原町無線塔、朝日座など福島県南相馬市原町区(旧原町市)の文献を公開

新地駅の津波 311常磐線 普通電車244Mの乗務員

新地駅の津波 311常磐線 普通電車244Mの乗務員
 原田晋明(はらだくにあき)は、JR東日本の電車の機関士である。
 生まれは南相馬市原町区の雫(しどけ)。大甕小学校から原町第三中学校という学区の海辺に近い地域の生まれで、田園のなかの集落が点在する牧歌的な風景の中にある。地元の小高工業高校の電気科を卒業していったんは自動車部本を製造するライン工場の日本オートマチック・マシン(通称JAM)に就職したあと、父親の職業であった鉄道マンへのあこがれを諦めきれずに19歳でJR東日本を二度目に再び受験して合格・仮採用された。翌年二十歳で本採用されて電車の機関士になった。所属は原ノ町運輸区に籍を置いている。
 2011年3月11日の朝にはいわき駅の現場に出勤。そこから仙台へ移動。原ノ町駅までの旅客乗務の始業となった。仙台と平の等距離・中間地点の原ノ町駅が運輸区の所在地であり、乗り換えとなる。歴史的な鉄道拠点であり、明治31年の駅開業によって町自体が鉄道員の家族を中心に人口が増大したことによって町が発展したという背景がある。もともとが鉄道でうまれて鉄道で育った町だった。
 快適に運行しているところへ突然の連絡。「名取駅で抑止せよ」との指令が出たので、そこで電車を止めた。「なんだろうと思ったとたんに揺れが来た」
 これが解除されたのは11分後で、岩沼駅に移動させて普段は使わない上り本線に電車を入れて待機した。旅客優先、下り一番である。
 大津波警報が出ていたが、相馬地方での津波はいつも数十センチで終わる。(たぶんいつもの通りに空振りに終わるだろうな)と原田機関士は思っていた。これも解除されて岩沼駅から10分遅れて出発した。浜吉田、坂本、山下と硯のようなと形容される、まことになめらかな平面のすべすべした見事な平地を、滑るがごとく列車は走った。
 新地駅はわずか30秒の停車の予定だったが、停止するとすぐに地震が来た。
 いきなり横揺れ。「無線で緊急停止の指令が来た。倒れるんじゃないかとさえ思ったほどの横揺れに揺れた。列車は、けっきょく倒れずにおさまったものの、この揺れはなんだろうという驚きのほうが強かった」と原田さん。今までの人生のうちで、最大の経験だ。
 たまたま乗り合わせていた乗客の中に、新任の警察官が二人、これから研修で福島市蓬莱の警察学校に通うという青年がいた。車掌が男女二人乗っていた。地元の一般利用客が4両に40名乗っていた。
 ひどい地震なので、この先の線路が安全かどうか、3人の乗務員には点検の義務がある。自分たちは車両の安全を確保すべき職務規定で電車を離れるわけにはいかない。
 「自分たちが引率して乗客すべてを避難させましょうか」と警察官が申し出てくれたので、渡りに舟と思い、「お願いします」と乗客の誘導を二人の青年警察官に委ねた。
 乗務員には、無線で指令が届く。車掌が逐一命令に耳を傾けていた。原田は駅舎にいて、最初は遠くに何かある、と思っただけだった。

