原町無線塔、朝日座など福島県南相馬市原町区(旧原町市)の文献を公開

予はいかにして興行師となれるや 高松豊次郎小伝

予はいかにして興行師となれるや
高松豊次郎小伝

侠義団の吉田佐次郎とは別のルートで日露戦争の映画を巡回上映した人物として高松豊次郎がいる。
「高松豊次郎」の名は福島大百科事典(福島民報社刊)を調べても索引にない。福島県史にも件名がない。かろうじて県史人物編の索引件名に登場するが、本文にあたってみると、それは政治の分野で、大正期の総選挙に出馬して落選した人物として顔をのぞかせるのみである。
文化編の映画の項目に、興行師として登場する高松は、県史編纂者の意識には単独の項目に扱うほどの人物ではなかった。
高松の出身は飯坂だが、福島市史にも残念ながら見当たらない。
地元で活躍して地元で没した人物に関しては、地元新聞の記述が多いので、郷土史文献に拾われる確率が高い。しかし地元に産まれても若くして広い世界に飛び立った人物に関しては、意外なほどに知られない。「福島の」うんぬんと最初から限定した文献そのものが中途半端なのだろう。
高松の名が福島の新聞に登場した最初は明治三十八年八月十五日。翌日から日露戦争の活動写真を福島座で見せた。また当時の最新文明の利器、蓄音機を公開。評判がよく平でも公開した。
〔○福島座の活動写真 明十六日より開会する活動写真は珍しき大規模のものにて長さは燐三千三百尺(フィート)に渉り召集令状の交付より出征斥候の任務を終了するまで一切の軍事行動を撮影せるものを始め「銀行の大賊」「屋上の窃盗」「佳人の奇遇」等は余興写真としては「日本海海戦」「長春吉林方面の戦」並に比較外国戦争より近時流行の元帥踊り等を加へ其実種七十五種電力火力も二千五百燭を使用し最大形長尺に映写為し万事是迄になき仕向にて観覧せしむるとの事該写真会主は兼て本紙に於て紹介せる飯坂町出身なる高松豊次郎氏にして氏の目的とする処は勤労の鼓舞にありて人を集め又其費用を弁ずるの方法として多年活動写真機を提(ひっさ)げ東海四国九州台湾に孤剣天下を歴訪 今や最新写真三万余人を得て始めて今回県下に来れるもの東都に於てスエズ以東の大活動写真なりとの評ありしと〕(8月15日)
〔○福島座の活動写真 信夫郡飯坂村出身高松氏の日露戦争活動写真会は一昨夜より福島座に於て開催されしが非常なる好評にて午后六時開会同八時十分なるに観客一千と称せられ満場立錐の余地なく木戸締切となり門前のアークを眺めて怨みを飲みし人も多かりしが写真は何れも従来に無き長尺にして撮絵亦鮮明日露戦況は其実況を目前に見るが如く其他の撮影は一種の教訓を与ふる好個の小説として見る可きもの多し殊に其間に於て発声器の吹奏あり高松氏は「如何にして興行師となりしか」に就て縷々其雄弁を振へり氏は嘗て東都に苦学せし際誤って左腕を断たれしも会社は此に何等の救助を為さざりしを慨じ爾来人の賤しむ興行師となって遠く台湾マニラ等迄渡航し労働者救護の必要を説きたる事ここに十数年此熱心を知られん事をと説き終りしが弁は感嘆にて克く意を尽し其撮画の説明の如き長冗なる形容詞なく観客一般の好評を博したり〕
(8月18日)
「其他の撮影は一種の教訓を与ふる好個の小説として見る可きもの」というのは、彼自身が製作した社会パック映画(後述)であろう。発声器とは蓄音機のこと。この時、左腕を切断する事故に遭遇した際に会社が何もしてくれなかったことを振り返り、労働者としての社会的自覚と使命にに目覚めた経緯について彼自身の半生を語り熱弁を振るった。
福島県史は昭和40年刊の「福島民友ふくしま七十年」からの引用として〔豊次郎は香港から「大強声の発声器」を手に入れて活動写真とともに公開した。これは今で云うレコード・プレーヤーのこと。「新橋芸者のカッポレ」「米山節」などのレコードが人気があり、当初三日間が一週間以上のロングランとなり、気をよくした彼は平市に出かけ、東京の新富座をまねて作った新装の「平座」でのやったこともある〕と記している。
さらに明治36年9月19日
この時の記事によって、福島県史は高松を単なる一個の興行師としてのみ扱っているが、それ以上の存在ではない。
たしかに高松は、一個の興行師であった。しかし彼ほど数奇な運命によって興行師の道を選んだものもあるまい。

