日露戦争と活動写真

福島県で初めて日露戦争のフィルムが上映されたのは、開戦した同じ明治37年のことで、ほかに東京の業者も興行したが、地元では福島の吉田佐次郎という侠客がこれを実行したのが最初だ。
吉田は、花月楼という料理屋を経営する博徒であったが、未曾有の国難に起った日本軍に共感をおぼえ、最初、戦争に従軍しようと希望したが容れられず、同じ博徒の伊藤某と福島侠義団という団体を作り、発憤して東京にのぼりリュミエール映写機と日露戦争の実況フィルムを買ってきて福島と周辺で巡回上映した。国のためにつくしたい、という素朴な義侠心から、軍関係の団体や孤児施設に収益金を寄付した。
これは明治43年に賭博の罪で捕縛された公判で、吉田が弁明した陳述によって明らかになった。これ以外に、吉田の青年時代の経歴は皆無だ。
興行を成功させるためには、各種の団体に呼びかけたがその中に軍事義会というのもあった。
福島新聞明治37年11月26日にこうある。

〔軍事義会と活動写真  前号の紙上にも記したる如く福島軍事義会に於ては今回侠義団吉田佐次郎と協議し同人が今回東京より斬新なる活動写真一千五百尺を購入し来れるを幸ひ福島座に開催し出征軍人家族援護寄附金を募らむと云ふ同義会は開戦以来出征軍人の家族救護並に通過軍人に物品供与其他に頗る尽力せるを以て要すべき費用も些少ならず支出のみ多くして収入の途薄きより維持方に困難を生ずるは当然にして同義会長始め役員会等は維持方法に心を労せられつつありしが吉田佐次郎は開戦後専ら国民後援の実を挙ぐるに努め活動写真器を自費にて購入し各地を巡遊して健忍持久の精神を鼓舞しつつある由を聞き同氏と協議し写真会を催ふす事となりしと会期は廿六七の二日間なりと〕
日露戦争の活動写真での上映は、このほか12月7日「活動写真会を開く 田村郡山根村小学校 征露戦争活動写真会 立錐の余地なく」と報じている。
また明治38年には続々と県下各地で行われた。
8月18日「福島座の活動写真会 一昨日より」これは後述する高松豊次郎のフィルム。
8月23日「福島座の活動写真会」
8月24日「日露戦争活動写真 説明者大島伯鶴」
8月29日「戦争活動」「活動写真会の収益」
8月30日「活動写真会収益金処分」
9月12日「中村で活動写真」
と続報がある。

中村座の活動写真上映

この当時、相馬地方の中心は相馬郡の首府は中村町である。この中村で早くも明治37年に最初の日露戦争の活動写真が興行される予告が出たが、これは詐欺であったらしく実現しなかった。
福島新聞明治37年10月20日。
「活動写真の悶着」という記事で、東京軍事活動写真会と称する横浜の人物と同伴六名が「去る十二日相馬郡中村町に乗り込み宇多川橋の東北側に小屋を出来十三日の夜より開会せしと時節柄日露戦争と云ふ声に何れも我れ後れじと詰掛けたるが其影画は古き外国戦争のものを用ゐたるかの疑ひあるのみならず末日の十五日には雨の中に開会し乍ら雨晴れたれば半ばにして忽ち閉会したるよし入場者は大に立腹し山師なり詐欺なりと叫び更に小屋より立ち去らざるを以て止むなく半札を配りたるも今日限りの興行に半札を配るは益々以て不埒なりとの攻撃鋭かりしより巡査も其場に出て結局木戸銭の半分を返して無事を得たりとの当初来れり兎に角近来世の人の戦争に熱中し居るに乗じ従軍実写なりとホラを吹て不都合なる活動写真を持ち歩くものあるやの趣なれば大に注意して此等のものに欺かれざる様なす可きなり」と報じている。
日露戦争は日本国中の話題を沸騰させ、その実写は各地で上映されたが、開戦の37年には戦争ど同時にすでに出回っていた。
東京方面からの業者のものもあり、その中には、インチキもあったようだ。(イギリスと南アフリカの)ボーア戦争の実写がすでに明治33年に公開されているから、これあたりかもしれない。
その翌38年、いよいよ相馬地方で最初の映画上映があった。

〔中村の活動写真
相馬郡中村町の定坐に於て去五日の夜より八日の夜迄日露戦役活動写真会を催ほせしに毎夜七余名の入観者ありて近来の盛会なりしと〕(明治38.9.20福島新聞)

定坐、というのは常設館という意味。宇多川橋のほとりの伊勢屋旅館のあたりにあった中村座というのがそれである。前年の小屋はこのあたりに立った。
伊勢屋旅館には、昭和初年に「丹下左膳」の原作者林不忘が宿泊したことがある。この界隈は、サーカスが興行されたりする場所だったという。のちに馬場になり、野菜市場になりした。
福島新聞も福島民報も、ともに現地からの手紙による投書を情報源にしたらしい。

福島侠義団

明治37年の日露戦争の時には全国の日本人が熱狂し、戦況を写した実写フィルムを見世物にする巡回興行が人気を博した。
県内を巡回して初めて映画を見せて歩いたのは、福島の遊郭娼楼主人で博徒の吉田佐次郎が中心となって組織した福島侠義団というグループであったが、明治37年から日露戦争の実写フィルムを購入し、これを見せて得た売上金から在郷軍人会に寄付したりしていた。軍人会の組織を利用し興行を成功させたのだ。
明治38年に東北大凶作があり、親が死んだり捨てられた孤児が増え、翌39年からは福島侠義団は細民救済慈善上映を謳い文句にして冷害被害者の孤児たちに寄付した。
39年6月から福島育児院の青山馨が同行し、青山はこの時の巡回上映について新聞に報告記事を載せている。40年には育児院が侠義団の器材も興行もすべて引き継いでいる。吉田が映写機、フィルム、テントすべて寄付した。
青山馨という名を手がかりに福島愛育園で古い職員名簿がないかどうかを尋ねたが、明治の頃のものはなく、職員に青山馨の名前に心当たりのある人物はなかった。日本のナイチンゲールと呼ばれた瓜生岩の巨大な陰の中で、職員も孤児も、影が薄い。
ただ躍動するが如き少年活動写真隊の、猛烈な県内移動興行の跡を新聞紙面で辿ることのみが、私に許された手がかりであった。
たいていは、小学校で上映会が開かれた。村長や校長など村の名士が挨拶し、日露戦役に従軍した軍役経験者が説明に立った。
時々は、市部の劇場で上映することもあり、かろうじて色彩がつくような印象がある。
しかし、もともとがテント持参の野外興行も敢行した一座である。吉田佐次郎も含め、青山馨の献身も、何かしらピューリタンのにおいがする。
国家危急の時に何かせずにおれない吉田と、孤児たちに付き従って資金稼ぎに邁進する青山馨の情熱とは、そのまま明治の日本の青年の熱を感じさせる。
そうして福島県各地の草いきれや、埃っぽい田舎道の塵埃や、海辺の磯の香りが漂ってくるのだ。
会津の雪を踏みしめ、浜街道の砂を踏みしめ、重いリュミエール映写機やテント幕を担ぎながら歩き続ける彼らの染み込んだ汗や、息づかい、頬の火照りまでを感じてしまうのだ。雪にしおれた草々や、夏の日差しを浴びた浜えんどうの花弁の揺らめきまで瞼に浮かんできた。
活動写真と日露戦争を同時代に体験した村人たちは、ほとんどが拍手と賛嘆の溜息で彼らを迎えた。大人も子供も珍しいリュミエール映写機に群がった。明治の夜は漆黒の闇であった。郡部にはまだ電気の通らない地区もあった。小学校は貧しい日本の最初の公共施設であり、ほかには寺院ぐらいの伽藍しか大きな建物はなかった。活動写真上映会の日は村の名士であった村長や校長、巡査、従軍経験者が居並び、村人が「国家」を身近に感ずる「ハレ」の日でもあった。
文明と国運とを運ぶ彼ら佐次郎たち、青山馨と少年たちに、喜びがなかったとは言えまい。それは明治に生きる者が味わった、共感と昂揚の感情である。
遠い平成の空間で、マイクロ・フィルム・リーダーの前で彼らと同じ時間を追体験しながら、かすかな空調の響きと、逐次刊行物の女性司書の打つパソコンのキー・タッチの音を耳にしながら、私は少年活動写真隊に、ほのかな憧れをいだいている自分を見いだすのだ。

