原町無線塔、朝日座など福島県南相馬市原町区(旧原町市)の文献を公開

はらのまち興行史・原町座・鹿島座・中村座・富岡座・小高座

原町の興行史

原町座の名を拾う

明治25年8月1日に福島民報が創刊された。8月16日付けの第16号に「行方郡原町通信(八月十四日発)」が載っており、そこに芝居座が間もなく建設されることが記されている。これが、原町座のことであろう。
〔芝居座 当町有志諸氏の計画になれる芝居座ハ九月上旬落成の見込を以て着々工事を進め居れり其資金ハ株主の負担にして落成式にハ頗る盛大なる式典を挙げんと意気込居れり〕
明治26年8月30日の福島民報に「原町に於ける相馬事件演説会」と題して、この当時全国を賑わしていた相馬事件をめぐる政談演説会が原町座で行われたとある。これが活字で確認できる最古の原町座という名の記述である。
明治29年2月27日民報に〔○原町の旧正月 行方郡の同村下町若連中ハ旧暦正月に入りて大に豊年を祈らんが為め田植踊を催す事となり過る頃より毎夜原町座に於て下稽古をなし〕という記事がある。明治30年には、幸田露伴の「うつしゑ日記」に、原町に到着した晩に、同伴者の乙羽という雑誌「太陽」の編集者が、原町で行われている芝居を見にいった、との記述がある。これも原町座のことだと思われる。
明治33年7月4日民報の野馬追の記事に〔○原ノ町の賑ひ野馬追見物の為め各地よりの人出非常に多く汽車の発車毎に幾千の群集入り込み一方ならざる雑踏を極めたり△停車場通りより原の入口迄は芝居見物小屋等隈なく両側に建てられ〕とある。
続いて7月26日民報の「相馬郡原町雑信」という記事に〔▲芝居 降雨の為め休業中なりし芝居興行は二三日来晴天とともに幕を開けしが中々見物人多く毎夜賑ひ居れり(廿四日)〕とある。降雨で休業というのだから、野外テントでの掛け小屋の芝居興行だろう。

明治33年11月15日 相馬大射的会 原町射的会場云々

明治34年9月3日 女義太夫 原町座

明治34年9月3日の民報に「原町座で女義太夫」が行われたとある。
〔女義太夫相馬郡原の町なる原町座に於て興業中なる竹本一九一座の女義太夫は初日よりの大入にて毎日木戸締切の盛況なりしにより更に二十日盆迄延べ興業の由なるが何れも其道に堪能にして聴衆を喜ばせりと〕
また明治38年7月26日民報には〔○機業工男女奨励会去る廿三日午後一時相馬郡原町座に於て原町外四ケ村連合機業工男女奨励会開会〕とある。
明治40年7月、民報の久保蘇堂という記者が原町を訪問し「非、避暑旅行」という随筆に次のような一節を描いている
〔▽十四日は午後より小高に入るべき予定なりき然れども、佐藤徳助(町長)佐藤政蔵(青年会長)氏等の切に勧むに任せ其夜原町座に青年音楽会臨時演奏会を聰く〕と。

さらに明治43年8月22日民報。
〔○原町青年音楽会/既報の如く相馬郡原町青年音楽会は去る十八日午後六時より原町座に於いて開会したるが場内場外は紅提灯を以て装飾し聴衆無慮五百名会長佐藤政蔵氏喝采場裡に開会の辞を述べ終れば江川夫人のオルガンに連れて場に登れるは日曜学校の少年隊『これは私しの』のと無邪気なる遊戯続いて花の如き少女隊の合唱あり江川夫人の独唱、渡辺夫人の門生、水越姉妹、桜井、松清、藤崎、志賀、小野、小田諸嬢の琴に太田夫人の三弦合奏、酒巻、小野、中江、佐藤四氏の謡曲(夜討曾我)斎藤太田両氏の尺八合奏(追分、流山)等何れも其堂に入れるものにして聴者に非常なる感動を与へ余興には岡和田氏の五目講談衆の臍を解き太田遠藤両氏の浪花節、竹野、丸川両太夫の義太夫等聴衆に無限の満足を与へ午後十一時三十分閉会したるが同会の役員佐藤政蔵、門馬、岡和田、松本、佐藤(徳)、青田、村井の諸氏終始斡旋尽力したり〕
明治の御代に、原町座の名が新聞に出てくるのは、こんなものだ。