片腕の社会運動家

高松豊次郎は明治五年十月二十一日、飯坂温泉高松屋旅館(滝の湯)長男として産まれた。
銀山の経営をしていた伯父の手伝いをしているうちに、採鉱の仕事に興味を覚えて、メキシコに渡って鉱山採掘を学ぼうと志し、在米の先輩の手引きで渡航まで決まったのに、先輩の急死によって計画は水泡に帰した。それでもなお彼は独力で渡航しようと思い、そのための準備として、明治二十一年五月に創立された鐘淵紡績会社の職工となった。
急いで学費を蓄えようとの思いが焦り、危険手当のつく打綿工場を志願。操業中に誤ってアメリカ製のウエストブリーカ機に触れて、左腕上膊部三分の一を残して切断される事故に遭った。ときに明治二十五年七月二十四日。順天堂病院にかつぎこまれた彼は奇跡的に一命を取り留めた。十九歳のことである。
不況で操業困難だった当時の鐘紡では、職工は二十日間欠勤すれば文句なく馘首との規定があったため、彼は二十日目に苦痛をこらえて出勤した。首はつながったものの、仕事は職工賄所の帳付けに転配され、たった十二円の見舞い金をもらっただけで、失った左腕については何の保護も救済もなかった。
しかも年々歳々、同様の負傷者が出るに及んでも会社は救済の途を講ずることなく、政府も労働者保護の思想がない。ここに至って暗澹たる労働者の前途に憤激した彼は、法律経済を学んで労働者を守る労働法の整備確立をめざし、労使協調の思想鼓舞に挺身しようとの決心を抱く。

高座でデビューした呑気亭三昧

明治二十七年七月、鐘紡をやめて明治法律学校(明治大学の前身)の学僕筆生に採用され、三十年三月卒業。その一方で、彼は三遊亭円遊に師事して話芸をみがき、上野の鈴本亭で師匠の円遊の前座をつとめている。芸名は呑気楼三昧。円遊といえば落語の世界の人物。労働者救済の夢に燃えた勤労学徒と落語家とにどんな関係があったのか。しかし高松は、まさに高座で労働者救済の講演をしたのである。
明治三十三年一月十五日号の「労働世界」(第五三号)には、

呑気楼三昧とは高松豊次郎の芸名にして同氏は既報の如く、いよいよ明十六日より、神田の川竹亭その他二、三の寄席に出て、その新作の落語を話さるという。

という消息がのっている。
また六八号には、こうある。
呑気楼三昧高松豊次郎氏は、十六日よりいよいよ三田の寄席に於て、氏が購求されたる高等活動写真を入れ、有益なる平民的寄席を組織し大喝采を博したり。
明治三十四年五月に日本労働新聞社から発行された片山潜、西川光次郎共著の「日本労働運動史」の中に「付記、ここに第三章を終らんとするに際し付記することあり、それは労働運動の講師二人あることなり。その一人は明治法律学校の卒業生高松豊次郎氏にして、氏は東京に於てしばしば労働演説をなせし後、蓄音機をもって田舎をまわりて労働演説をなし、目下は活動写真器を持って地方をまわりつつあり。」
という消息もある。
明治三十二年の「労働世界」には高松は労働劇「二大発明国家の光 職工錦」という原稿を載せており、次のような物語だ。
主人公の職工が幾多の妨害と戦いながら妹の助力で帝国海軍の軍事力に貢献するため新爆薬を完成するというもの。これがきっかけで高松は片山の労働運動とも連動するようになった。高松の寄席は、民衆そのものを対象にした内容の、最初から教育的労働運動の一環であった。明治三十八年こそ福島民報に高松の名が登場した年。郷里で珍しい活動写真を紹介する前にすでにこのような前段があった。
蓄音機を公開したり、活動写真を見せたのも労働運動の一環としてである。寄席で活動写真を写すとき、説明は高松自身がやった。そのためにこそ話芸をみがいたのである。このときの映写は、のちに東京シネマ商会を作って記録映画・文化映画・ニュース映画でならした芹川政一が担当したという。初期日本映画史の教育映画の草分けとして高松は、見せるだけでは飽きたらず自ら制作することになる。彼自身がのちに日本初期の独立プロを浅草に創立するのである。