 新地駅舎は海から500メートルしか離れていない。しかし民家などで海が直接見通せるわけではない。
 たまたま、新地駅の駅舎に状況を確認しに行った女性車掌が跨線橋を上がって車両に戻るとき遠くに「波」を見た。しかしまだこれが津波だと気づかない。車内に戻って他の乗務員に状況を説明し、「遠くに何か見えます」といったのが最初だった。
 男性車掌が言った。「津波だ」原田機関士は、それで初めて海のほうを見やった。遠くの田んぼに水が入ってきたのが見えた。
 もう一度状況確認に向かおうとしたとき、海側の近くの建物の屋根の上を水しぶきが乗り越えてきた。急いで車内に残っている乗務員を呼んだ。
 津波はあっという間にホームを乗り越え、乗務していた4両編成の列車は後2両が浮き上がり、横倒しになって駅舎と一緒に流されていった。残った前2両も浮き上がり、跨線橋にぶつかりながら流されていった。このとき跨線橋が軋んで壊されそうになり、もうダメだなと思ったという。
 第1波に跨線橋は耐えたが続く第2波は跨線橋の上まで水がきた、さらに第3波が見え、乗務員はみな再度「もう終わったな」と思った。しかし何とか跨線橋は津波に持ちこたえたのだった。
 「しぶきはみませんでした」と原田は回想する。いわゆる津波のイメージではなく、水面が持ち上がってくる印象だ。
 「どうしようか」という言葉と同時に三人同時に残っていた跨線橋の階段をとにかく登った。みるみるうちに水かさはレールを浸し、ホームを満たし、それを超えて水かさが階段を上がってきた。「乗って来た電車の先導車が浮いて、流されて、跨線橋の階段を流していった」
 駅舎と車両とが一緒に流されていった。
 四両つなぎの電車が没してゆき、仙台方面から向かって前二両と後ろ二両の後方車両が「くの字」に折れ曲がってぷかりぷかりと浮き上がって、横倒しになりながら、そして次には、眼の前の先頭車両二両の電車が水に浮かびだした。
 三人が跨線橋を駆け上がって行ったあとで、別の片方の階段を波が流していった。波の圧力が階段に加えられた威力は、想像力を超えていた。
 津波は夜になっても何度も繰り返していた。急に冷えてきた。朝から日中にかけて汗ばむほどの暖かさだったため、原田に支給された機関士用ジャンパーを家に置いてきていた。車掌も支給されている車掌用のコートをもっていなかった。こちらも外套を脱いだ軽装だった。
 「あの日は日中は温かかったんですよ。しかし夜になって、ひどく冷えてきました」
 その日のうちに、ヘリコプターは飛来してきた。原田らは大声で、空に向かって手を振って、孤立している自分たちの状況を知らせたかったが、サインは届かなかった。
 夜になってもヘリコプターは飛んでいた。私用の携帯電話の液晶画面の明かりが、気が付くのではないかと思って、空に向けて指し示してはみたものの、いかんせんちっぽけな携帯の明かりぐらいでは、高空まで届くものでもなかった。
 原田さんの努力も虚しく、宵闇の中ヘリコプターの音は「もしや」というふくらみかけた期待の思いを引きずったまま、だんだんと遠のいて消えて行ってしまった。
 津波の来るたびに、水が引けたかどうかを確かめに跨線橋を降りてゆくが、完全に引いて次の津波が来ない保証はない。ふたたび階段を登って橋の上で連絡を試み、情報の探索に熱中した。
 車掌が持っていた業務用の無線通信キットには携帯ラジオが付いていたので、ラジオの災害ニュースは常時聞くことができたから、三陸の津波情報は繰り返し聞くことができたが、わずかに北の岩沼駅に近い仙台空港が津波に呑みこまれてゆく有様について、三陸の海岸地方で、陸の連絡路が絶たれて必死の救援が待たれる状況などについては理解できた。しかし自分たちが置かれているこの状況もまったく同じ孤立状態であることを、どうにかして本部へ連絡せねばならないと思った。
 「救助の要請はしたんです。時々無線がつながる時もあったもんですから」
 夜間になって空中の電離層の状態が安定してきたのか、ときどき、通信機がつながることがあった。
 夕刻6時頃に、第一報を通知した。対手は本部。すなわち原ノ町運輸区の区長であった。
 現在の状況すなわち運転士と二人の車掌が新地駅の駅舎と電車が数次にわたる大津波によって徹底的に破壊され尽くされ、跨線橋の上に取り残されていること。救援要請を上申し、ヘリコプター以外には脱出が不可能である状況などについて報告した。
 そしてまた通信状態が微弱になり、途切れる。またつながるという状態で、夜は延々と続く。
―――本部の反応はどうでしたか?
 「こちらもパニック状態なので、とてもそちらへ救援部隊を向けられない状態だから、何とかそちらはそちらでがんばってくれ、というような返答だったですね。とにかく明日の朝まで何とか持ちこたえるしかない、と(思いました)」
 朝方の5時半ごろ、水は引いていた。形あるものは流されて瓦礫が残っていたが歩けそうな道が見えていた。三人は、歩いて役場まで行った。空気は澄んでいて、静かだった。
 あの夢のような災害の一日と一夜が明けて、三人の生還は新地町役場で迎えられた。
 すべてが飲みこまれながら跨線橋だけが倒れずに残ったこと。警察官が二人電車に乗り込んでいて乗客全員を引率避難したこと。あれだけの巨大な津波に襲われながら、一人も命を落とさなかったことは、すべてが神の配材に因る幸運と言ってよかった。
 原ノ町運輸区の関係者は、相馬駅までバックアップ体制を敷き、新地町役場で原だ機関士を迎えに来ていた。二人の車掌については仙台の車掌区から新地町役場まで迎えに来ていた。三人は新地役場で別れた。
 「一番気がかりだったのは、駅で降りて避難していった乗客たちのその後の生死のことだったんですが、じつは答えを聞くのが怖くて聞き出せませんでした」
 役場庁舎は国道六号線に近くですが、低地にあるので、乗客は二手に分かれて、ここから山手の西の岡の上の小学校や中学校まで再避難した、とあとで聞いた。
――――いままで原田さんの一晩中孤立していた体験談は、新聞記者もテレビカメラも取材しなかったのですか?
 「新地町役場にたどり着いた時に、取材のテレビカメラはいたようでしたが、われわれがようやく跨線橋から帰ってきたことには気が付かないようでした」
 たしかに、地震と津波そのものの巨大さは、消失した新地駅やつぶれた電車の撮影だけでも大きな仕事だったろう。次から次へと大きな記事になる事件が各所で展開していた。
 新地駅の災害はいったん新聞記事になってしまえばもう忘れ去られて、翌日には別な大きな記事が控えていた。東日本大震災がいかに巨大な災害であったかの証明である。

 2017年4月11日、原ノ町駅前の南相馬市図書館の入口にある「ビーンズ」という福祉施設が経営するカフェで午後二時に待ち合わせて原田晋明氏と面会し、三時間余りインタビューした。
 あれから6年1か月たっていた時点について、、克明に記憶を聞き、記録した。
 原田さんの趣味はバドミントンと山歩きだったが、「最近は体力がなくなって縁遠くなったな」と。奥さんとは共働き。男児が三人。
 3月11日には長男が大学受験のため東京に出ていた。妻は自分の仕事で研修のため茨城県に出張中だった。次男が家にいた。メールで安否をあの夜交換し合った。
 「だいじょうぶか?」「とりあえず大丈夫」と。
 原町区高平の家では電気もガスも止まることはなかった。三男は妻の実家の祖母を気遣って合流していた。後顧の憂いは、三人の息子たちがおさえていてくれた。それだけでも、彼の家庭は神の守護に満ちているなと思った。

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