福島県内の映画館総覧

 福島 新開座(戦後に福島中央劇場・駅前東映)福島セントラル、福島文映、ニュース劇場、福島座、福島劇場、福島日劇、福島大映、福島東映、駅前東映、名画座、大正舘、松竹栄舘、福島松竹、第一映画劇場、福島テアトル(福島日活劇場)大福座(オデオン座・戦後に国際劇場)第二国際、駅前国際(国際パール)、東宝劇場東宝プラザ、東宝スカラ。これらは東映館を残して全滅し、現在はフォーラム12、34、56が稼働。平成10年4月、曽根田の新デパートのテナントとしてシネマコンプレックス方式のマイカル7館が開館した。
 のちに福島市に合併する周辺の信夫郡も各地区に劇場を持っていた。飯坂旭座 、湯野劇場(温泉劇場)庭坂天戸座、松川の松川松楽座、第二松楽座、本町劇場、瀬上の瀬上劇場などだ。本町劇場は昭和十八年から二十八年までの戦中戦後の一時期に町内の杉内呉服店が機操場を改造して上映した小さな館で、室内に柱が残っていて観客は首をねじって画面を見たという。
 伊達 福島市民家園に移転して有名な梁川広瀬座があったが、映画館としての設備は価値なしとされて取り外された。戦後は梁川映画劇場という館もあったが、広瀬座移転保存の話題の陰でその存在すら薄いまま。保原には、古くは明治の新栄座、大正九年開館の保原劇場に引き続き、戦後は保原映画劇場が稼働。
 月舘には常舞台と呼ばれた月舘座が戦後もひばり映画などを上映して生きていた。フィルムは川俣などから調達した。桑折町には明治二十年開館の桑折劇場。
 国見町には藤田錦座という古い館があり、戦後は藤田演舞場(劇場)として稼働。
 川俣町には明治二十一年創立の川又座(大正四年改築し五年に常設化)と、大正九年生まれの川俣中央劇場が戦後も活躍。
 飯野町には共楽座、霊山町には創立者の名を冠した掛田菅仁座があった。(二館とも建物が残存)
 郡山 最古の清水座や、明治三十二年創立の共楽座という館があったほか、平和館と富士館が大正九年に開館、大正舘などがあり、共楽座が大正六年にみどり座と改名したほか、昭和六年になって緑座の隣に郡山会館(火事で焼失したため昭和十六年郡山映画劇場となる)が出来、新興館も産まれたがこれは昭和二十年に強制疎開で壊された。
 隣接の町には大槻共楽座、大正五年開館の熱海座、日和田座(のち日之出座)や、戦後の永盛映画劇場(無許可のバラック館で雨漏りした)などが最盛期に活躍していた。
 大正座は明治四十四年生まれで郡盛舘、文芸館、大勝館と名を変えて生き延びた。ほかに名前を拾ってゆくと戦後は日劇、テアトル、郡山ニュー東宝、ピカデリーなどや、P.I.C.シスター、地下シスター松竹、ニュース館、駅前東映、ピッコロ座、ロマンス座、セントラル、駅前東宝、駅前ロマン、駅前スカラなどがあったが、今日ではすべてアートパレスとテアトルの二系列シネマコンプレックス館に統合。
 会津 若松 明治から大正にかけては栄楽座、若松座、若松劇場、会津館、大和館、平和館などが存在。昭和になって長栄座や新興舘、東亜舘(戦中整理)なども参入するが戦後すぐ閉館。戦後はグランド銀星、シネマパレス、会津東宝、東映若松、みゆき座などが活躍。昭和六二年にはロードショー封切り館の栄楽プラザがオープン。
 喜多方 戦後に廃館の帝国舘を除いて、明治に出来た旭座、文化映画劇場、中央劇場、銀星座の四館が市民にも親しまれた。
 坂下 大正のころ柳盛館という館があった。活動常設館で坂下で最初の映画専門館。戦後には金星座、栄楽座、銀星座が稼働。銀星座は、映画ばなれに対抗して上映後に客にカラオケを楽しんでもらうというユニークなサービスを試みた。
