「南極探検」と田泉保直

 明治四十四(一九一一年)、M・パテーに白瀬中尉の南極探検にカメラマンを一人派遣してほしいと、探検隊の後援会長大隈重信から依頼があった。“オヤジ”の梅屋庄吉という人は、かつて孫文を助けたこともある国士型の人だったから二つ返事で引き受けた。希望者はおらんかというので男沢が名乗りを上げたが、同僚が「死にに行くようなマネはよせ」と止めたので、男沢の助手田泉保直にそのお鉢が回ってきた。
 遂に撮り上げた大記録M・パテーの社名を高くした南極探検隊の記録映画について。
 当時、田泉保直は二十三歳の血気ざかりだった。
 「だれもしりごみして、結局、いちばん後輩の私にお鉢が回ってきたのだが、行かなきゃクビだというのです。私は当時梅屋庄吉の家に住み込んで四円五十銭のこづかいをもらっていたが、探検に行けば八十円くれるという。梅屋も一万円の生命保険をつけてくれました」
 十月十四日、田泉は横浜から壮途についたが、その見送り風景のハデなこと。
 「旗やのぼりを押したて、ジンタもにぎやかなM・パテーの歓送行列(カフェーの女給もいました)の先頭に立たされ、現像所のあった麹町三番町から日本橋、銀座を通って新橋駅へ、途中、市民の盛んな歓呼を受け、多くの人が「頼むぞ!しっかりやってくれ」と私に握手を求めたり、ポケットに餞別を突っこむのです。多くて五円くらいでしたが、新橋に着くまでに両方のポケットがいっぱいにふくらみました」
 この歓送デモが横浜の桟橋までついて行ったのだから、カツドウ屋さんというもの、昔からにぎやかなことが好きだったようだ。田泉はオーストラリアのシドニーで待機中だった本隊に合流、十一月十九日、いよいよ南極へ。この出発風景を、日本人会のランチに便乗した田泉が撮影し、フィルムを日本人会に託して日本に送った。隊員一同は、さぞかし日本全土の血をわかすであろうこのフィルムの将来を思って、感慨無量。南氷洋の暴風雨で船酔いに悩まされながらも、千姿万態の氷山の奇景や光る海にたわむれるクジラの雄姿などを撮影。そして四十五年一月十六日、ついに南極大陸に上陸。
 ノルウェーのアムンゼン探検隊と出会ったときは海賊船と早合点し、神州男児の意気で体当たりだと悲壮な決意を固めたとか、田泉が一人で船に帰る途中、カメラをかついだまま氷原の裂け目に転落したが、ちょうど三脚が橋渡しをしてくれて、九死に一生を得たとか……。苦心のフィルムも、しかし、日本へ持って帰る途中で、赤道の暑さにやられてダメになった部分が少なくなく、公開された長さは約七十分くらいだったらしいが、いま残っているのは十八分。文部省が所蔵しており、近代美術館でも随時上映できるので、こんどの百三十四本の代表作には入っていないが、それに準ずるものとしてここに紹介した。(「実録日本映画の誕生」フィルムアート社)

須賀川郊外に隠棲

 田泉のこの談話は近代美術館のために牛原虚彦、島崎清彦(映画技術評論家)の二人が昭和二十八年に田泉の疎開先の福島県浜田村を訪れて取材したもので、田泉は三十六年十月十一日に死去した。
 田泉は東京大空襲で焼け出されて福島県須賀川(旧浜田村田川)に疎開し、昭和三十一年の時点でも健在で、福島民友「あの頃を語る」という記事でインタビューを受け、南極探検を詳細に回想している。
 「当時の探検船は、郡司大尉が千島探検に使った第二報国丸という二百トンのぼろ船で、難局探検の装備としては喫水線に厚さ約三センチ位の鉄板をまいたのと、十八馬力の汽罐を増設しただけ。全速力で進んでいるのに三マイルぐらい逆戻りした。防寒具は、私はメリヤスシャツ二枚の上に綿入れの胴着を重ね、その上に外套を着た。手袋はカメラを扱うので鹿皮をネルで覆ったのを使った。ピッケルはなく「金剛杖」で、氷の上を歩く時にはそれぞれ腰に綱を巻き、互いに引っ張り合って危険を避けた。
(中略)
 私は当時二十四歳。隊員二十九人のうち二番目の若さで、探検隊の壮挙を記録するカメラマンとして、勤めていたMパテー映画社社長梅家庄吉氏に話があって、断ればクビだとおどかされて、しかたなく承知した。生命保険が一万円、万一の場合はカメラの補償金として会社が半金をとる約束だった」
 明治四十三年十一月に出航。四十四年三月六日に南緯七十二度に到達。いったんシドニーに危険避難。四十五年一月中旬にリトル・アメリカ(鯨湾)に到着。キングエドワード島に上陸。ふたてに分かれて突進隊が奥地に進み、二月二十八日、二百キロ走破して雪と氷の世界に日章旗を立て大和雪原と命名。多泉は奥地へは行かず沿岸隊に属し、開南湾を探検し撮影。約四千尺のフィルムを持参したうち二千五百尺を撮った。
 しかし、予備知識がなかったため千五百尺だけが撮影に成功。四十五年五月中旬に帰国してフィルムは浅草十二館で初上映。全国に大反響を呼んだ。

大正2年 福島座で上映

 民友百年史の年表には〔大正二年五月三日「南極探検隊」を福島の新開座で上映し、市民に人気呼ぶ〕と表記があるが、これは厳密には「南極探検」「福島座」の誤りだ。
 秋田県出身の白瀬のぶが政府の援助なしに全くの民間の後援で成し遂げた偉大な事業、南極探検の記録映画で、日本映像史の最初期の記念すべき作品である。郡山、若松に続き、福島でも上映された。
「南極探検隊実写の活動写真来る」大正2年5月3日民友
 〔日本南極探検隊が僅かに二百四トンの帆船に乗じて氷山の、間を縫ひ怒濤と闘ひ幾度か生死の間に出没し三万六千浬の大航海を行ひたる勇絶壮絶の光景を実写せる大活動写真隊は週日来県、郡山に若松に到る処大なる興味を以て歓迎せられ喝采を博したるが愈々明四日より三日間福島座に於て開演する事となり昼は午前十一時より専ら学生団体の為に開演し、夜は午後六時より一般観客の為に映写する筈にて入場料は一等三十五銭、二等廿五銭、三等十五銭にて、学生小児は各等半額なるが明日は師範学校及び中学校生徒の観覧あるべく満都の士女も此の国家的事業に後援を与ふる意志に於て一度は観覧せらる可し〕

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