弁士の生活の真相
佐藤親之助の回顧

西村暁村という名で、福島座の主任弁士をつとめ、福島の映画興行とともに歴史を歩んだ佐藤親之助はこう回顧する。
〔私がこの道に入ったのは忘れもしない大正十一年十一月でした。当時、東京神田の東洋キネマという劇場に徳川夢声が活躍していました。その夢声に弟子入りしました。弁士仲間には松井翠声、大辻司郎、大蔵貢などがいた。最初は見習いで月給十円。映画がヒットすると大入り一つといって五十銭、そば代をプラスして一円の臨時手当が出ました。
私が福島に来たのは大正十三年。最初のころは映画興行は夜だけ。夏はともかく、暖房なんかなかったから、小屋に茶店があって、そこで座布団や火鉢を借りました。座布団が三銭、火鉢が五銭でした。
冬といえば福島の信夫山暁参りが大賑わい。近郷近在からも客がどんどん来ました。みんな弁当持参で、小屋の中に入れて臨時休憩所にした。それなら映画をやったらよかろうと夜中に映写機を回したのが、オールナイト興行のはじまりでした。
映画の俳優より弁士の方が人気を呼んだ時代ですから、大もてで、観客の入りも大いに左右しました。ごひいき筋と毎晩はでに遊び歩いたやつもいましたが、天下の徳川夢声クラスならともかく、見た目よりも生活は楽じゃなかった。
一つの小屋に弁士が五、六人いた。尾上松之助の旧劇(時代劇)が全盛のころ、松之助担当は主任弁士といった。女性弁士もいた。それに、三味線や太鼓、鉦のお囃子役を楽士が担当。作曲家の古関裕而もその一人で人気があった。ドリフターズの加藤茶の父親の平八郎はギターの名手だった。
あの頃若い私の心に残った映画といえば、リリアン・ギッシュ、ドロシー・ギッシュ姉妹の「嵐の孤児」で、全国的に大ヒットしました。劇中、歌を歌うシーンがあった。英語はさっぱりですからちんぷんかんぷん。そこで賛美歌なら間違いなかろうと勝手にかえてしまったエピソードも残っている。それに同じリリアン・ギッシュ、リチャード・バーセルメスの「東への道」。福島でも大正14年に公開されて大入りとなった。、チャップリン映画も印象に残る。彼の作品には人生哲学があった。
弁士がわが世の春を謳歌したのは昭和初期まで。トーキー出現とともにたちまち失業。さかなの行商をやったり、土方になったり。ちまたに消えていった。私はさいわい映画館経営の勉強や準備をしてましたから、なんとかこの世界にふみとどまることができました。〕(昭和49年のインタビューで)

震災以後

徳山繁太郎の回想による無声時代の名作をたどると、そのまま福島映画界の盛衰記ができあがる。
日本映画は原始的な実写から本格的な劇映画を作るようになり、松竹栄館は第一回興行に「光に立つ女」以後陸続と蒲田作品を上映。従来の髷げ物に新風を吹き込んだ伊藤大輔の蒲田最初の時代劇「女と海賊」が上映されてからは福島映画界は栄館一色になった。蒲田に刺激された日活向島が「慈善小屋」で福島座にかかると、松竹と日活の対決時代が出現。日活「敗残の唄は悲し」は福島市郊外鎌田村出身の秦哀美の原作による漁村の悲劇もの。円熟した西村暁夢の説明は印象的だった。
松竹は枯れススキでおなじみの「船頭小唄」や「水藻の花」で栗島すみ子と岩田祐吉のコンビの情話で客を泣かせ、日活は暗い「旅芸人の群」「慈善小屋」で対抗。12年8月の第四週に福島座で公開された「人間苦」を見たあとで「ああ人類は愛し合わねばならない」と初秋の空を見上げて帰宅した翌日に、あの大震災が襲った。
しばらくの間、震災の実写が横行し、東京の撮影所はみな京都に移ってしまって大作は出なかった。9月3週目に向島の震災もの「大地は揺ぐ」が福島座で東京と同時封切りしたのが異色だった。
飯岡秀雄の福島劇場は道路からの距離が規則よりも足らぬというのでずれこみ、大正十二年の震災のあとずっと寒くなってから日活直営として開館したが、第一回興行は「ロイドの水兵」と沢村春子主演の「霧の港」であった。
大正13年正月興行には調子の悪い弁士が一人で番組全部を担当し、最終の酒井米子と北村純一主演の支那劇が始まるとさすがに腹を立てた一観客が「バカ野郎、弁士やめろッ」と怒鳴った。これには弁士も「いや、やめません。僕にはこの受け持ちを果たす義務があるです」
と絶叫して説明を続行。
正月で大入りの観客は承知せず、
「弁士引っ込め」「弁士かわれッ」「引っ込めッ」「馬鹿野郎」
と大騒ぎになり、その間、スクリーンには彼と彼女のラブシーンが映写されていた。弁士は姿をくらまし、無声のまま映写が続き、福島座から駆り出された西村暁夢がかけつけて正月早々謝罪し、彼の説明で最初からまき直しするという一幕もあって、やっとけりがついた。
福島劇場はその年陽春、緊褌一番フォックスの「オーバー・ザ・ヒル」を泉緑葉の説明で上映。この週から週報を出した。これをきっかけに活気づいた。その後「女性をたたえよ」「清作の妻」「大地は微笑む」などを上映。
大正館で洋劇の得意な桂木天性の説明は歌うような調子で印象的だった。
松竹直営の栄館は「灼熱の恋」「ああ無情」などを上映。説明、音楽ともに一流の好映画で、加藤清眼、塩屋健七、花村紅月、西野夢弘らに加えて、大正館から14年春から桂木が参加。六月第二週の「乗合馬車」は映画とも説明もまた素晴らしかった。奏楽は楽長古山義一が毎回手腕をふるい、栄館の名物になっていった。
栄館は花村紅月の個人経営に移ってゆく。十月中旬にパテー社の文芸映画「レ・ミゼラブル」と蒲田の小唄映画「すたれもの」で第一回興行を行い、古川花泉、朝日南湖、藤森八郎などを加えた。

西村キネマ黄金時代

西村暁夢は大福座に東亜映画を擁して独立の名をあげた。沢正主演の「国定忠治」高木新平の「争闘」などでファンの心をつかみ、大正14年5月1日から暁夢とその一党の暁蘭、暁雨、暁村、小暁夢というメンバーがスクラムを組んで福島座に乗り込んで若い座主を盛り立て、沢正の文芸映画「恩讐の彼方」とファーナムの「遺恨十年」を出した。暁夢の仕事熱は大したもので初秋からはパラマウント、フォックス両社の傑作を加えた番組編成で「ネロ」「十戒」「幌馬車」「神の怒り」「厳窟王」などを上映。
大正15年には「ピーターパン」「ロイドの人気者」「冬来たりなば」「意気天に沖す」「絶海の処女」「天下の名物男」「放埒娘」「怪傑タービン」「天下無敵」など上映。
五月第一週は西キネ福島座進出一周年でグリフィス「嵐の孤児」を上演。ギッシュ主演のフランス革命を背景とした哀詩映画。山田勘左衛門が指揮する奏楽をバックに涙の説明で独演。山田勘左衛門はのち栄館主となる。
さらに「ダグラスの海賊」「ドンファン」「第七天国」「ボージェスト」などの大作、「黄金狂時代」「お転婆キキ」「帝国ホテル」「ウインダミヤ夫人の扇」「不良老年」の佳品を上映して絶賛を浴びた。
暁夢は魁天と改名して説明者を引退し、今後は経営者として番組編成に邁進すると声明を出した。しかし好事魔多し。一党の有力者西村暁蘭や中村小暁夢に逃げられ、そのうえ昭和二年下半期に栗原雷岳が突如出現して大正館の経営とパラマウントの上映権を握って魁天を脅かした。
パラマウントを擁する大正館は黄金時代の西村に肉薄し、さらに拍車をかけたように「戦艦くろがね号」「決死隊」「マンダレーへの道」などの大作を投入。普通興行でもクララバウの「イット」「乱暴ロジー」「モダン十戒」級のスマートな洋画を毎週上映し、たちまち福島市民の心をつかんだ。
東京で公開されたヤニングスの「ヴァリエテ」、エメルカの「エムデン」を犠牲的努力で封切り直後に福島に持ってきたり、「戦艦くろがね号」の解説には有名な新宿武蔵野館の牧野周一を呼び、ポーラネグリの「鉄条網」では生駒雷遊を招いたりして剛腕を発揮した。しかし栗原の経営は昭和2年下半期から翌年上半期までに濃厚な一年間で終わっている。当時、当時の専属説明には白河汀華がいてそのしっかりした説明は定評があった。ヤニングスの渡米第一作「肉体の道」の説明は出色だった。
栗原雷岳去って、西村キネマに白河汀華が合流。「つばさ」「ソレルと其の子」で健闘したが、往事の偉観は取り戻せず、次第に萎縮していった。
西村暁蘭は栄館で独立し、さかんに野心振りを発揮し、「ダークエンゼル」「ボープランメル」「かぼちゃ野郎」と、たて続けに興行したが当たらず、いっこうに効果なく三週間ばかりで田村地方へ引っ込んでしまった。
トーキーが現れるのは、もうすこしだ。
弁士たちの受難の時代が待っていた。

塗り替えられる福島の劇場史

県民百科には「明治38~39年ごろ福島に新開座と福島座、郡山に共楽座と清水座、平に平座、白河に関根座などの劇場があった」とあるが、この当時は県下に限らず全国の小さな町にも芝居小屋があって、旅まわりの演劇や浪曲などが最大の娯楽であり、映画は後からやってきた見世物の一種であった。
〔本県の常設映画館の第一号は不明であるが一九〇七年(明治40年)ころ福島市石屋小路(現文化通り)にあった金沢屋経営の葬儀屋「開明社」を借りて、北条保吉が定期的に映画会をやっていたという。これが常設映画館「大正館」(上町・旧バスターミナル)の前身である。大正時代にはいって各地の芝居小屋は映画上映劇場に転じるものが増え、あるいは兼用劇場になって尾上松之助の忍術映画やアメリカの連続活劇ものを上映、活動写真は大衆娯楽の花形になる〕
映画上映は明治30年代には福島座の村井座主とこれを継いだ飯岡秀雄座主の独壇場でリードされていたが、追って北条の大正館と新規の栄館の参入で一気に加熱した。
上映フィルムはアメリカ直輸入の喜劇や国産の新派劇、旧劇など雑多で多種多様。尾上松之助は日本最初の映画スターで本名中村鶴三、小柄で目玉を大きく剥いて見得を切る演技で目玉の松っちゃんと呼ばれた日本映画史最初のスターである。

事実と違う福島市史

最新の96年発行「広瀬座移築報告書」の巻末に「福島市内の芝居小屋」という文章が収められ、福島市史から引用する形で概略が述べられている。いわく〔明治二十五年に「新開座」が福島駅前通りに建築されて、芝居興行を行った。〕また〔この新開座に引き続いて、福島座がこれも芝居小屋として新築され興行を続けた〕とある。さらに〔大正に入ると大正館、福島劇場、大福座などが大正15年9月7日に開館(福島市史)〕と引用している。
福島市の郷土史の教科書というべき「福島市史」に書いてあるのだから、後世の史家はそこから出発するのだろうが、ところが当時の福島民報と福島民友の二紙に当たってみると、だいぶ事実と異なるのだ。
新開座が明治25年に建築されたというのに、その年の民報には「数年前に建設された」と書いてある。〔福島大建物の一つに数いらるる停車場前の新開座は最初構造の疎漏なる処ありし為め建築以来僅に数年を出でざるに早や所々に損所を生じ柱梁等の傾きたるより今回当警察署に於て興行を差止めたれば株主は夫れぞれ相談を遂げ一両日前より修繕に取り掛かりたり今其の模様を聞くに今度は屋根瓦を取崩し木葉葺に替ひ又周囲には堅固なる腰取を為すよし其修繕費は凡そ八百円にて古山忠次郎といふ人が請負たりと〕
明治25年から数年前というのは、すなわち明治20年の福島駅開業の直後ということだ。このことは、駅前の急激な開発という背景に符合する。拙速の急普請で疎漏をきたしたのか、わずか数年後の明治25年には修繕したという。福島市史が新開座について書いているのは、新築工事ではなく、ただの修繕工事のことでしかない。

昭和17年「福島市誌」の誤謬

なぜ、こんなことになったのか。福島市には、昭和17年に発行された「福島市誌」という市史がある。その中に〔明治二十五年に駅前に新開座と云ふ芝居小屋が出来た、後宮町に移った〕という一節がある。のちの福島市史が「二十四、五年」でも「二十五年頃」でもなく「二十五年」と断定しているのは「市誌」引用のゆえであろう。
「市誌」はまた福島座について「明治二十四、五年頃芝居小屋として建築され」と書いている。これなら新開座と同時期か、それ以前の建築だ。ところが前述のとおり現在の福島市の史家は「新開座に引続いて福島座が」「新築され」たと記述しているのである。しかしながら、これもあやしい。
明治27年の民報には「新劇場設置の場所」という記事で、〔両三年以前までは当町に三個処の劇場ありて場所柄としては聊か余計過ぎたる思ありしが其後尾上座は廃し止なり飯坂の旭座と変化して此頃までは福島座と新開座の二つのみなり〕〔福島座は古ぶるしき小劇場なれど新開座は場所も上等建築も大なる代りに其地代等も頗る高価にして〕と当時の状況を説明している。
当時すでに福島座は古い小劇場で、新開座はいい場所(駅前)にあって大劇場だったというのだ。これに尾上座を加えた三館があったが、福島町の規模にしては多すぎて飽和状態。その後、尾上座が廃止されて飯坂の旭座に「変化」したという。
この記事は、福島市史が全く事実に反していることを証言している。
福島座は新開座のはるか以前に創設され、すでに古ぶるしい館になっていた。土地の名を冠した芝居小屋はどこにでもあり、どれも古い。郡山の清水台にあった清水座は明治十年代から。平座、川俣座、本宮座、中村座、小高座、原町座、富岡座など、その土地の名を冠して劇場を呼ぶうちに固有名詞化するのが常。ふつう江戸時代の小屋掛け芝居に対して常設小屋の場合「丈舞台」あるいは「定舞台」などと呼び記した。
福島町の福島座の本当の創立がいつなのかは、本当のところ判明していないが、明治24~25年頃にはあまりに古くなったので改築したというのが真相なのだ。

飯坂旭座と尾上座

福島市史を訂正すべきもう一点は、飯坂旭座についての記述である。市史には旭座の建築を明治44年としてあり、これを最新の「福島市内の芝居小屋」にも引用してある。しかし前述の民報記事には、はっきりと20年代に存在している。飯坂旭座というのは、佐藤勇三郎という人が明治26年に新築届け出している館で、当時すでに飯坂には先行する錦座というのがあった。旭座は26年まで福島町にあった尾上座という芝居小屋が廃止されて解体移築されたものなのだ。したがって、旭座はそのまま尾上座の構造、外観をコピーしている。設計書によると敷地は百八十坪、表間口十間。奥行き十八間。座の構造は、六尺の木戸口一個。その他、非常口やや役者用と観客用の便所、廻し舞台や天井桟敷などについて詳述がある。仕様書には柱の太さから梁、天井板、格子、手すりに到るまで材木の寸法が記してある。現代に甦らせて復元しようすれば、設計書・仕様書・図面があるからいつでも可能だ。
岩代町の小浜劇場、本宮町の朝日座、郡山の清水座の新築・改築の願書や設計図面も残っており、どれも明治26年のもの。

福島の劇場濫觴

福島に舞台と称される本格的な劇場が建設されたのは明治になってから。芝居は川原ものと呼ばれた人達が行っていた遊芸だが、武家社会における道徳観念から厳しく取り締まられ、演じ踊るべき舞台を持たぬので、川原などの空き地で行っていたことがその発祥である。この遠い時代から、映画が日本で芸術とみなされずに、単に風俗遊芸の一種と考えられていた背景だ。その舞台は庶民の欲求に根ざした施設であっても、勿論好ましからざる風紀の場所であり、しばしば反権力の巣窟になった。
福島最古の劇場は代町の尾上座で、明治11年に建てられ、芝居のほか民権運動家たちの演説の場となった。明治25年に後発の福島座や新開座も出てきて飯坂に移築され、旭座となった。
明治15年の甚兵衛火事の後に諸方から大工や職人が入りこみ、寄席を望む町民の期待に応えて御国屋という車屋の立て場の二階に小さな寄席を作った。これが福島寄席の濫觴。高橋亘の出資で明治18年春、福島警察署の前(小桜湯)に喜楽館という寄席が出来、続いて出来た万歳館も寄席である。中町の佐藤彦三郎(上彦)という人が建てた。見物席のあたりは、のち福島民報社の工場になった。
新開座は芝居専門の劇場で、明治20年の東北本線開通で福島駅が開設された直後に、駅前の誠壱社の場所に建設された。誠壱社の発展のために稲荷神社の近くに移転し、場所は荷置場になった。新開座が駅前にあったのは建築後わずか三年だけだった。
(この項、大正14年福島毎日による)

福島座と飯岡秀雄

福島座は小山下の方に市街地が伸びることを知って新庄肇という興行師が建てた。答辞はまだ周囲に十二、三軒位しか人家のなかった寂しい処だった。芝居小屋としてスタートしたが、のち株式会社の所有となり、庄司市郎社長時代に栃木県人飯岡秀雄がこれを借り受けて明治30年代から活動写真を上映するようになり40年代から村井座主、飯岡支配人のもとで鳳鳴会福島育児院の少年楽隊を迎えM・パテー活動写真隊と名付けて常設化した。
福島座は大正3年12月落成式。大正4年に本格的な常設館になった。「脱線飯岡」とあだ名されみずからもそう名乗った飯岡秀雄が福島劇場を新築して独立する大正12年まで使用していた。大正14年に西村魁天が借り受けてマキノキネマ東北封切り劇場として開館し、昭和3年から日活映画を上映。昭和8年、改築のため休館し、9年2月管野伊夫と西村魁天で共同経営。5月、西村は脱退。昭和10年、末松誠酔の経営となる。13年に末松が死去すると14年3月から西村が経営を継ぎ、戦後までつないだ。

大正館の名物男北条安吉

福島座と並んで大正期の福島を席巻したものに大正館がある。その名のとおり、大正館の名前での活動は大正初期からの営業で、明治末から石屋小路の葬儀屋開明社を経営し、倶楽部と称する仮屋で浪花節や活動写真会をおこなっていた。現在の福島テルサの場所に移って、大正7年に落成という記事があるから借り屋から新築したのだ。経営者の北条安吉という男が名物だった。
その片鱗が大正4年の記事にある。
〔開明社の北条サン、大正館の北条サンと云へば福島三万三千広しといへども知らないものはないと云ふ名物男だ、着物をお角力さんのやうに大きな腹にのっけて食いつきさうな、勢いで歩行する態度、きれいな娘さんを持ってること「やりませう」とかつて頗る気前のいいこと等に依っても既に有名なもんだ。〕(大正4.7.30. 福島日日)
大正館はユニバーサル社直営と銘打って、評判のアメリカ映画を次々に上映。たちまち、福島っ子の魂をとりこにした。
大正12年の消息として、北条は鳳鳴会福島育児院の一理事として新聞紙面に登場する。「珍しい例では、少年孤児を大正館に雇ったりしていたが、そのうちの渡辺という少年は川俣座の弁士になって60円の稼ぎを得ている」と語っている。育児院では50人以上の孤児を養育していた。蔭ながら北条は、雇用などの形で、これに後援していたのだ。

松竹栄館と福島劇場・大福座

大正館を追いかけるように大正7年に大福座が開館。土地繁栄を目的に中町、早稲町、五月町から株主をつどって株式会社を設立して建設した。大福座の名の由来は、康善寺重職に聞いたら昔あった福の字のつく付近の寺院の名前かららしい。旧来の町並みからは離れているので、地域発展の核が欲しかったのだ。大正10年頃には大正館の洋劇に比べて古くて低級で地味な国産ものばかり上映していて、だんだん客足が減ってきた、と評された。
大福座は悲運の館で、しばしば経営不安定で閉鎖され、昭和4年11月には改築、オデヲン座という異名に改称されて営業したが、翌5年4月にはすぐ閉館になった。
昭和8年に映画常設館として大都映画・朝日映画を上映。14年9月に客席階下を椅子式に改造して常設のトップを切った。しかし、戦中はフィルム不足のために閉鎖されてしまう。
大正10年に栄館が誕生。一時は郡山の岡崎が経営するとの噂がたち、国活か日活と結ぶのではないかと見られたが、長谷川市吉が経営し、12年から松竹の直営館としてまた洋画の上映で福島映画界をリード。昭和2年、名画を所有するヤマニ映画やメトロゴールドウィン社と提携し外国映画を封切り上映した。
大正12年末には福島座にいた飯岡秀雄が独立して福島劇場を建設。9間半の間口に奥行き14間の広大な建物。日活上映館としてスタートした。飯岡死後は芝居小屋に改造して小林新助が経営。昭和7年に西村魁天がこれを借り受けて再度日活上映館に復活させた。昭和9年から新興キネマを上映。
福島市史には大福座が大正15年に開館した、としているが同じ文脈で「これ(大福座)を追うように、松竹映画東北封切場として松竹栄館が開場した」とある。
栄館は大正9年に建設の話が出て、10年に開館した。大正10年に出来た館が、みずから15に開館したと書いた大福座を追って開館するわけがないではないか。この自家撞着に気がつかぬまま「福島市の芝居小屋」の文でも、大福座は大正15年に開館したと市史をそのまま引用している。
これも大正15年の民報記事によって事情が判明する。
〔西村キネマが福島座へ移転してから久しく閉館していた大福座は今回新開座の本郷玉吉氏が引受けて運営することになったが
九月七日東京歌舞伎関二十郎一行を迎へて花々しく開演すると〕
さかのぼって大正7年の福島日日に
〔8.12.大福座 八月十三日開場 新築〕
とある。
西村キネマという弁士集団は、最初は大福座でデビューしたが、福島座に移ったため大福座は閉館のやむなきにいたった。
つまり大正15年は、開館というより再開したのである。
何より市史自身が、大正14年の民報を引用して、大正館、栄館、大福座、福島劇場の四館の名前を例示している。
こういう史書は、一番困る。むちゃくちゃな記述を誰も指摘しなかったのだろうか。
福島劇場は大正12年に建設され日活の上映館となった。飯岡は映画興行でだいぶ財をなしたという。北条安吉、西村魁天も同様であろう。
西村魁天ひきいる西村キネマの勢いについてはすでにふれた。大正10年ころ、ピアノを入れて覇気に富んだ気風があった。大正館の常設化に遅れること2年。大正館が旧劇に力をいれれば、新派の高級作品と連続活劇で対抗した。大正館が浪花節を余興に加えれば福島座は歌劇を上演した。前者が素人義太夫大会で人気を呼べば、後者は娘義太夫を持ってきた。文芸映画を上映すれば、日活専属俳優の実演劇をぶつけ、一方が米国ユニバーサル社と特約すれば、一方は仏国パテー社と手を組んだ。焦って大正館がユニバーサル社と国活社特約の洋劇に力を入れるや、福島座は日活特約のキーストン社、雪州、フォックス、チャップリンなどの作品を公開し、お陰で観客は大喜びであった。常に大正館と競争関係にあった福島座は飯岡座主と岡庭梅洋弁士が奮闘し新派劇においては他に追随を許さぬ地位を築き、東北唯一の日活推薦模範館として選択権を与えられた。
のちに福島市と合併する信夫郡には、前述の飯坂錦座、旭座があり、松川町の宿場町には松川座が明治45年に(大正2年との説もある)生まれたが、すぐ大正に消える。松川駅前に大正13年、松楽座が出来て昭和の戦後まで生きる。
庭坂の湯町には大正11年に天戸座が出来た。何と昭和60年頃には、梁川広瀬座の再興運動にも触発されたか改修の話さえ出ている。

