原町無線塔、朝日座など福島県南相馬市原町区(旧原町市)の文献を公開

はらまち医療衛生史

はらまち医療衛生史

明治の原町医療
祈祷から科学へ

「日記」に(p473)文久2年、歯痛に悩み日記の裏表紙に、たちものをして願掛けしている。富田高慶は病気のデパートのような人物で、いつもどこかが悪いという症状があった。
慶応2年 齋藤三太夫大病の項目があり、治療にあたった木幡安貞、管野三徹はこのときの中村藩医である。
明治4年
「相馬市史Ⅰ」p752
相馬の医師は八軒四十八人
とある。
明治6年
天然痘予防の祈願誓文がある。
3.1.種痘の許可を原町の有志が磐前藩に願い出る。

明治12年3月17日
「二女はる管野信忠(恕軒)ニ嫁ス」(富田高慶日記)
とある。恕軒は医師。病弱だった富田にとっては心強かったろう。
明治15年 下町渋佐寿郎、菅野信忠より以北十五軒(火事)
恕軒も焼け出された。
明治17年 富田高慶、上京し相馬家出入りの医家戸塚文海の治療を受ける。(富田高慶日記)
p1031 地元原の町の医師世気正親、女婿でもある管野信忠の治療を受けつづけ、十月二十八日には仙台の中目医師にも見てもらった。
p1097 一月の終わりから二月半ばまで、富田の妻さへが大病をわずらった。原町から世気正親医師が毎日のように来診し、夜も泊まりこんで治療に当った。(富田日記)
p1193 富田日記 付看護日誌
明治22.12.8.~23.1.3. 22.12.30.~23.1.4.
世気正親、管野恕軒、福島病院の木脇院長らの往診をうけ、23.1.4富田死去。

明治22年
10月 大甕江井の佐伯剛毅は、江井に医業を開業。(中澤満「原町市の医療事始め」平成13)

明治26年9月20日民報
○行方郡原町近況  戸数八十戸人口千九百余内呉服太物商五戸 酒造家四軒 醤麹四軒、小間物荒物商十五軒、飲食店十六店、旅人宿七軒、菓子店九軒、魚店六軒、医師四戸、大工職十二戸、染屋三軒その他の雑商七十軒(後略)

後代の資料(大正7年「相馬原町案内))に、

「山田胃腸病医院 本町四丁目に在り、院主山田清氏、現任相馬医師会副会長にして又た原町医師会長たり、明治二十四年当町に開業」
「△門馬医院  本町五丁目西裏に在り、院主門馬直身氏、当町開業医の最古古参者」
「△世気医院   新町西裏に在り、亡父正親氏当町医界の古老にして」
とある。
明治26年当時の原町医師四人というのはしたがって
管野信忠、世気正親、門馬直身、山田清ということになる。
ただし、「山田清 院長
文久二年二月二日相馬郡原町に生る。明治二十九年東京医学専門学校済生学舎を卒業し、明治三十二年九月現住所原町に山田胃腸医院を開設し今日に及べり。」という資料(出典不明)もある。

明治27年4月14日民報
○行方宇多医会
同両郡医士は此の程相会し
(注。紺野道悦の名前あり。紺野は石神の県会議員などをつとめたが後には銀行家になる。この当時は医師をつとめていた。37年に石神の医師として「遠藤道悦 県会議員 洋法内外科医士」と出てくるが、同一人物か? 別人か?。

明治27年4月19日民報
○松本孫衛門逝く
自費を以て原町種痘施行所を設け無料を以て種痘を施したる者三万余人に及び為に往年天然痘流行の際も一人の患者も出さざりきと

明治28.11.26.民報
〇娼妓身体検査及治療医委托  朽窪貞吉氏は行方郡原町村娼妓身体検査医に年手当金二十四円。世気正親氏は同郡原町村娼妓身体治療医に何れも昨日任命ありたり
(注。「朽」は「栃」の誤植)

明治29.5.7.民報
〇原町近況 〇種痘  去月廿七日より種痘所にて無料接種せり種痘所は今を去る十余年前故松本孫右衛門遠藤文左衛門の両氏首として資金を出し其利子を以て種痘費に宛て接種者よりハ曽て一金の料を徴せず開設以来今日に至る迄仝所に於て無料接種したる人員無慮二万有余人の多きに及び其の功績頗ぶる著大なるものあり故に松本孫右衛門氏は在世中其筋より銀盃を賞与せられたり

明治29年から十余年前といえば明治20年頃になる。このころ種痘所が設置されたこと、種痘所が無料でおこなわれていたことがわかる。

明治29.5.7.民報
○清潔法 此程三日間に春期清潔法を実施せしが村長分署長等を始め役場員総出にて監督し頗る見殊に出来上がりたり斯くてこそ暑期に至るも虎軍来襲等の憂あらざるべし尤も当地は水質純良土地乾燥にして従来悪疫の侵入したることなき位なるが油断ハ大敵なれば用心は勘要(ママ)なり
○赤十字社員 は三十九名にして先きに福島支部の総会に出席したるハ遠藤周輔、管野信忠、佐藤玄良、の二氏(ママ)なりしが右は社員を代表して出席したるものなり

明治29年
5.26.小林順生堂 薬の販売 原ノ町
の民報広告

明治30年9月28日民報
○相馬郡石神村の赤痢病  相馬郡石神村の赤痢病は中々のショウケツにて一時は如何なる害毒を流すやも計られさりし程なるか其後の周到なる注意と村民の警戒とにより追い追い下火となれる由今其模様を記さむに発病の最初は同村遠藤某及び高橋某の子供に発したるものなるが死亡後赤痢病にあらずとして隣家組合縁者等寄り集り葬儀を済ませしに夫れより忽ち其処に発生して大騒ぎとなり県庁郡役所警察署等よりも夫々出張あり村役場村会議員衛生委員駐在巡査有志者其他の奔走尽力一方ならず該病予防撲滅の費用として議決したる金ハ千四百四十七円七十銭にして昼夜の別なく心を謁し力を際めて非常に骨折りたるが初発以来の患者は三十一名にして死亡九名なりと云ふ

このときの石神村議事録にあたると、赤痢は結果的に32、死去12を数えた。

明治31年 石神村 30年度衛生
赤痢32 内死亡12 天然痘2 死亡1 実布的里亜7 種痘接種700 伝染病予防ニ要シタル費用 1627円余(議事録)

