原町無線塔、朝日座など福島県南相馬市原町区(旧原町市)の文献を公開

ふくしま映画100年 昭和編 戦後シネマパラダイス

戦後シネマパラダイス

郡山出身の西田敏行は、少年時代から無類の映画好きだった。中学生の頃に俳優志願を固め、中学卒業と同時に上京し、明大中野高へ。しかし東北弁を笑われて傷つき、登校するのが嫌になって、上野動物園に行き、ゴリラの檻の前で終日過ごしたりした。
それが明大を中退して四十五年の青年座に入り、翌年には「写楽考」の主役で注目され、二年後にはNHKの「北の家族」の若い大工役で人気を得た。「おんな太閤記」「翔ぶが如く」「吉宗」で堂々たる主役を演じ、「鬼が来た」の棟方志功などどんな役でも自然に地のままの存在感を出す。「池中玄太」や「釣りバカ日誌」のあたり役のほか「植村直巳物語」をはじめとして、極地や赤道の紀行レポーター役としても活躍し、極地俳優の異名さえある。
その西田が松竹の山田洋次監督の「虹をつかむ男」で主役を演じた。四国の田舎町の映画館主という役どころだ。昨年(平成8年)死去した渥美清への追悼映画。寅さんが去った後で、日本の映画界のポスト寅さんは、西田敏行一人の観がある。
「虹」は同時に、戦後の映画という大衆娯楽への挽歌でもある。田舎町の映画館オデオン座館主に扮する西田は「ニューシネマパラダイス」を上映する。イタリアのとある漁村のパラダイス座は、ふだんは教会である。神父がいちいちフィルムを検閲するが、この伏線はすばらしいラストシーンを準備する。文盲の映写技師と、主人公の映画好き少年とのほほえましい交流。別れ。そして再会。死。青春への追憶。ついに廃館となるが、パラダイス座はあざやかに人々の記憶に刻まれている。
日本の戦後の映画ブームも似たようなものだ。小津安二郎の「東京物語」や、洋画の名作「雨に歌えば」の場面を絡ませ、西田は洋画と現実を行き来しながら、幸福そうに映画の魅力について熱弁を振るう。しかし、客の入りは少なく、彼を支持する映画好きの町の仲間五、六人が唯一の支えだ。そんな中に同級生の妹で若い未亡人(田中裕子)が、励まし声援するが、彼女にプロポーズしようと花束を抱えて会いに行くと「ごめんなさい私・・・」と、別な男との再婚話を打ち明けられて「よかったナ」とまるで寅さん映画そのままの呼吸。
心の支えを失った館主は、閉館を決意し仲間たちに宣言するが、そこに夢のような思いがけない救いの手が差し伸べられる。
勝新太郎、中村錦之介らの訃報が続くなか、今村昌平の「うなぎ」、北野武「HANA-BI」のカンヌ、ベネチアでのグランプリ受賞で、久しぶりに日本映画も脚光を浴びた。
しかし、これを上映する館が、国内にない。日本映画は外国で評価されたとしても、もはや天然記念物的存在でしかないのだ。
戦後の福島県下の劇場群
空前の映画館ブーム、県下に188館

日本における映画館が最多を記録したのは映画年鑑によると昭和35年のことで、全国に7457館が営業していた。県史によると昭和33年には福島県内では172館が存在した。昭和31年の民友の記事によると仮設まで含めると188館を数える。映画黄金時代のピークだった。それら大衆に愛された映画館の名前を追ってゆくだけでも、歴史そのものを実感させるだけの厚みがある。本稿では市町村史や、当時の新聞でそれらの名を発掘してみた。

終戦時の県都の映画館

昭和17年の福島市誌によると、戦争中の福島市内には新開座、福島松竹映画劇場、福島座、福島劇場、大福座、福島東宝劇場など6館があった。昭和18年以降の新聞上の記録を拾ってゆくと、大福座が18年9月に映写機を入れ替え。昭和19年に大映館と東宝館が封切り館に、松竹劇場と大福座が自由館になる。昭和20年に県下の映画館7館が整理。終戦の前後の期間に大福座は閉鎖の憂き目をみたが、戦後になって映画常設館として復興したのである。
昭和21年11月民友〔元大都映画館大福座は今般場内改装全く成り福島唯一の洋画封切専門館としてその名も「国際映画劇場」と改め廿九日より新発足する。〕
昭和21年の新聞には、県都福島市の不二デパートにいちはやく来春からプレイガイドが設置される、と報じている。このほか紙面から映画関係の記事を拾ってみる。
昭和22年11月30日民友〔巨人ゴーレム福島松竹〕
昭和23年3月21日民友〔福島東宝ソヴィエト総天然色映画 石の花 23日より上映〕
昭和23年5月28日民報〔福島国際劇場では日本に三台しかないというセントラル新映写機をすえつけた〕
昭和23年3月16日民友〔福島東宝お産の映画独逸医学陣に鋭いメスを加えた女性神秘を解剖した正常分娩〕。これに抗議した福島の母親たちが反対運動に立ち上がる。
昭和23年6月1日民報〔お産映画の絶対反対の為気勢をあげた福島市の婦人団体は、八日福島松竹で映写された「肉体と悪魔」を椎薦。性痛の症状と治寮法を専門的に解説したもの〕特殊な医学研究フィルムを流通させてしまう風俗紊乱映画が跋こした時代である。
昭和23年8月8日民報〔日本敗れたれどZMプロ〕記事。
昭和23年12月24日民報〔映画懇談会〕
昭和25年9月30日民友に「国際第二劇場生まれる」の記事。
国際第二では昭和27年7月3日から邦画専門館となり東映の系統館拡充に対応して封切館となり全プロ契約が成立。国際第二はのちに国際パールと改名。

昭和27年8月26日「新装なってお目見え福島大映」の広害。昭和27年12月の福島市内有名商社案内図によると、福島大映、福島日活、福島東宝、福島松竹、国際第一第二の6館が紹介されている。昭和28年当時の福島市内の映画館を映画館年鑑から紹介すると、次のとおり。
館名 席数 映写機 音響 種別   住所 オーナー 支配人
福島日活 533 ローヤルE 日月式 洋画・混  万世町1 日活 額賀正義
福島大映 450 スーパーL7 小野研 大    置賜町58 六箪修 田中信隆
福島東宝 492 ローラー ビクター 宝・新  栄町14 東和興行 斎藤貫一
福島松竹 372 フジセントラル ビクター 松 仲間町1-3 松竹 斎藤久親
福島国際 950 ニッセイ ニッセイ 洋・混  早稲町1 千葉幸男 千葉キヨ
国際第二 1000セントラル セントラル 映   早稲町1 千葉幸男 千葉キヨ

ふくしまの戦後映画史

昭和22年。いわきで画期的な映画新聞が創刊された。5月11日民友〔磐城映画芸術新聞五日から発刊。内郷町伊作牧二(浜崎広太郎)〕
昭和22年12月3日民友〔若松 長谷川興行で自家発電東北で初〕
昭和23年10月27日民報〔映写技師を分駐 GHQから貸与の映写機と 会津若松と郡山喜多方の図書館と中村平白河の公民館に〕
昭和24年1月7日。〔二本松会館オーブン〕
●ガンス監督の「ナポレオン」福島で
老舗の劇場新開座では、昭和25年4月27日の広告にガンス監督の「ナポレオン」の広告が載っている。これはトリプテイクという画面三つからなるマルチ・スクリーン方式で、全アフレコによる解説付きという映画史上にユニークな壮大な仕掛けで上映される作品。5月3目に三回公開された。「映画史上の原爆!」という物騒なコピーの広告だ。日本最初の一般公開、という触れ込みである。「ナポレオン」は、大作で長時間の上映時間であるうえ、あえてサイレントで作ってある。気軽に上映できないこの作品を、のちにプレミアムをつけて、フランシス・コッポラ監督の父親が指揮をとってオーケストラで音楽をつけるという壮大な上映会が行われたことがある。この年、昭和25年の1月16日の民報に福島日活で17日より「汚名」が上映とある。また3月13日の民報には福島日活で14日から「ニノチカ」上映との予告がある。
福島市の映画館フォーラム4で、映画百年を記念して百本のクラッシック作品を上映。その第一弾グループの作品として1995年(平成7年)「汚名」と「ニノチカ」も上映された。百本のうちのかなりの作品をすでに見てはいたが、あらためて見直すことと、見ていない作品を極力消化しようということを自分に課して、私もいそいそと見にいった。昭和25年の福島人たちは、こんな映画を見ていたのか、と感慨深かった。ただし、いつもは若いカップルばかりのフォーラムに集まったのは、かなり年季の入った映画ファンばかりであったが。
●「どっこい生きている」
昭和26年7月14日小名浜金星座で、15日には綴映劇で「どっこい生きている」が県下五市に先立ち東京同時のロードショー公開となった。両日は今井正監督が挨拶のため来館。ファンと懇談した。この作品は、同年度日本映画のベストワンとして「日本映画の自転車泥棒」と喧伝され、中村の中村座でも8月7日に上映された。中村座は明治の芝居小屋である。どっこい生きていたのは中村座かも知れない。8月21日、悪化の一途をたどっていた東北電力の電カ事情が最悪の状態となり、ついに抜き打ち的な停電となった。福島は午後2時15分、平、原町方面は午後1時に、郡山、白河は正午、若松も同時刻に一斉に緊急停電となり、午後5時まで続いたため、映画館は大混乱となり郡山市内の映画館では、平日どおり12時半開場したが、停電のため客にお帰りを願い、午後6時から再び開場。しかしわずか30分でまた停電。7時頃までに3回も客を出し入れしたため、ついに怒った客が昂奮して暴動を起こし、ガラス5枚を破るなどの騒ぎとなった。この頃は、電力事情が悪くて、よく停電があった。この年の9月、大映の主催で「ミス福島・ミスター福島」の人気投票が行われた。県北は福島大映・県南は郡山みどり座・会津若松大映・浜通り平世界館および民報本社が窓口になって投票を受け付けた。24日には平世界館で審査発表があった。浜通り相双地方からは小高町の映画技師石川秀祐(24)君と、太田村の吏員大竹豊彦君(18)の名があがった。最終的には福島県からは郡山から佐々木麗子さん(19)がミス福島に選ばれ、早川雪洲の推薦などもあって大映に入社した。ついでながら、この年の秋10月10日の紙面に、須賀川の中央劇場と須賀川座のほかに、ピオニ劇場という館名が登場する。福島の国際第二という館が、洋画專門館として頻繋に紙面に登場。11月3日には第2回田村地方振興共振会(小野町)で、「カルメン故郷に帰る」が、新町会館で上映、とある。サーカスは寺の庭で行われた。11月10日には若松の七日町常光寺でサーカスが行われる、との予告がある。

シネマスコープ
昭和29年7月1日民報タ刊に「東北にシネスコープ劇場 仙台文化」とある。東北で初めてのシネスコが登場したのだ。追って8月28日民報に「郡映にワイドスクリーン」の報道あり。アメリカで、テレビに対抗して大画面した映写システムが日本にも上陸。シネマスコープは前年の昭和28年12月に、東京有楽座で75日のロングランを記録した。

シネラマ
さらに3台の映写機で超ワイドな画面のシネラマも登場。東京大空襲で焼け出されて双葉郡広野町に疎開移住した芥川賞作家冨沢有為男は、代表的長編「白い壁画」の中で、シネラマを見た印象を記している。〔舞台には、とんでもない前世紀の珍映画が、映し出された。もっとも、これは、シネラマの驚異を引き立たせるために、わざわざ映画の発達史を、繰返して見せる様なものだが、それがいよいよ、現代風な、原色映画になると、とたんに、場内に割れるような大音響が捲き起り、みるみるその画面は舞台一杯に引きのばされるのであった。なるほど此の瞬間だけは、アッと人々を魂消させるものがある。今迄の映画では絶対に見られなかった量感と実感が、忽ち見物人の周囲に、渦巻き始め、誰も彼もみんな画面の中へとびこんでしまった形である。別に劇的な構成がしてあるわけではないが、その効果は素暗らしい。〕と。

祭と映画と夜通し興行
30年の1月22日民報記事に「須賀川恒例の毘沙門天大祭が28日~29日行われ、映画館は夜通し興行、須賀川座が徹夜興行」とある。当時、オールナイトという言葉はまだない。同年、福島市の信夫三山暁詣り映画番組という広告でも「夜通し興行」とある。新開座ではストリップを実演。料金も低廉で、絶大なる人気だった。

太陽族映画と県映倫
30年2月、郡山で上映中の「青い麦」が観覧禁止になるという「事件」が勃発。県下で大騒ぎになった。福島では「全世界で初めて郡山高校生に鑑賞禁止した問題作!」という逆手をとったコピーで宣伝した館もあったほど。「健全娯楽映画をめぐって」討論会が行われたりもした。世に俗悪映画と呼ばれたものの若者風俗を描いて反響が大きく、つまり興行的に成功したものにいわゆる性典映画や「暴カ教室」、新生日活の「狂った果実」や昭和31年「太陽の季節」など一連の太陽族映画がある。いわきの高校や桜の聖母高校など県内の高校では鑑賞禁止を決定するところも出た。県教委では「禁止はやりすぎ」とコメントした。
〔石城高校生徒校外生活補導連盟(理事長橋本憲司氏)では二十四日から平市を中心に開かれる第九回県体に参加の高校生に対する校外補導間題について十四日磐高で関係者が集まり協議したが、席上「太陽の季節」の悪影響が平市内でもかなり強くなっているところから今後平市で上映される「狂った果実」「逆光線」の高校生の観覧禁止を申合せるとともに「慎太郎刈り」も自粛するよう生徒に強く要請〕した。民友タ刊(31.8.16)
同じ紙面には「ガンつけたから相農生殺し原高生を竪急逮捕」との記事がある。原町市内で発生した高校生による高狡生殺しの犯人が逮捕。これを発火点に原町市では「太陽の季節は見せぬ」(8.18民友)と市教委が決定し、「映画館に監視員配置」と報じている。〔原町市の高校生殺害事件は各方面に異常なショックを与え、県下にはいわゆる’太陽族映画’への批判が高まっているが、原町市教育委員会では十六日午後一時から原一小で市内小中学校長、PTA・社会教育委員・婦人・青年会ほか関係者の出席を求め十九日から市内某映画館で上映される「太陽の季節」をめぐる対策を協議した繕果、業者側の協力を求め、上映期間中十八才未満の観覧を厳禁し、各校から一名の補導監視員を出し監督するほか各区長を通じ一般家庭にも徹底をはかることになった。/また指導委員により青少年防犯映画研究会を再結成し、こんご風俗映画を検討したうえ各校生徒会と協力、観覧を選択することに決めた。//相馬でも厳禁 一方相馬市でも同映画の少年の観覧を厳禁し、高校では上映期間中監視員を配置、生徒の監督を強化する〕「処刑の部屋」「暴カ教室」など過激な題名をつけた作品が流行し31年は、県版の映愉の設置が議論された一年だった。県青少年映画委員会という名で発足したものの、強制力はなく、映画館業界に不良映画を措定して上映自粛を申し入れるというだけ。実際にはまったく効果がなかった。その経緯を当時の新聞の見出しで追ってみても、尻つぼみの感がぬぐえない。
31.8.24 民友〔県に「映倫」を設置太陽族映画を締出す〕
31.9.15.民報夕刊〔練り直しか「県映倫」財政当局、予算をバッサリ〕
31.9.18.民報夕刊〔県映倫県青沙年映画委会と改称〕
32.2.1.民友夕刊〔開店休業の県映倫〕
32.5.16.民報〔予算難と抜打興行で名ばかりの県青少年映画委〕
32.7.17.民友夕刊〔映倫名ばかりでサッパリ採算の方が大事〕
娯楽の少ない時代の映画館はほとんど唯一の庶艮の娯楽の場。立ち見もあたりまえ。あまりの混みぐあいに子供が具合を悪くして帰ってきた、衛生状態が悪い、改菩して欲しいという市民の要望を受ける格好で保健所が映画館業界に申し入れるが、全く効目がなかった。じっさい衛生状態は良好とは言えなかったし、戦前からの古い館や粗製濫造のバラック作りの燃えやすい木造が多くて火事に弱かった。
31.11.25。民友夕刊〔映画館に注意を勧告無制限入場は厳禁する 見当違いの注文県興行組合長福島国際映画館主の話〕
戦後の映画館事件簿

大正時代に匹敵する映画館周辺の悪のにおいは戦後の混乱期にもある。
敗戦の荒廃と、数少ない庶民の娯楽の場所であった映画館の暗がりとが織りなしたのは、人間のネガテイヴな面の情欲であった。
昭和22年4月「川部で殴り込み 劇場のなわ張争いが原因」
同年4月「白河劇場内の殺人未遂事件」
同年6月「白河劇場でフィルム盗まる」
28年7月「安積永盛町永森映画劇場」無許可営業。
29年11月「都路の劇場で 梁が折れて26名重軽傷」
32年3月「映画館(福島東宝)の便所から赤ん坊」が発見。
同3月「こんどは映画館(福島日活)に捨て子」
同年10月「映画館で少女おそう」
33年3月「映画みたくて恐喝」福島での事件。
同年4月「エロ映画 米兵から買って複製」福島。
同年8月「映画帰り暴行未遂 中島ちんぴら七人調べ」中嶋村。
同年8月「女子工員に暴行 映画帰りに」塩川村。
同年10月「常磐市 娘さん映画帰りに暴行され殺される」
34年3月「映画帰りの少女おそう」梁川。
同年8月「映画帰りの少女おそう」白河で少年二人捕はる。
35年3月「都路古道会館裏で少女暴行」
36年1月「映画館に強盗」
38年3月「映画館で少年を刺す」鹿島町の鹿島劇場。
こんなふうに、ざっと見渡しただけでも、映画帰りの少女を襲う、という事件が相次いだ。映画館は町の繁華街(盛り場)にあり、不良少年たちの屯する悪の巣窟の代名詞であった。
のみならず、すべての男女が集まる場所である、ほとんど唯一の娯楽の殿堂であったのだから、30年代は、映画館は強力な電磁石となって、若者の心をひきつけた。町の若者も村の者も、鉄片を引き寄せるが如き強力な磁場として、映画館はあらゆるゴシップの発生装置であったのだ。
善悪を越えた次元で、映画館は人間の感性と情動を激しく刺激した。人間の魂の奥底から、意識せざる欲望を「映像」のメディアはもたらした。

戦後のキネ旬ベストテン

昭和21年(1946)
キネ旬ベストテン①大曽根家の朝②わが青春に悔なし③或る夜の殿様④待ちぼうけの女⑤わが恋せし乙女⑥民衆の敵⑦歌麻呂をめぐる五人の女⑧命ある限り
外国映画①我が道を往く②運命の饗宴③疑惑の影④エイブ・リンカーン⑤南部の人⑥キュリー夫人⑦王国の鍵⑧カサブランカ⑨肉体と幻想⑩幽霊紐育を歩く⑩悪魔の金
昭和22年(1947)
キネ旬ベストテン①安城家の舞踏会②戦争と平和③今ひとたびの④長屋紳士録⑤女⑥素晴らしき日曜日⑦銀嶺の果て⑧四つの恋の物語⑨花咲く家族⑩幸福への招待
外国映画①断崖②荒野の決闘③心の旅路④町の人気者⑤百万人の音楽⑥第七のヴェール⑦影なき殺人⑧石の花⑨ガス灯⑩永遠の処女
昭和23年(1948)
キネ旬ベストテン①酔いどれ天使②手をつなぐ子等③夜の女たち④蜂の巣の子供達⑤わが生涯のかがやける日⑥破戒⑦嵐の中の牝鶏⑧王将⑨生きている⑩第二の人生
外国映画①ヘンリー五世②我等の生涯の最良の年③逢いびき④海の牙⑤旅路の果て⑥美女と野獣⑦悪魔が来る⑧失われた週末⑨オヴァランダーズ⑩悲恋
昭和24年(1949)
キネ旬ベストテン①晩春②青い山脈③野良犬④破れ太鼓⑤忘れられた子等⑥お嬢さん乾杯⑦女の一生⑧静かなる決闘⑨森の石松⑩小原庄助さん
外国映画①戦火のかなた②大いなる幻影③ママの想い出④ハムレット⑤裸の町⑥平和に生きる⑦恐るべき親達⑧黄金⑨子鹿物語⑩犯罪河岸
昭和25年(1950)
キネ旬ベストテン①また逢う日まで②帰郷③暁の脱走④執行猶予⑤羅生門⑥醜聞⑦宗方姉妹⑧暴力の街⑨細雪⑩七色の花
外国映画①自転車泥棒②情夫マノン③三人の妻への手紙④無防備都市⑤赤い靴⑥天国への階段⑦靴みがき⑧虹を掴む男⑨密告⑩女相続人
昭和26年(1951)
キネ旬ベストテン①麦秋②めし③偽れる盛装④カルメン故郷へ帰る⑤どっこい生きている⑥風雪二十年⑦源氏物語⑧ああ青春⑨命美わし⑩愛妻物語
外国映画①イヴの総て②サンセット大通り③わが谷は緑なりき④オルフェ⑤邪魔者は殺せ⑥悪魔の美しさ⑦バンビ⑧雲の中の散歩⑨チャンピオン⑩黒水仙
昭和27年(1952)
キネ旬ベストテン①生きる②稲妻③本日休診④現代人⑤カルメン純情す⑥真空地帯⑦おかあさん⑧山びこ学校⑨西鶴一代女⑩慟哭
外国映画①チャップリンの殺人狂時代②第三の男③天井桟敷の人々④河⑤ミラノの奇蹟⑥令嬢ジュリー⑦セールスマンの死⑧肉体の悪魔⑨巴里の下セーヌは流れる⑩陽のあたる場所
このほかヨーロッパの何処かで、苦い米、欲望という名の電車、真昼の決闘、風と共に去りぬ
邦画では、三等重役、お茶漬けの味、また独立プロの箱根風雲録、、原爆の子、など。
昭和28年(1953)
キネ旬ベストテン①にごりえ②東京物語③雨月物語④煙突の見える場所⑤あにいもうと⑥日本の悲劇⑦ひめゆりの塔⑧雁⑨祇園囃子⑩縮図
外国映画①禁じられた遊び②ライムライト③探偵物語④落ちた偶像⑤終着駅⑥静かなる男⑦シェーン⑧文化果つるところ⑨忘れられた人々⑩超音ジェット機
このほかナイアガラ、邦画では地獄門、赤線地帯など。
テレビに対抗して12月26日、アメリカで「聖衣」が大画面のシネマスコープ登場。1:2.55というワイド・スクリーン。日本でも32年製作「鳳城の花嫁」を皮切りにシネマスコープを劇場用映画に用いるようになる。
昭和29年(1954)
キネ旬ベストテン①二十四の瞳②女の園③七人の侍④黒い潮⑤近松物語⑥山の音⑦晩菊⑧勲章⑨山椒太夫⑩大阪の宿
外国映画①嘆きのテレーズ②恐怖の報酬③ロミオとジュリエット④波止場⑤エヴェレスト征服⑥ローマの休日⑦裁きは終わりぬ⑧陽気なドン・カミロ⑨しのび逢い⑩偽りの花園
このほかダンボ、麗しのサブリナ、邦画では真田十勇士、雪の丞変化、笛吹童子、里見八犬伝、ゴジラなどがヒット。東映は専門館の二本立て興行に踏み切る。
NHK子供の時間に放送され評判となった「笛吹童子」は中村(萬屋)錦之助・東千代介のアイドルを産む。
昭和30年(1955)
キネ旬ベストテン①浮雲②夫婦善哉③野菊の如き君なりき④生きものの記録⑤ここに泉あり⑥警察日記⑦女中っ子⑧血槍富士⑨浮草日記⑩美女と怪竜
外国映画①エデンの東②洪水の前③スタア誕生④埋もれた青春⑤旅情⑥やぶにらみの暴君⑦フレンチ・カンカン⑧マーテイ⑨文なし横丁の人々⑩鉄路の闘い
このほか暴力教室、中共映画「白毛女」、ポーランド映画「アウシュビッツの女囚」砂漠は生きている、青い大陸、緑の魔境などの長編記録映画が公開。
昭和31年(1956)
キネ旬ベストテン①真昼の暗黒②夜の河③カラコルム④猫と庄造と二人のをんな⑤ビルマの竪琴⑥早春⑦台風騒動記⑧流れる⑨太陽とバラ⑩あなた買います
外国映画①居酒屋②必死の逃亡者③ピクニック④リチャード三世⑤最後の橋⑥赤い風船⑦空と海の間に⑧ヘッドライト⑨沈黙の世界⑩バラの刺青
昭和32年(1957)
キネマ旬報ベストテン①米②純愛物語③喜びも哀しみも幾年月④幕末太陽伝⑤蜘蛛の巣城⑥気違い部落⑦どたんば⑧爆音と大地⑨異母兄弟⑩どん底
外国映画①居酒屋②必死の逃亡者③ピクニック④リチャード三世⑤最後の橋⑥リラの門⑦カリビアの夜⑧汚れなき悪戯⑨友情ある説得⑩屋根
昭和33年(1958)
キネ旬ベストテン①楢山節考②隠し砦の三悪人③彼岸花④炎上⑤裸の大将(家城巳代治)⑥夜の鼓⑦無法松の一生⑧張り込み⑨裸の大将(堀川弘通)⑩巨人と玩具
外国映画①大いなる西部②ぼくの伯父さん③老人と海④眼には眼を⑤鉄道員⑥死刑台のエレベーター⑦嵐⑧鍵⑨サレムの魔女⑩女優志願
昭和34年(1959)
キネ旬ベストテン①キクとイサム②野火③にあんちゃん④荷車の歌⑤人間の条件一・二部⑥人間の壁⑦浪花の恋の物語⑧第五福竜丸⑨鍵⑩人間の条件三・四部
外国映画①十二人の怒れる男たち②灰とダイヤモンド③さすらい④いとこ同志⑤恋人たち⑥影⑦二十四時間の情事⑧わらの犬⑨年上の女⑩悪魔の発明
昭和35年(1960)
キネ旬ベストテン①おとうと②黒い画集③悪い奴ほどよく眠る④笛吹川⑤秋日和⑥裸の島⑦豚と軍隊⑧武器なき闘い⑨秘境とヒマラヤ⑩日本の夜と霧
外国映画①チャップリンの独裁者②甘い生活③太陽がいっぱい④ロベレ将軍⑤大人は判ってくれない⑥黒いオルフェ⑦人間の運命⑧勝手にしやがれ⑨スリ⑩誓いの休暇
昭和36年(1961)
キネ旬ベストテン①不良少年②用心棒③永遠の人④人間の条件完結編⑤名もなく貧しく美しく⑥反逆児⑦あれが港の灯だ⑧はだかっ子⑨飼育⑩黒い十人の女
外国映画①処女の泉②素晴らしい風船旅行③土曜の夜と日曜の朝④ウエスト・サイド物語⑤ラインの仮橋⑥ふたりの女⑦地下鉄のザジ⑧ローマで夜だった⑨草原の輝き⑩雨のしのび逢い
昭和37年(1962)
キネ旬ベストテン①私は二歳②キューポラのある町③切腹④破戒⑤椿三十郎⑥人情⑦落とし穴⑧秋刀魚の味⑨日本の婆ぁちゃん⑩秋津温泉
外国映画①野いちご②ニュールンベルグ裁判③怒りの葡萄④情事⑤太陽はひとりぼっち⑥尼僧ヨアンナ⑦ウンベルト・D⑧夜⑨噂の二人⑩ハスラー
昭和38年(1963)
キネ旬ベストテン①にっぽん昆虫記②天国と地獄③五番街夕霧楼④太平洋ひとりぼっち⑤武士道残酷物語⑥しとやかな獣⑦彼女と彼⑧母⑨白と黒⑩非行少女
外国映画①アラビアのロレンス②奇跡の人③シベールの日曜日④鳥⑤女と男のいる舗道⑥第七の封印⑦イタリア式離婚協奏曲⑧密の味⑨ピアニストを撃て⑩祖国は誰のものぞ

福島県下の映画館

昭和35年頃の新聞は、映画の全面広告の連続であり、一般記事がかすんでしまうほどだ。しかしテレビの登場で、巨大恐竜が滅亡したように、映画劇場も消滅の道をたどる。
テレビの出現は日本では昭和28年のことだが、福島県にテレビ局が出来て電波を発射したのは35年のこと。この頃が映画館ブームのピーク。
福島は新開座が昭和32年に閉鎖され、松川の松楽座が37年になくなったのを最後に、演劇専用の劇場は全く存在しなくなる。県文化センターが昭和45年に建設されたが、県都福島における「舞台」は飯坂温泉のストリップ劇場ぐらいのものという凋落ぶりだった。
絶滅した恐竜の名前を数えるような気分で、古き良き時代の映画館の名前を記憶にとどめておきたい。新聞広告やさまざまな市町村史から抜き出してみた。
今から五十年前、終戦直後まで生き残っていた古い芝居小屋に加えて雨後のタケノコみたいに、新興のバラック映画館がバタバタ建った。
土、日だけ映写する仮設館まで含めると福島県内には最盛期の昭和31年に188館(県史では33年に172館)が稼働していた。その名前を拾ってゆくだけでも懐かしく楽しいが、町によっては、お世話になった館の名前すら全く忘却している所もある。
映画館は文化の殿堂ではなくあやしげな見せ物小屋でしかなかったのだ。現在日本が国家として所有する映像ライブラリーもわずかに国立美術館のフィルムセンター(火事で名作を焼失して有名)くらい。川喜多記念映画財団のような民間機関は珍しい。東北では現在仙台市に映像ライブラリーが計画されているが、福島県では県立図書館の電算化で手がいっぱいで、映像データベースの構築どころではない。
「いつまでも、あると思うな映画館」という皮肉な警句を建築学者藤森氏は発している。明治大正の建築がようやく文化財としての視野に入ってきた今日、しかしバラック作りの映画館は銀幕の中の幻と同様にはかない二十世紀の夢として消え去ることであろう。福島市の民家園に梁川町の広瀬座が移築されたのは稀なるケースといえる。しかし、それも古い芝居小屋の姿への復元移転であって、映画館としての広瀬座ではなかった。どこまでも映画館というのは、あの扇情的にごてごてとハデな書き割りのような奥行きのない、平べったくてはかない存在なのである。
せめてはその名前だけでも県内の映画館を総覧してみる。

●福島
新開座(戦後に福島中央劇場・駅前東映)福島セントラル、福島文映、ニュース劇場、福島座、福島劇場、福島日劇、福島大映、福島東映、駅前東映、名画座、大正舘、松竹栄舘、福島松竹、第一映画劇場、福島テアトル(福島日活劇場)大福座(オデオン座・戦後に国際劇場)第二国際、駅前国際(国際パール)、東宝劇場東宝プラザ、東宝スカラ、東映館。これらは全滅し、現在はフォーラム12、34、56が稼働。平成10年4月、曽根田の新デパートのテナントとしてシネマコンプレックス方式のマイカル7館が開館した。

最盛期の福島

福島市の映画館はにぎわってはいたが、つねに飽和状態で、館数が増えると観客総動員数が増えても一館当たりの収益が下がるという現象がつきまとった。全盛期には13館がひしめいた。
松竹、日活、東宝、大映、国際、文映、名画座(昭和30)などと、旧来の古い館との合計である。
さらにテアトル、福島中央、福島第一、福島ニュース映画館(昭和31)、駅前国際(昭和32)、などと新設や改築が相次いで、数の上だけなら県都は15館を数えた。