博徒吉田佐次郎とは

吉田佐次郎は博徒であった。
佐次郎は伊達郡長岡村田町の吉田佐伝治の次男として明治4年8月8日に生まれた。
小学生の時に、担任の教師が新時代の洗礼を受けたクリスチャンで、この影響で、佐次郎は宿直室に自炊していた教師と同居し、自宅から米味噌をくすねて差し入れしたりして教師になついたという。
家は農を主に、蚕種業を副とし資産も家柄もともに上位を占め、特に父親は村会議員や学務委員をしていた。国学を好み、忠君愛国を任じていた。佐次郎は学制発布間もない小学校に学齢早々に入れられた。
佐次郎は幼時から才知にすぐれ悟りが早かったが、これが過ぎて学業は優秀でも素行点はいつもゼロだった。
小学生の時に佐次郎は究理学(物理学)が好きで、熱気球の原理を学校で習うや、自分たちで紙を持ち寄り工夫して飯粒で紙風船を張り合わせ、試しに寺の境内で飛ばして子供仲間で遊んでいたが、紙底に仕掛けた灯心から風船が燃えて、寺の屋根に燃え移り火事を出してしまった。友達はさっさと逃げたが、佐次郎は独り残され大声で「お寺が燃えるうッ」と騒いだ。寺の住職が「何ッ」と飛び出し、大人の手でもみ消すことができた。目玉の飛び出るほど叱られると思ったが、「お前が騒いだおかげで火事にならずによかった」とかえって誉められた。
「悪戯をして誉められたのは、あの時一度だけだった」と佐次郎は晩年に述懐している。
後年の義侠心の、片鱗がこの時芽生えたのであろうか。
博打と喧嘩はとにかく好きだったようで、この人物の喧嘩好きは異常である。人間との喧嘩ならまだ分かるが、この人はしばしば犬と喧嘩をしたという。しかも、少年の頃から晩年までやったらしい。
一体どういう人なのか。ともあれ彼の喧嘩の実例は、彼自身が証言している。晩年、彼は仙台の大学病院に入院したが、主治医の加藤博士の診断日にはいつも通って診療を受けていた。その時に、最新の犬との戦いを報告している。「今日は犬と喧嘩をして、尖端に水晶を入れた二十円ばかりのステッキを台無しにして仕舞った。僕は時折犬と喧嘩をするが、かつて負けたことがない。あれは打ったり殴ったりしてはダメだ。突くに限る。突かれると奴が参ってしまう。しかし、今日の奴は大きくもあり、また強情でもあって手応え者だった。何でも三本はたしかに入った。ことに最後の一本は口に入って歯が折れたのだが、それでも怯まない。口からダラダラ血を流しながらかかってくる。こっちは狙いを定めて力一杯に突くのだ。
この奮戦中に近所隣の人々が出て来て追い払ったので、この戦いはやめになったが、僕の十八かの時に、蚕種引きに行ったことがある。
何でも白川の五箇村と覚えている。そこで狂犬にかかられた。向こうは狂犬だから勝手が悪い。やむを得ず、奴に組みついて抱き上げた。抱き上げると犬くらい弱いものはない。ただあがくだけで、何の芸もない。しかし、話すと噛みつかれるから、そのまま水に入って、自分も沈んでぶくぶくさせてやった。奴も弱ったさ。そして放したら、一目散に逃げてしまった。
一体喧嘩は犬ばかりでない。勝とか負けるとか、あるいは死ぬの生きるのという考えがあっては負ける。きっと負ける。何でも勝敗とか生死とか、雑念を脱却し、超越して渾然一体、自分も喧嘩そのものになってしまわねば勝てぬ」
佐次郎の喧嘩哲学のようなものがここにある。勝海舟の「清川清話」に出てくる父親小吉のエピソードに似た印象の、ざっくばらんな喧嘩自慢や武勇伝である。高貴なる野蛮とでも呼ぶべきか。
佐次郎の喧嘩好きは、やがて絢爛たる時代を迎える。彼は回想して「当時は花札の扱いも知らなかったものが、ただ博打ぶちの親分と喧嘩をしたもんだから、博打ぶちの親分にしてしまったんだ。これもその時の傷だ」
と言って、佐次郎は内股の大きな傷を示したことがある。
これは福島御山の陰に棲む丸子の七という親分と命を賭けた喧嘩をした時のもの。
丸子の七は、堂々とした見るからに大親分らしい立派な風采だ。まことに龍虎の戦い。七の腕力は、遂に佐次郎を制して、一旦は組み敷いてしまった。しかし次の瞬間には佐次郎の機知と胆力でたちまち七をその場に倒すほどに滅茶苦茶に斬りつけた。
佐次郎は早くも姿を消した。そして七は担架に運ばれて医者のもとへ。手術を受けて「痛い、痛い」と子供のように叫んだという。
股の傷はこの時の勲章だ。
だからといって淡々としたもので、特別誇る訳でもなく、丸子の七には敬意を払って死ぬまで仕送りし、福島界隈を支配するにいたった。
佐次郎もみずから医者に出向いて大手術を受けたが、平然と雑談をしていたというから、まるで斬られた片腕を持って医者に行き、都々逸を唄っていたという森の石松のような男であった。ちなみに「東海遊侠伝」の石松は実在しないが、斬られた腕を持って医者に行ったというモデルになったブタ松という男の実話は存在する
福島町を征服した後は、今度は米沢地方に遠征を企て、同地を戦慄させたとか、丸子の七に復讐されて大怪我をして、気絶するような傷のまま自分で医者に赴いたとか、女郎屋で豪遊している時に凶状持ちとして、五、六人の抜刀巡査に包囲され、裏口から逃げる客を尻目に「べら棒め、抜き身など怖れていられるものか。五人でも十人でも構うことはない」と、わざわざ表口から大手を振って出ていったとか、武勇伝はいくらもある。
原型は、あのお寺での「逃げない精神」にありそうな気がする。