大正4年3月22日の福島日日新聞。
「押川氏大いに演説す 原町にて19日原町劇場で 小高座で」
という記事がある。劇場は政治演説に音楽会に、と活用されていた。
大正4年
3.19–20 押川候補の政見発表演説
鹿島の政見発表 高松候補
3.21.中村町に於る押川氏演説の大反響
3.22.押川氏大いに演説す 原町にて19日原町劇場で 小高座で

大正6年12月9日民報。原町座空前の賑わい
原町座での芝居興行について仄聞できる記事もある。
大正7年7月2日民友「相馬原町芸妓のお芝居」という記事。
〔相馬郡原町芸妓連は予て演劇実演の稽古中なりしが愈今廿一日より同町原町座に於て同町約三十名の芸者出揃ひ芝居を為すべく其筋に出願許可されたるが但し観客を楽屋等に引摺込むに於ては芸妓取締規則違反で厳重処罰を為す由〕
石井製板所も興業の広場

大正7年9月20日
○原町の大相撲
◇京坂の合併相撲が
◇廿五六両日立つ
石井製板所側の広場にて
小屋掛の準備中なり

9月24日 中村の相撲

大正9年8月31日福島民報に、「芸妓久松」(本名カツ)という女性が、巡回中の活動写真座長と駆け落ちして、巡業先の原町にやって来たらしいことを報じている。一座は東京西沢興行部。娘の身を案じていた両親のもとに旅先からカツの手紙が届く。〔「男の甘言に迷ひ家出の罪を詫び今は男の為に虐待され日々涙に暮れつつ旅を〇ひ居る」旨申し来りしより父善一郎は大に驚き 西沢活動写真の跡を追ひ青森に至りしに同一行は本県原町に興行の事を聞き原町へ来りしに一行は白河へ立ちたる跡なりしかば・・〕
この活動写真一座の興行が、原町座という小屋で上映されたのか、テント小屋での上映であったのか不明だが、このような形での映画の巡回興行が原町でも行われていた様子が伺われる。
大正9年10月10日の福島民報に「劇場で金時計」という記事が載っている。
〔原町字町蹄鉄工場徒弟鈴木儀網(二七)は去月廿八日夜原町座に芝居見物中金側懐中時計(四十円)を拾得原分署に届出しに落主は同町土木請負業白尾卯三郎妻白尾ソメと判明したり〕
白尾卯三郎という名には見覚えがある。拙著「原町無線塔物語」を捲ってみたら、あった。磐城無線電信局原町送信所主塔つまりコンクリート製の二百メートル電信塔を逓信省から請け負った東洋コンプレッソル社の、そのまた下請け負いの代人の名である。
東洋一の無線電信柱を建てるというので、政府の仕事としてこれを請け負った当時の土木屋さんは景気がよかった。金側時計とはまた豪勢な。
現場をとり仕切る親方の奥さんは、芝居見物に出掛けて、そこで金時計を落としたという訳だ。芸物、巡業の活動写真一座、芝居小屋という状況に、原町無線塔の建設請負人の妻が登場し、何やら彷彿と景気のよい当時の原町の様子が想像されてくる。
大正10年は磐城無線電信局、原町無線塔の開局式の年であるが、この開局式の日に、無料映画会が開催予定されているという記事もみえる。
大正10年6月17日民報「原町無電局の祝賀は来月三日と確定 野馬追は勿論飛行機も来て来賓八百余名」という記事の中に〔又各所に無料野外活動写真を映写し観覧させる等同町空前の計画を樹ててゐる〕とある。当日の記事には、活動写真映写のことは記していないので、これは計画倒れだったのかも知れない。
大正11年8月24日、「活動写真会 広野村同窓会 22日六時三十分より 同村小学校で四百名以上盛況〕8月26日には「原町座に上映〕と報じているのは当時の宮城県小学校女教員の殉職美談。

小野訓導活動 原町座に上映

〔曾て(かつて)教育会(界)の美談として唄(謳)われた故小野訓導の実写活動写真は二十日より三日間原町座に開演された故女史はいかに愛童心に富んでゐたか人情溢るる如きその美徳ある殉職には観衆皆袖を連らねて涙を絞らざるはなかりき〕
(大正11年8月26日福島日日)