原の町の有識者は新祥寺で大般若教を転読した。
明治31年福島新聞
3.2.広告 宿痾再発ノ気味ニテ入湯ニ出掛ケ十五六日間不在仕候間此段知己諸君ニ謹告ス 三月一日 半谷清壽
4.1. 相馬の奇病
原町 30年度 衛生
腸チフス13 全治9 死亡4 実布的里亜4 死亡2 全治2 天然痘 全治2 赤痢7 全治6 死亡1(議事録)

明治32年 山田清 山田胃腸病院開業
山田清 院長
文久二年二月二日日相馬郡原町に生る。明治二十九年東京医学専門学校済生学舎を卒業し、明治三十二年九月現住所原町に山田胃腸医院を開設し今日に及べり。(出典不明)

明治33年 原町 赤痢患者51 死亡11
腸チフス7 死亡 ジフテリア4 死亡4(議事録)

原町の裏面観察
(明治30年代の原町・民友「原町だより」から)

「相農史」が、相馬農業高校の前身である原町実業補修学校の創立した明治36年頃の原町の様子として、「明治30年代の原町」という項目で紹介しているのは、福島民友の「原町だより」で、これによると原町の衛生状態は次のようだった。
「元来当町は其過半より町の中央を貫通したる小川あり、之れ町民の飲食物洗場として使用しあるものに候。然るに其裏面を観察するときは又垢物(小便・汲取水据風呂水)の放棄所にも併用し居る次第にて折々ウジ虫の混流するなり」

原町は政治的に松本孫右衛門が社長である福島民報の牙城である。民友からみれば、ライバルの牙城地区への辛らつな批判の一端であるにせよ、当時の原町の衛生事情を物語る記述ではある。

明治33年共立原町病院できる

明治33年には、原町共立病院という施設ができた。個々の開業医を排して、医師たちが共同で病院を経営したのである。
〔原の町雑信 △病院 医界は一新し自宅開業を廃し共立病院を組織して八月一日開院する筈にて開院式は今月三十日に挙ぐる由名誉院長はドクトル研造氏を推し院長には医学士を招聘する筈にて菅野信忠氏上京せり順天堂病院長佐藤医学博士は此挙を賛成し今後大に応援を与ふる由且つ月に一二回は東京より出張患者を診察するとの事なり独り世気正親氏のみは病院には反対なる由にて依然自宅開業するよしなり〕(明治33年7月27日)
〔原の町雑信 △伝染病 皆無喜ぶべき事なり役場にては離隔病舎を建築せんとて目下調査中なりと聞けり〕(同7月27日)

明治33年7月28日民報広告。
〔特別広告
開院広告
今般名誉院長ドクトル赤星研造氏ノ外医学士一名ヲ聘シ来ル八月一日ヲ以テ開院広ク患者ノ依頼ニ応ズ。
診察時間 自午前八時至正午十二時
往診 自午後
入院 精診ノ上臨時需二応ズ
手術 外科眼科共大小軽量ニ関ラズ毎日臨時施行ス
明治三十三年七月廿一日
共立原町病院

明治33年9月3日 民報
○原町病院雑事   相馬郡原の町なる共立原町病院は開業日尚ほ浅きが入院患者四十人が以来七十人程ありて医員は頗る繁忙を極め居るより病室も最早不足を告ぐるの有様となり隣家を借り受け病室に充て居れりと云ふ△本月中旬に副院長田島仲吉氏来任せり氏は大学に永らく助手を勤め外科眼科は氏の特長にして患者の応接丁寧なれば頗ふる好評なり△又同院にては貧困者へ施療する由にて其手当を受け居る者二三名ありと

明治33年9月19日 民報
観風雑記 久保小蘇
○原町共立病院を観る

明治33年9月20日
〔○原町病院雑事 相馬郡原の町なる共立原町病院は開業日尚ほ浅ければ入院患者四十八人外来七十人程ありて医院は頗る繁忙を極め居るより病室も最早不足を告ぐるの有様なり隣家を借り受け病室に充て居れりと云ふ△本月中旬に副院長田鴫仲吉氏来任せり氏は大学に永らく助手を勤め外科眼科は氏の特長にして患者の応対丁寧なれば頗ふる好評あり△又同院にては貧困者へ施療する由にて其手当を受け居るもの二三名ありと〕

明治34年 民報
○原町病院の近況  相馬郡原町の同病院は昨今の入院患者三十名前後外来八十名程なるが平町の分院へも二名の医員を派遣し置くより目下非常に繁忙を際め居れりと

明治33年 渋佐浜の海水浴場できる

明治33年には渋佐に海水浴場ができた。
この年7月27日民報に「○海水浴場の新設」という記事がある。
〔相馬郡原の町大字下渋佐の海浜は極めて清潔にして蚊に責めらるる憂なく飲料水も純良にて運動場も広く海水浴場としては頗る適当の地なるを以て原の町の有志諸氏は協力して浴客の分離を謀り眺望の尤も宜しき場所を選み家屋を建築して宿泊休憩等の望に応ぜんとて已に其工事に着手し八月五日までに落成せしむる筈にて頻りに工事を取急ぎ居れり同所は原の町停車場より一里にして道路平坦人力車にて往復するの便あり物価の如きは低廉にて数十日の久しき滞在して保養を為さんとする人には頗る便宜あり又八月一日より原ノ町病院を開設せられ有名なる赤星研造国手の治療も受けられ医学博士佐藤進氏も原町病院の為めに時々来診する筈の由なれば万事好都合にして新鮮なる魚類は日々に膳に上り滋養の方も充分に得らるるは勿論の事にて新に建築する家屋内には温泉場を設けありて且つ海中には深さ胸部に達する位の場所に棚を設け危険を防ぎ又出汐のある時には之を知らするの方法も準備する由なれば安心して遊泳を試むるを得べし而して新田川の河口に舟遊を為し垂釣の愉快もありて其対岸なる見遠崎と云へるは尤も絶景の処なれば枝を曳きて散策を為せば興味更に深かるべし原の町停車場は発着所故乗降の便大に好く有名 〕

明治34年 民報
○渋佐浜海水浴  昨年より開場したる相馬郡原町大字下渋佐なる海水浴場は日に増浴客も増加し清水舘に滞欲の客も少なからず又永く保養せんとする人々は民屋の座敷を借入るる模様なるにより大字一般に家宅内外の掃除等行届き様になり自然衛生上○々適するより学生等の避暑を兼て勉強するには屈指の地なりと云ふ