任侠道とは

幕末から明治にかけての侠客というのは、武士道のモラルがすたれた時代に、武士道の亜流として発生した任侠道という社会モラルの補完運動なのである。
武士の大小二刀の魂をはばかって、二本差しをせず、刀剣は脇に一本差しとした。
関八州の警察権が幕府から宿場の親分達に委任されていたように、統治の基本は自治形態であった。博徒の親分が十手をあずかっていたのである。悪党の親分に、小悪党を取り締まらせていた。
明治という近代国家が誕生して、警察権が中央地方の官吏に一元化されてしまうと、博徒はただの博徒になって、犯罪者扱いされたが、当の博徒は任侠道を実践する者だとうそぶき、憂国の国士を気取った。
次郎長も佐次郎も、その侠気はよく似ているが、次郎長の名前が全国に一般化した背景には、次郎長の後見人の山岡鉄舟(さらには明治天皇)という権威がかくれていたのに対して、佐次郎には伝記作家も権威のバックもなかった。
次郎長こと山本長五郎の養子となったいわき出身の後の愚庵、天田五郎という名文家の伝記によって講談、浪曲、映画になった次郎長に比して、東北一の大親分と言われ東北の次郎長のあだ名を貰いながらも伊達の佐次郎が歴史に埋もれた差は、そこにあった。

実業家吉田佐次郎の誕生

佐次郎が三十五歳の時、日露戦争が起こった。彼の熱血は、従軍志願に走らせた。しかし、こんな危険な男を外国の戦地にやったら大変だ。許可されなかったため、佐次郎は当時流行していた活動写真の映写機一式と日露戦争の実写フィルムを購入して、戦中の明治三十七年から県内を巡回上映し、軍人団や孤児院に寄付して回った。
さらには、福島鳳鳴会孤児院の少年活動写真隊に機材一式を譲渡している。侠気と慈善心は本物だった。
その一方で、瀬上の遊郭華月楼の主人として女郎達を働かせているのだから、何とも奇妙な話である。

女の涙におろおろ

佐次郎は、女の生き血を啜っていた破廉恥な人面獣だったのだろうか。それとも、聖愛さえいだいて慈善事業に奔走していた侠客だったのだろうか。複雑で、面白い人物だったことは確かである。
春は飯坂の花に遊び、秋は湯野の月にたわむれ、時には摺上川の涼風に浴衣を吹かせ、水鏡に映す粋な二つの姿の、その一つは佐次郎であった。ロマンスの数も一つや二つではない。紅灯緑酒美妓三千、盆踊りの太鼓に長夜の豪宴を張ることまたしばしば(延陵野人筆)であった。
「なんと言ったって、日に平均三百円ずつも入ったんだからね」
「スパイとしては、芸妓くらい重宝なものはない。僕は一時、官辺でも民間でも、その大なる機密という機密は悉く知ってたもんだ。それはみな、この芸者から得た材料だった」
と佐次郎は独語していた。
芸妓楼主人として、彼はビジネスと政治の情報の中枢にいて、これを最大の武器にしていたことがわかる。
この人、女の扱いにもたけていた。
「工女くらい使い易いものはない・・・」
とも語っていた。
佐次郎の所属する長岡基督教会は、工女らの信者の寄付献金で成り立っている。
伊達郡の主産業の製糸業は、十三、四歳の小娘たちの労働に支えられていた。母の死によって、佐次郎は更正時代を迎えた。小さな機業工場を始め、少女たちを使役してより、煩悶するようになった。丸子の七の腕力も、飯坂巡査の抜刀も屁の河童だったが、小娘たちの涙には弱った。
「たかがはな垂らしどもだ。それが叱れば泣く。黙って置けば遊ぶ。何とも手がつけられぬ。これには僕も困ってしまった。自分で自分の無能に呆れて、ただ嘆息するのみだった」
上京中に工女の一人の事故の電報に、この男はオロオロした。
「娘怪我したすぐ帰れ」というのである。
この一通の電報が佐次郎を変えた。
「この驚きと哀しみは彼ら少女の親にもあるのだ。これを忘れてはならぬと、この心をもって彼らに対した。
その善良さ、従順さは全く自分の手足のようであった。現に今もこの心で彼らに対してそうして彼らに話して聞かせる。ついこの間、会津に行った時にも、一同集めて話をしてきた。
僕はその親の心になって泣いて語れば、彼らも泣いて聞いている」という発言に続く「工女くらい使い易い・・・」の科白なのである。
佐次郎最後の大喧嘩は、事業界の大物大島要三に対するものだろう。中央資本でスタートした信達軌道株式会社が地方人に移管された時に、飯坂花水館の上席から雄弁をもって大島を引き下ろした。しかし、自分の勇は語らず、大島氏を退けながらも敬していわく、「何と言たって当時の大島君は県下の大立て者で、ことに全盛飛ぶ鳥を落とすの大勢力であった。そして僕は刑余の一貧漢にすぎぬ。それが僕の一言で『そうか』とすぐ立って(人力)車を命じた。さすが大島君だと敬服したもんだ」
と大物は大物の心を知っていた。
その後、吉田佐次郎は同社専務となり、電化事業を成功に導くことになる。
みずから刑余の貧漢と称するのは、法学を志し、東京へ飛び出し弁護士の書生となり、茨城県の某候補の選挙運動で打った斬ったの問題を起こし、独り有罪となって入獄して以来、福島では大賭博で検挙拘留を繰り返したことをさす。
しかし、佐次郎を最も有名にしたのは、震災後のいわゆる焼失生糸処分に関して天下の片倉組を向こうに回して、全国生糸業者代表として壇上にたったことである。
コップを割り、鮮血凛璃たる拳をふるってその非違を糾弾し、万丈の気を吐き、掛田製糸組合の整理問題に奔走し、その解決を見て世人の記憶に残った。
その訃報にいわく。
「正義の人吉田佐次郎氏は、予て病気にて東北医科大学付属病院に於て加療中の所薬石効なく遂に二月二十八日午後一時逝去した。吉田氏は関東以北切っての大親分であって、その声望隆々として一世を圧し各地に多くの子分が散在し、氏の命令一下水火の中も辞せざるものがあった。後キリスト教に帰依し権勢におもねらず、飽くまで正義人道を重んじ強きを挫き弱きを扶けるといった昔の豪傑肌の人物であった。竹を割ったやうな性格の、決して小策を弄せず、然諾を重んじ人の為めには一身を犠牲にしても敢て辞せぬ、侠気の人であった。
死ぬまで正気で家族には何等の遺言もなく授業に就て語る事があるとて全然関係の人のみを枕頭に座せしめたといふ事である」(民報)
信達軌道(福島電気鉄道)という会社はのちの福島交通である。大正13年に佐次郎は重役会で専務支配人に推薦されて就任している。開通したばかりの飯坂線の電化の事業半ばで倒れたのだ。
福島県の歴史に、福島交通の小田大蔵氏や小針暦二氏といった怪物級の事業家の名前は記憶されてゆくことだろう。しかし、その福島交通の基盤を作った佐次郎の魅力は、私利私欲のにおいが全くしない点だ。
彼の葬儀は、故郷の伊達郡長岡村(現在の伊達町)のキリスト教会で執行された。葬列は福島と伊達の信者で埋まり、長蛇のごとく献花は県下の錚々たる名士から、はたまた東北中の企業、壮士らから届けられた。
没した時の彼の肩書きは、見事なほどの成功者のものだった。
掛田倉庫株式会社社長、株式会社力進社社長(石城郡大浦村)、日本正準製糸株式会社会津工場監査役(会津若松)、掛田産業組合製糸場取締役、伊達運輸倉庫株式会社社長(長岡村)、福島電気鉄道株式会社専務、伊達自動車運輸株式会社常務、霊山電気株式会社取締役(霊山町)、などが彼の経営する企業群だ。
その経営手腕もさることながら、彼の一生をめぐっての侠客としての生き方、バクチとケンカで貫いたエピソードは、のちに東北一の大親分と称され、関東以北では清水の次郎長と並んで称賛された。明治期の文明開化の世に、新奇な文物に好奇の心でいちはやく取り入れ、実業の世界で活躍するなど、次郎長との共通点も多い。