「原町演奏大会」
〔既報の如く原町新人会主催のポーランド孤児救済資金募集の為め来朝中の同国人ハリスキー氏を聘し十三日午後六時より原町座に音楽大演奏会を開催したるが非常な人気を以て迎ひられ定刻前早くも木戸〆切の盛況を呈したり副会長小林勉氏は開場と同時に開旨を述べ直に演奏が開始された同氏独特の自作に係る曲目は演奏毎に微妙な楽の音は次第次第に佳境に入り聴衆拍手鳴り止まず午後十時盛会裡に閉会した尚此日の入場者一千余名に達したり〕
(福島日日 大正11.1.16.)
翌12年の7月に、旭座が誕生する。また中村に新開座(または新町座)が誕生した。

旭座の興行

大正13年8月23日民報。「原町の東家楽興燕 浪界の第一人者東家楽興燕は廿一日、二の両日原町旭座に廿三日中村新開座に開演したるが何れも好景気である」
大正13年8月23日民報。相馬郷土芸術振興会が発会し、旭座で
14.3.28.鹿島の民謡大会 高田清に金側時計

中村座・鹿島座、小高座の記録

中村座の名前は、明治30年代の福島民報などに見ることができる。書生芝居や政治演説会の会場としてである。
相馬市史の年表によるとお隣の鹿島町では大正3年(1914)「鹿島町に鹿島劇場できる/電灯つく」とある。鹿島座は明治26年にすでに存在して幻灯会を開催している。
そして大正4年「二月十六日・磯部村蒲庭の金子松次郎宅で幻燈会が行われる〕(「蒲庭郷土誌」より)などとあり各町村でも幻燈会がさかんに行われた。(相馬市史年表)

大正3.福島新聞
7.11. 小高座のえんげい 東京歌舞伎大一座市川紋次一行十八番元禄義士快挙銘々伝

大正3年9月13日「中村座の活動」
〔■中村座の活動 英国エクエル会社マニラ支店、マニラ活動写真は九月十二日午後六時より中村座に於て開演フィルムの重なるものは三国同盟大戦争斥候の苦戦三国同盟の撃戦陸海軍三国同盟海軍大戦争新派大悲劇恋の夢等にして頗る長尺の物なりと因に木戸下足共大人十三銭中学生九銭小人六銭〕

大正4年11月3日「中村座の活動」
〔▽中村座 仙台活動写真後援会なる仙台仙集舘活動写真は来る九月二十五日より新写真を入れ替へ来る三日より中村座に於て開演の筈なるがフィルムの主なるものは泰西大活動写真劇高圧電流史劇メキシコの古訳旧劇佐倉義民伝、泰西大活劇黒手組等他数番ある〕福島日日。

11月16日「中村町たより」
〔演劇界 仙台パテー舘活動大写真は来る十六日より中村座に於て開演のはずなるがフィルムは而かも新派なを(ママ)御即位御大典の盛況を観覧に供する由木戸大人十三銭小人八銭尚中学生は九割小学生が六銭なりと〕福島日日。

大正4年9月8日鹿島座、11月22日鹿島座広告 小松商会などの記事がみえる。福島日日。

〔活動大写真開館
来ル二十一日より 磐城鹿島町 於 鹿島座
同 二十四日より 中村町 於 中村座
十月二十日より四日間弘前に於ける特例大演習の実況、日本新派女飛行家、泰西悲劇墓前の秘密、泰西喜劇雪と火、少年探偵ボビー、日本名所花廻り
大々勉強 木戸 大人十銭、中学生八銭、小人五銭
東京 小松商会〕
(大正4年11月22日福島日日)

