食糧がなかった。
ニュージョージア島の印象は良かった。
ヤシの木が美しく植林され、乳牛が飼育されている。ヨーロッパスタイルの島であった。
武藤の所属する小島部隊は、この牛で命をつないだ。最初は、牛のそばまで近づいて撃ち殺したが、そのうちに牛のほうが日本兵をおそれて、近寄ると逃げるようになった。
肩肉と腿肉だけを食べた。
バラシて南京袋に入れて運ぶが、途中で腐ってしまう。穴を掘って埋め、椰子の葉をかぶせると、たちまち銀蠅がたかる。
日数がたつと、島中が銀蠅で真っ黒になってしまった。
便所に行くまでに、椰子の葉がしおれるほどの銀蠅を見ざるを得ない。
下痢しない者がなかった。戦友がマラリアで続々と死んでいった。
発病して体が弱ってくると、隔離され、与えるのは椰子の汁ぐらいであった。
上陸用大発(発動機付大型舟艇)を隠してあるウエブスター入江には、海軍の部隊がいた。陸軍部隊は、密林の中にいた。
海軍の兵隊は、ハデにダイナマイトで魚を獲っていた。
ある時、大木につかまって防空監視している者が、弱った体からかぼそい声で、
「何時の方角に爆音!」
と叫んだ。
敵軍の部隊が、その場所をひきあげたあと海辺の海軍部隊は全滅していた。
米軍の制空権下では、毎日が空襲の危険に満ちていたのだ。
五分間位の射撃であったが、ジャングルの奥の壕の中に入って避難していても、曳光弾で照らして出されると、日本軍の状況はみなわかってしまう。
森林が全部砲弾でなぎ倒されて、その破片が飛び込んできた。
艦砲射撃の凄まじさを思い知った。
「一里二里はなれてみる艦砲射撃ほど壮観なものはない。」
ムンダに上陸した夜は、南十字星をながめながら、これが自分の最期かな、と思った。波打ち際で、腰まで水につかって弾薬を運んだ。
地面が光っていた。
「月の光だろうか、と思ったけれども、樹が腐食しているのが光っていんですよ。」
喜吉伯父の体験談は、その断片を聞いたことがあったが、三月二十七日の日曜日、川俣町小神の自宅へたずねて、最初からとおして聞いた。
平和な農村風景を見下ろす丘の上の家の、南側の軒先に椅子を並べて、昭子伯母さんや、飼い猫や我が家の妻や二児のたわむれる午後、私は伯父の話に聞き入っていた。
ニュージョージア島ムンダの戦いは、ガダルカナル島の激戦に続くソロモン諸島における島嶼戦で、ベラ湾夜戦に続く位置にある。ムンダ玉砕の直後、おそまきながらラバウルからコロンバンガラ島に陸海兵を運ぶために急行した駆逐艦「萩風」旗下の四艦であった。この時の夜戦で漂流した津田貞義さんの戦争体験絵画展を開催し終わった時点で聞く伯父の体験談は、生々しかった。
昭和十八年八月十七日、夜。突撃の命令が下った。
「米軍は、道路を作ってやって来たんだね。
爆弾だけ持ってゆけ、と言われたので、携帯地雷をおいたら、ひどく怒られましてね。それで夜襲に行った。
左胸部というのは間違い。左腕と、腰にも小さな傷を受けた。大腿部には、手が入るほどの穴が開いた。
砲弾の破片で、伯父は負傷し、意識を失った。
「気が付いたときは昼だった。
殺してくれえ、殺してくれえ、という声ばかりでねえ。まさに阿鼻叫喚だった。臓物の出た者、手足のない者。
米兵が囲んでいた。
ガダルカナルでは、日本兵はローラーで轢かれたそうだ、という宣伝を聞かされていましたからね、不思議なもので、ああいう状況では、早く殺して欲しいという気持ちになるんだね。
手招きして、殺してくれ、早く殺してくれ、と言うんだが、通じない。
米兵が、みんなで何か喋っている。意味はわからない。
ライス、とか言う言葉が聞こえたので、こりゃカレーライスにして食われるのかなと思った。アハハ。
赤十字の兵が来て、手当され、黒人兵が担架にのせて運んだ。MPがずっとついてきた。
米軍の後方に、立派な道が出来ていたのをその時見た。
舟で別な島へ移された。リンドバかもしれない。そこに、二世の通訳がいたんです。
「何か食べたいですか」というので。
「酸っぱいものが食べたい」と答えた。
きゅうりを漬けた、キューカンバが出た。そこで治療を受けたんですが、一人二人、日本兵の捕虜でうるさく騒ぐ者がいた。何か飲まされて、それっきり死んだのを見て、不気味になった。
そして、そこを脱出したんです。
すに捕えられましたがね。
そこは、蠅や蚊を入れないように網があったし、オルガンがあった。娯楽室のようなホールがあって、バラックだが大きくて、毎日映画をしてました。
たまに日本軍の爆撃があると、それが中断される。すると、米兵がね、「ジャパニーズ・ソルジャー・イズ・ノーグッド」って言うんですよ。
約一年もそこにいたかなあ。
ニュージョージアへ、今度は軍艦で運ばれました。
日本兵が百人くらい暴動した直後でね、カリフォルニアで、その話を聞かされた。

はらのまち100年史

お気軽にお問い合わせください。 TEL 024-546-9261 受付時間 9:00 - 18:00 (月・水・金曜日除く)

PAGETOP
Copyright © おはようドミンゴ・二上英朗 All Rights Reserved.