佐次郎はクリスチャン

博徒というより侠客であった吉田は、意外な取り合わせなのであるが、信達地方で最も早い時期の明治19年に洗礼をうけたクリスチャンであったのだ。
15歳でためらわずアメリカ人宣教師ホーイの手でさっさと洗礼を受けている。明治という気風がいかに風通しがよかったか、それとも佐次郎の春風駘蕩の性格なのか。
日本基督教団福島伊達教会六十五年史「農村教会の歩み」というパンフレットによれば、進達地方の明治初期のキリスト教伝道史をひもときながら、長岡村の実業家佐藤儀四郎氏の動静に関係するエピソードとして、次のように記している。
〔佐藤氏が吉田佐次郎氏を相知るに至ったのもこの頃であった。其の後、吉田氏を事業顧問として着々事業経営に当たって居たのであるが、大正末期の経済界の大恐慌で遂に佐藤氏の会社も経営困難に陥り、工場を閉鎖するのやむなきに至った。誠に惜むべきことであった〕
さらに注記して「吉田佐次郎(一八七一~一九二六)明治四年八月長岡に生る。義侠心に富み、東北の侠客として知られた。明治十九年ホーイ師より受洗。福島電鉄創立、其の他、地方産業の開発に貢献された。」とある。
「福島伊達教会百年史年表」によれば、伊達教会文書を収録する形で、明治19年の項目に、こうある。
「月不明 吉田佐次郎、ホーイ師より保原講義所にて受洗」
講義所とは、当時のキリスト教会の呼び名。長岡にまだ教会堂がなく保原教会で洗礼を授かったことが分かる。
同じ年に、福島の先達鈬木三郎兵衛が、仙台基督一致教会の第三号として受洗している。
つまり、佐次郎はほとんど福島地方にキリスト教が伝わるやいなや、いち早く入信しているのだ。
4年前の15年には福島事件が起きている。
伊達町史第六巻資料編Ⅱ近代には「伊達小学校郷土史」が収録されており、長岡教会の創立は明治24年と記してある。
「名称 長岡日本基督教会
宗教 新教
設立者及其ノ沿革
明治二十四年十二月二十四日芳賀甚七田中太右衛門ノ主唱ニ下ニ長岡基督教講義所トシテ設立サレタモノニ始マル、現在ノ建物ハ佐藤儀四郎等ノ努力及ビ本部カラ若干ノ寄付ヲ仰イデ大正十四年十月ノ建立デアル、当時佐藤儀四郎ハ経営ニ当ッテ居タタメ女工等ノ信者モ少クナクナカッタ、本教会ノ諸経費ハ信者ノ寄付デ維持シテ居ル」

伊達地方は、養蚕が盛んで幼い女性が一人前に働き、キリスト教会の会堂も、こうした女たちで溢れた。彼女たちの献金の小銭が地方の文化を育てたのだ。伊達の初期教会も劇場もこうした働く女達を背景に建立された。

第三の日露戦争活動写真

吉田佐次郎による日露戦争活動写真の巡回上映と、後述する高松豊次郎のフィルム上映にも属さない系統の独自の上映が安達郡新殿村の安斎極氏らの手で行われている。第三の上映といってよい。
明治38年10月15日〔○教育活動写真披露式 安達郡新殿村大字西新殿安斎極氏外数名にて今般教育に関する活動写真器一式を購入せるにより披露を兼ね軍人遺族を慰藉せんと其れぞれ招待状を発し公衆一般にも無料にて縦覧に供すべき案内状を配り且つ区内は楽隊にて広告に練り廻り去る十□日の夜西新殿小学校内を借り受け同式を挙げしに同地方始めての事なれば同村内は勿論二三里近村の老若男女引きも切らず来り会する者無慮二千余名に達し入場者満員として入口を締め切りしは未だ七時頃なりし発企人安斎極氏先づ開会の辞を述べ同校生徒一同は君が代を合唱し音楽隊之に和し来賓安斎虎雄氏恭しく宣戦も詔勅を奉読し終て皇軍出征の絵画に移るや満場粛として動かず露兵退却の場に至りては万歳の声暫しは鳴り止まざりき同校職員諸氏は交々教育に就て説明の労を取られ殊に安斎虎雄氏は屡々立て日露戦争の実情を説明せられ参観人をして時々感涙に咽ばしめたり実に近来同地方未曾有の盛況にて午後十時無事散会せり因に本会施行中近村より招聘者陸続申し込み来り殆ど其答弁に苦しみつつありと兎に角同団隊は是より各地方の招きに応じ開催する事に至るべしと云ふ〕
岩代町立図書館で西新殿の地図と電話帳を広げ、安斎という姓に片っ端から電話をかけて「安斎極」という人物について尋ねてみたら、安斎家は土地の素封家で裕福だった。ハイカラ好きでしばしば東京に出ては珍しい品を買ってきた人物だったようだ。当時最も人気のあった活動写真を見て、忽ち彼の好奇心が疼いた。これを郷里の人々に見せてあげたら、どんなにか驚き感激するであろう、と。彼の予想にたがわず、村の歴史始まって以来の大反響であった。残念なのは、この事実が後世なにも記録が残っていないことである。リュミエール映写機が当時の安斎家に一時期は存在したはずなのだが、珍しい明治の機械が残っていないか、見た記憶があるかどうか質問したところ、どの安斎家でも痕跡がなかった。ただ本家の明治の頃の人物がハイカラ人士であった微かな記憶だけが残り香のように残っていた。ともあれこうして、第三の日露戦争活動写真は、安達地方一帯で無料上映され、大いに国威を発揚したのである。ちなみに新殿村は学校設置の場所選定をめぐって、昭和期には西と東が血みどろの争いを展開する。明治38年にはまだ牧歌的な学校風景が見えるばかりである。

