只見 昭和30年代の只見の少年時代を綴った「ポンプ小屋の月光仮面」という自伝を出版した吉津耕一氏は、只見の映画館について〔生まれ育った只見町には三軒の映画館があったが自分の家や通っていた学校から一番近いアサヒシネマしか知らない。「アサヒシネマ」というのは正確ではなくて、看板には「朝日シネラマ」と書いてあったが、だれもが「アサヒシネマ」と呼んでいた。〕と記している。只見には日活系の只見トキワ館という映画館もあった。只見公民館報の復刻版によると、1959年の号に只見映画研究会という高校生四人の会のことや映画紹介が載っている。映画研究会に入会していると只見常盤舘が利用できた。只見町は・只見村・朝日村明和村の3村が合併して出来た町で、明和地区には昭和37年に第三の映画館が誕生した。オープン時に館名が公募され、掘金保男氏が当選。「ニュートキワ館」と命名された。明和地区からは映画を見るために16キロ離れた只見まで出掛ける必要があり明和の第二トキワの開館は喜ばれた。これも電源開発の恩恵だった。しかし常設上映されたのは短い。
只見常葉館 邦洋 国分栄市 同 技師長星親 L7 ローラー 300 (44年)

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