●福島文映
昭和30年2月3日、福島文映が開館(福島文化映画劇場)。1月11日民報の記事によると、隣接するキリスト教会との間でトラブルが起きた。神聖なる信仰の場の隣に、世俗的娯楽の殿堂が出来るのは好ましくない、という理由であった。が、教会側が折れた。
この年のはじめ、文映、名画座、国際、松竹、日活、東宝、大映の7館名が並んでいる。
●福島中央劇場
昭和30年9月1日民友には「福島にまた映画館」と題する記事があり、福島中央劇場の建設を報じている。同館は「三階建、11月には完成」とあり記事は次のとおり。
〔県都福島市内にまた映画館が建てられる。建設者は東京都銀座にある観光芸能社で現場支配人には福島大映映画館支配人田中信隆氏が当る。新映画館は市内置賜町大映映画館の南側に面する。”栄亭”寿司屋あとに工費二千五百万円、建坪四五〇坪、三階建総鉄筋コンクリートの福島一を誇る近代的映画館を建設しようというもの。(中略)すでに、「栄亭」の解体工事に取りかかっており、県に建築許可を串講しているが、館名は’福島中央劇場’として上映系統は洋画か邦画か未定だが、この新映画館がお目見得すると市内の映画館は七舘となるわけで、映画ファンから完成が待たれている。〕
●福島松竹と福島東映
つづいて昭和30年11月25日民報タ刊は「映画館の戦国時代」と題して、福島松竹映画劇場の建設を報じている。「田子倉成金が出資」「最大の収容人員」「県都にまたも建設計画」の見出しが踊る。文中「来月中旬にコケラ落としをやる置賜町の中央劇場とともにいよいよ戦国時代に突入しそう」とある。「福島松竹は仲間町に三百五十坪の三階建で旧正月開館めざし着工ヘ」という内容。これらに対抗するように12月14日には「堂々本日開館!!福島東映劇場」の大きな広告が掲載されている。
●福島ニュース映画館
明けて昭和31年2月25日民報「きょう開館福島ニュース映画館」の記事によると、〔県下でただ一つのニュース専門の映画館〕で鉄筋モルタル塗り一階建で七十六坪。定員は二百名で上映映画はニュース、マンガ、理研記録映画、時間は一時間半という。福島駅前に「ニユース劇場」が誕生(民友31.2.25)。
同じ2月25日民報タ刊に「また福島に東北一の映画館」と報ずる記事が載った。セントラル・シアターの館名を掲げた完成予想図がある。「将来はシネラマ上演館」とある。これは郡山の映画館チェーンを持つ佐藤勝治が県都福島に進出する館。まさに県都は映画の都で映画館の新設ラッシュが続いた。
●福島第一映画館
福島松竹は昭和31年5月18日に「東北一を誇る!娯楽の殿堂堂々完成!!」の宣伝文句で開館した。続く5月20日には「待望久し…県都にセカンド館出現」という広告がある。新築された福島松竹の蔭で、旧福島松竹はセカンド館へと変身し、福島第一映画館と改名して再スタートする。
●テアトル福島
7月2日民報には「シネラマ劇場テアトル福島13日にこけら落し」という記事がある。場所は福島市仲間町。7月14日民友「福島名物また一つテアトル福島きょう開館」の記事は13日午前10時から700名の招待客を招いて盛大な開館式をおこない、14日から開館「理由なき反抗」公開、と報じている。県都11番目の映画館として。総工費4000万円。鉄筋コンクリート建。観客席519。福島松竹の520に次ぐ大映画館。階下一般席が357席で、階上はクッションのよい138席。県下では初めてという指定席24席。階上ホールには17インチのテレビを備えつけた。横46尺、縦18尺の大スクリーン。シネスコサイズで上映可能。映写機はセントラルF6C。発声機はビクターPG202UMという最新式。洋画専門上映館で東京と同時封切を予定。長谷川興行社。長谷川公庸取締役社長。
●福島セントラル
8月14日「福島セントラル劇場」がオープン。大映、東映、東宝を目の前にしての開館だ。郡山の興行師佐藤勝治が代表。支配人は民井一弥。総坪数400坪。スクリーンは横70尺、縦25尺。東北一のシネスコ専門館。658定員。ワンスロープ25度の傾斜。36個のスピーカー。常時2本建で料金100円均一。
そして8月29日、福島中央劇場が開館する。戦前からの劇場新開座が名を改め映画専用館としての再オープンだった。8月30日の民報タ刊には「映画館食いつ食われつ」と題して、県都の映画館ラッシュについて報道し「入場者一館当り二割減る」「福島値下げでサービス合戦」「ナイトショーは大当り」などという見出しがある。8月31目には春日八郎ショーでこけら落としをした。同日民友広告「新開座改めロードショー劇場 福島中央劇場31日開館」。9月1日民友タ刊「13番目の洋画館 本格的なシネスコ・スクリーン堂々たる福島中央劇場」。リード文には〔「映画戦国時代」の福島市内十三の映画館の実態〕とある。
●駅前国際劇場と大映福島新装
10月23日、「福島にまた映画館」という記事があり、駅前国際劇場が11月22日に着工。年末開館を目標に建設されたが、完成は1月末になった。場所は東北電力福島支店前。同年12月28日、福島大映新装開館。〔場所福島東映隣〕と民報広告。同日民友タ刊に福島大映(六車昭代表取締役・支配人村田振作)の写真が掲載。
32年1月31目には「福島駅前国際」が開館している。県都には実に14館が犇めいた。
昭和32年1月10日民友「映画館売ります」の記事は、この時点での福島映画館戦国時代の実状を概観している。〔県都福島の映画館ブームは昨年十三館の乱立をみ、さらに今年末開館をめざして十四番目の福島国際第一劇場が工事を急いでいるが、心配されていた共倒れは早くも現実の問題として表面化し、福島セントラル劇場(経営者佐藤勝治氏)は開館五ケ月にして早くも身売りに出ている。冷、暖房完備、シネスコなどの近代設備をうたい文句にしながらも正月すら客足を集めるのは容易でない現状で、興行界の生存競争の激しさを物語るものとして市民の話題となり、一方残された各館は、こんごの経営方針に深刻な検討を加えている〕と映画館の過密状態が完全な飽和点に達したことを示している。セントラルは前年800万円で新築。新式スクリーンを備えて、目の前の東映、大映の二館と張り合ったが、当初からの資金難で11月上旬に二週つづけて休館。1ケ月120万円の予算で1本につき20万から30万円のプリントを上映してきたが、駅まで到着しているプリント代金が出来ず、引き取れず休館に追い込まれた。再開したものの、この業界二週間休館すると観客が全く離れてしまうという。12月の第3週から再び休館となり、2500万円で売りに出たものだ。
32年2月25日タ刊には「理想的な中間劇場70円劇場の出現「福島中央劇場(新開座改メ)の新機軸」とある。学生55円、小人40円。「マリリン・モンロウ」の「バス停留所」「ナイアガラ」の上映広告がある。32年9月4日タ刊「大当りお盆興行昨年より五割増す昨年11館が今年13館」
●福島日活劇場
32年10月26日「テアトル福島改称福島日活劇場30日新装開場」とある。12月9日民報「不況にあえぐ映画館 福島に12館一館二万観客人口のところ旧市内6万人で」「テアトル福島は日活館に看板をぬりかえ」うんぬん。
12月14日「福島で中劇と文劇が洋画と新東宝の封切館に」33年5月10日夕刊「もうかった黄金週間入場者六万二千新記録咋年の二割増」、「昨年13館だった市内の映画館今年12館に」と報じている。
●駅前東映
昭和35年民報3月3日夕刊「福島中劇九日から第二東映に」「東映再映館だった文映は新東宝に切り替え」さらに民報6月28日夕刊「福島中央劇場は直営の福島駅前東映劇場と改称し29日開館」。
昭和36年1月のキネ旬には〔日活「福島日活」を買収〕の記事。〔福島日活劇場(福島市宮町八)所育者堀川興業株式会社(堀川三之助)を日活が買収した。福島興業株式会社(日活の子会社)が貸惜し、太陽企業株式会社(日活の子会社)に転貸していたが、9月いっぱいで契約が満了。〕福島市の二館の東映館も飽和状態から、一館を閉鎖してポウリング場に転身。突然の閉鎖解雇に従業員との間でトラブルとなった。昭和41年1月には第一 新国際 国際パール 駅前東映 東映 大映 日劇 松竹 名画座 日活といった館名が広告に並んでいる。

●福島日本劇場 東宝東部興行㈱ 荒井良司 栄町12の14

●梅沢富美夫と福島の映画館
福島市生まれの下町の玉三郎、梅沢富美男は、自伝「夢芝居」の中で少年時代をふりかえって〔映画館もおやじのファンがやっていたからばくたちが行くとフリーパスだった。福島に行ってからは修兄貴と毎週映画館に通った。東映時代劇の全盛期で中村錦之介や大川橋蔵や市川右太衛門の時代劇三本立てを見て、ぽくは喜んでいのだ。〕と記す。
梅沢は昭和25年11月9日、福島市舟場町の生まれ。母方の祖母が住んでいた福島で生まれ、両親の巡業に連れられた後、祖母のもとで預かるため昭和31年に再び福島に転住。小学校は福島第二小学校に入り小学五年の一学期まで過ごした。福島東映で、たっぷりと時代劇の雰囲気に浸った。

●飯坂 のちに福島市に合併する飯坂町では、昭和11年1月21日民報「映画館建設目論む」(飯坂老朽劇場旭座(座主本田直利氏)を買収して公会堂兼映画常設館予定〕との記事がある。飯坂旭座は明治26年に建設された古い芝居小屋。合併前には湯野村に湯野劇場という館があったが合併後は飯坂温泉劇場となる。同劇場は31年に新築された。「近代化した飯坂劇場」〔飯坂町飯坂温泉劇場(場主庄司国雄氏)の客席はいままで畳が敷かれていたが、二月初めから工事中の一階客席(二百七十四個)改造がこのほど完成、温泉街にふさわしい劇場になった。このほか同劇場ではシネスコの設備も完成したので町民から喜ばれている。営業は九日から開始した。〕(昭和31年3月10日民友)
27年の記録には次のようにある。
温泉劇場 850 ローラー ローラー 混 湯野町 庄司国雄 相田富美男
昭和46年の福島県興行環境衛生同業組合の組合員名簿に「飯坂シネマ」という館が出ている。成人映画専門の小さな映画館だった。若葉町15番地。経営者・支配人高橋荒。

●瀬上 昭和22年11月1日民報タ刊に「瀬上で映画館火事」の記事あり。巡回ニュース映画の上映の会場にもなった戦前からの瀬上劇場の戦後の姿である。

●松川 昭和18年から28年まで戦中戦後の一時期に町内の杉内呉服店が経営する本町劇場が存在した。同町の機操場を改造しただけの小さな館だった。「館内に柱が残っていて、首をよじって画面を見たものだ」と当時を語る人もある。本町劇場と入れ替わりに26年から旧街道沿いに第二松楽座が出来て映画上映を開始。第二松楽座の経営は、福島市天神町の木元光・社。湖南町で廃館した映画館から椅子や設備を転用した。松楽座の興行は、演し物はともかく興行日には花火を上げて住民に知らせた。しかし第二の方は映画施設である。映画の黄金期の30年代には、第二松楽座の方が入気があった。松楽座は昭和37年に閉館した。

●伊達 伊達には、福島市民家園に移転して有名な梁川広瀬座があったが、映画館としての設備は価値なしとされて取り外された。戦後は梁川映画劇場という館もあったが、広瀬座移転保存の話題の陰でその存在すら薄いまま。保原には、古くは明治の新栄座、大正9年開館の保原劇場に引き続き、戦後は保原映画劇場(佐藤巳作)が稼働。保原劇場の44年頃の経営者・支配人は佐藤美喜男。伊達町にも駅前に映画館があった。桑折町には明治20年開館の桑折劇場。国見町には藤田錦座という古い館があり、戦後は藤田演舞場(劇場)あるいは藤田館が稼働。
川俣町には明治21年創立の川又座(大正4年改築し5年頃に常設化)と、大正9年生まれの川俣中央劇場が戦後も活躍。飯野町には共楽座、霊山町には創立者の名を冠した掛田菅仁座があった。(二館とも建物が残存)
映画年鑑の昭和27年版には次の二館が掲載されている。
藤田演劇場 600 アーバン スーパー 松・大 伊達郡藤田町 菅野常助 菅野常助
川俣座 850 新響 山田フォーン 松
伊達郡川俣町字仲町斎藤幸作 斎藤幸作
我が家の近所の加藤理容店の奥さんが出身の月館町には、「定舞台」と呼ぶ館が映画館として戦後も活曜し川俣座からフィルムを融通して「ひばり」映画や「青い山脈」などを上映。お盆などには満員盛況のにぎわいをみせたという。明治に誕生した月館座の戦後の姿であろう。経営者が映画館を整理したあと、さっさと土地を町に寄付したので、跡地には記念石碑が建っている。

川俣の映画館三代

戦後の伊達郡で、映画館経営にあたっていた川俣町の斎藤幸作、その娘の淑子・弘治夫妻は、圏内10館に映画を供給、興行していた。2008年7月14日、斎藤淑子氏より電話で取材。
明治21年に歌舞伎好きの川俣町の機操業者らが出資して川俣座を建設し、斎藤寿太郎が座主となった。息子の幸作がこれを継ぎ、子供のなかったため3歳のとき斎藤淑子を養女にした。キャンデー屋という屋号の菓子店で繁盛する斎藤一族が同族。淑子は、機業家の長沼家から婿養子の弘治を迎えて、ともに映画興行の世界に入った。
父親の幸作は上京して、浅草の国際劇場に勤めた人だという。もともと興行の世界が好きだったのだろう。昭和28年頃の映画年鑑に名前が出てくる。次の代の夫の弘治は、映画のこととなると夢中で、東京の試写会は欠かさず見たし、普段は物静かな性格だったが興行には性が合っているらしく次々に良い企画をヒットさせた。集金は淑子が担当した。毎日、羽織を着て運転手とともに飯野共楽座を振り出しに、川俣座と川俣中央の2館、月舘、掛田、梁川映劇、藤田劇場、桑折劇場、飯坂の旭座、湯野劇場を集金に回った。縦横30センチ×40センチの手金庫に入りきれないほどびっしり百円札が入って面白いように儲かった。バイク便の従業員を手足のように派遣してフィルムを回転させる。時代は映画の黄金期だった。「羅生門」「青い山脈」「愛染かつら」「月よりの使者」など名作が次々に生まれ、国民の娯楽が映画に集中し、庶民の金は実際、興行者の手に環流してきた。一時期、映画館は税務署のお得意であった。飯坂旭座、湯野劇場はオーナーとの交渉も難しかったが、最後まで興行した。湯野劇場は、資金を後援していた関係上、そっくり館を買い取ってくれ、改築しないと譲らない、と言われて200万円かけて大改修した。映画館が斜陽になってからも、次々と閉館してゆくなか、温泉劇場は最後まで経営した。従業員が寿司屋になって福島市内に店を出すまで面倒を見て、館を福島市に売却して、映画興行の商売は幕を降ろした。斎藤は最盛期の映画の商売を「いま思うと夢のようだわ。本当に夢のよう・・・」と振り返る。川俣出身の女優真山くみ子のことも夫妻はよく知っているという。「町の公務員の娘さんで、地元の学校を出てから東京に行った」と語る。

県北を巡回上映した斎藤興行

川俣座を中心に伊達郡と飯坂で映画興行を展開した斎藤興行は、周辺地域まで足を伸ばして巡回上映した。
8月20日、川俣町に斎藤弘治、淑子夫妻を訪問してさらに詳しく話を聞いた。
弘治は小学5年生のときから無声映画のアーバン式映写機を廻していたという。現在は川俣町に含まれる福田村までリヤカーでフィルムを運んだ時の道のりの遠かったこと。松川町までリヤカーで運んだこともあった。自転車に積んで運び、オートバイに乗せて運び、フィルムをやりくりすると夜にかかる。自動車で運ぶようになってから、夜間にライトが切れてしまって、提灯を点して帰ってきたこともあった。真っ暗な中をおそるおそる帰ったことも一再でなかった。
飯舘村の奥の大倉地区や、飯樋地区、比曾地区などへも出向いて映画を上映した。草野では煙草乾燥場や馬セリの市場に板を敷いて会場にした。比曾では、まだ電気の通らなかった時代に、学校の校庭の真ん中に発電機を設えて電気を起こしながら上映した。渓流に発電機を設置して地区に自家発電するようになると、青年団が映画上映を各戸に知らせて歩く時に、定刻になったら電灯を消して映画に来るようにと知らせて回った。そうしないと、必要な電力が得られなかったからだが、時々光がチラチラと瞬いて弱くなる。
「川の堰にゴミがつまったらしい。行って来い」と、村人がダムに出向いて水の取り入れ口から木屑のゴミを掃除すると、また電気の光が元通りになった。開拓農家が多くて普段、娯楽に飢えた地区なので、映画がかかる日には、村人総出で楽しんだ。
浪江の津島地区では、町長の家で上映した。
岩代の小浜、百目木、移まで入って上映したことがある。本宮の坂詰政雄氏の地盤に近い土地でも、興行の権利は地面で買うので巡回できるのだ。青年団や婦人会が映画会を行う時でも、興行の権利金を支払っている者が収入を得るシステムになっている。
「ある婦人会の上映会では、事情を説明して、収益金をそっくり払って貰ったことがあるが、気分のいいものではないですな」と弘治はいう。あくまで自分の才覚の妙で、企画を見守るのが興行である。権利だけで金を取ることには抵抗がある。
庭坂の奥の板坂峠でも映画を上映した。数日前に先発隊が、フィルムも映写機も設置していたが、東京の配給先から明朝までフィルムを汽車の貨物で次の上映地まで送り届けるように指示されたため、板坂峠まで、フィルムを受け取りに出かけたところ、初めての夜道で、なかなかたどり着かない。道案内を頼んだ村人も、この先は道を知らないと言い出して困り果てた。暗闇の山道をどこまでも登ってゆくが、ようやくのことで峻険な谷間の川にさしかかった。しかし大雨で橋が流されて車が先へ通れない。闇の中から光が見えて、先発隊がフィルムを手渡してくれ、いま来た道を福島駅まで戻ったのが、すでに早朝であった。貨物便として送り出すのに、数分間に合わず、今なら追いつけるかも知れないと駅で言われ、そのまま自動車で汽車を追いかけ、郡山駅に滑り込み、時間がないので、駅員にせかされて構内の線路をまたいでフィルムを担いで渡り、ようやく時間に間に合わせた。まるで、ドタバタ喜劇映画の追いかけっこのようなアクションの連続だった。
当時の映画フィルムは、汽車の貨物では最優先の荷物であった。駅員たちはみな顔見知りで、映画館の木戸はみなフリーパス。そうでないと、いざという時の融通がきかない。淑子も、駅にフィルムを届けた時に、汽車の出発を3分遅らせてもらったことがある。
税務署の職員と国鉄の駅員とは、映画家業には切っても切れない縁があったのだ。税務署員とのつきあいで、子供の名前までつけもらった、という。

札束の山と興行者の見栄

先代の父幸作という人は、福島市に2つのキャバレーを持つ精力家で、妻亡きあとは妾宅の中嶋食堂で暮らしていた。
毎日の売上は、淑子が羽織を着込んで、運転手とともに飯野の共楽座を振り差しに、十館を集金して歩く。それを耳を揃えて妾宅の幸作のもとに届けるのが日課である。
笊に紙幣をかき集めたこともあった。手提げ金庫は百円札でいっぱいだった。面白いように儲かった。
「東京に出れば、一流の芝居を歌舞伎座などで見物して回った。値の張る着物も揃えた。いい思いをさせてもらったわ」
と淑子は振り返るが、興行者の見栄で「金がなくとも、あるように振る舞うのが興行師」と言う。使用人には何くれと気遣う。住み込みの者に布団や着るものの支度、毎日の食べさせるものを用意してやる。万事に金がかかる。東京から来たセールスに、商談の宴会や接待に添い寝の芸妓まであてがった。
幼いころから興行者の一家に生活して、金の出し入れにはノウハウがあることを知っている。夫はふだん物静かな性格だが、こと映画に関しては火の出るような情熱を傾ける根っからの興行師だった。
自動車3台に、働く男衆が十人ほどいる。
幸作の方針で、全員が一緒に同じ食事をする。夜の興行が終われば必ず夜食を出す。アルバイトを雇う訳でもないのに、映画が好きで斎藤家に出入りする人物も多かった。映写機を回す者。運転する者。「飯だけ食わせていても、色んな特技の者が集まってきた」と弘治は言う。そういう暮らしの中から、人間観察も金の感覚も磨かれてゆく。淑子がいい着物を着るのも商売のためだ。
福島の興行師の奥さんはたいていが花柳界の出身で「日本髪を結って、立て膝で煙草を吸っているようなひとが多かった」という。夫が接待から早く帰宅した時には「せっかく芸者といるのに、なぜ帰ってきたのか」などと問うたことさえあった。
男女のことも、任侠道に生きる興行者の見栄のことも、すべては映画に奉仕する使徒の伝道者の受忍の範囲にあった。
どうしても金が必要だったのは、巡回用のデブライという映写機を買うときだ。
「川俣座は、川俣中央のトーキーに比べて、手回しの無声でやっていた。弁士で対抗した。川俣では三春の島暁蘭や福島の西村暁村らが興行で入っていた。最初のトーキーは、やたらに音が大きかったので恥ずかしかった。ほかの巡回映画はデブライで音が静かで、そのデブライが欲しかった。ある時、作った背広がいつの間にかなくなっていた」
淑子が、自分の着物ともども質屋に入れて金を作ったからだ。質屋は、川俣座の株主の一人だったので、金を融資してくれた。
セダンを買った時には、島倉千代子が来演して本田タクシーから頼まれて、乗せたことがある。「本当にきれいな人だったね」と弘治は回想する。父近衛十四郎が大都映画の役者だったので、大都と契約のある川俣座には何度も来演して息子の松方弘樹も一緒に連れて来ていた。
寿太郎から三代目の弘治は映画史のほとんどをともに生きた。四代目の寿幸が手伝う時代になって全国の地方の映画館は閉館する巡り合わせになった。
弘治が戦後の各社の上映映画をメモした克明なノートが残った。飯野の共楽座にはまだ斎藤興行の映写機が眠っている。最盛期の映画黄金時代の名残である。

戦後洋画の殷賑

弘治は洋画が好きだ。戦前のヨーロッパ映画。特に「モロッコ」や「望郷」などのフランス映画。
戦後では「風と共に去りぬ」を川俣で上映しようとしたが、契約金が高価に過ぎた。一般映画はフィルムを買えば、どこで何回写そうと自由だが、洋画の大作は一本かぎりの特別会計で、他館へ転用させなかった。
内密に飯坂と保原の2館と組んで「風と共に去りぬ」を一館当たり3万円の負担で買った。ところが福島の映画館主から本社へ密告されて、川俣と保原では上映できなかった。黙認したセールスは「馘になる」と真っ青になった。前売りをしていた飯坂だけで上映は強行したが、フィルムの契約の受け手は川俣座の斎藤興行。フィルムと現金とを、両者の中間点で落ち合って受け渡した。映画のような話である。それにしても飯坂での前売りは「風と共に去りぬ」の4時間に、「きみの名は」の3時間の組み合わせだ。これでは、客は一日がかりで弁当持参でもなければ見られない。地方映画館の当たる当たらぬ、は組み合わせの勘である。
保原で文芸映画は当たらない。戦争映画ぐらいが当たる。川俣は文芸映画がヒットした。「映画館が地域の客筋と好みを育てるのではないか」と弘治は指摘する。
ハリウッド大作の「十戒」は大ヒットした。これは福島の侠客の興行者らと組んで一館宛て4万円を3館で買った。客は予想以上に入ったが、元請けの奥さんが集金に来たものの金を受け取らない。4万円では足らぬと言うのだ。思いあぐねて弘治は一升瓶を下げて豪壮な邸宅に出向いてけりがついた。
「ちょっとのことでは物怖じしないが、あの時は怖かった」と淑子は回想する。
もともと共同購入は契約違反なので、それがばれると上映さえ出来ない。しかも、配給会社からは社員が監視に来ていた。夜間に二階の映写室の窓から便所の屋根の上を伝ってこっそりフィルムを運び出して次の上映館に渡した。これはもう時効だろう。これまた映画のような話である。
「ゴジラ」の時には飯野の共楽座で、税務署の係員が観客入場者数を入口で調べに来ていた。この当時は映画税が十割。つまり入場料の半分を国税に持って行かれた。川俣で最高額の納税者として一時期はトップの稼ぎ頭だった。映画館と税務署は戦後、最も日本の復興に寄与したコンビだったのである。お互いのスムーズな人間関係が、適正な納税を醸し出した。なじみの税務署員は歴代が川俣座に入り浸り、子供の名付け親になるまでのつきあいになった。
「トラ・トラ・トラ」「ドクトル・ジバゴ」など印象深い洋画がたくさんある。
弘治と淑子の回想は尽きなかった。

いわきの戦後映画史

のちにいわき市となる地域には、一時は40館もの映画館が上映していた。
平地区の聚楽館と平座は明治の館。大正になって平舘、有声座ができ昭和に世界館(戦争中に強制疎開され戦後に復帰)、戦後は民衆劇場というのが誕生。洋画の第二常磐座も活躍した。その後の館名だけ追ってもひかり座、平松竹、平ニュース館・平新東宝・ニュー東映・ニュー国際・名画座などがある。平テアトル、平スカラは郡山の安達政雄氏が経営。アポロ座など新しく産まれてすぐ消えたのもある。現在、平名画座、平東宝、平東映、平東映2、平ロマンなどが稼働しており、聚楽館シネマ1と同2という館名に明治のなごりが残っている。24時間ビルの東映三夜館やシネマビルという集中形態のレジャー産業の導入でも平は先進的で、共通割引駐車券の発行など業界のサービス開発にも熱心で県内では最も元気な映画娯楽の町。
復刊したばかりの民友の昭和21年の「七月の映画街」の欄に小名浜町磐城館、内郷第二磐劇場、湯本三函館の名前がみえ、昭和22年の映画案内に(浜通り版)湯本別口、湯本三函館、内郷第二イワキ、小名浜磐城などの館名がみえる。25年には平館、世界館、聚楽館、民衆劇場などの平の館名がある。小名浜銀星、江名の二羽シネマ(昭和26)、江名にはのちに35年大映系、江名江楽館。江名朝日館(昭和38)の名もみえる。ほか内郷金美館など。勿来錦館、平ひかり館や小名浜金星などの館もあった。

●終戦直後のいわきの映画館
四倉町の斎藤弥三郎氏は、父親が亡くなった昭和二十年に四倉座と海盛座の跡を継いだ。
「忘れもしない。終戦間もないころの映画料金は一円八十銭。食べ物もろくにない時代なのに、むしろを敷いた館内はいつも満員だった。きっと、ほかに楽しみのない時代だったんだろうね。
戦中は運の命令でなともな映画を上映できなかったけれど、戦後は洋画がたくさん入ってきた。みんな、イモあめをかじりながら夢中でスクリーンを見ていたっけ。映写機をまわす方にしても、何だかいい気分だったよ。
当時は配給本数が多くて、上映期間は三日ぐらい。真夜中に放映を終え朝一番の汽車で上京、フィルムを以てトンボ返りして午後から上映を始める。寝たも起きたもない生活で、経営は本当に大変だったね。
映画のほか、劇団とか歌手を呼んでよく公演もやったよ。近所にのぼりを立てて客を集めて。旅芝居はよく覚えてないけど、三波春夫、村田英雄、藤山一郎なんか呼んだこともあるな。戦後間もないころの映画館では、今の市民会館より立派な文化施設だったと思う。
でも、昭和三十年の半ばを過ぎてテレビが普及すると、お客がまるで来なくなったんだ。妻アサイさんと相談して閉館したけど、とても寂しかった。ただ思うんだが、戦後復興のころはどの顔も真剣にシネマを見ていた。多分、映画の中には大きな夢が詰まっていたんだろう。そう考えると、いい仕事やってたよ」(いわき民報・平成7年1月1日)

●いわき商業風土記の戦後映画館史
斎藤伊知郎著「いわき商業風土記」によれば、戦後のいわき映画館群は次のようだ。
〔桃源の夢さめる世界館の鈴木寅次郎は敗戦と同時に頽廃と虚脱のなか「いわき健全娯楽の提供」という映画人に生きた使命感は、明治の気骨をふるい立たせ・・白銀の現在地に「世界館」(椅子408)を21年暮に再建、その威容は戦後初の大建築として市民の目を見張らせた。続いて佐藤子之吉が花々しく紺屋町に「民衆劇場」を建設し、西部地区開発の新風を送りこんだ。…26年春四月に平銀座興行の「ひかり座」(椅子426)が開場、さらに30年都会的センスの「平二ュース館」(椅子104)がお目見得、入場料30円という大衆料金で市民生活に融けこんだ。この小劇場は「平新東宝」「ニュー東映」「ニュー国際」そして、いまの「名画座」と館名が移り変った。「24時間ビル平東映」は「三夜東映」として43年8月に開場、へんぴな地域開発の先駆を成した。平駅ステーションビルと対面の地の利にある「世界館ビル」(鈴木喬二)は、44年8月に竣工、松竹・東宝・日活・大映・洋画と五ツの封切館を呑み込んで、新しい時代のレジャー産業に大きな羽ばたきをみせている。かつては…映画黄金時代を現出、連日大入袋でウハウハ喜ぶ結構な話でした。いわき全域に40館がひしめき合いながら共存共栄、年間151万8000人の観客を呑みこんでいた。〕〔昭和43年8月・24時間ビル三夜東映の新築開館があり、サウナ・喫茶店を併設。昭和44年8月に開業した世界館ビルと、洋画・邦画五館の集中と、パチンコなどレジャー施設をあわせた娯楽センターである。この中に昭和48年10月には名画座が誕生、わずか25の座席しかも名画一本のみで、料金300円という型やぷりの映画館があり、週刊誌にもとりあげられ全国的な話題となった。また11月に小名浜の金星座でコーヒーを上映中堤供する新しい鑑賞法を考えだす等、このような各種の企画で、いまや映画興行も次第に活気をとりもどそうとしている。〕
48年には聚楽館が火災で焼失した。49年の新聞広告にはアポロ座の名がみえる。次に「いわき市史」から戦後の映画館に関する記述を地域別に抜き出してみる。

いわき市史に見る各地区の映画館

●平 平地区では戦前からあった聚楽館・平館についで、疎開取りこわされていた世界館が昭和21年(1946)白銀町に再建され、ついで民衆劇場が紺屋町に新築された。民衆劇場は東宝映画を上映した。昭和26年には田町に洋画系のひかり座が出現、しょうしゃな外観とゆったりした場内の雰囲気が若い人たちに好まれ、連日満員の盛況であった。30年に平ニュース館が三町目に、ついで現在の喫茶店「花の木」(平字白銀)のところに、平松竹館が建設された。〕
次に添記したのは映画年鑑の昭和27年に登録されていた館名・席数・音響機器・映写機・上映映画の種類・住所・オーナー・支配人。
平館  495 ローヤル 日月式 松・新 南町70 島田勝吉 安部元久
民衆劇場 328 ローヤル 自家製 映・新 紺屋町42 佐藤子乃吉 鈴木剛
聚楽館 365 不二セントラル スーパーC型 洋・混 才樋小路9 飯田テイ 菊地直次
ひかり座408 ニュースター 同宝・TY 田町55 平銀座興行 堀江正鎮
●平館が日活直営に
昭和38年7月のキネ旬によると、平館が日活の直営になった時の様子は次のようだ。
〔日活平館を直営日活は、福島平日「平館」を貸借契約、館名を「平日活劇場」と改めて六月一日から直営館とした。同館は従来とも日活系続館で再出発番組は「太陽への脱出」「結婚の条件」。支配人には弘前日活支配人の中村敏男氏が発令された。同社の直傍系経営館は、これで七十五館になる。〕

●小名浜 〔小名浜地区でも芝居小屋であった磐城座が映画を上映した。ついで24年には金星座が、さらに洋画の銀星座も開場した。東映系の金美館、東宝・大映系の国際劇場が新築され、小名浜劇場が改称し地球座となり、やはり東映系として営案したが間もなく閉館した。〕(いわき市史)

西舘好子の小名浜ストーリー
作家井上ひさし氏の前夫人で劇団こまつ座主宰者西舘好子著「小名浜ストーリー」(金園社)は、小名浜に疎開していた時の様子として〔夕食が終わると座布団を手にして劇場に出かける。ナイトショウは八時から始まる。洋画も邦画も全盛のころで、小名浜には五つの映画館があった。「金星座」は洋画を、「銀星座」は邦画を、実演を主とする「金美館」、他に街はずれに小さなのが二つあった。どの映画館も満員でサービスがよかった。/金星座の二階は畳になっていて、枝豆や漬物を持参して物見遊山的な映画鑑賞である。疲れれば横になって仮眠もできる。少なくとも一日三本、多い時は六時まで映画館に入りびたり、出るのは明け方になってしまう、ということもあった。「サラトガ本線」「マルタの鷹」「カサブランカ」「第三の男」などの名作は忘れられない。クーパーやボガードやシナトラは、もうそのころから大スターであった。同じ映画を二度や三度は見る。「ひよどり草紙」で中村錦之助がデビューした時は、毎日映画館につめていた。錦之助や千代之介に夢中になり、昼はファンレターを書き送ったりして忙しかった〕と回想する。〔街のはずれに小さなのが二つあった〕という片方の一館は磐城座である。
27年の映画年鑑。
金星座 382 エミネックス ローラー 混
石城郡小名浜町中坪 田中ヨシ 植田孝夫
磐城座500 ローヤル ローヤル宝・大・米
同小名浜町上明神町 小野直千賀
●江名・豊間〔江名地区には江楽座と朝日館があり、おもに船員相手に日本の活劇ものを上映した。また豊間には豊盛座ができた。〕
豊盛座は戦中からある。
27年の映画年鑑。
江楽館300 ローヤル ローラー 混 江名町北口 坂本アキ 坂本真一郎
●四倉・久之浜 〔四倉・久之浜地区には久之浜劇場・四倉座・海盛座が芝居から映画へ転身し、日活映画館・国際劇場が四倉駅前に開場した。〕
昭和37年の広告には「四倉文化」の館名がみえる。日活系列館の異名か。昭和41年には、東宝系の四倉国際の広告も当時の新聞にみえる。四倉座は四倉最古の芝居小屋だが、戦争で疎開者用の住居に変えられた。
27年の映画年鑑。
海盛座 382 ローラー ローラー 混 四倉町仲町 斎藤弥三郎 斎藤弥三郎
斎藤弥三郎は、四倉松竹、八茎鉱山映画館
旧イワキセメント前に四倉映画劇場、四倉駅
前に四倉東宝の三館を建てた。このほかに、
双葉郡大野に大野館を作って、最盛期には6
館を経営した。このほか浪江の興行師吉田定
雄が、四倉駅前に四倉国際劇場を作った。
44年全国映画館名簿から。
四倉国際劇場 600 ローヤル 浦島 邦洋 四倉町本町  吉田定雄 伴内 同
久ノ浜劇場  350  ローヤル 浦島 各社 久之浜54 新妻次雄 同 同

●湯本・遠野・田人 〔湯本地区には湯本座・三函座、遠野地区には上遠野劇場・上遠野東映・甲子館・朝日館があり、田人地区には泉光館〕
27年の映画年鑑。
湯本座 600 スーパーイソノ 混 石城郡 湯本町字三函 青木兼次郎 青木安雄
三函座 600 音峰式関東音響 混 同 湯本町字三函 白石勧太郎 白石弘
上遠野座 250 デプライ デプライ 混 上遠野村字上遠野 鈴木重雄 下山田マスノ
●植田・勿来〔植田勿来地区には菊田館・植田館・中央館・ロマンス座・錦座・関田劇場・常磐劇場等が開館した。〕といわき市史。
27年の映画年鑑。
常磐劇場500インターナショナル ローラー
混大・松勿来町窪田 白上金右衛門 同
また平成9年1月の植田公民館の最近の資料によると、さらに詳しい館名がわかる。常磐劇場は常磐座に同じ。
〔常磐(ときわ)座(勿来町白山)
◎主な興行・芝居(双葉艶子劇団、沢村みすじ劇団、又三郎一座、きみちゃん劇団、女相撲一座、東京少女歌劇団等)・映画(洋画、邦画の各社作品を上映した)・歌謡ショー(春日八郎、曽根史郎、岡春夫、三清光一、塩まさる)
勿来会館(勿来町酒井小山下=大日本炭鉱の映画館)映画専門館
勿来映画劇場(勿来町関田寺下=昭和30年代の前半に出来た)
錦座(錦町上中田)
川部映画劇場(川部町三沢鍋坂)映画専門館
菊多館(植田町本町一丁目)映画専門館(松竹東映の封切り館)
植田館(植田町中央)昭和27年~61年映画専門館(日活、東宝、新東宝封切り館)
中央館(植田町中央)昭和34年~61年映画専門館(大映、にっかつ映画)
ロマンス館(植田町本町三丁目)映画専門館(洋画)〕
内郷(内郷地区には綴映画劇場(綴町)・磐城第二劇場(宮町)があり、後者はソ連映画「石の花」など特色のある問題作を上映し、わざわざ平から映画愛好家が集まった。〕
(注。「いわき市史」第六巻文化編は昭和53年11月1日の発刊。)
27年の映画年鑑。
綴映画劇場390ローラーローラー松・新 内郷町大字綴秋山 田中ヨシ 高橋常作
第二磐城劇場399ローヤルインターナショナル宝内郷町大学綴 恵原猪万夫 同

●「御殿映画鑑賞クラブ」
内郷は炭坑の町。〔常磐炭鉱労組内部の下部組織に当たる御殿部会は、同鉱高坂町の御殿三区社宅を対象に、昭和二十七年御殿映画鑑賞クラブを結成した。/みんなで楽しもうを趣旨に、高度な芸術文化論とは別に、健全娯楽映画の上映と割り切って、映画会は毎月一回南区、北区、立野区の会場輪番制によって、各区社宅の広場、遊園地を会場として野外映画会を開催した。運営は月一戸当たり一〇円の会費と、御殿部会の禰助金によった。/上映は地元業者と提携した東映巡回映画によるニュース映画と、大衆娯楽映画と称するものだった。まだテレビのなかった時代だけに、御殿三区民と周辺住民たちから、毎月の映画会が期待されるまでに成長した。昭和二十三年九月、常磐労組内郷支部が新鋭映写機を備えて、労組の教宣活動を兼ねあわせた巡回映画の事業に乗りだした。この事業によって同鉱の各区社宅街は、ときならぬ野外映画会の盛況をきわめた。〕(「内郷郷土史」昭和61年刊による)
また「内郷映鑑クラブ」が昭和22年に発足。浜崎広太郎、渡辺啓子ら五人の発起人となって組織。内郷内町金坂通りの第二いわき劇場経営者の全面的な協力を経て、同劇場を常設会場にして翌23年から月二回の鑑賞会を開催。入会金15円、会費月額30円の会員制による運営。当時、広野町に在住していた芥川賞作家冨沢有為男も参加していた。のち平を中心に広くファンを募って、アメリカンモーションビクチャークラブが誕生する。