 西会津には昔の野沢町時代の劇場や、日橋村時代の広田座があり、塩川には新栄座という館があった。
 山都 古くは都座という館があったが、戦後は山都文映が上映。ほかに太陽座も。
 会津高田には大正五年に出来た信富座のほか日吉座と栄楽座が戦後活躍。
 猪苗代には新開座のほか川桁鉱山に川桁劇場、中の澤温泉に三百円劇場として中之沢劇場、かつての弁士が経営した大衆劇場などがあり、磐梯には大寺座というのがあった。 
 田島には大正生まれの弁天座と戦後の田島劇場、田島栄楽座の三館が最盛期に活躍。
 また只見でも常盤舘、アサヒシネラマ、ニュートキワ館の三館が合併前の三村ごとに存在した。むろん只見川開発で大量の労働者が移入して娯楽施設が必要だったこともあるが、豊かになった地区住民が近くに映画館を欲したこともある。只見川開発成金が福島市に松竹館を進出。
 柳津 戦前からの福満座と、みどり座(雪害のため倒壊した。いかにも会津らしい)という館があった。
 本郷、天狗座。その他の村に、宮下座、金松座などもあった。
 相馬 明治生まれの中村座と昭和戦前の新開座のほか、隣村に豊かな海をひかえて原釜劇場という館もあった。戦後は金竜館も登場。中村の戦後は中村中央、中村メトロパレスも加わり、最後の新開座が昭和五十年に閉館してこれらが全滅した後に昭和五十一年に中村映劇という館もできたが五十四年十二月、短命に終った。その後は荒川新太郎という中学教師が五十七年から相馬映画センターを主宰し原町朝日座の協力を得て自主上映を続けた。
 鹿島 相馬市史には大正五年に鹿島劇場ができたとあるが、明治時代にすでに鹿島座が出来ていた。昭和初期には東座という館名で呼ばれ、昭和四十年代に閉館した。 
 双葉 双葉郡では明治四十年会館の浪江座、富岡座が古い。双葉町には大正14年に新山会館が建設。戦後町村合併で新山村が標葉町になって標葉劇場という名で稼働。大熊町は大野と熊町村の合併で大熊となった。大野には内池座という館があり、のち大野座と改名。戦後は大和館が映画を上映。長塚村(のち新山と合併して双葉町)には戦後に亀楽座が、現在の楢葉町には木戸ロマンス劇場と竜田劇場があった。
 浪江と合併する漁村の請戸港では旅館兼食堂枡屋の庭が映画上映の場所で、のちには村内の坂本自転車屋が請戸劇場という小館を経営。
 夜の森劇場は、駅前に町長の半谷六郎が経営。映画最盛期には山村川内村にさえも川内劇場があったが入場税を延滞して閉鎖。海辺の町久の浜はかつて双葉郡内で久の浜劇場があった。広野町の小館広野劇場は松田菓子店が経営し、いまなお建物が残っている。宮城県出身の行人社吉田興行師は浜通り地方で洋画を扱い、みずから浪江中央劇場を建設して本拠にした(のち結婚式場如水会館に。映画も上映した)
 原町 明治二十五年開館の原町座と大正十年開館の旭座に加えて、戦後は原町映劇(のち原町文化・原町シネマ)が盛り場の栄町の中心地でサーカスや相撲興行などをやっていた衆楽園という町の広場に出来た。原町座なきあと昭和二十六年に原町中央劇場が駅前に参入。東宝映画と洋画を上映。文化劇場は会津若松生まれの興行師で宮城県で手広く劇場経営を展開した渡部徳の館だ。福島フォーラムの長沢裕二代表が若き日に修行をかねて働いていた。
 小高には明治の小高座と戦後(昭和三十二年)小高国際の二館。どちらも、小高神社の門前にあり、名物野馬掛け祭には賑わった。
 三春 三春町には福島事件に連座した民権運動家松本しげるが明治三十年に開館した三春座と、昭和に出来た昭和舘とが戦後も活躍。
