原町無線塔、朝日座など福島県南相馬市原町区(旧原町市)の文献を公開

彩雲と天山

早川英夫 原町生まれ。予科練出身
 南相馬市原町区(旧大甕村北原)早川英夫海軍飛行兵曹が、昭和20年6月25日、沖縄戦の偵察飛行で中城湾の上空付近で米軍艦艇を撮影。九州鹿屋飛行場に敵情を報告し「敵機の追尾あり。被弾…」と最後の無電を打った直後に音信不通となって70年たつ。
 原町生まれで相馬中学から予科練にすすんだ同窓生には、神風特攻隊「敷島隊」の中野磐雄や、半年遅れで予科練に入隊した片寄守正もいた。中野は昭和19年10月25日にレイテ湾で特攻戦死。片寄は昭和20年4月6日、天山艦上攻撃機で魚雷攻撃のため鹿児島県串良基地から発進し、沖縄海域で戦死した。
 早川英夫は大正14年生まれ。相馬中学に進学し、戦雲急を告げる昭和16年、16歳で海軍予科練を志願し、甲種第十期の訓練を受けてフィリピン戦線に進出。自宅は旧大甕。現在の南相馬市原町区二見町2丁目。わが生家から一町ほどの隣接した家である。同じ海軍予科練に進み、同じ年に生まれたカミカゼ第一号の中野磐雄と同じ相馬中学に進んだ。
 元福島県職員の弟範雄さんは兄の軍隊手帳の軍歴の13行を辿る旅に出て各地の戦史資料を渉猟し長兄の足取りを記録した。また三人の妹を連れて、兄の息吹を偲んだ。


 彩雲に乗って
 南相馬市原町区(旧大甕村北原)早川英夫海軍飛行兵曹が、昭和20年6月25日、沖縄戦の偵察飛行で中城湾の上空付近で米軍艦艇を撮影。九州鹿屋飛行場に敵情を報告し「敵機の追尾あり。被弾…」と最後の無電を打った直後に音信不通となってから70年がすぎた。
 早川英夫は大正14年生まれ。相馬中学に進学し、戦雲急を告げる昭和16年、海軍予科練を志願し、甲種第十期の訓練を受けてフィリピン戦線に進出。
 元福島県職員の弟範雄さんは兄の軍隊手帳の軍歴の13行を辿る旅に出て各地の戦史資料を渉猟して、長兄の足取りを記録した。また三人の妹を連れて、兄の息吹を偲んだ。

片寄守正 原町生まれ。予科練出身

日本海軍の傑作偵察機「彩雲」は飛べない飛行機だった!
艦上偵察機「彩雲」

40代の我々の世代では、タミヤの1/50プラモが思い出される。胴体の半分が透明パーツで出来ており、内部構造が見えるものとなっていた。

http://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/cl-pln/saiun.html

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%A9%E9%9B%B2_(%E5%81%B5%E5%AF%9F%E6%A9%9F)

彩雲の高速性能を表す有名な言葉として
「我に追いつくグラマンなし」というのがあるが、その実態は、故障続発の役に立たない代物だったとは、素晴らしいスバラシスギル……
三野正洋著『続・日本軍の小失敗の研究』によれば、カタログ・スペックは素晴らしい性能の
「彩雲」であった。
しかし、生産が始まると、トラブルが続出した。構造が繊細すぎて、生産工場がその要求をこなしきれない。また「誉エンジン」の取り付けの際には、スペースに余裕がなく、既存の工具が使用不能であった。
いずれも機体設計の際に、少しでもスペース効率を良くし、軽量化(エンジンの出力が低いので機体を軽くして速度を出そうとした)をはかった手法が裏目に出てしまった。
これにより量産に入っても、手直しの連続で、工場内は混乱を極めた。

続々と前線に送られてくるはずの「彩雲」は、待てど暮らせどやってこず、またようやく届けられても、故障続きで、整備を抜本からし直す必要が生じていたのだ。

「彩雲」の場合、工場側が完成と認めた後、海軍に引き渡すまでの間、平均して125時間もかけて調整修理を必要としていたのだ!
あまりの故障続出のために、メーカーの中島航空機(いまのスバル自動車)が完成したといっても海軍が受け取らないのだ。ちなみに、同時期(1944年前半)の米軍は、単発機では完成後6~7時間、多発機17~20時間で引渡しが完了している。

さて、完成した「彩雲」の試運転に時間をかけているうちに、別の大問題が生じていた。
当時のエンジンの実質的な耐用時間としては、工場側で300~400時間、海軍ではその半分ぐらいを見込んでいた。
「彩雲」は工場での試運転で125時間もかけていたので、エンジンの耐用時間の大部分を、前線に運ばないうちに使い切ってしまっていたのだ。こうなるとエンジンは、出撃前に耐用時間に達してしまい、いざというときに役に立たなかったのだ。
このため、基地に配備された「彩雲」の稼働率は、日本本土が空襲を受ける以前でも20%前後に過ぎなかった。
また生産された約400機のうち、一応使用に耐えられると判断されたものは、1944(昭和19)年末の時点で3分の1しかなかった。

兵器に優先されるのは、信頼性と生産性である。とくに戦争時には、この2つが優先事項となるが、大日本帝国は、戦争が激しくなればなるほど、逆の方向である「性能第一主義」に走ってしまった。

しかも、戦時中の日本は、工場にかならず、軍の監督官を派遣し、管理と運営に当たらせた。彼らは、軍人であるので、製造のことなどまったくの素人である。
工場の効率的運営、適正な人員配置、部品の迅速な供給といった種々の事柄は、そのまま生産力に結びつくのであるが、軍人である監督官は自分の無知、能力不足を棚上げし、すべてに介入した。目標とされた生産数の達成のみが、彼の目的であり、品質に関しては無視する。機械効率を良くしようとする努力を、手抜きであると非難する。有能であっても自分の気に入らぬ人間は、職場から外し、すぐさま軍隊に召集する。

中島飛行機の「彩雲」生産現場でも、これらの無法が横行したことは容易に想像できよう。

『性能第一主義は機体、発動機、プロペラなどの組み合わせを、それらに実用性があるとないとに拘らず、性能上最も優秀なものを選んでしまい、とにかく安全に飛べる飛行機を早く大量に作ることを忘れていた。その結果、競争用の飛行機や展覧会への出品機ならともかく、戦争に役に立たない飛行機が出来てしまった』
『わが国の設計は生産技術を無視した場合が多く、余りにも理想に走り、生産に当たってはこれを実現化することが困難である場合が多々見られた。(中略)この設計と生産技術の不均衡が、飛ばない飛行機が続出した大原因である。整備も取り扱いも不良になったが、根本的な原因はここにあった』
(日本航空学術史1910-1945より)

「彩雲」は、その典型的な失敗例であるが、他の傑作機と言われている日本機も、そのほとんどが「迷機」なのかも知れないな。

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