いわきの映画館の変遷

昭和44年の全国映画館名簿。東宝民衆劇場、聚楽館、世界館、平日活、平名画座、ひかり座、東映三夜、常磐座、常磐日劇、湯本三函座、綴映画劇場、第二磐城館、金星座、銀星座、小名浜磐城座、江名朝日館、小名浜劇場、植田菊多館、植田ロマンス、中央館、うえだ館、勿来錦座、四倉国際劇場、久之浜劇場。
昭和46年の県興業環境衛生組合員名簿。
アポロ座(経営者高橋常作・支配人高橋邦夫)
聚楽館(技師長久米宏)
平東映(㈲トーエー企業・佐藤常雄、支配人愛川政晴・平15丁目2)
平大映(大一興行㈱・橋場広志.平字白銀町4)
平東宝劇場(東宝頭部興行㈱・中村幸夫、平字白銀町4)
三函座 白石弘・同、常磐湯本町三函)
常磐日劇(上野久道・同、常磐湯本町三函)
湯本金星座(田中靖男・同、常磐湯本町向田)
小名浜国際(小野幸子・同、いわき市小名浜字上明神町)
銀星座(田中ヨシ・同、いわき市小名浜字中坪)
金星座(田中ヨシ・同、いわき市小名浜字中坪)
磐城座(小野睦夫・同、いわき市小名浜字上明神町)
菊田館(酒出カネ・酒出秀雄、いわき市植田町番所下)
うえだ館(高際丑太郎・同、いわき市植田町台町)
植田ロマンス(山際淑・同、いわき市植田町台町)
植田中央(高際丑太郎・同、いわき市植田町台町)
昭和55年の民報広告では、次のような館名が並んでいる。
アポロ座、聚楽館、平東映、平松竹、平名画座、平東宝劇場、平ロマン劇場、平スカラ座、平テアトル、三函座、湯本金星座、小名浜金星座、銀星座、小名浜グリーン劇場、小名浜ローズ劇場、植田東映菊多館。

郡山の戦後映画史

郡山には最古の清水座や、明治32年創立の共楽座という館があったほか、平和館と富士館が大正9年に開館、大正座などがあり、共楽座が大正6年にみどり座と改名したほか、昭和6年になってみどり座の隣に郡山会館(火事で焼失したため昭和16年郡山映画劇場となる)が出来、新興館も産まれたがこれは昭和20年に強制疎開で壊された。
隣接の町には大槻共楽座、大正5年開館の熱海座、日和田座(のち日之出座)や、戦後の永盛映画劇場(無許可のバラック館で雨漏りした)などが最盛期に活躍していた。
郡山の大正座は明治44年生まれで郡盛舘、文芸館、大勝館と名を変えて生き延びた。ほかに名前を拾ってゆくと戦後は日劇、テアトル、郡山ニュー東宝、ピカデリーなどや、P.I.C.シスター、地下シスター松竹、ニュース館、駅前東映、ピッコロ座、ロマンス座、セントラル、駅前東宝、駅前ロマン、駅前スカラなどがあったが、今日ではすべてアートパレスとテアトルの二系列シネマコンプレックス館に統合。
戦後、郡山駅前には中劇、清水座、富士館の三館があるだけで、堂前には郡映のみだった。ファンの要望で、みどり座が映画館に再生した経緯がる。
のちにはテアトル(東宝)、駅前東映、日活、日劇、大勝館、シスターなど10館が繚乱の営業を展開する。
昭和26年3月15日の民報記事中に県内の映画館経営者の紹介もあり、特に郡山の佐藤勝治氏の経歴がある。佐藤氏は郡山みどり座が芝居小屋だったのを昭和8年から映画に手を染め12年に郡映の前身郡山会館を新築。白河みどり座、郡山新興館を買収。火災の厄に遭った郡山会館の跡に郡山映画劇場を新築。戦後はみどり座を改装して洋画専門館に、ついでピッコロ座を創設、ロマンス座を新築し宿願の中央劇場を建設。県下の業界をリードした。ロマンス座は昭和25年8月1日に米欧特選番組で開館。昭和27年時点の映画年鑑は次の館を記載している。
みどり座  エミネツクス 小野研
800 大 堤下12 佐藤勝治 小原磯助
ロマンス座 ニッセイ ローラー
230 洋混 同 佐藤勝治民井一弥
郡山映画劇場 エネミックス 小野研
600 松洋混 同 佐藤勝治 後藤武四郎
富士館   エネミックス エネミックス600 宝映 柳町95 東和興行 斎藤二一
中央劇場  ローヤルL型 ローヤル
1200 混 清水台 佐藤勝治 菅野恭雄(鉄筋)
清水座 ローヤルL型 KKK式 408 新・洋混 柳内198 伊藤祐治 柏木正治
昭和27年11月28日民報「東北随一の文化センター中央劇場本日落成開館」(郡山市佐藤興行社)広告。
●みどり座の常設化
昭和29年8月4日「みどり座・常設映画館へ」という記事がある。
〔郡山駅前には中劇・清水座・冨士館の三館があるのに比べ、市内堂前方部には現在郡映が一館あるだけで同方部のファンからみどり座を映画館として再開してくれという声が強いので去る七月末佐藤興行社が場内の改装工事を急いで〕二番館としてオープンした。
●大映清水座と郡山テアトル
昭和30年4月に郡山大映清水座が大映直営館として開館。
昭和31年には福島テアトルの姉妹館として「郡山テアトル」が8月12日開館した。県都の映画館誕生ラッシュに歩調を合わせて郡山での映画館競争も熱い火花をちらしていたが、明治44年に開館した大正座は改装して映画専用上映館にしようとしたが、地主からクレームが出て建築工事がストツプした(昭和31年10月15日民報)という。
●大勝館
しかし同年末・突貫工事(福島市大森安藤工務店施工)で11月22日には新装なった大勝館が開館をはたすことができた。シネマスコープ「愛欲と戦場」「豪族の砦」の洋画を大人80円・学生70円・小人50円で特別上映した(民友12月11日)。合名会社清水座代表社員柏木正治と東和興業株式会社斎藤信雄の連名で開館挨拶が民友12月17日号に掲載されている。昭和33年9月4日民報〔市民会館の映写設備にケチ。客が減ってしまう。人口一万に八館が赤字。須賀川四館に二館、白河三館に二館が赤字〕郡山十一館だという。
昭和34年2月10日民報夕刊〔ついに六本立の映画館・郡山っ子のどぎも抜く〕
●郡山日本劇場
昭和35年3月28日民報夕刊〔4月1日から開館郡山日本劇場〕3月31日〔県下一の大スクリーン郡山日本劇場〕4月1日夕刊〔郡山十一番目の館に さくら通り入口〕
●ニュース館とニュー東映
同年5月20日「地下シスター松竹ニュース館大人100円学生80円」の記事。
昭和36年4月24日民報〔ニュー東映誕生 ニュー東映上映劇場〕の記事に〔郡山松竹改
め郡山ニュー東宝〕とある。
昭和36年10月下旬号のキネ旬に、郡山東映富士館の消息が載っている。〔去る七月八月(日)に閉館した、郡山市柳町九五の「郡山東映富士館」(経営者斎藤信雄氏)は、経営者を大野冨蔵氏に変更して、九月二六日に再開した。支配人は荒川義昭氏。〕また同年10月、「ニュー東映直営劇場転向」というニュースで「キネ旬」は、〔郡山ニュー東映(東映地方封切館)十二月四週から〕と報じている。郡山の映画館群を昭和38年の時点で眺望すると、テアトル郡山(東宝系)、郡山映画劇場(松竹系)、駅前東映(東映系)、郡山日活劇場(日活系)・大映清水座(大映系)・日本劇場(東和系)、大勝館(東和系)、P.I.C.直営P.I.C.シスター、冨士館(東映系)、ロマンス座(日活系)など10館の名を運ねている。
●郡山映画劇場
「郡山映画劇場」は昭和52年に閉館した。同劇場は昭和16年、郡山市内では最初の映画館として建設された。建坪五百平方メートル、木造モルタル二階建てで床は総タイル張り、収容人員四百人。当時としてはモダンな作りで市民の話題をさらったという。あまりに立派なのでお客さんが入口でげたやぞうりをぬいで入って来たというエピソードがあるほど。昭和26年まで松竹映画を中心に上映「愛染かつら」「君の名は」など一世を風びした名作の時は何度も満員御礼の貼り紙を出したという。また郡山市で最初に洋画を上映した(昭和26年)のも同劇場。戦前、戦後を通じ経営者が何度か代わったが、昭和31年、東北第一興業の安達政雄社長(郡山駅前シネマビル経営者)が経営を引き受けた。安達社長は「若い人たちが安心して見られるような劇場にしたい」という信念から”いい映画”だけを上映した、テレビに人気を奪われた映画館がドン底にあった昭和38年ころ、もうかる成人映画の上映を友人から勧められたが、赤字覚悟で断固名作だけに絞って上映し続けた。市内の高校ではかつて高校生同士が映画館に入ることを禁止したことがあるが、郡映だけは許可したという。
52年正月、同劇場で上映した「岸壁の母」が爆発的な人気を呼び、40日間で35000人のお客が入つた。お客が入り過ぎたのが原因で劇場二階のハリが折れた。業者に修理を頼んだところ老朽化がひどいため周りの柱まで取り替えねばならず数千万円もの修理費がかかると言われたという。市内にあつた「みどり座」「清水座」「富士館」と往年の劇場が次々と姿を消し、安達社長は「郡映だけは残したい」と考えていたが、ハリが折れたのを機に廃止を決意。「岸壁の母」を最後に廃館とした。同社の従業員全員が同劇場で酒をくみ交わし廃館式を行い、思い出の劇場に別れを告げた。なお、郡映と一緒に隣のロマンス座も廃館となった。東北第一興業では52年11月、映画離れ対策として懸賞付き映画鑑賞を東宝、スカラ、ロマン、テアトル、ピカデリーの館で実施。
●東洋劇場
昭和41年10月に松竹専門館としてオープンし、経営者は五十嵐宏さん。7歳から映画界に入り下足番、売店の売り子などから支配人を経て念願の独立を果たした人物。
日活が直営館を探しはじめたのがきっかけとなって男子の後継者いなかったことから、53年7月いっぱいで閉館。経営権は日活に譲渡され、寅さんシリーズの上映などはシネマビルで上映を引き継いだ。
●郡山シネマビル
郡山シネマビル 駅前東宝・駅前ロマン・駅前スカラ
52年、鉄筋三階建てのビルの各階がすべて映画館というシネマビルが郡山駅前にもオープン。シネマビルは郡山市内の映画館の半分にあたるテアトル郡山、郡山ピカデリー、郡山映画劇場、郡山ロマンス座の四館を経営する東北第一興業社長安達政雄さん(40)が総工費一億一千万円をかけて建設したもので、鉄筋三階建て延べ七百五十平方メートル、百三十席から百八十席の映画館が三館出来た。
一階が邦画専門館の「駅前東宝」二階が西部劇、ギャング、戦争物の洋画アクション専門の「駅前スカラ座」三階が洋画の異色作を上映する「駅前ロマン」となっている。同ビルの特長は東北地方では初めてという自動映写装置を導入、三館を一人の映写技師が坦当しているほか、三館内に十三台のモニターテレビを設置しコントロール・センターで集中的に監視するなどで、人件費節約の関係で大幅な機械化を導入している。オープン初日は土曜日とあって朝から多くの人が訪れ、日中だけで二千人を超す観客が詰めかけた。なおシネマビルの誕生は県内ではいわき市に次いで二番目。
昭和63年(1988)の郡山の映画館は次のとおり。12館あった。
郡山東映、パレス郡山、にっかつ劇場、郡山スカラ座、郡山東宝、郡山ロマン、郡山駅前パレス、郡山パレス1、テアトル郡山、郡山大勝館、郡山洋画パレス、郡山洋画ピカデリー
このうち翌年1989年(平成元年)11月26日には、ピカデリーが廃館となり11館に減少。同年12月1目の映画年鑑90年版では「ロッポニカ郡山」が載って12館に。91年から93年にかけては10館体制で94年の年鑑ではさらに郡山パレス2が欠落して9館に。

安積郡の映画館

●永盛 昭和18年1月21日民報「安積郡永盛町 永盛映画劇場」の記事がある。田村郡守山町にあった旧陸軍が木工場として使用していたものを終戦と同時に財務局福島支部が管理し、24年暮に永盛町の横堀捨松さんが五万円で払い下げを受け、さらに同町の三本松寺市さんが借り受けて月に二度ほど映画館として上映。百坪ほどの大きさで土間に筵を敷いて百席ほどの客席だったが、屋根の木端板がひどくいたんで雨が洩るため映画を中断した。
●磐梯熱海 熱海座。所在地から樋の口劇場とも呼ばれた。樋の口映画劇場の名が新聞に出ている。
●湖南 福良会館。昭和44年の全国映画館名簿に安積郡唯一の館として記載されている。
福良会館 邦洋 阿部義一 ホープ・三共 280席。

安達地方の映画館

●二本松 二本松には最古の明治15年開館の双松座という芝居小屋があった。双松座は戦後二本松映画劇場と改名のあと東宝、東映の直轄館として生き延びた。オーナーの斉藤正太郎は昭和32年頃まで経営した。
二本松劇場は昭和4年に出来たものが昭和18年に閉鎖して中島飛行場が疎開。戦後は消滅した。昭和23年に二本松会館が映画常設館として建設され、中央館、名画座が出来た。
昭和24年1月7日民友には〔二本松地方民の宿願であった常設映画館がいよいよ正月早々開館したという新春ニュース=二本松の松下光太郎や郡山のみどり座などをはじめ多数有志の協力でこんど同町字本町元二本松乾燥所をモダンな常設映画館に改装、二本松会館として東宝、大映、松竹の各社と特約毎日正午と午後六時の二回上映で開館した〕とある。昭和27年の映画年鑑の概要では、
館名 客席 映写機 音響機器 上映種類
住所 経営者
双松座 800 ミクニ ミクニ  混
安達郡二本松町字本町 斎藤豊吉
二本松会館 500 ローラー五号 ローラー
混 安達郡二本松町字裡町 鈴木三郎
昭和29年にはかつての双松座が改め二本松映画劇場として再生(8.25民報)。のち東宝や東映の直営館になった。昭和29年6月頃の映画欄には「二本松東宝映劇」という記述がある。双松座の改名であり新館ではない。加えて二本松中央館も開館した。昭和29年11月民報に、福島市と郡山市の映画館群が中心の紙面に分け入るように、白河映画劇場、二本松東宝の館名の広告枠がありこのころ活発な営業を行っていた。双松座のオーナー斎藤正太郎氏は、同座は「昭和32年に閉館した」と回想。この後、映画会社の直営になった。昭和33年の広告に「二本松東宝二本松会館(日活)」という菊人形の広告がある。昭和36年1月のキネ旬に「二本松東宝」経営者変更のニュースが出ている。〔東和興行経営の二本松東宝(二本松市一ノ五六・支配人平野和男氏)は一二月から東和興行総支配人高橋荒氏が経営することになった〕と。昭和39年広告に「二本松会館、名画座、二本松東映」の名がみえる。二本松東映というのは、二本松東宝と同じ。昭和40年広告は「二本松中央館、二本松会館」とある。昭和41年1月18日には「二本松会館 第二会館」とみえる。
昭和44年全国映画館名簿では、
二本松会館 330 ローヤル ビクター
各社 管野恭雄 遊佐東 同 本町2-144
安達 安達郡安達村に昭和31年1月11日、スバル座が誕生した。字馬出の小熊亀吉が発起人。旧朝田陶管安達工場を改築。定員300名。(民友8月18日)
●岩代 小浜町(現岩代町)藤町には明治25年に出来た安達座(小浜劇場の名もある)が昭和20年1月に岩代大火で類焼するまで存続し、戦後同じ場所に名を小浜会館と改めて新築。40年頃まで稼働。二本松からフィルムを融通して、映写技師がバイクで運んだ。
昭和20年、21年頃の一時期、大河内呉服店の向かいの繭乾燥場を借りて映画を上映することもあった。
東和 東和町の針道会館は戦後の建設。「針道に映画館完工針道劇場」(昭和27年9月4日民報)〔安達郡針道村では商工会が主体となり工費五十万円で元めん羊市場を映画館に改築中だったが二日完工、三日から’針道会館’として開館した。〕(民報27年9月4日)
●本宮 本宮町には本宮座と中央館があり克明な記録が残っているし、大正の頃から町の姿を撮影もしている。戦後の太陽族映画の氾濫に危機意識を抱いたお母さんたちが立ち上がり本宮方式の映画鑑賞運動を展開する中で「こころの山脈」を自主制作。これを見た世代が「秋桜」を制作するなど映画好きのユニークな町。44年名簿。
本宮中央館 400 各社 第一音響 同
板詰政男 同 佐藤徳治 本宮53甲

石川郡の映画館

●石川 石川には戦前から石川座(石川劇場、磯館の別名もあった)という劇場があるが、戦後は石川映画劇場・さくら舘があった。昭和39年にさくら館が閉鎖。40年には石川座が幕を閉じた。
昭和23年3月16日民友の広告によると、水谷八重子一座を迎えての興行を17日に開催。名作「己が罪」「明治一代女」の二本立、昭和27年の映画年鑑の記述は次のとおり。
〔石川座 880 ミクニ ミクニ 混 石川郡石川町字下泉二三九 鈴木喜智〕
石川町荒町の新木屋興行社の石川座は昭和31年4月12日に改装のうえ開場。同年、高田北須川畔に石川さくら館が昭和31年8月18日に開館。大和田興行社、社長大和田秀里。支配人大和田秀司。顧問志賀正。シネマスコープ、完全立体音響設備、最新式水冷式映写機設備。東映・大映・東宝直配館、とある。(民友31.8.18)
昭和40年11月26日民報「郡都石川 映画館消える」との記事では、前年39年に石川映劇(さくら館)が閉鎖、建物が土建業者に身売りされ、地元の有力者が土地、建物を出資していた石川座が40年春までに上映不能。秋には完全に閉鎖した。すなわち閉館する昭和39年までは、石川座、石川映画劇場の二館が石川地方に存在していた。

田村郡の映画館

●三春 三春町には福島事件に連座した民権運動家松本しげるが明治30年に開館した三春座と、昭和に出来た昭和舘とが戦後も活躍。44年全国映画館名簿では、
三春座 577 各社 佐久間糸 佐久間修
同 字八幡 ローヤル 第一音響
●船引町 昭和6年に出来た船引劇場が昭和30年代まであったが、スーパーの駐車場になった。のちに合併する地区の瀬川村には大倉劇場という名の館も戦中の新聞に登場する。村の集会場だ。44年全国映画館名簿で、
堀越会館 200 新響 同 大東日 佐久間糸 佐久間修
●常葉町 常葉座。今は常葉劇場の名で、唯一郡部にある映画館として「映画年鑑」にも掲載。車庫に改造して映画は上映していないが、渡辺一成親子で現在も映写機をワゴン車に積んで移動映画社として北は国見、新地町から南は矢祭町まで阿武隈を越え県の東三分の一をカバーしている。
●神俣旭座は大正に建設され戦後まで生き延びた。西村暁蘭という弁士が二号さんのところに通うのに経営していたという。
神俣旭座 200 各社 ローヤル 新響
経営者太平平四郎 滝根町
●大越 町の施設、駅前の大越娯楽場(大正15年上棟)と、映画館大越劇場とがあった。大越劇場は土地の人木村猪助氏が薬師堂という地所に昭和になって建設し戦後まで稼動した。最も賑わったのは「君の名は」上映の頃。大越娯楽場は現在、町教育委員会が入っているが、天井と二階客席の名残は残っているという。44年名簿には
大越劇場 80 東日 ローヤル 新響 経営者木村亥之助 大越32、とある。
●小野 新開座、新町会館があった。
昭和28年8月27日民報「映画常設館 新町会館 羽田興行社」の広告あり。
昭和27年の年鑑〔新町会館 ローラー 森原 900 混 小野新町仲間通 羽田喜兵衛〕
昭和29年民報(5.2)に「新町会館・第二会館」の二館の名がみえる。44年名簿には、
小野新町会館 800 エポック エポック 邦洋 羽田善兵衛 郡司彦蔵 同 小野町中通り、とある。
今も会館前というバス停にその名残の名をとどめる。
●都路 ●都路 都座があった。戦後は古道劇場という館ができた。160席という小館のところに営林署主催の「七人の侍」無料映画会で700人がつめかけ過ぎて上映中に二階が落ちて29人のけが人を出した。むろん無許可だった。
昭和28年10月25日吉田元昭さん経営「古道劇場」の名が記事にみえる。のち古道会館。これとは別の渡辺愛太郎氏の土地に建設した劇場も戦後活曜していた。

会津若松の戦後映画館

明治から大正にかけては栄楽座、若松座、若松劇場、会津館、大和館、平和館などが存在。昭和になって戊辰館、長栄座や新興館、東亜館(戦中整理)なども参入するが戦後すぐ閉館。戦後はグランド銀星、シネマパレス、会津東宝、東映若松、みゆき座などが活躍。昭和62年にはロードショー封切り館の栄楽プラザがオープン。
昭和21年5月3日民友「五月の映画街」に若松の上映案内があり、新興館、会津館、映画劇場、栄楽座、帝国館という館名が並んでいる。「帝国館」はその後すぐに消える。昭和25年の旧正月映画広告に会津地方の館名がみえ、若松新興館の名が残っている。昭和26年に銀星座が誕生。同館は33年に松竹銀星に、34年に若松松竹となる。昭和27年「待望の栄楽座本日より開場」とある。〔栄楽座、会津映画劇場、会津館経営長谷川興行株式会社〕(民報広告27.7.1)
館名 音響機器 映写機  客席 種類 住所 興行主 支配入
栄楽座 ビクターフォトフォン フジセントラルF4 584 長谷川興業 宝・映・新栄町250 川内経広
会津映画劇場 ビクター ローラー七号378 長谷川興業 390 新・TN 栄町240 川内経広
若松大映 ミニクL型 ミニク288 大・米 馬場名子屋町60 大崎四郎 板橋福太郎
若松銀星座 ニュースタービクター290型
380 松・洋混 七日町200 佐藤幸平 渡部司朗
会津舘 ローラー七号 ローラー 450 宝・映 本六日町 長谷川興業株式会社 川内経広
●会津館が日活に
31年4月25日民友広告に「日活開館御挨拶」とある。会津館が改称。日活となる。〔栄楽座チェーンの旧会津館は”日活”と改称し皆様の御期待にそうよう鋭意改装工事を施して参りましたが、堂々完成、きょう二十五日開館の運びとなりました。新装の「日活」は文化的衛生設備を整え、シネマスコープスクリーン、フジセントラル映写機F6型さらにビクター音響装置を備えたほか、水洗便所設備、暖房完備、蒸汽(ボイラー)自家発電設備を完了し面目を一新〕とある。長谷川興業株式会社直営。
●グランド銀星とシネマパレス
昭和31年7月3日には会津若松市に本格的シネマスコーブを謳い文句にする「グランド銀星」(7月1日広告)が新装開館。8月8日、会津若松にまたシネマスコープ劇場と謳った「シネマパレス」が誕生。
昭和31年12月29日民報に会津地方の映画広告には若松銀星座、グランド銀星、喜多方銀星、坂下銀星の館名がみえる。グランド銀星では「シネマスコープ劇場」との謳い文句がある。坂下銀星でもシネマスコープをセールスポイントにしている。
●シネマパレス炎上
明けて32年1月24日民報に「開館六ケ月で差押え/会津若松のシネマパレス」という記事がある。31年8月に開館した館だ。シネマパレスは昭和33年に全焼。(10.23民報)
昭和33年7月25日民報の記事に「若松でも二本立強調 松竹高村一行」という記事があり、「人口十万で、そこに七映画館だから・・」と映画館林立の苦境を報告している。
●会津東宝
昭和35年9月下旬号のキネ旬には「会津東宝」誕生のニュースがある。
〔「会津東宝」誕生 八月一四日同市九館目で東宝専門館の「会津東宝」(本田興行・社長本田栄氏経営)が開館した。同館は建坪四九〇平方メートル・鉄骨モルタル・冷暖房完備・定員二五〇名)
また、同年10月上旬号では〔「会津東宝」福島県の記録更新〕との記事を載せている。
〔会津若松市馬場下一之町六の「会津東宝」はさる八月一四日、「夜の流れ」「娘・妻・母」の二本立で開館し、東宝映画専門館としてスタートしたが、二〇日までの一週間に一二、八〇三七名動員という成績をあげ、東宝映画の福島県下における新記録を樹立した。従来の記録は「テアトル郡山」の週計一一、三一一名。〕
●若松松竹・銀星座
若松松竹は昭和26年「銀星座」として開館した。鉄筋コンクリート三階建ての近代映画館で観客席数は一・二階合わせて517席あり、当時としては最大級の映画館だった。最初に上映した映画は全国的な大ヒットとなった「君の名は」。映画館の前には長い行列が出来、館内は立ち見席でもスクリーンが見られないほどの人気だった。その後、東日本松竹興業(本社・東京)に経営権が移り、昭和33年に「松竹銀星座」、二年後には「若松松竹」になった。30年に及ぶ長い歴史の中で市民が娯楽場として映画を愛したのは昭和30年代から40年代前半。会津の現地ロケで話題を呼んだ木下恵介監督の「惜春鳥」は空前の大ヒット。35日間連続上映という新記録をつくった。さらに小津安二郎監督の「彼岸花」、小林正樹監督の「人間の条件」そして44年から始まる山田洋次監督の「男はつらいよ」シリーズと邦画の全盛が続いた。昭和36年には、グランド銀星が若松日活に。(キネ旬・8月下旬号)
●会津の映画館興亡
44年広告には若松栄楽座、若松松竹、若松大映、若松日活、若松東宝の各館。
44年全国映画館名簿。
若松東映栄楽座 長谷川興業 渡辺彦太郎
青山春雄 フジセン ビクター 580 映
若松松竹 東日本松竹 北岡正武 桜井正雄 フジセン ビクター 639 松
若松大映 大崎四郎 板橋福太郎 斎藤富雄 ニュースタナイコー  414  大
若松東宝 本田栄 吉川三郎 丸山正之
フジセン ビクター  350 宝
1970年(昭和45年)には栄楽プラザが開館。
46年県興行環境衛生組合員名簿には
栄楽プラザ ㈱栄楽座川内経広 渡辺彦太郎
洋画日活 長谷川興行㈱川内経広 渡辺彦太郎
会津松竹 支配人沼倉忠
会津東宝 経営者本田トシオ
などに変っている。
若松戦後初の映画館「銀星」のちの「若松松竹」は昭和56年(1981)に閉館。
〔三十年間にわたって数々の名画を上映し続けてきた会津若松市で一番古い映画館が今月二十七日限りで姿を消す。この映画館は同市大町一丁目二ノ一二、若松松竹劇場(松村嘉勝支配人)。松竹直営の映画館としてこれまで数多くの映面を上映してきたが、四十九年のオイルショック以降、電気料金、暖房費などの諸経費の高騰と邦画不振による入場料収益の減収のダブルパンチが致命的となった。閉館を前に映画ファンから「まだまだ名画を上映して欲しい」と惜しむ声があがっている〕(昭和56年9月17日民報)
1988年(昭和63年)の時点では若松の映画館は次のとおり。
若松東映栄楽座 132席 映 栄町2-6
長谷川興業(株) 川内経広 青山春夫
若松みゆき座  72席 洋画 栄町2-6 長谷川興業(株) 川内経広 青山春夫
会津東宝劇場 123席 東宝松竹 中央1-1-8 会津東宝 吉川三郎 内山正之
若松大映劇場 100席 にっかつ 中央2-5-35 大崎興業 板橋哲郎 板橋福太郎
●栄楽プラザ
63年に「若松栄楽プラザ」栄町2-1(川内経広社長・青山春男支配人)が初のロードショー封切り館として参入。昭和63年5月30日民友は〔洋画の話題作会津でも上映〕と報じ、前年から10ケ月の休館ののち新築して東京と同時の洋画封切り館として復活した栄楽プラザを紹介。「ランボー3・怒りのアフガン」「ビッグ・ショット」でオープンした。
●耶麻郡
西会津 昔の野沢町時代の劇場や、日橋村時代の広田座があり、塩川には新栄座という館があった。
昭和21年2月19日の新聞に、野沢町劇場の名がみえる。これは地方巡回上映の記事の中に昭和初期から存在した。現在の西会津町になったのは29年7月1日。西会津町で昭和34年3月11日に大火があり、この映画館も類焼した。
野沢劇場 150 ローヤル 自家製 邦洋
角田キヨ 西会津町
猪苗代・磐梯 猪苗代新開座、中の沢温泉に中之沢映画場(低料金の300円劇場として親しまれたが昭和52年に廃館)、かつての弁士が経営した大衆劇場、川桁鉱山の川桁映画劇場、磐梯大寺劇場などが活躍した。
44年には猪苗代町に3館あった。
中の沢劇場 300 新響 新響 渡辺金次郎 渡辺誠一 沼尻
新開座 350 ミクニ ビクター 田中クラ 田中洋介 二瓶秀雄 東裏町
樋の口映画劇場 200 ローヤル ローヤル増子悟郎 樋の口
喜多方 戦後に廃館の帝国館を除いて、明治に出来た旭座と、文化映画劇場、中央劇場、銀星座の4館が市民に親しまれた。「思い出の写真集喜多方今昔」(歴史春秋社伊藤豊松著)によれば戦後の4館が紹介されている。
〔銀星座 現在の第一タクシーの西側にあった銀星座は、映画館として永く市民にしたしまれていた。特に昭和三十五年以降テレビの普及などを理由に、観覧者の減少をみ閉館のやむなきにいたっている。〕
〔文映 喜多方で現在ただ一つ残る映画館である。〕
〔朝日座 劇団による興行の劇場として朝日座は老君男女をとわず、市民の慰安の場としてもしたしまれていた〕明治25年にすでに活動している古い館。
〔中央映画劇場 文映の西側に建てられていた中央劇場(幸町)も布民の娯楽施設としてしたしまれていたが、現在は閉館となっている。〕(同書は昭和56年2月発行)
28年の映画年鑑では。
銀星座 404 フジセントラル 松・大 耶麻郡喜多方町新仲町 佐藤幸平 鈴木良一
喜多方文映 300 ローヤルL型 宝新映米 喜多方町御深水 シバタ文化興行 田辺重知
といった内容になっている。
「喜多方高校新聞縮刷版」によると、昭和27年の号に文映の開館一周年記念の広告が掲載されているので、昭和26年に開館したことがわかる。
●大沼郡
高田 会津高田には大正5年に出来た信富座のほか日吉座と栄楽座が戦後活躍。
高田信冨座(昭和36年に全焼)、異名高田日吉館、高田栄楽座(日活系)などだ。
新富座 599 ミクニ 大崎無線 混 大沼郡高田町御蔵南 江川幸助 小林雄進
以上は27年。44年には256 江川雄進 同 技師長宮下行雄 ローヤル ビクター。
新富座は寄席小屋として戦後も活曜した。昭和22年には、この座の一枚看板の外国人芸人ウイリアム・ジョンデー(芸名安田武羅夫)が死去して大騒ぎになった。英国人のため戦争中は高座にあがれず迫害されたが、無国籍者として淺草で生き延びた。そんな人物が戦後、会津高田で寄席に立っていたのだ。
三島町 テアトル宮下 300  邦洋 L7 ビクター 国分栄市 長谷川武 星親 三島町 (44年)
●河沼郡
坂下 大正のころ柳盛館という館があった。活動常設館で坂下で最初の映画専門館。トーキー導入も早かった。戦後には金星座、栄楽座、銀星座が稼働。銀星座は、映画ばなれに対抗して上映後に客にカラオケを楽しんでもらうというユニークなサービスを試みた。
昭和21年3月11日民友広告。松竹大船スター水戸光子(新鶴村出身)一座が来訪。両沼商工会主催により坂下小学校で25日、若松栄楽座で26、27日公演。坂下栄楽座は昭和29年暮れの開館。坂下銀星座(大正時代に公会堂として開館。戦後昭和39年に銀星座と改名し昭和62年に閉館)のほか、坂下栄楽館が30年代から40年代に活躍。
坂下映画劇場 400 ミクニ 同 米・宝 河沼郡坂下町本町 藤本清 藤本詳十郎
栄楽館 400 ローラー ローラー 混
坂下町柳町 長谷川興行
44年には、銀星座 フジセン ビクター 邦洋 坂下町472 藤本興行 とある。

●柳津 戦前からの福満座と、みどり座という館があった。昭和37年3月下旬号のキネ旬に柳津みどり座について言及がある。「映画館ニュース」より。
〔柳津町「みどり座」倒壌 福島県河沼郡柳津町の映画館「みどり座」(経営者佐竹マサ子、支配人弱地三郎氏)は一月二十三日朝、積雪一メートルの重みで九十九平方メートルが倒壊した。なお同日は冬季休館中であったのでケガ人はなかった。〕
本郷 天狗座。金山町 金山会館。
旧長沢村に長沢座。その他の村に、宮下座、金松座などもあった。

●山都 古くは都座という館があったが、戦後は山都文映が上映。ほかに現地で取材したら太陽座という館もあったという。
文化映画劇場(経営者中島繁治)に放火(31年4月20日民友)の記事あり。
山都文映 350 ローラー 音響 宝・新・映・米 耶麻郡山都町山都 文化興行 シバタ文化興行 佐藤正夫
●南会津郡
田島 昭和29年の新聞に田島栄楽座、田島劇場の二館の名がみえる。このほか戦前からの田島弁天座という館も活躍した。
弁天座 400 ミクニ ローラー 混 南会津郡田島町西町 長谷川次郎吉 長谷川一(27年)
田島栄楽座 600 ローラー 自家製 長谷川晃三郎 同 技師長渡辺長三 (44年)
只見 昭和30年代の只見の少年時代を綴った「ポンプ小屋の月光仮面」という自伝を出版した吉津耕一氏は、只見の映画館について〔生まれ育った只見町には三軒の映画館があったが自分の家や通っていた学校から一番近いアサヒシネマしか知らない。「アサヒシネマ」というのは正確ではなくて、看板には「朝日シネラマ」と書いてあったが、だれもが「アサヒシネマ」と呼んでいた。〕と記している。只見には日活系の只見トキワ館という映画館もあった。只見公民館報の復刻版によると、1959年の号に只見映画研究会という高校生四人の会のことや映画紹介が載っている。映画研究会に入会していると只見常盤舘が利用できた。只見町は・只見村・朝日村明和村の3村が合併して出来た町で、明和地区には昭和37年に第三の映画館が誕生した。オープン時に館名が公募され、掘金保男氏が当選。「ニュートキワ館」と命名された。明和地区からは映画を見るために16キロ離れた只見まで出掛ける必要があり明和の第二トキワの開館は喜ばれた。これも電源開発の恩恵だった。しかし常設上映されたのは短い。
只見常葉館 邦洋 国分栄市 同 技師長星親 L7 ローラー 300 (44年)

