川俣の映画館三代

戦後の伊達郡で、映画館経営にあたっていた川俣町の斎藤幸作、その娘の淑子・弘治夫妻は、圏内10館に映画を供給、興行していた。2008年7月14日、斎藤淑子氏より電話で取材。
明治21年に歌舞伎好きの川俣町の機操業者らが出資して川俣座を建設し、斎藤寿太郎が座主となった。息子の幸作がこれを継ぎ、子供のなかったため3歳のとき斎藤淑子を養女にした。キャンデー屋という屋号の菓子店で繁盛する斎藤一族が同族。淑子は、機業家の長沼家から婿養子の弘治を迎えて、ともに映画興行の世界に入った。
父親の幸作は上京して、浅草の国際劇場に勤めた人だという。もともと興行の世界が好きだったのだろう。昭和28年頃の映画年鑑に名前が出てくる。次の代の夫の弘治は、映画のこととなると夢中で、東京の試写会は欠かさず見たし、普段は物静かな性格だったが興行には性が合っているらしく次々に良い企画をヒットさせた。集金は淑子が担当した。毎日、羽織を着て運転手とともに飯野共楽座を振り出しに、川俣座と川俣中央の2館、月舘、掛田、梁川映劇、藤田劇場、桑折劇場、飯坂の旭座、湯野劇場を集金に回った。縦横30センチ×40センチの手金庫に入りきれないほどびっしり百円札が入って面白いように儲かった。バイク便の従業員を手足のように派遣してフィルムを回転させる。時代は映画の黄金期だった。「羅生門」「青い山脈」「愛染かつら」「月よりの使者」など名作が次々に生まれ、国民の娯楽が映画に集中し、庶民の金は実際、興行者の手に環流してきた。一時期、映画館は税務署のお得意であった。飯坂旭座、湯野劇場はオーナーとの交渉も難しかったが、最後まで興行した。湯野劇場は、資金を後援していた関係上、そっくり館を買い取ってくれ、改築しないと譲らない、と言われて200万円かけて大改修した。映画館が斜陽になってからも、次々と閉館してゆくなか、温泉劇場は最後まで経営した。従業員が寿司屋になって福島市内に店を出すまで面倒を見て、館を福島市に売却して、映画興行の商売は幕を降ろした。斎藤は最盛期の映画の商売を「いま思うと夢のようだわ。本当に夢のよう・・・」と振り返る。川俣出身の女優真山くみ子のことも夫妻はよく知っているという。「町の公務員の娘さんで、地元の学校を出てから東京に行った」と語る。

