かたりべ45号 豊島区立郷土資料館だより
 集団学童疎開の調査のなかでの最近の話題二つをお伝えします。
 ひそかに泣いていた軍神(特攻隊員)の母
 長崎第四国民学校の疎開していた福島県原町(現・原町市、相馬野馬追いで有名)には陸軍の飛行場・飛行学校がありました。そこの兵隊たちは、疎開した子供たちをなぐさめ励ますために学寮に遊びに来たり、逆に飛行場の宿舎に読んだりしました。遊びに行って飛行兵用の機内食を食べさせてもらうのが楽しみだったという、元疎開学童の方もいます。
 敗色の濃い日本軍は、米軍の艦船に体当たり突入する、特攻兵器(神風特別攻撃隊)を採用します。原町にいた飛行兵たちも特攻隊として出発してゆきました。
 特攻隊の第一陣は一九四四(昭和十九年)一〇月二五日のフィリピン沖の攻撃です。この時、零戦戦闘機に乗って突入・戦死した中野磐雄(当時一九歳)は原町の出身で、両親は長崎第四校の学寮の一つでした。
 軍国精神真っ盛りの当時のことですから、中野磐雄は一躍、町の英雄・軍神・神鷲として讃えられ、遺族も国に尽くした名誉なこととされました。中野屋にいた一人の子供の父親が旅館あてに出した賛嘆の手紙が当時の地元の新聞に載っています。
 以上は、主に原町の郷土史研究家の二上英朗氏のご教示によるものですが、その手紙を出した方が、豊島区発行の絵はがき「物語のある風景」を描かれた金沢佑光さんのお父さんであることがわかりました。
 現在、長野県にお住いの金沢さんから、「軍神にされたお母さんがだれもいない仏壇の前で声をころして泣いていた後姿が胸にしみついています」と、お便りを寄せていただきました。(青木)