浪江町と合併する前の津島村には戦前からかつては国鉄バスの磐城津島駅があって、駅長、助役、技工士、運転手、車掌など大勢の人が働いていた。駅舎が何時出来たのか定かではないが、昭和9年に国鉄バスが開通したから、その時だろう。敷地は今野洋一氏の先祖が提供したと聞いている。昭和15年には戦時の経済ひっ迫のためトラックやバスがガソリンの欠乏で木炭エンジンに改造されたから、大量の木炭や薪が積まれていた。
 今野洋一氏の手記によれば、
 「駅舎には、修理作業場、駐車場、薪の保管場所があり、国鉄のトラックが常駐して貨物も扱っていた。駅舎の後ろに職員宿舎があり、学校を除けば地域内で見ても立派な建物だった。ほとんど満杯に埋まっていたが、松川事件の頃にレッドパージがあって組合員が整理され、また自家用車など交通機関の発達に伴って次第にこの体制は崩れていった。
 駅舎の思い出として記憶に残るのは、映画館として利用されたこと。私が最初に見た映画がここで上映された。今思えばミュージカル形式の無声映画で、題は「狸御殿」。何故か弁士はつかず、画面だけが動いていた。
 その駅舎で火事があった。内部は殆ど焼け落ちたが、鉄骨・モルタル造りの外観は残され今に至っている。その際の原の石井恒雄さんの武勇伝が語り草になっている。恒雄さんは、燃え盛る建物内に飛び込んで、燃料などが入っていいるドラム缶を運びだしたのだ。しかし、全てを運び出すことは叶わず、残された燃料・オイル・グリースなどは爆発し、その音は凄まじかった。私も瓶にグリースを詰めて盗んだのだ。」と今野氏は懐旧する。

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