県南の映画館

●須賀川 戦前からの須賀川座、須川中央館に加えて、昭和26年8月に須賀川ピオニ映画劇場が開館。この館で映画上映前に生演奏を奏したピオニ楽団(盟主円谷修吉)というのは昭和21年7月に誕生した。軽音楽の楽団で郡山放送局出演などを契機に発足し当時流行した学芸会、のど自慢等の伴奏などに活曜し、戦後10年にわたって須賀川町民に馴染まれた(「須賀川市史現代2」より)。「目で見る須貿川・石川・岩瀬の100年」という写真集には、須貿川ピオニ劇場の開館(昭和21年と誤記)の時の写頁が掲載。昭和32年1月に中央館が全焼?。〔31年5月14日、中央館が全焼。原因は客の煙草の吸殻で損害四百万円〕(民友31.5.15.)昭和33年には金美館(須賀川東映)中央館が開館(「須賀川市史現代2」年表)とあるが、前後するが昭和32年6月10日民報タ刊の記事で「須賀川も映画館ブーム年末までに五館そろう」と報じており、(県下各地の映画館ブームがいよいよ須賀川にも及びお盆までに常設館が二つ建ち、さらに年内にもう一つが建つことになった〕という。
〔須賀川市内には三つの映画常設館があったが昨年五月中町の繋華街にあった中央館が火災で焼けてしまい現在はピオニ劇場と須賀川だけの二館となっている。焼けた中央館はその後株主たちが再建を準備していたが、これとは別に小名浜商工会議所会頭の草野庄平氏が須賀川座の隣に工費八百万円で新しい映画館を着工した。現在矢部工業所の請負で突貫工事で進められているが、今月下旬には完成し七月早々からシネマスコープの金美館という名で堂々開館することになった。また焼失した中央館も株主間のちょいとしたいざこざのため遅れていたが、これも中町町内や有力者たちの応援で増資の話合いがつき、石井篤二郎氏が社長となってこれも近いうちに着工しお盆までには完成して直ちに開館することになっている。ところがこんどは中央館の焼ける前同館の支配人だった同市駅前の大橋喜左衛門氏が独立して同市西二丁目に新館を建てることになり準備を進めている。これが出来れば同市内に次々と三つの映画館が建ち、合計五つになるわけで県南一のにぎやかな街になろうとしている〕
と最盛期の須賀川映画界の姿を報告している。
昭和32年11月9日夕刊民報に「11月9日祝堂々開館(須賀川)中央館」という広告がみえる。のちに建設された新館は、須賀川名画座。最盛期の須賀川には5館の映画館が勢揃い。圧巻である。平成8年まで命脈を保ってきたのが中央館。須賀川座は長い歴史に幕を閉じて7年開館した。館内にテナントを募集して新開店したが、翌日オープンという日に出火し全焼した。
昭和27年の年鑑には次の概要がしるされている。
須賀川座 570 ローヤル ローヤル 松・映・米 岩瀬郡須賀川字二の四五 山口重吉
ピオニ映画劇場 363 ローヤル 第一音響 松・米 同須賀川町字古屋敷 山口重吉
中央館 450 大・宝・N エミネックス南海通信 須賀川町字東 大橋喜佐衛門
44年、ピオニ映画劇場 350 フジセン ビクター 映洋 寿賀興業 広瀬吉夫 清水鉄太郎 馬町
須賀川座 350 ローヤル 新響 松大 山口和男 同 同 大町
中央館 358 フジセン ビクター 邦洋 中央館 石井敬三 佐藤幸司 宮崎町
●白河 白河では「改良座」のちの「白河みどり座」や昭和初期の友楽館、共楽座の名がみえる。戦後は、みどり座と白河劇場に加え、中央スター劇場の3館体制となる。
昭和32年7月31日民報「8月1日祝白河中央スター劇場開館」の広告がある。8月2日に日活スター芦川いづみが昼夜出演して開館を祝った。スター劇場は、昭和54年2月に取り壌された。27年の映画年鑑による館名・客席・映写機・音響機器・上映種類・住所等は、
白河劇場 750 ローラー ローラー 松・新上ノ台 荒川清司
白河みどり座 700 エミネックス ローラー 混 上ノ台 佐藤勝治
その後、昭和54年12月に改築して二館体割に移行。白河第一劇場(上の台25・132席・映宝洋)と白河第二劇場(同91席 松竹その他)荒川清司氏から清一氏に経営も移り、さらに二館は平成4年1月いっばいで閉館した。
●矢吹 矢吹映画劇場。公楽館(のち矢吹町冨永会館)。
●棚倉 棚倉町には古くは棚倉劇場があったが、戦後に棚倉中央劇場、東白劇場、旧近津村に近津劇場とがあった。
「目で見る白河の100年」という写真集に、棚倉中央劇場という映画館が載っている。解説には次のようにある。
〔▲閉鎖した劇場(棚倉町・昭和52年頃)棚倉町には、戦後3つの映画館があったが、この中央劇場が邦画の全盛時代とともに生き、昭和50年頃閉館〕とある。このほか東白劇場(東白川郡から命名)、近津劇場(合併前の近津村の名から命名)などがあった。
44年名簿には東白川郡の館として、
棚倉中央劇場 800 フジセン ビクター
後藤恒夫 赤沼実 酒井甲子男
浅川座 400 ローヤル 同 支配人技師長とも貝山実吉
塙劇場 500 各社 ローヤル 同 金沢守
同 金沢彦麿、とみえる。
●塙 塙町には大正6年に出来た塙劇場があり、地元の郷土史家金沢友春氏が克明な原稿を残していたのを最近塙図書館が発見。昭和47年に塙劇場は灯し火を消した。塙図書館の調査で、当時の夕刊はなわというミニ・コミを送っていただいたので紹介する。
「塙劇場 東日商事が買収 56年目に終止符」昭和47年9月9日夕刊はなわ4213号。
〔大正、昭和の五十六年間、町民にしたしまれてきた塙劇場がその灯びを消し東日商事kkに買収されることになった。テレビ全盛時代の到来で、地球の裏側で開かれているオリンピックが現地と同時に聴視できる程人間生活の周囲が発達して、ひところ一世を風びした劇場も時世の流れには勝てず、消費時代の倉庫に転身する。/塙劇場は大正六年に建築、県南地方では最も早い演劇、映画を上映して文化事業を先導して来たもので、当時は大字塙の人口も数十人、十数戸があっただけといわれ、水郡線の開通と共に発展し、一時は行政や産業団体の集会の場にも利用されてきた。/なお塙劇場の整理を協議する役員会は、来る二十日午前十時から同公民館で、また株主総会は同日午後一時から開かれる。/時代の盛衰ではあるが淋しいニュースでもある。〕
劇場許可は大正7年になっている。昭和27年当時の概略は次のとおり。
〔塙劇場 600 アーバン アーバン 大・松 東白川郡塙町字木戸10 金沢守 金沢守〕
昭和29年9月17日には東海林太郎が塙劇場に来演。
●古殿 戦前になるが古殿町には、旧宮本村に地元の県会議員親子が機織り工場を改造して大正年間に竹貫座というのを作り昭和15年頃まで運営した。
●東 戦後、文芸館があった。昭和33年3月15日「西白河郡東村本町文芸座」民報タ刊の記事あり。正式には文芸館という。経営者の天倉義信氏(74)によると終戦後に同村本町100番地に開館し、昭和28年頃に閉館したという。フィルムは白河劇場、白河みどり座、茨城の館などから回して上映した。最も印象的な映画は「日露戦争と明治大帝」だったという。
●鮫川 鮫川村では古くは新宿座、のち中野公会堂という村の施設で戦時中はニュース映画が上映されていたが、戦後は解体されて公民館になった。現在の役場(赤坂)の向かい側の場所である。共楽座という芝居小屋兼映画館は共同経営で戦後生まれた。のち韓国人経営者が引き継いだが昭和30年代はじめに閉館した。現在の農協(新宿)の場所。(歴史民俗資料館による)
●中島 中島村には旧滑津村に滑津座という館が、戦後明星舘という館もあった。昭和33年8月4日「西白河郡中島村同村明星館・・」の民報記事がある。明星館は昭和28年頃に開館し、約10年間稼動して36、37年頃に閉館した。(吉田勝郎氏談)
●表郷 昭和16年1月10日「表郷金山会館」の広告がある。民間の施設で、同村の藤田和男、曲木俊雄の二氏の経営。
●矢祭 矢祭町には合併前の二村に更正座と東舘座とがあった。戦時中の昭和16年に東京から来た大槻くらさん(95年現在90歳で健在)という人物がその一、二年後に開館し経営した。「高校三年生」を上映したというから40年頃まであったようだ。

相双地方の戦後映画館ラッシュ

昭和23年中の福島民友に、相双地方の劇場の名が登場する。たとえば2月15日「冨岡座焼く」という記事。
4月14日「小高羽二重祭の第二会場は小高座」
4月24日「浪江座で素人演芸大会、浪江婦人会の主催で」
4月28日「原町のメーデー夜は旭座演芸会」などだ。これらの古い、明治大正からの劇場は、もちろん映画を上映可能であったが、戦後はそれぞれの町に、新しい映画専門の上映館が誕生した。たとえば相馬には中村中央劇場、メトロパレスなど3館がオープン。昭和51年に中村映画劇場が出来たが、間もなく閉館。
昭和26年8月6日民報に今井正監督作品「どっこい生きている」(新星映画・前進座)の広害が載っており、福島国際と中村町中村座での公開予定を報じている。「どっこい生きている」のは、中村座そのものの存在を意味していよう。明治以来の芝居小屋である。戦後の一時期まで、映画を上映して存命していたことがわかる。小高座という芝居小屋も昭和30年代まで、小高劇場と改名して映画を上映して生き残っていた。小高国際劇場は、昭和32年に新築開鎗した。鹿島劇場は佐藤定喜氏経営。興行組合長などもした。中村座と新開産は戦前からの館だが、戦後に仙台の渡辺徳氏が中村中央劇場を駅前に建設。しかし支配人の都合で短命に終わった。
●相双地方に最盛期23館が稼働
原ノ町旭座(朝日座)、原町中央劇場(新設)、原町映画劇場(新設)、鹿島座、小高国際劇場(新設)、小高座、中村座、新開座、中村中央劇場(新設)、中村メトロ(新設)、浪江中央劇場(新設)、浪江座、長塚亀楽座(双葉)、新山会館(双葉・劇場)、大野劇場(新設)、川内劇場、夜の森劇場(新設)、富岡劇場(新設)、竜田劇場、木戸劇場(新設)、久之浜劇場(新設)、四倉国際劇場(新設)、請戸劇場(新設)と15館が新設、改築改造などで誕生した。最盛期の合計は23館。これらはすべて閉館した。上記の23館は浪江の島田有造氏が「浪江近代百年史」に「浪江の映画史」として題する回顧文の中に掲示しているもので、島田のかかわった四倉国際をも含む。現在はいわき市に含まれる久の浜は双葉郡に属していた。久の浜劇場は新妻次男氏経営。川内劇場は船引や富岡、大野、浪江などから、出張して臨時興行を担当していた。浪江町で島田氏自身から聞いたところによると、長塚亀楽座は昭和24、25年の頃建設。島田有造氏が父親とともに経営していた。うどん工場を買収して改修し芝居も出来る小さな劇場にし、長塚村役場の向かい側にあった。大野座は旅館経営者の井上という人がやっていた。戦後、大野駅から離れた場所の大野会館(大野劇場)という館を中里林三氏と鈴木岩雄氏が共同経営していた。(島田有造氏談)これは大和館として知られる映画館のことだろう。大野会館は四倉の斎藤弥三郎氏が興行したという。(四蔵町松本光枝氏談)
●請戸劇場・夜ノ森劇場・富岡劇場
請戸劇場は戦後に建設され昭和36,37年頃に閉館した。小川和男氏から坂本八十松と志賀雄之助の両氏の共同経営に移った。八十松の息子の剛氏、高野昇氏らが技師としてフィルムを回した。中央劇場のフィルムと掛け持ち。戸数400の小さな集落だが、テレビ出現の前だったので娯楽もなく、映画の客の入りはよかった。(坂本自転車店による)高田昇氏は小高国際を振り出しに12年ほど勤めた。行人社チェーンの総支配人として東京でのフィルム選定やフィルムの発送や手配など。夜ノ森劇場は六芳苑向かいで元町長の半谷六郎が経営。冨岡劇場は昭和23年に焼けた富岡座のあとに新築。神谷豊次郎から浪江町の行人社吉田氏の経営に移り、さらに常葉劇場の渡辺一成氏が買収。現在も建物がそのままに残っている。現在楢葉町の木戸劇場(木戸ロマンス座)の経営者は福田氏。竜田劇場は高野春雄氏が経営。楢葉町史には竜田劇場の写真口絵が褐載。
昭和27年の映画年鑑には次のような館が所載されている。

館名 所在地 オーナ-  支配人
広野劇場 双葉郡広野町大字下浅見川桜田101  杉田秀雄 杉田秀雄
浪江座  同 浪江町権現堂
島田亀次郎 島田亀次郎
標葉劇場 同 標葉町新山
田中ヨシ 高橋常
中村座  相馬郡中村町袋町21
畠山潔  畠山昌
新開座  同 中村町
和田敏男 山田正一
小高劇場 同 小高町南小高
石川弘  梅田政治
原ノ町映画劇場 同 原ノ町
神谷豊次郎 神谷豊次郎
●広野劇場
広野劇場は広野駅前通り駅から5分ほどの場所に今も外壁だけは残っている。年鑑に杉田とあるが、正しくは松田秀雄氏の経営。昭和22年から42年まで経営した。初め小名浜の江名からフィルムを取り寄せたこともあるが後に浪江の行人荘から回してもらった。●標葉劇場
標葉劇場というのは、双葉町が誕生する以前の新山町の劇場なので戦前に新山会館と呼ばれていた館であろう。新山会館の株主は白富士という銘柄の酒造家冨沢氏という人物で、島田親子は年間800円支払って経営していた。島田は相双の映画館の東宝、大映、日活、新東宝、松竹、東映の六社の邦画フィルムを一手に扱い、南は四倉国際まで島田経営のチェーン館を中心にやりくりしたという。

●行人社の洋画巡業と吉田定雄
「浪江の映画史」によれば昭和22、23年頃に神谷キネマの他に行入社(吉田定雄氏)の洋画の巡業が進出。吉田氏は南洋から引き揚げて宮城県白石に本拠を構え、洋画専門巡業班を編成。小高、浪江、久の浜を手はじめに相双地方に洋画を導入提供した。この頃の浪江での映画機はデブライというトランク型の巡業用のものだったという。吉田氏は先年92才で死去。
●原町映画劇場の誕生
明治の頃に出来た芝居小屋の原町座はすたれ、戦前は衆楽園と呼ばれて秋市やサーカス相撲巡業などが行われた広場に、新たに戦後になって神谷豊次郎の手によって原町映劇という映画館が誕生した(のち渡辺徳氏のもとで原町文化劇場、さらに布川氏のもとで原町シネマと改名)。昭和27年1月8日の民報に「原町映画劇場」の正月広告が載っている。「原町映画劇場」の文字の隣に
「朝日座・共同興行社神谷電五一六
丸川電一一六福島県相馬郡原町」
という表記になっている。原町映画劇場(通称原町映劇)は、戦後の映画館ブームを告げる新館オープンとして、町民に歓迎された。場所は現在の栄町共栄会駐車場。ここは、かつて町民いこいの広場であった衆楽園の一角。戦前の町一番の歓楽街であり、遊郭もあり夕闇に人を誘う太鼓の音が流れ、また収穫期になれば名物の原町秋市の露店も見世物小屋などがたちならび、サーカスが興行されて賑わった場所である。昭和26年中にはすでに稼動していた。原町座と旭座オーナー神谷氏が建設した。
昭和27年2月27日の福島民報の松竹広告に並んだ県下の系列館を掲げると、福島松竹、平館、郡山映劇、若松銀星座、喜多方銀星座、自河劇場、須賀川座、小名浜金星座、三函座、綴映劇、原町朝日座。昭和26年の表記が原町旭座。昭和27年が朝日座。すなわち、旭座が朝日座になったのは、昭和27年からである。この頃、神谷と丸川つまり布川一家の共同経営で旭座は経営されていたことが分る。27年の広告では松竹と大映の双方の広告に系列館として原町朝日座の名がみえる。

●新生「朝日座」のスタート
朝日座は、旧経営陣の門馬永松代表から65万円で布川氏へ譲渡された。大正12年に旭座が建設された経費は1万3千円。貨幣価値は30年を経て50倍になる。「終戦後、映画ブームの到来の予感はあったが、旭座の旧株主たちは開館以来苦難続きのため再出資して改装工事を進めることには消極的で、布川の譲渡申し入れによって全員承諾となった。直ちに高藤建設の請負で着工した。そのとき、名勝を朝日座と改めた」(布川雄幸よりの手紙2008.9.14.)
朝日座は大映、東映を、駅前セントラル劇場が松竹と東宝、洋画を、原町映画劇場が新東宝、日活を、系列館として上映し集客を競った。
この時の布川家は二代目の義雄氏の経営。東北電力社員から興行師に転身した人物。カメラ撮影が趣味で、多くの写真を遺している。
平成18年の町村合併で、原町市は平成18年の町村合併で、南北の小高と鹿島の両町を併呑して南相馬市となった。初代市長には布川雄幸氏の甥の渡辺一成が就任した。平成20年8月、南相馬市立博物館で「朝日座の軌跡」という企画展示会が開催され、朝日座で上映されたポスターや、劇場時代の小道具なども展示された。入場者1,330人とかで、満足というべきか、すべてこれで終わりという気分です。展示のすべては博物館のスタッフで、初代実翁の芝居道具が出されて満足でした」
(同前)。この芝居道具の一部は、栄町商店街の夏祭りで原町シネマのポスター展示スペースに展示された時に見た記憶がある。博物館には、婦人会主催の興行プログラムなども展示された。
会期中に布川氏の体験談講話も行われた。三代目雄幸氏は地元石神村の農家の出身で相馬農校を突業して宮城県の農業技手となったが、映画への情熱が見込まれ布川家の婿養子に入り興行師に転身した。
昭和32年から二代目義雄から経営を引き継ぎ、上映したすべての作品名を記録したメモをもとに、キネマ旬報などで監督、撮影、音楽、出演者を調査し、「朝日座全記録」に興行状況を克明に掲載している。

渡辺徳と原町文化劇場

原町映画劇場は、昭和26年に神谷豊次郎が建設したが、のち渡辺徳氏の経営に移り原町日活=原町文化劇場として継続。渡辺は会津若松出身で、昭和22年にそれまで歌舞伎や演劇の興行から映画に転じて仙台市立町に東北一の大映画館「東北劇場」を設立。白石市内など6館のほか福島県内3館の映画館を経営。昭和35年に原町映画劇場を入手し、原町文化劇場と名を変えた。昭和54年にこれらを一斉に閉館。東北劇場跡地に駐車場を経営した。原町文化もこの時の昭和54年に閉館。直前まで、山形県出身の長沢氏が支配人として経営した。上映最後の日には、アラン・ドロンの「冒険者たち」がかけられ、場内がビデオ撮影されていた。劇場は布川雄幸朝日座社長が買取り、さらに原町シネマと改称して10年間最後の興行を行い、平成元年5月に消滅。駐車場になった。渡辺徳氏も平成元年1月14日に没した。
原町シネマは朝日座を補完する館として子供向けアニメや成人映画、時に特別企画のヨーロッパ名画なども上映した。閉館した原町シネマは取り壊されたが、わずかな一時、木戸の上に燕の巣が最後の住処にした。
●セントラル劇場の誕生
そして昭和27年5月2日に、原町第三の映画館館、セントラル映画館が開館した。昭和27年5月3日福島民報の総合版の「豆ニュース」に、次の記事がある。
〔【相馬】原町にセントラル映画館原町駅前にセントラル映画館が出来、二日から開館した。相馬には珍しく個人イスで階下は二百八十一、階上は八十一、同町の映画館は原町映画劇場と朝日座と合せてこれで三館となった。〕たったこれだけの記事だが、映画百年の年に、百年分の新聞をしらみつぶしに調査してこそ見つけ出した、わが町の活動写真史の大事な記録である。セントラル映画館は、東宝の人気映画と洋画を上映して若者の人気を集めた。記事の下には「祝独立日本」などという広告がある。前年に講和条約を締結し、翌年の5月から条約が発行。ようやく「独立主権」を認められた、そんな時代だった。県内各地の戦後の映画館に「○○中央」という名前が多い。戦後アメリカ映画を供給する会社がセントラルといったことの影響だ。セントラルあるいは「中央」という命名には戦後の響きがあった。昭和27年に発刊された「昭和26年度原町町勢要覧」の映画劇場の項目によれば、
原町映画劇場   神谷豊次郎 電話516番
朝日座      神谷豊次郎
セントラル映画館 半沢武雄 電話404番
の名が残っている。三館揃い踏みの最古の記録だ。セントラル映画館(原町中央劇場とも呼んだ)は昭和27年5月に開館したのだが、当時の「要覧」は、昭和26年度の分は26年度が終了してから26年度すぺての続計を掲載するために、翌年の27年になってから発行したので、実質的に27年度に開館した館まで含んでいるのであろう。26年度要覧に載っているからといって26年に開館した訳ではない。
昭和23年から26年にかけて、原町中学校の学芸会が朝日座でおこなわれた。お隣りの小高町でも同様で、小高町の演劇青年たちも、戦後の同時期に、小高座でアマチュア芝居を上演している。原町に「体育館」という名の、市民会館が出来たのが昭和35年のこと。苦肉の策で体育館の補助金で公開堂を建設したのだ。原町の演劇青年たち「劇団どんぐり」は、さっそく昭和36年1月7日に、市体育館で公演を行っている。
●進駐軍兵士も訪れた旭座
戦後、原町に進駐していた米軍兵士たちも、原町の映画館を訪れた。昭和23年から原町郊外の桜井の原町無線塔の塔下にレーダー基地が建設され、昭和25年には挑戦戦争が勃発し、原町空軍は量前線になった。対空機関砲が備えられ、兵士たちは防塁に囲まれたガンピットに配置されて緊迫のうちに訓練を重ねた。そして休日になると、気軽にダウンタウン(盛り場・繁華街)に繰り出しては、異国日本の田舎町を歩き回った。呼奇心旺盛な米兵たちは路地裏の朝日座にも足をむけた。朝日座の歴史について本を書いている、と手紙に書いたら、元原町空軍基地に勤務していたチャールズ・ローランド氏(カリフォルニア州モデスト市在住)も、その時の記憶を回想して返事をくれた。
I think I attended few movies in 1951-52 at the Asahiza movie House.It  had no chairs on1y tatami  mats and a few benches  to  sit  on and  it  was  very  o1d.They  had  two movie  houses  in  Haranomachi;one was  the  Asahiza, and the  other  was  a  new  one  having  seats,down  by  the  train  station.
「1951年(昭和26)から52年(昭和27)にかけて、朝日座というムービーハウス(映画館)で何回か映画を見に行ったことがあります。そこは椅子がなくて、わずかにベンチがあるだけでほとんど畳だけでした。そしてとても古かった。原町には二つ映画館があって、一つが朝日座、そしてもう一つ別な館が駅から降りてすぐそばにあって、新しい館で(中央劇場か)座席式だった」と。1995年8月18日付手紙。
原町映画劇場(のちの文化劇場、原町シネマ)は駅から、少し歩いた場所にある。ローランド氏が、駅から降りてすぐの所というのは、駅近くの洋画專門館のセントラル館(中央劇場)のことだろう。ローランド氏は、駅前の映画案内の看板を撮影しており(カラーのスライドまである)その中には、朝日座、原町映画劇場、セントラルの三館のポスターが貼ってある。ローランド氏によれば、このカラースライドは昭和28年の写頁撮影。朝日座では「続馬喰一代」25日から3日間「母の山脈」22日から3日間とある。この当時には、朝日座では3日ずつの一本立てだったようだ。残念ながら月は分からない。原町映画劇場では「モロッコ」「遊侠一代」23~24日「ママの青春」「風雲七口峠」21~22日という邦画と洋画の組合せを上映。2館とも同じ看板に掲示してあるが、後発の中央劇場は単独に別な掲示版を建ててポスターを掲示している。すべて洋画。「荒野の決闘」21~24日「ヴァレンチノ」25~27日「会議は踊る」28~30日以上は写真に写っている左から順に紹介した。
面白いのは邦画を掛けている原町映画劇場と朝日座の方が、ポスターの貼りかたが右から左へという順序で、日程もその順になっている。セントラル(われわれは中央劇場と呼んでいたが)では、さすがに洋画専門館らしく左から右への貼り方なのだ。戦後の、洋画への傾斜と欧米化の傾向が如実に現れている。朝日座はとにかく邦画専門館。セントラルは洋画専門。その間をゆくのが原町映画劇場という三者三様の行き方が覗ける写真である。
もう一人の原町基地の進駐軍兵士ディーン・ハウリー氏(ミズーリ州クリントン市)は撮影した、新築されたばかりの原町映画劇場の写真を送ってくれた。写真の中には御幣が飾られており「野馬追・歓迎原町役場」という文字の入った駅前の自由の女神像の写真と一緒に送ってくれたので、これが昭和27年の野馬追祭礼の時の写真だと分る。看板から上映映画が「アジャパー天国」花菱アチャコと横山エンタツのコンビの喜劇。「零号作戦」「妻」という組合せだ。10~11日と日程が書いてある。「妻」は東宝作晶。原作林扶芙子。脚色井手俊郎。演出成瀬巳喜男。撮影玉井正夫。主演上原謙、高峰三枝子、丹阿弥谷津子、三国連太邸。「めし」「夫婦」に続く成瀬演出は、愛情の破綻から家庭の破壊寸前にいたる夫婦の危機を客観的に描く。上原の情人になった丹阿弥好演。(昭和28年4月29日)
昭和28年の福島民報の野馬追広告に中央劇場の上映映画は載っている(「戦後の原町で上映された映画」を参照のこと)が、原町映画劇場のものは、ハウリー氏の写頁から判明した。朝日座はむしろ、純粋な邦画上映館だった。進駐軍兵士にとっては、他の洋画をやってる映画館の方になじみ深い。昭和28年の野馬追で何を上映したか不明だが、邦画だったことだけは確かだ。
●野馬追祭は映画館も賑わう
昭和27年頃からの野馬追広告には、ズラリと映画館の広告もならんでいる。浜通り相双地方のラインナップのうちの、小高、浪江、原町、中村の各映画館の昭和31年当時の上映映画は次のとおり。
10・11日続二等兵物語・婚約三羽鳥・力道山の世界征服
12日乙女心の十三夜・あの娘が泣いてる波止場・長脇差奉行
13日火花・鼠小僧忍び込み控 小高劇場
(相馬双葉の項は「朝日座全記録」より)

映画館の死は、地域の死

これら一つ一つの映画館にドラマがあった。映画館は人生の教室だった。しかしすべては過去完了の世界だ。
江戸時代から続く地芝居の仮設小屋で、みずから演じた芝居が娯楽だった。そこへ西洋の機械文明たる活動写真が渡来して百年。日本人は器用に弁士と楽士をつけて新文明を吸収消化した。ほったて小屋でまだ用が足りた。しかし昭和になってトーキーが普及すると導入できるのは経営感覚を持った資本だけ。映画は都会の娯楽であることを思い知らされる。しかし町村の小さなバラックの映画館こそが、実は日本の映画のふるさとだった。戦後の一大映画ブームとは、日本の貧しさと豊かな時代の到来がないまぜになった渦の時代だった。ここに掲げた映画館の名前の陰に読者の青春もあるだろう。
館名の由来と立地を考察すると戦後の町村合併の嵐のような跡を見る思いがする。共同体の破壊と、均質化の戦後五十年の足どりである。映画館の死は、地域の死だったのだ。
インターミッション(トイレ休憩)
黄金の映画狂時代

生まれて初めてみた映画は覚えていない。記憶の中で最も鮮明に残っているのは「月光仮面」。サタンの爪なる怪人が、砂の中に埋もれて滅んでゆくというラストシーンだけが妙に鮮やかに(カラーではないが)記憶に残っている。
「月光仮面 魔人(サタン)の爪」昭和34年1月公開。原町では2月に上映された。
どーこーの、だーだれだーかーしーらなーいけーれーどー、だれもがーみいんな、しってーいーるー、というメロデイは、原作者の川内康範の作詞。この人が福島県文学賞の受賞者であることは知っていた。高校三年の時に県教委からもらった「県文学集」の最後に載っていたからだ。
スーパーマンがテレビで人気が出た時に彼の生み出した日本のヒーローは、慈悲をたたえた日光月光菩薩から来ていることにも、
ひそかに尊敬し、作詞家として芸能界に君臨する氏がかつて我々子供のために、共感しうる見事な造型をしてくれたことへも感謝する。調べてみると原町では東映系の朝日座で昭和34年に上映されていることが分かった。昭和28年生まれの私が5才の時で、幼稚園児だった。最近、東京で看護婦をしていた叔母に尋ねたらちょうどその時期、母親の看護を理由に郷里に帰っており、幼い甥の私を映画館へよく連れていったという。
後年、ビデオ店で「魔人の爪」を発見して借りてみたが、たしかにサタンの爪は映画のラストで洞窟が崩れて死んでゆく。かくして事件は解決するが、どんな事件だったかまではまったく記憶にない。
東南アジアのある国に隠した日本軍の埋蔵金をめぐるストーリーで、敗戦色濃いこともなかろうが、時代の雰囲気は昭和三十年代にはまだ生々しい記憶が日本社会に残っており、国際スパイ小説のようなスリリングな筋立ては少年にはかなり刺激的だったに違いない。
FTVのテレポートでおなじみの原国雄アナウンサーが、子役で出ているのもこの時知った。
松竹の「山河あり」は誰と行ったか覚えていない、一人では行けないから、叔母あたりかも。ハワイ生まれの日系二世のフランキー堺が日本の軍隊に入営していじめられる。日本映画の海外ロケのはしりらしいが、鮮明に記憶に残っている。
当時の松竹は、日活上映館の原町文化劇場だったかも知れない。カップリングが裕次郎映画の全盛期だから、やっぱり叔母が連れて行ったのだろう。私に裕次郎映画の記憶はない。よほどつまらなかったのか、小学一年生の頃に、映画館からいなくなって先に帰宅したことがあり、帰り道さえ知らない筈なのに、いなくなったことに気づいて自宅周辺を探した叔母は、ずいぶんあわてたと最近教えてくれた。
小学生時代には、校庭で映画会が開催された。子供向けの漫画映画で、人力で飛んでゆくロケットの描写の荒唐無稽な滑稽さのコマが記憶にあるだけでタイトルも思い出せない。映画館で観たドキュメンタリーの自転車レース(ツール・ド・フランスのような印象の)のふらふらする疲労困憊のレーサーの映像が記憶にあるのが最も古い映画の断片だ。いずれにしても30年代のことである。
昭和36年、原町朝日座で諸国物語シリーズの「黄金孔雀城」が上映され、3歳年上の兄と一緒に見た記憶がある。第一話が6.14.~18.第二話が24.~27.。
さらには、同年の「モスラ」は、近所の原町中央映画劇場で観た。東宝「太平洋の翼」もまた兄と一緒に観た。
「モスラ」は中村真一郎、福長武彦、堀田善衛という文芸作家の共同原作。脚色関本新一。監督本多猪四郎。撮影小泉一。音楽、古関祐而。特撮監督円谷英二。主演フランキー堺、小泉博、香川京子。劇中、人気歌手の双子のザ・ピーナツが小人の妖精に扮していかにもという南洋(神秘的絶海の孤島)で生まれ育ったモスラのテーマを歌う。東京タワーに巨大な繭を作る場面も自衛隊が光線兵器(あれはレーザーなのだろうが)で攻撃するシークエンスも、目を見張る特撮で描かれる。最後には巨大な成虫の蛾になって飛翔するときにちょっと作り物の馬脚を現すが、ニューヨークの空港に舞い降りる場面などは、未知の世界を目で見せてくれる映画ならではの醍醐味だった。
時代は米ソの原水爆核実験が続き、死の灰が問題になっていた。
僕は「ゴジラ」とほぼ同じ誕生年なので劇場で初代の「ゴジラ」は見ていないが、日本を台風のコースで頻繁に襲ってくる怪獣は、その生まれた原因には米仏の南太平洋における核実験と放射能の影響があるというところに、多少の国際批判(皮肉程度ではあっても)も込められていた。
後年のアメリカ版「ゴジラ」が、アメリカではなくフランスの核実験が生み出したという説明には、卑怯であざといハリウッド精神を感じて、すごく嫌になってしまう。
「世界大戦争」も特撮ものだが、子供向けというよりもシリアスな核戦争がテーマ。脚色八住利雄、木村武。監督、松林宗林。音楽団伊く麿。特撮円谷英二。主演フランキー堺、宝田明、星由里子、音羽信子。(昭和36年10月8日)
武器使用を禁じた憲法を持つ非力な日本政府が外交で大国を説得できずに苦悩する姿が大状況で描かれる一方で、身近な日本の平凡な一市民の家庭が中心に描かれる。フランキー堺と音羽信子の夫婦が、最後の晩餐で平凡な食卓の手作りのチラシ寿司を食べる場面や、遠洋航海に出ている若夫婦の夫と、愛し合う留守宅の新妻とがアマチュア無線で、「シ・ア・ワ・セ・ダ・ッ・タ・ネ」「シ・ア・ワ・セ・ダ・ッ・タ・・・」と字幕が出て、台詞のないモールス信号で今生の別れに最後の交信をする場面の演出では思わず泣かされた。我が家の母親も誕生日には必ず手作りのチラシ寿司だったものだから、やっぱり人類最後の日にはチラシ寿司を食べるべきだろう、と。しかも映画にはメロンまで出ていた。病気でもしなければバナナも口に入らなかった頃のメロンだから、現代の最後の晩餐ともレベルが違うのだ。最後はミサイルで日本も滅ぶという暗澹たる結末。子供ながらに人類の滅亡や個人の死を意識させられ、学校の帰り道で「世界大戦争」が話題になり「死ぬって、怖いね」と近所の同級生北内政宏君と語りあった。核ミサイルのサイロの内部の描写や、ジェット戦闘機が撃墜される、ショッキングなシーンなどは、米ソ二大勢力の冷戦構造下で、第三次世界大戦の偶発的勃発の恐怖を背景に、娯楽を越えた社会的な提言にもなっていた現実感のある作品だった。
昭和37年の福島民報に「世界大戦争」「アワモリ君の乾杯!」の二本立ての東宝広告が載っている。原町中央でも近日上映とあるので、上映はこの年だろう。「アワモリ君の乾杯!」の方は、坂本九、森山加代子、ジェリー藤尾、パラダイスキング、渡辺トモ子、加東大介といった顔ぶれの「歌と恋と笑いの明朗喜劇」で、全く何の記憶の片鱗もない。姉や叔母なら、きっと喜んだに違いないのだが、小学3年生の僕には縁がなかった。特殊撮影による空想科学映画の迫力にただただ圧倒されていた。
そして「太平洋の翼」。陸軍の新鋭戦闘機の物語は、週刊サンデーや週刊マガジン(とも昭和34年創刊)、キングなどの漫画雑誌でおなじみの特集で周知している格好いいアイドル・アイテムのプラモデルの日常世界にあった。
「太平洋の翼」脚色須崎勝弥。監督松林宗林。撮影鈴木さとし。音楽伊く麿。特撮円谷英二。主演三船敏郎、加山雄三、夏木陽介、佐藤允、星由里子。紫電改の活躍を描いた特撮戦争映画。(昭和38年1月3日)
38年なら小学4年生の時だ。兄と一緒に言ったのを記憶している。ねっとりと汗ばむほどの太平洋の戦場の臨場感というのだろう。カーキ色の兵士の軍服の汚れと凛々しくも青っぽい青年将校の加山との差異が、僕らの知らない戦争が大人の世界であることを教え、加山をめぐって古参の下士官が絡み、激しい空中戦(これが模型だとは知っているが)もあり、熱中させた。クライマックスは輸送機で逃れる加山達が、航続距離を延ばすため機内の重量を少しでも軽くするのに次々に荷物を空中に投棄する鬼気迫る場面。戦友どのの遺体はどうするのか。子供ながらに息詰まるほどの緊迫感と興奮を覚えた。
これらが、あの円谷英二の特撮であることは後年知るにいたるが、怪獣映画全盛のころにはすっかり洋画に嗜好がシフトしていたから、「妖星ゴラス」あたりまではつきあった。ゴラスという浮遊惑星が地球に衝突することが予測されて、人類は英知を結集して南極に巨大なロケット噴射基地を建設する。ところが、その熱でオットセイの化け物のような巨大怪獣が現れるという、いかにも唐突な怪獣出現が、怪獣を出すためのわざとらしい筋立てだなと、子供ながらに批評心の芽生えも自分の中に感じていた。妖星ゴラスでは、たいてい壊される東京タワーが、水没して上空から見下ろす場面が撮られている。
「妖星ゴラス」原案丘美丈二郎、脚色木村武。監督本多猪四郎。撮影小泉一。特撮監督円谷英二。
しかしSFものなら何でもよかった。文庫本をむさぼり読む時代に入っていたから、中三の修学旅行土産は東京三越の書店で田舎で入手できない創現推理文庫ミステリとSFで占められた。この時、浅草松竹でラインダンスの前に「ギララ」を観た。これは円谷の作品ではない。当時の新聞では松竹にしては特撮の宇宙船がよく出来ていると評判だったらしいが、奥さんの尻に敷かれっぱなしの父親が、最後に男の意地と勇気を見せるという大船調には辟易したのを覚えている。やっぱり格好いい東宝の怪獣映画の方がいいな、と。
私の映画史研究とは、いわば幸福な記憶への遡上である。個人の記憶からさかのぼって、町の歴史や国の歴史にまでたどる、もっとも身近な素材が映画の話題だ。映画館はあらゆる文化の教室であった。人情も世情もファッションもすべて映画から得た。田舎暮らしの少年にとって映画館は世界に通じる覗き窓である。
テレビが家庭に入ったのも、昭和36年頃だから、映像情報こそは、飢えた好奇心を満たす唯一無二のツールであった。
戦争を知らず、安保も大学紛争も知らない世代のぼくには、テレビと映画が、同時代体験なのである。