大正5年7月12日の民報には「中村の中村座が活動写真の常設館になった」とある。
〔■中村座 相馬郡中村町中村座にては十一日野馬追祭典執行当日より東京小松商会と特約し活動写真常設館となりたるが映画は旧劇大江山酒天童子を呼物として其他新派劇物 喜劇数種なりと〕
小松商会というのは大正初期の映画会社の一つである。
〔福宝堂の一派で、小林、山川らの東洋商会へ行かない人たちを招いて、東京市外高田馬場の戸山ガ原近くに仮スタジオを建て、ここでドサ廻りの安直映画を作り出したものに小松商会というのがある。これはもっぱら縁日やモノ日をあて込んで地方巡りの天幕興行に歩く巡回興行者小松幸太郎が、たまたま十数巻の古い外国フィルムを手に入れたことから、この映画製作をはじめたもので、脚本兼監督に田村宇一郎、カメラに杉山大吉を招いてこれにあたらせた。同商会の直営した浅草館が開業したのが大正二年四月三〇日で、この時から彼らの映画が公開された。〕(日本映画発達史1)
活動映画は、当時の新娯楽であり、民衆は珍しさに足を止めた。
大正の歴史の主舞台はヨーロッパである。新聞は大正3年以降、激戦を伝えはしたが遠い欧州でのこと。新しい兵器や、戦況が詳しく報じられても、被害はない。むしろ高見の見物のごとし。戦争のきな臭い記事の下には、必ず新しい映画の紹分記事があった。

大正5年福島新聞
10.20.小高の女相撲
原町の女相撲
10.18.浮かばれぬ原町芸妓

大正6年記事より。
〔演芸
活動常設 中村座
相馬郡中村町活動常設中村座にては来る十一日野馬追祭日なるを以て写真全部差替なるが其フィルムは旧劇血染の纏(全三巻)新派悲劇琵琶歌(全三巻)泰西大活劇死の乗馬(全三巻)喜劇ポップスの舌叩き及び木乃伊の進物実写夏のケレト当日は昼夜二回開館すべしと〕(6年7月10日民報)

大正7年1月1日民報には、第4面が相馬地方の新年広告にあてられており、この中に堂々たる中村座の枠がある。
その陣容も九名の氏名を列挙し、充実している。
〔相馬郡中村町
活動常設中村座
舘主畠山智正
日本活動写真株式会社
中村座
事務員小林宇三郎
技師石田彦一
興行部
主任 西川武
弁士 長尾 新馬鹿
同 宮川桂洋

新加入 菊住華香
楽長 斎藤豊次郎
技師
助手佐藤義夫〕

「中村座の時鶴」(大正7年3月5日民報)という記事に当時の料金が出ている。
(相馬郡中村町中村座にて来る六日より四日間長谷川初五郎立谷彦八の両名建元となり東京名代中村時鶴一行を招き華々敷春興行を開演する筈なるが一行若手揃の事とて非常に人気好く木戸銭は大人二十銭小人十銭特等大人三十銭小人十五銭なり〕
「活動常設中村座」同紙面に当時の映画上映の作品名が出てくる。
〔相馬郡中村町活動常設中村座にては去る二日より全部写真差替たるが今週は特別写真にして其フェルム(フィルムを相馬弁で発音するとフェルムになる)は次の如し
旧劇松平外記(全三巻)新派たぬきの白糸(全三巻)泰西活劇うはばみ賊(全三巻)喜劇球闘会(一巻)其他〕
「演芸・中村座」(大正7年4月2日民報)
〔相馬郡中村町常設活動館中村座にては去月三十日写真全部差替えたるが今週の写真は左の如し
旧劇怪僧伝達(全三巻)新派悲劇島の娘(全三巻)探偵大活劇四入組(全三巻)喜劇氷屋(長尺)〕

大正7年5月11日福島日日。
〔▲中村座特別興行 相馬郡中村町活動写真館中村座にては十日開館の特別一周年に相当するを以て記念の為め特別大興行を為す筈なるが三日間に限り木戸大人二十銭小人十銭のものを割引券持参に限り大人十五銭小人七銭にて入場せしむべしと而して今周(ママ)のフィルムは左の如し
新派徳田秋声作□□(全八巻)西洋活劇疑問の侯爵(全四巻)喜劇引張り凧(一巻)風景サマルカンド旧寺院(長尺) 〕

11月22日中村座 23~旧劇松之助出演「狐騒動」(全三巻) 新派「乱れ菊」西洋活劇「判事の奇行」「喜劇「象の取持」(長尺物)実写海軍大実習 11月25日~活動写真替〕福島日日。

12月5日「中村座楽士見習募集」広告
資格は高等小学校卒業程度 年齢は十五歳から二十五歳まで。福島日日。

大正10年1月8日「小高大火の二十三年忌 新派喜劇招聘 小高座で寄付集め木戸無料 1月5-6日」福島日日。
かくの如く、こんなプログラムで大正の相馬人たちは楽しんでいたのである。