県北を巡回上映した斎藤興行

川俣座を中心に伊達郡と飯坂で映画興行を展開した斎藤興行は、周辺地域まで足を伸ばして巡回上映した。
8月20日、川俣町に斎藤弘治、淑子夫妻を訪問してさらに詳しく話を聞いた。
弘治は小学5年生のときから無声映画のアーバン式映写機を廻していたという。現在は川俣町に含まれる福田村までリヤカーでフィルムを運んだ時の道のりの遠かったこと。松川町までリヤカーで運んだこともあった。自転車に積んで運び、オートバイに乗せて運び、フィルムをやりくりすると夜にかかる。自動車で運ぶようになってから、夜間にライトが切れてしまって、提灯を点して帰ってきたこともあった。真っ暗な中をおそるおそる帰ったことも一再でなかった。
飯舘村の奥の大倉地区や、飯樋地区、比曾地区などへも出向いて映画を上映した。草野では煙草乾燥場や馬セリの市場に板を敷いて会場にした。比曾では、まだ電気の通らなかった時代に、学校の校庭の真ん中に発電機を設えて電気を起こしながら上映した。渓流に発電機を設置して地区に自家発電するようになると、青年団が映画上映を各戸に知らせて歩く時に、定刻になったら電灯を消して映画に来るようにと知らせて回った。そうしないと、必要な電力が得られなかったからだが、時々光がチラチラと瞬いて弱くなる。
「川の堰にゴミがつまったらしい。行って来い」と、村人がダムに出向いて水の取り入れ口から木屑のゴミを掃除すると、また電気の光が元通りになった。開拓農家が多くて普段、娯楽に飢えた地区なので、映画がかかる日には、村人総出で楽しんだ。
浪江の津島地区では、町長の家で上映した。
岩代の小浜、百目木、移まで入って上映したことがある。本宮の坂詰政雄氏の地盤に近い土地でも、興行の権利は地面で買うので巡回できるのだ。青年団や婦人会が映画会を行う時でも、興行の権利金を支払っている者が収入を得るシステムになっている。
「ある婦人会の上映会では、事情を説明して、収益金をそっくり払って貰ったことがあるが、気分のいいものではないですな」と弘治はいう。あくまで自分の才覚の妙で、企画を見守るのが興行である。権利だけで金を取ることには抵抗がある。
庭坂の奥の板坂峠でも映画を上映した。数日前に先発隊が、フィルムも映写機も設置していたが、東京の配給先から明朝までフィルムを汽車の貨物で次の上映地まで送り届けるように指示されたため、板坂峠まで、フィルムを受け取りに出かけたところ、初めての夜道で、なかなかたどり着かない。道案内を頼んだ村人も、この先は道を知らないと言い出して困り果てた。暗闇の山道をどこまでも登ってゆくが、ようやくのことで峻険な谷間の川にさしかかった。しかし大雨で橋が流されて車が先へ通れない。闇の中から光が見えて、先発隊がフィルムを手渡してくれ、いま来た道を福島駅まで戻ったのが、すでに早朝であった。貨物便として送り出すのに、数分間に合わず、今なら追いつけるかも知れないと駅で言われ、そのまま自動車で汽車を追いかけ、郡山駅に滑り込み、時間がないので、駅員にせかされて構内の線路をまたいでフィルムを担いで渡り、ようやく時間に間に合わせた。まるで、ドタバタ喜劇映画の追いかけっこのようなアクションの連続だった。
当時の映画フィルムは、汽車の貨物では最優先の荷物であった。駅員たちはみな顔見知りで、映画館の木戸はみなフリーパス。そうでないと、いざという時の融通がきかない。淑子も、駅にフィルムを届けた時に、汽車の出発を3分遅らせてもらったことがある。
税務署の職員と国鉄の駅員とは、映画家業には切っても切れない縁があったのだ。税務署員とのつきあいで、子供の名前までつけもらった、という。

札束の山と興行者の見栄

先代の父幸作という人は、福島市に2つのキャバレーを持つ川俣中央劇場の社長と並ぶ町の精力家でパチンコ屋も経営し、妻亡きあとは妻宅の中嶋食堂で暮らしていた。
毎日の売上は、淑子が羽織を着込んで、運転手とともに飯野の共楽座を振り差しに、十館を集金して歩く。それを耳を揃えて義母宅の幸作のもとに届けるのが日課である。
笊に紙幣をかき集めたこともあった。手提げ金庫は百円札でいっぱいだった。面白いように儲かった。
「東京に出れば、一流の芝居を歌舞伎座などで見物して回った。値の張る着物も揃えた。いい思いをさせてもらったわ」
と淑子は振り返るが、興行者の見栄で「金がなくとも、あるように振る舞うのが興行師」と言う。使用人には何くれと気遣う。住み込みの者に布団や着るものの支度、毎日の食べさせるものを用意してやる。万事に金がかかる。東京から来たセールスに、商談の宴会や接待に添い寝の芸妓まであてがった。
飯坂湯野の温泉劇場の金庫ごと持ってこさせて、客人の泊まり座敷にぱあっと札ごとぶちまけてふるまって見せたこともあった。
幼いころから興行者の一家に生活して、金の出し入れにはノウハウがあることを知っている。夫はふだん物静かな性格だが、こと映画に関しては火の出るような情熱を傾ける根っからの興行師だった。
自動車3台に、働く男衆が十人ほどいる。
幸作の方針で、全員が一緒に同じ食事をする。夜の興行が終われば必ず夜食を出す。アルバイトを雇う訳でもないのに、映画が好きで斎藤家に出入りする人物も多かった。映写機を回す者。運転する者。「飯だけ食わせていても、色んな特技の者が集まってきた」と弘治は言う。そういう暮らしの中から、人間観察も金の感覚も磨かれてゆく。淑子がいい着物を着るのも商売のためだ。
福島の興行師の奥さんはたいていが花柳界の出身で「日本髪を結って、立て膝で煙草を吸っているようなひとが多かった」という。夫が接待から早く帰宅した時には「せっかく芸者といるのに、なぜ帰ってきたのか」などと問うたことさえあった。
男女のことも、任侠道に生きる興行者の見栄のことも、すべては映画に奉仕する使徒の伝道者の受忍の範囲にあった。
どうしても金が必要だったのは、巡回用のデブライという映写機を買うときだ。
「川俣座は、川俣中央のトーキーに比べて、手回しの無声でやっていた。弁士で対抗した。川俣では三春の島暁蘭や福島の西村暁村らが興行で入っていた。最初のトーキーは、やたらに音が大きかったので恥ずかしかった。ほかの巡回映画はデブライで音が静かで、そのデブライが欲しかった。ある時、作った背広がいつの間にかなくなっていた」
淑子が、自分の着物ともども質屋に入れて金を作ったからだ。質屋は、川俣座の株主の一人だったので、金を融資してくれた。
セダンを買った時には、島倉千代子が来演して本田タクシーから頼まれて、乗せたことがある。「本当にきれいな人だったね」と弘治は回想する。父近衛十四郎が大都映画の役者だったので、大都と契約のある川俣座には何度も来演して息子の松方弘樹も一緒に連れて来ていた。
寿太郎から三代目の弘治は映画史のほとんどをともに生きた。四代目の寿幸が手伝う時代になって全国の地方の映画館は閉館する巡り合わせになった。
弘治が戦後の各社の上映映画をメモした克明なノートが残った。飯野の共楽座にはまだ斎藤興行の映写機が眠っている。最盛期の映画黄金時代の名残である。

