大島さんの最晩年に、ふっこうステーションのイベント講師として、原町のトロッコの横川鉱山の小学校の代用教員をしていた時代の思い出を語っていただくことを幾度か説得して、ついに実現できたと思ったら、水泳で足を怪我して寝込み、参加できない旨のハガキが届いて、断念。
それが一月のことで、四月に亡くなられた。
家には五六回通って、大島家が益山肉屋の近所にやってきて住むようになったことから、古山陶器店の姉妹の愛子さんと結婚したいきさつ。
すなわち相馬中学時代に、下宿屋の息子の中野磐雄君と陶器店の長男古山君との同級生だったことから、それで親しくなったこと。
代用教員から東北電力の職員へ。
昭和30年代のテレビ初期時代に、大島家に20人もの子どもたちが毎晩のように集まって見せてもらったのは、僕自身が覚えている。
雄島家の長男とは同級生だったし、母親の愛子さんとぼくの母親が同じ華道教授についていた戦争中に、ら待ち最大の高級料亭の経営者山本寛太郎さんのことも同じ生徒として親しかったことなどなど。