明治39年のチャリテイ映画会

佐次郎の生涯から、再び侠義団の県内遠征の旅に戻ってみよう。
「飯野町の歩み」年表には明治38年に育児院資金を募集して飯野町のお寺でカーバイト光源の活動写真巡回上映を行った、と載っている。若連会が興行し招待状を発行した。育児院資金というのであれば、これは佐次郎たちのフィルムであったろう。
明治38年という年は日露戦争の勝利に日本国中が酔った一方では、東北地方を中心に深刻な大凶作の年でもあった。佐次郎は、軍人会や遺家族、未亡人への援助から冷害細民の救済という主題に慈善目的を変更した。
「福島県史21文化2」によると、〔はじめて活動写真が公開された確かな日時は不明であるが〕と断り〔日露戦争の実写は各地で公開されているので、このころであろう〕として〔明治三十九年(一九〇六)三月十一日から三日間、白河を皮切りに、須賀川・郡山の順に「細民救済侠義団活動大写真会」が巡回している。「めずらしきかな活動写真、米国エジソン博士発明の・・・」というキャッチフレーズで、白河では関根座、郡山は十八・十九の両日清水座で行われているチラシがある。フィルムは「我が軍佐世保出発」「旅順大海戦及び仁川港敵艦撃沈実景」「霧の軽気球海中墜落」「旅順二〇三高地占領及び剣山激戦」「東郷大将凱旋新橋駅頭歓迎」「連合艦隊観艦式」「新橋芸妓元禄踊」などである〕
同巻の発行は昭和42年3月31日。つまり単年度県予算の消化の期限でである。明治30年代の福島県内の映画と、特に37年と38年の日露戦争映画の上映記事を発見しておらず、福島県における映画の初上映は39年のチラシ一枚から類推して「はじめて活動写真が公開された日時はこのころであろう」としている。福島民報の県百科もこれに倣ったが後発の民友新聞社の県民百科には明治30年と記してある。しかしその根拠が当時の民報記事であったにもかかわらず、「当時の新聞」とだけ記し、民友ではなかったことを上手に隠蔽している。ライバルとはいえ、おなじような百科事典や百年史を他社が発行すれば追いかけて発行せざるを得ない。採算割れの夕刊を廃止するのも両社がすくみあって遅れたような事情が両社の間には存在する。
「福島市史」は、基礎的な史料蒐集として本巻シリーズとは別に「新聞資料集成」を逐次発行しているので、新聞記事から相当の内容を引用して、福島市内で初めて明治30年にはじめて活動写真が公開された、と明記する。
さて、明治39年の日露戦争映画は、初めてのものではなく、すでに二巡、三巡目にあたるのである。
演目を見ても、かなり洗練されている。明治37年には、日露戦争は緒戦のフィルムしかなかったから、これほどのバリエーションではなかったはずだ。旅順の二〇三高地の攻略では乃木大将と伊地知参謀長の無能から東北農村出身の多くの兵士が無駄に死んだのは、後世の「坂の上の雲」などでおなじみだが、明治の人々にとっては、大国ロシアを破った救国の英雄として、乃木大将はむしろ巷間、新聞や講談、浪曲などで人気が高かった。活動写真でもロシア軍の総帥ステッセルと水師営の会見が有名である。古武士ふうの風貌が見た目によく明治天皇に寵愛され、明治帝薨去の際に殉死した時は学習院学長だった。旅順攻略は明治38年1月で日本海海戦は6月である。東郷大将凱旋はその後だから、戦争が終わった時点から戦争の全体を俯瞰できる全般的なバリエーションがあり、初めての上映ではほとんど登場しないフィルムばかりだ。
残念ながら、かんじんの明治38年前半のと39年後半の福島民報が県立図書館にに保存されておらず、この期間については同年の福間民友と福島新聞のバックナンバーでのみ調査した。今後これら(欠損部分の民報バックナンバー)が世に出てくれば新事実が発見できるかも知れない。しうかしかろうじて39年6月以降と、12月の民友に福島育児院への寄付を目的とした県内巡回活動写真会、特に双葉郡を巡回する慈善活動写真会の日程が載っているので紹介しておく。福島侠義団とあるのは、まさに福島博徒吉田佐次郎の団体である。

財源確保目的だった慈善巡業

佐次郎の生涯と、再び少年活動写真隊の県内遠征の旅を追ってみよう。
福島民報と福島新聞、福島民友の活動写真上映の記事を手がかりに、育児院の少年活動写真隊の足取りを追って行くとその行程の長大さに驚かされる。
侠義団はその後、福島育児院等へ収益金を寄付している。現在の福島愛育園は、瓜生岩が明治28年に創始した福島育児院が発祥で、明治30年に鳳鳴会という瓜生岩を後援する福祉団体が結成されて経営していた。
吉田は明治39年6月には新たなフィルムを購入、巡回興行のための天幕(テント)を作って上映した。これは全く、鳳鳴会への寄付を目的にしたもの。福島町を皮切りに、飯坂、郡山、三春、若松、坂下、高田、本郷、川俣、月舘、保原、掛田、梁川、伊達崎、長岡、瀬上、藤田、石川郡須釜などを巡回した。さらに田村郡から双葉地方を一巡した時の様子は、侠義団の一員として福島育児院の青山馨理事という人物が福島民報の紙面に刻明な報告文を残している。
博徒と孤児院の教師との取り合わせは不思議であったが、吉田には天性の政治力と義侠心があった。
ただし、巡回映写の仕事は39年末までですっかり足を洗い、収益金と機材一式をぽんと育児院に寄付してしまった。否、足を洗ったのではなくて、旧悪に戻ったようである。事業と博打の方が性にあったのだろうか。のちに賭博で逮捕されて、彼の消息が紙面にみえるのは40年代のことである。

慈善活動の実績

明治39年6月24日から4日間、福島町で開催したのを皮切りに、県内で巡回上映した。
〔◎侠義団の活動写真 当町侠義団にては一両日中に鳳鳴会への寄付を目的とした新町市川足袋店角空地に於て活動写真会を催す由同会今後は巨大なる天幕を新調せし事おき所在如何なる場所にも開会し得らるる事となりしその第一皮切を演ずるものにして写真の如きは極めて面白き新写真を取寄せし由なれば定めし非常の入りを占むるなるべし〕(民友6・19)
〔◎慈善活動写真 福島町吉田佐次郎氏が寄付し福島鳳鳴会に於て開催したる活動写真は四日間の開会の筈なりしも鳳鳴会の都合上三日間として一昨夜会場に於て小郷氏より其旨断りありしも吉田氏は同会の都合上とあらば一切の世話を為し予定の通り四日間開催する由なれば本日も開催するといふ〕(民友6.29)
この慈善公演で204円98銭の純益金があり、その後飯坂町でも開催し、47円54銭の収益をあげた。
〔◎活動写真会 福島鳳鳴会の開催せる同会へ無名氏五十銭、同廿銭、北裡白鳥某一円の寄付あり△吉田佐次郎氏は入場券を購ひて来会せざりし人々の為に特に一昨夜も開会せるが同夜は過般無料にて入場せしめたり△最終日即ち一昨夜の入場者山形県人益田某氏は突然座の一隅に立ちて多大の同情を以て所感を述べられたるが少なからず入場者に感動を与えたりと〕(民友6.28.)
「北裡白鳥某一円」の寄付は大きいが、北裡とは福島町で有名な遊郭のある所である。佐次郎と同じ業者かも知れないし、その周辺の人物であろう。人気芸妓の寄付だったかも、など想像させる。無名氏の寄付という点にも爽やかな印象がある。この時期、大凶作に当たって農村の裕福な農家で金穀を公共に寄付する者も多かった。暮らしは貧しいけれども明治日本には篤志家はいた。日露戦争や凶作で家庭を失った子供達を引き取るため、育児院では資金作りが最大の急務であった。当時の新聞には、親に捨てられ橋の下で暮らす孤児や親に傷つけられた兄弟の哀れな話が載っている。鳳鳴会は寺院などの後援を得て孤児救済に奔走した。
これに一肌脱いだ佐次郎たちの侠気はまさに「侠義団」の名にふさわしかった。しかも金銭だけが目的でなかった。入場券を買っても来場しなかった人々に対して特別に無料興行した。とにかく日露戦争の実況現場を見て欲しいという、戦場に行けなかった佐次郎の気持ちが伝わってくる。
6月27日夜の入場者山形県人益田某氏の話は民報記者が佐次郎から聞いた当夜の実況の伝聞だろう。
佐次郎は感激屋だったのではなかろうか。自分の侠気の原点に共感する同情の言葉を感きわまって立ち上がり、一席のスピーチをなした山形県人の琴線と彼のそれとが共鳴したのであろう。不覚にも私はマイクロフィルムの潰れた小さな文字を目で追いながら落涙した。感激屋は私だった。