社会パック活動写真

明治39年9月20日に神田錦輝館で彼の作品15場面が上映されている。
「社会パック活動写真」〔社会パック活動写真会製作。原案脚色呑気楼三昧〕高松豊次郎(。撮影千葉吉蔵。出演者春風亭鶴枝その他。①活社会の玉乗り、②海老茶の木魚、③公徳の泣き言、④当世紳士の正体など、スケッチ風の諷刺一五場面を集めて公衆道徳の鼓舞に努めた。(明治三九・九・二〇)〕(発達史Ⅰ―411)
岩波の「日本映画の誕生」に、高松の名前が登場する。福島県レベルではなく、全国区の日本映画史に残る歴史的映画人である。
〔一九〇六年に労働運動か・社会活動家の高松豊次郎が、社会パック活動写真という映画を製作し、東京の錦輝館で興行して自分で説明している。パックとは漫画のことだが、これはアニメーションではない。マンが的な発想による社会諷刺の意味である。阿部龍編著の「日本映画史素校9 資料 高松豊次郎と小笠原明峰の足跡」(フィルム・ライブラリー協議会)によれば、これは次のような内容である。
「第一種類(喜劇)活社会の玉乗り 海老茶の木魚 公徳の泣き言 当世紳士の世界 自惚の失敗 国有の下宿屋 人心の表裏 旧思想の教育 ハイカラの行列
第二種類(活きたる社会劇)女子学生の末路 悲劇船長の殉死 樺太の破獄 飲酒と家庭 愛の成功」
以上のうち、「活社会の玉乗り」というのは、浅草の江川という玉乗り一座の出演で、向島の花月登壇や日比谷公園にロケーションして撮影されたもので、それらの場所に舞台の玉乗りの玉を持ち出し、玉に官・公・私立のさまざなな大学名を書いて、学生に扮した玉乗り芸人が“活社会”の出世競争をやるというもの。

39年11月に福島座で、また12月にはいって保原町、桑折町、梁川町、川俣町、石戸村でさっそく「社会パック活動写真会」が開催されている。
「社会パック活動写真会」〔福島座に於ける同写真会初日の景況は前号所報の如くなるが二日目の午後一時よりは学生を入場せしめ夜に入りて午後六時木戸〆切の大景況なりしが高松氏は諧謔の弁を揮ひ大に観客を感動せしめたり三日目午後一時より福島三小学生徒は教員引率の下に観覧し夜に入りて亦立錐の余地なき好況なりし猶ほ同日福島軍人団にては元団員なりし戦病死者の遺族を招待したりと〕(民友11.27.)
民友は「其後のパック活動写真」と題して後報している。
〔過般福島座に於て開会し非常の喝采を博せし社会パック活動写真は其後保原町に趣き三日間木戸〆切の好況を告げ毎夜千三百余名の観客ありしが二日より本日まで桑折町に開会し五日より三日間梁川町青年同窓会の招聘を請けて同地に趣き次に川俣町に乗込み一興行の上上京して十分支度を整へ台湾へ渡航する筈なりと云ふ盛なる事なり〕
(12.4.)
同年12月1日には同じフィルムを神戸大黒座で上映している。

台湾紹介映画

次に福島の新聞に登場するのは明治40年の民友で、台湾紹介映画を仙台、福島などで上映紹介している。(この時は愛国婦人会主催の慈善上映会で)
〔◎慈善活動写真会計画 福島愛国婦人会にては来十日頃目下仙台市にて開催中の活動写真会を招して新開座に開会し其収益を以て鳳鳴会に寄付する筈なりと〕(10.2.)
〔◎一昨夜の慈善活動写真 愛国婦人会同情部が福島育児院の為にしたる台湾紹介活動写真は一茶伽より当新開座に於て開会したりしが舞台の全部台湾趣味の装飾を施し音楽は奇怪なる音を発する之も台湾趣味なり開会に立ちて婦人会長平岡知事夫人の簡単にして要領を得たる一場の挨拶あり直に台湾を紹介するに最も適合なる数十枚の珍画を写せり其間には滑稽物奇術物等を写し亦台湾生播人の君が代、台湾芸妓の音楽等あり殊に高松豊次郎氏が写真の不足に説明を以て補ふとて台湾の状況を説明したるが音吐朗々懸河の弁にして之が普通の演説としても傾聴の値は充分あり兎に角も普通の興行とは一種異なりたる有益の催しなり〕
故郷飯坂でする上映だからこそ、高松は自ら出演を買って出た。青雲の志を抱いて上京した青年時代から、失意に沈んだ時期も、じっと見守った両親のいる飯坂で、自分の打ち込んでいる台湾文化政策の一端を紹介するのだ。当然ながら、滝の湯高松旅館の肉親も地元の人々にまじってこの台湾映画を見たに違いない。
明治45年3月9日の福島民報に「台湾紹介 活動写真会」という記事が出ており、ふたたび高松豊治郎(こちらが正式の名)が台湾の実業や討伐実況などの活動写真を在郷軍人会福島分会の主催で、10日午後6時から公会堂で見せる、との予告が載っている。高松は日本における映画普及のパイオニアの一人であったと同時に、出身のfぐくしまにおいては「外部」から「世界」をひっさげて帰郷しては、地方の後輩を刺激し続けた映画史の英雄だったのである。

