原町無線塔、朝日座など福島県南相馬市原町区(旧原町市)の文献を公開

慰霊祭趣意書

神風特別攻撃隊 敷島隊・中野磐雄海軍少尉
慰霊碑建立について御協力お願い
 太平洋戦争末期、昭和十九年秋から終戦にかけて、比島、沖縄などの決戦場に祖国愛に燃えた若人達が、世界戦史にも稀な肉弾攻撃、いわゆる特別攻撃隊として、夢と未来多き青春の生命を国に捧げ、数多く散っていったことは皆様ご承知と存じます。この一員として私達の同級生である中野磐雄君がおります。
 旧相馬中学校卒業、海軍甲種飛行予科練練習生に合格、昭和十七年四月一日、土浦海軍航空隊に入りました。昭和十九年十月二十五日未明、レイテ島沖に於いて最初に最初の神風特別攻撃隊の一人として零戦に二百五十キロ爆弾をつけ必死必中の体当たり攻撃を敢行して、壮烈な戦死を遂げられました。ただ純粋に祖国日本の安泰を願いながら・・・・・・大正十四年一月一日生まれ、十九歳でした。
 いま、昭和元禄とさえいわれている平和は、これらの人達の尊い生命を礎としてその上に築かれたと申しても過言ではありません。このようなとき、しばしば中野磐雄君が話題にのぼりました。若くして散った中野磐雄君に続けと誓い合ったことを思い出すとき、この心情を理解し彼が捧げてくれたものを追憶すると共にこの忠誠を弔い、後世に名を留めることは、今後このような犠牲を無くし平和を願うものとしてまこととして格別のご支援ご尽力を賜りますようお願い申し上げます。
一、建立目標 昭和五十五年十月二十五日
一、建立場所 原町市 夜の森公園
一、建設予算額 一金五百万円
  昭和五十五年七月  日
  中野磐雄慰霊顕彰会
  会長 渡辺裕一