自衛隊しか出てこない円谷映画

奇妙に思うのは、ゴジラもモスラもその他の怪獣も、宇宙人の侵略でも、被害を受ける日本で反撃するのは自衛隊だけだ。状況からすれば、より強力な武力を持っていたのは在日米軍のはずで、しかし一切アメリカ軍は出てこない。自衛隊だけの防衛は監督や円谷のプライドだったのだろう。
印象的なのは昭和三十年代の映画に日本の地方色を出すのにしきりと相馬民謡が登場することだ。「警察物語」でも円谷の特撮映画でも、それが日本の原像のようにくりかえし出てくるのは、福島県というのが、かっこうの田舎であることだからだ。
時代劇にはロケーションが必需であるが、ここでもわがふるさとは、騎馬武者の里、野馬追で有名な原町市の特殊性が役立った。
映画史への貢献があるとすれば、小銭を投じてきた側の庶民の受容こそが、おおきな要素である。その代表が巨大なメデイアとしての映画館だろう。
あれだけお世話になっていながら、消え去る映画館への惜別もなく、その履歴もしれずに滅んでいった館たちへの感謝と追悼をこめて、本書を映画館の霊たちに捧げる。
小学校で、ぞろぞろと映画館に連れて行かれて映画を見る鑑賞というのがあった。
文部省特選という強大な文字が映し出される。
「母ちゃん死ぐのいやだ」という母ものでは、朝日座の二階桟敷を覚えている。長男はショートケーキを、弟は湯たんぽを母親にプレゼントするが、感激した母は二人を抱きしめ、思わずケーキを踏みつぶしてしまうという滑稽に、客席がどっと笑う。日本的で道徳的な母ものだったので、学校が選定したのであろうが、自分から撰んで見る作品ではない。
中学校になると、洋画が主流になった。文化劇場でみた「天地創造」は、旧約聖書のユダヤ教の始祖アブラハムのエピソードまでが描かれる。「風と共に去りぬ」では、あふれ返った観客の頭しか観ていない。
中学校では映画鑑賞のための積み立てをしていたはずで、これでは何を観にきたのかわからない。授業はまったく覚えていないのに、当時みた映画は完全無欠の保存用記憶になっている。
「風と共に去りぬ」(42)「天地創造」は原町文化劇場で上映。「サウンド・オブ・ミュージック」(45)もたぶんここだ。たちまちジュリー・アンドリュースにぞっこんになる。最初のキャステイングではオードリー・ヘップバーンだったそうである。しかし、ミュージカルである以上、歌のうまい女優でなければでなければでなければならない。兄貴が、どこからか借りてきた「サウンド・オブ・ミュージック」のサントラ盤レコードを従兄のステレオで聞いていたような気がする。ちなみに僕が生まれて初めて買ったレコードは、日本でロケ撮影された「007は二度死ぬ」の主題歌をナンシー・シナトラが歌うドーナツ盤だった。
中学3年、テレビでナポレオン・ソロが人気を呼び映画「電撃フリントGO!GO作戦」(42.9.6.~9.12.ジェームズ・コバーン主演)が007のエピゴーネンとして朝日座にかかった。またフランスの「ファントマ・ミサイル作戦」(43.8.21.~8.27.ミレーヌ・ドモンジョ出演)の華麗なる洋画は、ぼくの映画熱に火をつけた。
木戸を出るとき、館の窓口で何かパンフレットがあったら下さい、と思い切って言ってみた。館の人はやさしく「みんなに宣伝するんだよ」と言って、記念にくれたのが大判の美麗なパンフであった。
こうしてぼくの映画ライフが始まった。
高校生になって「橋のない川」フランシス・レイ作曲の「白い恋人たち」(44.6.18.~6.24.)、オリビア・ハッセーの「ロミオとジュリエット」(44.8.6.~8.12.)、「卒業」(44.9.10.~9.16.)、「ベン・ハー」(44.12.3. ~12.9.)、アラン・ドロンの「あの胸にもう一度」、ルノー・ベルレーの「個人教授」、ルイ・ド・フィネスの「パリ大混戦」(45.1.9.~1.14.)、「マンハッタン無宿」(45.7.1.~7.7.)、などが、洪水のように僕に押し寄せてきた。大人たちの「原町市よい映画を見る会」などで「沖縄」「金環食」「戦争と人間」などが上映され、合評会というのがあると、たいてい出席した。
館主はときどき、「ウエストサイドストーリー」(47.12.27.~48.1.2.)や「象物語」などのチラシを作るレイアウトの手伝いで小遣いをくれたり招待状をくれた。たまに遊びに行くと、これはいい映画だから見て行け、と入れて貰ったりもした。
私の在校した原町高校は、昭和23年に商業学校と女学校とが合併して男女共学となり、戦後の一時期割と自由な気風で映画鑑賞は盛んだった。学校での映画鑑賞の時間があったし、学校新聞にも昭和32年頃まで映画広告や映画評が載っている。昭和25年頃に公民館を核に映画愛好会に参加した松浦圭子さんや、連続短編映画を楽しんでいた浜野博充さんら先輩に聞くと、学校から映画館に出向いて洋画上映を要請したり割引を交渉したという。けれども昭和44年に入学した僕らの時代には、県下でも10位ぐらいを低迷するレベルのくせに地域で一番、唯一の進学校といういわれのない自意識があって、生徒の中にも映画を語るような気風は全くなかった。職員室には、映画なんて勉強の邪魔になるとばかりに、硬直した空気だった。映画鑑賞の時間もなければ学校推薦で名画や新作を見る機会もなかった。校門で朝日座館主が割り引き券を配っていて、「ロミオとジュリエット」では校内で配る事が許可された。だから自然と、学校よりも映画館の方が、僕にとってはるかになじみの教室だった。多感な青春時代に映画を見ないで、いつ見るのだろう。共通の話題も欠損するではないか。。
昭和46年春、僕は上京して大学生の頃、墨田区のアパートに住み、近くの従姉の家で食事をさせてもらったり、最初テレビも見せて貰っていたが、従姉の夫が白黒テレビのお下がりをくれた。当時まだ石油ショックが来てはいなかったから、深夜放送で古いB級アメリカ映画を盛んに放送していたのを夜更かししてずいぶん見た。もともと白黒映画だから十分間に合ったのである。ある日「今晩、トラ・トラ・トラをやるぜ。」と呼ばれて見に行った。大学構内では「ゲッタウエイ」や「けんかえれじい」などが自主上映されていた。安い名画座で、シャルル・ボワイエなんかを見てた。話題のテレビ・シリーズ「ルーツ」は、叔母の家で見せてもらった。
大学を出てから田舎暮らしで唯一のレジャーはやはり映画で、朝日座館主は「暗闇にベルが鳴る」(51.3.13.~3.26.)「レニーブルース」(51.7.14.~7.19.)の映画評を書かせてくれたり、看板のポスター張りを手伝ったこともある。館主にはきれいな娘さんが二人おり、いっそのこと朝日座に就職したいな、などと思ったりもした。

映画館の黄昏時代
福島県内の映画館百年史より

(福島県内の)各館の名前をながめるだけで、当時の映画黄金期がしのばれる。
老舗の日活はさすがに強く、たとえば昭和38年頃の系列は、次のとおり。
福島、郡山、若松、平の封切館をはじめ、石城座、須賀川中央、白河中央、中村メトロ、二本松会館、常磐日活、内郷綴映劇、植田館、本宮中央、小高国際、川俣座、飯坂旭座、保原劇場、福島国際、名画座、郡山映劇、江名朝日館、勿来錦館、棚倉映劇、小野新町会館、三春座、坂下栄楽座、高田栄楽座、桑折劇場、梁川広瀬座、四倉文化、猪苗代新開座、只見トキワ館、小川栄楽座、中之沢劇場、熱海座、樋の口劇場、川桁映劇、郡山富士館、大越劇場、喜多方中劇、四倉国際、郡山ロマンス、田島栄楽座、坂下銀星、白河中央スター、原町文化、平館など。

大映系には、喜多方銀星、原町朝日座、中村新開座、内郷第二、小高座、小名浜磐城座、平世界館、須賀川座、湯本三函座、白河みどり座、須賀川ピオニ、小名浜国際、三春昭和館、江名江楽座、郡山東洋など。

東宝系では、平民衆劇場、湯本座、喜多方文化、白河劇場、高田日吉館、グランド銀星、若松グランド、原町中央、中村中央、テアトル郡山、福島第一、会津東宝など。

東映系の広告は少なく、県下の映画館の独自の館名を無視して、地域名に社名をくっつけて「○○東映」という命名を押しつけるなど、他社との摩擦を産むような高圧的な営業が目立った。
封切り館や二番館のほかに、系列に縛られない自由館もあった。終戦直後の平ひかり座や短命の若松ニューパレス、湯野が飯坂に合併されて改名した温泉劇場など、地域でのみ親しまれた館もあった。
たとえば、今はない相双地方の長塚亀楽座、新山会館、大野劇場、川内劇場、夜の森劇場、竜田劇場、木戸劇場、久ノ浜劇場、請戸劇場、鹿島劇場、浪江中央劇場など。ふりかえって、こんなに小さな町まで映画館があたのかと驚くほどの普及率である。
そしてすぐ斜陽の時代がやってきた。
昭和四十年代、時期の早い遅いはあっても、百九十を数えた映画館はバタバタと店じまいして五十数館までに現象することになる。

テレビ放送とチャンネル殺人事件

昭和30年代は、映画館という巨大なメデイアの全盛期だった。殊に33年はそのピークにあたり、全国に九千館、福島県内だけで190館の映画館が軒を並べてひしめいていた。
やがて映画の魔力は、テレビの出現によって取って代わられる。
福島県下では昭和34年3月にNHK福島局が、38年4月にはFTV福島テレビが開局し、本格的なテレビ時代を迎えた。
この直後の38年5月に、とんでもない事件が起こる。
須賀川国立療養所で、テレビのチャンネルをめぐり患者の間でトラブルとなり、殺人事件に発展した。
加害者の映写技師Wは、同じ入院患者のUさんの胸を刃渡り10センチの果物ナイフで突き刺した。間もなくUさんはショック死。
Uさんらは夕食が終わってから入院患者ら約20人と、テレビで野球を見ていたが、そこへWさんがやってきて勝手にチャンネルを回したのでUさんが注意したことから二人は激しい喧嘩となった。Uさんが便所に行ったところ、Wは自室から果物ナイフを持ち出して廊下で待ち伏せ、いきなりUさんを突き刺したというもの。
この日は、昼にもテレビのことで二人の間で口論となり、WはUさんにやりこめられていたという。
チャンネル争いといっても、福島県ではこの当時やっと二局になったばかりのことである。
さらに同月には常葉町小檜山字狼ノ神の老婆がテレビのプロレス中継を見てショック死した。農業白岩ナツさん(70)が夕食後、家族と一緒に福島テレビで放送された世界選手権者ザ・デストロイヤー対力道山の試合を見ていたが、力道山がデストロイヤーに頭を割られ、血を流して試合を続けていた場面で、孫を抱きながら画面を見ているうちに気持ちが悪くなり、心臓が苦しいと訴えた。常用の心臓病の薬を飲んだが、8時55分頃に亡くなった。
この当時、フレッド・ブラッシーが力道山にかみついた流血場面でショック死するなどナツさんのほかにも日本全国でテレビのプロレス中継を見ていて死んだ老人が相次いだ。
時代は、確実に映画館から家庭用のテレビ中心へと移行したのである。
劇場型のリュミエール式キネマトグラフから、個人が覗くエジソンのキネマスコープへの逆行現象かも知れない。

テレビ・ビデオ普及で経営困難に

昭和40年代から50年代にかけてのテレビの普及が、人々を劇場から家庭へと囲い込んだ。
ビジネスチャンスは、ただ見るだけの客から、みずから動いて楽しめるボウリング場などへの投資ブームに移ってゆき、やがてこれも映画館乱立と同様の末路をたどる。
映画館は解体されて、駐車場やスーパーに変身してゆく。
とどめの一発は、60年代のホームビデオの普及だった。
手元にあるNTTのタウンページで県下の映画館・劇場の項目をひいてみると、福島市には駅前東映、東宝劇場、東宝スカラ座、福島フォーラム1、2、3、4というところ。これが県下の映画産業の雄都であった街なのかと目を疑うほどだ。
郡山は、旧来館を統合してアートパレス1、2、3、4と、テアトル1、2、3、4に再生した。
須賀川市には須賀川座と中央館の二館がったが、昨年(95年)須賀川座が閉館してテナントを募集。館スペースを活用して再出発の明日開業という時に火災が発生、全焼した。
世の中、重厚長大から軽薄短小へというビジネス・トレンドの変化の通り、劇場経営は困難になった。しかし庶民が求めるのは、ソフト(内容)である。
当世にぎやかなレンタル・ビデオ店は昭和三十年代に流行した貸本屋と同じスキゾ(すき間)産業なのだが、映画人口は、映画からそっくりテレビとビデオに移ったにすぎない。
タウンページで中通りほかのレンタル・ビデオ店の数をカウントしてみた。
福島20、郡山29、白河市3、須賀川市5、二本松市4、保原町2、梁川町1、本宮町1、小野町1、常葉町1、船引町3、石川町1、浅川町1、鏡石町1、棚倉町2、矢吹町3、西郷村1などとなっている。
いわき市の映画館はグリーン劇場、聚楽館、平スカラ座、平テアトル、平東映1、2、平東宝、平ロマン劇場、東映24ビル、名画座、ローズ劇場。ピンク映画で生きのびている館もあるが、館数では県下一だ。
浜通りのレンタル・ビデオ店の数はいわき市21、原町市6、相馬市2、富岡町3、浪江町2。
会津に生き残っている映画館は、会津東宝、会津労映、栄楽座、栄楽プラザ、東映栄楽座、みゆき座、若松大映(以上、若松)、銀星座(坂下町)など。ビデオ店は若松9、喜多方3、坂下1、猪苗代1、只見2。
書店その他の店でレンタルを行っているところもあるから、実数はもっと多いだろう。アトランダムに拾っただけで網羅した情報ではなさそうだが、ともあれ、かつての映画館の普及の度合いに重なっている分布を見る思いがする。(「ふくしまの映画館百年史」96.3.)

残映の中の映画館の長い影

昭和39年(1964)
東京オリンピックの年。
松竹「五弁の椿」「香華」を1本立て。東映「越後つついし親不知」「鮫」「仇討」を1本立て。日活「潮騒」「「肉体の門」「赤い殺意」ロングラン。「愛と死を見つめて」が話題に。
62年の制作本数25本、63年には69本だったピンク映画が、この年213本と急増。武智鉄二「白日夢」「紅閨夢」が松竹系でヒット。映倫への批判も。全国の映画館5000軒を切る。外国映画輸入自由化。8.17.佐田啓二38歳で事故死。
キネ旬ベストテン①砂の女②怪談③香華④赤い殺意⑤飢餓海峡⑥越後つついし親不知⑦傷だらけの山河⑧甘い汁⑨仇討⑩われ一粒の麦なれど
外国映画①かくも長き不在②突然炎のごとく③去年マリエンバートで④パザジェルカ⑤アメリカ アメリカ⑥家族日誌⑦軽蔑⑧トム・ジョーンズの華麗な冒険⑨沈黙⑩ハムレット

昭和40年(1965)
全国入場者3億7,300万人。映画館数4,649。本宮式映画教室が「こころの山脈」製作。東宝が配給を援助。東映は1本立て興行が惨敗。「網走番外地」好成績。
「市民ケーン」「戦争と平和」「大地のうた」「偉大な生涯の物語」「サーカスの世界」「ダンケルク」「脱走特急」「マイ・フェア・レデイ」「わんわん物語」「大列車作戦」「サウンフォ・オブ・ミュージック」「人類学入門」「他人の顔」「白い巨塔」ほか若大将シリーズがヒット。「黒い雪」警視庁が告発送検で映倫強化。「東京オリンピック」公開。年内に2000万人動員。河野発言で紛糾。映画人口4億台をきる。エロダクション制作本数、年間220本。
40年キネ旬ベストテン①赤ひげ②東京オリンピック③日本列島④にっぽん泥棒物語⑤証人の椅子⑥冷飯とおさんとちゃん⑦恐山の女⑧ブワナトシ⑨悪党⑩水で書かれた物語
外国映画①8 1/2②明日に生きる③野望の系列④柔らかい肌⑤メアリー・ポピンズ⑥コレクター⑦その男ゾルバ⑧赤い砂漠⑨サウンフォ・オブ・ミュージック⑩素晴らしきヒコーキ野郎

昭和41年(1966)
全国入場者3億4,500万人。映画館数4,296。松竹「白昼の通り魔」「本能」「女のみずうみ」が評価。「紀ノ川」「おはなはん」興行成功。東宝「クレージー大作戦」「エレキの若大将」好調。東映、やくざ映画に切り替え。日活「絶唱」「愛と死の記録」「四つの恋の物語」ヒット。洋画輸入自由化3年目。デイズニー「メリーポピンズ」「アルジェの戦い」「欲望」「わが命つきるとも」「戦争は終わった」「ドクトル・ジバゴ」「グレート・レース」「ネバダ・スミス」「テレマークの要塞」「サンダーボール作戦」「バルジ大作戦」「戦争と平和」「上意討ち」「智恵子抄」「日本のいちばん長い日」「人間蒸発」など話題に。
2月、黒沢プロ、東宝から独立。米で「暴走機関車」制作発表。ウォルト・デイズニー死去。三船敏郎「グランプリ」出演。この年、深夜興行全国に広がる。経営多角化でボーリングブーム。
キネ旬ベストテン①白い巨塔②エロ事師たち 人類学入門③紀ノ川④湖の琴⑤他人の顔⑥アンデスの花嫁⑦本能⑧こころの山脈⑨白昼の通り魔⑩女の中にいる他人
外国映画①大地のうた②市民ケーン③幸福④奇跡の丘⑤男と女⑥パリは燃えているか⑦マドモワゼル⑧小間使いの日記⑨ドクトル・ジバゴ⑩戦争と平和

昭和42年(1967)
全国入場者2億3,100万人。映画館数4,119。洋画輸入攻勢。松竹は独立プロの「智恵子抄」が最高で、東宝は「日本の一番長い日」成功。「クレージー」「若大将」好調。大映は「座頭市」好調。東映は長編アニメ「少年ジャックと魔法使い」「サイボーグ009」「ひょっこりひょうたん島」「魔法使いサリー」好評。
「グラン・プリ」「プロフェッショナル」に続きマカロニ・ウエスタン「夕陽のガンマン」日本ロケの「007は二度死ぬ」が稼いだ。
「俺たちに明日はない」「ベトナムから遠く離れて」「ロミオとジュリエット」「女体の神秘」「完全なる結婚」「女の歓び」「白昼の幻想」「質屋」「ユリシーズ」「風と共にに去りぬ」「絞首刑」「黒部の太陽」「初恋地獄編」「首」「肉弾」「神々の深き欲望」など公開。
7.19.「黒い雪」に無罪判決。9月、大映負債54億円。独立プロがんばる。ベストテン半数以上は独立プロ。11月三船プロ、石原プロの「黒部の太陽」完成。11.9.幻の原爆映画返還、戦中映画1385本も。大映危機で経営若返り。
キネ旬ベストテン①上意討ち②人間蒸発③日本のいちばん長い日④乱れ雲⑤花岡清州の妻⑥智恵子抄⑦愛の渇き⑧あかね雲⑨なつかしき笛や太鼓⑩忍者武芸帳
外国映画①アルジェの戦い②欲望③戦争は終わった④わが命つきるとも⑤気違いピエロ⑥ふたりだけの窓⑦仮面ペルソナ⑧夜の大捜査線⑨戦争と平和 完結編⑩真実の瞬間

昭和43年(1968)
全国入場者3億1,800万人。3,814館。ピンク映画館260館。邦画5社の主流は「任侠」「喜劇」「現代アクション」「セックス」の4路線に集約され特にセックス路線が台頭する。日活は制作費削減で外部プロに委託製作。
「暗くなるまで待って」「アンナ・カレーニナ」「招かれざる客」「しのび逢い」など女性映画ヒット。「2001年宇宙の旅」「華麗なる賭」「カスター将軍」「続・夕陽のガンマン」「ドリトル先生不思議な旅」「ローズマリーの赤ちゃん」「アポロンの地獄」「真夜中のカウボーイ」「Ifもしも」「橋のない川」「心中天の網島」「少年」「男はつらいよ」「かげろう」
2.17.「黒部の太陽」封切り大ヒット。
3.1.日活鈴木清順監督契約打ち切り。6月、ATG1000万円制作へ。7月、大映、田宮二郎馘首。11.23.日本映画復興協会「祇園祭」を公開。
キネ旬ベストテン①神々の深き欲望②肉弾③絞首刑④黒部の太陽⑤首⑥初恋・地獄編⑦日本の青春⑧燃えつきた地図⑨人生劇場 飛車角と吉良⑩吹けば飛ぶよな男だが
外国映画①折れたちに明日はない②ロミオとジュリエット③質屋④マルキ・ド・サドの演出のもとにシャラントン精神病院患者によって演じられたジャン・ポール・マラーの迫害と暗殺⑤2001年宇宙の旅⑥卒業⑦男性・女性⑧異邦人⑨ベトナムから遠く離れて⑩召使

昭和44年(1969)
映画館3,600に。最盛期の半分以下。
「イージー・ライダー」「明日に向かって撃て」「サテリコン」「トラトラトラ」邦画では「地の群れ」「エロス+虐殺」「戦争と人間」「家族」「どですかでん」
68年から「ハレンチ学園」シリーズが映画化。ハリウッドではニューシネマが台頭し、日本では漫画も映画もエロ路線が主流に。映画人口3億台を割る。戦後最低。「黒い雪」無罪確定。「風林火山」大ヒット。7.2.成瀬巳喜男死去。7.17.市川雷蔵死去。8.27.「男はつらいよ」第一作登場。12月、ソニーがビデオプレーヤー開発。
キネ旬ベストテン①心中天の網島②私が棄てた女③少年④かげろう⑤橋のない川⑥男はつらいよ⑦ベトナム⑧新宿泥棒日記⑨続・男はつらいよ⑩風林火山
外国映画①アポロンの地獄②真夜中のカウボーイ③Ifもしも④ウイークエンド⑤ローズマリーの赤ちゃん⑥泳ぐひと⑦できごと⑧フィクサー⑨ジョンとメリー⑩さよならコロンバス

昭和45年(1970)
映画人口2億4,800万人。映画館3,249。
「私は好奇心の強い女」「ライアンの娘」「屋根の上のバイオリン弾き」「小さな巨人」「続・サルの惑星」「サウンド・オブ・ミュージック」「クリスマス・ツリー」「女王陛下の007」「ひまわり」「ネレトバの戦い」「シシリアン」「シェーン」「チップス先生さようなら」「さらば夏の光」邦画では「婉という女」「儀式」「いのちぼうにふろう」「沈黙」
1月、日活本社ビル売却。4.1.大阪で初の国際映画祭。6.8.日活と大映がダイニチ配給を設立し邦画4系統に。6月、国立フィルムセンター開館。映画人口2億五千万に接近。戦後最低。パラマウントとユニバーサルが海外配給のCICを設立一本化。メトロ(MGM)も縮小。低コストの「イージーライダー」などニューシネマ台頭。アメリカ映画不作。往年の大作、名作のリバイバルのほか新作では「トラ・トラ・トラ」大ヒット。
キネ旬ベストテン①家族②戦争と人間③どですかでん④エロス+虐殺⑤地の群れ⑥無常⑦影の車⑧男はつらいよ望郷編⑨橋のない川第二部⑩裸の十九歳
外国映画①イージー・ライダー②サテリコン③Z④明日に向かって撃て⑤M☆A☆S☆H⑥テオラマ⑦王女メデイア⑧冬のライオン⑨地獄に堕ちた勇者ども⑩ひとりぼっちの青春

斜陽の中の映画館
閉館相次ぐ県内の映画館

昭和46年6月現在の福島県興行環境衛生同業組合の組合員名簿から、当時の映画館と経営者、支配人の氏名を紹介しよう。
福島支部(16館)
福島駅前国際 千葉茲三 千葉きよ
福島国際パール 千葉茲三 千葉きよ
福島松竹 東日本松竹㈱ 大矢浩
第一東宝 佐藤親之助 佐藤昌市
福島日活 太陽企業㈱ 管野弘行
福島大映 大映興行㈱ 江崎晃生
福島駅前東映 東北東映興行㈱ 金子邦司
福島日本劇場 東宝東部興行㈱ 荒井良司
二本松会館 管野恭雄 管野恭雄
本宮中央館 坂詰政雄 坂詰政雄
保原劇場 佐藤美喜男 佐藤美喜男
川俣座 斎藤弘治 斎藤弘治
広瀬座 新井千恵子 渡辺昇
温泉劇場 斎藤弘治 斎藤弘治
飯坂シネマ 高橋荒 高橋荒

郡山支部(19館)
駅前テアトル 安達政雄 今泉金吉
郡山映劇 安達政雄
ロマンス座 安達政雄
郡山ピカデリー 安達政雄
郡山日劇 東和興行㈱ 斎藤武彦 斎藤二一
グランド富士館 荒川義明 荒川義明
東洋劇場 五十嵐宏忠 高坂弘次
東映パレス ㈱アートパレス 金子隆久 金子政憲
大勝館 東和興行㈱斎藤武彦 神津和夫
須賀川中央 石井篤二郎 石井敬三
須賀川座 山口和男 棚愚痴和男
須賀川ピオニ 深田徳寛 広瀬吉夫
白河中央スター 笠井清 笠井尚捷
白河劇場 荒川清司 荒川清司
白河みどり座 関根重太郎 関根重太郎
猪苗代新開座 田中洋介 田中洋介
小野新町会館 羽田喜兵衛 羽田喜兵衛

若松支部(9館)
若松大映 大崎四郎 板橋福太郎
栄楽プラザ ㈱栄楽座 川内経広 渡部彦太郎
洋画日活 長谷川興行㈱ 川内経広 渡部彦太郎
若松松竹 東日本松竹興行㈱ 沼倉忠
会津東宝 本田トシオ 吉川三郎
喜多方中央 喜多方興行㈱ 長谷川講話三 長谷川講話三
喜多方文化 喜多方興行㈱ 長谷川講話三 長谷川講話三
高田新富座 江川雄造 江川雄造
坂下銀星座 藤本誠寿郎 藤本誠寿郎

いわき支部(18館)
アポロ座 高橋常作 高橋邦夫
ひかり座 ㈱平銀座興行 堀江正敏 堀江正敏
聚楽館 飯田俊輔 菊池直治
平東映 ㈲トーエー企業 佐藤常雄 愛川政晴
平名画座 ㈲名画座 鈴木矯二 鈴木矯治
平大映 大一興行㈱ 橋場広志
平東宝劇場 東宝東部興行㈱ 中村幸夫
三函座 白石弘 白石弘
常磐日劇 上野久道 上野久道
湯本金星座 田中春男 田中靖男
小名浜国際 小野幸子 小野幸子
銀星座 田中ヨシ 田中ヨシ
金星座 田中ヨシ 田中ヨシ
磐城座 小野睦夫 小野睦夫
菊田館 酒井カネ 酒井秀雄
うえだ館 山際丑太郎 丑太郎
植田ロマンス 山際淑 山際淑
植田中央 山際丑太郎 山際丑太郎
注。昭和44年の全国映画館名簿には、
東宝民衆劇場 平字紺野町 東宝頭部興行 支配人河野学 技師長佐藤宗伯
世界館 平字白根町 第一興行 橋場広志・足助利雄
四倉国際劇場 四倉町本町 吉田定雄・坂内・坂内
久之浜劇場 久之浜町 新妻次雄 同 同
など4館も載っている。
相双支部(6館)
浪江中央 島田有造 鈴木一意
富岡劇場 吉田定雄 梅内政治
朝日座 布川雄幸 布川雄幸
原町文化 渡辺徳 高橋篤
相馬新開座 相馬興行 山田正一
金竜館 磯ヶ谷清吉 磯ヶ谷清吉
注。金竜館は相馬市原釜大津186。
昭和44年の全国映画館名簿に
小高劇場 小高町字荒町 梅内勲 吉田道夫・中野昭三
とある。

昭和46年(1971)
映画人口2億2,000万人。映画館3,000館。
11月末、大映倒産。30年の歴史に幕。直営館だった福島映劇では、その後、松竹・東宝の常設館として再スタート。オーナーは六車昭。父親も映画畑で活躍。映画関係二代目だ。昭和26年に大映入社。セールスマンを振り出しに映画会の浮沈を経験してきた。
日活はポルノオンリーに。東映のみ黒字経営。ダイニチ配映は1年3ヶ月で終止符。
外国映画のリバイバル・ブームで「アラビアのロレンス」「荒野の七人」「「エデンの東」「卒業」ヒット。「ある愛の詩」「小さな恋のメロディー」世界的ヒット。「時計仕掛けのオレンジ」「死刑台のメロディー」「ゴッドファーザー」「ラスト・ショー」「エルビス・オン・ステージ」「栄光のル・マン」「チャイコフスキー」「トラ・トラ・トラ」「狼の挽歌」邦画では「軍旗はためく下に」「約束」「忍ぶ川」「故郷」など。
8.17.東映大川社長死去。岡田新社長に。11.20.日活転身ロマンポルノ開始。12.21.大映倒産。12月、黒沢監督自殺未遂。
キネマ旬報ベストテン①儀式②沈黙③婉という女④戦争と人間第二部・愛と悲しみの山河⑤いのちぼうにふろう⑥真剣勝負⑦やさしいにっぽん人⑧男はつらいよ・寅次郎恋歌⑨書を捨てよ町へ出よう⑩八月の濡れた砂
外国映画①ベニスに死す②ライアンの娘③小さな巨人④わが青春のフロレンス⑤バニシング・ポイント⑥屋根の上のバイオリン弾き⑦哀しみのトリスターナ⑧ファイブ・イージー・ピーシズ⑨告白⑩ボクサー
「わが青春のフロレンス」のマリア役オッタビア・ピッコロにひかれた。初期のアナーキズム運動家とイタリア状況に理解深める。「ベニスに死す」のブルックナーは殊によい。美少年にひかれる老音楽家の片思いの悲哀。ただしイタリア語じゃなくて英語なのが残念。ダンステイン・ホフマンもご贔屓である。「小さな巨人」はハリウッドのインデイアン映画を越えてアメリカ文化交雑の歴史に迫る。
昭和47年(1972)
映画人口1億8,700万人。映画館2,673館。
3月、藤純子引退。引退記念の「関東緋桜一家」大ヒット。東映「女囚701号、さそり」が記録的ヒット。梶芽衣子が一躍スターダムに。警視庁が日活ロマン・ポルノ3本を押収。田中真理、白川和子、片桐夕子、小川節子、伊佐山ひろ子などポルノ・スターが確固たる人気築く。「戦争と人間」が長期深夜興行で盛況。「ゴッドファーザー」が大記録。6月チャップリン映画10本を「ビバ!チャップリン」として公開。第一弾「モダンタイムス」大ヒット。
「ダイヤモンドは永遠に」「ひきしお」「モダン・タイムス」ヒット。
キネ旬ベストテン①忍ぶ川②軍旗はためく下に③故郷④旅の重さ⑤約束⑥男はつらいよ柴又慕情⑦海軍特別少年兵⑧一条さゆり・濡れた欲情⑨サマー・ソルジャー⑩白い指の戯れ
外国映画①ラスト・ショー②フェリーニのローマ③死刑台のメロディ④時計仕掛けのオレンジ⑤わらの犬⑥真夜中のパーティー⑦ジュニア・ボナー華麗なる挑戦⑧ゴッドファーザー⑨キャバレー⑩フレンチコネクション
キューブリックは文句なく好きだ。特に「時計仕掛けのオレンジ」。東京で大学生活していた頃なので、新聞のテレビ欄に大きな「ゴッドファーザー」広告が毎日出ていたのを目撃した。
昭和48年(1973)
映画人口の下降がストップ。1億8,478万人。映画館2,530館。
「ポセイドン・アドベンチャー」大ヒット。「ゲッタウエイ」「バラキ」もヒット。「フォローミー」「街の灯」「十戒」「ベン・ハー」「死ぬのは奴らだ」など上映。
1.7.入場税10%から5%に引下げ。チャップリン映画ヒット。MGM映画部門縮小。「忍ぶ川」などに優秀映画奨励金。8月、邦画大ヒットで始めて正月興行上回る。11月、石油危機で平日の午前興行中止。ジョン・フォード、ジャン・メルビル、早川雪州死去。
キネ旬ベストテン①津軽じょんがら節②仁義なき戦い③青幻記・遠い日の母は美しく④股旅⑤恍惚の人⑥四畳半襖の下張り⑦戒厳令⑧仁義なき戦い 代理戦争⑨男はつらいよ寅次郎忘れな草⑩戦争と人間 完結編
外国映画①スケアクロー②ジョニーは戦場に行った③ブラザーサン・シスタームーン④ブラザーサン・シスタームーン⑤ポセイドン・アドベンチャー⑥マクベス⑦探偵スルース⑧激突!⑨LBジョーンズの解放⑩ラスト・タンゴ・イン・パリ
このころパニック映画のブーム。「タワリング・インフェルノ」も記憶に残る。原町文化劇場で何せフィルムを逆回しに映したので音声が中国語みたいに聞こえたというハプニングがあったな。
昭和49年(1974)
ヒット作多く、映画再興の年。
郡山駅前の松竹東洋劇場が閉館。日活が経営権を譲り受けて郡山日活劇場としてオープン。23年ぶりに福島市に新館誕生。福島は一挙に10館に。福島東宝ビルが、福島日劇跡地に建設。福島東宝劇場、百恵三浦友和「ふりむけば愛」森昌子「お嫁に行きます」、福島スカラ座「サタデーナイト・フィーバー」「ファーストラブ」で開幕。
1月「日本沈没」大ヒット。「エクソシスト」が話題に。「人間革命」創価学会の動員でヒット。「リスボン特急」「パピヨン」「ゲッタウエイ」ヒット。ブルースリーの「ドラゴン危機一髪」「ドラゴン怒りの鉄拳」などブームに。
相馬市の唯一残っていた新開座が閉館。
原町朝日座で「ああ、決戦航空隊」上映。ロビーで第一回かむ風特攻隊員中野磐雄の遺品展示。(11.20.~11.26.)
9.21.山本嘉次郎死去。10.17.田坂具隆死去。12月城戸四郎に菊池寛賞。11.25.東映、暴力団との癒着摘発される。
キネ旬ベストテン①サンダカン八番娼館望郷②砂の器③華麗なる一族④青春の蹉跌⑤竜馬暗殺⑥わが道⑦仁義なき戦い 長上作戦⑧襤褸の旗⑨赤ちょうちん⑩妹
外国映画①冬の光②叫びとささやき③映画に愛をこめて アメリカの夜④ステイング⑤アマルコン⑥ブルジョワジーの密かな愉しみ⑦ジーザス・クライス・スーパースター⑧黒い砂漠⑨デリンジャー⑩エクソシスト
恐怖映画の系譜で「ダミアン」シリーズも怖かったが、「キャリー」が最も怖かった。映画に仕掛けがしてあって、客が座席から十センチ飛び上がった瞬間をぼくも体験した。
多摩美大の友人が「日本沈没」セット製作のアルバイトをして、その精緻さに驚きぼくは映画がいかに金がかかっているかを知る。