伊達の劇場群

伊達郡の芝居小屋の中にも、すでに忘れられた保原町の新栄座というのが明治にあった。明治41年と大正5年に新劇場建設の機運が高まったがそのたびに有耶無耶になり実現しなかった。大正初期には保盛座という劇場が活動写真を上映して活動していた。
保原劇場は大正9年に出来た。
川俣には明治21年生まれの川俣座と、大正9年10月生まれの川俣中央劇場とがあった。
飯野町には明治38年に同町の観音寺で初めて活動写真がカーバイト光源で上映されたという。同年、高橋達之助外三名の共同経営で飯野村大字飯野字境川に共楽座という館ができた。大正3年から高橋個人の経営となり、同年に初の電気映写機で「日蓮上人」「新馬鹿大将」などの活動写真上映がおこなわれた。トーキーが初めて上映されたのは昭和8年2月、共楽座で。朝日新聞社の巡回映画班が「多門師団凱旋ニュース映画」を映した。翌9年10月5日には満州国独立記念公園建設資金募集映画会が開催された。(「飯野町の歩み」年表)
改築はされたが、今なお建物が残っている。
月館(小手村)には清月座という館があった。明治39年に福島育児院の少年活動写真隊が日露戦争の実写フィルムを巡回上映したなかに小手村の「月館座」という名が登場する。これがその清月座のことだろう。
霊山町(旧伊達郡掛田町)には管仁座という昭和初期から50年代まで維持した小屋があり、建物が現存する。管野仁太郎という創立者の名を冠した珍しい館である。「霊山町史」には〔掛田地区は大正元年に電話開通、二年に映画上映を開始〕とある。
〔管野仁太郎(明治十八年生)は掛田の裏西岡に適地を得て、やがて観客数百を迎え入れられる管仁座を開場し、昭和五十年まで維持した。そこは演劇・映画の興業場でもあり、政談演説から郷土芸能にいたるまでの集いに利用された。〕という。
藤田村(現在の国見町)には、錦座という館の名前が大正の頃の新聞に登場する。昭和になって、藤田劇場の名で登場。戦後は藤田演劇場(管野常助)の名で生き残った。
松川には松楽座が大正13年に開館。
桑折座(桑折劇場)、藤田座(藤田劇場・錦座)、梁川広瀬座など、養蚕ブームで景気の良かった明治に出来た館に、大正生まれの新館が加わり、福島の周辺に伊達の劇場群がある。
広瀬座、天戸座、松楽座、管仁座などは家族が愛情こめて保存してきたために建物が残ったのだ。
劇場は人間の顔を持っている。共同体や経営者の性格や運命をも反映するからだ。だから現代の文化ホールや文化センターには、時代を反映して無個性の顔が多い。
それに比べると、大正時代以降の映画館の顔は、看板絵かハリボテのように平面的で立体感がなく、いかにもあやしい雰囲気に満ちていた。
映画自体が銀幕という平面に映し出される虚構世界なのだから、それは似つかわしかった。大正と昭和戦前の映画館には舞台がついており、花道さえある館もあって、実際、芝居をやったり町民大会もやった。
しかし戦後ともなると、演劇は映画に駆逐され滅んだ。映画館は安普請で雨後のタケノコのように日本国中に乱立した。
戦後の映画最盛期にも、明治大正の館は生き残り、新時代のフィルムを上映いたのである。
劇場はメデイアである。巨大な仕掛けの、夢の工場だった。共同体の魂がそこに生きていた。映画の歴史とはいえ、劇場の歴史にも言及する本稿のねらいは、そのあたりにある。

保原忘己館の参入

大正6年の福島新聞によると保原町に新劇場が参入した。
10.26.{忘己館(保原町)伊達郡保原町九丁目大久保イシ並に桑島貞治の両氏は同町に娯楽場のなきを憂ひて多額の私財を投じて建築中なりし常設館は此程竣成認可申請中なりしが今回認可されたるを以て郷社神明宮秋季例祭に旧劇市川照蔵一行を招き落成祝をなし華々敷開場五日間毎夜盛況なりしが今回は周年の蛇を上演し本人囃子幸太郎並に一条浄連師を熱演実物大蛇を使用して観客に供すべしと}

保原劇場の舞台開き

大正9年5月5日、保原劇場の開館披露式が実に華やかに行なわれた。
「保原劇場 五日舞台開き」(民友5月3日)〔延若八百蔵一座が乗込む 伊達郡保原町有志等は地方階月の一手段としてさきに保原劇場を計画せしが三万円の株主組織として社長に松田栄之助、専務熊坂邦雄、取締に佐藤幾之助、管野洋吉、小林吉兵衛、太宰保次郎、遠藤貞二、鑑査役に青柳平内、木村岩次、栗原安次郎の諸氏を揚げ昨年九月より工事に着手し建築は伊東国治氏内部の造作は乃村泰資氏をして担当せしめ爾来八ヶ月を経て要約竣工したるより、落成祝ひを兼ね舞台開きとして東京松竹会社の専属歌舞伎幹部俳優実川延若、中村雀右衛門の一行片岡愛之助、浅尾開十郎、実川雁蔵、林女長、実川八百蔵、中村芝太郎、実川延枝等八十七名の大一座を聘し来る五日より四日間開演する事となりたる〕
5月7日民友。〔保原劇場の舞台開き 延若と=雀右衛門の人気 不景気の風は 何処を吹く〕の続報がある。
〔青い麦畑の間を縫ふて、歌舞伎役者の浅黄の旗が、折柄ふ□みふ□ずみの愚月の空になびいてゐるのは宛がらの美しい叙景詩である。伊達郡保原町有志発起の下に地方開発の一手段として建設された資本金三万円の保原劇場の開館は芽出度一昨日、さうした美しい叙景詩的の背景裡に華々しく差右所の幕が切って下ろされた、館は凡そ一千五百名を収容し得るとの噂だが、当日は観客が一杯で鮨詰の光景それに保原、梁川辺の芸者がそこここに陣取って一層の景気を添へる(後略)〕とある。

川俣座と川俣中央劇場

川俣座(川又座・通称中丁)は常泉寺の入り口、門前橋のたもとに明治21年資本金480円で歌舞伎好きの10人の旦那衆によって建設された芝居小屋。初代座主は斎藤寿太郎。寿太郎は川俣町中丁生まれの生粋の川俣っ子で川俣で召集令状を受けた最初の人。当時は仙台鎮台と呼ばれた第二師団に入営。日新戦争に従軍した。帰国後、川俣座で中売り(売店)を開きながら興行師として活躍した。また料理人としても腕が立ち、寿司屋も開店していた。寿太郎の死後はせがれの幸作が二代目斎藤興行所を引き継ぎ演劇界の発展に尽くした。
川俣座の落成式には名代の岩井半四郎、名脇役中村播之助、名女形名中村芝雀らが、開通した東北本線の松川駅から人力車でやってきた。大正4年に増改築して映画常設館になり、大都映画の近衛十四郎、阿部九州男、松本宗三郎、牧野智子、琴糸路、東竜子らを映し出した。戦後2度近衛十四郎一座が来演。息子の松方弘樹はまだ子供で中嶋食堂主人がよく一緒に遊んだという。戦後は歌舞伎の松本幸四郎、市川海老蔵、阪東味津五郎、大谷友右エ門、市川八百蔵など、芸能人では水之江滝子、寿々木米若、霧島昇、三波春夫らが舞台を踏んだ。
大正4年8月14日民友。
〔伊達郡川俣町劇場川俣座は過般来数千円の予算を以て改築中なりしが愈々落成せしかば更に内部の装飾を施し来る九月一日より七日間改築披露祝として大演劇興行を挙行せんとて目下東京俳優連へ交渉中なりと云ふが福島、郡山、川俣、松川、飯野各方面の有志より寄贈せられたる五彩の美を尽せる引幕殊に福島中村呉服店より寄贈の鈍張(緞帳)は絢爛として頗る見事なるものの由にて目下開場の準備中なり〕
6年頃に常設となり、チャップリン等が人気を博した。
大正9年5月5日民友に〔川俣町引地興行部で川俣での活動〕として〔二日より日活の「殉職松本訓導」〕上映を報じている。同じ伊達郡の桑折座での翌月の〔大正九年六月廿弐日 廿日、廿一ノ両日、松本訓導〕の記録にあるのは同じフィルムだろう。
大正11年3月、川俣座は東北弁士協会の岡庭梅洋氏が経営一切を引き受け、館内外を刷新。帝キネ特選フィルムを上映。頗る好評。話題の「幼年時代の乃木大将」も上映。帝キネ弁士長の梁川旭東氏が説明に立った。
景気の良かった大正9年12月には川俣中央劇場も建設され誕生した。
川俣の郷土史研究雑誌に載った三浦正男氏の「昔を懐かしむ『川又座と中央劇場』」という文は、大正の川俣の映画懐旧を描いている。
〔私が小学生のころ、常設映画館として川又座(通称-中丁)と中央劇場(通称中劇-日和田)があり、大衆娯楽の殿堂として覇を競った。川俣町民はどちらのファンということなく、映画の題名によって中劇周辺の人たちが座に行ったり、座周辺の人たちが中劇に行ったりしていた。
テレビはもちろんのこと、ラジオもなかった時代なので映画(そのころは活動写真=活動)と言っていた。人によってはシネマとかキネマとか外国語で言う人もいた)は、大人も同じだったろうが子供たちにとっては、それこそ再興最大の楽しみだった。内容は旧劇(時代劇)と新派(現代劇)の三本立てで午後七時ごろ始まって十時半か十一時過ぎになることもあった。旧劇の方が人気があり、新派では“己が罪”などが女性の間で人気があり話題になった。シネスコ(シネマスコープ)は戦後出現したもので、あのワイドスクリーンで音量が高く、私が初めて見たのは福島のセントラル劇場「エジプト」という題名のものだった。スクリーンに写る素晴らしい場面に圧倒された。
さて、川俣ではどちらも特別の場合を除いては夜の一回興行だった。その頃の映画会社は日活、松竹、帝キネ、大都、それに新興だったと記憶している。
活動が大体同じ時刻に終わると、瓦町の辺でゾロゾロと帰宅する両方の観客が顔を見合わせる。“座はいいがったか”“中劇はどうだった”“オラ方もいいがったぞ。あした座に行くかな”“オレは中劇に行ってみようか”などと話を交わしたりした。懐かしい思い出である。〕
川俣中央劇場は、新潟出身の建築家古俣乙治が工費2万円かけて建設。三階建て、ドームつきの洋風建築で日活直営だった。古俣は川俣精錬会社、染色学校、旧役場をはじめ福島市の福島座、本宮町の映画館などの洋風建築も手がけた。
大正10年に東京日活と契約して特約館になった。日活の目玉の松ちゃんはこうして中央劇場で川俣町民のアイドルとなった。
尾上松之助主演の「荒木又衛門」は一週間の大入りとなった。大正13年の来川挨拶では松川駅から人力車で川俣を訪問したが大正15年には松之助一座は同年2月に開通した川俣線の汽車でやってきた。しかし松之助はこの年9月に死去しているから最晩年であった。
川俣ホテル社長の大泉吉三著「川俣の歴史写真集2」には、川俣中央劇場についてこう語る。
〔大正時代は平和そのものであり、巷には「船頭小唄」「枯れすすき」の唄が流行し、映画化されて、非常な人気を呼んでいたのである。入場料は大人十銭、子供五銭であった。
活動常設館は、一週間ごとに新しいフィルムを上映する。そのたびに楽隊が町をめぐりチラシをまく。夕暮れともなると、音楽隊は屋根能rで懐かしいメロディーを吹奏した。昭和3年、館主古俣乙治は宣伝自動車を購入した(25円の中古車)。川俣町における自家用車第一号である。〕
古俣セツさんは管内の様子を次のように語っていた。
「尾上松之助の出演する映画は、いつも満員でした。田中絹代の出演した『月よりの使者』は一週間も大入りでした。連続物では、何と言っても『丹下左膳』でしたよ。電話で上映日の問い合わせが来たほどです。その頃冬になると、館内では十銭で火鉢を貸し、夏は地下の売店で氷水も売って居りましたし、ラムネやお菓子も売って居りました。一ヶ月のフィルム代が350円でしたので、経営は楽ではありませんでした」と。
三波春夫は当時、浪曲師南条文若と名乗り再三来川し、後年のような人気はなく巡業先のあてもなく、三日楽屋暮らしをしていたという。
生駒雷遊が来援した時には「生駒を知らずして活動写真を談ずる勿れ」「雷遊の名調子益々冴ゆ」という宣伝ポスターを貼りだした。「沈黙」という洋ものを上演する予定がフィルム未到着で「荒木又衛門」をやったが、男性的美声で時折七五調の名調子。雷遊とともにダンサー木村時子も来演。浪曲家木村友衛が「河内山宗俊」を熱演したこともある。
川俣座と中央劇場は一時不和になったが以後、同じフィルムを融通するなど融和した。
(三浦正男による)
戦中や戦後に芸人たちが頻繁に地方に来演したのには、深刻な食糧難という事情があった。
「食べるためにやってきたんだよ」と、川俣座の三代目斎藤弘治は語る。
近衛十四郎が息子の松方弘樹を連れて何度も川俣にやってきたおり、松方は中嶋食堂で遊んでいた。そこは二代目斎藤幸作の妻妾の宅であった。
双葉百合子や島倉千代子などの華やかな歌手も来川しているが、すべて丸唐という興行社を通じた契約で、美空ひばりが山口組と深い縁を結んだような独特にして特殊な芸能界特有のつながりがある。
斎藤弘治の弟の長沼康光は、川俣コスキンの生みの親であるが、康光は川俣座にあったピアノや、蓄音機に子供の頃から親しんでいた事情が音楽好きになった背景にある。レコードのクラシックから楽器の演奏に、コンチネンタルタンゴからフォルクローレに嗜好が移行し、音楽の後継者を育てた長沼康光も彼の川俣コスキンも、すなわち、川俣座の歴史に直結しているのである。

松楽座の開場

松川村にはかつて松川座という芝居小屋があったがすぐに閉鎖し、松川村を基点とする鉄道川俣線が敷設着工されたのを機に、村勢発展を企図して阿部運送店が一万数千円を投じて公会堂兼劇場「松楽座」を建設。大正13年9月23日、落成開場した。福島警察署長はじめ有志数百名を招待。午後一時より開場式を開き、挨拶に登壇した阿部店主は開会の辞で「由来松川は一の農村に過ぎざるも、昨今川俣鉄道起工と同時に著しく発展したのであるが未だ公会堂も劇場もなく為めに村民の慰安娯楽の道もなくわざわざ福島や二本松に行かねばならぬのでいつか之を除く為め劇場にして且公会堂を兼ねたものを建設せんと考へていたのでありましたが、今回村内有志の助力を得て此松楽座を建設した次第である、農村振興等の声も盛んでありますが折柄よく働きよく遊ぶといふ風に村民がなりますれば農村の振興は期せずして実現し得る者と思ふのであります、幸ひにして我松楽座がその目的に添ひますならば私の深く肯綮とする所であります」と劇場開設の動機を述べた。続いて桜内村長らの祝辞あり、親族代表茂木氏が答辞を述べて宴に移り石川金六丈一座の芝居「揚巻助六」「千本桜忠信」を喝采裡に午後十時まで上演。二十四、二十五、二十六の三日間興行した。

桑折座貸与記録にみる活動興行

桑折町では明治期から桑折座という劇場を持っていた。桑折座の運営規定などの文書が今に残っている。「桑折町史」第7巻資料編4近代資料によると、桑折座は明治20年に千円で建設された。舞台開きは4月23日より東京歌舞伎が興行されている。なお以前には法演寺の境内などが(芝居興行等に)頻繁に提供されていたという。桑折座は明治39年に再組織され、それ以降の帳簿が残されているため、興行の日時が分かるし、地方小都市の興行の状況を知ることが出来る。その資料的価値は高い。
「桑折町史」に収録されているのは「明治四十年二月桑折座組合契約書」をはじめ「明治三十九年度桑折座組合記録」「明治三十九年度桑折座貸与記録」「大正九年度桑折座貸与記録」などで、これらの記録によって、当時の興行演目、日付、建元、賃料などが判明する。「明治三十九年度桑折座貸与記録」には最古の映画関係記述がある。
〔四月九日
一、 金参円五拾銭 半沢ツネ 建元
活動写真 四月八日・九日約定ノ処、八日不入、九日分一日座料 后年度ニ附替ニ附取消〕
また「大正九年度桑折座貸与記録」には、特に映画興行の諸記録が収められている。
〔大正九年六月廿弐日 廿日、廿一ノ両日、松本訓導(注。殉職もの映画)
一、金拾五円也   活動写真座料
大正九年七月五日 七月二日〆四日まで、中一日丸札、
一、金弐拾円也  二日分座料、不入ニツキ割引 多賀之丈、八百蔵一行
大正九年七月拾日  七月四日・五日両日、国勢調査活動写真
一、金弐拾円也  座量
小計金五拾五円也 大正九年七月十二日、角田会計殿渡シ
大正九年七月廿壱日 七月十九日・廿日両日、堀一派活動 一日拾円ノ定メナリシガ不入ノタメ一日マケ
大正九年八月六日 六日、東京日々新聞社活動写真
一、金拾五円也 小計金弐拾五円也 大正九年八月三十日相渡
大正九年九月七日
一、金弐拾円也  弘法屋建元活動、五日・六日二夜座料
大正九年九月拾四日  九日・十日・十一日・十二日・十三日・五日間、新派清水正夫
一、 金参拾五円也  一派三日間、不入ニ付割引 小計金五拾五円也 大正九年九月拾四日相渡
大正九年九月廿弐日  十九日・廿・廿一日、三日間  日米巡業活動写真、座料
大正九年九月三十日  二十六日・七・八・九ノ四日間、横浜連鎖劇、不入及株札百枚配リニ付、割引
一、金弐拾五円
大正九年拾月八日  二日より四日間、引続キノ興行ノタメ値引建元川俣引地 小計金八拾八円也 大正九年拾月拾弐日相済
大正九年拾月廿六日 廿四日・廿五日、二日間
一、金弐拾五円  軍人分会建元、尼港活動
大正九年十一月弐日
一、金拾弐円也  十月三十日・十一月一日、二日間 浪花節壱行
十一月二日  十月三十一日・十一月一日、二日間
一、金弐円也  富岡活動壱行
大正九年十一月拾弐日 九・十・十一日、三日間
一、金弐拾五円  大阪芝居壱行、不入値引
小計金七拾弐円也 大正九年十一月廿七日相済
大正九年十一月廿日  昼夜二回、
一、金拾弐円也  飯坂新升屋建元、明治神宮活動
大正九年十一月三十日 三日間、稚男浪花節一行
一、金拾八円也  大正拾年参月五日 相済
大正拾年参月八日
一、金参拾七円也 三月三日ヨリ四日間、浪花節連鎖劇新派
一、 金弐拾円也 三月拾八・九日、弐日間、活動写真 小計金五拾七円也 大正拾年四月廿壱日 相済
大正拾年五月七日
一、 金弐拾円也 軍人団劇、二日分座料
大正拾年五月七日
一、金弐拾円也  大阪活動 二日座料 小計金四拾七円也 大正拾年五月六日相済 通計金四百拾七円也
外ニ金拾五円也  弘法屋地代
金参円也   同 下肥代
合計金四百参拾円也
右之通ニ御座候也 組合長 半沢金兵印
大正十年六月十三日 会計角田三左衛門
「桑折座組合事務取扱帳」(桑折座文書四)〕(「桑折町史」より)
興行はしばしば不入りで値引き、割引をしていたことが分かる。
他の県下の劇場でも、このような営業活動が類推できる。

広瀬座の移築と文化財指定

伊達郡梁川の広瀬座は、平成2年、福島市の民家園に移築され、国の重要文化財として登録された。1992年3月梁川町教育委員会「梁川町広瀬座(解体)報告書」および1996年2月福島市教育委員会「移築報告書」によると、広瀬座には芝居小屋時代の大道具小道具のほか2148枚の辻ビラが保存されており、昭和に入ってからの映画390種の映画が含まれている。これらは経営者の荒川チエ氏の手によって守られてきた貴重な資料である。(以下はパンフレット「福島民家園」による)
旧広瀬座 (平成6年9月復原)福島市師弟有形文化財
構造・規模 木造、一部二階建て、入母屋造り、杉木羽葺き
一階床面積 500.538平方m
二階床面積 227.027平方m
地下(奈落)54.08平方m 延床面積 781.645平方m
旧所在地 伊達郡梁川町字北本町7番地の1
〔旧広瀬座は、伊達郡梁川町北本町の広瀬川川岸に建っていた芝居小屋で、棟札には明治二十年(1887)三月上棟とあるから、竣工もおそらく同年中であったと推定される。
主棟の規模は桁行約16間(約21.2m)梁間約9間(約16.6m)平面積約141坪(約482平方m)、そのうち、桁行11間半(約21.8m)梁間6間半(11.8m)の上屋の部分に舞台および中央平土間を収め、四方におろした下屋の部分に、上下階三方の桟敷席や楽屋・入口ホールなどを配する。
奥行4間半弱の舞台の中央の廻り舞台と、その床下にはこれを操作する奈落を設けているほか、花道・ぶどう棚・ちょぼ席などひと通りの装置を備えryが、花道下の奈落は当初から省略されている。(花道から登場する役者の通路として、これに代えて上下廊下を建築直後に補設)
外観も土塗り真壁造り、木羽葺き、開口はすべて無双窓とするなど全般にわりあい簡素で古式を保つが、小屋組には明治中期の建築を反映して、大スパンの様小屋(真束小屋)が採用された。
なお楽屋の内外の壁板には、当時来演した役者達の落書き(墨書)も多数残っている。
明治から大正にかけて、地方の中心都邑にはあいついで常設の芝居小屋が建設され、やがてこれらは活動館にも兼用されてゆくが、広瀬座は建築年代からみて、その早い方の遺構にあたる。移築にあたっては映画館等転用の際の改造をすべて取り除いて、筋違や市中による補強を別とすれば、ほとんど創建当時の姿に戻されている。
全国的にみてもこの種の遺構は数棟が遺存するにすぎず、その中でも明治全般の遺構は早期のものに属し、とくに貴重である。〕
明治の、地方の劇場とはこんな風であったのかと、当時の様子を髣髴とさせる。
明治20年に出来た芝小屋が文化財になるのだから、ほかにも文化財になりそうな建築物がありそうに思われる。ところが実際には日本全国でも劇場は数例しかないのだ。広瀬座が福島県最古の現存する芝居小屋になってしまったのは偶然にすぎない。経営者である梁川町の新井夫妻の個人的な保存への熱意と、これを支えた人々の情熱のたまものだった。
しかし、それでもなお広瀬座の値打ちは、芝居小屋として立てられた百年前の姿に復元されなければ認められなかった。なぜなら広瀬座はこの七十年間、改造された映画館として親しまれてきたのであって、決して演劇場ではなかった。映画が発明されて百年になるというのに、いまだに映画が文化として評価されているとは言えない。映画館が文化財になったわけではないのである。広瀬座は、ありふれた芝居小屋として生まれ、大正期に活動常設として変身し戦後まで生き延びた。他の多くの小屋と同じように。