明治34年2月8日 相馬郡にては別項ある如く目下郡内の清潔法を施行

明治34年6月30日 原町銀行裏 共立相馬眼病院 広告 分院 中村町向町鍛冶町

明治34年8.29. 原釜で赤痢

明治35年8月19日 民報
○原町病院の新築と改革  相馬馬原町病院は三十三年八月一日の創設にして満二個年間艱難を凌いで辛苦経営の結果早速維持法も確定し新築の企画中なりが地方篤志家の発起にて多額の義捐もありて既に新築工事に着手中なるが遅くも来る十月頃までに落成せしめんと工事を取り急ぎつつあり愈々落成の暁には浜街道筋に誇る便益蓋し大なるべしと殊に本年八月一日より医員栃窪貞吉氏が院主となり一手に引受け親切懇篤に取扱ひ院長田島丈作氏も赴任以来患者の信用厚く最も丁寧に扱はるるより今日の繁盛を来したるものにて実に氏の賜なりと云はるる由尤も同氏は今回の新築費中に多額の金員を寄付したれば同院将来の隆盛疑ひなしと

明治34年 太田 赤痢17 死亡5 ジフテリア9 死亡2 太田 隔離病舎 石神 赤痢15 腸チフス1 ジフテリア1 太田 隔離病舎 古家屋購入 鶴谷牛踏(議事録)

明治35年 原町 赤痢12 死亡3 ジフテリア3 太田 赤痢6 死亡1 石神 腸チフス60 隔離病舎ヲ欠下に(議事録)

明治35年10月19日 民報
○相馬郡太田村通信 ▲隔離病舎には目下三名の赤痢患者を収容しあるが何れも軽症にて不日全快すべく他には蔓延の兆なし

明治35年12月3日 民報
○相馬郡大田村近信 ▲隔離病舎 は去る十九日を以って赤痢患者全治退 舎せし以来目下患者なし当村にては患者総計赤痢十六名腸チフス一名にして中四人死亡したり此に要したる予防費病院費其の他にて約四百五十円なりとのこと

明治36年5月5日 福島新聞
●原町病院の大手術  相馬郡原町病院に於て五六日前卵巣腫の大手術を行ひたる由なるが右患者は宮城県亘理郡坂元町森モト(四二)なるものにて数年前より同症に罹り仙台なる宮城病院の治療を受けたるも捗々しからざるより今回原町病院の手術を受けたるものの由なるが手術の際は田島病院の指示にて両名の立会人を設け老院主栃窪氏の執刀にて無事手術を了りたるが其後の経過頗る良好なると云ふ

明治36年8月2日 民報
中村 赤痢目下一名の患者も無く
同年 太田村 赤痢患者なし

明治36年8月22日
緊急広告 原町病院 原町銀行裏 相馬眼病院
人事の取り消しと訂正
8月29日 原釜で赤痢

明治36年 原町 赤痢6 死亡2 ジフテリア3
大甕 隔離病舎 石神 赤痢9 腸チフス1
種痘105(議事録)

明治37年 原町赤痢26 死亡2 ジフテリア1
石神 赤痢59 死亡11 ジフテリア2 種痘124(議事録)

明治38年 原町赤痢3 死亡1 ジフテリア2 石神 赤痢1 種痘542(議事録)

明治38年9月26日 民報
○相馬郡石神村通信  △駐在所 長澤谷津田両巡査は伝染病予防に
△赤痢病 目下八名の収容患者あり病勢ますますショウケツ毎戸に予防消毒励行

日露戦争当時の相馬地方の医師

明治37年「福島県名士肖像録」
原町
鈴木亮 原町眼科病院長 眼科専門医士
管野信忠 医師
金沢貞助 医士 医科大学撰科生
石神
海東高敬 医士
遠藤道悦 県会議員 洋法内外科医士
高平
猪又広安 医士
太田
渡部栄吉 医士
武内善重 医士 医学得業士
大甕
稲田彦治 陸軍看護手 村会議員
田中忠宗 接骨治療
村上庄司 獣医

小高
大原良男 医学得業士 医士
今村秀芳 医士
島佐次郎 医士

鹿島
鎌形融 医士
木幡忠雄 医士

中村
井口良策 医師
鎌田晋 医師 医学得業士
水谷円 医師
泉田益三 眼科医 相馬医学会幹事 組合医会幹事
水谷恒治郎 医師
新妻重富 薬剤師
明治38年7月5日 民報
○海豚(ふぐ、というルビ)の中毒
相馬郡小高町大字岡田海田熊太郎五女しま(一八)は去る廿九日同郡村上浜にて漁したるフグを肥料用に買入れ同日午後二時頃煮沸中釜中より少量摘み食ひ中毒して知覚を喪失し目下小高町医師高橋氏方にて治療中なるが生命は覚つか無しと真に海豚(ふぐ)は食たし命は惜しだ

明治39年2月17日 民報
○満州からの土産か
相馬の天然痘・・・患者廿余名

明治39年 原町 赤痢3 死亡3 ジフテリア5
石神 赤痢18 ジフテリア1 種痘2086(議事録)

明治40年 太田 赤痢1 石神 赤痢3 ジフテリア4 種痘300(議事録)

明治40.8.19.
日露戦役相馬双葉勲功録広告
原町幸町
内外科 産科 婦人科 眼科
門馬医院

相馬中村町川原
眼科 産科
医士 門馬鶴之進

相馬上町
眼科 内科 耳鼻咽喉科
佐藤医院

中村町
内外科 泌尿科
六達医院
梅毒淋病注射療法
院主 水谷 円

内科 耳鼻咽喉科
中村町字田町廿七
得業士 鎌田 晋

内外科 小児科
中村町袋町
医士 井口良策

原町三丁目
内科 小児科 婦人科
高野医院
院主 正八位勲六等
高野寅蔵

原町五丁目
内外科 高野医院
院主 従七位勲六等 高野順

獣医士 勲六等 斎藤長三郎
中村町字新町

明治42年1月16日 民報5000号記念広告
肺結核肋膜炎 血清治療専門
栃窪病院

原町病院を称した栃窪医者が独立したものか。

明治44年 浪江町 志賀医院長 志賀赴 浪江町大字権現堂新町十二番地に開業。(14年肖像録)

明治44年 世気 敏 開業
明治七年二月十日を以って生る。明治三十七年八月東京私立慈恵会医学専門学校を出で、四十一年より四十三年迄朝鮮龍山同仁医院に副院長として勤務、鎮南浦臨時検疫医拝命、四十四年帰郷現住所相馬郡原町字新町二番地に開業せり。政治に趣味を有す。
氏は医学博士今村保氏の令弟にして。医師世気正親氏の養子となり夫人とし子との間に五子あり、長男は未だ小学校在学中。(大正14年肖像録)
大正時代の原町医療