鳳鳴会への寄付収支決算

〔◎鳳鳴会 活動写真収支決算・福島侠義団吉田佐次郎氏より福島鳳鳴会に寄付され福島及び飯坂町に開催したる活動写真会の収支決算は左の如し
福島町
三百三十六円六十六銭五厘    収入
三十一円六十八銭        支出
二百四円九十九銭       純益金
飯坂町
五十九円七十二銭        収入
十二円八銭           支出
四十七円五十四銭       純益金
猶ほ侠義団に於ては総ての費用を自弁したる為め斯く純益金多かりしと云ふ〕(民友7.4.)
「侠義団に於ては総ての費用を自弁したる為め斯く純益金多かりし」というのは、この行為が無償のボランテイアによるものであったことを意味する。
佐次郎の本業は料理店花月の経営だから、店は女たちにまかせて活動写真会の時には仕事を放って専念したであろう。
侠義団のメンバーには同業の伊藤某も加わっていた。

会津孤児院へも寄付

7月になって、郡山から三春、会津へと巡業は続く。
〔◎鳳鳴会と三春町 福島鳳鳴会の育児院にては此程郡山から三春町に赴きて活動写真会を開催したりしが今回同校小学校職員一同より二円同婦人会より三円寄付されしと〕(民友7.13.)
福島にも三春にもすでに劇場が存在したが、そこを借りれば興行収益の何割かを支払わねばならぬ。慈善事業で純益金を孤児院経営のために資金として集めるのが目的だから、小学校のような公共の場所が一番よかったのであろう。そこで職員や婦人会からの寄付があった。佐次郎も鳳鳴会の人間も仕事の手応えを感じたに違いない。
〔◎慈善活動写真 若松市の会津婦人会会津仏教会愛国婦人会若松支部会津孤児院発起となり福島町鳳鳴会育児院主催たる活動大写真を来る十三四五の三日間毎日午後七時より栄町栄楽座に於て開会せる由なるが入場料は一回十銭にして学生は其半額なりと而して収入の三分の二は福島鳳鳴会に三分の一は会津孤児院へ寄付さるる都合なりと云ふ〕(福島新聞7.12.)
〔◎若松の活動写真会 福島町鳳鳴会の主催に成る慈善活動写真会は予記の如く去る十三日より十五日迄三日間若松市栄町栄楽座に於て開催せり開期中は連日の雨天なるも婦人会の尽力に依り毎夜木戸〆切りの盛況なりし尚六日よりは耶麻郡喜多方町に開会の筈なりと云ふ〕(福島新聞7.18.)
〔◎侠義団の鳳鳴会寄付 当町の同団が鳳鳴会育児院に対し資金を寄付すべき目的を以て郡山、三春、若松、坂下、高田、本郷、川俣、月館、保原、掛田、梁川、伊達崎、長岡、瀬上、藤田、の斯く市町村に於て活動写真を開催し右にて取上げたる金額は九百九十八円三十銭にして内金四百三十五円四十九銭は開催実費に使消し残金五百六十二円八十銭を折半して半額を侠義団の所得と為し半額即ち二百八十一円四十銭を鳳鳴会へ寄付したりと而して就中取上げ金額の多ふかりしは郡山、若松、三春、保原等にして是等は愛国婦人会会員諸氏の斡旋尽力に由ると云ふ〕(民友8.16.)
〔明日明後日の両夜飯坂に開会すべき中藤式実物活動写真会は今回東京鶴淵商店をして良好なる機械を新調せしめたるを以て県下各地に渉って発表会を催し其都度収入金の純益を慈善事業に寄付する由なり尚弁士として侠義団より新たに加入せし増田某氏を援助として同会に遣はしたりと云へば定めし至る処に大喝采を博するならん尚映写材料の如きも頗る珍奇のものを撰ぶと云ふ〕(民友9.16.)
〔◎侠義団活動写真 福島町侠義団にては過般二千数百円にて汽車博覧会の当町に開催されし際新に活動写真機を購入したるが其試写を当地に於て為し収納金を福島鳳鳴会に及福島同窓会に寄付さるる由にて過日両会役員等は奔走中なり
◎侠義団の寄付 石川郡須釜小学校に於て二日間侠義団活動写真を開催し其純益金七円十六銭を児童保護会へ寄付したり〕(民友10.5.)
〔◎活動写真会の決算 福島侠義団の寄付にて福島小学校同窓会主催の活動写真会決算は左の如し
◎収入
金百九十三円六十銭   切符売上代
内訳
十三円六-銭     特別六十八枚
百七円四十銭     普通千七十四枚
七十二円六十銭  学生千四百五十二枚
支出
金五十三円四十六銭  会場諸費
差引純益金百四十円四十四銭

八円廿銭    弁当八十八
一円廿五銭   そば五十
二円九十銭   菓子七袋
右は大澤文次郎、四谷小兵衛外十名の寄付
猶ほ純益金は折半して七十円七銭宛図書館及授産所へ寄付せりと云ふ〕(民友10.25.)

孤児が少年活動写真隊を編成

侠義団には39年から福島育児院の少年活動写真隊が同伴した。隊には小学校卒業から十五歳にかけての男子院児が弁士等として参加していた。
明治の先覚者福沢諭吉は「天はみずから助くる者を助く」との西洋論理を道徳として掲げたが、「人事を尽くして天命を知る」の東洋思想と併せ、明治人の気骨を表している。
少年活動写真隊はまさに、自助の集団であった。
●双葉郡の侠義団巡回上映会
39年12月20日民友「侠義団慈善活動写真会々報」(一)
〔福島侠義団が夙に国家の為めに東奔西走して公共の為め尽瘁せる事は一般世人の諒とする処なるが今や同団特派員にして福島孤児院の理事たる青山馨氏は活動写真隊を掲げて磐城地方に奮闘せり今其報告を得たれば左に之を掲ぐ
第壱回(双葉郡)
双葉郡は十一月廿三日より十二月三日迄十一日間七ヶ所の開催なりしが結果不良侠義団組織以来の帳簿に徹するに実に未曾有の成績なりし素より繁農期と云ひ多くの興行ありし後と云ひ時期其宜敷を得ざりしに因すると雖も〕
と青山は苦渋の報告を記している。浪江町の有名な十日市や富岡町の恵比寿講など、見世物興行で賑わうのが通例であるが、年に一度の生活物資を農民が買い込む時期でもある。子供達も、年に数度の小遣いを貰える時期で、秋の大きな祭と重なって仕舞ったため、客を他の興行物に取られて収益は慈善事業開始以来、最低を記録してしまった。
12月21日民友「侠義団慈善活動写真会々報」(二)
〔◎富岡町(二日間会場小学校)侠義団一行は前夜田村郡古道小学校に於て同校学齢児童保護会の為めに開催夙むと徹夜して出発の準備を整へ九里余の山道を徒歩して当地に乗込み非常の疲労を感じたるにも不拘日割の確定しある事なればとて直ちに旅装其儘にて開催せり双葉郡第一回の開催なるを以て可相盛会を見たきものとの希望は団員一同の予想なりしが如何せん二日間僅かに金十九円八十銭の収入を得たるのみ乍去る遠藤本部長野村警部石井郡書記諸氏は非常の同情と便宜を以て本会を歓迎せらる結果は兎に角として本員は厚く諸氏の好意を感謝して已まざる所なり以下次号)〕