広瀬座の映画記録

大正2年の梁川広瀬座組合決算報告が記録として残っており、これによると、
〔一、金拾円也 渡辺活動   一日分
一、金四円也 イムパテー 活動 一日分
一、 金拾六円也 尾崎 活動   一日分
一、 金拾四円也 団十郎活動   三日分〕
などの記述がある。イムパテーとはエムパテーの訛だが、福島座が明治末にエムパテーの名を冠した少年活動写真隊を雇っていたから、時期的にこれかも知れない。
〔主流は演劇で、活動写真の興行も行われている。広瀬座の使用料が一日五円を基準となっている。/大正三年以降の分は、板壁のらくがきで判明した分を列挙してみる〕と、旧広瀬座移築保存工事報告書にある。(付録「梁川町の芝居興行」より)
〔大正は珍十月廿一日/水戸トリ井座ヨリ来る/大入三日間〆切/新活動連鎖/泉一派吉野美好来る〕
〔大正九年○月廿八日/大入満員木戸止メ/日米同盟活動/長野一行〕などの映画興行の落書がある。
大正8年7月5日民報には〔梁川で評判のユニバース キ子オラマ 福島座と川俣座でも上映〕との記事がある。キネオラマは福島、川俣と融通したフィルムだろう。
同報告書「昭和戦前・戦後の興行」によると、〔昭和に入ると広瀬座は、芝居座とししてよりも、映画館として変身していった。二階には映画映写の設備をしている。〕とあり、〔梁川町史の資料から、広瀬座の状況を表示すると、次のようになる。〕と数字を引用。
〔昭和二年の興行 活動写真六四日〕新派演劇、浪花節、奇術、講談など合計92日。
〔昭和六年の興行 活動写真四〇日〕演芸、新旧合同劇、レビュー、民謡など合計57日で、映画興行が占める割合がきわめて高いことを示している。
〔この時代の入場料は、映画は大人一五銭、小人(子供)は一〇銭が相場で、桟敷席が一〇銭となっていて、そのほか、ナホリといって、普通入場者が桟敷席になおることもあったが、下足料は一〇銭で、当時の下足札が残っている。〕
明治に誕生した広瀬座は、大正12年ごろ、梁川町内の新井常太郎が活動常設にした。常太郎は戦後しばらくして亡くなり、小屋をひきついだ明治生まれのステヨ、大正生まれのチエ、昭和生まれの友子の女性三代新井家という家族の手で守られ生き延びた。昭和39年、ステヨの娘チエが、何とか「ばあちゃんの宝物」広瀬座を守って行きたいと夫の昇と映写技師をつとめながらあれこれ赤字の解消法を考えた。その結果、実入りのよい「汲み取り屋」を始めた。チエの息子の貞雄も東京の大学生活を送っていたころに知り合った友子と結婚。最初はきらっていたが、父を助けてバキュームカーのハンドルを握るようになり、借金を返して小屋を維持できるようになった。友子も映写技師になった。新井家という家族が守った広瀬座は、平成になって、文化財として指定を受けた。
筆者は梁川広瀬川の川岸にたっていた映画館の頃、広瀬座がまだ動いていた昭和50年代に見に行ったことがある。冬の日、すきま風の入りそうな寒々とした館はいかにも田舎の場末の古ぶるしい劇場で、情緒があった。斜陽の中で瀕死の状態だった小屋は、福島市の民家園に移築され創建当時の姿に戻った。
ひっきょう広瀬座は、今日もてはやされる芝居小屋としてではなく、滅んでしまったかつてのすべての映画館の幻影のように私には見える。

安達郡の劇場・映画館

「岩代町史」には明治25年12月の「小浜劇場新築許可願」という文書が収録されている。
〔劇場新築御許可願
安達郡小浜村大字字藤町四拾五番地 松本亀太郎
安達郡小浜村大字小浜字美南月山拾九番
一 劇場   但木造茅葺弐階付
右私儀今般劇場新築支度、尤御成規ニ基キ堅牢ニ構造仕候間、御許可被成下度、別紙関係書類及図面相添此段奉願候 以上
明治廿五年十二月 右願人 松本亀太郎
福島県知事 日下義雄殿(是面略)〕
このほかに、安達座という名が新聞に見える。岩代町立図書館で調べたら昭和9年に発行された「小浜町郷土読本」によると、〔安達座は当町字藤町にある。明治二十八年の創立で建坪八十一坪、収容人員七百人、株式組織になってゐる。随意賃借することができる。〕とある。
明治にできて藤町にある、というのであれば、小浜劇場の異名であろう。その他の劇場の記述はなく、政友会の集会場ぐらいが町の公会堂だった。
二本松には、明治15年にできた双松座という芝居小屋があったが、丹羽時代にならって、「常舞台」と俗称していた。活動写真は明治39年に初上映した。(二本松市史)
明治44年3月発行の「安達郡案内」(安達郡役所)によると、〔劇場 字松岡にあり、双松座と称し、常に各種の演芸絶ゆることなし。〕とある。
トーキーは昭和8年に第一小学校での上映が最初。大正時代には双松座でのおとくい様の招待映画が流行していた。双松座は大正の頃と、戦後に映画の常設館となった。昭和4年に、根崎に二本松劇場が設立された。戦争が激しくなった昭和18年に劇場は閉鎖され、中嶋工場が疎開して来ている。(二本松市史)
双松座は戦後は直営館として二本松東宝や二本松東映などと名を変え、昭和32年まで存続した。(斎藤正太郎氏談)

本宮の劇場

本宮町には朝日座という芝居小屋があった。明治26年に建設され、その後に東北本線の汽車の煤煙が飛び火して焼失してしまった。「本宮町史」には明治26年提出の(朝日座の)へ机上新築許可願が図面とともに掲載してある。場所は蛭田52番地。中側朝治という人が経営者。営業免許の許可願も同時に出している。
「本宮町史」によると、本宮座は大正3年に出来た。戦後は本宮映画劇場として様々な催し物の会場となり映画を上映。昭和40年代に閉館した。
「本宮町史」から「映画」の項目を転用する。
〔本宮地方で、興行的に「活動写真」が上映されるようになったのは、一九一四年(大正三)五月に本宮座が建設されてからである。それ以前は学校などで随時上映されたらしいが、それらの記録はみあたらない。一九一〇年(明治四三)の『安達郡統計書』の「諸興行」の項には「活動写真」は記されていないが、一九四三年(大正三)の『安達郡統計書』には本宮の「活動写真興行一三回」と記録されている。〕〔町民に長い眞「定舞台」として親しまれた本宮座が造られたのは一九一四年(大正三年)五月である。一九一九年に発刊された『本宮案内』の中に「株式会社本宮座 字中条九番地にあり、大正三年五月の設立にて、新式設計に依り建設されたる現代的美観の建物なり。興行及び小会場に貸し料金の収受を目的とす」と紹介されている。当初は小松茂藤治らが投資し、資本金五二〇〇円であった(大正五年『安達郡統計書』)が、のち経営を村井某にまかせたという。
木造三階建ての建物は建築学的にも貴重なものであり、舞台は回り舞台が取り入れられ、人力で回した。舞台に向かって左側には「花道」と呼ばれる役者の入退場用の通路もあり、観客席は優に四〇〇人以上を収容できるものであった。地方巡業で暮らすたび役者の一座には、数週間も楽屋に寝泊まりして公演するものもあったという。
本宮座ができてからは、芝居・観世物・寄席・映画(活動写真)・音楽会などが季節を問わず、しょっちゅう興行され観客を集めるようになった(中略)
大正末期(十二月二十四日)「本宮座村井」の名で出された「内活動写真」のチラシは、「私事多年当劇場に起臥仕り、皆々様の御引立を蒙り、殊に過日愚妻死去の際には多大の御同情を蒙り候、就ては其御厚恩に報ゆる為め、追善興行として日活会社の活動写真を聘し、従来の木戸銭より大減額・大勉強にて御高覧に供すべく候」との村井のあいさつがあり、内容として、旧劇(時代劇)「地雷屋おでん」三巻、滑稽劇「薄馬鹿白髪巻」、」泰西奇談「自殺倶楽部」二巻、家庭劇「天真爛漫」「リリーの家政」、喜劇「廃兵の親切」、新派大悲劇「夜嵐おきぬ」三巻のもり沢山、入場料は大人七銭、小人四銭・下足一銭と記している。
一九三五年(昭和十)前後のものと思われるチラシには、旧六月一日、マキノ超大時代劇「破恋痴外道」(監督二川文太郎、小金井勝主演)・マキノ特作「加賀見山」(監督吉野二郎、谷崎十郎、マキノ智子主演)とあり、入場料大人・小人均一で一〇銭と記されている。「映画」という語が使われるのはかなりあとの時代だが、郡山市で有名であった弁士・藤井小梅が出演しているところをみると、無声映画が多かったと考え、一九三五年前後と推定した。〕
昭和5年の福島毎日には(11.27.)〔本宮座主 菅野平次郎〕との記述がある。
「本宮町史」によるとその建物は、
〔字中条の街道から細い路地を西へ入った御国東向きに建つ旧本宮座の遺構は、一九一四年(大正三〕会社創立と同時期の建築である。敷地は旧日輪寺の寺地跡にあたり、西裏には墓地、北方にも当時畑地に用いた空き地があったらしい。
遺構の原形は、竣工当時の写真や現況などから察するに、ファサード部分屋内側に設けられた桟敷は三階建て、平土間とその両側桟敷および舞台・楽屋などの範囲は二階建ての高さとし、ファサードは木造モルタル塗りの洋風、その他の部分は土壁下見板張りの外面仕上げとし、屋内の仕様は全く在来の芝居小屋の延長であったらしい。
会社創立発起人の一人であった町内の小松家に保存されていた「大正三年五月・本宮座建築仕様書」など四冊の記録(小松千代家旧蔵・町立歴史民俗資料館収蔵)によると、便所二ヵ所を含み、回り舞台下(奈落)を除く「惣建坪」は一四二・六五坪に計画され、工事請負は「福島建築工務所」であったこと、また、備え付けの常式大道具の製作は、郡山の近藤豊吉であったことなどが判明する。書中に表示されている「別紙図面」はみあたらず、別に郡山の「大正座」の記入ある図面が残るところから推すと、その設計図を模したことも考えられる。
その後、映画の導入とともに本宮劇場と名を変え、内外の修理・改装も経たらしいが、現在は倉庫に転用され、上階はすべて閉鎖されている。将来、改装あるいは解体に際して棟札等がみあたれば、棟梁名が判明する可能性が残る。〕
とされる。

郡山最初の劇場清水座

国書刊行会の「写真集郡山」には「清水座の内部」という写真が掲げられている。そして、〔明治十七年ころ芝居、寄席興行のために創立され、同二十六年には板垣退助・河野広中などが来場、政談演説会場にも利用され、郡山の人達の娯楽場として、一番古い歴史をもっていた(現まるみつ)。大正初期に映画館となり、北町にあった富士館・大正座とともに夜毎のジンタの音は、郷愁をさそった。正面席・二階席いずれも畳敷きで、活弁華やかに、人の中売りの声も賑やかだった〕
とある。清水座の名の由来は最初に立地した清水台による。
明治26年に柏木貞三郎の出した「劇場改築願」が残っているが、狭隘をきたしたことと建物破損を理由に、字柳内一九八番地に移転新築の申請をしている。柏木は当時すでに「劇場営業免許人」の資格を持っており、改築願の中でこう言っている。
〔劇場改築願
福島県安積郡郡山町字大町百拾八番地 平民 柏木貞三郎
自分儀明治二十年八月一日ヲ以テ劇場営業ノ許可ノ証ヲ得安積郡々山町字清水台弐拾八番地ニ劇場ヲ新築シ今日ニ至ル迄テ営業致居リ〕
つまり明治二十年八月一日に新築したとしているのだ。また、移転改築の理由を次のように述べている。
〔第一湿設ノ地ニシテ衛生上大ニ害アリ第二ハ真誠社ト称スル製糸場ニ接シ居リ彼レ是レ不適当ノ思ヒヲ生シ従来ノ建物者目下稍破損ノ有様ニモ立至リ〕
日付は7月12日。御願人柏木貞三郎(印)の署名と、「安積郡々山町字地主安藤久兵衛」と隣接の「同郡字柳内百九十八番地平民小林丹蔵、渡辺熊吉、石田松十」の承諾書が添えられ、日下義雄県知事に宛てられている。

関東大震災を撮影した柏木貞三郎

大正12年9月の関東大震災の被害の様子を、郡山の劇場経営者柏木貞三郎は、親類の伊東馬吉と連れだって撮影した。35ミリフィルム400メートル、約8分間のものが残されている。昭和51年になって、須賀川市内で発見された。
震災直後の惨状が克明に写され、三日間燃えたという火災現場、幅10センチ、長さ数10メートルにわたり亀裂した道路、逃げまどう市民の姿から、各所に横たわる痛ましい遺体などが写されている。馬吉らは震災発生と同時に親類の柏木と災害の模様を後世に残そうと独自の撮影隊を結成し、宇都宮までは汽車で、あとは馬車を乗り換えたり歩いたりして苦労して都内に入り、翌日から撮影した。
昭和51年に須賀川で発見され、9月1日の震災記念日には、柏木と伊東ゆかりの須賀川中央館で上映された。柏木はその後もしばしば郡山の出来事を撮影している。
大正12年当時、柏木は清水座と須賀川座を経営しており、福島民報新年号に広告を載せて、その陣容を紹介している。
「座主  柏木貞三郎
演芸部主任 若水一声
部員  花園鶴声
同   花村二郎
同   薄井松旭
同   高木夢之助
同   松永緑声
同   清水一郎
須賀川座
演芸部主任 水原桃太郎
部員  小野春洋
同   尾方清子
同   三沢伊織
洋楽部主任 鈴木光三郎
部員  成田慶助
同   鈴木明
同   鈴木久五郎
撮影部 村上樹濤
高木和吉
外座員一同」
たいへんな一大企業であった。特徴的なのが、撮影部という部署があることだ。大正9年に既に「近来は面目を一新して撮影部を新設し弁士劇を組織」と新聞にあるので、期限は古い。この撮影部のカメラは郡山の行事を克明に撮影しては自館で興行にした。それが歴史的な映像史料にもなったのである。
演芸部というのがいわゆる弁士群である。弁士は当時の花形職業であり人気商売だったから、弁士劇というのを実演した。オールスターの顔見せ興行であった。

大正当時の郡山の劇場

郡山で映画を上映した劇場には、大正座(北町)、郡盛館(北町)、清水座(北町)などがあり、「志水座常に演劇をもって開場すれど建物古く清潔を欠く。大正座、郡盛館は活動写真を常設す。郡盛館は寄席なり、他に共楽座(中井堀)ありしが、現時倉庫となる。」という古い記録がある。
「郡山市史」の「大正時代の娯楽と遊技場」によれば、
〔郡山では、大正初期に駅前通り北町・柳内などが娯楽飲食街として拡張されていった〕としている。
大正館と郡盛館では活動写真を常設し、清水座はおもに演芸や芝居を常設していた。
「20世紀郡山の人脈」から、さらに詳しく郡山の劇場を俯瞰してみる。
「大衆娯楽の普及と活動写真
大正時代は大衆娯楽として映画館(活動写真)が急速な伸びを示してくる。
郡山でこの方面で活躍した人物として、当時の話題となっていた人物を、古老の聞書や新聞記録などから拾ってみると駅前では清水座の柏木貞三郎、堂前堤下では佐藤治三郎が話題の人である。
柏木貞三郎 映画興行の走りといわれ、大正時代から昭和に至る清水座、大正座を経営し、大衆娯楽を提供した。清水座は郡山では最も古く、明治20年ごろに清水台の地に貸し舞台として設立したのが初めて。映画上映したのもここがはじめといわれる。大正10年に、改修修理して映画館常設館とし、当時の娯楽機関としての好評を受け、昭和10年代には、映画王とまでになった。
佐藤治三郎とともに、郡山映画興行界、大衆娯楽のリーダーであった。
佐藤治三郎  演劇、映画の興行界ばかりでなく花柳界にも顔を出し、一面には侠客的気質で、芸妓屋や、遊郭を買収経営するなど多方面に活躍している。大正六年に、共楽座を買収し緑座(劇場)を経営、その間、市会議員(四期)公職にもつき手腕を発揮している。
治三郎の全盛時代と言われた、昭和三年には経済界の不況の中で、「景気快復」と銘打って麓山公園広場で、独力で商工博覧会を四カ月の長期にわたって開催し観客数数万人を動員したことは、当時の語り草と今に伝えている。
嗣子勝治は戦後父の事業の興行界を受け継ぎ、郡山劇場、緑座(演劇、映画、堤下地域)を経営する傍ら東北芸能協会を組織するなど、芸能界の振興に尽くしている(現在は興行界から退いている)。
戦後の大衆娯楽として映画の普及はうなぎ登りに成長し、一時期は佐藤興業社代表佐藤勝治)の全盛時代となったが、全国的のテレビの普及時代を迎えると、映画界は衰退する。戦前の佐藤母娘は、興業界で多額納税者の中に入ったこともある。」

大正座郡盛館から文芸座へ

このうち大正座は明治44年の開業で、戦後は大勝館と改名。大正11年頃には常設館が3館のみ。大正座は一度廃業し、11年春から再開した。12年当時は営業主任栗原雷岳、館主熊谷金三郎。
また大正館は郡盛館と改められ、さらに大正8年8月に改築されて「文芸座」として生まれ変わった。8月19字民報は「大正館改め郡盛館は改築、文芸座に。ユニバーサル社と特約」連続映画を上映する予告をしている。
「郡山文芸座」〔新築して近く開演〕〔復活したる郡盛館〕
〔郡山興行界から幾(ほとん)ど忘れられた大正館改め郡盛館は爾来幾星霜に亘って手を換へ品を換へて幾多の試みも竟(つ)ひには敗残の憂目を繰り返して今日まで廃墟のようになってゐたが愈々今回同町陣野重仲氏が奮起して従来の欠陥を根本的に改善して内容外容共に一大改築を加へて面目を一新し其名も郡山文芸座と改称して来る二十日頃から華々して(く)興行することになったが矢張りキ子マ界万能の時柄とて同界の大立物ユニバサム(ル)会社と特約して奇抜清新なる連続映画を上映すると云ふ事だ更に余興としては毎週交代にて浅草公園御園座から松島一行の滑稽仁和賀が加はると云し弁士は斯界の一流西村楽天、染井三郎等の斡旋で二流どころの顔触れにすると云ふ努力なそうだ。
又郡山最初の試みとして平土間の半ばを椅子式にして規模が宏大ではないが何処迄も新しい扮装をすると云ふから天活の清水座と、日活の屋衣装座と対抗してシネマ界は賑やかになる訳である〕

平和館の開館

大正9年4月19日〔平和館上棟 今回郡山町柳沼忠三郎氏発起経営の活動写真館は作十七日上棟式を挙行したるが、館名を平和館として工事を急ぎつつあれば遠からず又一名物を郡山に見るべきか〕
8月11日〔平和館の開館から三巴の活動戦始る〕とあり、〔国活 清水座、日活 大正座、パテー文芸館〕の三館にくわえて平和館が参入し、共楽座も時々映画をやった。これら5館による巴戦が展開される郡山の映画会の情勢を報告している。文芸館とは、いわゆる郡盛館、つまりもとの大正館のこと。
〔郡山の演芸界は去る八日活動常設館の平和館が蓋を明けていよいよ賑はって来た、従来でも活動常設館は国活の清水座、日活の大正座とパテー社の文芸館が三巴鼎立の姿で・・文芸館は場内不整備とあって代々数名の経営者が匙を投げ目下は休館中であったがそれでも芝居、浪花節、手品、落語何んでも御座れと共楽座が向ふを張って幾ど寧日なく開場して所謂常連を作り上げてゐたが何と云っても現在趣味として活動写真の優勢な処から共楽座でも常設館的な設備をして臨機応変時期によって活動写真を出してゐるのであるから盂蘭盆とか正月とかの物日には前記の四館が活動写真を一斉に出し物にして観客の一大争奪戦が始まる処が従来の活動小屋は旧時代の劇場の改築で所謂常設式の小屋がないと云ふ見解から今度の平和館が生まれた訳でここに五館の活動写真を映写する場処が出来た訳である共楽座と文芸館は臨時濡津としていよいよ大正座、清水座、平和館の三館で猛烈な三巴戦が始まった日活提携の大正座は例の岡崎仁市氏が経営して劫々(なかなか)奇抜な試みをして観客を唸らしてゐる国活の清水座は柏木貞三郎氏座主経営者として堅実な経営振りではあるが近来は面目を一新して撮影部を新設し弁士劇を組織するとか人気は頓かに沸騰してゐる平和館は矢張り国活提携で柳沼忠三郎氏が孤軍奮闘の姿で運送店の主人公からキネマ界に乗込んで来た興行界の素人・・〕
大正10年新年広告には「清水座、須賀川座(座主柏木貞三郎)、模範劇場 みどり座、活動常設 大正館」などが名を連ねている。
大正12年の新年号にはみどり座が「高級劇場」とされただけで同じ顔ぶれの広告が載っている。昭和7年頃には一部が入れ替わり、清水座、大正座、緑座、昭和館の5館の名がみえる。
「郡山活動写真館況」(昭和7年年1月12日民友)は、〔郡山警察署の調査によると昨年一月から十二月までの間に於ける郡山市活動常設館の入場者は大人が二十七万九千五百五十八名、子供が六万三千四百三十三人、合計三十四万三千二百六十五人で更に常設以外の興行入場者は八万九千四百三十三人で各館中入場者の多いのは富士館であるがこれは郡陽映画界が日活ファン連が多い〕
と報じている。
昭和11年当時の活動写真館
名称     定員   場所 責任者
清水座    1000人  柳内 柏木貞三郎
大正座      950    大町 〃
富士館    1300    柳内 大野富蔵
新興館     500    堤下 佐藤治三郎
郡山会館    500    〃  〃
緑座(芝居)500   〃  〃

郡山周辺の劇場

現在は郡山市の一部となっている大槻町は、かつては安積郡大槻村。大槻村にも共楽座という劇場の名前が昭和初期の新聞に登場する。旧安積郡熱海座という館もあった。日和田村には日和田座という館が明治の頃にあった。明治41年1月25日民友に福島育児院の慈善活動写真会が「日和田座に於て開催せり」という記事がある。その後、日乃出座あるいは日の出劇場という名になったらしい。「日和田の歴史探訪」(森合茂三郎著・昭和51年11月刊)には〔駅から本通りをぬけた東北のあたり軒先を通った御国、これまた本町唯一の(注。本文直前に例示の銭湯に続き)劇場があって、廻し舞台もついていたという。今パチンコ店のあるあたりの細い道は観客でごった返しておったという。
秋祭りの頃ともなると、太鼓台やみこしも出て大へん賑やかだったという。〕
現在の熱海地区はかつて旧安積郡高川村。さらに熱海村になり、昭和40年に郡山市に吸収された。熱海地区明るいまつづくり推進委員会の「熱海町歴史資料集ひもといてみよう熱海の歴史」の年表によると熱海座は〔大正5年 高玉字樋口に高川村役場を移転。熱海座開設。〕との記述がある。
昭和30年代の新聞に樋の口劇場とでてくるのは、この熱海座のことだろう。

会津の劇場と映画館

会津若松で最古の小屋は、若松座と栄楽座らしい。「会津大事典」から映画・劇場の項目を拾ってみると〔明治末には栄町の栄楽座、七日町の若松劇場があって、旅廻りの常設芝居小屋で、いりいろな催しの貸し小屋でもあった〕という。詳細はよく分からない。
田中書店の田中善平が発行した明治42年の「若松案内記」の「劇場および寄席」に
〔若松市には劇場が二ヶ所、寄席一ヶ所ありて、新旧演劇、義太夫其他常に絶ゆる時なし。
○栄楽座 当市第一の劇場は栄楽座にして、興徳寺の西側にあり、株式組織を以て成立し結構壮麗にして、完備せる劇場なり。
○若松座 七日町常光寺の東側にあり、構造栄楽座の如くならずと雖も創立古くして常に演劇興行絶間なし。〕とある。
栄楽座は明治35年にリニューアルした。
〔腐朽して用をなさざるより更に株式組織として資金を募集し工事に着手せしが材木の切り組み等は余程進行せしも地行等は降雪の為め着手する能す解雪を待ち居ると云へば四月頃には落成を見るならんと云ふ〕(1月24日民報)という消息がある。
大正になって、活動常設とよばれた初期の映画館が次々に建設されるが、前述の「会津大事典」ではこう述べる。
〔大正初期から“目玉の松ちゃん”に象徴される活動写真時代が始まり、専門館の大和館が大和町にでき、毎夕方から楽隊(ジンタ)の呼び込みが始まった。栄絵悪座も若松劇場も映写設備を併設するようになり、夜二回の興行、やがて昼間からの興行となった。この頃はいわゆる弁士楽隊が全盛で、昭和二年トーキーが導入されると、映画全盛時代に入った。上六日町の会津館(松竹と洋画)や中川原町長楽座、と数も増えたが、やがて戦争当世下に入る。戦後、映画は国民娯楽の中心で若松大映、若松松竹、会津東宝、栄楽座、会津館(洋画日活)など盛況となった。一方、若松劇場は取りこわされ、大和館は改築がうまくゆかなかった。テレビ時代に入ってからは改築した映画館のいずれもが細々と続けるか廃業に追い込まれている。(竹田正夫)〕