大正2年 小林眼科 開業
小林藤太郎 小林眼科院長
相馬郡原町に生れ、明治四十五年三月日本医学校眼科部を卒業。
大正二年十二月現住所相馬郡原町に小林眼科医院を開業し今日に及べり。(14年肖像録)
9.2.X線レントゲンについて三 福島新聞

大正3年
石井広院長「石井医院」(相馬原町)開業
相馬郡石神村の出身にして、本年三十三歳(大正14年)日本医学校に学び、大正二年十二月同校卒業し、大正三年八月同郡原ノ町に開業せり、内科、小児科専門なり。
読書に深く趣味を有す。
(T14-肖像録P104)

大正4年 福島県東海岸の人物 三十四節
「甘んじて片田舎に没頭せる田島丈作氏」113P
「温厚にして手腕ある医師高橋覚三氏」二十五節

大正4年 福島日日
1.1.広告 板倉令治 木村広助
7.24.中村町繁昌記 草野医院 今野下駄店 専門歯科医院
11.8.広告 中村 新開歯科医院 新築落成

大正5年 庄司 相馬病院長 中村町に招聘されて院長となる。(14年肖像録)

大正5年 福島日日
6.25.太田医院 太田村太田登喜彦

太田登喜彦医者の開業は大田村民に紛擾をもたらした。父親の太田政輝が終身太田神社宮司を村民から付与された名誉職を子息の太田医者に相続させようとしたからである。

大正5年7月 雑誌「海岸」広告
板倉歯科医院
百井医院 百井広

大正7年「相馬原町案内」より
岡和田甫 海岸タイムス社発行

現勢 其の十 消防及び衛生 P82~86

▲衛生  当町は水清く気候温和にして衛生に適し、未だ嘗て特殊の風土病あるを聞かず地方稀有の健康地と称せらる。伝染病予防の設備として隔離病棟あり、春秋二回の清掃及び種痘を行ふ。
現在医士十一名、歯科医一名薬剤士一名、産婆三名、獣医二名、薬種商四名あり、現在医院の著合なるもの左の如し。
△山田胃腸病医院 本町四丁目に在り、院主山田清氏、現任相馬医師会副会長にして又た原町医師会長たり、明治二十四年当町に開業す、当時共立原町病院あり、氏独り個人開業医として之に対峙し奮闘最も努めたりと云ふ。

△門馬医院  本町五丁目西裏に在り、院主門馬直身氏、現任原町尋常小学校及び郡立相馬農業学校医たり、当町開業医の最古古参者にして地方衛生の改善氏に負ふ所少からず。

△高野医院  本町三丁目に在り、院主後備陸軍二等軍医従七位勲六等高野重衛氏、非公式町医にして最も地方の公衆衛生に貢献す。

△世気医院   新町西裏に在り、亡父正親氏当町医界の古老にして傍ら公共事業に尽瘁し令名あり、氏亦た其の遺志を嗣ぎ、公共的精神に富む、医学博士今村保氏は氏の令兄なり。

△小林眼科病院  停車場通旭町に在り、院主小林藤太郎氏、大正二年十月開業、治療上一卓見を有す、クラ子夫人能く患者の精神的慰藉に努む、遠く北海道及び宮城県地方より来りて治を乞ふ者多し。

△百井医院  幸町に在り、院主百井広氏、現任石神村医なり、内科及び小児科を特長とし、活動家にして又た読書の趣味あり、年歯尚ほ春秋に富む。

△愛沢医院  本町五丁目に在り、院主愛沢忠雄氏、当町医界の最年少者にして研究心に富み診察治療最も懇切なりと云ふ。

△水谷医院  初音町遊郭前に在り、院主水谷久太郎氏、嘗て当町警察医たり、その後会津地方を遊歴し、近時帰来現所に開業せり、現在警察及び鉄道嘱託医なり。

△氏家眼科専門院  新町西裏に在り、院主氏家士氏、最近の開業に属す、嘗て四方を遊歴し見聞に富む。

△庄子医院  本町四丁目に在り、院主医学士庄子静氏、大正四年の大学卒業生にして大学に助手たり、後暫く東京神保院に在り、六年相馬病院長として中村に赴任し、七年四月当町に開業せり、最も外科に長ず。

△猪又医院  良七町に在り、院主猪又義信氏、陸軍三等軍医正にして長く軍隊に在り、過般職を辞して郷里高平村に厳父の業を助け在りしが最近当所に開業せり。

△板倉歯科医院  幸町尋常小学校前に在り、院主歯科医学士板倉令治氏、日本歯科医学校出身にして卒業後直に当町に開業せり、当町唯一の歯科医にして浪江町に出張所を置く、医務多忙なり。

△奥野薬局  栄町に在り、薬剤士奥野喜代治氏の経営にして大正三年の開業に属す、氏は大正二年薬学校卒業後長野県に在り。薬学研究に従事し、帰来当町に開業せり。当町唯一の薬局にして地方衛生思想の発達に伴ひ漸次発展の機運に向ひつつあり。

大正7年はスペイン風邪流行の年
9.10. 虫の駆除 相馬被害甚し 鹿島と新地
10.10.相馬伝染病

大正7年7.24. 民友 臨時清潔実施

大正7年5月18日福島日日 私立相馬病院の発展

庄司医院 相馬から原町に移って開業

大正7年11.15.福島日日
原町ゆき 十一日夜 黒田生
記者は「庄司医院に院長庄司医学士を訪ふ。二月ぶりである、相変わらず忙しい。庄司君は珍しい温厚篤実な人である。そして帝大在学時代からの秀才で、東京の永楽病院に副院長を勤めて居ったので、田舎には惜しいやうな立派な手腕を持って居る、中村では相馬病院を去られた事を遺憾に思って居る。原町では非常に幸福だ。

大正7年10.10. 民報 相馬 伝染病
大正7年12.9.福島日日
佐藤義美 中村の国手
12.10.草野今朝次郎 国手
12.29.泉田益三 国手

大正8年
5.5.半谷氏帰国 医院開設

大正9年
9.1.21. 民報 川俣原町に死者続出 製糸場
民報.T9.4.28. 原町清潔日割り
民報.T9.5.23. 相馬郡医師会

大正10年
9.20.原町のチブス 千葉牧師の娘
民報 10.8.11.原町にチブス 石神の青年疑問の死
民報 10.9.22 原町のチブス
下町教会の千葉儀一牧師の娘好子(六)原町小学校一年生