高松、台湾へ行く

明治三十八年十一月二十日創刊の社会主義新聞「光」には、高松の消息として、
高松豊次郎 職工として鐘淵紡績労働中器械にて左腕を失い、明治法律学校を卒業して後、呑気楼三昧と称して講談師となり、貧民、労働者のため滑稽の弁を振いたる同氏は、いま台湾にあり、今に南洋諸島に押し渡らん決心なり。
と紹介している。
当時の明治法律学校には伊藤博文や後藤新平が関係しており、彼らは敏捷で頭のよい苦学生の高松を愛した。伊藤は野にあって政友会の創立準備中で、高松が活動写真を見せて寄席に新風を吹き込んでいるのに目をつけ、台湾統治にこれを利用しようとした。日清戦争で獲得した台湾だが治安工作がうまくゆかず、植民地宣撫に活動写真を利用しようと、かつての教え子高松を口説き、また後藤新平にたのまれて高松は三十七年に台湾に渡っている。これらの政治家は「すこしくらい社会主義の演説をぶってもかまわん。やってくれ」と高松を説得したらしい。
高松は台湾で、島内の主要都市八カ所に興行所を建設。映画、演劇その他の催し物をかけ大いに活躍、内地から出向して威張っていた日本人役人のやりかたを高座から叱りつけたりしたという。この話は、高松に呼ばれて台湾に行った松旭斉天勝一座の記録にある。
明治39年と45年に、福島で興行を行っている。当時の新聞はまさに高松を評して「台湾成金」と呼んでいる。
大正四年には、台湾から一時帰国して郷里の福島から総選挙に立候補。国会に乗り込んで労働法の実現をはかるのが早道と考えたのだ。当時はまだめずらしかった自動車を選挙用に買い込み飯坂に乗り込んだ。結果は政友会幹部の堀切善兵衛と福島日報社長某に挟みうちされて、わずかの差で落選。県史は「落選した高松豊次郎候補は、台湾成金のふれこみで派手な買収・もてなしで票をかき集めた。」と記しているが、「政友会から初出馬して最高点で当選した堀切派の買収は公然の秘密といわれていた。」というから、この当時は誰の選挙も買収があたりまえで、堀切の選挙もひどかった。自動車で疾走する姿は「飯野町のあゆみ」にも載っている。地方では新時代のメデイアを駆使して遊説するハデな人物と映ったようだ。盛会で活躍することはなかったが、社会運動家としての先駆的活躍は目覚ましく、中央で地方で新文明を伝えた。単なる興行師以上の評価を加えるべきであろう。