若松劇場

「目でみる明治大正昭和の会津上巻」(国書刊行会)によれば、懐かしい劇場の写真が数葉掲げられ、そのうち若松劇場については〔若松劇場新築上棟式 年代が判然としないが大正初年の写真らしい。七日町常光寺の隣地広場に新設された芝居小屋若松劇場の建前である。/明治中期から七日町裏の磐見町新地区に遊郭ができ、明治四十一年に歩兵第六十五連隊が常駐するようになると、七日町や大和町が繁華街となっていった。その盛り場にできた常設芝居座がこの若松劇場で、会津方部唯一のものだったから、多くの男女の歓心を集めた。〕とあり、佐原信平氏提供の写真を掲げている。
当時の新聞をめくってみると、大正初年ではなく、大正9年2月22日、若松に若松劇場が竣工、とある。会津地方唯一のものだったというが、栄楽座の方がよほど古い。さかのぼって大正4年7月24日の民友には「若松活動写真戦 三館互いに鍋削る」という記事をかかげている。若松座あらため若松館という常設館が誕生したのが大正4年4月のこと。これが前述の若松劇場か。

活動常設若松館の誕生

当時の新聞をしらみつぶしに調べてゆくと、若松座は大正4年に若松館という常設館に生まれ変わり、若松劇場という館が大正9年に竣工したともある。この直後に、大和館が誕生。さらに大正10年に会津館、12年には平和館が参入して隆盛期を迎える。
地元の郷土史家らが記した書籍では、若松座と若松劇場が明治末の同じものとして書かれていたり、大正9年に出来た若松劇場が大正初年上棟された、などと記してある。戊辰戦争までは克明に歴史が研究されている会津だが、近代に至ると研究が手薄なようだ。
若松の大正初期の劇場と責任者の名前が新聞広告にみえる。
〔若松館 主任 佐藤定吉
栄楽座 主任 高島定吉
大和座 主任 佐藤勝太郎〕
(大正7年4.26.)
〔若松栄楽座 日活直営高島定吉氏開館以来昨五日を以て満四周年〕
とあるから栄楽座の常設としての開館が大正3年と分かる。
福島日日大正8年の正月広告には、
〔栄楽座 主任高島定吉 日活出張 加藤正喜
日活特約若松館
天活特約模範常設大和館 舘主佐藤定吉 耶麻郡塩川町新栄座〕
とあり大正10年福島日日の正月広告には、
〔朝日座喜多方 興行部 主任佐藤定吉 営業部 若松劇場 大和館〕
とある。
このほか昭和になって、長栄座が参入。
大和館は景気に浮沈しながら洋風に再築された。戦争中は大勝館から再生した新興館、戦後すぐ閉館した帝国館などの館名もみえる。これまであまり知られてこなかったが、昭和初期に開館した戊辰館といういかにも会津らしい名の館もあって、活発に稼働していた。

大正4年の会津映画界の賑わい

若松における映画館の誕生は大正4年に集中する。
大正4年4月16日に活動常設館若松館が誕生。佐藤定吉氏及び太田勇七氏等が〔七日町若松座主と高尚の上旧式の同座を最新式の常設館に改築工事中の所、愈今明日中に竣工すべきを以て、来る十六日(旧三月節句)より活動常設若松館と改称〕〔同日以後は一年三百六十五日雨が降っても風が吹いても雪が降っても休みなしに営業すべく、日曜および大祭日其他門日物日には昼夜二回開会し、昼の部は正午十二時より夜の部は午後正六時より開会し、入場料は当分お披露目的に大々割引し軍人及び小児は半額とする由。主任弁士は斯界の重鎮小柳宝須氏にして此他女流弁士富士田静子、新進の勝野岱声氏等外数名あり。第一回着の写真は日活会社大傑作の「白縫たん」全四巻、伊太利タライ会社傑作の泰西大悲劇「ファーザー」、天然色全三巻、米国セリグ会社県章(懸賞ヵ)作品「馬の入院」、米国ハビン会社作大活劇奇談「腕づく」、仏国パテー会社作極彩色の曲芸「バリー嬢の秘芸」、同伊太利セノアの風景等を重なるものとして総尺一万百以上の逸物なりと云ふ〕
大正4年5月18日、若松館を追うようにすぐ大和館が開館する。
〔同館員全部は昨十七日午後七時より音楽隊を先頭として市内に提灯行列を為し、今十八日午前十時より開館披露としてしないの各官公□長及び市会議員各新聞記者其他の有志約二百六十余名を招待して酒肴を饗し、同十一時より余興をなしフィルムの封切り試写をなし午後三時に閉会、午後四時より敷居内の稲荷祭を施行し盛大に紅白の餅まきを為し六時より開館して一般の観覧に供する由なるが、重なる写真は伊太利アンブロジオ会社作古淡サタン城上中二巻、日活会社傑作旧劇本所七不思議全二巻六十五場、日活特選新派大悲劇女屑屋全三巻等にして、土曜日には昼夜二回開会すべく開館時間は昼午後一時、夜七時にして入場料は一等大人十五銭、小人八銭、二等大人九銭、小人五銭とし軍人は小人並の由〕
その後、大和館ではその頃人気のあった「カチューシャの歌」の独唱会などを企画し好評を得た。以上は「会津日報」から。同紙は会津若松を中心とする地域新聞だが、民友にも大正4年の若松の活動写真界の賑わいが載っている。

三つ巴の常設館

「○若松 活動写真戦 三館互に鎬を削る」(民友4年7月24日)
〔若松の興行界は今や活動写真界の独占で、大和館、若松館、栄楽座の三常設館が一日の休みもなく互ひに観客の吸集(収ヵ)に猛烈な競争を続けてゐる各館を通じて斬新の写真を取替る許りでなく、栄楽座では此程若竹若太夫とやらいふ新内の出語りを入れて客を釣るかと思へば、大和館では姉妹館の新潟のひんぴら館から山本といふヴァイオリンの妙手や、大倉智恵子といふダンスをやる女を連れて来て喝采を博したるが、二十日からは向ふ一週間先客三百人に毎夜森永の菓子パールを一個宛呈する外、千枚の無料入場券を数千枚のチラシと一緒に配って人気を取るなど、戦術をさをさ怠りない。こんな具合で宣そうがなかなか激烈なので其筋でもジッとしてゐられず、フィルムの検査はする場内の取締はする勤めたものだが、今本月前半期に於ける三館の入場者の第一位は若松館で五千六百八十一人、次が大和館の五千五百十八人、栄楽座は五千百五十七人で一番渺ないが収入は四百八十五円で第一位を占め、大和館は四百三十九円八十七銭で、入場者の割合に収入の渺ないのが若松館で三百九十一円十六銭、これは大小を併せてだからこんな筋を示すのであらう。これを一日に平均してみると三館を通じて千九百二人強で、収入は八十七円七十四銭ばかりになるこう計算してみると技師や弁士さては女給仕から下足人足までの給料、フィルムの損料等を差引いたら残る処それ若干、その上こんな戦争を敢てして何うしてやって行くのか不思議な位だ。然しこの戦争が那辺にまで進み局面を展開するかこれからが見ものである。〕
「○活動写真の収入」(民報・大正4年7月24日)〔何と言っても若松市である栄楽座の活動写真常設館が鼎立して何れも隆盛を極めてるなどは誠にすざまじいもの本月十五日迄に於ける半ヶ月間各種の収入を比較して見ると栄楽座が第一位で五百二十円大和館が四百十九円と云ふ順序である客胤は栄楽座が宣いようで一等席が何時でも満員大和館は毎日曜中や兼行の大車輪で尚且つ栄楽に及ばぬとは気の毒である〕
大正4年で特筆すべきは、昭和に一般化するトーキーのさきがけキネトホンが、すでに会津で公開されていることだ。この項はのちのトーキーの章に紹介する。
大正7年2月17日民報に〔旧正月に特別興行として上場しつつある 仮名手本忠臣蔵全通し十巻松之助一座の傑作品△チャプリンの喜劇水上靴全二巻△□装歌劇最長尺其他〕とプログラムが紹介されている。
大正10年の消息として、会津館の着工がある。
〔会津館の起工
若松市田部喜作、佐藤運三郎氏等の計画せる活動常設館会津館は此の頃上六日町角に起工着手したるが当初の予定は旧正月迄に局に会する筈なりしも工事を完全にするため来る四月竣工することとなれり〕

この他の会津の劇場

河沼郡坂下町には、栄楽座と公会堂(のちの銀星座)という小屋(劇場)があった。
明治40年の会津日報には「坂下歌舞伎座」という別な名称の劇場が登場してくる。どちらかの館の異名だろう。
また大正10年の「河沼郡案内」には、「柳盛館」という活動常設館の名が記されている。
〔活動常設 柳盛館 館主 中島重太郎 河沼郡坂下町〕
今は町村合併で自治体名が変わってしまったが、旧野沢村には野沢劇場、旧日橋村には広田劇場というのがあった。
広田座は昭和10年9月13日に煙草の吸い殻がフィルムに引火して全焼した。
裸参りで有名な柳津町には、福満座という館があった。同町の公民館によると、昭和15年に開館し、36~7年頃に閉館した。
旧宮下町には宮下座、旧長沢町には長沢座という館があったが詳細は分からない。
このほか、戦前の新聞によると、玉村という所に、赤松座という館名が登場するのだが、変転する行政単位をさかのぼってみても、現在のどの地区になるのか判明しない。
喜多方市には、朝日座という芝居小屋があり、地元でも創立年が分かっていない。明治25年頃のチラシが残っているが、詳細不明。昭和45年まで映画を上映して生き延びたが、山田医院の開設の際に取り壊された。
大正7年の正月広告(福島日日)に、
〔朝日座 五十嵐義盛 喜多方〕
とある。
耶麻郡では猪苗代町に、大正の頃、新開座という館があった。
昭和初期には塩川町に新栄座、川桁鉱山に川桁劇場が存在した。
山都町には、昭和3年の朝日新聞に「山都町 都座」の名が見える。
磐梯町には、大正5年に大寺座という館が出来た。
会津高田にも、大正5年に信富座ができた。
田島町には、明治31年頃の新聞に、芸妓芝居をやった愛誠座という名が出てくる。開館・閉館は不明。
田島に新道が出来た明治17年に、石川屋子寺富三郎という人が、上町和泉魚屋の奥に、会盛座という劇場を建てた。富三郎は背の丈百七十センチもあり坊主頭のがっしりした大男。侠客肌で、旅役者をいつも手元に抱えており、東部、西部、昭和村まで手広く興行して廻った。
これをみた渡部太郎八という人物が、大正になって西町の谷地に弁天座という劇場を建てた。会盛座は映画を上映しなかったが、弁天座では差別化のために映画を主体にしていった。このため戦後まで映画館として生き残った。
大正後半、富三郎は気力をなくし、舞台のことをすべて婿の又八にまかせた。興行不振となり、楢原地区に舞台がなかったため譲渡話が持ち上がり、渡利に船とばかりに又八が売り渡した。会盛座は解体移築されて楢原の姫川座として再建された。(渡部盛造「奥会津の語り火」より)
歴史の町会津では、歴史資料が豊富なせいか、近代百年は相対的に影が薄いようだ。

田村郡の劇場・映画館

三春には民権運動家らによる明治に出来た三春座があったが、昭和館が常設館として昭和3年に登場した。大正13年の入場料金大人三十銭、小人十五銭。
昭和3年8月24日民友から当時の弁士の名も見える。
〔島暁蘭と其一党 吉田孝太郎
今度、三春町に新規な構造によって活動常設「昭和舘」が生れた。我れ等は即ち一夕の歓びを求め、安らかき訳を得るために「映画」に接したいと考へた
昭和舘主は大超金次君であるがその経営は福陽説明界の花形島暁蘭君である、既に定評赫々たる島君が三春映画ファンに対して今後如何なるセンセーションを巻起こすかわれ等の大いに期待するとこである。島君の幕下には時代物を得意とする萩原暁翠君が居る、同君は未だ若き闘士であるがアカヌケのした口舌はファンをして独りでに恍惚たらしめる又小田汀遊君は何処となく底力のある中の柔らか味を現す説明ぶりで非常に感じがよい新派の荒井暁峯君も又前途ある若き説明者である〕
現在の小野町はかつて小野新町と称され、大正9年5月1日民友に「河野翁万歳で終始した新町演説界の盛況」という記事に「同町眞開座」とある。この表記とは別に昭和3年の朝日新聞に「新開座」と出てくる。新町会館というのも常時映画上映していた。開館前というバス停に名残が残っている。
旧滝根町には、昭和3年の朝日新聞に「神俣旭座」という館が登場する。神俣駅前にあり、弁士の島暁蘭、藤井小梅らが活躍した。大正頃にできた館で、木っ端葺きの屋根がのちトタン葺きになったが、バラック作りで、戦後の一時期は粗筵を敷いて桟敷で映画を楽しんだという。昭和44年の映画年鑑にも健在。地元で聞いたら島暁蘭が二号さんを蓄えて通っていた、とは館の近所の商店主人の談である。隣の大越町には大越娯楽場(大越劇場)という館があった。公民館に聞いたら、役場の一部機能が、この建物を利用しているとのことだった。
船引町には、船引劇場が昭和6年にできた。のち船引会館と改名。地元の船引図書館で、地元の文献でのみ確認できたほどマイナーだが、地元の一時代の映画を担った。
旧田村郡瀬川村には大倉座という館があった。現在の船引町に含まれる。
都路村には、都座という館があった。土地の人によると、都旅館という場所で映画をみた記憶があるという。常葉町には戦前からの常葉町公会堂が娯楽の殿堂だったが、これは町の施設。現在の役場の場所にあった。

須賀川座と中央館

明治のころ、須賀川には岩瀬座や豊座などが存在した。映画常設館として中央館が誕生したのは大正9年のこと。
須賀川座は昭和元年に豊座を改築して誕生した。(須賀川市史)
〔須賀川座が山口重吉の個人経営の芝居小屋だったのに対して、中央館は株式会社組織で活動写真専用に新築された。大正8年2月の臨時総会における出席株主は58名(委任共)、その株数296株で、取締役社長に塩田養吾、取締役に金子常八、道山篤弥、太田善吉、佐藤郡寿、監査役は大橋貞吉、吉田金十郎が選ばれている。
館内は畳敷きで、一階左側に売店がならび、煎餅、ラムネ、酒、饅頭を売っている。二階の後側には鍵清が高級菓子店を出していた。映画館の表二階に楽隊の席があって、映画開始前客寄せの音楽を奏するのが常だった。映画が替わる度に楽隊が幟を持って町廻りをした。その頃から理髪の値段と映画館の料金は同じだといわれていきた。館内には警官の臨検席が設けられていたほか楽隊のボックスが舞台下にあった。〕〔大正十三年八月末には有名な目玉の松ちゃんこと尾上松之助が挨拶廻りに中央館を訪れファンの歓迎を受けている。〕(歌川栄三郎談)
〔大正9年1月、岩瀬郡医師会は活動写真機とフィルムを購入し、管内の小学校、青年団、処女会、消防組、各種工場などを巡回したほか、遠く福島市の招聘に応じて二回赴いている。〕(須賀川市史)

白河劇場共楽座・友楽座の来歴

県史および県民百科では、白河の最古の館は関根座とある。活動常設ではなく、芝居小屋だった。地芝居(草芝居)を興行し専属役者がいた。白河宿のもと本陣の裏である。明治39年に活動写真「旅順二〇三高地千両及び剣山激戦」「東郷大将凱旋新橋駅頭歓迎」「霧の軽気球海中墜落」などの実写フィルムを上映したのが白河で最初という。この関根座を買ったのが繭の仲買商人で昭和初年のこと。改良座と改名された。さらに後には緑座となる。「目で見る白河の100年」によれば、「改良座」に言及がある。〔▼改良座の夜景(白河市・昭和初期)当時の芝居小屋が改良座となる。芝居の情炎はもとより、活動写真も上映された。のちには「みどり座」となってゆく。共楽座、友楽座などもあり盛況なころであった。〕との解説。
共楽座は、白河劇場と呼ばれ、大正4年にできた。戦後まで建物は変わっていない。株式組織で、設計は東京の市村座を模した。廻り舞台・せり上がりのある花道・楽屋・升式の客席のある劇場で当時「東北には盛岡劇場を除いて他には見られぬ壮観で、実に立派な、白河のみでない、本県にとっても過ぎたるものの随一」と称されたという。(国書刊行会「写真集白河明治大正昭和」より)
しかし当時の新聞で調べてみたら、大正10年12月には競売されている。あまりに過ぎたる施設だったのが災いしたのか。
大正4年2月28日福島日日新聞。
〔廿五日開場 白河劇場
△雪にもメラぬ観飾(観客ヵ)
▽花のやうな電光飾
各組合よりの幔幕引幕沢山
東北に於ける大劇場として誇るにたる白河劇場は間口十二間奥行廿一間の大建築物にて工費二万五千円弱を要したるが愈々二十五日顔見世として花々しく舞台開きの式を催せり当日は余寒烈しく空に風さへ吹き荒ひ 午後三時頃迄には殆んど満員の盛況を呈し場内は華やかなる花電灯及提灯等にて星の如く装飾し三業組合呉服商組合宿屋営業組合津野呉服店カブトビール等より寄贈の緞帳殊に人目を惹き団体見物等もあり尚会社側にては服部社長をはじめ白河新報社長金十、遠藤、大谷福次郎氏等の重役連約三十余名しきりに斡旋の労をとる〕
当日は朝からの細雪が午後二時から大雪になったが、約千人の観客が音羽屋、大和屋の歌舞伎に沸いた。芸者連、鉄道連の団体も混み合って係員は忙殺された。
大正9年5月26日民友。
「白河活動常設館成る 資本金五万円の株式会社」との記事では、
〔白河町に活動写真の常設館設置計画中なりしが株式申込満了せしに付き去る二十一日其設立総会を大町内花楼に開けり取締役社長に大槻荘之助、同大槻時之助、同伊藤秀蔵、同吉田宗助、監査役は大木真一郎、同飯田吉兵衛、同小林忠治 当選せり資本金五万円にして四分の一払込み敷地は百余坪なり建設地は花柳界に近き向新蔵町にして頗る適当の場所なりと〕
これは友楽座のことだろう。
白河劇場の系譜についてよく知られるのは、実はそれが閉館する平成4年のことで、新聞各紙は白河劇場の来歴についてそれぞれ報道した。
〔70年の歴史に幕 白河劇場(白河町上ノ台)は荒川清助が「友楽座」という芝居小屋を大正七、八年頃に買収してスタートさせた。〕(民報H4.1.23.)
同じ日の毎日新聞は「白河からも映画の灯が消える!」と報じているが、文中には〔共楽座を買い取って〕としてある。
共楽座と友楽座と、混同があるようだが、競売に付されたのは共楽座のほうで、しかも大正10年12月のことである。荒川が買収したのはどちらなのか。地元白河での精確な研究が待たれる。「写真集白河明治大正昭和」には、同書編集中にかろうじて白河中央スター劇場という館の建物が残っており、昭和54年2月に撮影され、解体寸前の数日前の写真が収録されている。

塙劇場の建設概要

塙劇場は大正6年に開館し昭和47年に閉館している。塙図書館に調べていただいたら大正7年の福島県知事から塙劇場に対する興行許可証が残っていた。また郷土史家金沢春友氏の肉筆原稿「塙劇場の回顧」があったので紹介する。
「塙劇場の回顧」
〔由来倒置法には、興業場としての娯楽機関なく、これを成さんとすれば、一時的の小屋かけ式舞台であったんである。よって常設劇場を建設せんとの議が起り、一・二有志間にその声が出たのは、実の明治の末葉であり、大正の初期であった。然るに是を結構せんが為には、その筋の許可は当然であり、且つ多額の資金を要するのであり、これが根本的問題であった。
偶々本問題に関し、賛意を表し金の投入に同意を表された人に荒川常次郎氏あり、次いで白石禎美氏があった。このお二人の同意がえられるならば、問題は簡単であると、筆者は喜んだのである。そこで早速設計を了し、建設場所は白石氏所有地三百坪を借地することの承諾を得、ここに県官の事前了解をえて劇場建設の設計をまとめた。而してこれに要する資金は最小金二千五百円である。これを一株二十円の株式とし百二十株の応募者があれば、成し得るのである。これを両氏に計りまた承諾をえた。
かくなる上は県の許可を得る事が第一であり、筆者は急遽出願御願を作製し、大正六年六月九日、時の県知事川作卓吉氏宛許可申請書を提出した。然るに数回に亘ってやっかい極まる調査であったが、許可は意外に早く四十二日目の七月二十一日許可の指令に接した。
福島県指令内八〇九八号(朱印)
東白川郡常豊村大字常世中野
字雨谷参拾八番
荒川 常次郎
明治二十二年一月一日生
大正六年六月九日 願常設興業場建設ノ件許可ス
大正六年七月二十一日
福島県知事川崎卓吉 印
当時の株主は十三名であり、十二月二十日設立総会を開催しその承認を受け、早速設立登記を申請し、同月二十二日登記を了した。
商業登記広告
株式会社設立
一、 商号 株式会社塙劇場
一、東白川郡常豊村大字塙字町木戸拾難地
一、目的 常設劇場ヲ建設シ演劇ヲ興業シ其利益ヲ得又ハ之ヲ貸与シ其賃貸料ヲ得ルヲ以テ目的ヨス
一、設立年月日 大正六年拾弐月拾日
一、資金ノ総額 金弐千五百円也
一、壱株ノ金額 金弐拾円也
一、各株ニ付払込ミタル金額 金弐拾円也
一、公告ヲ為ス方法 劇場前備主ノ掲示板
一、取締役ニ氏名住所
白石禎美
荒川常次郎
金沢春友
一、監査役ノ氏名住所
金沢・・・
藤田賢次郎
右大正六年十二月二十二日登記
白河区裁判所常豊出張所(住所は省略)
建築工事は当地の大工石井雄次、吉成兵衛・成瀬健氏の三名に、金二六〇円の工賃で請負わしめ、翌七年三月二十五日落成した。次いで五月二十二日落成届けを県に提出し、県官の指令に接した。
(許可証略)
認可された翌二十三日、落成と共に開場式を挙行した。当日は村長代理として助役藤田幸太郎氏、村会議員代表として下里菊三郎両氏が祝辞を述べてくれた。而して観劇祝賀に移り、一切の工程を終わり今日に至ったのである。
この建築は劇場であるが故に、梁間土間奥行十間の舞台と下屋を合せ、建坪百四坪の建築であった。
この小屋組には特殊の工法を取らねばならないのである。而して第一梁材に使用する長尺材木は入手頗る困難である。板にこれを二本継ぎとし、二重小屋組の設計を取った。当地方で四十二尺持ちばなしの二重小屋組は、これが初めてであったろう。また外部は福島市の菱沼ペンキ店に依頼し、全部塗装したのであるから、実に美しく仕上がり、当時県下一といわれたのであったが、これは五十六年前のことである。〕

浜通りの劇場と映画館

いわきで初めて映画が上映されたのは明治38年暮れで、平座でのこと。「いわき市史」映画の項目「活動写真の普及」によると、〔明治三十八年飯坂出身の高松豊次郎が、東京・大阪を歩き回り手に入れたフィルム、外国もの「英蘭銀行五人組大賊・屋内の盗賊」および「佳人の奇遇」「名誉の斥候」などの日本もの(後者は日露戦争の劇映画のようである)をはじめて福島市で公開した。それが好評であったため、同年暮れ平座で公開したが、これがいわき地方の最初である。〕
これ以前に〔いわき地方での活動写真の普及はどうなっていたかというと、明治三十二年人寄せ定席において、水難救助を扱ったフィルムの幻灯会が行われている。〕という。聚楽館でのこと。スライドによる動かない絵を映して見せた。
「いわき商業風土記」によると、聚楽館は〔明治22年10月に、現在の二丁目平和通りにあった平町役場を26円3銭で買収し、人寄定席の出願に始まった。同館と前後して谷口楼が経営した「協楽亭」とともに、平前異物であった。聚楽館は・・・明治32年に初めて活動写真を上映した。題名は「悪七兵衛景清」で、一画面をつなぎ合わせたスライドのようなものだが、明治っ子をびっくりさせた。米一升九銭九厘のころ木戸銭は一五銭。〕という。それなら、映画ではなく幻灯だ。
いわき市史は〔明治二十二年四月市町村制が施行され、戸長役場制度が廃止された。この廃止された戸長役場を買取って、平ではじめての大衆娯楽場を経営したのが飯田一二である。〕と説明する。
明治35年の「磐城平案内」(会田敏著)には、聚楽館について〔館は平町中央に在る演劇場なり館主飯田一二氏の所有に属し平町未た公会堂の設なし故に大衆の会合は主として此館に拠る優に千五百人を容るるの余地あり〕と書いている。

平座と聚楽館

いわき市史では〔平の大衆娯楽場は人定寄席聚楽館が最初であった。明治二十二年十月のこけらおとしだ。平町二丁目、今の鈴木庫左右氷店の角から、堀川に面した一角であった。いまはその堀川はフタされて道路になっている。経営者は飯田一二であった。〕
とある。
平座は平駅前中央通りに、明治35年から一時中断しながらも4年の歳月をかけ明治38年11月に日露戦争の戦勝記念で出来た。回り舞台8間半、化粧部屋27という偉容を誇る立派な劇場だった。明治38年8月9日の福島新聞に「平の舞台落成 去三十六年より工事中の石城郡平町の劇場は愈よ落成したれば旧盆を期し開場する見込の由」との消息を伝えている。
こけら落としは歌川豊斎も錦絵に描いた東京名題歌舞伎の千両役者市川九団次、片岡市蔵一座を招いて華々しく長期興行を打ったが、翌39年2月の平大火で焼失している。
このとき芝居小屋の聚楽館も類焼した。のち飯田の手で明治39年11月に平町一丁目に再建され、昭和40年代まであったが、昭和48年2月に再度火災で焼失した。
福島民友新聞社刊「福島百年の人々」によれば〔いわき平に平座と名づけられた東北一の大劇場が完成、活動大写真の連続上映で県下の話題をさらった。この劇場は加納五郎、川隅豊吉、荒木忠光ら地元の有力者が中心となり、東京の新富をまねてつくったといわれる。加納は常磐炭田開発の功労者加納作次郎の孫にあたる。人気の平座は翌三十九年二月、平大火のさい惜しくも焼失した〕とある。
「福島案内記」には、
〔平館 磐城平にあり天活特約の館にして好評なり松田卯太郎氏営業主任なり〕との解説がある。平館とあるのは、大正6年に出来る平館ではなく、明治にできた平座のことをいっている。当時、劇場の名を○○館とか、○○座とか併称していた。
39年には平町に豪奢な劇場が誕生する。聚楽館である。
〔●平町聚楽館開場式 平町にては本年火災の為め劇場二ヶ所を失ひ娯楽場として皆無なりしが座主飯田一二なる人先頃より普請中なりし標題の劇場今回落成せしかは東より俳優市川団升河原崎国太郎中村歌女之丞松本鶴升等の名優を招き去る十二月二日より尚五日間大演劇興行のこととなり平地方は一方ならぬ人気なりとぞ〕
(民友12.4.)