御挨拶 渡辺裕一
 本日ここに第一神風特別攻撃隊敷島隊・中野磐雄少尉の慰霊祭が、s
方中学校の同級生甲飛十期会を初め、関係各方面の熱誠溢れるご協力により完成し、当時の飛行服姿そのものの英姿として序幕するにいたりましたことは、感激に絶えない(堪えない)次第でありまして、発起人一同に代り深く御礼申し上げます。
 顧みまするに、我が国の存亡をかけたあの太平洋戦争において、一億火の玉となり、私達は祖国日本を守るために戦いました。この間中野磐雄君は、昭和十七年四月、相馬中学校より「七つボタンは桜に錨・・・」の歌で知られる海軍予科練習生として、土浦海軍航空隊に入隊しました。予科練は当時のすぐれた若者が集ったと言われますが、卒業時には戦勢日に日に我に利あらず、圧倒的物量を誇る敵軍は南方諸島を占領し、為に、同期生の過半数を失い、遂にレイテ決戦を迎えるに至ったのであります。そしてこの作戦中、少兵力で空母を征圧するには零戦に二百五十キロ爆弾を抱かせ体当りを敢行するほかはないとの結末に達し、特攻隊の編成をみるに至りました。当時、第二〇一航空隊では度重なる敵の空襲によって被害をうけ零戦わづか二十六機という惨状であった。そして甲飛十期生二十四名が体当り機に指名されたと聞いております。
 中野君も敷島隊員に選ばれましたが、この時若干十九才、「お父さんお母さん、私は天皇陛下の子として、お父さんお母さんの子として、立派に死んでいきます。喜んでいってまいります。では、お身体を大切にお暮らし下さい。さようなら」出撃直前ノートの切れはしに、こう書き残しております。
 今から三十六年前の今月今日、神風特別攻撃隊敷島隊が碑文にもありますように、正に自分の身体を弾丸として、航空母艦の体当り攻撃を加え、我が連合艦隊が総力をあげた海戦以上の戦果を、僅か数機の決死隊により敢行されたことは、当時の全日本国民の心に深い感銘を与えたのであります。私共はその敷島隊の中に同級生中野磐雄君の名を見たときの筆舌にあらわせない万感の思いは今でも鮮やかであり、終生忘れることができません。その時、我が国の軍民をあげて中野軍神は賛美され、その生家、原町を訪れてご霊前に弔問する人は跡をたたなかったのであります。
 しかるに一度敗戦を迎えるや人心一変し、かつての特攻忠烈の勇士は恰かも、犬死の如くあつかわれ、三十数年の太平になれた国民は、こよなく祖国を愛した御霊やその精神を守ることは、ただちに軍国主義の復活につながると解するような世相となり、我が身を挺して愛する祖国を守った軍神中野少尉を知る人も、今や原町においてすら数少なく、まして彼のこの壮烈な戦死も、人の記憶から忘れ去られようろしていることは残念でなりません。国敗れて山河あり、と申します。
 この「夜の森公園」も、小学校時代運動会を行った場所で、中野君とよく走りまわった懐かしい思いでがあり、マラソンが速く頑張り屋で不言実行の君の姿が、今、彷彿と浮んできますが、君なきあと、、昔ながらの面影をとどめ、春には桜花爛漫と咲きみだれています。
 今や、この緑豊かな日本よりこういう大和民族であるから必ずや復興して成和に伍してゆくことができると、それを生み出した民族の伝統を誇りとし、将来9を托している学者もおりますが、私たちは彼がひたすら純粋に祖国日本の安泰をこいねがい、崇高な自己犠牲のもとに国難打開を求めた姿は限りなく痛ましいものとして受けとめ、殉国の精神、郷土愛、祖国愛をこの機会に子孫に伝えてゆくことが使命ではなかろうかと思います。
 又、何も特攻隊員ばかりが英雄ではないという説を唱える人もあります。勿論、国のため尊い一命を捧げた方々は多数あり、特攻隊員に劣らぬ壮烈な最期をとげた方もあります。
 しかし、万が一にも生還できるということと、往けばカなら座右確実に敵艦と刺し違う尊い命を捨てるということは、全く意味が違い、しかも最初にやってのけたところに、私共は、軍神中野磐雄少尉の壮挙に敬仰の念を愈々深くするものであります。
 ここに、趣旨にご賛同の数多くの方々に、お忙しいところご臨席いただき、又、遠方ご参列賜りましたご好意に深謝すると共に、胸像の製作にあたった地元の彫刻家佐々木光雄男氏と斎藤清石材店社長、それに建立敷地を心よく提供いただきました林テイさん御一家、遠く碑文をお寄せくださいました平泉先生、原町市当局など関係各位に対し心から感謝申し上げます。
 軍神中野少尉の忠烈を讃え、謹んで御霊の安からんことと、祖国日本の永遠の平和と栄光を祈り、私のあいさつと致します。