相馬今昔

松岡重信著「相馬今昔」には、古き良き時代の娯楽についての回想が描かれ、その中に中村座の描写もある。
〔本来は敬神崇拝の厳粛な祭りが、子供にとっては、年に一度のサーカスや見世物、人形乏居や綿飴、お菓子屋の出店などが立ち並び、浮き浮きして小遣も貰って使う楽しみな日でもあった。四月十八・十九日の氏神中村神社のお祭りは桜も満開である。まず妙見神社に参詣して、片手に小遣を握り、柳馬場へと向かう。柳馬場とは会津屋裏の第一運送の前の河原敷広場である。今でこそ堤防が築かれ、狭い空地だが、名の示す通り昔は馬場の練武場でもあったのだろう。丁度今の野菜市場は中村座という活動写真館(映画館)である。芝居も演じられた。
常舞台と呼ばれ、町の唯一の娯楽殿堂である。升型の桟敷造りで、下手に花道もある。
無論、活弁で弁士はスクリーンの右端の机で赤い豆電球の下で画面を見ながらの熱弁を振るう。スクリーンの前は楕円形の穴になっていて、楽隊が陣取り、画面で剣戟がはじまると、それに合わせ、クラリネツト、ラッパ、太鼓等の演奏が始まる。なかなか迫力があり聴衆は手に汗を握り、画面に釘づけになる。幕の合間に「エ一ッおせんにキャラメル」と売り子がくる。なかなか風情のある映画館であった。話は横にそれたが、映画館の前から大橋のたもとまでは、ゆるやかな河原で、大きなサーカスのテント、見世物小屋(蛇女、ロクロ首、人形芝居、地獄楽)、オートサークル(大きな樽筒をオートバイで上り下りする芸)、柔道と拳闘の国際試合、果ては、エチャーイ、エチャーイの掛け声も勇ましい女角力など、ずらり珍しい見世物を並べる女角力は今の女子プロレスの様で、パンツの上に褌をかけきわどい技の応酬で若い兄さん達の目は爛々と輝やく。サーカスは物悲しい。木下サーカス、キグレサーカス、有田洋行会など奇妙に今でも名前を思い出す。〕
大正8年4.20.中村全町両日間賑ふ
春祭りに種々の催しありて川原町には活動写真見せ物等は数カ所設けられ

中村の町中を流れる宇多川にかかる宇多川橋は、野馬追祭の日には騎馬行列が通行するため、橋のたもとは見物人たちの絶好の見学場所である。
明治42年に撮影された絵葉書の構図の中に、橋のたもとの当時の伊勢屋旅館が大きく写っており、中央から左手にかけて中村座の場所である。伊勢屋旅館は昭和初期に林不忘が「丹下左膳」の取材のために中村町に来訪し滞在していた。その映画化された丹下左膳も中村座で上映されたであろう。映画とはよくよく縁のある場所なのだ。

中村新開座も大正12年開館

相馬中村の新開座は、原町アサヒ座の開館直後に、追いかけるように開館した。
(大正12年7月7日)
新開座の工事
相馬郡中村町新町に新築中なる劇場新開座は座主荒山信治氏を請負人米倉平松氏との間に紛紜を来し工事を中止し居たるが今回圓満に解決し再び高次に着手したるが来る八月初旬に落成し同十日花々しく開場式を行ふ予定である〕

しかし、経営は開館当時から順調ではなかった。

「開場出来ない中村の劇場
閉場一年有余
前管理者荒山一派の策謀のため新築当時より紛争絶えない中村町新開座劇場は一年有余の閉場にて殆ど立ち腐れ同様となり付近商家も火の消えた様にひっそりとして居るので持主たる中村町米倉平松氏は付近商家の現状に同情し一日も早く開場すべく一大修繕を加へ今にも開場出来る様に準備全く出来上がりたるも荒山との係争は今なお落ちつかずここしばらく手控えの状態なので執念深き荒山一派は一般から爪はじきされているが中村町民は新任蔵車警察部長の裁断を刮目して待って居る〕
(大正15年7月4日)