平館・有声座・世界館

聚楽館と平座は明治の館。明治44年に三丁目山木屋の増住良吉によって芝居専門館として平駅前に有声座が建てられ、大正になって平館ができた。
「現今平町案内」という冊子には「娯楽場」の項に、〔常設活動及劇場-平館(松竹)、有声座(帝活)。臨時劇場-(平劇場)、聚楽館。〕と記されている。
有声座は大正3年頃には松田一郎の経営。もうひとつ大正6年10月に誕生した平館は松田卯次郎の経営。これで平の活動常設館と劇場は4館体制となった。
「平館」は、木造二階建130坪の豪華建築で、南町に異彩を放ったという。〔白地に赤く染め出された「活動写真」の大幟がハタハタと風にひらめいた。このころは第一次世界大戦景気に磐越東線の開通など「金のなる木」の盛りだった。〕(いわき商業風土記)
大正6年10月発行の「磐城平案内」(平役場)では、劇場として4館を挙げており、
聚楽館(劇場 一丁目)
有声座(活動写真館 田町)
協楽亭(寄席 一丁目)
平館 (活動常設館 南町)〕
「いわき市史」から映画の項目を続ける。
〔大正六年(一九一七)南町に平館が建設された。有声座は、すでに大正三年(一九一四)郡山からやってきた松田一郎により活動写真を上映するようになっていた。〕
大正8年6月7日の民報に「活動常設館平館の椿事 映画中に爆発す」の記事がある。
〔石城郡平町活動常設平館にて去る四日午後十一時新派劇「夜の鶴」映写中突然機械室より爆発し一大音響と共に場内昼を欺く電光に輝き物凄まじき光景を呈し三百余名の観客は狼狽して逃げ場を失ひ右往左往の大混乱を極めたるも幸ひに大事に至らずして済みたるが技師の不注意より漏電せる結果らしくヒルム一巻を焼失するに至れり〕
大正10年には劇場新築の消息がある。
〔平湯本好間の各地
平町にては先年劇場平座の焼失以来不便を感じつつありしが今回平窪村猪狩米吉氏発起となり資本金十万円の株式を以て平町白銀町に大劇場を新設することとなり真木技師設計の上五月下旬工事に着手し工費四万二千円を以て十月三十日落成する予定なり尚同郡湯本村及好間村にても有志相計り劇場を建設する計画あるは平町と同様真木技師を招じ設計中にて約二万五千円の工事費なり好間村は従来の内郷座を大字町田堅坑付近に移転し一部を改造すべくその工事費一万五千円を要すと〕
これが平劇場であり、新しい内郷座、好間座の誕生直前の姿である。
大正14年発行の「平町案内誌」には次の3館の広告が掲載されている。
〔松竹直営 平館 二丁目 電話四六六
東亜直営 平劇場 白銀町 電話五五五番
日活直営 有声座 田町 電話四四六〕
有声座は明治末の44年に三丁目山木屋の増住良吉によって芝居専門館として平駅前に建てられ、ちょうど行われていた浜三郡品評会では、新装の有声座で平芸妓の手踊りなどが披露されている。「いわき市史」によると有声座は〔ついで白銀町の世界館ビルのありところに移転再建され、平劇場と称した。この劇場はビザンチン様式のトタン瓦葺のモダンな建物で、出入り口も三ヶ所あった。ところが、昭和三年(一九二九)十二月、正月興行の準備なった暮の三十日に不運にも焼失したのである〕
最初は芝居専門の小屋だった。「いわき商業風土記」によれば、昭和初期にはいわきには、平劇場はのちの世界館の場所にあった巨大な劇場だったが、正月興行のために改装が終わり、元旦興行を待つばかりの昭和3年12月30日午前2時に出火して、不景気風とともに焼失した。駅前の有声座は、帝キネと東亜キネマのサイレント映画を弁士つきで上映していた。
平館は松竹・日活系で、昭和7年6月に「声の出る映画」が初めて出現。松竹オール・トーキーの「マダムと女房」であった。
平のトーキー導入は昭和7年。
(昭和7年12-27民報)
〔平、新春の映画戦
インフレ景気の反映で相当華か
愈々年の瀬も押し迫って石城郡下の昨今、しのびやかなれどその足音をきくことが出来るインフレイション景気にあて込んで平町映画界では、「新春のほころびは先ず映画から」と、正月番組の作成に血眼になつてヰる
平館では来新年早々ニップトン発声機二台をすえつけ日活、松竹のトーキー版を上映して永らく地方人が待ちこがれていたトーキー映画によつて進む方針に決定一方世界館においては盛たくさんで安く見せるといふことをモットーに極めて大衆的な新興映画を上映して、永らく続いた赤字をこの正月に補填せんと目下それぞれ準備中である〕
との記事がある。
昭和12年1月、芝居専門の聚楽館が映画館に変身。PCL「エノケンのどんぐりとん平」でオープンして拍手喝采を受ける。PCLのほか大映、洋画も上映する番組編成を組んだ。当時の平館は日活系、有声座は松竹系の封切り館で激突していた。
有声座は「ヒゲの(鈴木)寅次郎」の時代になって国威発揚のため「世界館」と改称し「愛染かつら」で青春の夢多き男女の紅涙をさそい大儲けしたと語り草になった。しかしジンタの音色が軍歌に移り変わり、駅前世界館は強制疎開の名のもとに、昭和20年4月に姿を消した。終戦の120日前であった。

いわき地区の劇場群

いわき地区にはたくさんの劇場があった。
大正10年の福島民報の正月広告には、
〔磐城劇場株式会社 恵原猪三郎 内郷村
平町 日活直営 有声座
石城四ツ倉町  四倉座
赤井村福嶋炭捌 福島座〕
というのが出ている。
蛭田運平著「ふるさと」によると、田人地方で映画が初めて上映されたのは大正7年春のことだという。〔大正七年の春、一の倉の炭坑で野口雨情の哀切の詩を劇化した「船頭小唄」という枯れすすきの活動写真があった。活動写真というのは映画のことで、田人では初めてだった。〕しかし、「船頭小唄」は、栗島すみ子主演の有名な映画で全国に流行したが公開は大正12年のこと。
〔映画といっても炭坑の選炭場を改良してつくった一夜づくりの映画館で、映す映画もそれはお粗末なものであった。/しかし「船頭小唄」という題名は忽ちのうちに、村中のお客を吸引してしまった。どんなにすばらしい映画であろう、どんなに活動写真というものは素敵なものだろうと想像した。映画に写しだされる俳優とはどんなに素敵な顔なんだろう。//映画の呼び込みは熱狂的に高まり、映画館の周りにはたたみほどもある看板が立ちならび、弁士が熱弁をふるう。弁士は若いがちょび髭を生やして格好がいい。/村を回る呼び込み隊は船頭小唄の看板を背負い、一連隊とクラリネットを先頭に、フルート、笛、太鼓の十四、五名の大行進、村の娘たちがぞろぞろとついてゆく。//村の男女数百人がおしかけ館内はまるでむし風呂のようである。六時入場、七時に活動写真が始まるのだ。弁士が声をからしている。売店ではキャラメル、アンパン、センベイが売られる。//愈々船頭小唄の活動写真が始まる。場内は身動きも出来ない程、満員になった。口笛や、拍手で、かまびすしい。場内はサッと暗くなった。若い娘っこが押されてキーキーと騒ぐ、あんまりおさないように――あちこちでさわぐ。//河原が写り船頭の男女の写真が浮かび上がった。初めて見る活動写真の興奮は異常なものだった。船の船頭さんで暮らす青春の恋の物語にすすり泣くのだった。〕
という次第である。
県内の他に地域でも、初めて映画を見た人々の反応はこのようなものであったろう。
大正14年発行の「四倉町案内」には次の2館が紹介されている。
〔劇場 劇場は四倉座、海盛座の二つあり、四倉座は同町字仲町境河畔にて、海盛座は同町中須賀に在り何れも現代的の構造にして外観の美は勿論内部構造も亦愛劇家連の嗜好に適せしなりと。〕
四倉座は漁業斎藤常松氏が火災で持ち船を失ってから大正初年に建設した館で、追って13年に四倉座の隣に海盛座を建設した。
大正8年頃の境川岸に幟を立てた四倉座の写真や、大正末期の四倉座と海盛座の写真も残っている。14年の大正天皇の銀婚式を奉祝してセメント工場や旅館、商店街、魚介類の加工風景などが「四倉町実況」として16ミリに撮影したフィルムから起こした写真だ。四倉には八茎銅山という鉱山があり、漁港があったため豊かで繁栄していた。「いつの日か、この四倉の賑わいを、後世見るように」と、斎藤家の仏壇に代々伝えられてきた。子供だった二代目弥三郎氏も画面に映っている。弥三郎氏自身も戦後に映画館3館を新たにオープンさせ、映画最盛期に四倉と大野とで6館経営した。
「いわき市史」の演劇の項目に、明治の劇場について言及がある。
〔小名浜は、常磐線開通前は東京と直結する開場交通の港として、人の出入も激しく、娯楽に対する要望も強く、明治二十六年(一八九三)に磐城座が鈴木鉄次郎により創建されている。客席七〇坪、舞台間口六間、花道を有する立派な芝居小屋であり、裏に楽屋があった。常舞台と称していたが、これは常時、芝居が興行されていたことから言われたものらしい。月に一〇日間くらい興行し、小名浜・豊間・湯本あたりまで宣伝し客を集めた。
この外の地域では。湯本に三函座が作られた。また大野村八茎(四倉町)の千軒平に、斎藤常松の経営する五間に九間の芝居小屋が、明治三十九年から四十三年にかけて存在したという。これは八茎銅山の開発と関係があったと思われる。大正時代に入り、斎藤常松は四倉町に四倉座(間口七間、奥行十二間)を、さらに大正十三年に海盛座を開業経営した。大正八年には恵原猪三郎が内郷宮町に磐城劇場を経営し、炭坑の民衆に娯楽を提供した。昭和期に入っては大正期までにつくられた劇場の維持的使用とみられる。〕
内郷には竹之内座、磐城劇場、昭和館、内郷座などがあった。
〔磐城炭坑の拠点であった宮地区に芸妓置屋、料理屋が経営し、竹之内座、磐城劇場、昭和館などの娯楽場も開設された。これらの娯楽場では旅芝居、浪曲、映画などが上演された。いづれも二日または三日の短期営業であった。/この当時いわきには市民の集会所はなく、大きな団体の総会には娯楽場が使用された。前記の諸場も同様であった。/大正五年二月発行の友愛会機関誌「労働及産業」の記事には「(大正五年)一月三十日石城郡内郷村大字宮・竹之内座に於て、(総同盟)会長鈴木文治氏が出席して友愛会内郷支部の発会式を行った」と記載されている。(「総同盟五十年史」)友愛会内郷支部はその後も竹之内座を会場として数回の総会を開催している。/磐城炭坑の主力が宮地区から御殿方部に移ると共に、綴駅前に内郷座が開設され、労働運動史上に残る大会が開催された。/記録によれば「大正十五年八月二十二日綴駅前内郷座に於て日本坑夫組合内郷支部発会式を挙行した」〕〔映画がトーキー時代に移ったころ、第二磐城劇場が落成し、宮町の磐城劇場や昭和館(市内内郷二中西側)は姿を消し、内郷座と第二磐城劇場が映画常設館となった。〕(「内郷郷土史」)
昭和7年には江名町に新劇場「江楽館」が建設される。(昭和7年7.21民報)

昭和初期の浜街道劇場組合

最近「浜街道劇場組合会規則」という昭和2年の印刷物が発見された。これは福島県下浜通り地方の劇場で組織する組合規則に列挙された劇場の名簿で、大正末期から昭和初期の館主が一覧できるもの。いわき市史、相馬市史、原町市史その他の地域史にも収録されていない。各地の小さな村の劇場まで網羅してある。
これによると、
〔石城郡勿来町
共楽座主      鈴木己之太郎
窪田劇場主      小松作治郎
勿来座主      大久保音次郎
同植田町
菊田座主       藤田浅之助
同小名浜町
磐城座主        鈴木シナ
同上東野町
郷華座主       斎藤佐久馬
同盤崎村
藤原座主代表     小島亥次郎
同湯本町
三函座主       鯨岡久一郎
湯本座主       青木兼次郎
同内郷村
磐城劇場       恵原猪三郎
内郷座主        小野務平
同好間村
好間座主       渋川丑之助
同平町
有声座主        増住良吉
平舘主        松田卯次郎
聚楽舘主        松田一二
平劇場         草野清治
同四倉町
四ツ倉座主
海盛座主        斎藤常吉
双葉郡久之浜町
久之浜座主      新妻安之助
同富岡町
富岡座主       加藤伊惣吉
同浪江町
浪江座主        郡豊太郎
同新山町
新山座主       瀬尾繁之助
新山会館主      渡辺多三郎
相馬郡小高町
小高座主        石川伝吉
同原町
原町座主        大石善助
旭座主         日下庄吉
同鹿島町
東座主        沢田源十郎
同中村町
中村座主        畠山智正
新町座主        米倉平松
原釜座主       斎藤西之助〕
(鹿島座は一時東座の名前で経営されていた。中村新町座というのは、新開座の異名であろう。)

浪江座は明治20年代の開館。富岡は双葉郡の郡都になったが富岡座は大正5年の創立だ。現在の双葉町には新山座と新山会館の2館があった。中村座と小高座も古いが、記録がない。小高は相馬藩の最初の首府だったから城下町であり、南相馬地方の商業の核だったし、中村は移城後の首府で相馬郡の要として栄え、最初の日露戦争の活動写真も中村座で上映された。中村座は大正5年に常設化した。鹿島座(東座)は、相馬市史には大正の開館とあるも、明治年間に幻灯会をやったと当時の新聞に出てくる。豊かな海を持つ松川浦には原釜座という館があった。原釜熊谷座の異名もある。経営者の名前か。
原町は新興の新開地だが、明治25年秋に原町座が誕生。大正12年に旭座が開館した。同年中村に新開座(新町座)も誕生。

旭座の誕生

大正12年7月2日、原町旭座が開館。
アサヒ座は大正10年に開館された、と信じられてきた。原町市史年表にはっきりとそう書いてあるので信ずるほかなく、数えて50周年と60周年を祝う盛大な記念行事が昭和46年と56年に開催された。
しかし、60周年のときに、関場建設の蔵の中から、請負師の関場清松と朝日座館主日下庄吉との間で取り交わされた契約書が発見された。
日付は大正12年2月11日。5月31日限りの納期である。
・・・・・・
・    ・
・三銭印紙・
・    ・
・・・・・・
建築工事請負契約書
一相馬郡原町南新田字南東原
廿番地ニ建築スル劇場
二間口八間、奥行十五間卸下ゲ共
此坪数百廿七坪二合五勺
三様式及基礎工事共別紙図
面ノ通リ
四此請負金壱万参千円也
五建築落成期日
大正十二年五月丗一日限リ
六請負金ノ支払期日は工事監督
者ト協議シ受取ル事
七建築材料其他総テ県庁監督
官ノ検査ニ合格スル事ヲ条件トス

右条件ヲ以ッテ請負候ニ付契約
書弐通ヲ作製シ各自一通宛
ヲ所持ス
大正十二年二月十一日
旭座組合長 日下 庄吉 印
工事請負人 関場 清松 印

しかし完成は、契約の5月末までは間に合わなかったようだ。6月中旬に次の記事がある。

(大正12年6月15日民報)
〔原町東座落成
目下相馬郡原町東一番町に新築中なる原町東座はいよいよ落成に近づきたるが来る七月二、三、四の三日間東京から大名題を招いて花々しい舞台開きをなす筈である〕

東座というのは、南隣の鹿島町にもある。まぎらわしいが、東一番町という所在地の劇場の意味か。そしてついに、落成式当日の新聞に次の記事が載った。

民報7月2日。
〔旭座舞台開き
相馬郡原町南部三木人、布川実、松浦清蔵外数氏の組合で同町東一番丁に劇場旭座の建築中であったがいよいよ其の工事落成したので東京名代坂東勝三郎、中村翫十郎の大一座を招き二日より三日間盛大なる舞台開きをする筈であるが同劇場は裕に千二三百を収容するに足る可く中々宏壮なもので舞台や外廻りの飾り付なども頗る見事に出来上がった、尚ほ初日の出し物は左の如くである
第一、天下知桔梗籏揚(三幕)第二、絵本大功記(尼ヶ崎)第三傾城阿波の鳴門(お弓子別れ)第四、増補朝顔日記(宿屋より大井河迄)〕

開館記念写真の舞台の緞帳に刺繍された連名を見ると、当時のスポンサーが判る。次に掲げてみる。(右から)
K.Y.山崎自転車店
佐木材商佐藤儀平
旅館・御料理中野屋支店
内湯・旅館松乃湯
愛原印刷所
婦人良薬・山城屋商店
門馬呉服店
合資会社岡田商店
鈴木商店
御料理岩城屋
清 関場清松
東 松永酒店
東 松永商店
御料理越後屋
富岡屋酒店
写真高倉
旅館御料理西山旅館
小田製作所
桜井写真館
御料理千鳥
三光丸
藤田自転車店
開館記念写真に写っている人物は右から吉田寅蔵(鶴谷)、布川実、佐藤栄蔵(鶴谷)桜井今朝松、山本貞蔵(鶴谷)、日下庄吉(小高町鳩原)、佐藤宏(芸名南部幹人ナンブミキンド)、関場清松。もともとは町の旦那衆たち十二人が、寄り集まって出資した常設活動(写真)小屋だった。
これを追うように同年、中村新開座も開館した。

原町座・小高座の名を拾う

明治25年8月1日に福島民報が創刊された。8月16日付の第16号に「行方郡原町通信(8月14日発)」が載っており、そこに芝居座が間もなく建設されることが記されている。これが、原町座のことであろう。
〔芝居座 当町有志諸氏の計画になれる芝居座ハ九月上旬落成の見込を以て着々工事を進め居れり其資金ハ株主の負担にして落成式にハ頗る盛大なる式典を挙げんと意気込居れり〕
明治26年8月30日の民報に「原町に於ける相馬事件演説会」と題して、この当時全国を賑わしていた相馬事件をめぐる政談演説会が原町座で行われたとある。これが活字で確認できる最古の原町座という名の記述である。
明治29年2月27日民報に〔○原町の旧正月 行方郡の同村下町若連中ハ旧暦正月に入りて大に豊年を祈らんが為め田植踊を催す事となり過る頃より毎夜原町座に於て下稽古をなし〕という記事がある。明治30年には、幸田露伴の「うつしゑ日記」に、原町に到着した晩に、同伴者の乙羽という雑誌「太陽」の編集者が、原町で行われている芝居を見にいった、との記述がある。これも原町座のことだと思われる。
明治33年7月4日民報の野馬追の記事に〔○原ノ町の賑ひ野馬追見物の為め各地よりの人出非常に多く汽車の発車毎に幾千の群集入り込み一方ならざる雑踏を極めたり△停車場通りより原の入口迄は芝居見物小屋等隈なく両側に建てられ〕とある。
これは仮設の小屋での興行。
続いて7月26日民報の「相馬郡原町雑信」という記事に〔▲芝居 降雨の為め休業中なりし芝居興行は二三日来晴天とともに幕を開けしが中々見物人多く毎夜賑ひ居れり(廿四日)〕とある。降雨で休業というのだから、野外テントでの小屋掛けの芝居興行だろう。
明治34年9月3日の民報に「原町座で女義太夫」が行われたとある。
〔女義太夫相馬郡原の町なる原町座に於て興業中なる竹本一九一座の女義太夫は初日よりの大入にて毎日木戸締切の盛況なりしにより更に二十日盆迄延べ興業の由なるが何れも其道に堪能にして聴衆を喜ばせりと〕
また明治38年7月26日民報には〔○機業工男女奨励会去る廿三日午後一時相馬郡原町座に於て原町外四ケ村連合機業工男女奨励会開会〕とある。
明治40年7月、民報の久保蘇堂という記者が原町を訪問し「非、避暑旅行」という随筆に次のような一節を描いている
〔▽十四日は午後より小高に入るべき予定なりき然れども、佐藤徳助(町長)佐藤政蔵(青年会長)氏等の切に勧むに任せ其夜原町座に青年音楽会臨時演奏会を聰く〕と。さらに明治43年8月22日民報。
〔○原町青年音楽会/既報の如く相馬郡原町青年音楽会は去る十八日午後六時より原町座に於いて開会したるが場内場外は紅提灯を以て装飾し聴衆無慮五百名会長佐藤政蔵氏喝采場裡に開会の辞を述べ終れば江川夫人のオルガンに連れて場に登れるは日曜学校の少年隊『これは私しの』のと無邪気なる遊戯続いて花の如き少女隊の合唱あり江川夫人の独唱、渡辺夫人の門生、水越姉妹、桜井、松清、藤崎、志賀、小野、小田諸嬢の琴に太田夫人の三弦合奏、酒巻、小野、中江、佐藤四氏の謡曲(夜討曾我)斎藤太田両氏の尺八合奏(追分、流山)等何れも其堂に入れるものにして聴者に非常なる感動を与へ余興には岡和田氏の五目講談衆の臍を解き太田遠藤両氏の浪花節、竹野、丸川両太夫の義太夫等聴衆に無限の満足を与へ午後十一時三十分閉会したるが同会の役員佐藤政蔵、門馬、岡和田、松本、佐藤(徳)、青田、村井の諸氏終始斡旋尽力したり〕
明治の御代に、原町座の名が新聞に出てくるのは、こんなものだ。
福島日日大正3年12月11日。
〔●小高町空前の賑
在旧十月十四日の市日を七日に繰上げ「小高の秋市」として年々行ふ
▼其他の興行物 として小高座に新派劇
停車場前に小屋掛して開演すべく其他活動天国と地獄など大評判なり〕
大正4年3月22日福島日日新聞。
「押川氏大いに演説す 原町にて19日原町劇場で 小高座で」という記事がある。劇場は政治演説に音楽会に、と活用されていた。
原町座での芝居興行について仄聞できる記事もある。
大正6年12月、原町座で東京歌舞伎公演。電飾で賑わった。俳優を乗せる人力車が足りずに、仙台からも借り出したという。
大正7年7月2日民友「相馬原町芸妓のお芝居」という記事。
〔相馬郡原町芸妓連は予て演劇実演の稽古中なりしが愈今廿一日より同町原町座に於て同町約三十名の芸者出揃ひ芝居を為すべく其筋に出願許可されたるが但し観客を楽屋等に引摺込むに於ては芸妓取締規則違反で厳重処罰を為す由〕
大正9年8月31日福島民報に、「芸妓久松」(本名カツ)という女性が、巡回中の活動写真座長と駆け落ちして、巡業先の原町にやって来たらしいことを報じている。一座は東京西沢興行部。娘の身を案じていた両親のもとに旅先からカツの手紙が届く。〔「男の甘言に迷ひ家出の罪を詫び今は男の為に虐待され日々涙に暮れつつ旅を〇ひ居る」旨申し来りしより父善一郎は大に驚き 西沢活動写真の跡を追ひ青森に至りしに同一行は本県原町に興行の事を聞き原町へ来りしに一行は白河へ立ちたる跡なりしかば・・〕
この活動写真一座の興行が、原町座という小屋で上映されたのか、テント小屋での上映であったのか不明だが、このような形での映画の巡回興行が原町でも行われていた様子が伺われる。
大正9年10月10日の民報に「劇場で金時計」という記事が載っている。
〔原町字町蹄鉄工場徒弟鈴木儀網(二七)は去月廿八日夜原町座に芝居見物中金側懐中時計(四十円)を拾得原分署に届出しに落主は同町土木請負業白尾卯三郎妻白尾ソメと判明したり〕
白尾卯三郎という名には見覚えがある。拙著「原町無線塔物語」を捲ってみたら、あった。磐城無線電信局原町送信所主塔つまりコンクリート製の二百メートル電信塔を逓信省から請け負った東洋コンプレッソル社の、そのまた下請け負いの代人の名である。
東洋一の無線電信柱を建てるというので、政府の仕事としてこれを請け負った当時の土木屋さんは景気がよかった。金側時計とはまた豪勢な。
現場をとり仕切る親方の奥さんは、芝居見物に出掛けて、そこで金時計を落としたという訳だ。芸物、巡業の活動写真一座、芝居小屋という状況に、原町無線塔の建設請負人の妻が登場し、何やら彷彿と景気のよい当時の原町の様子が想像されてくる。
大正10年は磐城無線電信局、原町無線塔の開局式の年であるが、この開局式の日に、無料映画会が開催予定されているという記事もみえる。
大正10年6月17日民報「原町無電局の祝賀は来月三日と確定 野馬追は勿論飛行機も来て来賓八百余名」という記事の中に〔又各所に無料野外活動写真を映写し観覧させる等同町空前の計画を樹ててゐる〕とある。当日の記事には、活動写真映写のことは記していないので、これは計画倒れだったのかも知れない。
大正11年8月24日、「活動写真会 広野村同窓会 22日六時三十分より 同村小学校で四百名以上盛況〕8月26日には「原町座に上映〕と報じているのは当時の宮城県小学校女教員の殉職美談。