洋高邦低の映画前線

昭和50年(1975)
映画人口再び下降。1億7,500万人。4月から入場料金1500円以下免税。外国映画の配収が日本映画を初めて上回り、洋高邦低の現象。
7月、福島日活が80年の歴史に幕を降ろして閉館。
「エマニュエル夫人」が爆発的に売れた。朝日座でもこれで25万円のアイス・ショーケースを買った。
1月「映画評論」休刊。3.2.黒沢監督新作「デルス・ウザーラ」公開。
キネマ旬報ベストテン①ある映画監督の生涯 溝口健二の記録②祭の準備③金環食④化石⑤男はつらいよ 寅次郎相合傘⑥田園に死す⑦新幹線大爆破⑧仁義の墓場⑨同胞(はらから)⑩実録阿部定
外国映画①ハリーとトント②愛の嵐③アリスの恋④レニー・ブルース⑤デルス・ウザーラ⑥ザッツ・エンターテインメント⑦ルシアンの青春⑧ゴッドファーザーpart2⑨フロント・ページ⑩ジョーズ
「エマニュエル夫人」はソフト・コアだが「祭の準備」は精液のこぼれるような青春映画で高知県のセックスはすごいと思った。竹下景子の露わな胸にどきり。「愛の嵐」はナチスの残党とユダヤ少女だった主人公の倒錯的な愛を描いてぼくの心をときめかせた。映画好きの少年が「ジョーズ」なんて、とうそぶいていたので指摘したら、お父さんが見せてくれないと告白。この少年、福島の従兄弟を羨んでいたが後に映画科に進んだ。「レニー・ブルース」の評を朝日座のリーフレットに発表。よくもまああんなに映画ばかり見ていたと思う。
昭和51年(1976)
全国入場者1億6,400万人。映画館2,453館に。松竹「八つ墓村」、東宝「八甲田山」、日活「嗚呼!花の応援団」ヒット。「JAWSジョーズ」爆発的大ヒット。東映ピラニア軍団をスターにして「河内のおっさんの唄」で主演。ライオンに人間が喰われるショッキング場面が宣伝され「グレートハンテイング」ヒット。「カッコウの巣の下で」アカデミー賞独占。「続・エマニュエル夫人」「ミッドウエイ」「オーメン」「マイ・ウエイ」ヒット。洋画は2~3館のロードショー館から始まって、順送りに広がる興行システムから全面公開する方式に移行。大ヒットはほとんどこの一斉公開作品だ。
梁川町の有志が広瀬座を激励しようと次々に企画を立てて保存継続を訴えた。相馬市に新映画館「中村映劇」が誕生したが短命に終わった。招待券をもらって見に行った日がちょうど台風で、何十分も停電で、うらぶれた気分でじっと再開を待ってたな。
家城巳代治、鈴木重吉、ルキノ・ビスコンテイ、キャロル・リード、ピエル・パオロ・パゾリーニ、ジャン・ギャバン死去。
キネマ旬報ベストテン①青春の殺人者②男はつらいよ寅次郎夕焼け小焼け③大地の子守歌④不毛地帯⑤犬神家の一族⑥あにいもうと」⑦嗚呼!花の応援団⑧やくざの墓場 くちなしの花⑨さらば夏の光よ⑩江戸川乱歩猟奇館
外国映画①タクシーダライバー②カッコウの巣の下で③トリュフォーの思春期④バリー・リンドン⑤狼たちの挽歌⑥ナッシュビル⑦アデルの恋の物語⑧愛のコリーダ⑨フェリーニの道化師⑩大統領の陰謀
原町の朝日座と文化劇場がまだ元気なころで、オールナイト興行までやった。おかげで「網走番外地」シリーズも見れたし、上映洋画はほとんどチェックしている。
昭和52年(1977)
映画人口1億6,400万人。映画館2,420館に。3年ぶりに日本映画が外国映画を押さえた。「八甲田山」大ヒット。角川映画第二作「人間の証明」は前作「犬神家の一族」を上回る大ヒット。松竹「八つ墓村」、「宇宙戦艦ヤマト」など一本立て大作ラッシュ。日活「花の応援団」、松竹「幸福の黄色いハンカチ」など大ヒット。っしょうが津興行の「キングコング」が洋画史上初の超拡大公開180館で一斉封切り。「カサンドラ・クロス」「ラスト・コンサート」の2本立てもヒット。アカデミー賞の「ロッキー」「007・私を愛したスパイ」が全国的ヒット。こうした拡大封切り上映によるヒット記録は、小都市の大幅な観客減少に直結し、地方館の経営行き詰まり、廃館に追い込む結果となった。「キャリー」「サスペリア」などオカルト映画好調。
3.21.田中絹代死去。67歳。4.7.松竹大船撮影所を分離。松竹映像を設立。チャップリン死去。城戸四郎死去。82歳。
キネマ旬報ベストテン①幸福の黄色いハンカチ②竹山ひとり旅③はなれごぜおりん④八甲田山⑤青春の門自立篇⑥悪魔の手鞠唄⑦ねむの木の詩がきこえる⑧ボクサー⑨突然、嵐のように⑩遠い一本の道
外国映画①ロッキー②ネットワーク③鬼火④自由の幻想⑤惑星ソラリス⑥スラップ・ショット⑦さすらいの航海⑧トロイアの女⑨ウデイ・ガスリーわが心のふるさと⑩ローマに散る
ソラリスは東京で観た。劇中、延々と東京の首都高速の映像が出てくるが、未来のイメージだというのでソ連のインフラの低さを知ってがっくり。この頃、上京して「2001年宇宙の旅」も観た。2001年宇宙の旅は福島県立医大の学園祭で上映されてもう一度観た。
昭和53年(1978)
全国入場者1億6,604万人。映画館2,392館に。映画館は都市集中が顕著に。
第一回日本アカデミー賞が帝国劇場で行われる。日活がにっかつと社名変更。東映が年間17本という激産。田宮二郎猟銃自殺。43歳。東映14年ぶり「柳生一族の陰謀」ヒット。サンリオの「キタキツネ」や「スターウォーズ」(44億5千万円の配収)「未知との遭遇」(33億円)などのSF、「007・私を愛したスパイ」がヒット。夏の「サタデーナイト・フィーバー」が話題に。秋から「愛と喝采の日々」「結婚しない女」「グッバイガール」など女性映画ヒット。
キネ旬ベストテン①サード②曽根崎心中③愛の亡霊④事件⑤帰らざる日々⑥鬼畜⑦ダイナマイトどんどん⑧冬の華⑨人妻州大暴行致死事件⑩博多っ子純情
外国映画①家族の肖像②ジュリア③グッバイガール④ピロスマニ⑤未知との遭遇⑥愛と喝采の日々⑦結婚しない女⑧白夜⑨スターウォーズ⑩アニー・ホール
この年、黒沢明が原町にロケハンで来た。残念ながら撮影はなかった。
朝日座が4チャンネル立体音響になり「コンボイ」「原子力潜水艦浮上せず」で、ずっしり来る響きを体験。9月「サタデー・ナイト・フィーバー」10月「ザ・ドライバー」
昭和54年(1979)
全国入場者1億6,577万人。映画館は2,372館に。日本映画、外国映画ともに大ヒットなく、子供向け「銀河鉄道999」「ルパン三世」「アルプスの少女ハイジ」「龍の子太郎」「エースをねらえ!」「未来少年コナン」などのアニメ、「ウルトラマン」が大量に作られ春・夏休みに集中、大人番組の不振をカバーした。結果的に邦高洋低に。松竹「トラさん」シリーズは年2本のペースで続行。いずれも10億を超すドル箱に。
原町文化劇場が閉館。長沢裕二支配人の選んだラスト上映はアラン・ドロンの「冒険者たち」「事件」「帰らざる日々」。市内のライバル館の朝日座経営者布川雄幸氏がこれを引継ぎ、原町シネマと改称して営業。主として固定客向け成人映画、子供向けアニメ、稀少な機会だが中央で評価の高い異色作などを上映して朝日座を補完した。
岩波ホールで一般興行館にのりにくい「旅芸人の記録」「木靴の樹」を公開。「影武者」で主役交代劇。「ああ野麦峠」大ヒット。
キネ旬ベストテン①復讐するは我にあり②太陽を盗んだ男③Keiko④赤い髪の女⑤衝動殺人 息子よ⑥月山⑦十九才の地図⑧もう頬づえはつかない⑨ああ野麦峠⑩その後の仁義なき戦い
外国映画①旅芸人の記録②木靴の樹③デイア・ハンター④イノセント⑤インテリア⑥女の叫び⑦奇跡⑧ビッグ・ウエンズデイ⑨チャイナ・シンドローム⑩プロビデンス
長すぎてお尻が痛かったギリシャ映画「旅芸人の記録」心を締め付けられたイタリア映画「木靴の樹」良心の痛むアメリカ映画「デイア・ハンター」は朝日座で観た。よくぞ地方館でこれだけの名作を揃えて下さった。このほかサーフィン映画「ビッグ・ウエンズデイ」ジェーン・フォンダの原発告発映画「チャイナ・シンドローム」なども見た。ベストテン洋画の半分を朝日座で見た勘定になる。
昭和55年(1980)
郡山テアトルで白井佳夫、品田雄吉らを招いて「地獄の黙示録」のシンポジウムが開催される。不肖わたしも「ワルキューレの騎行」をガンガン鳴らして高速をとばして出向きパネラーとして発言。「黙示録は失敗作だ」と語ったら、あとでエレベーターの中で安達社長から顰蹙をかった。ゲストの石田えりがまだデビューしたてでコップに水を入れて配ってくれたのが感激だった。その頃住んでいた川俣町は山間で電波が悪くラジオが入りにくい。峠まで行って、カーラジオで番組を聴いたが僕の発言部分はカットされていた。FTVの放送はエア・チェックした。
山口百恵「古都」を最後に結婚引退。「影武者」カンヌ映画祭でグランプリ。「ドラえもん」「あしたのジョー」など空前のアニメラッシュ。日活ロマンポルノ裁判全員無罪。「スターウォーズ帝国の逆襲」「007ムーンレイカー」が大宣伝。
キネ旬ベストテン①ツィゴルネルワイゼン②影武者③ヒポクラテスたち④神様のくれた赤ん坊⑤遙かなる山の呼び声⑥父よ! 母よ!⑦四季 奈津子⑧海潮音⑨狂い咲きサンダーロード⑩太陽の子てだのふぁ
外国映画①クレイマー・クレイマー②ルードウイッヒ神々の黄昏③地獄の黙示録④大理石の男⑤マンハッタン⑥マリア・ブラウンの結婚⑦テス⑧オール・ザット・ジャズ⑨カサノバ⑩フェーム
「テス」のナターシャ・キンスキーの赤い唇はぞくぞくさせた。キリスト教の民衆支配が理解できた。
昭和56年(1981)
福島東映は県内の映画館としては初めて、休館日を設けた。
8月会津若松では市内で最も古い若松松竹が閉館。
朝日座がダイエー原町店で「おかげさまで60年」記念ポスター展。お手伝いした私にボーナスが出た。
東宝「連合艦隊」「ドラえもん」「ブルージーンズメモリー」「スニーカーブルース」「古都」「典子は、今」「駅」がヒット。
松竹「寅さん」「機動戦士ガンダム」が稼いだが「ええじないか」惨敗。
東映は角川春樹プロ「魔界転生」「セーラー服と機関銃」がヒット。にっかつロマンポルノ十周年で「ラブレター」「獣のようにもう一度」
12月1日映画の日半額興行を行う。
キネ旬ベストテン①泥の河②遠雷③陽炎座④駅⑤嗚呼!おんなたち猥歌⑥幸福⑦ガキ帝国⑧北斎漫画⑨ええじゃないか⑩近頃なぜかチャールストン
外国映画①ブリキの太鼓②秋のソナタ③普通の人々④約束の地⑤グロリア⑥レイジング・ブル⑦チャンス⑧ある結婚の風景⑨ブルース・ブラザーズ⑩エレファント・マン
昭和57年(1982)
11月、坂下銀星座は生き残りをかけてカラオケのサービスをこころみる。
「E.T.」人気が全国を席巻。ベスト・ワンの興行成績をあげ、観客を動員した。
福島では栄町の福島東宝スカラ座が12月11日から翌年2月上旬までロングラン。武田明支配人は「九月中旬から前売り券を発売しているが、市内のプレイガイドや福島大学生協なども含めると九千枚は売れた。ふだんは五、六百売れればいい方なのですが」と異常なまでの加熱ぶりに信じられないという表情。スカラ座では初日の様子を見て、観客が殺到した時には東宝系列の同じビル内にある福島東宝と同市置賜町の東宝プラザでも上映する計画を練るなどの用意周到ぶり。
郡山市では前売り券の売上は初日前に八千枚を超す。これまで前売り人気が一番高かった「セーラー服と機関銃」や「ジョーズ」の三千枚をはるかに上回っている。上映館は駅前のテアトル郡山、大町の洋画パレスの二箇所。いわき市の大工町の平テアトルも「スーパーマン」の前売りを二倍上回る六千枚を発売した。日曜日の12日、朝から開館待ちする人たちのために隣の平スカラ座でも朝一回だけ上映。前売り券を買うと「E.T.」バッジがプレゼントされた。
13日に福島で観たが、ちょっと食い足りない感じ。しかし隣の女性は泣いていた。この年のベスト・ワンだった。
年末、原町ダイエーで「ビデオで見せる映画」を企画。朝日座のポスターも展示。
キネ旬ベストテン①蒲田行進曲②さらば愛しき大地③転校生④疑惑⑤ニッポン国古屋敷⑥TATOO(刺青)あり⑦水のないプール⑧遠野物語⑨誘拐報道⑩怪異談 生きてゐる小兵次
外国映画①②1900③炎のランナー④黄昏⑤アレクサンダー大王⑥メフィスト⑦レッズ⑧カリフォルニア・ドールズ⑨フランス軍中尉の女⑩父 パードレ・パドローネ
昭和58年(1983)
10月8日福島市にビデオのミニ劇場ロイヤル・シアターが開館。紺野信支配人。63席。
キネ旬ベストテン①家族ゲーム②細雪③戦場のメリークリスマス④東京裁判⑤楢山節考⑥竜二⑦魚影の群れ⑧天城越え⑨十階のモスキート⑩ふるさと
外国映画①ソフィーの選択②ガープの世界③ガンジー④エボリ⑤フィッツカラルド⑥隣の女⑦評決⑧トッツイー⑨アギーレ 神の怒り⑩サン・ロレンツオの夜
昭和59年(1984)、福島に新映画館の建設がとり沙汰された。3年後の62年(1987)7月25日、フォーラム1、2が開館。
西武がシネ・セゾン設立。長谷川一夫死去。75歳。国立フィルムセンター火災330本焼失。大川橋蔵も。映画入場税免税点、次年度から2000円に。
キネ旬ベストテン①お葬式②Wの悲劇③瀬戸内少年野球団④麻雀放浪記⑤さらば箱舟⑥おはん⑦風の谷のナウシカ⑧伽椰子のために⑨廃市⑩チ・ン・ピ・ラ
①ワンス・アポンア・タイム・イン・アメリカ②ライトスタッフ③ナチュラル④愛と追憶の日々⑤カメレオンマン⑥カルメン⑦ストリート・オブ・ファイアー⑧ノスタルジア⑨ドレッサー⑩欲望のあいまいな対象
「お葬式」は低予算だが伊丹十三ワールドをよく出して、高瀬春奈のでかいお尻が印象的だった。その後「タンポポ」「マルサの女」「あげまん」「マルタイの女」と続々発表。
ぼくは結婚して福島で映画を見る頻度が高くなり、正月はほかに娯楽もないので映画の掛け持ちが恒例になった。
昭和60年(1985)
5.31. 第一回東京映画祭。7.12.アジア太平洋映画祭18年ぶり東京で。11.3.黒沢明が文化勲章受章。
キネ旬ベストテン①それから②乱③火まつり④台風クラブ⑤さびしんぼう⑥恋文⑦生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言⑧ビルマの竪琴⑨早春物語⑩花いちもんめ
外国映画①アマデウス②路③ファニーとアレクサンデル④ミツバチのささやき⑤刑事ジョン・ブック目撃者⑥パリ・テキサス⑦キリング・フィールド⑧田舎の日曜日⑨インドへの道⑩コーラス・ライン
11月、原町シネマでギリシャ映画「イフィゲニア」を観た。ギリシャ悲劇をベースに、神託により生け贄となる王女イフィゲニアの可憐さと毅然たる姿が描かれる。王を攻め立てるのは敵よりも眉間に縦縞を立てる王妃の表情。娯楽に観る作品ではないが、高尚にして深遠。ギリシャ全軍の王もぼくも妻の表情がいちばん怖い。
12月の朝日座番組は「ビー・バップ・ハイスクール」原町シネマが「セーラー服百合族」「キャプテン翼・危うし全日本Jr」など。
昭和61年(1986)
2月、日本映画監督協会50周年。2.27.大映京都撮影所閉鎖。3.19.日本映画学校校舎完成。今村昌平校長。7.12.フジテレビ制作「仔猫物語」封切り。ヒット。
キネ旬ベストテン①海と毒薬②コミック雑誌なんかいらない③ウホッホ探検隊④人間の約束⑤火宅の人⑥鑓の権三⑦恋する女たち⑧天空の城ラピュタ⑨キネマの天地⑩ジャズ大名
外国映画①ストレンジャー・ザン・パラダイス②カイロの紫のバラ③蜘蛛女のキス④ラウンド・ミッドナイト⑤パパは、出張中⑥カラーパープル⑦ホテル・ニューハンプシャー⑧未来世紀ブラジル⑨エイリアン2⑩群れ
「恋する女たち」この頃は斉藤ゆきが人気あった。「鑓の権三」「キネマの天地」松竹蒲田の新人田中絹代のデビュー時代を描いた。
「未来世紀ブラジル」名曲ブラジルに載せて展開する未来の管理社会は「1984」のような設定。ぼくのいちおし映画。
キネ旬ベストテンより「バック・トウ・ザ・フューチャー」とか「グーニーズ」「コブラ」「子猫物語」「植村直己物語」の方が映画界では稼ぐ。邦画は史上第二位の興行成績54億円をあげた。
昭和62年(1987)
9月はフォーラム進出と入れ替わり、国際3館が閉館。福島の新旧世代交代の年となった。
1.11.「乱」英国アカデミー外国語映画賞。
2.7.「マルサの女」封切り。売上税問題もあってヒット。7.17.石原裕次郎死去。52歳。映画人口1億4000万人。この年レンタルビデオ普及。
キネ旬ベストテン①マルサの女②ゆきゆきて神軍③1000年刻みの日時計④永遠の1/2⑤映画女優⑥男はつらいよ知床旅情⑦女衒⑧BU・SU⑨光る女⑩ちょうちん
外国映画①グッドモーニング・バビロン②プラトーン③ハンナとその姉妹④アンタッチャブル⑤スタンド・バイ・ミー⑥眺めのいい部屋⑦ラジオ・デイズ⑧サルバドル遙かなる日々⑨ブルーベルベット⑩薔薇の名前
名優ショーン・コネリーの修道士が探偵のように古い教会の歴史を解き明かして行く「薔薇の名前」は難解な文学。若い修道士に「情熱は愛情とは違う」と、宗教的真理を教え聞かす。こんな先生がいたらなあ。
「プラトーン」は、ベトナム戦争で傷ついたアメリカの回復期の精神が描いた戦後文学のようなもの。この年は「トップ・ガン」がトップ収益で39億円という状況ではアメリカ暴力主義礼賛のハリウッド的でない映画は、ほっとする。邦画トップは「ハチ公物語」の19億円だ。
昭和63年(1988)
5月、会津に初のロードショー館栄楽プラザが開館。
斉藤貞郎監督が喜多方商業高校の生徒たちが「ゲルニカ」を実物大に再現したエピソードで青春群像を描く作品を製作。
大映の徳間社長が執念を燃やした超大作「敦煌」が6月公開。
キネ旬ベストテン①となりのトトロ②TOMORROW・明日③異人たちの夏④ロックよ、静かに流れよ⑤郷愁⑥火垂の墓⑦さくら隊散る⑧木村家の人々⑨リボルバー⑩怪盗ルビー
外国映画①ラスト・エンペラー②フルメタル・ジャケット③ベルリン・天使の詩④八月の鯨⑤芙蓉鎮⑥黒い瞳⑦ザ・デッド⑧存在の耐えられない軽さ⑨フロレット家のジャン⑩月の輝く夜に
原町朝日座でドキュメンタリー「平忠彦のトップドッグ」上映。平忠彦は原町出身のバイク・レーサー。ダイエー原町店で朝日座主催のサイン会を実施したことがある。「汚れた英雄」上映の時にはホンダから宮城県でのレースを記録したビデオテープをとり寄せ、ダイエー原町店集客のため、トップに躍り出た平のバイクを中心に編集して入口近くで流した。
この頃ぼくは阿武隈山系を福島と原町の間で孤独に疾走する4WDライダーであった。
ふくしま大衆文学の映画化

戦後まもない昭和22年7月5日午後5時15分、ラジオから全国の茶の間に古関裕而作曲の明るい主題歌が流れた。
緑の丘の赤い昼根
とんがり帽子の時計台
鐘が鳴りますキンコンカン…
連続放送劇「鐘の鳴る丘」のスタートだった。浮浪児救済と民主主義普及を娯楽を通じて行うという啓蒙的主題のもと占領軍司令部の要請を背景に昭和25年12月29目まで続き、国民の間に支持された。その後継として純然たる娯楽番組、連続ラジオドラマ「さくらんぼ大将」が登場。菊田一夫作、古関裕而作曲の同じコンビによるNHK第一放送、昭和26年1月4日~27年3月31目。(月)~(金)午後5時30分~45分。舞台は東京と福島県茂庭村。古関裕而が戦時中と戦後の一時期を福島に疎開していたことから古関が提案して茂庭が舞台に選ばれた。映画化もされた。

●「さくらんぽ大将」昭和27年

人気ラジオ・ドラマの映画化。芸苑プロ=新東宝52年。田中研監督。川崎弘子、古川緑波。舞台は現在福島市になっている庭坂。古関裕而がテーマ音楽を作曲した。

●「君の名は」昭和28~29年

昭和27年4月から菊田一夫作、古関裕而作曲のNHKラジオ・ドラマ「君の名は」が放送されると、全国の女性の人気をかっさらい、放送時間の8時になると女風呂が空になるという伝説ができた。松竹はこれをみのがさず映画化。昭和28年から29年にかけて3部作を製作。9億6千万円という記録的な収益をあげた。入場料に換算すると全国民が一人残らず見た勘定になる。洋画興行ヒット作「哀愁」を翻案、スレチガイのメロドラマに仕立てた。

●メロドラマの傑作「月よりの使者」は久米正雄作

「月よりの使者」は昭和8年に「婦人倶楽部」に連載され翌年3月に講談社から出版され、すぐに映画化された。最初のものは昭和9年。〔新興キネマ太秦作晶。原作久米正雄。脚色木村千疋男。監督田坂具隆、撮影伊佐山三郎。主演入江たか子、高田稔。信州富士見を舞台の悲恋もの。興行大ヒット。(昭和9・3・29)〕(発展史Ⅱ-185)
「月よりの使者」〔大映東京作品。原作久米正雄。脚色八住利雄。演出田中重雄。撮影高橋通夫。主演山本富士子、菅原謙二。前作田坂具隆演出作品の第二回映画化。イーストマン・カラーによる色彩版。(昭和29・6・27)〕(発達史Ⅵ-26)大映はイーストマン・カラー作品「地獄門」でカラー化に成功していた。(発達史Ⅵ-229)
久米の長男夫人からの申し出により、久米ゆかりの郡山市に対して久米の遺品が贈与されることになり「月よりの使者」の原稿も平成10年には郡山で公開される。

●「少年ケニヤ」昭和29年

「少年ケニヤ」は山川惣二の物語絵本で、ラジオで放送されたほか、1954年に映画化された。南旺映画=大映、岩沢庸徳監督、主演村上ワタル、上田道子。60年代にはテレビで連続放送された。
山川は明治41年2月28日、郡山出身。東京本所小学校卒業後、製版所に勤めながら紙芝居を書く。川端画学校卒。日大芸術学部を中退。昭和7年に兄とともに紙芝居製作会社そうじ映画社を創立。「少年タイガー」が人気となり13年「勇犬軍人号」の日本紙芝居コンクール入選をきっかけに、戦記・伝記絵本作家としてスタート。「少年倶楽部」などに作品を発表。昭和21年・紙芝居版「少年王者」で大人気を呼び・昭和22年「少年王書」を出版。大ベストセラーとなる。昭和26年「少年ケニヤ」の新聞連載を開始。日本中の子供たちの心を捉え、国民的劇画家となる。代表に「少年タイガー」「ノックアウトQ」、西部劇「幽霊牧場」「銀星」・SFもの「サンナイン」など。大邸宅を構え43年引退するが、雑誌作り、レストラン経営などに失敗して借財を抱えた。58年角川書店による文庫化の企画で再び注目され、9月創刊の文庫判雑誌「月刊小説王」には中国清朝を舞台にした活劇新作「十三蛛」も連載された。平成4年12月17日、心不全で死去。
漫画とラジオで人気の高かった「赤銅鈴之助」とともに、連続テレビドラマ「少年ケニヤ」は大映で映画化(アニメではなく実写)されている。昭和29年12月の民報広告は翌年昭和30年正月3~4日に原町朝日座で「少年ケニヤ」上映を予告。昭和32年6月11日に清水館で「赤胴鈴之助」「少年ケニヤ」上映。
戦後のテレビ世代で育った我々が父親世代にさしかかった頃にアニメーション版「少年ケニヤ」も、リバイバルで1984年3月10日公開された。

●西郷頼母の養子西郷四郎をモデルにした「姿三四郎」

大衆文学「姿三四郎」は、会津藩家老西郷頼母の養子西郷四郎をモデルにした作品で、昭和17年に東宝の雇われ監督黒沢明は富田常雄原作の発売広告を見ただけで読んでもいない先から「これはいける」と直観し、東宝に映画化権を買い取って欲しいと頼み込んだ。黒沢はこう言っている。
「これは作りながら、ただただ面白かったね。何も言えない時代だったでしょう。ぼくはもう活動写真の面白さを出そうと思った。技巧もない簡素なのが日本的だという、そういう空気に反抗する気持ちが強かった。
彼の案が入れられ昭和18年に映画化したほか20年に続編も作られ、戦後も映画化は続いた。黒沢は特に愛着をこめて戦後再び、同名の映画化をしているほど。
時は明治15年。江戸時代まで続いていた古い武術としての柔術と、明治維新時代の空気を背景にして修道館を主宰する矢野正五郎(講道館の加納治五郎がモデルで大河内伝次郎が演じた)が編み出したスポーツとしての柔道とが、警視庁武術試合で覇を競う。
古派柔術の代表村井半助(志村喬扮する)と三四郎は戦い、勝利を収めるのだが、その娘乙美(轟夕起子)とは偶然、神社の石段で知り合い、心を通わせる。ゲタの鼻緒の切れた乙美に、腰の手拭いを引き裂いてすげてやったのがきっかけ。のちに同じ場所で、三四郎が忘れていった手拭いを洗濯し、乙美が恥じらいながら手渡すという有名な場面に、当時の奥床しい日本人は、甘くロマンチックな感情を覚えたものであった。
世界の黒沢明監督が作り出した日本映画史に燦然と輝くヒーローである。最近はそのモデルとなった西郷四郎が福島県人だとして、特に会津では大いにもてはやされている。確かに四郎が生まれた故郷は明治19年までは福島県の一部だった。(現在は新潟県津川町)麒麟山上には「西郷四郎之碑」が建つ。(昭和27年建立)
「姿三四郎」〔東宝映画砧作品。原作富田常雄。演出黒沢明。撮影三田明。圭演藤田進、大河内伝次郎、轟タ起子、月形竜之介。車夫をしながら苦学を続けている姿三四郎(藤田進)は、紘道館柔道矢野正五郎(大河内伝次郎)の門下に入り、めきめきと腕を上げ、警視庁の武術試合に出場し、一人の女性(轟夕起子)を中心に、失恋の意趣晴らしをかねた檜垣源之助(月形竜之介)から決闘を挑まれる強風の中の右京ケ原の壮絶なラストが圧巻である(昭和18・3・25)〕(日本映画発達史Ⅲ)
「続姿三四郎」昭和20年(1945)。黒沢明監督。東宝。
「姿三四郎」昭和40年に黒沢脚色で再映画化。(黒沢プロ、宝塚映画提携作品。原作富田常雄。脚色黒沢明。監督内川清一郎。撮影小泉福造。主演加山雄三、三船敏郎、加東大介、九重佑三子、伊藤雄之助。二時間半は長すぎた。(昭和40・5・29)〕(発達史V)
このほか少年もの映画もある。
「少年姿三四郎 山岳の決闘」昭和29年東映作品。小林常夫監督。出演波島進。
昭和29年5月5日から福島市の福島東宝で上映。福島市出身の女優千舟ちはやが初出演した。
「少年姿三四郎 大川端の決闘」昭和29年東映作品。(日本映画索引)
また大映が「風雪講道館」を昭和30年4月に。「薔薇の講道館」を同年12月に公開。
昭和30年、東映で映画化。
昭和38年、フジテレビで「姿三四郎」連続放映。
昭和44年東宝で第三回目映画化。
昭和45年、松竹で第四回目に「姿三四郎」映画化。
昭和52年、東宝で第五回映画化。
昭和53年、日本テレビで「姿三四郎」テレビ連続放映。
昭和55年、NHKで「実録姿三四郎」放送。
昭和56年6月5日からフジテレビでアニメ「姿三四郎」が放送。