 岩代 小浜町(現岩代町)藤町には明治二十五年に出来た安達座(小浜劇場の名もある)が昭和20年に火災で焼失するまで存続し、戦後小浜会館として同所に復活して40年頃まで稼働。
 常葉町には常葉座。今は常葉劇場の名で、唯一郡部にある映画館として「映画年鑑」にも掲載。車庫に改造して映画は上映していないが、親子で現在も映写機をワゴン車に積んで移動映画社として北は国見、新地町から南は矢祭町まで阿武隈を越え県の東三分の一をカバーしている。
 石川町には石川座(石川劇場、磯館の別名もあった)と戦後の石川映画劇場・さくら舘があった。
 本宮町には本宮座と中央館があり克明な記録が残っているし、大正の頃から町の姿を撮影もしている。戦後の太陽族映画の氾濫に危機意識を抱いたお母さんたちが立ち上がり本宮方式の映画鑑賞運動を展開する中で「こころの山脈」を自主制作。これを見た世代が昨年「秋桜」を制作するなど映画好きのユニークな町。
 船引町には昭和六年に出来た船引劇場が昭和三十年代まであった。のちに合併する地区の瀬川村には大倉劇場という名の館も戦中の新聞に登場する。村の集会場だ。
 神俣旭座は大正に建設され戦後まで生き延びた。西村暁蘭という弁士が二号さんのところに通うのに経営していたという。東和町の針道会館は戦後の建設。都路には都座があったが戦後は古道劇場という館ができた。百六十席という小館のところに「七人の侍」の無料映画会で七百人がつめかけ二階が落ちて二十九人のけが人を出した。むろん無許可。 
 小野町には新開座という館があったがのち新町会館というのが出現。今も会館前というバス停にその名残の名をとどめる。大越には大越娯楽場というのがあり現在も役場で建物を使用している。
 二本松には最古の明治十五年開館の双松座と、昭和四年に根崎に二本松劇場ができたが戦争中に中島飛行場が疎開して閉鎖。戦後は二本松会館や中央館が出来た。名画座という館名も出てくる。双松座は戦後二本松映画劇場と改名のあと東宝、東映の直轄館として生き延びた。オーナーの斉藤正太郎は昭和三十二年頃まで経営した。
安達町には(村当時)工場改造のスバル座という館ができた。 
 須賀川 豊座、岩瀬座、須賀川座といった古い芝居座のところに活動常設館の中央舘が大正八年に加わり、須賀川座は翌年常設化して対抗。昭和元年に改築。岩瀬座は昭和時代まで生きていた。さらに戦後は昭和二十六年ピオニ劇場が出来たほか、東映金美館、名画座などが活躍した。一時は町に五館が活動し県南の圧巻でさすが円谷英二の故郷。郡部に仁井田劇場という館もあった。母畑温泉には林業会館という映写設備施設もあった。
 白河は、関根座が最古の館。共楽座、友楽座などが大正に出来たが、共楽座を買って白河劇場(のちに改造して第二白河劇場も併設した)、別な芝居小屋も昭和初期に繭商人が買い取って改良座と名を変えて映画も上映するようになり、さらには緑座と名を変えて存続。戦後は白河中央スター劇場も参入し五十年代に廃館。白河劇場も平成四年に閉館。
 矢吹 大正十年に出来た合資会社組織の公楽舘という公会堂が中心的に活躍。戦後は矢吹映劇が拠点に。
 金山町には金山会館、鮫川村では古くは新宿座、のち中野公会堂という公衆の場が映画を写していた。別に共楽座もあった。 棚倉町には古くは棚倉劇場があったが、戦後に棚倉中央劇場、東白川郡から名をとった東白劇場、旧近津村に近津劇場とがあった。
 塙町には大正六年に出来た塙劇場が昭和四十七年まであり、地元の郷土史家金沢友春氏が克明な原稿を残していたのを最近塙図書館が発見。
