原町無線塔、朝日座など福島県南相馬市原町区(旧原町市)の文献を公開

小作争議団、峠を越える 井田川干拓争議 小高区

小作争議団、峠を越える   昭和7年

 昭和7年2月、むしろ旗を掲げた小作争議団が、津島山木屋を越えて福島へ向かった。小高町の井田川干拓地入植者が、地主の太田秋之助と闘った争議である。
 県道原町川俣線の原町側の最大の難所、八木沢峠は昭和52年12月に改修完成して開通し、以来快適なドライブコースとなった。
 川俣の我が家から原町まで約42キロ。約一時間の行程である。この距離を三年間往復して走行メーターが9万キロ位になる。たまに山木屋津島を通る。
 川俣町は機織りの町として、小高町とは緊密な関係にある。が、ここでは小作争議のことである。
 昭和6年に、川俣町では西福沢の小作人組合の菅野鉄之助と飯野町で政治研究会を主宰していた八百板正らによって大地主高橋源七を相手に集団交渉が行われ、小作料減額を勝ち取ったものの、地主側の反撃で不利な裁判を闘った。
 小高町の井田川干拓争議は、全農全国会議が始動した県内の代表的な争議で、昭和4年に結成された川房消費組合のメンバーが強力な後ろ盾となった。
 昭和7年2がつ5日の朝3時、彼らは用意したおにぎりを腰にぶらさげ井田川を出発した。
 福島まで約80キロ。星野二郎と花房貞義を先頭に争議団員17名、浪江を通り、浪江から津島に着いたのが正午。全くの強行軍であった。津島には浪江―川俣―福島に至る途中の休み場で、いわゆる昔の宿場。そこから坂道を上ると頂上が郡境、阿武隈高地を越えて福島に至る頂上の超気である。寒い二月の津島、阿武隈の山々は雪で真っ白であった。道は雪一尺はあったであろう。
 彼らは頂上の峠に赤旗を建てて休んだ。しばらくみんなでメーデー歌をうたい、そして最後に「万歳! 万歳!」を叫んだ。
 阿武隈高地の頂きに初めて赤旗をたてたよろこび、感激の万歳であった。
 彼らは雪道を降り、川俣へ向かった。川俣に着いたのは夕方であった。
 川俣はそのころは八百板正、高木松太郎、小山松寿等を中心とする、いわゆる全農右派の婚距離であった。全農牛連からの連絡で、八百板、高木、小山等の出迎えをうけ激励をうけた。そしてその夜は、川俣の木賃宿に泊まることができた。」(「小高町史」より)
 
 この闘いは、全面的に小作側の勝訴となった。小高町史は最後に「太田も非常に苦労した。太田がいなかったら、あるいは井田川干拓は今日の立派な井田川をつくりあげるための生みの悩みであったということができる。」とまとめている。
 昭和56年12月、地元の若者の案内で、井田川干拓地を見学した。井田川というのは、よく整備されてはいるが、それほど大きな川ではない。宮田川の北側の干拓地を見渡せる丘の上には有志の手で建立された太田秋之助の銅像が立っている。
 ため池や、灌漑用の用水路や、その他の諸設備が、あれも太田、これも太田秋之助の偉業の一つ、と説明してくれる。
 おいおい、地元の無名の農民の辛苦のことはどうしたのだ。叱られるぞ、などと思いながら、若者の言葉を聞いていた。
 昭和57年3月、川俣から浪江町まで降りて来て、原発問題を扱った「臨界幻想」という芝居を見に来た。
 川俣町に住んだおかげで、この争議前後の歴史についても地理についてもかなり親しみをおぼえた。
 さあ、、われらの時代を闘うぞ、と思う時に、先人たちの闘いとその記録は、他の名に寄りにもましてわれらを鼓舞する。
「昭和史への旅 戦無派のタイムトラベル」p39より

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