昭和5年7月19日民報
新開座 相馬郡中村町新開座において目下開演中日本劇春家昭一郎一行の中村町氷水店卸御得意慰安観劇大会は十五日見る観客満員の際二階桟敷に観覧中の曲町新町清水サダ(二五)が汗を拭いてゐる中同伴の長男一郎君(三)手摺に寄りかかりゐたが手を滑らし真逆様に階下の花道に墜落人事不省に陥ったので付近の医師に担ぎ込み応急手当を施し蘇生したが開演中のこととて大騒ぎであった

昭和2年12月13日朝日新聞
「劇場と寺院 松ヶ江村の珍事」という火事の記事が乗っている。
相馬郡松ヶ江村大字大釜劇場原釜座から十一日午後六時二十分頃発火し同劇場を全焼さらに隣接する寺院騒擾取院を全焼漸く七時鎮火した原因は同劇場で活動写真会を開催の準備中の漏電らしく開会前だったので観客は一人もなく幸ひ負傷者はなかった損害調査中
浪江座と神谷キネマ、岩間キネマ

浪江座は明治41年の誕生。島田有造氏「私の知る「浪江の映画史」という手記によると、(浪江座は明治四十年代に当時町の有識者によって建設の話が進められて、翌年の四十一年に一株五円で株主を募り、建設費が八〇〇円で立派に落成し、演芸場として開場されたものであります。落成祝として東京より歌舞伎芝居を招き、柿落しを盛大に行われ、この芝居を公演して結局収支決算で二〇〇円の欠損金が生じ、一〇〇〇円で創立したというわけです。
爾後「浪江座」は丈舞台とよばれて親しまれてまいりますが、この丈舞台とよばれた理由は、歌舞伎役者の敬称として何々丈といったところから、この丈と呼ばれる役者が演ずる舞台なので「丈舞台」と呼ばれるようになったのが発祥なのです。
この丈舞台で「活動大写真」がいよいよ登場するようになったのです。そのため階下中央に映写室を増設されて公開をするようになったのは大正末頃から昭和初期にかけてであります。私の記憶では、昭和二年松竹蒲田の作品で「女給」と題した写真です。この頃の入場料(この頃は木戸銭という)は大人が十銭から二十銭、小人は三銭から五銭だったのです。「女給」の活動写真は大入満員、この頃として二〇〇円の興収はビックリしたそうです。それだけに映画は昔から娯楽の花形だったようです。
この頃は浪江座で公演する催物は月に五日から十日位のものでこの中映画は二・三回の上映だったのです。活動写真といっても業者あって、劇場との契約によって巡回上映したのです。この業者は原町に神谷キネマと岩間キネマが在って、後年には平館巡業部も加入するようになります。
神谷シネマは本町加倉の出で、主宰する神谷豊次郎氏は神谷に婿入りした温厚な人でした。加倉の神谷ということもあって浪江では神谷キネマの巡業を受入れて公開したものです。業者は映画会社と契約して上映地域の決定をして上映の権利を有し、巡業したものなのです。従って浪江座でも歩含制により契約をして皆さんに提供したのです。(中略)
浪江座では人気のあった弁士は、現代ものでは大森双石(ご存知の方も多いと思います。大堀村長をやめた森茂氏)、一方時代ものではなんといっても春日小楠(原町から富岡町に移住した人)の両者だった。この二人の宣伝をすると必ず満員盛況だったのです。
この時代は時代劇が割と多かったので俳優陣も多くの名優がいた。河部五郎・市川百々之助、阪東妻三郎、片岡千恵蔵、大河内傳次郎、嵐寛寿郎、市川右太衛門、月形龍之助、林長二郎(長谷川一夫)、阪東好太郎、沢村国太郎、沢田清などと、女優では柳咲子、伏見直江、粟島すみ子、川田芳子、沢村貞子、水谷八重子、山田五十鉛、入江たか子といったところ。現代劇では鈴木傳明(いわき市出身)・岡田時彦・中野英治・岡譲二・新人では滝口新太郎、当時映画界と世間を騒がせた、ソ連に逃避行した岡田嘉子、名花として人気のあった田中絹代、三宅邦子、飯田蝶子、浦辺粂子、吉川満子と顔ぶれを揃い、ファンを魅了したものです。
浪江座では月に五日から十日位の催物の中で、映画は二、三日位のもので、すべての開催でも同じですが、特に映画の開催当日は宣伝のために町廻りと言って、楽隊を繰り出して町を一巡宣伝したものですが、この町廻りに欠かすことのできないのは旗持ち少年でした。「神谷キネマ」などと染め抜いた旗を坦いで楽隊の前後にならんで一緒に歩くという大役だったのです。これを募集すると多く希望者が先を争って集まったものです。
私たちが子供の頃の小使い銭は一日一銭か二銭位でした頃、この旗持ちをするとこの日の催物は無料で見られ他に五銭を贈られるという魅力ある待遇があったからなのです。この他にチラシを配る少年二名が必要、こちらはボス的存在の少年が担当、そのかわりに旗持ち少年の募集に協カするという条件がついていたのです。こうして一隊を組んで誘客につとめた時代もありました。(中略)
宣伝にもいろいろと苦労をしてアイディアを出し合い工夫をこらしたものです。夜の町廻り、行灯を作り宣伝文を書きローソクを点し背負わせ(これは大人)楽隊と一緒に廻ったり、木箱に細工をして、題名と上映日が印のようにおすことのできる物に石灰を入れて道路のところどころに印をしたことなど奇想天外なことをやったものです。また一方では開催日毎にタ方打ち上げ花火で開催の周知を図り、考えた末にこそ花火の中にスポンサー付きの落下傘を入れて打ち上げ、これを持参した人には、開催物に無料招待して、店よりの記念品を贈るというようなことも盛んに行ったものです。〕
浪江座の公開は殆ど夜一回の開催ですから活動写真などは、二本立、三本立になると、午後十一時頃までかかることが晋通だったのです。初期の頃は五〇〇ワットから一〇〇〇ワットの電球で映写したのですから今から見たら暗い画面でしたが、それでも画面は大きく、人、物とも動き生の音楽にのせて名弁士によって涙も笑いもあって感動したものです。もはや生活の中で欠くことのできない娯楽の一つとなったのでしょう。〕