 矢祭町には合併前の二村に更正座と東舘座とがあった。戦時中の昭和十六年に東京から来た大槻くらさん(現在九十歳で健在)という人物がその一、二年後に開館し経営した。
「高校三年生」を上映したというから四十年頃まであったようだ。
 旧長沢村には長沢座。
 古殿町には、旧宮本村に地元の県会議員親子が機織り工場を改造して大正年間に竹貫座というのを作り昭和十五年頃まで運営した。
 中島村には旧滑津村に滑津座という館が、戦後の昭和二十八年から十年ほど明星舘という館もあった。
 東村には戦後、文芸館があった。 いわき 一時はいわき域内で四十館が上映していた。

 平 聚楽館と平座は明治の館。大正になって平舘、有声座ができ昭和に世界館(戦争中に強制疎開され戦後に復帰)、戦後は民衆劇場というのが誕生。洋画の第二常磐座も活躍した。その後の館名だけ追ってもひかり座、平松竹、平ニュース館・平新東宝・ニュー東映・ニュー国際・名画座などがある。平テアトル、平スカラは郡山の安達政雄氏が経営。アポロ座など新しく産まれてすぐ消えたのもある。現在、平名画座、平東宝、平東映、平東映2、平ロマンなどが稼働しており、聚楽館シネマ1と同2という館名に明治のなごりが残っている。二十四時間ビルの東映三夜館やシネマビルという集中形態のレジャー産業の導入でも平は先進的で、共通割引駐車券の発行など業界のサービス開発にも熱心で県内では最も元気な映画娯楽の町。最古の聚楽館の場所では、最新の世界館がぽれぽれいわきとして先頭を切っている。
 四倉 戦前からの四倉座、四倉海盛座に戦後は国際劇場、四倉日活が建設された。四倉文化という館名もあるが異名だろう。
 その他いわき各地に泉座、豊盛座、夏井会館、福島座、小川松栄劇場、川部劇場などもあった。広域いわきに合併する前の各村町には必ず一館映画館があったのだ。
 小名浜 磐城座、金星座、銀星座、金美館、国際劇場、小名浜劇場(のち地球館)が活躍。現在はグリーン劇場とローズ劇場が稼働。
 江名地区には二羽シネマ、江名江楽館、朝日館などがあった。  
 湯本 湯本座、湯本別口、三函館 上遠野には東映、上遠野劇場、甲子館、朝日館。田人に泉光館。 
 植田勿来 菊田座、植田館、中央ロマンス館、錦座、常磐劇場、関田劇場、共栄座(順不動)
 内郷 竹之内座、昭和館、磐城劇場、内郷座、綴映画劇場、磐城第二劇場(順不同) 

 映画館の死は地域の死
   
 これら一つ一つの映画館にドラマがあった。映画館は人生の教室だった。すべては過去完了の世界だ。
 江戸時代から続く地芝居の仮設小屋で、みずから演じた芝居が娯楽だった。そこへ西洋の機械文明たる活動写真が渡来して百年。日本人は器用に弁士と楽士をつけて新文明を吸収消化した。ほったて小屋でまだ用が足りた。しかし昭和になってトーキーが普及すると導入できるのは経営感覚を持った資本だけ。映画は都会の娯楽であることを思い知らされる。しかし町村の小さなバラックの映画館こそが、実は日本の映画のふるさとだった。戦後の一大映画ブームとは、日本の貧しさと豊かな時代の到来がないまぜになった渦の時代だった。ここに掲げた映画館の名前の陰に読者の青春もあるだろう。
 館名の由来と立地を考察すると戦後の町村合併の嵐のような跡を見る思いがする。共同体の破壊と、均質化の戦後五十年の足どりである。映画館の死は、地域の死だったのだ。

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