映画製作に専念

このあと彼は台湾に戻り、事業いっさいを知人に譲り、帰国して大正六年六月、小石川区東五軒町に活動写真資料研究会の看板を掲げる。永い間の念願だった映画製作に専念することになる。明治期にすでに社会パック映画という社会風刺作品を制作しみずから弁士として説明もしている。高松は最初期の教育映画製作者から、日本の独立プロ映画制作のさきがけになった。
後藤新平はその頃、鉄道院総裁から東京市長になり、関東大震災のときは復興院総裁として活躍したが、この間ずっと高松の仕事を後援し続けた。
大正7年に高松は鉄道院の新企画で、鉄道啓蒙の一編を製作する。「汽車の旅を活動に」と題する記事(福島日日・大正7年)には「本県飯坂町出身元は活弁、興行師として知らるる高松豊治郎氏は現に東京浅草に歌劇専門の日本館其他数館を所有して目先の変わった興行法に鮮やかな手際を見せて居るが今度中部鉄道管理局からの依頼に依り鉄道員従業の実際を一般世間に知らしめる目的の下に活動写真を撮影中」と報じている。
大正十年、文部省の主催で活動写真展覧会が開催。高松は宣伝部長として要職を果たす。翌十一年の「活動倶楽部」2月号によると彼は大東京と浅草公園六区という映画館を経営し、柳島に一千四百坪の撮影所をかまえる東京市の名士であった。
高松の野望は、全国六十数カ所に教育映画の常設館を展開して安価で小学生に教育映画をみせ一般民衆に社会教育することだ。その第一歩が大東京という館の経営。浅草公園のパテー館を後藤新平東京市長らの後押しで日活から入手し、警視庁特別高等科の某幹部の肝煎りで「大東京」と改名。事業は順調にすべりだした。
事業は成績がよかったが、教育映画専門の興行はうまくゆかない。あまりに理想主義にすぎた。
しかし、十二年から提携した帝国キネマの濡れ場(ラブシーン)のある作品との組み合わせは成功。
大震災の後の大東京の復興も早く続いて「新東京」館も開館。
大東京は戦時中に廃館になるまで浅草に存続した。
大正十四年に高松プロが旗揚げする。経営する常設館ではマキノ映画をかけ、撮影所では宣伝映画を撮って維持していた。
高松プロの制作作品に関しては映画専門の研究に譲るとして、高松プロ解散後について豊次郎の孫の富久子の手記を紹介しよう。

孫富久子の手記

〔高松プロ解散後、一番力を入れていた事業は、今日のテープ式磁気録音を開発しましたが、当時のNHKと競合することになり、市井の小資本の事業家が、国家権力を代表するNHKに抗すべくもなく、フィルム式録音方式の開発企業化へ転じて行く事となり、開発されたその方式は、フィルム・トノーラー方式といい、当時携帯式の録音機で即時再生できエンドレス方式を用いて、数時間に及ぶ録音が出来たのは画期的であり、多くの特許も出来ていたそうです。
残念ながら再生回数が増えると録音特性が低下するという問題に逢着し、この改善に豊次郎の経済能力を越えた努力がつぎこまれました。それを物語る事例の一つに、その頃、旧式化したかつてのダークステージを、録音ステージに改造、使用して、当時米国帰りの関係者をしてRCAもどきと驚かせたとききます。
しかしこの事業は、この後、豊次郎がやろうとした晩年の高松プロ・ロール・バック作戦を困難に至らしめるほど、高松一族に、致命的な経済力への打撃を与えることになりました。また孫幹男が、オーディオ技術を身につける発端にもなったようです。
なお、この時期の豊次郎の旧友、知己の音楽家や、オーディオ関係者達が、彼に協力を与えており、山田耕筰氏もその良き理解者だったそうです。
かつて自由民権の闘士であった豊次郎も太平洋戦争中は、興国映画社という右翼資本家の協力を得て事業の推進を図り、彼の生涯の汚点となっているとは孫共の批判です。
戦後、今日のアニメーションの隆盛を予期した彼は、日本漫画という動画会社と業務提携を行い、幹男の音楽映画運動を支援し、その第一作「歌は星空」は、灰田兄弟の協力でアメリカナイズした音楽映画であったが、お蔵物同様の結果になりました。
組織的な高松プロの制作活動は、これを契機として終わりとなっています。(昭和48年11月7日)〕