富岡座は大正5年開業

富岡町の劇場 近く落成せん
双葉郡富岡町にては是迄劇場の設けなく其都度掛小屋をなし芝居等を開演するの有様なりしが斯くては町の体面を傷つくるものなりとて四五の有力家が発起となり劇場新築中なりしが過般の大火の為めに工事の進行大に遅れたるも棟梁鈴木長太郎氏の昼夜兼行の働きにて目下着々進行不日落成の運びに至るべし〕

福島日日大正5年2月17日
富岡町の活動写真
双葉郡富岡町有志間にては今般東北地方の活動写真中尤も好評を博しつつある仙台市錦輝舘より招聘し当る十六日旧十三日より同町新設公会堂大広間に於て開演重なる写真は旧劇新派悲劇欧州戦争実写其他西洋劇滑稽数種にして旧劇には娘義太夫の出語にて入場料は大人十五銭小人十銭なるべし

公会堂大広間で開催というのは、劇場待望の与論であったかも知れない。

「市川九団次一行乗込み
富岡座舞台開き
三十日より三日間開演」
双葉郡富岡町有志大原久平治、大原元治郎鈴木兵弥加藤伊惣治菊地喜久雄の諸氏は同地に劇場の設立なきを遺憾とし本春三月より三千円を投じ一大劇場を新築中なりしがいよいよ此の程偉大なる建築成りたるを以って舞台開きとして東京より名優市川九団次一行を千有余円を投じて招き来る三十日より来る二日迄三日間開場するに決定夫れぞれ準備をなしつつあるが幸ひ地方農民は、時期今や農繁期を一時免れ居り殊に養蚕後の金融宜敷を得居る事とて前景気盛んなり〕
(福島日日 大正5年6月28日)

大正10年10月13日民報
十日市 十五日秋祭りなので「青春の夢」上映で蓋開け 富岡座

大正14年12月7日福島毎日。
富岡座 五日より新派「白河」旧劇「鞍馬八郎」喜劇弥次喜多その他を上映〕

昭和3年12月4日 新聞
富岡町恵比寿講市のにぎはひ
一日より三日間
大森興業部の活動写真等は朝から晩まで大入り満員〕

福島毎日 昭和2年
6.30.仙鉄局の新しい試み 野馬追祭を絵巻物にして

大正14年12.11,石神活動写真会 石一小
福島毎日。
大正15年1月20日
チャリネ劇団から窃取 原の町に開演中 福島毎日。

大正15年2月9日
孝子掃不関三君 いよいよの映画になる 幾世橋村に出張 福島毎日。

6年民友
原町少女劇団 舞踊
原町人事相談所の救済基金募集の目的で在町記者団後援のもとに九十の両日原町旭座で開催した少女劇団の舞踊劇に多大の人気を博し毎夜満員の盛況裡に終了を告げたが収益四十余円を人事相談所に寄付する事となつた