小野訓導活動 原町座に上映

〔曾て(かつて)教育会(界)の美談として唄(謳)われた故小野訓導の実写活動写真は二十日より三日間原町座に開演された故女史はいかに愛童心に富んでゐたか人情溢るる如きその美徳ある殉職には観衆皆袖を連らねて涙を絞らざるはなかりき〕
(大正11年8月26日福島日日)

「原町演奏大会」
〔既報の如く原町新人会主催のポーランド孤児救済資金募集の為め来朝中の同国人ハリスキー氏を聘し十三日午後六時より原町座に音楽大演奏会を開催したるが非常な人気を以て迎ひられ定刻前早くも木戸〆切の盛況を呈したり副会長小林勉氏は開場と同時に開旨を述べ直に演奏が開始された同氏独特の自作に係る曲目は演奏毎に微妙な楽の音は次第次第に佳境に入り聴衆拍手鳴り止まず午後十時盛会裡に閉会した尚此日の入場者一千余名に達したり〕
(福島日日 大正11.1.16.)
翌年の7月に、旭座が誕生する。

中村座・鹿島座の記録

中村座の名前は、明治30年代の福島民報などに見ることができる。書生芝居や政治演説会の会場としてである。
相馬市史の年表によるとお隣の鹿島町では大正3年(1914)「鹿島町に鹿島劇場できる/電灯つく」とある。鹿島座は明治26年にすでに存在して幻灯会を開催している。
そして大正4年「二月十六日・磯部村蒲庭の金子松次郎宅で幻燈会が行われる〕(「蒲庭郷土誌」より)などとあり各町村でも幻燈会がさかんに行われた。(相馬市史年表)

大正3年9月13日「中村座の活動」
〔■中村座の活動 英国エクエル会社マニラ支店、マニラ活動写真は九月十二日午後六時より中村座に於て開演フィルムの重なるものは三国同盟大戦争斥候の苦戦三国同盟の撃戦陸海軍三国同盟海軍大戦争新派大悲劇恋の夢等にして頗る長尺の物なりと因に木戸下足共大人十三銭中学生九銭小人六銭〕

大正4年11月3日「中村座の活動」
〔▽中村座 仙台活動写真後援会なる仙台仙集舘活動写真は来る九月二十五日より新写真を入れ替へ来る三日より中村座に於て開演の筈なるがフィルムの主なるものは泰西大活動写真劇高圧電流史劇メキシコの古訳旧劇佐倉義民伝、泰西大活劇黒手組等他数番ある〕福島日日。
11月16日「中村町たより」
〔演劇界 仙台パテー舘活動大写真は来る十六日より中村座に於て開演のはずなるがフィルムは而かも新派なを(ママ)御即位御大典の盛況を観覧に供する由木戸大人十三銭小人八銭尚中学生は九割小学生が六銭なりと〕福島日日。
中村は仙台の商圏である。常磐線を通じて仙台の館が出張しての興行だ。
大正4年9月8日鹿島座、11月22日鹿島座広告・小松商会などの記事がみえる。福島日日。
〔活動大写真開館
来ル二十一日より磐城鹿島町 於鹿島座
同 二十四日より 中村町 於 中村座
十月二十日より四日間弘前に於ける特例大演習の実況、日本新派女飛行家、泰西悲劇墓前の秘密、泰西喜劇雪と火、少年探偵ボビー、日本名所花廻り
大々勉強 木戸 大人十銭、中学生八銭、小人五銭
東京 小松商会〕
(大正4年11月22日福島日日)

大正5年7月12日の民報には「中村の中村座が活動写真の常設館になった」とある。
〔■中村座 相馬郡中村町中村座にては十一日野馬追祭典執行当日より東京小松商会と特約し活動写真常設館となりたるが映画は旧劇大江山酒天童子を呼物として其他新派劇物 喜劇数種なりと〕
〔福宝堂の一派で、小林、山川らの東洋商会へ行かない人たちを招いて、東京市外高田馬場の戸山ガ原近くに仮スタジオを建て、ここでドサ廻りの安直映画を作り出したものに小松商会というのがある。これはもっぱら縁日やモノ日をあて込んで地方巡りの天幕興行に歩く巡回興行者小松幸太郎が、たまたま十数巻の古い外国フィルムを手に入れたことから、この映画製作をはじめたもので、脚本兼監督に田村宇一郎、カメラに杉山大吉を招いてこれにあたらせた。同商会の直営した浅草館が開業したのが大正二年四月三〇日で、この時から彼らの映画が公開された。〕(日本映画発達史Ⅰ)
活動映画は、当時の新娯楽であり、民衆は珍しさに足を止めた。
大正の歴史の主舞台はヨーロッパである。新聞は大正3年以降、激戦を伝えはしたが遠い欧州でのこと。新しい兵器や、戦況が詳しく報じられても、被害はない。むしろ高見の見物のごとし。戦争のきな臭い記事の下には、必ず新しい映画の紹分記事があった。

大正6年記事より。
〔演芸 活動常設 中村座
相馬郡中村町活動常設中村座にては来る十一日野馬追祭日なるを以て写真全部差替なるが其フィルムは旧劇血染の纏(全三巻)新派悲劇琵琶歌(全三巻)泰西大活劇死の乗馬(全三巻)喜劇ポップスの舌叩き及び木乃伊の進物実写夏のケレト当日は昼夜二回開館すべしと〕(6年7月10日民報)
大正7年1月1日民報には、第4面が相馬地方の新年広告にあてられており、この中に堂々たる中村座の枠がある。その陣容も9名の氏名を列挙し、充実している。
〔相馬郡中村町 活動常設中村座
舘主畠山智正
日本活動写真株式会社
中村座
事務員小林宇三郎
技師石田彦一
興行部
主任 西川武
弁士 長尾 新馬鹿
同 宮川桂洋

新加入 菊住華香
楽長 斎藤豊次郎
技師
助手佐藤義夫〕

「中村座の時鶴」(大正7年3月5日民報)という記事に当時の料金が出ている。
(相馬郡中村町中村座にて来る六日より四日間長谷川初五郎立谷彦八の両名建元となり東京名代中村時鶴一行を招き華々敷春興行を開演する筈なるが一行若手揃の事とて非常に人気好く木戸銭は大人二十銭小人十銭特等大人三十銭小人十五銭なり〕
「活動常設中村座」同紙面に当時の映画上映の作品名が出てくる。
〔相馬郡中村町活動常設中村座にては去る二日より全部写真差替たるが今週は特別写真にして其フェルム(フィルムを相馬弁で発音するとフェルムになる)は次の如し
旧劇松平外記(全三巻)新派たぬきの白糸(全三巻)泰西活劇うはばみ賊(全三巻)喜劇球闘会(一巻)其他〕
「演芸・中村座」(大正7年4月2日民報)
〔相馬郡中村町常設活動館中村座にては去月三十日写真全部差替えたるが今週の写真は左の如し
旧劇怪僧伝達(全三巻)新派悲劇島の娘(全三巻)探偵大活劇四人組(全三巻)喜劇氷屋(長尺)〕

大正7年5月11日福島日日。
〔▲中村座特別興行 相馬郡中村町活動写真館中村座にては十日開館の特別一周年に相当するを以て記念の為め特別大興行を為す筈なるが三日間に限り木戸大人二十銭小人十銭のものを割引券持参に限り大人十五銭小人七銭にて入場せしむべしと而して今周(週カ)のフィルムは左の如し
新派徳田秋声作□□(全八巻)西洋活劇疑問の侯爵(全四巻)喜劇引張り凧(一巻)風景サマルカンド旧寺院(長尺) 〕

11月22日中村座 23~旧劇松之助出演「狐騒動」(全三巻) 新派「乱れ菊」西洋活劇「判事の奇行」「喜劇「象の取持」(長尺物)実写海軍大実習 11月25日~活動写真替〕福島日日。

12月5日「中村座楽士見習募集」広告
資格は高等小学校卒業程度 年齢は十五歳から二十五歳まで。福島日日。

大正10年1月8日「小高大火の二十三年忌 新派喜劇招聘 小高座で寄付集め木戸無料 1月5-6日」福島日日。
かくの如く、こんなプログラムで大正の相馬人たちは楽しんでいたのである。
大正15月7月、普通準備東北夏期大学が原釜劇場で。
昭和6年の福島毎日新聞には元旦(1.1.)号に広告として〔中村座 新開座 鹿島座〕と名をそろえている。

相馬今昔

松岡重信著「相馬今昔」には、古き良き時代の娯楽についての回想が描かれ、その中に中村座の描写もある。
〔本来は敬神崇拝の厳粛な祭りが、子供にとっては、年に一度のサーカスや見世物、人形乏居や綿飴、お菓子屋の出店などが立ち並び、浮き浮きして小遣も貰って使う楽しみな日でもあった。四月十八・十九日の氏神中村神社のお祭りは桜も満開である。まず妙見神社に参詣して、片手に小遣を握り、柳馬場へと向かう。柳馬場とは会津屋裏の第一運送の前の河原敷広場である。今でこそ堤防が築かれ、狭い空地だが、名の示す通り昔は馬場の練武場でもあったのだろう。丁度今の野菜市場は中村座という活動写真館(映画館)である。芝居も演じられた。
常舞台と呼ばれ、町の唯一の娯楽殿堂である。升型の桟敷造りで、下手に花道もある。
無論、活弁で弁士はスクリーンの右端の机で赤い豆電球の下で画面を見ながらの熱弁を振るう。スクリーンの前は楕円形の穴になっていて、楽隊が陣取り、画面で剣戟がはじまると、それに合わせ、クラリネツト、ラッパ、太鼓等の演奏が始まる。なかなか迫力があり聴衆は手に汗を握り、画面に釘づけになる。幕の合間に「エーッおせんにキャラメル」と売り子がくる。なかなか風情のある映画館であった。話は横にそれたが、映画館の前から大橋のたもとまでは、ゆるやかな河原で、大きなサーカスのテント、見世物小屋(蛇女、ロクロ首、人形芝居、地獄楽)、オートサークル(大きな樽筒をオートバイで上り下りする芸)、柔道と拳闘の国際試合、果ては、エチャーイ、エチャーイの掛け声も勇ましい女角力など、ずらり珍しい見世物を並べる女角力は今の女子プロレスの様で、パンツの上に褌をかけきわどい技の応酬で若い兄さん達の目は爛々と輝やく。サーカスは物悲しい。木下サーカス、キグレサーカス、有田洋行会など奇妙に今でも名前を思い出す。〕
大正8年4.20.の紙面には
〔中村全町両日間賑ふ
春祭りに種々の催しありて川原町には活動写真見せ物等は数カ所設けられ〕
とある。
中村の町中を流れる宇多川にかかる宇多川橋は、野馬追祭の日には騎馬行列が通行するため、橋のたもとは見物人たちの絶好の見学場所である。
明治42年に撮影された絵葉書の構図の中に、橋のたもとの当時の伊勢屋旅館が大きく写っており、中央から左手にかけて中村座の場所である。伊勢屋旅館は昭和初期に林不忘が「丹下左膳」の取材のために中村町に来訪し滞在していた。その映画化された丹下左膳も中村座で上映されたであろう。映画とはよくよく縁のある場所なのだ。
大正8年4月20日の福島日日新聞に、
〔中村全町両日間賑ふ
春祭りに種々の催しありて川原町には活動写真見せ物等は数カ所設けられ〕とある。
この川原町というのが、川べりの広場の小屋見せ活動写真テントが立った場所である。

福島新聞7月3日。
「原の新劇場に 来る名代」
〔相馬郡原町の新築劇場旭座は工事落成せるため二日より三日間にコケラ落しのため東京名代阪東勝三郎、中村翫十郎一行を招く〕

中村新開座も大正12年開館

相馬中村の新開座は、原町アサヒ座の開館直後に、追いかけるように開館した。
(大正12年7月7日)
〔新開座の工事
相馬郡中村町新町に新築中なる劇場新開座は座主荒山信治氏を請負人米倉平松氏との間に紛紜を来し工事を中止し居たるが今回圓満に解決し再び高次に着手したるが来る八月初旬に落成し同十日花々しく開場式を行ふ予定である〕
しかし、経営は開館当時から順調ではなかった。
〔開場出来ない中村の劇場
閉場一年有余
前管理者荒山一派の策謀のため新築当時より紛争絶えない中村町新開座劇場は一年有余の閉場にて殆ど立ち腐れ同様となり付近商家も火の消えた様にひっそりとして居るので持主たる中村町米倉平松氏は付近商家の現状に同情し一日も早く開場すべく一大修繕を加へ今にも開場出来る様に準備全く出来上がりたるも荒山との係争は今なお落ちつかずここしばらく手控えの状態なので執念深き荒山一派は一般から爪はじきされているが中村町民は新任蔵車警察部長の裁断を刮目して待って居る〕(大正15年7月4日)
珍事件もあった。
昭和5年7月19日民報。
〔新開座 相馬郡中村町新開座において目下開演中日本劇春家昭一郎一行の中村町氷水店卸御得意慰安観劇大会は十五日見る観客満員の際二階桟敷に観覧中の曲町新町清水サダ(二五)が汗を拭いてゐる中同伴の長男一郎君(三)手摺に寄りかかりゐたが手を滑らし真逆様に階下の花道に墜落人事不省に陥ったので付近の医師に担ぎ込み応急手当を施し蘇生したが開演中のこととて大騒ぎであった〕
昭和2年12月13日朝日新聞。
「劇場と寺院 松ヶ江村の珍事」という火事の記事が載っている。
〔相馬郡松ヶ江村大字大釜劇場原釜座から十一日午後六時二十分頃発火し同劇場を全焼さらに隣接する寺院騒擾取院を全焼漸く七時鎮火した原因は同劇場で活動写真会を開催の準備中の漏電らしく開会前だったので観客は一人もなく幸ひ負傷者はなかった損害調査中〕

浪江座と神谷キネマ、岩間キネマ

浪江座は明治41年の誕生。島田有造氏「私の知る「浪江の映画史」という手記によると、〔浪江座は明治四十年代に当時町の有識者によって建設の話が進められて、翌年の四十一年に一株五円で株主を募り、建設費が八〇〇円で立派に落成し、演芸場として開場されたものであります。落成祝として東京より歌舞伎芝居を招き、柿落しを盛大に行われ、この芝居を公演して結局収支決算で二〇〇円の欠損金が生じ、一〇〇〇円で創立したというわけです。
爾後「浪江座」は丈舞台とよばれて親しまれてまいりますが、この丈舞台とよばれた理由は、歌舞伎役者の敬称として何々丈といったところから、この丈と呼ばれる役者が演ずる舞台なので「丈舞台」と呼ばれるようになったのが発祥なのです。
この丈舞台で「活動大写真」がいよいよ登場するようになったのです。そのため階下中央に映写室を増設されて公開をするようになったのは大正末頃から昭和初期にかけてであります。私の記憶では、昭和二年松竹蒲田の作品で「女給」と題した写真です。この頃の入場料(この頃は木戸銭という)は大人が十銭から二十銭、小人は三銭から五銭だったのです。「女給」の活動写真は大入満員、この頃として二〇〇円の興収はビックリしたそうです。それだけに映画は昔から娯楽の花形だったようです。
この頃は浪江座で公演する催物は月に五日から十日位のものでこの中映画は二・三回の上映だったのです。活動写真といっても業者あって、劇場との契約によって巡回上映したのです。この業者は原町に神谷キネマと岩間キネマが在って、後年には平館巡業部も加入するようになります。
神谷シネマは本町加倉の出で、主宰する神谷豊次郎氏は神谷に婿入りした温厚な人でした。加倉の神谷ということもあって浪江では神谷キネマの巡業を受入れて公開したものです。業者は映画会社と契約して上映地域の決定をして上映の権利を有し、巡業したものなのです。従って浪江座でも歩含制により契約をして皆さんに提供したのです。(中略)
浪江座では人気のあった弁士は、現代ものでは大森双石(ご存知の方も多いと思います。大堀村長をやめた森茂氏)、一方時代ものではなんといっても春日小楠(原町から富岡町に移住した人)の両者だった。この二人の宣伝をすると必ず満員盛況だったのです。
この時代は時代劇が割と多かったので俳優陣も多くの名優がいた。河部五郎、市川百々之助、阪東妻三郎、片岡千恵蔵、大河内傳次郎、嵐寛寿郎、市川右太衛門、月形龍之助、林長二郎(長谷川一夫)、阪東好太郎、沢村国太郎、沢田清などと、女優では柳咲子、伏見直江、粟島すみ子、川田芳子、沢村貞子、水谷八重子、山田五十鉛、入江たか子といったところ。現代劇では鈴木傳明(いわき市出身)・岡田時彦・中野英治・岡譲二・新人では滝口新太郎、当時映画界と世間を騒がせた、ソ連に逃避行した岡田嘉子、名花として人気のあった田中絹代、三宅邦子、飯田蝶子、浦辺粂子、吉川満子と顔ぶれを揃い、ファンを魅了したものです。
浪江座では月に五日から十日位の催物の中で、映画は二、三日位のもので、すべての開催でも同じですが、特に映画の開催当日は宣伝のために町廻りと言って、楽隊を繰り出して町を一巡宣伝したものですが、この町廻りに欠かすことのできないのは旗持ち少年でした。「神谷キネマ」などと染め抜いた旗を坦いで楽隊の前後にならんで一緒に歩くという大役だったのです。これを募集すると多く希望者が先を争って集まったものです。
私たちが子供の頃の小使い銭は一日一銭か二銭位でした頃、この旗持ちをするとこの日の催物は無料で見られ他に五銭を贈られるという魅力ある待遇があったからなのです。この他にチラシを配る少年二名が必要、こちらはボス的存在の少年が担当、そのかわりに旗持ち少年の募集に協カするという条件がついていたのです。こうして一隊を組んで誘客につとめた時代もありました。(中略)
宣伝にもいろいろと苦労をしてアイディアを出し合い工夫をこらしたものです。夜の町廻り、行灯を作り宣伝文を書きローソクを点し背負わせ(これは大人)楽隊と一緒に廻ったり、木箱に細工をして、題名と上映日が印のようにおすことのできる物に石灰を入れて道路のところどころに印をしたことなど奇想天外なことをやったものです。また一方では開催日毎にタ方打ち上げ花火で開催の周知を図り、考えた末にこそ花火の中にスポンサー付きの落下傘を入れて打ち上げ、これを持参した人には、開催物に無料招待して、店よりの記念品を贈るというようなことも盛んに行ったものです。〕
浪江座の公開は殆ど夜一回の開催ですから活動写真などは、二本立、三本立になると、午後十一時頃までかかることが晋通だったのです。初期の頃は五〇〇ワットから一〇〇〇ワットの電球で映写したのですから今から見たら暗い画面でしたが、それでも画面は大きく、人、物とも動き生の音楽にのせて名弁士によって涙も笑いもあって感動したものです。もはや生活の中で欠くことのできない娯楽の一つとなったのでしょう。〕

富岡座は大正5年開業

〔富岡町の劇場 近く落成せん
双葉郡富岡町にては是迄劇場の設けなく其都度掛小屋をなし芝居等を開演するの有様なりしが斯くては町の体面を傷つくるものなりとて四五の有力家が発起となり劇場新築中なりしが過般の大火の為めに工事の進行大に遅れたるも棟梁鈴木長太郎氏の昼夜兼行の働きにて目下着々進行不日落成の運びに至るべし〕
福島日日大正5年2月17日。
〔富岡町の活動写真
双葉郡富岡町有志間にては今般東北地方の活動写真中尤も好評を博しつつある仙台市錦輝舘より招聘し当る十六日旧十三日より同町新設公会堂大広間に於て開演重なる写真は旧劇新派悲劇欧州戦争実写其他西洋劇滑稽数種にして旧劇には娘義太夫の出語にて入場料は大人十五銭小人十銭なるべし〕
公会堂大広間で開催というのは、劇場待望の与論であったかも知れない。
「市川九団次一行乗込み 富岡座舞台開き
三十日より三日間開演」
〔双葉郡富岡町有志大原久平治、大原元治郎鈴木兵弥加藤伊惣治菊地喜久雄の諸氏は同地に劇場の設立なきを遺憾とし本春三月より三千円を投じ一大劇場を新築中なりしがいよいよ此の程偉大なる建築成りたるを以って舞台開きとして東京より名優市川九団次一行を千有余円を投じて招き来る三十日より来る二日迄三日間開場するに決定夫れぞれ準備をなしつつあるが幸ひ地方農民は、時期今や農繁期を一時免れ居り殊に養蚕後の金融宜敷を得居る事とて前景気盛んなり〕
(福島日日 大正5年6月28日)
このほかの富岡の記事。
大正10年10月13日民報。
〔十日市 十五日秋祭りなので「青春の夢」上映で蓋開け 富岡座〕
大正14年12月7日福島毎日。
〔富岡座 五日より新派「白河」旧劇「鞍馬八郎」喜劇弥次喜多その他を上映〕
昭和3年12月4日新聞。
〔富岡町恵比寿講市のにぎはひ 一日より三日間 大森興業部の活動写真等は朝から晩まで大入り満員〕