映画人の系譜

豊次郎は昭和二十七年に死去。八十一歳だった。
沢島富久子が昭和四十四年に作製した豊次郎の子孫の系図によると、多くが映画関係者として活躍している。
吉村操監督は、豊次郎の息子で、昭和二十年三月十日の東京大空襲で戦災死。三郎は三月十六日に戦災死したが、当時日本映画社に勤務。豊は芸能プロの高松プロのオーナー。娘雪の夫は山根幹人監督。高松プロの大黒柱となった。長男幹一の娘にあたる富久子は、沢島正継監督夫人となる。
吉村操が大正十五年に第一回作品を撮ったころの回想を綴っている。
「大正十五年の頃、向島吾嬬町にアヅマ撮影所という小さなプロダクションがあった。
そこに集まったメンバーが、山本嘉次郎氏、江川宇礼雄氏、宇留木浩氏(横田豊秋)、近藤伊与吉氏、当時のモダン・ガール高島愛子嬢という現代劇部の連中に、時代劇部のメンバーが、沢田正二郎氏の親友倉橋仙太郎氏の主催する第二新国劇という劇団だった。
私の第一回の仕事が、その新国劇を受け持つことになり、脚本は確か倉橋氏が書き下ろした「義憤の血煙」という剣戟映画だった。
私も第一回の作品だし、第二新国劇の連中も第一回の映画出演だったので、お互いになんとなく不安な気持ちがあった。だが、第二新国劇の連中が、第一回の映画出演に望む態度は、実に真面目で情熱に満ちていた。
その劇団演技員の中から、撮影の扮装は初めてであるから、顔の色と羽二重の合うようにテスト撮影をして下さいと、代表者が来た。その代表者は室町二郎という名刺をくれた。この人は相当の近眼鏡をかけた人で、話は扮装のことからはじまり、近眼では撮影にどうでしょうかなどと、色々細かく聞く。段々話は進んでゆくうちに、「この人は相当に映画に対する情熱を持っているな」と感じ、さらに話をすれば、彼の映画に対する研究は、演技上のことばかりでなく脚本の構成にまで及ぶという程に映画への研究をしている。私は「この人は将来映画俳優として立つか、脚本家になるか、どっちにしても相当の所まで行く人ではないか」と思った。でもこの人は相当の近眼だし、柄もそう大したことはないので、映画俳優は少し無理じゃないかなと思っていた。」
この人物こそ、その二年後に日活からデビューする大河内伝次郎であった。

直木三十五の「タカマツの話」

直木三十五も映画界に関する多くの雑文を残しているが、昭和2年の「映画時代」に、「タカマツの話」と題する小文を載せており、こんな風な消息が載せられている。
〔「月形半平太」(沢田正二郎主演)で、マキノが僕に加勢して東亜と喧嘩し独立するや、高松豊次郎は機至れりとして考えた。この人はいつも活動写真は民衆娯楽として、今でも差し押さえられながら「私は民衆のために」だから親分、後藤新平が政治の倫理化を叫ぶが如く、禿頭と、一本しかない手を振り回しながら、愉快に新平と民衆とを云ったにちがいない。
だがそれは人に対してであって、腹の中では、新平が、政治が倫理化されなくても総理大臣になったらいいと思っているが如く、高松豊次郎も、マキノのこの機を使って撮影所を利用して、マキノの新劇部の不整頓につけこんで、アヅマ撮影所に、マキノ東京派というものをおいたのである。〕

独立プロの嚆矢「高松プロ」

マキノというのは、日本の初期映画史に名を残す牧野省三のこと。日本最初のスーパースター尾上松之助を作り出した監督だ。日活を離れて教育映画製作のミカド商会をはじめた時に、高松も「教育映画の元祖」を旗印にして活動写真資料研究所を創立した。のちの高松プロにつらなる最初の旗上げである。
牧野と高松との出会いは、高松が大正十年に文部省の活動写真展覧会の宣伝部長をした時のことらしい。
牧野がのちに東亜キネマに合併され、さらに東亜を離れてマキノプロを設立し、これに呼応して高松が高松プロを設立したとき、日本の独立プロの歴史が始まった。暗黙の呼吸で、大資本に対抗して真に映画を愛する映画人の独立プロ同士が提携関係になった。直木三十五も自分のプロを持った時代である。吾嬬撮影所は貸スタジオとして阪妻プロにも利用され、その有望さに関しては大正十五年のキネマ旬報も紹介。
しかしやがて大手の映画会社は独立プロを包囲し、牧野省三は昭和4年に死去。高松が生き残ったのは自前の経営館を持っていたからだった。昭和2年から大東京は洋画を上映するようになる。
これらの事実は、多くの演劇映画研究家の調査で判明。俳優座の松本克平氏が、仲間の宮口精二氏発行の「俳優館」に連載した「新劇屑屋のたわ言」という記事に知られざる高松の経歴が登場する。もともと、社会主義的演芸や演劇が、小山内薫の自由劇場や坪内博士の文芸協会以前にも実在していたことを実証するのが松本克平氏の「受難新劇史」で、そのきっかけになったのが、明治三十二年発行の高松の著書「絶世洒落 滑稽百話」。高松が呑気楼三昧と同人物であることが判明するのに二年かかったという。
これを拾いつつ「日本映画史研究素稿」が克明な研究を発表。
豊次郎の孫娘富久子が(七年前に他界されたとのこと)沢島正継監督夫人であることを知って、沢島監督に問い合わせたところ、豊次郎の肖像写真と資料を送っていただいた。

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