双葉郡での収益・浪江と新山

12月22日民友「侠義団慈善活動写真会々報」(続)
〔●浪江町 (二日間会場尋常小学校)時恰も有名なる十日市殊に高等校には教育品展覧会あり尋常校には双葉郡教育大会の催しありたる事とて町内は溢るるが如き人出にて非常のい好景気なれ共軽業其他の興行軒を列ねての大騒ぎに来会者の多数は真に同情の涙を以て集まれるの人々のみ(収益金二十七円○五銭)現に本員が開催の趣旨を述べ談進みて育児院に於ける貧孤児の事に及ぶや満場寂として声なく本員亦熱心に貧孤児の可憐なる状況及び自らの所感を述べたる時の如きは説者聴者共に・・の声を禁ずる能はず両者黙して言なき事実に十数分に亙る如何に当町民の熱血に富めるかを知られよ今に於て余輩は猶開催当時を追想して不覚暗涙に咽ぶ事数々なり
●新山町 (二日間会場小学校)同町及永塚村々吏員諸氏及学校職員諸氏の尽力の効空しからず頗るの好況を呈し二日目の如きは会場の狭隘を覚え得る所の総収入実に二日間五十二円五十銭即ち双葉郡第一位の好結果たり(以下次号)〕
新山町とはのちに永塚村と合併して双葉町になっている。今日の双葉駅はかつての旧村名をとって永塚駅といわれていた。新山町は二つの町村のうちの大きいほうで、この時の会場も新山小学校であったが、隣村永塚の役場職員と学校職員の尽力があって双葉郡第一位の収益金を得た。52円50銭を10銭の入場料で割れば、単純に500余人だから、子供の多さを考えると、二日間にしても小さな教場か講堂に200人から300人がひしめいて見たことになる。
浪江町が二日間で27円05銭だから約300人弱。一回の上映は100人余か。浪江町では貧しい孤児の実情を訴える説明者青山馨と聞き手らとの間に、もはや言葉を差し挟めず十数分の沈黙があったという。この報告を書きながら、その当時を追想して青山馨は暗澹たる涙を流すことしばしばであったともいう。浪江人士の熱血を知れ、と書きながら、熱血とは青山自身のことであることは謂ううまでもない。

双葉郡・請戸、木戸、久の浜

12月26日民友「侠義団慈善活動写真会々報」(続)
〔●請戸村(一日間会場人家)尋常小学校は会場として不適当なりしより人家を借受けて開催せり素より人家の事とて狭隘なるは勿論にして来会者の総てを寄るる能はざりしは遺憾に堪えず当夜の総収入金十一円二十銭
●木戸村(一日間会場小学校)予て通牒のありたる事とて準備員の当村役場及小学校長を訪ひたる時に已に待ち兼ねて郡役所へ照会し本日回答を得たる計りなりしとの事にして頗る熱心に歓迎せらる収入金十八円八十銭殊に関本天・氏よりは若干金の寄付さへありたり
●久の浜町(二日間会場小学校)双葉郡南端の秋会たる久の浜町定めし好結果を得るならんと思ひの外実に意外会場薄暗き彼方此方に三々伍々此以前に不完全なる活動写真会のありたる後なれば或は是れ等の関係ならんと思ひしに何ぞや二日目も亦前日に譲らざる不結果のみならず町長一人も尽力家らしき人の影を留めず侠義団高橋理事が不思憤慨の演説をなしたる亦無理なかる可し此両日間の総収入十円二十三銭〕
〔◎侠義団慈善活動写真会々報
侠義団特派員・育児院理事青山馨所報
◎龍田村(一日間会場小学校)是より先き尋常校長高木仙松氏盛に本会に参道せられ是非当村に於ても開催したしとの申込即ち喜んで好意を感謝して開催す(収入金十円五十銭)久の浜町の冷淡極まりなきあり龍田村の温情掬す可きあり思へば十人十色世は様々のものなる哉
△尽力家 校長高木仙松、村長山内金作二氏
◎斯くて十一日間七ヶ所の開催収入の全部を上げて百五十一円○八銭不成績に次ぐに不成功を以てし遂に双葉郡と袂を別たんとするに当り多くの尽力家に向つて厚く感謝の意を表すると同時に本員は実に涙の中に社会の会況を報せんとす請ふ胸間の苦悶察する処あれ願くは第二開催所たる相馬郡の貧孤児の為めに余をして盛大なる開催の報告書を造らしめよ。(終)〕(民友12.27.)

侠義団の顔ぶれ

新山での成功と久の浜の不首尾の対比が際立っているが、文中「以前に不完全なる活動写真のありたる後なれば」と指摘している。
後にも記すが明治37年にはすでに中村町に日露戦争の実写と銘打って、外国戦争の実写を映写して興行した業者がいた。明治38年には日露戦争実写ものが上映されている。
当時の興行経路からすれば、相馬郡と双葉郡は同じ順路の南北に位置するから、当然同じフィルムが巡回されたと考えられる。ともあれ明治39年の侠義団上映が双葉郡で初の映画上映ではなかった証拠の文言である。
久の浜の名誉のためにいえば、悪い業者の活動写真に最初の悪い印象を抱いたとしても無理からぬところがある。その直前の新山町の素朴な反響の大きさがあったために、かえって青山や高橋に落胆させたり憤慨させた。「久の浜町の冷淡極まりなきあり」として青山は逆にわざわざ尽力家として龍田村の二人に実名を掲げ、高橋は悲憤慷慨の演説をなしたという。
侠義団の高橋理事の名は、ここにしか登場しないので、どのような人物か分からないが、やはり熱血漢であったようだ。佐次郎と伊藤某が侠義団を結成したという記事はあるが、何人かの佐次郎シンパの一人であろう。飯坂の上映会には新規参入した増田某というメンバーが侠義団から派遣されている。安達郡太田村には戸沢氏という侠義団の人物が説明者として登場するので、弁士は福島から交代で巡回していたようだ。
〔◎太田の活動写真 安達郡太田同窓会の発起にて福島侠義団を聘し去月二十八二十九の両夜上太田小学校内に大活動写真会を開き福島侠義団よりは戸沢氏出張し説明をなしたるが参観者は四方より群を為し集まる者千有余名なりき収益金は折半して一部は福島鳳鳴会の基本金は同窓会の基本金の内へ寄付したり又同窓会は慈善菓子の販売を為し利益を福島育児院へ寄付〕
(民友40.1.61.)
この記事を最後に明治39年の慈善映画会は幕を閉じた。上映技師も弁士も、15歳までの孤児自身が担当してゆくのだ。