昭和8年民報
5.4. 軍事講演 映画大会 浪江
6.13. 鹿島町民大会 鹿島座

2.7. 民友 相馬農校 鹿島座で映画会
2.13. 中村映画会
2.23. 結核映画 中村
2.28. 映画 中村

4.7. 衛生普及映画 原釜熊谷座
11.23. 中村で映画
12.9. 浪江産婆映画 六日六時から浪江座で
12.10. 中村映画
12.11. 活動写真会 飯豊村青年団では廿三日午後六時から

昭和8年
7.12.
衆楽園の興行街 軽業や見世物小屋で賑はん

昭和9年

昭和10年
野馬追
花火とオートバイ競技

10.5.30.民友 双葉相馬まで伯国移民映画と講演会 6.7.
10.6.6.民友 伯国移民映画 中村で

昭和11年
原町の秋市終る
衆楽園の伊勢川レビュー団も天幕を取り外すなどの大手違ひを来たしたので爾余の露天も店を広げているといふにすぎぬ有様で気の毒で夕さればイルミネーションのみが明く街を照らしてゐた
11.12.2.

昭和15年
15.1.26.民報 小高座で映画会 遺家族慰問25日午後一時 郷軍分会主催

15.2.6.民報 相馬民謡競演会 HKで放送テスト 新開座で15日

15.4.12.民報
映画と音楽の夕
中村町ワイ・ユーシネマ部主催の映画と音楽の夕は十六日午後六時新開座に開催する映画は日活特作春日井梅鶯口演浪曲映画「乃木将軍」その他音楽はエステイ、ビーアンサンブルのジャズである

15.8.11.中村豆ニュース 中村座 東宝契約 復活
15.10.8. 民報「楠公夫人」
15.11.7. 民報「楠公夫人」ロケ
15.11.28.民報「楠公夫人」配役
15.12.21. 民報「楠公夫人」完成

15.6.12.民報
映画になる相馬の村々
厚生省から大羽氏来郡

既報厚生省では将来における国民の健全なる人的資源を培養する高遠なる理想の実現と現在優秀なる作業工程を以て銃後産業の生産確保に邁進しつつある実情を映画化してこれを全国に呼びかけるといふ極めて放胆的な而かも官僚ばなれのした親土気分百パーセントの「村の保育所」仮称と題する映画作製を目指して厚生省社会局児童課大羽昇一氏は東京理研科学株式会社映画班を引率した九日相馬郡小高町に乗り込み十日から県の指定による金房村小谷部落の共同作業の田植、養蚕の実況及び農繁時に乳幼児の保育の実際、応召兵家族の留守宅状況、戦死者遺家族の実情、更にそれらを巡る銃後後援の勤労奉仕等々の農村シーンを映画におさめたが村よりは助役佐藤磐氏、校長豊田秀雄氏等参加し銃後戦士の一員としての一役を買って演技に参加した演出担当は山口晃監督、カメラマン石川○○、
古矢正吉、海老澤龍三の三氏で汗だくだくの熱技を撮ってゐた、因に映画班一行は十一日金房村の撮影を了り十二日より双葉郡幾世橋村、更に十五日相馬郡大野村を映画化の予定であるといふ
山口監督は
無技巧な農民たちを映画化することは、出来た画面が自然で真実に充ちて力強いものが出来ると思ひます。ロケーションもいろいろな条件に恵まれて面白いと思ひます。明日は遠い汽車の煙りを取り入れて此村の位置を示しておきたい
9.18. 伝統誇る練武 映画化したヨイ子 隣邦へ 中村二小
9.21. 馬事映画会 相馬郡保護馬鍛錬会では日本馬事会と提携して時局講演会と映画を十月上旬左の日割で開催 五日太田、六日大甕、七日高平、八九日石神、十日原町

朝日17年
10.7. おらが「活動」に 福浦村にわっと歓呼

はらのまち100年史

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