福島日日10.9.18.
原町紡織工女 チフスに罹る
原町に於ける腸チフス益々猛威を逞うし去る十五日は新患者四名を出し又も十六日に至り原町紡織株式会社内雇女女工吉長なか(二一)は同病と判明し直に隔離病舎に収容したるが一方蔓延の恐れあるを以て宿舎全部に亘り厳重なる大消毒を施した

大正11.1.1.広告
原町満月会
庄司医院 電話一二九番
門馬医院 電話三二番
山田医院 電話五三番
田島医院 電話三六番
世気医院 電話一二番
高野医院 電話三四番
猪又医院 電話四三番
小林眼科院 電話一○番
桜井医院 電話四九番

板倉歯科医院

福島日日・大正11年
2.19.双葉相馬までも死傷二百に達す
原町地方流感猖獗 死亡者も増加 相馬石神全村流感
3.29.大堀村にまたまた天然痘

大正11年 福島日日
2.27.相馬郡新地磯山療養所を見る 仙台遠藤生

11福島新聞
2.19.原町地方流感猖獗 死亡者も増加 相馬石神全村流感
9.5.原町署の伝染病予防 チフス一名のみ

大正13年民報
11.15.相馬にチフス 磯部

大正14年
1.1. 民報広告
遠藤医院 東一番町
貫光堂 薬剤師佐藤貫良

大正14年 福島県肖像録 写真
板倉令治 歯科医師 611
高野寅衛 医師 正八位勲六等 高野医院 613
小林 眼科医師
広瀬護 歯科医 616
猪又義信 猪又医院 正六位勲四等
今村秀芳 医師 小高
山田弘 小高
遠藤英 医師
門馬直身 産婦人科、小児科 医師
高野眼科 高野敬三
斎藤斎 内科 婦人科
佐藤貫良 薬剤師
百井広 小児科医師
広居茂 歯科医師
世気医院 名のみ
荒川栄五郎 中村 医学士
半谷国真 小高 医師
橋本医院 橋本音治 中村
守口充 医師
丸山療病院 院主目黒新 624

14.9.5.原町の伝染病予防 チフス一名のみp
福島毎日・大正15年
6.3.新田川で養殖の鮭がへい死する 紡績化学織物会社等から排出する悪水の為めに
福島毎日15.6.3.
新田川で養殖の
鮭がヘイ死する
紡績化学織物会社等から
排出する悪水の為めに

相馬郡新田川を利用して本県唯一の鮭魚を孵化増殖せんとする計画は本県本年度の新事業の一であるが新田川鮭播殖組合では近年同川付近の雲雀ヶ原に建設されたる紡績化学織物会社等の
工場内より排出する悪水の為め折角の鮭魚が弊死するか或は大海に出る傾向があるので事業上一大頓挫を来し過般県当局に苦情を開陳したが県では近く同川の水質検査を行ひ善後策を講ずる筈であるが同組合事業全部は既報の通り本年から県に移管され
繁殖をすることになつていゐものであるから今後の処置に関しては相当に注目されてゐる
昭和の原町医療

朝日2.2.9.
原町のチフス
相馬郡原町では昨秋一名のチフス患者が出来過般漸く退院するに至つたが最近また患者が続出し目下四名が避病舎に収容されてゐるが系統は中村町から引きうけたらしく原町署では健康診断を行つたが今後蔓延の兆候を認めなかつたと

昭和2年福島毎日 野馬追広告
内科外科 鈴木医院 鈴木重輔

昭和3年
3.9.大甕チブス
7.2.福島毎日
原ノ町にも鉄道治療所設置 五十マイル毎に一箇所の割合で全国に増加する
福毎日
8.19. 天恵に乏しい相馬郡山中郷 医師を呼ぶには三十円
9.24. 原町のチフス益々蔓る
9.24. 寝ぼけ配達夫無惨な轢死
9.21. 原町郵便局の逓送夫轢死す

昭和4年
六百六十尺の
鉄塔上で感電す
原町日本無電の工手
可成りの重態
相馬郡原の町日本無線電信株式会社原の町通信所工手阿部勘治(三三)は去る十八日午後四時頃六百六十尺の鉄塔の長城に於て修理作業中感電全身に重傷を負ひ原の町東一番丁渡辺医院にかつぎ込み治療中であるもかなりの重態であると(民友4.7.21.)

昭和5年
2.18.原町貧民救済の餅つき
7.3.原町信用組合いよいよ質屋開業
8.8.原町信用組合の動産担保貸し付け大繁昌 係員汗だくの活動
不景気、失業など、経済的に困難な時代。
貧民の栄養状態も悪化し、衛生事情も医療状況も劣悪であった。衛生

民友 5年
民友5 祝 相馬妙見神社大祭
猪又医院 電話四三番
内科 小児科 木村小太郎
内科産科 婦人科 院長 齋藤齋
X光線科 入院随時 斎藤病院 一二九
丸山医院 中村町 51番

民友5.7.11.野馬追広告
X光線科 入院随時 斎藤病院 一二九
院長 斎藤斎
医学博士

昭和5年8.26.民報
無料と有料の診療所を開設
9.2.原町外四ヶ村共営無料診療所

福島毎日
5.10.12.原町衛生掃除
5.10.23.原町に共立の実費診療所 相馬医師会も刺激され 極貧者の無料診断を為す

民報5.10.15.
原町外四ヶ村の
無料診療所開設
愈々来月一日より
原町外四ヶ村無料診療所は愈々来る十一月一日より開始することとなつた場所は本町佐藤貫通良氏宅で主任医は大学病院熊谷内科より優秀なる医学士を特派することになつていゐる、尚ほ同診療所に対し多額の寄付を決定したるは同町の門馬直記、松永七之助、松本孫一、佐藤信成、今村源八、石川保次郎、志賀嘉吉、松永邦義、広橋連城の諸氏である

5.3.9.大みかチフス
5.9.2.原町外四ヶ村共営無料診療所

5.11.5.民報
原町実費診療所
開所早々大繁昌
看護婦さん昼食の暇もない
患者数日々四五十名
本県においては始めての試みとして一般の注目を引いた相馬郡原町外四ヶ村共立実費診療所は十一月一日を以て開始されたが主任医は仙台大学病院熊谷内科の逸材医学士林正七氏薬剤師は町会議員で元陸軍二等薬剤官佐藤貫良氏がこれに当り石川、佐藤儀平の両町会議員が受付やら取次をやる患者は日々四十名乃至五十名診察開始時間を待ち兼ねて早朝から詰めかけるお医者さんも看護婦もお弁当を食べる暇さへ無いといふ盛況を呈してゐる