追悼のことば 桜井弘祐 相馬中学40回卒業生代表
海軍少尉 中野磐雄 同期生追悼のことば 甲飛十期会東北支部長
本多四郎
 秋気爽やかにして、菊の香いよいよ香るとき、貴兄の生誕の地原町市において、しかも片時も忘れ得ぬ貴兄の壮挙の日時にまで心を配った慰霊碑除幕式に参加できたことをわれわれはまことに嬉しく思います。
 われわれ甲飛十期生は、大東亜戦争勃発後まもなく土浦海軍航空隊に入隊。昭和十九年初頭練習教程をおえて、敗色濃厚となった第一線に配備されました。
 トラック、サイパン、ヤップ、台湾沖と日を追う毎に激烈を極める戦闘に参加し、多数の同期生が散華してゆきました。
 特に十九年十月、米軍の比島反攻は熾烈を極め、遂に日本海軍は、悲惨としか形容しがたい特攻作戦を決断し、神風特別攻撃隊を編成。比島沖の敵機動部隊に肉弾攻撃を実施したのであります。
 その攻撃隊の中隊となって夢多き青春を南冥の海に散らしたのも甲飛十期の同期生であります。その中にあって、敷島隊として攻撃に散華した貴兄の戦功に、同期生の生存者として、われわれは万感こもり、讃えるに言葉がないのであります。
 そこで機密連合艦隊告示(布)第59号をもってこれにかえさせていただきたいのであります。
 戦闘三〇一飛行隊附 中野磐雄
 神風特別攻撃隊敷島隊員トシテ昭和十九年十月二十五日一〇四五スルアン島の三〇度三〇浬ニ於イテ中型航空母艦四隻ヲ基幹トスル敵艦隊ノ一群ヲ補足スルヤ必死必中ノ体当リ攻撃ヲ以テ航空母艦一隻ヲ撃沈同一隻炎上撃破巡洋艦一隻撃沈ノ戦果ヲ収メ悠久ノ大義ニ殉ズ忠烈万世ニ燦タリ乃テ其ノ殊勲ヲ認メ全軍ニ布告ス
 昭和十九年十月二十八日
   連合艦隊司令長官 豊田副武
 あれから三十六年、生存同期生は我武者羅に働き生きてきました。それは生き残った桜の、散り去った桜への贖罪の念と言いようのない悲しみが交錯していたからだろうと思います。そしてふと自分自身に気がついて見ると五十歳の坂をはるかに越えていたというのが実感であります。
 これまでも年毎に亡き同期生の慰霊祭や甲飛十期生の記録「散る桜残る桜」の出版など、種々の行事を考えると疑問につき当ってきました。
 折も折り、貴兄の慰霊顕彰に小学校、中学校の同級生の方々が活躍されているのを知り、われわれは諸手を挙げて賛同したのであります。
 そして、今日、各地より残る桜たちが、参列してくれたのであります。かつては、貴兄とともに若い血潮に燃え、鉄火の訓練に耐え愛国不屈の海軍航空精神を鍛えあげ、大空に海原に戦いあったものたちです。在天の霊よよく見て、よく会って、よく語って、
安らかになっていただきたいのであります。