●梁取三義原作の「二等兵物語」昭和30年代 松竹

梁取三義は本名光義。筆名に彩田義夫、詩をかく時には牧村真澄。法大文中退。作品に「花咲く丘」「愛と正義の谷間」「伊南川のほとり」「石川啄木」「少年武士道」「ふるさとの母」などがある明和村(現只見町坂田字原)の出身。1912年生まれ。生家は伊南川の支流布沢川から上った高台にある茅葺きの曲がり家。2キロほど離れた所に国重要無形文化財指定の梁取成法寺観音堂がある。「二等兵物語」は昭和28年12月に出版。
〔一九五五年から一九六一年まで、伴淳三郎と花菱アチャコは福田晴一監督による一〇本の軍隊喜劇『二等兵物語』シリーズで、ヘマで頓間な戦友として厳しい軍律から遁走しつづける二等兵同士の戦友を共演した。まじめなこと、深刻なこと、恐ろしいことから、愛嬌ひと筋に遁走することが彼らの芸に結晶している人生の戦略戦術であり、映画作家たちの役割りはそれに具体的にストーリーを与えることだった〕と佐藤忠男は「日本映画史」に記している。
以下、すべて主演は伴淳三郎、花菱アチャコ。監督は福田晴一。最終作のみ酒井欣也監督。原作書梁取三義の体験をもとに描いた古川凡作(伴淳三郎)演ずる会津出身のダメ兵隊のドタバタ軍隊喜劇。
「二等兵物語」〔松竹京都作品。原作梁取三議。脚色船橋和郎、安田重夫。演出福田碕一。撮影片岡滑。主演伴淳三郎、花菱アチャコ、関千恵子。軍隊生活の喜劇化が企画として珍しく、興行は快調。(昭和30・11・15)〕(発達史)
伴淳とアチャコの名コンビ初顔合わせの第一作。主人公の名前は発明家古川凡作となっているし、アチャコに割り振られた太鼓持ち(幇間)などのキャラクター設定が、すでにかなり戯画化されている。のちに、伴が床屋でアチャコが仕立て屋などリアルな職業という設定に変わる。
第一編は「女と兵隊」と「蚤と兵隊」の二編からなる。字幕の調子は戦前の「麦と兵隊」を連想させる。日本映画界はすでにカラーも誕生していたが、この作品はモノクロ。まさか、こんなに大当たりするとは思わなかったのだろう。
昭和31年2月25日民友に「街行く“祝入営”の旗」の題でこんな記事が出た。〔このほど保原劇場で“伴淳主演二等兵物語”を上映したときのこと、折柄売出し中の雑とうの中に「祝入営伴淳三郎君」の長旗がヘンポンとひるがえって行く道行く人の注目を集めた〕
また7月2日民友夕刊のコラム「灰皿」には〔見る人の中にはゾッとさせられるような“祝出征”の大ノボリが県都福島のド真中に立っている。タネを明かせば福島松竹で上映中の「続二等兵物語」の宣伝。/ノボリを眺めて「出征ってなんだい」と質問する小、中学生もおり、十年一昔の歳月をあらためて振りかえっているような大人たちの顔は複雑だ〕と記事にある。
以下、松竹のビデオ目録から二等兵シリーズを拾ってみる。
「二等兵物語 五里霧中の巻」31年。福田晴一監督。出演、伊吹五郎、渋谷天外。
映画化第二作だが、原作タイトルでは第一作の題名。古山源吉という原作通りの主人公の名前に変わっている。強盗の罪をかぶって捕まるというドタバタ劇。原作とは全く関係ないストーリーだ。
「続二等兵物語 南方孤島の巻」31年。福田晴一監督。出演、岡千恵子、山路義人。
終戦近い南洋の孤島での恋と哀感を描くが、これも原作とは関係ない内容。だいいち、主人公は内地での訓練に明け暮れ、戦地には出向いていない。しかし映画化にあたって面白おかしく、たっぷりフィクションを創造した。
「続二等兵物語決戦体制の巻」32年。出演嵯峨三智子、北上弥太郎、伊吹友木子。
発達史の「続・二等兵物語」〔松竹京都作品、原作梁取三義。脚色安田重夫。監督福田晴一。撮影片岡清。主演伴淳三郎、花菱アチャコ、伊吹友木子、嵯峨三智子。兵隊喜劇。(昭和32・3・26)〕は、上記の決戦体制の巻をさしているらしい。
「二等兵物語 死んだら神様の巻」33年。伊藤雄之助、トニー谷、田中春男、渡辺篤、浪花千栄子。(昭和33年7月原町中央映画劇場で上映)
内務班でいじまられるハワイ出身の日系二世の兵隊が、上官たちによって殴り殺される。人情家の種ジョン高は猛反発。私的制裁と物資横領に励む上官を告発して中隊に正義をもたらすが、中隊副官の温情で内地残留を命令されるも、戦友と運命をともにするべく、志願して南方へ。
「二等兵物語 ああ戦友の巻」33年。出演エノケン、浪花千栄子、大泉晃、トニー谷、山田百合子、中村是好。
敵の戦車を分捕って二階級特進したが、内務班の中で嫉妬されるという顛末。アメリカ人を俳優に使い、戦車も登場する。カラー撮影、お色気もあり、完全な娯楽編。
「二等兵物語 万事要領の巻」34年。出演森川信。中山昭二・川口京子。
メカに弱い二等兵が特攻隊に配属されてしまった、という一編。
「新二等兵物語・吹けよ神風の巻」34年。共演三木のり平。
物資横領をたくらむ隊長達に二等兵の怒りが爆発する。しかし、この筋書きは、毎回出てくるストーリーである。
「新二等兵物語・敵中横断の巻」35年。
中国奥地にスパイとして潜入して大活躍。物語は絢爛たるスターを揃えて、ロケーションやセットに金をかけているが、リアリティーはなくなっている。
「新二等兵物語 めでたく凱旋の巻」36年。(地元新聞の昭和35年12月広告)などがある。新入りズッコケトリオを登場させたが、マンネリはまぬがれず、この作品が最後となった。
田島の田島町制百周年の記念誌には、昭和31年早春の田島栄楽座で「二等兵物語」が上映された時の写真が掲載されている。田島は只見とは違うが、同じ地元会津である。会津出身の作家の作品が全国を賑わす映画になったのだ。晴れて郷里の映画館に錦を飾ったというところだろう。
ところが梁取は映画に不満だった。「二十四の瞳」の原作料が50万円のとき「二等兵」は300万円という高額で、映画で有名になったものの、小説は忘れられたからだ。
映画版「二等兵物語」は、全国に旧軍隊を描いた兵隊回顧ブームをもたらした。その後、勝新太郎と田村高広のコンビによる「兵隊やくざ」シリーズなども出現した。
戦後多くの戦記が書かれた。野間宏の「真空地帯」など陸軍の内務班の実態を告発するシリアスな作品も出たし、沖縄戦の女子学徒隊を描いた「ひめゆりの塔」、東大卒のインテリ戦没学徒の記録「雲流るる果てに」などがベストセラーになり映画化された。しかしこれらはインテリからみた戦争であり、庶民感覚とは微妙に違う反戦調だから、「二等兵物語」の庶民性は、日本の最大多数の平凡なる兵卒たちの喜怒哀楽を描いて別の共感を呼んだ。梁取自身は文筆家出身のインテリだが、兵隊経験についてはこれこそ記録すべきものと意志的に志したのが小説「二等兵物語」になった。98年夏は、岩代町図書館に通ってアニメを見る子供たちのブースに挟まれながら、二等兵シリーズの所蔵ビデオと清水宏監督のすぐれた日本映画に酔いしれたのであった。

●「月光仮面」の登場と川内康範

福島県文学賞の第一回受賞者、川内康範は北海道の生まれだが、終戦直後、大阪から湯本の旅館「新滝」をたよって来て二年ほど滞荏し、河内潔士と名乗って浪曲台本などを執筆していた。近くに住んでいた冨沢有為男に師事。
昭和22年、平・丹後沢のボート小屋に住んだが、翌々年大阪に帰った。講演のため久しぷりにいわきに立ち寄った昭和50年7月30日いわき民報に寄稿した原稿によると、〔私が平市に疎開したのは終戦直後のことであるその創刊号に私はたしか、「東北の青年に寄す」という感想文を載せている〕〔私のもとに集まってくれた青年たちがいわきの地に文化の花を咲かせるのだと、それはもう驚くべき情念で、私はその熱意に動かされて、まず文芸誌「文祭」を発行したのだった。〕〔私は、当時、河内潔士と名乗っていた。〕〔平市こそは私の心のふるさとなのである〕と懐旧の念を吐露している。その後、少年雑誌に漫画「月光仮面」の原作を書いたものが人気を呼ぴ映画化され、脚本を坦当。テレビでも放送。宣広社という折り込み広告の企業が提供だった。「正義の味方」という言葉と概念を世に出した。後継の「七色仮面」も川内の原作。主題歌の作詞も手がけ、人気ラジオ・ドラマ「風小僧」の脚本も担当した。
「月光仮面」は、川内氏の回想によると、テレビでアメリカ番組の「スーパーマン」が登場して日本独自のヒーローが要求された時、日光月光菩薩像から連想された慈悲のシンボルとしてのヒーローが誕生したという。のち川内氏は作詞家となって芸能界に重きをなし「骨まで愛して」「おふくろさん」「日本昔ばなし主題歌」など多くのヒット作を生む。後世、グリコ森永事件では、犯人に対して「金をやるから止めろ」と呼びかけたり、自民党幹部に顧問役として相談にのるなど月光仮面そのものの正義感と侠気を持ったユニークな人物だった。
「月光仮面」はテレビドラマでも放映され少年たちの胸を熱くした。オートバイで颯爽と現れ、時にはヘリコプターに乗って事件を解決すると、再び忽然とどこかへ姿を消す。正義の味方は仮面で正体を隠すお約束は現在まで引き継がれている。風呂敷をマントに、サングラスのオモチャで月光仮面になりきった少年が全国にあふれていた。「怪傑ハリマオ」の登場や「隠密剣士」で忍者ブームになるまで僕もその一人だ。映画化は次のとおり。
「月光仮面」東映33年、小林恒夫監督。圭演大村文武、峰簿子、水宮光江、柳谷寛、長谷部健、須藤健、若水ヤエ子、永田蝿、佐々木孝丸、宇佐芙淳也、原国雄。原は現在福島テレビのチーフアナウンサーを勤めているが、当時は子役俳優。主人公の祝十郎の補佐をつとめる少年探偵団長のキャラである。父親が東映のプロデューサーだった関係で出演。中学生の時に映画界を去った。
「月光仮面絶海の死斗」東映33年。小林常夫監督。主演大村文武。
「月光仮面 魔人(サタン)の爪」東映33年。若林栄次郎監督。主演大村文武、松島トモ子。(34年1月12日福島東映。1月29日郡山冨士館で上映。原町朝日座で2.22.~24.上映。8.9.~11.再映。このうちのどちらかで僕も見たのだ。当時5歳。)東南アジアの日本陸軍の埋蔵金をめぐるミステリー仕立てで、活劇が随所に織り込まれる。
「月光仮面 怪獣コング」東映34年。相野田悟監督。主演大村文武、白河道子。
(朝日座で5.16.~19.上映、8.9.~11.再映)
「月光仮面 幽霊党の逆襲」東映34年。島津昇一監督。主演大村文武。山東昭子。
(朝日座では10.17.~20.上映)
アメリカのKKKのような三角の覆面をした怪人の一団が登場するが、悪党がなぜこんなに派手な格好をしているのか目立ってしょうがないと子供ながらに疑問だった。
「月光仮面 悪魔の最後」東映34年。島津昇一監督。主演大村文武、山東昭子、梅宮辰夫。(8月26日に富士館で上映。原町朝日座で10.24.~27.上映)
昭和56年(1981年)リメイクされた月光仮面は、ナナハンにまたがるヒーローでリバイバルが仕掛けられたが単発で終わる。プルミエ・インターナショナル、ヘラルド・エンタ一プライズ作品。ヘラルド配給。沢田幸弘監督。主演桑原大輔、志穂美悦子、地井武男、原田大二郎、五代高之、斉藤智美、ガッツ石松、鈴木瑞穂、藤岡琢也。また昭和47年1月10日から10月2日までNTV系でアニメ「正義を愛する者 月光仮面」が放映。
●七色仮面 川内康範原作。テレビ版では千葉真一主演。月光仮面と換骨奪胎だが、私立探偵役の千葉が変装の名手だったり、謎解きを取り入れたりしてアレンジした。テレビ放映もされ、子供達の人気者だった。菓子メーカーのカバヤか仙台からの電波だから地元企業のパンメーカーのひらつかの提供だったのを覚えている。レンタルビデオで3話ほどあり、年代が不明なのが残念。ついでながら「ナショナルキッド」も2話あって、この当時のご贔屓に再開できた。
○ラジオドラマ「風小僧」の映画化。川内康範原作。「風小僧・風雲虹ケ谷」「風小僧・流星剣の舞」「風小僧・風雲河童剣」などが製作された。
第二東映35年作品。仲木睦監督。出演は山城新伍。光芙知子。

●天田愚庵の「東海遊侠伝」が生んだ「清水の次郎長」
文政元年(1854)に平藩士の次男として磐城国に生まれ、明治37年(1904)に京都で死去した天田五郎愚庵は、戊辰戦争で行方不明となった両親の所在を求めて全国を放浪。山岡鉄舟門下となり、25歳の時鉄舟の世話で清水の侠客次郎長こと山本朝五郎にあずけられ、かわいがられた。
当時次郎長は侠客から足を洗い社会事業家となっており明治26年まで生きた。五郎は明治14年に養子となり入籍し山本五郎となった。そこで次郎長についての見聞をまとめたのが「東海遊侠伝」で明治17年発行。次郎長一家の大政、小政の実在者らの(森の石松は後の講談の創作。モデルになったブタ松というのは実在する)活劇を描き名文のほまれ高く浪曲や講談に仕組まれて広く明治大正昭和の日本人の心を打った。これが映画化されたのも当然のなりゆきで、実に多くの次郎長もの映画が作られている。
〔清水次郎長 松竹蒲田作品。脚色伊藤大輔。監督野村芳亭。撮影小田浜太郎。主演勝見庸太郎、志賀靖郎、武田春郎、正邦広、河村黎吉、川田芳子、柳さく子。この年の春、マキノ映画「忠臣蔵」が、新しい剣劇の演出を見せて、舞台劇の型から写実を主とする映画的演出に新機軸を出したが、これによって野村監督が、今までの旧劇を新しい皮嚢に包んで発表したのがこの映画である。脚色、撮影、立回等に創意があり、七分の旧套、三分の新味がある、と評された。旧劇映画のことを新時代劇といいはじめたのも、この映画からだ。(大正11・8・1)〕(発達史Ⅰ-351)
〔清水港 日活太秦作品。脚色小国英雄。監督マキノ正博。撮影石本秀雄。主演片岡千恵蔵、轟タ起子、特別出演広沢虎造。人気肴の虎造は三ン下奴の寅吉になって出演、興行は大ヒットとなる(昭和14・7・14)〕(Ⅲ-34)
戦後では、数々の次郎長もの映画の大郭分の僕作はマキノ雅弘監督の作品で、なかでも次郎長三国志10部作(東宝52~54)が最も代表的な傑作シリーズ。
・「次郎長売り出す」東宝作品。原作・脚色村上元三。脚色松溝健郎。演池マキノ雅弘。撮影山田一夫。主演小堀明男、若山セツ子、田中春男。快調次郎長シリーズの第一作。昭和27・12・4。
・「次郎長初旅」
・「次郎長と石松」昭和28年東宝映画。わが国最初のワイド・スクリーンで上映。
・「勢揃い清水港」昭和28年作品。
・「殴り込み甲州路」
・「旅がらす次郎長一家」
・「初祝い清水港」
・「海道一のあばれん坊」
・「荒神山」前後編。製作は本木窪二郎。
石松の金毘羅代参道中エピソードの再映画化作品が「清水港の名物男・遠州森の石松」(東映京都58)で、監督がマキノ雅弘。石松・中村錦之助。小政・東千代之介。
・「任侠清水港」東映32年。松田定次監督。主演片岡千恵蔵、中村錦之助、東千代之介、大川橋蔵、伏見扇太郎、大友柳太朗、市川右太衛門、高千穂ひづる、月形竜之介。
・「任侠東海道」東映33年。松田定次監督。主演片岡千恵蔵、中村錦之助、東千代介、
大川橋蔵、大友柳太朗、市川右太衛門、大河内伝次郎。
・「清水港喧嘩旅」大映33年1月20日広告。
・「次郎長富士」大映京都作品。脚色八尋不二。監督森一生。撮影本多管三。主演長谷川一夫、京マチ子、市川雷蔵、山本富士子。(昭和34・6・2)〕(Ⅵ-293)
・「暴れん坊森の石松」昭和34年9月23日広告。
・「続次郎長富士」大映京都作品。昭和35年6月15日広告。
・「森の石松鬼より怖い」東映作品。昭和36年。
・「次郎長道中」大映作品。昭和38年7月29日民報広告。
・「東海遊侠伝」日活作品。38年。
「次郎長三国志甲州路殴り込み」東映作品。40年。
これらの元をたどれば、「東海遊侠伝」という一冊の福島県人の本が生み出したともいえる。

●ユニークなアウトロー
時代劇スター「丹下左膳」
片目片腕というユニークな主人公が時代劇の人気悪役という異例なスターが丹下左膳だが、林不忘原作の架空の人物ながら奥州中村藩の藩士という設定。昭和2年に発表された小説「大岡政談」の怪異な傍役だったのが人気を呼び、やがて独立した主人公となった。典型的な大衆文学のヒーローである。戦前から映画化は多数あり、昭和8年の「丹下左膳」が有名だが、ここでは戦後の作品を掲げておく。
・「丹下左膳」松竹27年松田定次監督。阪東妻三郎主演。淡路千景。モノクロ。
・「丹下左膳」大映28年マキノ雅弘監督。大河内伝次郎、水戸光子、山本富士子。
・「続丹下左膳」大映28年〃
・「丹下左膳こけ猿の壼」大映29年。三隈研次監督。大河内伝次郎、高峰三狡子。
・「丹下左膳乾雲の巻」日活31年。マキノ雅弘監督。水島道太郎(以下同)。
・「丹下左膳第二部坤竜の巻」日活31年
・「丹下左膳完結編昇竜の慧」日活31年。
・「丹下左膳」東映33年。松田定次監督。大友柳太郎、美空ひばり、大川橋蔵。
・「丹下左膳怒濤編」東映34年。松田定次監督。大友柳太郎、大川恵子。
・「丹下左膳妖刀濡れ燕」東映35年。同監督。大友柳太郎、丘さとみ。
・「丹下左膳濡れ燕一刀流」東映。同監督。加藤豪。
・「丹下左膳乾雲坤竜の巻」東映37年。加藤蚕。大友柳太郎。
・「丹下左膳」松竹38年。内川清一郎監督。丹波哲郎主演。
・「丹下左膳飛燕居合斬り」東映41年。五社英雄監督。中村錦之助主演。
・「丹下左膳」昭和41年5月22目〔FTV今日から丹下左膳中村竹弥で〕放送。
・「丹下左膳」昭和42年〔TBS系に十月から丹下左膳に松山英太郎〕放送。
平成2年秋、藤田まこと主演の丹下左膳が登場。
相馬市には、県立公園の松川浦入り口に丹下左膳の記念碑が建立された。

●「座頭市」も福島ゆかりのアウトロー怪人スター
子母沢寛の随筆「ふところ手帖」(新潮文庫)にわずか10ぺ一ジの短い「座頭市物語」という好編がある、これが、映画座頭市の原作である。
〔天保の頃の渡世人座頭市は、盲人ながら居合抜きとさいころ賭博の達人で、勝新太郎主演の映画、座頭市シリーズで一曜人気を集めたが、この奇抜なキャラクターは子母沢寛の随筆集『ふところ手帖』収載の短編「座頭市物語」から生れた。皐劣なやくざと手を切った。彼は愛妻のおたねと共に姿を消し、その後の消息は「何でも遠く岩代の安積山麓猪苗代湖の近くの小高い丘の辺りに住んだともいう。おたねは、湖に映る明月の夜を、座頭の妻として悲しんだかどうか」。郡山市湖南町には、この座頭市を連想させる人物が住んでいた屋敷や、彼が湖岸の絶壁の間道で何者かに突き落とされたという座頭転ばし七曲がりの道についての伝説が、今も語り継がれている〕(ふくしまの文学のふる里100選より)
昭和41年9月8日民報は何と「座頭市の位牌発見磐梯町で」と報じている子母沢寛の造形した主人公のモデルとなった人物の位牌だという。この人物は嘉永二年11月23日、79歳で死去している位脾には菊の紋章があり、大寺ではこれ一つだけ。代々圧屋をつとめてきたという桑原家では「これは佐渡市さんの位牌だから大切にするように」と子孫に伝えられているという。位牌は高さ30センチほどで「法徳院大応恵海居士」との戒名があり、右脇には俗名阿部常右衛門とあるこれが座頭市のモデルになった人物の名。常右衛門は新潟生まれで通称佐渡市。若い頃から親類を頼って耶麻郡大寺の桑原家に来ていた。市が大寺を出たのは江戸時代の文化年間の前で、日本中を転々としたあとで飯岡助五郎の食客となるが、作家の子母沢寛氏の説によると、当時すでに市は白髪まじりで、助五郎が笹川蔵を殺そうとしているのを知り、いやになり、飯岡のもとを去ったという。
笹川が殺されたのは弘化四年(1847)だから、これ以前に去ったことになる。位牌にある嘉永二年はちょうど翌年になるので、大寺に帰ってから死んだことも考えられる。子母沢寛氏は「座頭市はもともとメクラではなく、はじめは目がみえたらしい」と書いているが、大寺にも「佐渡市さんはメクラになって帰ってきた」という話が残っている。
新潟から来たので「佐渡市」と呼ばれ、さらにメクラになったことから「座頭市」になったと推測される。
勝新新太郎は「花の白虎隊」でデビューしたが、二枚目スターとしては芽が伸びず、悪名シリーズなど悪役で個性を活かした。その彼が自分直身の打ち込む役として子母沢寛原作「不知火検校」の悪徳検校の生きざまや「ふところ手帖」の中の座頭市という怪異な盲目の居合抜きの達人に惚れ込み、みずから企画して主演したのが「座頭市」シリーズ。
〔「座頭市物語」大映京都作品。原作子母沢寛「ふところ手帖」より脚色犬塚稔。監督三隅研次。撮影松浦地志。音楽伊福都昭。主演勝新太郎、天知茂。坊主で盲目で、ツボ振りでも居合抜きでも目明きの及ばぬ腕の持主、座頭市という特殊の人物像を創造し、その意力とスーパーマン的な男の行動性が、ひしめき合って生きている現代人に魅力となった。(昭和37・4・18)〕(発達史4-406)
・「続座頭市物語」62年。森一生監督。共演水谷良重。
・「新座頭市物語」63年。田中徳三監督。共演坪内ミキ子。
・「座頭市凶状旅」脚色犬塚稔。監督星川清司。高田芙和共演。昭和38年8月10日公開。
・「座頭市喧嘩旅」脚色犬塚稔。監督安田公義。藤村志保共演。昭和38年11月30日公開。
・「座頭市千両首」64年。池広一夫監督。共演坪内ミキ子。
・「座頭市あばれ凧」64年。池広一夫監督。共演渚まゆみ。
・「座頭市血笑旅」64年。三隅研次監督。共演高千穂ひずる。
・「座頭市関所破り」脚色浅弁昭三郎。監督安田公義。高田芙穐。昭和39年12月30日公開
・「座頭市二段斬り」65年。井上昭監督。共演三木のり平。
・「座頭市逆手斬り」65年。森一生監督。共演滝瑛子。
・「座頭市地獄旅」65年。三隅研次監督。成田三樹夫。
・「座頭市の歌が聞える」66年。田中徳三監督。小川真由美。
・「座頭市海を渡る」脚色新藤兼人。監督池広一夫。安田道代。昭和41年8月13日公開。
・「座頭市鉄火旅」脚色笠原良三。監督安田公義。藤田まこと。昭和42年1月3日公開。
・「座頭市牢破り」勝プロ・大映67年。山本薩夫監督。共演三国連太郎。
・「座頭市果たし状」68年。安田公義監督。野川由芙子。昭和43年11月25日朝日座上映。
・「座頭市喧曄太鼓」68年。三隅研次監督。共演三田佳子。
・「座頭市と用心棒」勝プロ70年作品。大映配給。脚色吉田哲郎。脚色・監督岡本喜八。撮影宮川一夫。三船敏郎、米倉斉加年、滝沢修、若尾文子。興行ヒット。昭和45年1月15日公開。2月11日朝日座で上映。
・「座頭市あばれ火祭り」勝プロ70年作品・大映ダイニチ。三隅研次監督。共演大原麗子。昭和45年11月2日新開座で上映。
・「新座頭市・破れ!活人剣」大映71年作品。ダイニチ。安田公義監督。共演王羽。
・「座頭市御用旅」勝プロ72年作品。東宝配給。脚色直居鉄哉。監督森一生。森繁久弥、大谷直子。シリーズ23本目。昭和47年1月15日公開。大映解散で本作から東宝配給に。
「新座頭市物語・折れた杖」勝プロ72年:東宝。太地喜和子。
・「座頭市・笠間の血察り」昭和48年6月20日文化劇場で上映。
・「座頭市」勝新太郎監督・脚本・主演。昭和63年。勝新太郎は平成9年6月死去した。
昭和51年頃、テレビで「新・座頭市」が放映。最近ではビートたけしの監督作品として下駄のタップダンスの群舞という斬新な趣向の新しい「座頭市」も生まれた。

●新撰組の「沖田総司」は白河出身
娯楽映画の「新撰組」は繰り返し作られてきたが、近藤勇局長、土方歳三副長に次ぐナンバー3の一番隊長沖田総司は代々が江戸詰めの白河藩士の子。前二者をしのぐ剣の腕前で、新撰組一般とは別に沖田個人のファンが多い。昭和49年11月の東宝「沖田総司」(大野靖子脚本・出目昌伸監督・草苅正雄主演)をはじめいくつかの映画化作品がある。
昭和4年、ツキガタプログクション「剣士沖田総司」は数少ない沖田が一枚看板の主題映画。月形竜之助の主演。
昭和11年、東宝の前身PCL「新選組」では沖田は嵐芳三郎が扮した。
昭和17年「維新の曲」大映京都作品では滝口新太郎。
戦後の昭和27年「新選組」東映作品は村上元三原作・原健作配役。
29年秋「新選組鬼隊長」では中村錦之助。31年頃の新東宝「池田屋騒動」では徳太寺伸。35年の東映「幕末残酷物語」は主演大川橋蔵だが沖田役は河原崎長一郎。
昭和36年秋~37年暮れまで1年以上放送のTBSテレビ「新選組始末記」は明智十三郎。童門冬二脚本。子沢沢寛原作。
38年大映カラー作品「新選組始末記」は三隅研監督、子母沢寛原作で松本錦四郎。 40年7月11日~41年1月12日放送のNETテレビ「新選組血風録」と昭和45年4月1日~9月23日放送の同テレビ「燃えよ剣」では結束信二脚本で島田順司が沖田を演じ、広く人気を博した。以後、沖田のイメージは島田順司に重なりブームを呼ぶ。
このほかに43年「沖田総司」は永井竜夫原作「日本剣客伝」を梅宮辰夫が演じた。
45年1月1日封切りの三船プロ「新選組」は沢島忠監督作品で秀作、沖田を演じたのは北大路欣也。司馬遼太郎原作の東映「新選組血風録-近藤勇」では品川隆二が沖田を演じた。
フジテレビ「新選組」では有川博、東映「幕末の動乱」では若山冨三郎が、松竹「狼よ落日を斬れ」では西郷輝彦が沖田を演じた。舞台では汀夏子や天知茂も演じている。
平成10年10月からテレビ朝日「新選組血風録」。沖田には中村俊介が扮したが、甘いだけの配役だ。
気になるのは沖田が労咳で血を吐くという場面が定式化してしまっていること。結核で血は吐かない。お約束とはいえ、気になる。

その他の映画化作品。

●中山義秀原作「平手酒造」「少年死刑囚」の映画化 日活
昭和26年には郡山清水座で「平手酒造」が上映されているが、これは中山が同年文芸春秋に発表した作家安積高校新聞第16号によると〔正月に贈る重厚野心作、安積高校出身の俊才・・中山義秀が山村聡のために書下した快心の力作!!〕という宣伝広告が載っている(昭和26.12.16.)
また「少年死刑囚」は〔日活作品。原作中山義秀。構成八木保太郎。脚色片岡薫・佐治乾。演出吉村廉。撮影峰重義。主演牧真介、田中絹代、木室郁子〕(昭和30・7・3)
●富沢有為男原作「白い壁画」映画化
東京大空襲で焼け出され、昭和20年に双葉郡広野町に疎開した冨沢有為男は、戦後は平の文学膏年たちの指導的立場にあった。また映画鑑賞クラブに所属。彼の代表的長編小説「白い壁画」は戦前昭和16年に初めて書かれ、戦後にわたって続編が書きつがれたライフワーク的作品で、映画化されている。
○「上海帰りのリル」27年
新東宝作品。原作藤田澄子。脚色椎名文。脚色・演出島耕二。撮影三村明。主演水島道太郎、浜田百合子、香川京子。流行歌の映画化。(27.4.4.)
●芸術祭参加番組「たった二人の工場から」
清貧な雑誌出版工場の夫婦の姿を描いた平の真尾悦子さんの手記がNHKでテレビドラマ化され、昭和36年10月テレビ放送。
●「映画になる安積采女東宝近く下検分」31年(1956)
東宝の五所平之助監督が映画化を発表、〔主役は県人を使う〕と2月6日民報。タイトル、出演者等は不明。

●ノーマン・メイラー「裸者と死者と」33年(1958)
昭和33年12月に「裸者と死者と」が大勝館で公開された。メーマン・メイラーは、戦争体験の文学化という野心を抱いて海軍に志願。フィリビンでの日本軍との戦闘も体験。進駐軍兵士として小名浜に駐留したことがあり、この体験を活かして小説やエッセイを発表している「裸者と死者と」はメイラーの戦争休験文学の代表作。
●「改札口」福島の改札口で働く若い駅員をモデルにした県人作家の小説を松竹が映画化した。竹脇無我が主演。本人に問い合わせたが、鬱病のため芸能界から身を引いており、返信用の切手を同封したが、ついに返事はなかった。昭和34年東映作品。
●吉原公一郎原作「小説・日本列島」の映画化40年(1965)
いわき市平下高久出身(昭和3年)の吉原公一郎は「松川事件の真犯人」「小説・日本列島」などの社会告発作品を発表。「小説・日本列島」は熊井啓監督が脚色して映画化。
〔日活作品。握影蛭田真佐久。音楽伊福部昭。主演宇野重吉、二谷英明、芦川いづみ、チャリー・ブライスン。日本に二五五カ所もアメリカ軍事基地があり、基地を中心にした闇から闇への犯罪も絶えない。映画は、地球上の一列島としての日本に覆いかぶさっているアメリカを正面の目標として、その組織への怒りをぷちまけた社会ドラマであるが、脚本構成が弱く説得力があいまいなのは反米の印象をおそれたためか。しかし新人監督の意欲作として好感は持たれた。ベテトテン第三位〕(昭和40.5.26)(発達史)
●「吶喊」は全編、福島を舞台とする幕末の青春ドラマで、世良修三の暗殺を中心に、人生の目的を模索する一青年の若い血潮をみなぎらせるストーリー。脚本監督岡本喜八作品。製作=喜八プロ=ATG 配給=ATG。93分 カラー。製作岡田裕介 古賀祥一。昭和50年(1975.3.15)作品。
郡山市立美術館で上映したものを見た。
●山口愛美(有間しのぶ)原作の漫画「ぢょしこうマニュアル」が映画化1986年
大阪芸術大学舞台芸術科の四年生で漫画家、会津若松市出身の山口愛美さん(ペンネーム有間しのぷ)が週刊誌ヤングマガジンに連載していた漫画「本場ぢょしこうマニュアル」が東映で映画化。(昭和61年11月28日・民報)

●戦後の福島県の記録映画

益田晴夫監督の随筆「会津こぼれ草」には「伸びゆく福島」という記録映画のシナリオが収められてその概要が知れる。冒頭には当時の石原知事が県観光連盟会長として制作意図を約45フィートにわたって自らしゃべっている。やり直し一回だけの撮影でOKが出たという。ラストシーンは、電力県福島のシンボル只見川の開発の様子が描かれた。しかし、これは日本発電の記録映画「只見川」からの借用の場面である。ともあれ「伸びゆく福島」は戦後初の福島県の姿を描いた記録映画となった。昭和24年のことである。
続いて記録映画を作ったのは二本松岳観光協会の企画による「奥州二本松」という観光映画で、27年のこと。
昭和28年からは福島民友新聞が映画班を設けてニュース映画を撮影し、県内の映画館で上映。福島民報もこれに続いた。
29年には、その五年前に起こった松川事件をドキュメンタリー映画にした「松川事件」が完成。県内でも上映された。松川事件は劇映画にもなり、昭和36年に完成し全編がオールロケーションで撮影され、その緊迫した映像と法廷劇が全国に紹介された。事件は昭和24年のことだが、福島市の町並み、杉妻や永井川の光景がふんだんに取り入れられ、劇の背景だけでも戦後の福島のありさまが如実に描かれていて、貴重な映像になっている。
昭和61年には日映科学映画製作の記録映画「只見川」が完成。オールカラーで国家事業の様子をフィルムに収めた。
昭和34年には、会津若松市制六十周年の記念記録映画が、また三十六年には観光映画「会津嶺」が作られた。
県が再びPR映画を製作したのは昭和44年。「この歴史の上に」と題する明治百年記念映画である。読売映画社に制作を依頼。同社の監督杉原文治は保原出身。撮影を担当したのは二本松出身の管野厚生カメラマン。歴史再現のドラマをはさみながら、豊かな郷土をフィルムに紹介した40分のカラー作品。同映画は文部省選定となった。石川町出身の小山田宗徳がナレーションを担当している。
同じ44年、須賀川出身の金山富男カメラマンが、激変する郷土の姿を撮影し、「ふるさとの歴史」と題する記録映画を自費を投じて完成させた。これが縁で須賀川市は、五十八年に「須賀川の新しい町」の製作を金山氏に依頼。さらに金山撮影監督の提唱により、須賀川短編映画祭が実現し、今日まで続いている。「須賀川の偉人」という映画もある。
いわき市は昭和62年に市制20周年を記念して、いわき出身の監督に製作を依頼したが、あまり芸術的すぎる仕上がりで、物議をかもした。行政が考えるPR映画と、前衛的な実験映像を試みたい監督との間で、かなり感性の差が目立ったケースだ。
こうした自治体製作の映画は16ミリフィルムによる場合が多いが、手軽な8ミリを手にしたアマチュアは、地元に題材を求めて愛着こめたローカル作品を撮り続け、郡山シネクラブ、本宮クラブ、福島の小型映画協会などのグループが活躍した。
民生用ビデオの普及で、昭和50年代以後は、手軽にビデオで作品を撮影し、今や家庭で家族のスナップを撮る時代が到来した。

NHK「福島の20世紀」で紹介された記録フィルム

映画百年を迎えた1995年頃から,歴史的な記録映画フィルムを紹介番組が特集され、NHK福島では、次のようなフィルムが紹介された。すべて昭和に撮影されたもので、最古のものは昭和13年のいわきの炭坑を撮影したものだった。

13年 いわき炭鉱
17年 みつなか映画「郷土福島」
19年 疎開会津 疎開児童東京へ 郡山の開拓
24年 松川事件
38年 松川無罪 田子倉ダム
28年 会津まつり
29年 田子倉 大竹知事現地へ
30年 民友ニュース工事
30年 会津線SL
36年 会津高田の結婚式
37年 集団就職
40年 若松鶴ヶ城再建
41年 ハワイアンセンター
46年 第一原発
48年 原発反対運動
50年 東北自動車道開通
51年 常磐陳情団
57年 新幹線開通

このときNHK福島局はスタジオと現場を二元中継して、NTTのテレビ電話システムを使って実況放送した。紹介されたフィルムそのものよりも、画質の悪いコマ数の少ない電話画面のぎこちない動きの方が新鮮に感じられた。デジタル時代は、インターネットで画像を配信できる技術を開発しており、福島市から稲荷神社の祭礼が実験的にインターネット中継されたのもこのころ。
このほか、継続的に福島県内で撮影された映画フィルムがNHKで放送されたが、福島民報と民友のニュース映画が中心に夕方の時間帯に紹介された。
民友のニュース映画フィルムは、会津若松の県立博物館で、常時公開されている。
ロケーション天国

いわきのロケ

●松竹の「激流」ロケ内郷で 昭和19年
内郷はわが国炭鉱映画の発祥の地(「内郷郷土史」より)といわれる。昭和19年8月には「激流」のロケが内郷で行われた。
〔松竹大船作品。原作・脚色森本薫。演出家城巳代治。撮影西川亨。主演小沢栄太郎、高峰三枝子、水戸光子、丸山定夫。石炭増産が主題。(昭和19・8・17、白系)〕(発達史4-158)
「激流」は松竹1944作品。家城巳代治監督。〔石炭増産をテーマとしたものだが、予定されていた渋谷実監督が応召のため、一番弟子の家城巳代治が代わった。劇作家森本薫のシナリオだけに、増産を正面きって謳わず、そこに働く人々の家庭問題や人間関係を主に描いた点に特色がある〕(「大東亜戦争下の映画界」)
●炭鉱映画発祥の地、内郷のロケ
「内郷郷土史」によると、炭鉱を舞台にした日本映画の中で優秀作品として激賞された戦時中の松竹映画「激流」のほか、戦後の「緑なき島」や、東宝映画「女ひとり大地をゆく」、独立プロ・俳優座提携による「市川馬五郎一座・浮草日記」、北星映画「オモニと少年」などの作品がある。「緑なき島」と「女ひとり大地をゆく」の長崎県と北海道の炭鉱ロケ地以外は、いづれも常磐炭鉱内郷鉱がロケーションの主要舞台。
磐炭争議が終結した昭和のはじめ、日本の炭鉱劇映画の草分け、帝キネ作品「地熱」ロケを最初に、日中戦争に入った昭和14年頃、日活が山本礼二郎、滝口新太郎、橘公子主演で、内郷綴坑、旧入用採炭の湯本坑と川平坑などをロケして「激流」を完成した。太平洋戦争の最中は松竹が笠智衆主演の「家に三男一女あり」、また石炭増産を取り扱った同題の国策映画で小沢栄太郎、水戸光子主演の「激流」が19年8月に封切。好評をえた。
昭和23年「ヤマに帰ってきた男」は佐野周二主演。ともに住吉一坑を中心舞台に、磐崎・湯本両鉱の坑外でロケ。
同27年12月、阿部豊演出の新東宝「女という城」主演上原謙、高峰秀子のロケは、現在いわき市立内郷二中がある内郷鉱住吉坑第一道坑々口と、湯本鉱六坑々外で行った。
同30年11月の常磐炭鉱労働組合創立10周年を祝い、同労組が記念事業の一環として製作を全面的に後援した「市川馬五郎一座・浮草日記」は、山本薩夫監督によって10月から内郷・磐崎両鉱を舞台に長期間のロケを敢行。東野英治郎・小沢栄太郎・花沢徳衛・大塚道子ら新劇界のベテラン揃いに加えて菅原謙二、津島恵子など人気スターが来山し、ロケ現場は連日黒山の人垣を築いた。キネマ旬報ベストテンの第九位に入賞。北星映画「オモニと少年」は、森園忠がメガホンを取って内郷鉱住吉一坊坑外、市立高仮小学校、国鉄常磐線の内郷駅構内下り線ホームに機関区から客車を借り入れ、また高坂小学校では消防ポンプ車の放水による人工雨を降らせて、雨のシーンを撮影する大掛りなロケを行った。内郷でのロケは菅原謙二、山岡久乃主演によるテレビ映画「海を渡る男」の内郷御殿区炭鉱住宅街の撮影を最後に一応の終止符をうった。