昭和6年民友

原町少女劇団 舞踊
原町人事相談所の救済基金募集の目的で在町記者団後援のもとに九十の両日原町旭座で開催した少女劇団の舞踊劇に多大の人気を博し毎夜満員の盛況裡に終了を告げたが収益四十余円を人事相談所に寄付する事となつた

原町湯銭値下 四銭を二銭に
原町湯屋業組合では昨年の不況に祟られ経営難のため之が善後策に関して寄々協議中の処十一日断然県下各地の湯業者にトップを切つて在来の入浴料一人あて四銭を半額の二銭に値下げを申合せ即時断行したので大なるセンセーションをまき起して居る
昭和6.12.13.民友

民友広告 6年
原町実費診療所
木村小太郎 顧問医 医学博士
相田一男 主任医学士
佐藤貫良 薬剤師
佐藤儀平 庶務主任

(注、佐藤貫良と佐藤儀平は昭和8年、町長選挙に関わる涜職事件に連座した収賄で有罪)

原町満月会
猪又医院
渡辺外科医院
田島医院
高野内科医院
高野眼科医院
小林眼科医院
斎藤病院
百井医院

原町歯科医師団
齢の会

福島毎日・昭和6年
1.23.夕 小高町地方にハシカ大流行
2.18.原町細民救済餅つき

昭和6年 民報
2.24. アスピリンと間違ひ毒薬を呑まして殺す原町蚕業支所の栗城氏変死
3.1. 奇禍に鑑みて
5.24. 原町衛生組合連合会

昭和7年4.5.
中村にまたチフス 友
民報s7.8.24. 相馬の豚コレラ

民報昭和8年
8.2.中村にチフス
8.24.相馬の豚コレラ
8.9.6.中村のチブス蔓延の兆
8.9.11.中村町のチブス猖獗
8.9.20.中村の医師チフス隠蔽 県保健課七名発見

昭和9年民報
7.11.県産婆大会が七月十三日原町公会堂で開かれ、出席通告者は三百人

昭和9年民友
6.2.街頭アイス店 原町で大恐慌 子供三名中毒で死亡
過般来相馬郡原町内でアイスクリーム中毒の為め死亡した小児が三四名あつたので街頭アイス屋に対し原町警察署で厳重注意する処ありそれに各家庭でも子供にアイスクリームを与へぬ様になつため同商売は殆んど上がったりで悲鳴を上てゐるので露天商組合長を通じて警察署に泣きを入れるやらアイス中毒で死んだといふ家庭に行って新聞記事取消しを迫るやらこのところ死物狂ひになつて騒いでゐるが各家庭共自発的に子供にアイスを与へぬやうになつたため殆んどききめがない模様である

昭和10.7.野馬追広告
祝 相馬野馬追祭
相馬郡小高町東町 栃久保眼科院
院主 栃久保 蔀
女医 同  俊子

民報9.2.原町のチフス猖獗
10.7.14. トラック転覆し 乗客八名重軽傷

昭和11年.朝日
11.4.17.原町産婆会 小林ナカ会長 副高沢きくよ 同遠藤リュウ 会計幹事斎藤みつよ 庶務幹事村田きい、門馬さい、県代議員小林ナカ、遠藤リュウ、同予備員松浦スエ、田代静子

12.5.14.原町短波
原町南新田字大橋本三番地忠長男静雄(八つ)二男幹雄(四つ)の兄弟は十一日午後六時ヂフテリアに罹つたので原町署より係員出張の上自宅隔離の手続きをとつた、時は初夏いろいろな病菌のはびこる時各自家庭の衛生的警戒が必要となつた

12.7.野馬追広告
内科、産婦人科
花柳病科・レントゲン科
斎藤医院
院長 斎藤斎

中村町袋町
渡部医院

12.9.14.朝日
原町チフス

昭和13年

13.1.21.原町実費診療所

13.6.11.夕原町短波 原町の飲料水問題

13.7.11.民友
中村町歯科医師会
原田歯科医院
新開歯科医院
八巻歯科医院
根岸歯科医院
山本歯科医院
泉田歯科医院

中村町大町
内科 小児科
丸山医院
院長目黒新

中村町袋町
内科 小児科
荒川医院
院長 荒川栄五郎

13.9.9.朝日
石神の悪疫 西はる(39) きくえ(56) とめよ(13) 治(10) 一男(21) 幸吉(15) てる子(15) 礼吉(86)の一家8名 パラチフス

13.12.24.
軍医少尉大井不二男が監督
白衣の記録 仙台陸軍病院映画班

昭和14年 欠損
14年東京日日
12.29. 原町実費診療所公立病院に

昭和15年
3.10. 相馬に新症発生 本県にも天然痘の危険
3.16.原町紡績予防種痘 原町小学校で六百名

15.4.22.原町短信
原町本町三丁目元高野眼科医院は昨秋院主病死のためしばらく閉業中のところ今回仙台市出身医学士宇津志俊介氏(駅前通志賀嘉吉氏女婿)が同所を引受け外科医院を開所した電話一七○番である

15.6.18南相たより
×
公立原町診療所に過去四年に亘り勤務好評を博してた医学士山家寿一氏は五月限り同所を辞し十六日より原町大町通り(停車場通り北入り)ゐ遠藤医院跡に引移り山家医院と改称、内科、小児科の診療に従事する、電話六十五番

15.7.2.民友
中村にチフス

15.8.8.アイスキャンデーに罪

15.12.4.民報
原町短信
原町産婆会では厚生省体力局の指導による『子供の育て方』訳(講)習会を二、三の両日午前十一時より原町署楼上に開ま(き)産婆の再教育をなしたが講師は県嘱託(原町産婦人科医)斎藤斎氏であつた

産婆をしていた新妻きめ、は佐藤安治の内縁の妻である。この記事は妻からの情報だろう。

15.12.20.鹿島外病院で

16.7.
笠貫医院
荒医院
斎藤整復院

中村歯科医師会
十日会
相馬産婆看護婦学校
附属相馬看護婦会

(16年9月26日民報)
白色救援車 原町にお目見え

緊急を要する病症者及び産婦らの救援に出動する白色救援車が県下のトップを切って原町にお目見得した、同車は原町自動車株式会社所属の一九三五年型シェボレーで二十三日全車体を銀色に塗り替へ何時でも医師、産婆は、看護婦さん達の医療救急の御用に応ずべく待機せしむることになつた、これが原町に於ける唯一のガソリン発動車として残ったワケである。(16年9月26日民報)