侠義団から少年活動写真隊へ

福島育児院は創立百周年を迎えて、瓜生岩子の銅像を福島市の愛育園が経営するあすなろ保育園のかたわらに建立した。
創立百年を迎えて「愛育園百年史」はこう書いている。
〔自主財源の確保が急務であった育児院では、職員と院児による活動写真隊を編成し、県内外を興行し、広く民衆の同情と寄付を募集する活動を始めた。救済団体による活動写真隊等の興行はすでに岡山孤児院をはじめ県外の施設や団体が実施し、福島県内でも巡回興行を行っており、このような方式での資金集めは、育児院の関係者も知る所であった。この時期、手早く多額の財源を確保する方法の一つとして、活動写真隊が編成できたもう一つの実質的な根拠は、福島侠義団の活動写真会の活動であり、これを引き継ぐかたちで育児院の活動写真隊が結成されたからと言える。福島侠義団の名前は三十九年十二月末に新聞紙上から消え、四十年一月初旬からは育児院活動写真隊の名前が登場する。〕
〔それにしても自動車もない時代に映写機を背負って県内全域を徒歩で巡り、その利益を寄付に充てるという実践は、言葉で言い現しがたい実践と言うしかない。一度に五十人の院児を収容し、財政的危機が明白であった中において、福島侠義団の実践はそれを救う重要な役目を果たしたことはまぎれもない歴史的事実であり、育児院の危機を救う大きな役割の一つを担ったとの評価も成り立とう〕と。
あすなろ保育園の星康夫園長は、百年史の編纂をつぶさに見てきた。県庁の地下通路に積み上げられた古い埃まみれの文書の中から、断片を探したこと、瓜生岩の厖大な借用書の山など、福祉の仕事も結局は金の工面の苦労に終始したことを痛感する、と語る。
実に、資金確保のため慈善を目的に県内の草深い山野と潮風におう海浜の村々をたどり歩いた侠客と孤児たちは、シネマトグラフを担いで地方の隅々にまで文明の最先端の光を見せて歩いて慈善を施した人々でもあったのだ。

明治40年の巡回上映

「福島愛育園百年史」は、同園の立場から明治39年の巡回上映の報道記事を採録している。ただし繁雑なうえに厖大な報道なので、請戸、木戸、久の浜の記事は漏れている。百年史の281頁に「新山」とあるのは「新地」の誤記であろう。地元でなければ判別できないような似た地名なのだ。
〔福島侠義団の育児院への寄付活動については、十二月で終了したようで、その後の新聞記事は見当たらない。同団の活動は、県内全域を活動写真を携帯し、地元の団体と共催で上映会を催し、その収益金は半分を育児院に寄付する方式で活動を進めている。この方式は、地元の「地の利」を活かして開催し、観客も多数動員できるという利点がある。開催準備、宣伝等は地元にまかせ、活動写真の操作を侠義団で実施すればよかったためで、小人数での興行を可能にした。また、この貴重な経験は、育児院独自の活動写真隊の興行へと結びついたと言える。この間の真情をつなぐ資料はないが、明治四十年(一九〇七)年一月からの活動写真会は育児院主催で巡回上映を行っており、福島侠義団の名前は出てこなかった。〕
本当にぷっつりと、侠義団の名前が新聞から見えなくなる。佐次郎は、伊藤や高橋、戸沢ら同志に諮って、映写機とフィルム、天幕のすべてを育児院に寄付することを諮ったに違いない。すでに慈善事業のスタイルと県内順路を作ってしまって、あとを育児院にまかせればよいと判断したのだろう。
当時、家を建てられるほど高価だった映写機を資産に映画産業に生計の道を見いだした者があった時期に、さっさと金のなる木を手放した訳である。福島侠義団の名前だけを残して何と綺麗な、洒落た侠気であることか。佐次郎ほかの団員は、日露戦争の戦場にこそ出征しなかったものの、母国でともに兵士となって働いた満足感を抱いて、後事を育児院に託したのではなかろうか。
40年には安達郡油井村、鈴石村、平石村、上太田、下太田、木幡村を1月に回り、2月は西白河郡矢吹町、三神村、三城ノ目付、中畑村、岩瀬郡長沼町に移動。
5月、岩瀬郡から東白川郡鮫川村、若松市、河沼郡、大沼郡を巡業。6月には耶麻郡に入り、山都村、喜多方町、塩川村、猪苗代町。また7月には田村郡小野町、石城郡平窪村、植田村、小名浜町、平町へ。8月は伊達郡、相馬郡を巡回。
相馬郡はすでに39年の双葉郡に続いて上映しているが、津々浦々という訳ではないので、小さな村落はいくらでも待っていたし、フィルムを替えれば興行にはなった。
41にも相馬郡に出向いている。この時は汽車で行った。
栃木県、宮城県にまで足を伸ばしている。音楽隊が充実して二隊で別働した。

明治41年の慈善映画会

翌41年は1月、伊達郡小手川村月舘座で、また掛田小学校で、飯野村で興行。さらに安達郡本宮町朝日座、安積郡日和田から栃木県に足をのばし、2月には安達郡から宮城県、3月には相馬郡新地、中村町へと常磐線で移動し、大野、松ヶ江、磯部、飯豊の諸村で興行。月末には双葉郡新山の高等小学校で上映。4月からは、活動写真隊付きの音楽隊とは別の音楽隊が別動で巡回。
8月には会津孤児院と合同で、山形県や東北各県で映画興行を巡回した。
9月の福島新聞には、「育児院の活動 今九日より郡山清水座に開催後若松に赴き帰院後更に白河宇都宮方面に出張する由」との消息がある。
清水座は新開地郡山の清水台に建設された芝居小屋で、最も古い起源を持つ。自由民権運動の演説会から、初めての映画上映まで、歴史そのもののような容れ物だ。
明治42年は、フィルムが破損して新しい長尺もの映画を十数本購入し、福島町で試写し、佐倉村で上映ののち、浜街道で巡回興行。
2月には安達郡下川崎、信夫郡吉井田村、安積郡河内村で興行。
映写機器も大型のものを新調し、鮮明なフィルムは評判が良かった。
9月から12月までの動向は新聞資料に関係記事の掲載が見当たらない。
福島育児院の巡回興行は財源確保の慈善巡業として定着し、明治末まで県内を広く回り、娯楽を与えることと、福祉事業への理解を深めた。
こうして福島映画百年史は、博徒と孤児の背中で揺籃期を過ごしたのである。

その後の吉田佐次郎

佐次郎は実は明治43年1月には福島町の大博打で官憲に検挙され、拘禁の身であった。公判で証人に立った博徒の親分伊藤平次郎という人は、国のために何かしたいと思って、福島侠義団という団体を「組織し各地に活動写真を開演して歩きまして其金を献したことも確かであります、其上吉田は断然賭博を止めるといふ誓ひを私にしました云々」と供述弁護したが、育児院とも少年活動写真隊とも別な人生を生きていた。別な県で選挙に絡んで投獄されたこともある。熱血が過ぎて平穏な生活は終生できなかったようである。母親の死で改心したことと、長岡教会の信者の関連で、長岡村の実業家佐藤儀四郎と懇意になり、伊達の機業家の顧問となり、県内の企業の重役やみずからも機業家となって実業界に名を為すように至る。佐藤儀四郎は当時珍しかった洋館建の立派な長岡教会の教会堂を大正末に建立するのに尽力しているが、佐次郎の葬儀はここでまことに壮麗なキリスト教式によって執り行われた。遊郭と監獄と教会とを経巡った佐次郎の魂は、天国で主の平安を得たであろうか。
本稿は、福島県における映画の歴史を追ったものではあるが、ついつい吉田佐次郎という人物の生涯への興味にそれてゆきがちである。吉田の略伝はすでに記した、
しかし、繰り返すが映画の揺籃期はこの男の背中で一時期を過ごし、養分を吸い取った。否、県土に分布する人情の滋養が小銭という媒体を通して彼や青山らの明治の魂を育てた。映画史のほうは、専門の興行者の手に引き渡さねばならぬであろう。

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