その他の興行
大正14年12.11,
〔石神活動写真会 石一小〕
福島毎日大正15年1月20日。
〔チャリネ劇団から窃取 原の町に開演中〕
昭和2年6.30. 福島毎日。
〔仙鉄局の新しい試み 野馬追祭を絵巻物にして〕撮影。
昭和8年民報5.4.
〔軍事講演 映画大会 浪江〕
6.13.〔鹿島町民大会 鹿島座〕2.7.民友〔相馬農校 鹿島座で映画会〕2.13.〔中村映画会〕2.13.〔結核映画 中村〕2.28.〔映画 中村〕4.7.〔衛生普及映画 原釜熊谷座〕11.23.〔中村で映画〕12.9.〔浪江産婆映画 六日六時から浪江座で〕12.9.〔中村映画〕12.9.〔活動写真会 飯豊村青年団では廿三日午後六時から〕
昭和15年1.26.民報〔小高座で映画会 遺家族慰問25日午後一時 郷軍分会主催〕
2.6.民報〔相馬民謡競演会 HKで放送テスト 新開座で15日〕4.12.民報〔映画と音楽の夕〕〔中村町ワイ・ユーシネマ部主催の映画と音楽の夕は十六日午後六時新開座に開催する映画は日活特作春日井梅鶯口演浪曲映画「乃木将軍」その他音楽はエステイ、ビーアンサンブルのジャズである〕
8.11.〔中村豆ニュース 中村座 東宝契約 復活〕

もの言ふ写真がやってきた

昭和初期の映画状況

昭和は御大葬の映画で幕を開けた。
昭和天皇が薨去した昭和64年、すなわち平成元年にテレビが天皇の御大葬を全局放送したように、大正天皇のときには映画館がその映像を伝えた。
大正15年末の6日間だけの昭和元年が過ぎ、翌年は昭和2年になった。
1月、大正天皇の崩御を報ずる映画が福島座で公開。
1月19日朝日新聞福島版は社告で〔当社はこのたび大行天皇崩御御前後の葉山その他における悲愁に充てる模様を謹写した国宝的記念映画を完成しましたので昨年来不例につき遠慮中止した左記各地において一般的映画と併せ上映する事に致します
無料入場券は各地販売店より
呈上
二十日夕六時より富岡町
二十二日 小高町
二十三日 太田町(注。太田村ヵ)
二十四日 原ノ町
二十五日 鹿島町
二十七日 新地小学校〕
昭和2年には「白虎隊」のロケが会津で行われた。当時の新聞に松竹蒲田撮影所は「先般、野村芳亭監督がロケハンに来若」とあり、6月1日からロケーションが敢行され松竹キネマの柳咲子、八沼恵美子、松井千枝子、岩田祐吉、市川松之助、藤野秀夫、少剣士の久保田久雄、小川国松、小浜一三らが来若し芦ノ戸口や名倉山、飯盛山を背景に撮影した。封切りは歌舞伎座だが、松竹直営の会津館でも封切りされた。出演者の中に、田中絹代、鈴木伝明の名前もみえる。
昭和2年「稚児の剣法」で円谷英二カメラマンがデビュー。主演は林長二郎のちの長谷川一夫。松竹の圧倒的宣伝の効果があって、女性ファンの心を捕らえた。福島では栄館で上映。
【この年の県下の映画ニュース】
1月、正月興行の大入りで大福座の二階が墜落の椿事、損害60円。福島で初めての映画ポスター展が福島市で開催。第一日に五千人入場。河野磐州伝の映画完成。新築記念で大寺座で活動写真。大正天皇御大喪活動写真会、県下各地で。
2月には.若松市第一小学校講堂、坂下町公会堂、柳盛館などで上映された。
3月、栄館の技師が自殺。仙台に極北映画会社が生まれ第一回に吉井氏の晩鐘。大衆文学映画会福島市公会堂で「落花の舞」。平凡社主催。説明は福島座主西村魁天と同座の桂木暁雨。
4月、友楽座で映写中のフィルム燃え上がり大騒ぎ。東北ラジオ3000名突破。二本松の火防宣伝映画会。福島劇場で大作修羅王。川俣町の竹の子劇、中央劇場で脱線古俣「忠臣蔵」大入り。福島栄館が「荒れ狂う猛将」「コスモス咲く頃」「建国の乙女」「夜の女」「ヨランダ姫」「お父親」「大分水嶺」「奇蹟の薔薇」「悪魔の微笑」「キートンの西部成金」「迷路の乙女」「荒野の孤児」「新婚危機」「スポーツの女神」「惑□の十字路」「牛獣半人の妻」「青春美酒」「龍虎相打つ」「死に行く我子」「愛の黒眼鏡」「結婚破綻」「輝く一路」「賢者ナータン」「モニナヴンナ」など上映。またメトロゴールドウィン社と契約して大作「グリード」を上映。栄館主花村紅月追善興行で栄館で版妻「大儀」「ダークエンゼル」「ドル箱シーモン」「狂った一頁」。「ちんぴら探偵」「幻の賊」「曳かれゆく日」、紫蜘蛛、大正五人女。弁天おさく、カルメンお雪、洗髪お芳、奥様お千枝、令嬢おすみ、チャップリンの珍カルメン、説明部大蔵俊、宮沢天郷、幾多生粋、桂木天性。大正館で「ドンQ」「月形半平太」「笑殺」「切支丹お蝶」「与太者三幅対」「青蛾」「女友」「ラジオ探偵」「義血」「嵐の虜」「曳かるる人々」
5月、田村郡守山赤十字少年団が児童愛護、結核予防宣伝、少年火防団活動を映画にして巴里赤十字社に送付。福島座の弁士に迷った女給の事件。.県、活動写真で農村振興。
6月、「白虎隊」のロケーション撮影。
7月、農林省畜産局が野馬追を撮影。「復活」と「人形の家」福島座と若松市大和館で公開。西村楽天独立興行。活動写真と教育に関して県下の活動常設館や入場者弁士等を調査。
8月、県下の工場で災害防止を目的とする産業教育映画が県内で上映された。「鳴り物入りで安全週間の予備知識を映画やポスターで宣伝」(2年8月5日朝日)この災害防止映画の上映に関しては8月16日民報にも記事がある。「宣伝活動写真 本県工場課主催災害防止宣伝活動写真会は十四日午後六時より原町旭座に開催観客一千余名盛況を呈した」と。原町には大正時代から原町紡織と石川組原町製糸所の2大工場があり、合わせて一千人の女工が働いていた。観客とはこれらの女工たちであろう。野田村蚕業奨励活動写真。養蚕講演と活動写真。島暁蘭が栄館経営。川俣両館旧盆特別興行で水戸黄門、プレイボール。
9月、大福座で「白虎隊」上映。特等七十銭、一等五十銭。常葉町公会堂建設、7日落成式。
10.月、大正館で肉体の道。農事試験場でフィルム購入。大越で娯楽場フィルムに点火。
朝日新聞社が県内巡回映画会。「大観艦式」(11月・山都都座)「甲子園野球」(12月・平劇場)
11月8日朝日は「原町体育映画会 相馬郡原町体育協会では今夏農林省が出張撮影した野馬追活動写真の封切を兼ね体育映画会を八日午後六時から原町旭座に開催する」と報じている。この年、ほかに仙台鉄道局など三種類の野馬追映画が撮影されている。
12月には朝日新聞社主催による映画会が県内各地を巡回した。鹿島町東座、伏黒村講堂、、原ノ町旭座、三春座、中村新開座、船引繭市場、新地村小学校、常葉町常葉座、大野駅前内池座などの会場名がみえる。鈴木伝明、高尾光子会津来訪。会津文芸協会主催で伝明氏講演。。「海の勇者」24日市公会堂で。
この年栄館で松竹「お夏清十郎」「狼の血」、野球ロマン「お父さん」、「ドル箱シーモン」上映。
この年福島劇場で「皇恩」「鞍馬天狗」「猛焔」上映。説明はそれぞれ古川花泉、藤浪天洋、中村雅堂。
この年、川俣座で新聞販売石川政十主催の読者慰安活動写真会。
この年、福島ホテルで名画鑑賞会。西村魁天説明。

昭和3年の映画状況

【この年の県下の映画ニュース】
昭和2年の常設館は県下に35館。福島4、若松4、郡山3、平1、その他の町村に散在している。2年度における常設館入場者数は大人1,933,848、小人869,211、合計 2,800,3059人だった。
昭和初期の不景気は映画館も直撃した。昭和3年には閉館する劇場が続出。
四苦八苦の映画館は〔県保安課の統計に依ると県下の総数は二十九舘、この入場人員は大人十一万二千五百五十人、小人四万四千九百三十九人、計十五万七千四百八十九人
雇われている説明者は百二十人、映写技術者は九十一人、この外仲居女給の類は百九十七人である〕と当時の新聞記事。
大正時代の205万人に比べると激減したのがわかる。
ラジオ放送そのものは大正14に東京愛宕山から開始されたが、東北地方では昭和3年に仙台放送局からラジオ放送が始まり、さっそく8月福島の西村魁天が映画の説明を放送している。
トーキー前夜の映画界では外国映画が生彩を欠き、邦画では「丹下左膳」が大河内伝次郎主演で銀幕登場。片岡千恵蔵プロ・嵐寛寿郎プロなど独立プロの設立さかん。
旧正月興行で、大正館は市川歌衛門の「野獣」、ダグラス・マックリンの「アラビア三人盗賊」、福島座は「ムッソリーニ」伝記映画と高木新平の「戦国時代」。
栄館は版妻「血染めの十字架」、福劇では「照る日曇る日」と軍事映画「生還」上映。
2月、首相はじめ内閣閣僚が吹き込んだ発声映画を福島で上映。福島県内で初のトーキーとなった。
3月2日から大正館はパラマウント株式会社経営となり披露興行として「電話姫」「漫画猫の大西洋横断」封切り、ウオレス・ピアリー・レイモンド・ハットンの二人組による「夫婦脱線劇」「弥次喜多空中の巻」上映。特別番外で市川百之助「名剣」。
5月、喜多方で済南事件映画会。郡山清水座で「人生の涙」「陸軍特別大演習」「霹靂」、郡山大正座「羽柴筑前守」「愛欲地獄」「殺生関白」上映。郡山清水座で初めてトーキー映画が上映され、三日間の特別興行の番外として生駒雷遊、千石雷渓がそれぞれ「生門死門」「復讐を忘れたか」を実演。
8月、大福座でイワン・モジューヒン第一回ユニバーサル作品「リア・リオン」(降伏)上映。
10月、〔大正館でロイド大会 家庭喜劇ロイドの初恋(説明栗原雷岳)、田園喜劇田吾作ロイド一番槍(信夫一声)、スポーツ学生ローマンスロイドの人気者(説明白河汀華)、最初の明治節を記念のため普通席拾銭にて公開〕
12月、栄館〔島暁蘭氏から油井氏に経営を譲り渡されたと同時に松竹直営となって新陣容を整へ大活躍を試みんと意気込んで十二月一日から開館〕封切りは木曽八景、詩人の迷路、恋□夜刃、村の人気者。
この年、川俣中央劇場で「大久保彦左衛門」上映。郡山清水座で「白虎隊」上映。
大正館では「決死隊」「モダン十戒」「乱暴ロージー」「近代女風俗」「熱砂の舞」「夢想の楽園」など上映。

昭和4年の映画状況

【この年の県下の映画ニュース】
昭和4年、会津の映画界に動きがあった。
(昭和4年1月10日友)
〔大和舘再築 四月上旬華々しく記念興行
過半焼失した若松市中大和町の活動常設館大和館は経営者佐藤定吉氏に依って今回再築することになり、設計中であるが工費三万五千円乃至四万円、洋風近代的のものとして当局より認可あり次第工事に着手し四月上旬竣成と共に華々しく記念興行をなす筈である〕
(昭和4年12月15日友)
〔戊辰舘開舘 甚しい観客争奪
歳末を控へての悲鳴
若松市内には現在四ツの映画常設舘(大和舘、会津舘、富士館、栄楽館)のほか劇専門の若松劇場を併せて五ツ巴で「寄らば切るぞ–」と許り剣劇もときで必死の興行戦が演じられているが、緊縮-不景気とが早速に反映して何処にも毎夜の上がり高が僅に三十円位、雨の日ともなれば入場者五十名、上がり高十一円なにがしなんて事がちつとも珍しくない程で、いづれも電気料にも当らぬとして悲鳴 挙げている処へ、更に新たに戊辰舘が十四日より開舘の運びとなつたので、歳末を控て悲鳴の伴奏と共に血みどろな観客争奪が演じられるものとみられている〕

昭和4年6月、前年の10月1日陪審法実施記念日に天皇が東京地裁を巡幸した模様の活動写真を、福島地裁第一号法廷で上映。ただし所員と法曹関係者のみの非公開。
6月、福島座で佐藤紅緑作の人気小説の映画化「ああ玉杯に花うけて」上映。福島教育映画協会主催。7月、鈴木伝明と田中絹代ら松竹撮影所一行が来福。飯坂花水館に泊まり、8日栄館で昼夜二回漫談を披露してファンサービス。8月19日、ツエッペリン伯号が福島沿岸を飛行。県内ではこれにあやかって「ツエ伯号映画」を上映した。
「ツエ伯号映画」〔東京日日新聞社主催の空の怪物ツエッペリン伯号快翔映画公開会は二十三日午後六時から須賀川町北町須賀川専売局出張所前の大広場に於て開催されたが時節柄盛会を呈した〕(昭和4年8月民報)
白河でツエッペリン伯号映画が上映された時の写真が「目で見る白河」という写真集に掲載され、昭和4年とキャプションがあるが、この写真によると6月27日から三日間「大ツエッペリン伯号空中世界一周」当地公開特別後援賛助として東北毎日新聞社、青年団などの名が連ねてある。しかし世界一周をなしとげたのは8月のことだから、昭和4年の6月にはまだ世界一周のフィルムはありえない。この記録映画が製作された後の6月というのであれば、昭和5年以降のことであろう。

昭和5年の映画状況

昭和5年の傾向映画「何が彼女をさうさせたか」が流行。傾向とは、社会主義的な傾向というほどの意。
【この年の県下の映画ニュース】
昭和5年民友1月10日。
植田町楽天館で剣戟映画を見て映画中の主人公になった妄想で従妹殺しを自供したが狂言だったという事件を報じているのだが、楽天館という館名は、どんな館であったか不明。
2月、民報に八百板正が映画批評「傘張剣法」の社会的考察を載せる。
3月、「霊山の顕家」栄館に上映。「聖山」のシュナイダー来る。ツエッペリン伯号世界一周映画が福島座にかかる。栄館で楽屋のストーブを倒してあわや火事になりかけた。福島市内で「信達騒動記」のロケ。
4月、秘密映画会発覚し高橋商工議員召喚。映写技師は逃走。西洋物二本、日本物一本を市内松葉館で映写し一人三円で会員を募集していたのが暴露。「霊山」原町座で上映。
5月、栄館で阪妻の「森の石松」上映。
6月福島栄館で「ノアの方舟」「森蘭丸」福島座で阪妻「大忠臣蔵」上映。「シンギング・フール」栄館で上映。須賀川座「愛人」「高杉晋作」上映。
7月、戊辰館で帝キネ特約第一回「何が彼女をさうさせたか」。坂下町松竹直営公会堂「進軍」上映。エイゼンシュタイン氏パ社発声映画監督の為渡米。
7月22日民友。
〔柳盛舘再興 坂下町活動常設柳盛舘は中島前舘主の死亡後整理のため休館中であつたが同館の休業が地方的繁栄の上多大の支障を来した為め同町有志の奔走と加藤支配人の斡旋により日活本社と配給上の交渉を行った結果円満に解決し二十五日愈々開舘の運びとなり初週は大仏次郎氏普及の傑作「水戸浪士十二巻主演大河内伝次郎を上映第二巻はキング連載「蜂須賀小六」新妻四郎主演を続映することに決定した〕
8月、若松道路愛護映画盛況。五小校庭で。衛生映画会が小高、浪江、原町、鹿島で。中村町国産愛用映画会が中村一小で。福島市中央公園で映画講演の会「関東大震災の実況」「震災の復興実況」「震災復興祭の実況」教訓劇「まりの行方」上映。
9月2日民友。
〔若松市栄楽座開舘式
若松市栄町活動常設舘栄楽座は本年二月焼失その後再建築中であったが愈々竣工したので三十一日午前十時から市内の有志五百余名を招待落成並に開舘式を行った総工費六万円四階建三千名は収用し得る設備がしてある若松市には勿体ない程の常設舘である〕
9月、田島小学校で県社会課社債国産品奨励の活動写真会。柳盛館「剣を越えて」。
9月30日民友。
「浪江座の活動」〔浪江町浪江座活動写真常設館に於ては来る十月二日より蒲田撮影所創立十周年記念撮影の大松竹キネマ超特撮の鈴木伝明・田中絹代主演の進軍十二巻を上映するが景気は素晴らしいので盛況を予想されて居る〕
10月、大福座で「丹下左膳」、軍事思想普及映画が太田村小学校と木幡村小学校で。魁天主催でパヴロバ舞踊団と田谷力夫の公演福島座。会津で慈善映画の夕「白虎隊の大名行列」。仙台中継の軍縮国際放送が福島にもハッキリ聴える。
11月、大福座で関谷敏子。トーキー「子守歌」大正館で試写成功良好。発明王エジソンの「キッド」幕上げ。郡山昭和館で自殺を企てる事件。富士館で十周年記念特別興行「興亡新撰組」。本宮座主、管野平次郎に。
12月イントラレンス、バグダッドの盗賊、肉弾を福島劇場で上映。伊達郡桑折町男女青年団が豆相震災の義捐のため活動写真会。
「イントレランス」「突撃」を飯坂、梁川広瀬座、長岡村、保原劇場、松川松楽座、月館煙草取扱所、瀬上小学校、飯野共楽座、川俣川俣座、桑折町桑折座、藤田小学校で上映。
福ビルでスキー映画会。伊達郡連合女子青年団が県社会課所有の「白虎隊こがねの花」県教育会の「毬の行方」を上映。
「正月の書き入れ時に怨めしい発声映画」の記事で「上映回数に無理がきかぬ」と指摘。
弁士時代には手回しの映写機で、自在に回転を早廻ししたりしていたが、機械トーキーは速度が一定で、正月で大入りの客を面前にして経営者はやきもきした。

昭和6年の映画状況

【この年の県下の映画ニュース】
1月、正月興行大当たり。トーキーは今年も試作時代で発声装置全国に百館内外。映画界は「巴里の屋根の下」など欧州映画の争奪戦。不況の煽りを喰って県下の映画館青色吐息。ヤニングス最初のトーキーが栄館に。草人特別出演のフィルム式トーキー。故野口博士の偉業を血脇氏が映画に撮影。故郷猪苗代町で旧正月元旦に上映。白虎隊でもロケーション。
2月イントラレンス、突撃を郡山みどり座で上映。福島で衛生活動写真会、養鶏奨励映画会。
4月「悲恋勝鬨陣」福島で。海外事情講演と映画福商で上映。
5月、昭和館「白痴の弟殺し」事実映画。
二本松劇場で工場の災害防止映画会ついで浜通り中村、原町、浪江、四倉、平、湯本で巡回。二本松少年隊の「霞ヶ城の血煙」話題に。軍事映画会福島劇場で。
福島毎日新聞(昭和6年5月12日)。
〔松竹常設白河劇場開業披露会は十日午後一時から同劇場に有志百数十名を招待して盛大なる祝宴を催した〕
6月、大正館で松枝つる子「佐原の喜三郎」、「町人魂」「鉄血三羽烏」「妻吉物語」、福島座「江戸美少年録」「腕一本」「私の命は指先よ」「侍ニッポン」前編十巻上映。大福座「鼠賊忍者噺」「吾妻小唄」「貝殻一平大会」。栄館「涙の街」「片手無念流」「有憂華」。キリスト教映画・東亜キネマ「一粒の麦」話題に。双松座で月形竜之介「南国太平記」、「新版霞城の血煙」上映。
7月、仙境尾瀬沼映画化され文部省撮影隊来る。嵐寛十郎プロダクション「次郎長三度笠」撮影。伝明突如蒲田を追われる。佐藤市長が主催で震災記念の映画と講演会。三笠艦保存映画会が二本宮で。青年団主催大笹生慰安会が小学校で活動写真会。福島座でミス・ニッポン、大福座で恋のおたふく、栄館で混縁二夫婦、清水の次郎長。栄館で発声パ社「堺の狼群」大正館が松枝鶴子「海の由兵衛」、大福座「雲井竜男」上映。栄館で全発声パ社「境の狼群」東宝「松枝鶴子」映画上映。
8月「マダムと女房」松竹が誇る国産トーキー話題に。福島では栄館で上映され、大きな反響を呼んだ。
趣味同胞会の飯坂ロケーション撮影。パテーベビーの夕封切り映画会「飯坂情調」盛況。熊町活動写真衛生講演会が同村小校庭で。衛生活動並に講話会を無料公開。大正館で松枝鶴子「牡丹灯籠」(山下秀一監督)大福座で鞍馬天狗、前中別れの悲曲姉妹編(秦賢作)福島座はデブ大会、楠一郎主演「牡丹燈籠」上映。国際放送でメリーピックフィードの声聞かれた。対比展映画会、福島商工会議所で「国産進軍」五巻無料上映。20日帝キネスター大正館で御目見得。福島劇場で「愛国の母」。寄生虫予防の講演と映画会、相馬郡原町公会堂小学校講堂、原町内工場全部。
9月、福島座で瞼の母、大正館でマダム・ニッポン上映。伝明が中村大尉の映画製作
田村郡教育部会が教育映画公開。日活トーキー準備。全国七十館に発声機据付。いよいよ常設館のトーキー化実施。白河改良座で「江戸美少年録」「森蘭丸」「若者よなぜ泣くか」後編。伝明と田中絹代主演。「勇者ダンカン」上映。伝明派の独立プロ設立。名称は「不二映画会社」。松竹の中堅幹部殆ど退社。
徳川夢声、白河に来る。若松戊辰館「吉頂寺光松枝鶴子」「深川の唄」。福島の松竹栄館はトーキー毎月一本宛上映決める。
10月、日活大宗教映画「日本廿六聖人・殉教血史」話題に。
大森双石氏の手により満州事変映画浪江町で公開。伝明「野に叫ぶもの」栄館上映。伝明一人を残し高田・岡田は復帰し松竹脱退問題は解決。「一粒の麦」全国一斉封切。郡教育部、高野村小、逢隈村鬼生田小など田村郡教育映画郡内巡回。福島市教育会が満蒙問題の講演映画の夕を福島市公会堂で開催。
10月、エヂソン翁逝く。全米で追悼、すべての電灯を消灯した。10月注視の渦中に不二映画は「栄冠涙あり」製作。監督は鈴木重吉。
グレタガルボ人気沸騰。森永映画会津を巡回。福島市のお祭り興行、栄館は松竹蒲田野に叫ぶもの、福島座は千恵蔵日活男達ばやり、帝キネ現代、大正館は煙れる太陽、大福座は東亜時代劇・南国太平記。栄館「雄呂血」福島座「宮本武蔵」。
11月、大福座「清水次郎長」熊彦監督(会津出身)嵐寛寿郎プロの東亜時代劇。二本松双松座で関四映画社「血塗れる案州」。中村大尉虐殺事件の真相を描く。須賀川で中央館閉鎖問題。軍事映画と映画の夕、東白川郡在郷軍人連合分会で。
12月、須賀川町成穂会が須賀川映画祭を開催。須賀川座で「駐屯軍」上映。白河盲人協会が慰問金募集の映画の夕を改良座で150円送金。白河町婦人会は染井三郎弁士の愛国の母上映。中村郡で社会教育映画会。フォックス映画「再生の港」ファレルとゲイアナが日本語を喋る。栄舘「からす組」大会。栄館で31日から邦文字幕「モロッコ」上映。これは日本初のスーパーインポーズだ。
昭和6年には徳川夢声が若松戊辰館と白河に来た。
民友の昭和6年12月24日紙面に、
〔福陽映画会 栄舘(二十二日替)「からす組」大会〕とある。
からす組とは、福島で官軍の東北先遣隊長である参謀世良修蔵を暗殺した仙台藩の一派で、この暗殺は小藩だった福島では幕末唯一の溜飲を下げる事件だった。