昭和17年
1.28.相馬たより ◇相馬郡鹿島町産業組合では総会
◇原町高平村大甕村伝染病院組合設立に関する原町側委員会は二十三日午前十時国民学校に開き設立を承認近く関係村と協議する

石神の避病院に入院した屋代つるよの記憶 福島民枝の母親が看護婦で 齋藤齋が、担当医師

9.22. 「亡国病とさへ云はれる結核」の文言あり
3.1.  栄養の指導 原町産婆会 原町産婆会のメムバー
3.22. 相馬産婆 中村町私立相馬産婆看護婦学校は同町医師会有志の経営になり
4.9. 大野村診療所 写真

昭和18年
9月から渡部毒楼が民報原町支局に就任。
18.10.20.茸中毒 原町字南東原綱沢すいさん44外さつ子17たい子15
11.17.中村健保近く設立
11.9. 相馬木工の火事

昭和19年
5.2.毎日 虎眼が多い相馬の徴兵検査
5.4.中村にチフス
6.14.山上にチフス
6.28.30毎日 中村にチフス 十余名
9.17.毎日 赤痢十四人 新地福田に
10.12.中村健保総会
12.21.毎日 原町町会 22日開会 診療所12月1日開所式

昭和20.
1.9.鹿島に天然痘
1.15.蔓延の模様 相馬の天然痘
1.21.毎日 原町に天然痘
1.25.天然痘 石神にも発生
1.30.毎日 車中で感染 浜三郡に流行の天然痘 原町に発生
2.4.毎日 愛児の死を秘し出勤 鹿又教諭
2.15.毎日 原町の天然痘 高橋軍治51 これで21名

昭和20年 高澤医院 宇津志外科医院

お産も岩窟で
原町の空襲時お産対策
相馬郡原町方部の産婆組合では十四日午前十時から同町高澤医院に会同中村方部から岡本産婆組合長等も臨席、妊産婦の保健問題について協議したが特に空襲下に於ける出産の取扱につき種々対策を疑問するところあってこの席上問題となったのは空襲下妊産婦の待避と出産に就てであるがそれには安全地帯を要するので考慮の結果、石神、大ミカ村の各村、中村町の一部には旧幕時代から大小の岩窟が多数ある故これを利用して収容すべしといふことに決った、この岩窟中には畳二、三十畳を敷くに足る大なるものもあり妊産婦の避難所としては好個の場所と見られてゐる(民報・昭和20年3月19日)

3.22.石神に天然痘 原町に流脳発生 同町で最初

戦後の原町医療

10.8.北原診療所を吸収
民報20.10.8.各地のたより 相馬
◇日本医療団原町診療所ではこの程遠藤直衛氏経営の北原療□(養?)所を吸収したが五日から元三井財団□(医カ病カ?)院内科主任・慈恵□・・土□倉□氏を招聘、内科・(診?)□(察?)・(所?)漸次病院としての態勢に備へてゐる

10.18.原町で伝染病猖獗
11.19.原町の欠食児童増加

昭和21
4.4.
5.17.メチル禍で五名死 原町
5.22.メチル事件の両名送局 原町
5.29.酒類の製造禁止
5.30.五名が死去 メチル禍 原町
5.30.友 天然痘
5.23.駒ヶ嶺にメチル怪事件
8.20. 頻発するメチル禍 中村町でも数名やられる
8.22. 女もメチル禍 中村町
8.23. モルヒネ中毒の中村町 女の詐欺
8.25. メチル死 二名 中村
犠牲者すでに六名

昭和23.4.4.小高町岡田で天然痘
5.18.メチル禍

6.1.欠食児童増える 原町
6.2.かじめの食べ方 笹舟

23.7.民友野馬追広告
外科 内科 小児科 院長 田丸清
副院長 岡本正三
日 本
医療団 原町病院
分院 聖療院
電話一一二番

メチル禍と納豆中毒事件
戦後 昭和23年

8.20.メチル禍 中村でも
8.22.女もメチル禍
8.23.中村地方の赤痢
8.25.メチル死二名(中村)すでに六名
9.3.鹿島赤痢 中村署管内59
9.15.中村赤痢
9.22.メチル禍 田町

10.5.ヤミ納豆で中毒死
10.6.
10.7.
10.8.
10.9.
10.13.
10.7.
11.9.

7.14.原町にエビカニ食中毒
9.8.浜通りにウンカ蔓延

昭和23年

民友23.7. 野馬追広告 外科 内科 小児科 院長 田丸清 副院長 岡本正三
日本医療団 原町病院
分院 聖療院
電話一一二番

23.8.8. 偽医者に毒殺魔の疑い
23.8.11.原町に擬似患者 日本脳炎 報

昭和24年
12.10.県は原町 病院の取り合い

昭和25年
原町病院地元へ
地元と県が奪い合っていた県営原町病院はこんど正式に払下げることになつた地元の原町ほか二町九ヶ村では今後合議制でどう病院の運営に当り、その他の町村の健康保険組合も自由によつて診療契約を結ぶことにし、近く設置内容も充実して名実共に原町方部の総合病院として保険診療に当る
渡辺原町町長談 地元の要望が至って原町病院が地元に復元したことは喜ばしい限りだ、今後は総合病院として恥しくないように設備を充実してゆく
中村のコソドロ

友 市町村だより 相馬 ▽原町保健所では外来者の便をはかるため所内の改造を行い、これまで階下にあつた総務、予防、講習衛生、統計各課の事務室を二階に上げ、一階には診療室、保健婦室、レントゲン室などを設けた

昭和25.
1.27.中村で疑似天然痘
25.7.11. スマートな装いで中村病院誕生
四百万円の予算をかけた国保直営の中村病院もいよいよ曲田に完成、八日から開業した、中村病院の文字も真新しく白く清潔な二階建で総建坪百七十坪、病室は廿、レントゲン太陽燈燈波治療器など立派なもの