追悼の辞 原町市長 渡辺敏
追悼の辞 原町市議会副議長 神谷かね二

追悼の辞 一般市民代表 伊賀敏

軍神 海軍少尉 中野磐雄君
 海空会代表 幹事 壱岐春記
 先刻、私は君の故郷、原町市夜の森公園内の君の素晴らしい胸像の前で、除幕式に参列しました。雨のため会場を移され、今君の飛行服の写真の前に立ち、三十六年前をしのび心から御霊をお慰めするとともにお祝い申し上げます。
 昭和十九年十月二十五日フィリッピン、マバラカット基地二〇一空本部、民家で神風特別攻撃隊の命名式が行われました。
 この時、その特別攻撃隊、敷島隊、朝日隊等の起案者である第一航空艦隊先任参謀猪口(現・詫間)力平大佐に、本日この除幕式に同列参加を相談しましたが、実は昭和二十年終戦の年以降毎年十月二十五日に東京芝の安蓮社で神風忌と云って、君達特攻戦没者の供養法要が行われていまして、そのため同行できないので、中野君始め参列の皆様によろしくとのことでした。
 さて、特攻隊命名式のとき、大西滝治郎第一航空艦隊司令官は、日本は、正に危機である、しかも、この危機を救い得る者は、大臣でも、軍令部総長でもない。勿論、自分のような長官でもない。それは、諸子の如く、純真にして気力にみちた若い人々である。従って、自分は一億国民に代って皆にお願いする。どうか成功を祈る。皆は、既に神であるから欲望はないであろうが、若しありちすれば、それは自分の体当りが無駄ではなかったかどうか、それを知りたいことであろう。しかし、皆は永い眠りにつくのであるから残念ながら知ることも出来ない。だが、自分は、これを見届けて必ず、上聞に達するようにするから、そこは、安心して行ってくれ、しっかり頼む。と云って涙ぐんでおられた。十月二十五日午前出撃を命ぜられました関大尉の指揮する敷島隊の二番機として君は出撃し、レイテ湾沖で体当りを敢行しました。数機よく敵空母セントローを始め大巡等を撃沈或いは大破する大戦果を挙げ、そしてこれは、「何機命中」と全軍に電報されました。
 この前日二十四日午後、私も攻撃第四〇六飛行隊長として残存全兵力銀河八機を率い、魚雷を抱いて敵空母に対し片道攻撃を命ぜられクラーク基地を出発しました。進撃途中、戦艦武蔵を命ぜられグラマン、ヘルキャット二十機余りの戦闘機に包囲攻撃され、激しい空中戦を続けながら進みましたが、一機また一機と撃墜され、私は燃料つきて、夜の海に着水し、結局今日まで、生き永らえて来ました。
 思えば、君が攻撃を命ぜられ発進する時の心境は、私はよく分ります。自分らのこの攻撃により、これが、導火線となり、戦勢の挽回をもたらし、必ずや我が、日本帝国の安泰につながるのだ。これが、達せられるなら、男としてこれに優るものはない。と、大義に、生きる、希望に燃え、喜んで出発されたことに違いありません。君達の攻撃は、大成功しました。ホントに御安心下さい。続いて、海軍はもとより陸軍も特攻攻撃に移行し、ひいて、一億総特攻の団結のきずんはとなりました。
 しかしながら、遂に敗戦の憂き目にあいました。
 当時、軍令部次長であった大西元長官は、昭和二十年八月十六日、官邸において枕頭に次の遺書を残して自刃されました。
 特攻の英霊に曰す。善く戦ひたり、深謝す。最後の勝利を信じつつ肉弾として散華せり。然れど其の信念は遂に達成し得ざるに到れり。吾、死を以て、旧部下と共の遺族に謝せんとす。次に一般青年に告ぐ。我が死にして軽挙は利敵行為なるを思い、聖旨に添い奉り、自重忍苦するの誡めとならば幸ひなり、隠忍する日本人たるの矜持を失う勿れ、諸子は国の宝なり。平時に処し、独克く特攻精神を堅持し、日本民族の福祉と世界人類の和平の為、最善を尽せよ。
 海軍中将 中西滝治郎

 後、国民は平和に徹し、飢餓、失業もすべてを克服して、今や我が国は経済大国として、世界をリードするまでに発展しました。これは、全く君達の愛国的犠牲心の上に立つものであり、国家、民族のために殉ずる程崇高なものはありません。
今、ただ、頭が下がります。
 君は、誠によき同級生、よき同期生に恵まれ、またかくも多くのよきい理解、支持者に恵まれました。お陰で、この君の胸像こそは、郷土、原町の誇りであることは勿論、日本の誇り、世界人類の誇りでもあります。君の、今は亡き御両親を始め、親兄姉、御親族の方々も、今日こそは、磐雄、よくやったぞ、と、心からホントに喜び御満足に違いありません。同じ海軍航空に籍を置いた縁で、本日この意義ある世界的英雄の胸像除幕式に参列し私は、君を追憶し、慰霊とともに、お祝いの言葉を申し上げることをこの上ない栄光と存じます。
希くば、君は、大きく胸をはって、永遠に、黙ってこの原ノ町の公園に立って下さい。
 黙して、我々、日本国民をお導き下さい。