昭和7年の映画状況

【この年の県下の映画ニュース】
1月、円谷英二「福島県人と映画」を民友に連載。
2月、「上陸第一歩」上映。
3月、郡山管内の消防検閲状況をフィルムに撮影。郡山で公開。
4月、トーキーの日活無声映画に発声は七八本作ると声明。上海戦線で松井、草間実、生方一平の三勇士が爆弾を抱えての捨て身の攻撃を敢行。映画化され世評を湧かせた。教育統監部で日活「肉弾三勇士」が出来映え優秀であるとプリント一本買上げ。忠魂肉弾三勇士(河合映画)も評判呼ぶ。大正館で爆弾三勇士上映。
原町旭座でも爆弾三勇士のフィルムを上映したかったが、経営者の神谷豊次郎は金がなくて駅まで到着していたフィルムは滅法高価で補償金を積まないと受け取れなかった。しかし共同経営者の布川キミは、「必ず儲かるフィルムだから三日で請け戻しに来る」と入って質屋で紋付きを金に換えたが人目をはばかって裏口から帰ったと回想していた。興行は大成功。爆弾三勇士のフィルムは新興キネマ、日活、東活、河合、赤沢キネマなど多数の社が競作して当たった。
会津の盆踊りレコードに収録。福島市公会堂で軍事映画会「海国男児」「故郷の空」「沈黙の記念日」「米国航空大演習」。大福座「白痴の弟殺し」吉村操監督作品。主演琴糸路の河合超特作現代劇。福島座、日活「放浪船」パ社発声「発声漫画ミッキーマウス」。昭和館、「乃木将軍」河合特作。愛国号献金映画会、古賀連隊長の最後ほか数種上映。福島公会堂で日支那事変講演と映画の夕。1.肉弾三勇士、2.上海事変、3.錦州入場、4.旅順開城と乃木将軍、5.海と空。伊達安達で「行けブラジルへ」講演会と映画会。映画説明者のゼネスト急転直下解決。
4月13日民報「大正館の説明主任杉本吾朗君が就任」
〔大正館の説明主任として今回杉本吾朗君が就任した、同君は元朝草東京舘に出演、その後戸塚キネマ説明主任となつたが生れ故郷の福島に永住の覚悟をきめ大正舘主北條信太郎氏 高平豊吉氏等の肝入りで同舘に入った。14日から阪妻主演「牢獄の花嫁」後篇十巻を熱演。〕
5月、ハローチャップリン神戸着。直ちに東上。5月16日民報「怒涛の様な歓迎の中に喜劇王帝都第一歩 チャップリン」
反トーキー争議更に代案を提示。反トーキー団再起。日活館に集合し七十五名検挙さる。日活の日興23館トーキー争議ゼネストへ。保原町女子青年団が金色夜叉全11巻、忠治行状記全9巻、深夜の溜息全4巻上映。入場料15銭で各種の寄付募集。喜多方帝国館全焼29日夕。「月魂」話題に。
会津で坂下公会堂が5月トーキー導入。
〔坂下常設舘でトーキー
坂下町松竹直営活動常設舘主蓮沼忠五郎氏は日支事変後多大の犠牲を払ひ軍事映画を続映大いに軍国主義の発揚に努める処あつたが今度は他に率先してトーキーを上場会津地方の興業界を断然リードすべく目下松竹本社と交渉中だが其実現は大いに期待さる〕5月11日民報。
6月、福島カフェ女給祭が栄館で。「初恋と与太郎」「空閑少佐」「血戦河古原城」上映。.藤田劇場でフィルムを焼く。不二映画「緑の騎手」鈴木伝明出演。二本松劇場で牧逸馬原作、松竹特作「七つの海」大会前後編。みどり座「石川五右衛門」。郡山大正館で「満蒙大激戦実況映画」。山路ふみ子「故郷」松枝鶴子「人か魔か」結城重三郎・泉清子。
7月、平館「弥太郎笠」「おいらの世界」「少年選手」世界館「西部開拓」「天眼通」雲井竜之助復帰第一回熱演。福島栄館で嘆きの天使、福島座水戸黄門奥州編、福島劇場征け我が子よ。平館で鳩笛を吹く女、世界館で空の王者。白河劇場、改良座「紅涙坂下御門」入江たか子。福島座「ベン・ハー」テモンナウハッロ。
昭和7年7月21日民報。
「江楽館近く開舘」
〔石城郡江名町に新たに建設中の劇場江楽館は此程落成を見たので近く竣工検査を受けいよいよ開舘することになつた〕
川俣座へ五月信子来演。実演と映画の夕でカルメン・嬰児殺し外数種。川俣でキャラメル映画会。不二映画はオールスター「金色夜叉」トーキーを撮る。松竹蒲田の全発声「嵐の中の処女」に逢初夢子出演。
8月、ブラジル事情講演映画会大沼田島で。双葉郡神職会で敬神映画。浪江座に天勝来る。中村で基督映画上映。大正館「鞍馬天狗」大福座「名金」福島座「一心太助」、郡山富士館で日活トーキー「女国定」伏見直江、昭和館「結盟白虎隊」全十巻、清水座「銀座の柳」、大正座「スービオーネ」独ウッファ上映。栄館「上陸第一歩」公開。
日活を吹く争議の嵐で益田監督馘首。
9月、平町平館で人の微笑、明治元年、世界館で旅姿一本刀、室町情史上映。二本松劇場で上海空中大激戦、事探偵映画(瀬良章太郎鈴木清子主演)尾上菊太郎歌川絹江主演「お囃子長屋」松本田三郎「出発の港」。役場と小学校で勿来の衛生映画会。不二の金色夜叉で伝明は荒屋約。「街の灯」いよいよ公開。待望の福島愛国号命名式でパテー会撮影許可。福島市公会堂でロシア事情講演と映画の夕。福島市信夫山にJORKラジオ放送局設置決定。
10月、共済委員講演と映画会が湯本江楽館で。愛の新生、魚の国、花咲爺、此の子を見よ、空の桃太郎上映。「空の桃太郎」は高水準の戦前アニメの傑作。電力会仙台支部講演映画の会「猪苗代より東京へ」福島電灯株式会社。この頃「テレビジョン時代」話題に。映画のラジオ放送と表現される。野口博士の一生がいよいよ映画化。ユ社が技師派遣。愛婦活動写真隊が飯坂、福島高女で日本及日本人、愛国の母、美しき愛、輝く人生、漫画実写等を上映。
12月、昭和5年8月以来2ケ年に亘る栄舘の大盗電発覚。その額二千五百九十円に達し舘主従業員等取調。公判に付さる。双葉郡富岡青年団訓練所は富岡座で徴兵令発令約60年記念、満州の大進軍、古賀連隊の活動、映画会。
松竹も日活に挑戦し片岡夏川伏見を引抜く。大手の妨害により不二は苦境に。
湯本町でフィルムに引火。車体は火に覆はる。保険株式会社主催防火衛生活動写真上映。福島署。無料。
12月27日民報。
「平、新春の映画戦 インフレ景気の反映で相当華か」
〔愈々年の瀬も押し迫って石城郡下の昨今、しのびやかなれどその足音をきくことが出来るインフレイション景気にあて込んで平町映画界では、「新春のほころびは先ず映画から」と、正月番組の作成に血眼になつてヰる〕〔平館では来新年早々ニップトン発声機二台をすえつけ日活、松竹のトーキー版を上映して永らく地方人が待ちこがれていたトーキー映画によつて進む方針に決定一方世界館においては盛たくさんで安く見せるといふことをモットーに極めて大衆的な新興映画を上映して、永らく続いた赤字をこの正月に補填せんと目下それぞれ準備中〕
(昭和7年12月31日民報)
〔坂下町映画界
坂下町活動常設館「公会堂」は渡部勝子氏の手によつて更生され一月一日より新興キネマと連絡成り愈々開舘することとなつたが第一回上映映画左の如し
▲時代劇阪東妻三郎主演「雲の渡り鳥」ほか〕

明治が、舶来のリュミエール映写機の技師の時代なら、大正から昭和十年代までは活動弁士の時代だった。俳優や監督よりも、弁士の方が偉かった。
活動弁士は地元のスターであった。
大正末期に黄金時代を迎えた福島の代表的な弁士西村暁夢は福島でもっとも古い弁士の一人で、何度も廃業を伝えられたが完全に無声映画が姿を消す昭和十年頃まで活躍した。魁天と改名して引退、興行師に転身して、映画館の経営に活路を見いだし福島劇場と福島座の経営者となる。
しかし「喋る映画」の登場で、弁士たちは廃業に追い込まれた。また無声映画の時代には解らなかったが、福島出身の人気俳優大谷日出夫は、ズーズー弁がたたって、役者生命を絶たれてしまった。

弁士の時代 最後の光芒

徳川夢声の弟子

有名な活動弁士徳川夢声の門下に佐藤食塩という人物がいた。宮城県白石の出身で、「大正三年に福島で興行したさい、西村暁村と名を変えて、そのまま福島に落ち着き、福島劇場で得意の弁舌をふるった。(民友「福島百年の人々」)
戦後は西本演芸場社をおこし、演芸プロとして東北から北海道まで幅広く活動した。人気コメディアンの玉川良一は佐藤の手で育て上げたもので、福島にはなじみが深い。戦後、福島第一東宝の社長をつとめた。
「福島百年の人々」発行の昭和43年当時、64歳。
「福島県史」では、佐藤食塩が来福して定着したのは大正13年としてある。
暁村親之助の回想はすでに掲げた。彼じしんの回想に従えばこちらの方が正確だろう。大正11年に東京武蔵野館で徳川夢声の弟子になった。
〔そのころ福島座・大正館のほかに栄館・大福座があり、それぞれ人気弁士がいた。西村楽天の弟子である西村暁夢・葛城暁雨・島暁蘭・岡庭梅洋・山田楽興らが活躍していた。暁夢は西村魁天と名を改めて大正十四年から福島座を経営してマキノキネマ東北封切場となり、のち日活映画を上映した。〕(「福島県史」)
魁天は〔親分肌の人で〕〔先年六十歳で死んだ〕(民友「福島百年の人々」)(43年)
これに栄館の加藤清眼、塩屋健七、花村紅月、西野夢弘、古川花泉、朝日南湖、藤森八郎。栄館から福島劇場に移った中野霊堂、大正館の説明主任杉本吾朗、大福座から福島座に移った小暁夢、西村キネマに合流した白河汀華、福島劇場の泉緑葉、福劇から大福座に移った中村雅堂、大正館で洋劇の得意な桂木天性はじめ、大蔵俊、宮沢天郷、生田清粋、福島座の春光、若山一声、片桐静波、藤井小梅、佐藤浪涯、末永天涯、加藤しげる、長谷川桃太郎、石井孝らをあげておこう。

同時代の弁士評

同時代の目からの弁士評として、大正に福島で一世を風靡したのは岡庭梅洋である、とする。
大正10年1月の民報「福島映画界」では、こうある。
〔福島の活弁を一渡り見渡した時与太だの何のと言っても矢張り岡庭梅洋程の男はいない。各館の主任と西洋物担任の弁士とを除いては全く活弁としての資格に欠けているものが多い〕と。
大正13年12月民報に秦哀美が「映画を見て」という評を載せ「説明では中村、西本、葛城、西村とともによくやってゐる、中村残郷は元□井といって劇場にゐた弁士であるが、映画劇は得意である西村の説明は熱が足りない、同君はどちらかと言へば、やっぱり悲劇物が、はまり役だらう、音楽もよい。珍らしい活劇としての長尺物を、だれさせないで見せる映画『争闘』は是非愛活家に一度見て貰へたい、熱心な西村君の奮闘ぶりを買ってやるのも又何かの社会奉仕か、呵々。」と弁士と奏楽が重要な部分であることを当然のように記している。秦は福島出身の脚本家で映画人としても有名だった。
昭和3年当時には7月、民友は中野霊堂を「近来めきめき腕を上げ」ており、福島説明界に覇をとなえるだろうと評した。林長二郎が得意で西洋ものもこなす。「白虎隊」「江戸三国志」は好成績だった。栄館にいたが、短時日よく修行して福島劇場に登場。
8・8民友に「影界ゴシップ」から「杉の実鉄砲」という短評が載せられている。
〔福島座の時代ものもあかれたやうだ、一週置きにパラマウントを持って来ると云った言質を実行してくれ、西村御大変装で五円なんて許可にもならない事をセン伝せずしっかりたのむ〕
〔大正館のプラットシップに説明した相田さん大変お上手ですけど妾やっぱり汀華さんがいいわ、恩讐の彼方の信夫さん村の田子作連の話は手に入ったものだが、とんでもない時チャリを入れたりして少し不真面目よ、キートンのやうに真面目の中から笑はせて下さい〕
西村魁天が変装で出演して高額入場料を取ったこと、信夫一声のアドリブが不謹慎であることが、これらの寸評でわかる。田子作連の話とは「田園喜劇田吾作ロイド一番槍」あたりのことだろう。むっつり表情で笑わせるキートンものに、弁士が説明で茶化して笑いを取るのは邪道だというのだ。
8-24民友によると、〔中村雅堂独立披露 大福座で花々しく旗挙げ
福陽映画界の寵児として福劇に拠って覇唱へた中村雅堂は、事情により退き大福座で独立披露をなす事になった、期日は二十五、六の両日上映映画は、ワンレ・モジウイシ主演「リア・リオン」と決定した、これには福陽楽団の橘登氏説明界の暁将白河汀華氏の応援あるはず〕

「三春座」の暁蘭と県下の弁士

「三春町史」は、〔三春座での人気弁士は当時、荒町に在住した島暁蘭であった。島は徳川夢声の弟子で〕〔昭和に入ってからの島は常設映画館「大衆座」を自宅近く(高乾院下)につくり(昭和二年)経営していたが、昭和七年に閉鎖している。(建物はいわき市に移転、島は猪苗代町で映画館を経営している)。弁士は普通、フロックコートを着用していたが、三春座では羽織袴と白足袋で舞台に出ていた。/当時の活動写真は一つの物語が「六巻物」となっていた。時代劇は内容により前編と後編に分かれ、弁士は前編は前編、後編は後編と持ち場が決まっていた。外国物は喜劇が多く、英語の説明を間違えたりすると、中学生にやじられることもあったという(活弁士・郡山市、平泉豊一談)。〕
島は福島生まれ。大正3年、16歳のとき弁士修行のため東京へ飛び出し、黒沢松声という人気弁士のもとで肩もみ、お茶くみと一心に働き、郷里福島に帰って弁士になった。
三春町史の中で、自宅近くで「大衆座」を経営、のち猪苗代、中の沢で映画館を経営したという暁蘭については、「福島百年の人々」に言及がある。これによると、島暁蘭の本名は渡辺金太郎。のちに昭和五十年代まで猪苗代で三百円という低料金で中の沢映画劇場を経営しているが、暁蘭は昭和の初め、郡山みどり座で行われたファン人気投票で一位になったこともある。このとき若山一声、片桐静波、藤井小梅なども上位の人気を占めた。
当時の本県関係人気弁士では、ほかに葛城暁雨、岡庭梅洋、佐藤浪涯、末永天涯、加藤しげる、長谷川桃太郎、石井孝などが知られる。〔暁蘭は当時の想い出を「東北の活弁番付というのがあり、西野横綱に魁天、東の横綱には私がすわった。代議士の天野光晴は、当時の高級ファンのリーダー格でした」と語っている。〕
昭和51年に発行された「福島の一世紀」(民友社)では、その後の消息を載せている。
〔「あのころの映画は二十銭、かけそばが五銭でした。二十銭をにぎって、よく映画を見に息ましたが、これからは映画時代だ・・・と少年ながらに感じたんですね。」〕
〔猪苗代の中ノ沢温泉で映画館を経営する島暁蘭さんの思い出話。いま七六歳、この道ひとすじの“活動人生”を続けている。〕
〔「弁士の仕事は、現代でいえばテレビで湯画を放映するさいの“吹き替え”みたいなものだが、場面を追って一人で説明するのは大変な仕事でした。当時は手回しの映写機だったので、技師に十銭ほどにぎらせておいて、悲しい場面だったらゆっくり、チャンバラの場面だったら早めに回してもらったものです。こうすると、あの弁士は説明がうまい、と人気を集めたものでしたよ。弁士のサラリーは五十円前後、当時としては高給取りでした。」〕
須賀川市史では〔昭和七年頃トーキーが出現するまで弁士が活躍したが、須賀川では前田越洋、高野柳圃、佐藤緑濤、小川紅声、市川旭紅、渡辺虎雄らの弁士が活躍した〕とある。
会津では、大正の頃、若松館に主任弁士小柳宝須、女流弁士富士田静子、新進の勝野岱声、若松栄楽座の楠春唐、大和館の由又藤波無鳴などがいた。
白河には友楽座の流風こと高野源次、染井三郎など。
浪江では大森双石(大堀村長をつとめた森茂)、時代物では春日小楠(原町から富岡町に移住した人)の両者だった。この二人の宣伝をすると必ず満員になったものだという。
原町の弁士には春日小楠、小島緑峰(通称亀ちゃん・本名伊藤義明)、水島某、染井四郎などがおり、平仙台間でならした。
伊藤義明氏からは、昭和50年代に何回か回想談を聞いたり、実際の活動弁士としての説明を聞いたりしたことがある。56年11月3日の原町アサヒ座開館50周年イベントでは、大正当時の旗行列を再現し、先頭を歩いて貰った。
中村(相馬市)には中村座に長尾新馬鹿、宮川桂洋、菊住華香などの専属弁士がいた。

活動弁士をやった天野光晴

みずから弁士のアルバイトをやった天野光晴代議士は自伝の中で「その頃弁士はスターだった。大正館もは山田楽亭、信夫一声、福島座には西村暁夢(のち魁天)、島暁蘭、西村暁村、福島劇場では大蔵俊といった弁士たちが名調子を競った」と列記している。
「愉快に渡ったジグザグ人生」には「活動の弁士となる」の項目があり、若き日の回想が描かれ、福島市の映画館が登場する。
〔さて、当時の若者の血を湧かした活動写真の想い出を語ろう。私が遊び盛りで、必死で福島に通った大正十四年から昭和四、五年にかけて福島には五つの活動小屋があった。栄館、福島座、福島劇場、大正館、大福座で、中は二階作りになっていて、全部タタミ敷きだった。満員で詰めれば四~五百人が入れる。入り口には呼び込みを兼ねた木戸番がいて、下足番が履物をあずかった。
入場料はふつう十銭で二階席はやや高くて十五銭。特別興行といって洋画の大作の上映は三十銭、場合によっては五十銭ということもあった。しかし不景気で入りが悪いと二人で十銭などとダンピングも行われた。
ヒマがあれば活動の看板をみて、あれがいい、これがいいと仲間で話合い、好きな活動写真は同じものでも二度も三度も見る。楽しくてしょうがないが、入場料がきつい。「何とかタダで見れないか」というのが切実な願いだった。
当時の仲間に秦建三さんという四歳上の文学青年がいた。この人の指導で活動写真をみては批評や乾燥を新聞――当時もあった「福島民友」や「福島民報」に投稿する。名前がついて記事が出るから活動関係者が注目して、宣伝のためもあって無料で入れてくれるようになった。
こうして木戸御免となると活動小屋の人たちと仲良しになる。トーキーの前とあって各館とも説明の弁士が三人ぐらい。伴奏の楽士が三人から五人。ピアノ、バイオリン、三味線が中心で、場合によってチェロ、クラリネット、太鼓などがついていた。
活動小屋は「ニュース」と呼ぶパンフレットを毎週出す。今週の上映もののあらすじと、来週の予告などを載せたものだが、この編集をやるようになった。福島劇場、ついで福島座の「ニュース」を手がけた記憶がある。
当時の活動小屋は正面にスクリーン、舞台わきに弁士の説明台があった。説明台にはミカン箱のような木箱に新聞紙を張って先が洩れないようにして、中にろうそくを立てて台本を読み上げた。
私は「声がいい」などと言われて、本職にまじって活動の弁士として登場する機会がふえた。当時の大作「蜂雀」「ポージスト」などが印象に残っている。〕
昭和51年10月10日サンデー毎日に、中曽根内閣の新国土庁朝刊となった天野の紹介記事が載った。
〔長官室で開かす活弁
阪妻の「素浪人」林長二郎の「稚児の剣法」などのマゲものも多かったが、この日の出しものは、パラマウント配給、名女優グロリア・スワンソン主演の「蜂雀」。
弁士は当時二十歳の天野光晴。しばらくの間そのさわりを聞こう。
・・・・・・
「私はあなたを愛しています」
「私はあなたを愛しています」
長い沈黙を破って、二人で討明け合い、うちとけあったそのとき、彼ら二人の恋愛は成立した。
二人は無上の悦びでなければならないのに、なぜか二人は哀しむのであった。・・・
それは、きょう、彼氏が御国のためのいくさ人として、出征しなければならなかった。彼ら二人は恋愛の勝利者であり、居ながらにして運命の敗残者であった。
二人がともに抱いて嘆くとき、いずこで打つか知らねども、平和であれかしと、教会堂の鐘の音は休戦をもたらした。
おお戦いはやんだ。戦いはやんだのである。彼ら二人に永劫に幸多かれと。「蜂雀」全巻の終わり・・・。
・・・・・・・・
いま六十八歳の天野光晴、真昼の国土庁長官室でスラスラと流れるように活弁をウナる。マイクロフォンのない時代。有名な“天野の大声”もこの時代の名残だ。
「もちろんオラは本職の活弁じゃなかったよ。そのころ本職は瓦工だが、活動が好きで好きで、初めは午前中ぐらい仕事をして、午後逃げていく。そのうち活動小屋に入りびたりだ」/初めは活動小屋で区ばていたパンフレットの編集の手伝いをやった。当日上映のあらすじと、次週予告を四ページのチラシにする。次いで屋根の上で呼び込みのドラムをたたいた時、福島の栄町周辺の活動小屋は「大正館」「福島座」「大福座」「松竹栄館」それに天野光晴がいた「福島劇場」と五つあったが、一部を除いて経営は苦しく、給料も満足に払えないこともあったようだ。
「お前ピアノやってくれ」
「オラはおたまじゃくしは読めないよ」
「なあに、たいしてむずかしくないよ。教えてやるからやってみろ」
このときピアノを教えてくれたのは、福島劇場でバイオリンを弾いていた阿部武雄(のちに「国境の町」「流転」などの作曲家。故人)だった。
「ピアノの鍵盤の上に、スミで123・・・7と番号を打つ。楽譜にも番号が打ってあってその通りに弾いて覚えた」
こんな調子で単純な曲を五つばかり覚え、くり返しくり返し弾いていた、という。当時の活弁音楽は長唄の合いの手をアレンジしたものが多かった。「新内流し」「千鳥の曲」、剣戟場面では「勧進帳」「秋の色種」などが使われた。
この約三年続いた活弁の「青春」をなつかしむように天野光晴はいまでもとき折、朝早く起きてピアノを弾く。〕
天野は昭和初期「良い映画をほめる会」というのを主宰して映画評論をしばしば民友や福島毎日に投稿して小遣い銭を稼いだ。その延長で、プログラム作成や弁士まで買って出た。まさに活動写真華やかなりし頃の福島映画界の寵児でもあった。

活弁試験の珍解答

県警察部は活動弁士の試験というのを実施している。大正時代に常設館の流行で活動映画を説明する弁士が雨後のタケノコのように誕生し、中には低劣な者も多かった。
昭和3年1月に行われた活動弁士の試験の結果は、2月7日の民友に公表されているが、これによると、わずかに4名だけが合格したという。うち一名は遠藤藤雄という青年で九十点をとったが、しかし体が弱くて母親に背負われて受験した。
ほかはいずれも珍解答が続出。試験官も苦笑した。
たとえば「風光明媚の意をあげよ」に対して「美しく品の備はった人」などの解答は失格といえどまだよいながら、「労働運動」は「一日の疲れを楽しむ運動」とか、「「六大都市とその所在地」には満足に答えた者が一名もなく浦和や仙台をあげる者、浦和が長野県、名古屋が三重県、神戸が山口県などと答えている者があった。また「黒海」が何処にあるかに的中者がなく「黒海は我が国太平洋岸にあり往復汽船の便あり、多少浪荒しと知るべし」などと勝手なことを書く。歴史に至っては「聖徳太子」を「我が国紀元二百五十年初めて政治をとりたまいし女帝なり」とか、「高山彦九郎」を「昔の忠臣にして児島高徳と席同じうして南朝時代に其名を挙ぐ」など奇々怪々の答案ばかりだった。
昭和2年度に福島県内で常設館に雇われている弁士は80名(女2名)で、うち中学校卒業はわずか13名だった。

Total Page Visits: 18 - Today Page Visits: 0