戦後洋画の殷賑

弘治は洋画が好きだ。戦前のヨーロッパ映画。特に「モロッコ」や「望郷」などのフランス映画。
戦後では「風と共に去りぬ」を川俣で上映しようとしたが、契約金が高価に過ぎた。一般映画はフィルムを買えば、どこで何回写そうと自由だが、洋画の大作は一本かぎりの特別会計で、他館へ転用させなかった。
内密に飯坂と保原の2館と組んで「風と共に去りぬ」を一館当たり3万円の負担で買った。ところが福島の映画館主から本社へ密告されて、川俣と保原では上映できなかった。黙認したセールスは「馘になる」と真っ青になった。前売りをしていた飯坂だけで上映は強行したが、フィルムの契約の受け手は川俣座の斎藤興行。フィルムと現金とを、両者の中間点で落ち合って受け渡した。映画のような話である。それにしても飯坂での前売りは「風と共に去りぬ」の4時間に、「きみの名は」の3時間の組み合わせだ。これでは、客は一日がかりで弁当持参でもなければ見られない。地方映画館の当たる当たらぬ、は組み合わせの勘である。
保原で文芸映画は当たらない。戦争映画ぐらいが当たる。川俣は文芸映画がヒットした。「映画館が地域の客筋と好みを育てるのではないか」と弘治は指摘する。
ハリウッド大作の「十戒」は大ヒットした。これは福島の侠客の興行者らと組んで一館宛て4万円を3館で買った。客は予想以上に入ったが、元請けの奥さんが集金に来たものの金を受け取らない。4万円では足らぬと言うのだ。思いあぐねて弘治は一升瓶を下げて豪壮な邸宅に出向いてけりがついた。
「ちょっとのことでは物怖じしないが、あの時は怖かった」と淑子は回想する。
もともと共同購入は契約違反なので、それがばれると上映さえ出来ない。しかも、配給会社からは社員が監視に来ていた。夜間に二階の映写室の窓から便所の屋根の上を伝ってこっそりフィルムを運び出して次の上映館に渡した。これはもう時効だろう。これまた映画のような話である。
「ゴジラ」の時には飯野の共楽座で、税務署の係員が観客入場者数を入口で調べに来ていた。この当時は映画税が十割。つまり入場料の半分を国税に持って行かれた。川俣で最高額の納税者として一時期はトップの稼ぎ頭だった。映画館と税務署は戦後、最も日本の復興に寄与したコンビだったのである。お互いのスムーズな人間関係が、適正な納税を醸し出した。なじみの税務署員は歴代が川俣座に入り浸り、子供の名付け親になるまでのつきあいになった。
「トラ・トラ・トラ」「ドクトル・ジバゴ」など印象深い洋画がたくさんある。
弘治と淑子の回想は尽きなかった。

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