北原の聖療園 24–26年

戦前戦後に存在した遠藤シゲ女史経営の聖療園について。当時療養中だった北原出身の白石孝治さんからの報告。

手紙の中に北原の聖療園と云う文字が突然出てきたのでアラ、と思いました。むかし当所にわたしがいたことを小耳にしてのことかとも思いましたが。
ともかくなつかしい名前に消えかかっていた記憶をたぐりよせています。一九四九年九月から五一年六月までお世話になっておりました。特に遠藤シゲさんとおくさんの房子さんには本当に面倒をみてもらい、当時入手がむずかしかったストレプトマイシンなども米国の教会から現物で贈ってもらったものを使ってもらい大変助かりました。今でも忘れることは出来ません。感謝しています。剛雄さんはすでに亡くなっていたので、知りませんが子供がまだ小さかったので亡くなったのは終戦まぎわではないかと思います。子供は三人で長男の(トモちゃんと呼んでいた)方はあとで県職員になって郡山勤務になった時、須賀川に移っていたわたしを見舞ってくれたそうですが、病棟がわからなくて会わずに帰ったとか、あとで房子さんから手紙でそんなことをシラされたことがあった。女の子は恵子ちゃんと云っておりましたが、その下の男の子は名前を忘れてしまった。
シゲ子さんは北原の道路から入ってすぐ右のところに住んでおりましたが、房子さんは松林を入ってから池のそばに家を建てておりました。

創 立 昭和五年四月
創立者 遠藤剛男・遠藤直衛
所在地 福島縣相馬郡大みか村北原西木戸五番地

愛と熱による民間結核療養所
北原聖療園の沿革
責任者 遠藤しげ・遠藤房子
後 援 日本基督教団東北教区社会部
北米南加聖療園後援会
原町聖療園後援会

北原聖療園の沿革
北原聖療園は昭和五年春故遠藤剛男氏が結核を療養した経験から、幾多不幸な病者に療養の場所と魂の安住とを兼ねたサナトリウムを建設することを目的として自己所有の土地五千坪と私財とを投じて創立したものであります。
其の間種々の誤解、迫害、苦難がありましたが宗教的信念に燃へて、愛の奉仕を重ねて今日に至ったのでありますが剛男氏は昭和十六年不幸病に斃れ、その後を継承された厳父遠藤直衛氏も亦急死して、直衛氏夫人房子姉とがその志をついで経営の重責にあたって参りました。
戦時中経財的にも人的にも経営の困難に直面いたし、止むなく一時医療営団次いで縣の援助を受けて原町病院の分院として経営して参りました。
昭和二十四年春有志をもつて北原聖療園後援会が結成されまして同園本来の使命を達成する為めに之を後援することになり南米、北米の同胞にも呼びかけましたところ多大の同情者が起り、北米加洲には南加聖療園後援会が結成されて、その援助により昭和二十五年八月本舘(南加寮)が約五十万園の工費で竣工いたしました。然し近代的医療所としての設備を完備する為めにはまだまだ不十分であり種々心を砕いて居りましたが福島縣当局も聖療園の事業の重要性を認め又結核対策の必要上将来聖療園を法人化して遠藤氏を中心とする民間療養所として経営する事を条件として国庫補助と縣費を以てその増改築を敢行いたしました。
北原聖療園は遂に創立の精神である科学的近代設備と基督教的隣人愛の精神に基いて遠藤氏を主体とした療養所として独立することが創設者の遺志でもあり又地域社会の福祉を計る所以でもあると思ひその準備に当つて居ります。
同園の設備に注がれた費用は民間事業として独立する際は何等かの形でその一部を縣に返却し更に運営の万全を期して百床を保有する療養所を理想として居りますので、そのためには差当り二百万円の資金を必要といたします。幸に北米の後援団体として助成されることになり、各方面から有力な御力添へが有りますので力強く思って居りますが同園の沿革と現状を記して各位の御援助を切望する次第であります。参考のために現在の聖療園の概況をかかげます。

◎設備の概要
土地 約五千坪
病棟 四棟 三二坪(旧室)
〃  一棟 二七坪(十五床)    國、県費を以つて改築
〃  一棟 三二坪(二○床)    國、県費を以つて改築
〃  一棟 二○坪(消毒室を含む) 〃
炊事場  一棟 二七坪(調理室、賄人室を含む) 〃
廊下  一一坪           〃
本館  一棟 三九坪        後援会寄付建物
建物坪数 合計  一八八坪
二 収容概要
現在収容者数  四○名
収容延数  一○、八○○名(昭和五年以降昭和二十五年末現在)
一日平均収容者数  一五名
三 其 他
現在医療に関しては県の運営に委ねてありますが医療以外の左の事業を行って居ります
イ 売店 日用品を安価に提供する
ロ 養禽 鶏、家鴨等を飼育して軽患者作業並娯楽に資する
ハ 慰問 音楽、演芸等によつて患者を慰問する
ニ 伝道 基督の福音を伝へ、精神的安定を計る
四 今後の計画
イ 医療事業の他の後保護(アフター、ケアー)の施設を完備して、快復患者の保護及作業訓練を為す
ロ 療養希望者に土地を提供して療養の指導と便宜を与へる
ハ 生活要保護患者の保護施設の建設等
昭和二十五年現在

29.3.20.民友
市立原町病院 院長田丸清

歯令の会 原町歯科医師
広瀬護
板倉克良
羽生五百里
荒川幸喜
松永忠
山田由喜子
鈴木勲
河田励
高城スツイ

渡辺病院
県立相馬病院
原町市北原西木戸
電話四五六
山家病院
相沢医院

原町病院長から開業医へ
高萩医院
田丸外科
岡本

31年.
この年八月三日には古い教会員(下町教会所属)渡辺滝蔵の永眠があり、長老役員朝倉巌医師一家の東京移転がありまた若い会員、求道者の中央転出もあって、教勢は低下気味であった。
朝倉医師は石原医院の向かい側に在住。
(原町教会75年略史)

40.9.3.原町 疑似日脳

41.7.21.生ワクチン飲んだ幼女

44.6.28.原二小で集団赤痢 市 保健所 事実かくす
44.7.16. ピンチ 医師一人 小高町立病院

50.2.20. Rhマイナス型血液交換

54.7.13. 渡辺病院 相双地方初の脳外科開設へ

57.8.3.3年連続の赤字経営 原町市立病院

「やぶ医者ものがたり」わたり・むつこ

あぶくま新報・病院関係記事

79.ふりど循環器科
114.原町病院移転素案を提示
143.小高町立病院百床に増床
158.新渡辺病院10月2日から
165.原町病院増床問題
166.市立病院移転移転ゴーサイン
195.富岡に初の病院建設
216.猪又に産婦人科
228.猪又に歯科

はらのまち100年史

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