十期生と私 本間峯雄 旧姓常盤、元予科練第35、36分隊長、海軍大尉

 「中野、谷、許してくれ」土浦海軍航空隊で中野磐雄、谷暢夫二人とも私の分隊の予科練習生であった。あの最初の神風特別攻撃隊、史上最大の悲劇ともいうべき「敷島隊」の出動を私が知ったのは昭和十九年十月の末期、既にサイパン陥落以後、戦雲うずまく硫黄島の戦場においてであった。緊急情報電報を手にしながら「敷島隊」中野、谷の二人の名をじっと視つめて真っ暗な二十七航空戦隊の司令部壕で何時間もじっと立ちつくしていたのが昨日のようである。
 それから多くの少年隊が次々に死んだ。甲種第十期飛行予科練習生、総員一〇九七名、戦死者 七七七名 日本のいや世界の戦史にも類例のない同期生戦死者数である。恐るべき多くの犠牲者である。然し此の少年達に対し犠牲者という言葉を使っては、申し訳ない。「天知る。地知る。人に知らるるを求めず、みづからその分をつくして楽しむ。」と涙ながらに教えたのは外ならぬ私自身である。
 昭和十七年四月、土浦海軍航空隊。甲種第十期飛行予科練習生第三十五、第三十六分隊長、海軍大尉、常磐峯雄、満二十四歳、少年達の親であり、兄でもあり、教官であった。親とは僭越な! 然り。但し心から少年達を愛した。愛していた。兄とは生意気な! 然り、乱暴な荒っぽい然しやさしい兄貴だったかも知れない。教官とは身の程知らず! 然り。然し、私も死を覚悟していた。永く生きようとは夢にも思っていなかった。毎日何も彼も忘れて、昼もそして夜も、少年達と一緒に必死に真剣に赤裸々な人間性を剥き出しにしてぶつかり合って暮らした日々は本当に楽しかった。あれ程充実したそして明るく過した日々は二度となかった。
 昭和十七年四月下旬の日曜日、少年達の父兄家族招待みんな喜ぶ。分隊長としてお母さん方に会うと、私自身二十四歳の父親気分もとんでもない、こっちが甘えたい位だった。ろくな挨拶も出来なかった私、お母さん方許して下さい。
 七月、東京方面見学旅行。当時は少年達はまだ七つボタンではなかった。セーラー服が可愛かったが当人達は不満そうだった。もう少し待てとなだめるのに困ったこと。少年達の夢がふきうらんでいた。当時の写真があった筈だが戦災で見当たらない。その年十二月七つボタンになった。
 九月。一〇九七名の半数が三重航空隊に移ることになった。私が五五〇名の引率指揮者であった。「土浦に残される」と云って泣いた子。私も泣いた。別れが辛くて一晩中泣いた。「新天地、三重」にいけると云って、はしゃいだ子。今は大部分が生きていない。
 昭和十八年春五月から七月にかけて次々に十期生達は、次の飛練教程目ざして予科練を卒業していった。既に戦況は一国の猶予も許さず戦雲は日々に険しくなっていった。駅頭に見送る私達、車窓の若い顔顔、皆んな本当に若く希望に燃えた少年達であった。(中略)
 神風特別攻隊敷島隊、中野君、谷君の外、私は余りにも多くの少年達の死に、いうべき言葉を知らず、ただ呆然としているのみであった。特に縁の深かった上空三十五、三十六分隊、三重空十一、十二分隊の諸君に対しては色々な思い出とか、いいたいことが沢山にある。然しいうべく余りにもいたましい事のみ多すぎる。余りにも清純な思い出のみ多すぎる。
 私は静かにこれ等の思い出vを胸に秘めつつ今しばらくの人生を歩んで行きたい。
 幸か不幸か生存して今日在る甲十期の諸君恐らく凡ゆる社会の各分野においてそれぞれの人生を真剣に歩んでおられることと思う。過去を忘れず、そして過去におぼれず、現在を大切に生きてゆくこと。それが散華した多くの同期生に対する義務であり、はなむけではないかと思う。
 色んな思いが胸に満ちながら、永い永い間、自衛隊郡山部隊史料館の9中野君の前にたたずみ、綿塩はひとりで黙りって泣いた。
 東北の桜は美しい。特に郡山部隊の桜は静かな美しさをたたえている。
 そして靖国神社の桜も、土浦の桜も、毎年美しく咲きつづけることであろう。

はらのまち100年史

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