原町無線塔、朝日座など福島県南相馬市原町区(旧原町市)の文献を公開

原町飛行場整備軍属新妻幸雄さん。

新妻幸雄整備員水戸戦技学校時代の新妻整備員。

原町飛行場整備軍属新妻幸雄さん。

山本隊長以下勤皇隊の12機とフィリピンまで同行し、特攻出撃を見送った整備軍属たちは12人。その一人だった新妻幸雄さんは90歳。大正14年生まれだ。高平村生まれ。高平小学校高等科を卒業した14歳で太平洋戦争の当初に原町陸軍飛行場に軍属として就職。整備係りとして働いた。原町飛行場は熊谷飛行学校の分教場として開場したが、翌年の水戸戦技学校と戦闘機専門の明野飛行学校の時代を経験した。さらに鉾田飛行学校の原町飛行場整備員として、特攻隊「勤皇隊」の二式複座戦闘機の少年兵増田伍長の機付となって、フィリピンまで同行した。その行程は、山本隊長が母親への形見の軍隊手帳に記した手書きの地図のとおりのコースである。

勤皇隊二瓶隊員の日記

勤皇隊二瓶少尉は、青森の下北半島田名部(むつ市)の出身。戊辰戦争に敗れた会津藩が下北に移封され、斗南藩三万石を名乗ったときの会津藩士の子孫。特攻出撃直前の十二月五日、父宛に次のような手紙を出している。

「原町を出たあと台湾を経由、十二月三日フィリピンに向う。空輸間、降りた飛行場に於いては、特攻隊に於いては、特攻隊の名において生神に対するようなもてなしを受ける。ただただ感激し、必ずや撃沈との意気に燃えております。私の飛行機は五号機ですから、映画にでもでたら武者ぶりをみてくださう。このあと戦地からの手紙は着かぬかもしれませんから・・・・・。」略

新妻整備員の思い出。
マニラに着いてから、米軍の猛爆撃の洗礼を受けた。特攻出撃を見送った後に、もはや彼ら整備員たちのカエル飛行機はなかった。海軍の重爆撃の帰還に拾ってもらって、からくもフィリピン戦線から日本本土まで帰り着いた。途中、台湾から中国本土を経由して帰ったという。
日本についてすぐ、年末の12月のうちに兵士として入営させられ、鉾田飛行場の整備兵として、あらためて「兵士」となった。

はらのまち100年史

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