●いわきでロケした「喜びも悲しみも幾歳月」 昭和32年松竹
〔松竹大船作品。原作・脚色・監督木下恵介。撮影植田裕之。音楽木下憲司。主演佐田啓二、高峰秀子、桂木洋子、中村賀津雄、田村高広。二五年のしみじみとした夫婦愛に結ばれた燈台守夫妻の平凡だが感動的な佳作。興行的にも本年度最高の三億七千万円をあげる。ベストテン第三位。(昭和32・10・1)〕(発達史)
燈台守の妻、田中きよさんの「海を守る夫ととにも二十年」という手記を読んだ木下恵介監督がモデルにして脚本を書いて映画化。夫妻は退職後に塩谷崎に近いいわき市に夫妻は永住。「新喜びも悲しみも幾歳月」が1986年にリメイクされている。しかし原作者の名は、どちらも木下自身になっている。
●関田の旧派街道で東宝映画「野口雨情」ロケ 昭和33年東宝
昭和33年、東宝映画久松静児監督による文芸作品「野口雨情」が製作。北茨城市磯原やいわき市勿栄町関田周辺でロケが行われた。関田町北町のヤマト醸造元の前でお祭のシーンが撮影。主演の森繁久弥、扇千景らが出演。撮影に支障を来すほどの人垣が出来た。森繁扮する野口雨情が蛭田川の土手で馬をひいて家路につくシーンが撮影。関田町や勿来駅前の子供たちが大勢エキストラとして出演した。(植田公民館「故郷の話をしよう」)
●しかし、石炭ブーム焼失とともに、テレビ映画「海を渡る男」菅原謙二、山岡久乃を最後に内郷ロケは終了。
●「樺太一九四五・氷雪の門」ロケ
昭和49年7月には、「樺太一九四五・氷雪の門」のロケが内郷内町の炭鉱住宅跡地で行われれ旧炭坑に聳える煙突を背景に、終戦直前の樺太・真岡市の繁華街を仮設したオープンセットによる撮影。田村高広、木内みどり等が出演、地元の主婦たちもエキストラとして防空頭巾にモンペ姿で戦時下を再現する場面に共演した。この映画は、反ソ的とされてソ連から抗議されて東宝がひっこめた。しかし公開はされている。
「氷雪の門」J・M・P作品。東映配給。原作金子俊男。「樺太一九四五年夏・樺太終戦記録」より脚色国弘威雄。監督村山三男。撮影西山東男。主演二木てるみ、岡田可愛、藤田弓子、千秋実、島田正吾、丹波哲郎。昭和二〇年八月終戦直後の樺太を舞台に、ソ連の不法進攻に若い生命を投出し、職場の真岡郵便局を守り続けた九人の交換手を通して、戦争の実態を怒りをこめて描く。はじめ東宝はソ連へ遠慮して興行を避け、東映洋画系に上映された。(昭和49・8・17)(発達史V298)
この9人の交換手のなかに、福島県原町市馬場川原田192-6出身の志賀春代さん(当時21才)がいた。昭和20年8月15日の終戦とともに、男子職員と交代して内地に引き上げるように説得されたが、九人の交換手たちは重要通信の機能停止を心配して全員残留を志願し、決死隊として残留した。20日午前7時に上陸したソ連軍は艦砲射撃を加えながら同郵便局内に侵入。同局交換台は「これが最後です。みなさんさようなら、さようなら」と隣接の泊居局に連絡。受話器を耳にあて、キーを握ったまま準備していた青酸カリで服毒自決した。昭和48年3月30日の閣議で叙勲が決定。平成7年に終戦50年を記念し福島出身の製作者守田康司さんらの呼び掛けで全国で自主上映。福島テルサでも9月30日に上映。
●「洟をたらした神」昭和53年2月
吉野せい原作の「洟をたらした神」のテレビ映画が昭和53年にロケーション撮影。ところが、いわきに隣接する双葉郡内の原発がらみの場面が無理やりに挿入されているとして社会的論議を呼んだためテレビ会社がスポンサーへの配慮から放映を中止。54年にいわき市内で自主上映されて大きな反響を呼んだ。原作は第5回田村俊子賞を受賞、第6回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。文学と通じて知り合った詩人の三野混沌と結婚。開拓生活に入り、貧困に耐えて生きる女性の一生をえがいた。新藤兼人が脚本を担当。神山征二郎が監督。もともとスポンサーが科学技術庁で「暮しとエネルギー」のキャンペーン番組だったが、長男が原発に勤務し、せいさんに原発を見学されるという原作にない場面が設定されたため、議論を呼び、製作途中でテレビ局が放映中止。このため原発部分をカットして文芸作品として完成した経緯がある。カラー80分。
●松竹映画「ロケーション」の内郷ロケ 1984年(昭和59)
久しく内郷のロケ撮影を忘れかけていた市民に、再びロケ隊の一行が姿をみせたのは昭和59年8月松竹映画「ロケーション」の撮影。森崎東監督。西田敏行、大柿道代、美保純などが出演。北茨城市五浦海岸から、いわき市内の夏井川河口付近の海岸、常磐湯本町でロケ。内郷では国鉄内郷駅前広場で行われた夏祭りの年中行事、内郷回転櫓盆踊り大会の雑踏する人込みに交じって、主役の西田敏行扮するキャメラマンを、平商工信用組合内郷支店屋上の高い位置から見下ろすように撮るハイ・アングルのロケを行った。
●「ガラスのうさぎ」
高木敏子原作「ガラスのうさぎ」の映画化。戦災で良心を失った少女が、福島県に疎開。常磐線で上野までの普通列車がなくて困っているところに、勿来駅で出会った親切な見知らぬ小母さんが一晩泊めてくれる。この小母さんのモデルは勿来町窪田片岸の人。(植田公民館「ふるさとの話をしよう」)
●「フラガール」(後述)

映画の宝庫 会津のロケ

●会津での戦後ロケは観光ブームで、数限りない映画の舞台となり、有名スターが往来し、観光地としての知名度を上げた。
小原庄助映画「小原庄助さん」昭和24年、新東宝。大河内伝次郎主演。清水宏監督。脚本岸松雄。
〔磐梯山をめぐる二つの映画・・・泥棒ともまず一杯 オールロケの豪華版封切は十月〕(民報24・8・21)と紹介しているのは戦後間もない時期のロケ作品。
しかしこれは小原庄助を題材にした人間造型で、戦後の土地解放ですべてを失った地主の人情味豊かなほのぼのとした味の清水作品だ。
31年「次男坊故郷へ行く」(松竹)。
民友の県民百科には県内ロケの一例として〔小原庄助をモデル(伴淳)にした「次男坊 故郷に帰る」(松竹・佐田啓二主演)などがある〕と記されているがこれは「次男坊 故郷に行く」のことか。伴淳が主演の喜劇。
同作品は野村芳太郎監督。高橋貞二、桂木洋子、磯野道子、関千恵子、中側姿子、三井弘次、伴淳三郎が出演。
35年には東映の「会津磐梯山 庄助武勇伝」がある。
「会津磐梯山 庄助武勇伝」松田定次監督。大友柳太郎、丘さとみ、山形勲、千秋実、木柳永二郎出演(日本映画索引)。
小原庄助の名は、昭和10年に小唄勝太郎を起用してレコードで売り出したPRソング「会津磐梯山」の歌詞が発祥で、それほど古くない。戦後の土地解放テーマや、地方の家族問題にくり返し庄助は変形(メタモルフォーゼ)されて起用され、武勇伝では庄助が戊辰戦争で活躍する。
●戦後の「白虎隊」映画では29年「花の白虎隊」大映は市川雷蔵主演で、勝新太郎のデビュー作。昭和29年9月22日民報広告は
〔花の白虎隊 福島市で初公開〕と報じている。
34年には松竹「惜春鳥」、東映が「会津の決死隊 幕末美少年録」を公開。
「会津の決死隊 幕末美少年録」は伊賀正光監督。里見浩太朗主演。花園ひろみ出演。(日本映画索引)
40年1月にTBSが初のテレビ映画か「燃える白虎隊」を、61年12月には日本テレビが巨費を投じて年末特番の「白虎隊」を製作上映。これらの集客効果は計り知れなかった。
●戦後の「野口英世」映画 昭和30年
「野口英世の少年時代」(東映教育映画部制作)があり、当時の新聞は「地元の校長先生も出演 猪苗代 野口英世のロケ始まる」(昭和30年10月20日民友夕刊)と報じている。
野口の生誕百年の昭和51年には「野口英世伝・光は東方より」をテレビマン・ユニオンが制作。FTV日曜特番として11月14日と21日の2週にわたって放映。民報10月21日の新聞は「帰郷シーンを再現 野口伝の現地ロケ」と報道。猪苗代で大規模なロケが行われた。主演の野口には仲代達也。翁島駅で大歓迎を受けるシーンや、伊丹十三ら湯名俳優の出番を中心にロケ。野口は大正3年に梅毒スピロヘータの培養に成功し、ロックフェラー研究所の正研究員になり翌年、帰国した。翁島での歓迎の瞬間は歴史に残る名場面で、これが再現された。地元住民二百人がエキストラとして出演。なかにはスタッフの用意した衣裳を断り、自前の当時の衣装を着て臨む者もありスタッフを感激させた。野口が生家で母親と対面する場面では、母親に扮して出演したのは地元の大越りんさん。リアルな演技を出して熱演した。苦労したのは美術スタッフ。会津若松駅は近代的なコンクリート造りになっているため、急遽、磐梯町駅で一般客が降車した直後に「会津若松駅」の看板を取り付けて、野口の乗った列車が到着して地元の乗客がどっと乗り込むシーンを撮影して汗を流していた。
昭和56年には福島中央テレビが制作した初の海外取材番組「アメリカからの報告野口英世 炎の生涯」を制作。同局の「福島の素顔・ふるさとを築いた人々」の一つとして放送した。星亮一制作部長、酒井和夫ディレクターら4人がアメリカ海外取材にあたった。
このほか野口の伝記映画に「遠き落日」があるが、平成のロケーションに記載。
●「あすなろ物語」30年、東宝。井上靖原作の小説の映画化。4月4、5日若松城を中心に会津若松市でロケ。城下に住む旧制高校生(久保明出演)が早朝のある日、下宿屋を探して歩くシーンなどが撮影された。この日、堀川監督、カメラマンなど一行二十名のスタッフはバス一台を借り切って、まず材木町星野酒造店わきの路地でワン・カット、つづいて鶴ヶ城の西出丸付近の坂でロケを行った。早春の感じを出すために猪苗代湖畔からわざわざトラック四台分の雪を運び、せっかく乾ききった公園の散歩道を消防給水車が水をまいてぐちゃぐちゃにするという徹底ぶり。数回のテストのあと本番撮影を完了。おりから冬に逆戻りの天候にスタッフ一同ぶるぶるふるえていた。
●「鬼の居ぬ間に」(31年、東京映画)が森繁久弥・木暮三千代主演で4月、磐梯熱海でロケ撮影。源氏鶏太原作。瑞穂春海監督。東京映画。
●「キクとイサム」今井正監督。1969年(昭和34)大東映画、白黒ワイド。
戦後を色濃くあらわした本編も福島県が舞台だ。喜多方市で長期ロケが行われた。
大東映画株式会社作品、松竹配給。脚色水木洋子。監督今井正。撮影中尾駿一郎。主演高橋ユミ子、奥の山ジョージ、北林谷栄、滝沢修、宮口精二、東野英治郎。キクとその弟のイサムの黒人混血児の姉弟を、会津磐梯山に近い山村を背景に描き、社会的角度からの問題点も提出している。この年のベストテン第一位。(昭和34.3.29. 発達史Ⅳ-336)
●「惜春鳥」 34年
木下恵介監督。松竹作品。友人の帰省をきっかけに再会した若者たちの交流と青春群像が会津若松を舞台に描かれる青春ドラマ。会津で大ブームとなりロングランした。4月ロケ。
「惜春鳥」〔松竹大船作品。脚色・監督木下恵介。撮影楠田浩之。音楽木下忠司。主演津川雅彦、山本豊三、石浜朗、小坂一也、川津祐介、有馬稲子。新人スター売り出しを白虎隊の会津を背景に試みた木下のサービス映画(昭和34・4・28)〕(発達史Ⅵ318)
●「山と谷と雲と」34年(日活)は石原裕次郎らが末広酒造でロケ。
●「山の彼方に」(34年)須川監督作品。宝田明主演。撮影スタッフは9月2日若松着。3日から撮影。市内数カ所で2週間、長期ロケを行った。
●「青春三羽烏」(松竹・34年)が9月下旬から裏磐梯でロケ。
●35年には松竹映画「銀嶺の王者」ロケのためトニー・ザイラーが来県。1月16日福島入り。16日午後2時、猪苗代スキー場に到着。ロケハンのため番匠義彰監督とスタッフ11名が来訪した。ザイラーはこのあと、出入国管理法で取り調べ。
●36年11月「先客万来」(松竹)が東山温泉ロケ。大映「強くなる男」で村山三男監督、本郷功次郎、叶順子らが芦ノ牧温泉に来訪。
●37年「春の山脈」(松竹)で佐野周二らが会津若松ロケ。野村芳太郎監督。鰐淵晴子、山下洵二、三上真一郎、十朱幸代、佐野周二、藤間紫、西村晃、菅井きん、渡辺粂子出演。
●37年6月「駅前旅館」で森繁久弥らが飯坂、裏磐梯、熱海でロケ。淡島千景、フランキー堺、淡路恵子、池内淳子、伴淳三郎などの一流スターやロケ隊120人が到着。一足先にきていた久松静児監督、森繁久弥らと同温泉の向滝旅館、水明荘、金欄荘などに分宿。
●37年「僕たちはギャングじゃない」が会津若松の子供会をモデルに撮影。ギャング・エイジの教育映画。MOMプロダクション。木村荘十二監督。
●41年「馬喰一代」田島町ロケ。1月「太陽の丘」(NHK)森繁久弥ら裏磐梯ロケ。
●52年には「美女放浪記」(松竹)が会津若松を中心にロケ。研なおこ主演。民友県民百科「映画」の項に「1978年(昭和53年)には会津若松を中心に「美女放浪記」を会津ロケで撮影したとしているが、実は昭和52年公開の作品。松竹・田辺エージェンシー作品。渡辺祐介監督。主演研ナオコ、秋野太作、前川清、ピンクレデイー、ミヤコ蝶々、坂上二郎、柳家小さん、佐野浅夫。
●「ああ野麦峠」ロケ 53年(1978)
「ああ野麦峠」(大竹しのぷ主演)のロケが雪の猪苗代湖や郡山市御霊櫃峠で行われた。
●「花街の母」「獅子の時代」昭和54年(1979)
1979年(昭和54)は金田たつえのヒット曲を映画化した「花街の母」(東宝・松尾嘉代、長門裕之主演)が11月に東山・芦ノ牧温泉と会津若松市で長期ロケし、12月からは若松を中心にNHK大河ドラマ「獅子の時代」(昭和55年放映)の長期ロケが行われた。会津藩士として菅原文太が出演。
●「男はつらいよ・柴又から愛をこめて」第36作  昭和60年(1985)
松竹。舞台は伊豆下田。一部を会津ロケで撮影。マドンナは栗原小巻扮する小学校教師島崎真知子。二十四の瞳のパロデイ。共演は川谷拓三、美保純。
●「白虎隊」昭和61年12月31日
年末特別テレビ映画「白虎隊」が日本テレビで放映。

喜多方のロケ

○喜多方を舞台の青春映画「けんかえれじい」1966年〔日活作品。原作鈴木隆。脚色新藤兼人。監督鈴木清順。撮影萩原憲治。主演高橋英樹、浅野順子、川津祐介。昭和中期を背景に、高橋の中学生が青春のはけ口を喧嘩と蛮行に明けくらし、そのくせ好きな女には物も言えない内気さを特つという話を独特のハードな技法で描く。(昭和41・11・8)〕(発達史)
鈴木隆原作の「けんかえれじい」は、理論社から1966年に出版された小説。がむしゃらな青春のエネルギーを喧嘩で発散させる一方で、聖女のような道子に恋こがれる主人会キロクの破天荒な青春記。戦前の喜多方町が主要な舞台となっている。故郷岡山二中から喜多方中学校に転校し、会津中学の昭和白虎隊との喧嘩の先頭に立って大いに暴れる。だが、愛する道子は体の欠陥を理由に修道院に入ることを告白。いたたまれないキロクは、時あたかも昭和維新を叫んで吹き荒れる二・二六事件の報道に心を揺さぷられ上京する。
監督鈴木清順の代表作の一つで同氏に「けんかえれじい」という同題のエッセイ集があり、映画化のためのシナリオが鈴木監督のも含めて2種類収録されている。
ただし会津ロケはなかった。喜多方の場面は別な県で撮影。
●「子供のころ戦争があった」喜多方といわきの両市でロケ55年(1980)松竹・文校プロ製作。松竹・冨士映画配給。斎藤貞郎監督初作品。2月14日封切り。日本児童文学者協会と日本子供を守る会が編集した「語り継ぐ戦争の記録」の中の「混血の少女の死」をテーマにした作品。太平洋戦争下の福島県磐城郡米川村を舞台に、ある酒造家の娘が、アメリカ人の父を持つ混血少女を周囲の迫害を避けて蔵の中で隠し育てている。疎開してきた小学二年生の少年が同情し、土蔵から連れだして海で遊んでいる時、急に襲来した米軍のグラマン機の機銃掃射で殺されてしまう。喜多方といわきの両市でロケーション撮影。出演、樫山文枝、梶芽衣子、キャサリン、三益愛子、中原ひとみ。第一回のロケはさる5月24、25日の両日、喜多方市内で行われ、蔵の格子戸窓から顔をのぞかせているエミと、そばのカキの木に登っている太郎が話し合う春の情景が撮られた。
●「はねっかえり純情派」録画撮り 昭和62年(1987)
NHKテレビ「銀河テレビ小説」の喜多方市を舞台にした「はねっかえり純情派」の録画撮りが62年2月敢行。テレビ放映は4月6日から5月1日まで20回。脚本高橋正圀。
物語は喜多方出身の恵(紺野美佐子)25歳が東京で婦人消防官として働き、めいの由布(荻野目慶子)20歳が家出して上京し恵の所にころがり込み、二人の女性が東京と喜多方を舞台にさわやかな青春の喜びと悩みを展開するもの。
●喜多方商高生らの青春群像が映画に 昭和63年(1988)
「子どものころ戦争があった」の斎藤貞郎監督が、ピカソの「ゲルニカ」を実物大に再現した喜多方商高生らのエピソードをもとに映画化。蔵の町喜多方周辺を舞台に、漕艇部の生徒たちがゲルニカ作りを核に、針路の悩みなど色々な壁に突き当たりながらも自分たちの人生を切り開いてゆくという青春映画に。

県南のロケ
●「斯くて夢あり」昭和29年日活
昭和29年4月9日、塙町を日活一行がロケハン。千葉監督。25日からは矢祭山と塙町でロケーション撮影。トラック二台、乗用車大型バスその他と数十名が塙町の花屋、矢祭温泉ホテルに分宿。(金沢友春著「澄んだ秋空」の夫人の日記より)
●「雨にも負けず」矢吹ロケ(昭和32年)
宮沢賢治の伝記もの映画化。昭和32年7月7日民報に「雨にも負けず」矢吹ロケにちなんだ座談会が載っている。シナリオ文芸協会代表取締役猪俣勝人ほか。猪俣は〔恐らく宮沢賢治のものが映画になるのはこれが初めてと思います。それは遺族の方々の困るという意思が強かったためですがちょうどことしは賢治が亡くなって二十五周年に当り、その記念事業として映画化されることになったので遺族たちをやっと承諾させたが、あくまで地元花巻ではいやというので〕シナリオを坦当した柴英三郎が郷里福島県の矢吹を選んだ。
昭和37年7月完成。「雨ニモ負ケズ」制作シナリオ文芸協会。製作脚本猪俣勝人。監督蝦川伊勢夫。出演重森孝司、北山年夫、納屋悟朗。ただし「賢治フィルモグラフィー」によると、この映画の前に昭和15年と32年に「風の又三郎」、28年「セロ弾きのゴーシュ」がある。(「宮沢賢治の映像世界」)

本宮のロケ

●新日活最初のヒット「警察物語」昭和29年
「警察日記」(35ミリ、モノクロ・トーキー) は1954年製作。久松静児監督、森繁久弥主演、沢村貞子、三国連太郎、二木てるみなど共演の日活映画で、駐在所勤務の警察官と町民の心あたたまる交流を軸に、人情味あふれる内容の劇場用映画。オープン・ロケの大部分は本宮町内で撮影され、映画には旧本宮警察署、駅前通り、千鶴荘前、昭代橋、阿武隈川堤防などが次々に映し出され、戦後間もない昭和20年代の本宮の姿をほうふつとさせてくれる。作品としても高い評価を得た映画(本宮町史)。磐梯山を背景に、新相馬節が流れるシーンはいかにも東北福島の田舎ののどかな田園イメージを描いた。昭和32年には「続警察日記」が公開。
●本宮方式映画教室の成功と「こころの山脈」製作 昭和41年
本宮方式映画教室運動が母体となり、町民あげての強力で、1966年に製作された「こころの山脈」は特筆される作品。同運動の始まりは1956年(昭和31)太陽族映画が出現したころで、本宮町の母親達、教師、映画館主らが手をたずさえて、エロ・グロ映画追放に立ち上がり、子供と大人がすぐれた映画作品を計画的・継続的・組織的に見て考える「本宮方式映画教室」がスタートし定着。全国的に話題となった。1962年(昭和37)ごろからは母親たちを中心に「いっそ親子そろって安心して観られる映画を自分たちで創ったら」という声が起こった。やがて「本宮方式映画製作の会」を誕生させ、ついに近代映画協会の協力を得て実現。64年「映画製作準備委員会」が結成され、翌年5月には脚本千葉茂樹が決定し、9月から撮影が始まった。監督は吉村公三郎、キャストは宇野重吉・山岡久乃・吉行和子・殿山泰治・奈良岡朋子らに地元の人々多数が参加し12月歓声。12月26日中央館で試写会が行われた。
映画は美しい本宮の自然をバックに、一人の産休補助教員(渡り鳥先生)が真剣に教育に取り組む姿を中心に、母と子と先生のつながり、葛藤をヒューマンな目で描き、観る人に深い感動を与えた。この映画によって本宮方式映画教室運動の会・同映画制作の会は、キネマ旬報社・日本映画記者の会・東京映画記者の会・東京勤労者映画協議会、朝日新聞社等から、さまざまの賞を受けた。(本宮町史)
●「秋桜-コスモス-」(平成のロケーションに記載)

二本松のロケ
●高村光太郎詩集「智恵子抄」の映画化
昭和32年3月、東宝映画「智恵子抄」の二本松ロケが敢行。故智恵子の生家のあった安達郡安達村油井字漆原の旧長沼家=二階堂藤作さん方や、高村光太郎が詠んだ詩「樹下の二人」の思い出の地県立公園霞ヶ城跡などを撮影。旧長沼家のロケは熊谷久虎監督のメガホンで地元から募集したエキストラ数十名が総出演。華やかだった幼時の旧長沼家の造り酒屋「花霞」のおもかげを再現。威勢よくこもかぶりの四斗樽を運搬したり酒屋に出入りする人々の賑やかな場面を撮影。朝から二千人の見物人が道の両側をびっしり埋めた。熱演するエキストラも、これを観る見物客もたがいに顔見知りだけにロケはヤジや冷やかしも飛び出し大騒ぎだった。山村聡、原節子の二人が熊谷監督らと城跡内の洗心亭で待機中の姿を見つけた地元ファンらが押し掛け、主演二人に智恵子の親戚にあたるむすめさん三人から花束を贈られた。
〔東宝作品。原作高村光太郎。脚色八住み利雄。監督熊谷久虎。撮影小原譲治。音楽団伊玖磨。主演原節子、山村聡。狂った妻に扮した原節子が秀逸〕(昭和32・5・9)
10年後に松竹も智恵子抄を製作公開している。「智恵子抄」は国民的ロングセラー。
〔松竹作品。原作高村光太郎「智恵子抄」、佐藤春夫「小説智恵子抄」より脚色・監督中村登。撮影竹村博。音楽佐藤勝。主演丹波哲郎、岩下志麻、南田洋子、平幹二朗。犬吠崎、裏磐梯、九十九里の浜などを背景に、光太郎の愛の詩が字幕の形で画面に流れる。精神病院で切り絵をつくる智恵子の姿が表象的。ベストテン第六位。松竹本年度最高の興行成績を上ぐ。〕(昭和42・6・5)(発達史Ⅴ)
●「極北の愛」NHKでドラマ化 平成3年
〔NHK「極北の愛」二本松ロケ 90分。10月放送。〕(平成3年6月15日民報)

川俣のロケ
●「ママおうちが燃えてるの」川俣でロケ。こけしで育名な虎造も出演。昭和36年8月公開。

飯坂・隈畔・福島のロケ

●「少年姿三四郎 山岳の決闘」昭和29年
霊山ロケで撮影。小林常夫監督。出演波島進。福島出身の女優水木淳子が出演。
●「乙女心の十三夜」昭和31年
温泉町“飯坂”を背景に清純な恋の哀歓
福島では初のロケ。小林桂三郎監督。葉山良二主演。島倉千代子のヒット・ソングの映画化。若喜旅館を舞台に。4月18日に福島日活で公開。
●「裸の太陽」32年 東映作品。家城巳代治監督。白黒ワイド。紡績工場で働く娘と国鉄の機関士の恋を軸に、働く若者の青春を描いた。利己的ではあるが楽天的で屈託のない労働者の生活行動を、ありのままに生き生きと明るく映し出した。郡山、福島市の日東紡績、機関区などを中心にロケが行われた。主役の恋人役は江原慎二郎と丘さとみだが、後年、江原の妻となった中原ひとみが妹役で出演している。
●「その恋待ったなし」松竹映画
飯坂を撮影33年、野村芳太郎監督のメガホンで東北、北海道をロケーション。このほど婦京したが、トップシーンを飾る飯坂温泉を撮影するため6月20日朝九時から同映画撮影隊が来飯。7月14日から東京と同時に福島松竹で公開される。
●「一粒の麦」福島ロケと千葉茂樹の劇的デビュー
福島駅を臨時編成の集団就職列車が出発。この中に平田中学の井上先生が離郷の不安と緊張にこわばった表情の卒業生11名を引率していた。井上は、と思いながらも、わずか15才で上京して都会で下積みの生活に向かう少年少女のための就職活動に奔走する教師のあり方に疑問を抱いているが、恋人のイチ子は「教壇で教えるだけが教育者ではない。世の中の土台を背負って立つ人間の就職に心を砕くのも教師のつとめ」「あなたの足が地についていない」と叱咤されて、思わずイチ子を殴ってしまう。困難な状況の教え子たちとともに苦悩し、人間的でありたいと思う井上の姿を描く。大都会に蒔かれた小さな一粒の麦は、育つのだろうか。聖書ヨハネ伝の一節「一粒の麦、地に落ちて死なずば」からの題。
福島市(泉字八幡一三の一)出身の若きシナリオ作家千葉茂樹は、福島大学経済学部に学んだが、映画への情熱たちがたく二年の時に日本大学芸術学科に入学。卒業と同時に映画界に入り新藤兼人の助手となり、昭和32年新人シナリオコンクールに「一粒の麦」を応募。この力作に感激した新藤が吉村公三郎監督に紹介。吉村が脚本に惚れ込んで映画化が決定。本県から東京へ集団就職した男女の中学生が若い先生夫婦になぐさめ、はげまされながら職場で苦難を乗り越えるという物語。先生役には菅原謙二、若尾文子が予定され、また原作者千葉さんは方言指導でこのスタッフに加わることになった。4月17日、吉村監督、千葉さん、その他スタッフの面々が下り急行「青葉」で来福、地元で集団就職の実態や映画化に伴う飯坂ロケハン。「一粒の麦」8月26日福島大映、27日郡山大映公開。
●「松川事件」記録映画 昭和29年(1954)
松川事件は福島市郊外の金谷川駅近く。昭和24年に発生した鉄道妨害による列車転覆事故で、共産党関係の労働組合員が逮捕。松川事件の実際を検証して、被告たちの無罪を論証する内容。
●「松川事件」の劇映画 昭和36年(1961)長く法廷で争って無罪を勝ちとった被告達の劇的な戦いを描いた。最高裁判決の出る直前までを描いた。骨太の作品で法廷劇の緊迫さ、権力悪への挑戦といった山本調をよく出している。戦後の福島の風俗、ことに南福島の杉妻、永井川あたりの生活感を拾っており福島駅前・地方裁判所などロケの現場の空気をドラマとうまくつないでいる秀作。社会性を全面に出し、事件から12年後の映画化だが、公開のタイミングもよかった。35年は安保の年である。日本の労働運動の隆盛期で、労働者庶民の自覚と連帯感が横溢し、錚々たる俳優陣が出演。娯楽としても一級の作品になっている。自主配給。〔松川事件松川事件劇映画製作委員会作品。脚色新藤兼人、山形健策。監督山本薩夫。撮影佐藤昌道。主演小沢弘治、宇野重吉、宇津井健、下元勉、宮阪将嘉。昭和24年8月17日の、東北本線金谷川事件をセミドキュメト風に演出〕(昭和36・2・8)全国封切りに先駆けて福島市の福島日劇で1月31日に初公開。2月21日から郡山日劇で上映。原町日活、中村中央でも2月8日から公開。
●41年、日活の「旭の渡り鳥シリーズ」がスカイラインで、「ザ・ガードマン」が高湯温泉でロケ。
●「幾山河の歌情熱の歌人牧水」阿武隈川畔でロケ 42年
〔マツオカ・プロダクション製作。脚色・監督松岡新也。撮影大国寛之、谷山次義。語り手滝沢修、東山千栄子。歌人若山牧水の生涯を追って、各地に残る牧水歌碑を絵画的な構図と叙情的なナレーションで見せ、明治、大正期の懐かしい追想がよみがえる。教育映画祭その他受賞多し。昭和48・1〕(発達史V352)
●昭和54年5月には幻の名画といわれる阪妻の「地獄の虫」(無声映画)の再映画化(田村高広主演)のロケが新緑の土湯温泉や福島市黒岩満願寺を中心に行われ、福島市出身の国際的バイオリニスト佐藤陽子が鳥追女にふんして出演した。

SLもの

●「鉄道電化」1950
昭和25年、社会科教育教材として「鉄道電化」奥羽線福島米沢間の40キロ工事を中心に電化の利点を明快に説明した豊田敬太監督の監督第一作。
●「裸の太陽」1955
東映東京。国鉄機関助士の物語。郡山磐越西線が登場。戦前にも「指導物語」という名作があるが、国鉄が活躍していた時代には鉄道労働者を主人公にした映画が多かった。
●「改札日記」1959
昭和34年1月22日民報は、福島駅の国鉄マンの原作による「改札日記」が投影で映画化されることが報じられている。福島市史文化編に原作の紹介があり、昭和32年に発表された渡辺秋哉の小説で川北小六という改札係の若い国鉄職員が主人公。映画では竹脇無我が主演した。

相馬と二本松のロケ
●朝のテレビ連続小説「はね駒」放映昭和61年(1986年)
昭和61年4月7日~10月4日、毎週月曜~土曜日、朝8時15分~30分。明治の女性新聞記者、相馬出身の磯村ハルをモデルにした運続テレビ小説。シナリオは寺内小春。同女史は昭和6年京城生まれ。終戦後、父方の故郷二本松に一家で疎開し、彼女は足立高校を卒業した体験から、二本松を舞台とする場面が付け加えられたが、実際には磯村ハルは二本松とは全く関係がない。主役の橘りんに斉藤由貴、母やえ樹木希林、父弘次郎に小林稔実、祖父徳右衛門に山内明。祖母ことに丹阿弥谷津子。後に夫となる小野寺源造に渡辺謙。押川方義がモデルの松浪毅に沢田研二、初代中村教会牧師吉田亀太郎がモデルの中河鶴次に矢崎滋。幼な馴染の新之助に益岡徹。キリスト教精神に目覚め教会の中で聖書のパウロの愛の手紙を英語で暗唱する場面には日本語の字幕が出たが、絶唱ともいうべき場面であまりに感動的だった。

その他

●円谷幸吉のTV伝記ドラマ製作昭和51(1976)日本テレビによる栄光と悲劇のオリッビック・マラソンランナー、円谷幸吉の伝記ドラマのロケーションが11月郡山で敢行。放送は福島中央テレビで12月15日。
●「ああ!この愛なくば」テレビドラマ昭和55年(1980)
本郷町の大石邦子の闘病手記「この愛なくば」(講談社)のテレビドラマ化。30日午後2時から2時間、福島中央テレビから放映。6月末から主演の大竹しのぷが訪れ、会津若松市、本郷町、猪苗代町などでロケーションした。芸術祭大賞受賞。
●宮城まり子さんの第4作「HELL0!KIDS」昭和59年(1984)
交流深めフィナーレ撮影〔先月二十八日から西白河郡西郷村の国立那須甲子少年自然の家で進められている〕撮影は三日まで続けられる〕(59.12.3.朝日)
●三田さんの「空飛ぷ母子企業」桃井かおりら配役決定 昭和63年(1988)
郡山の三田公美さんの「空飛ぷ母子企業」が第9回読売ヒューマンドキュメンタリー大賞「カネホウペシャル」を受賞。テレビドラマ化され翌年2月に放映。

平成のロケーション

○「失われた時の流れを」学童疎開の舞台金山町でロケ 平成元年(1989)
倉本聡脚本で、金山町本名小学校校舎を撮影の拠点にした反戦ドラマをフジテレビが製作。10日に現地ロケがスタート。来年二月に放送。出演は中井貴一、緒形拳、郷ひろみ。四季の感じを出すため12月まで撮影を続ける。(民友1.8.4.)
●「山川捨松の半生ドラマ化」平成2年(1990)
日本人初の女性留学生の一人で、鹿鳴館の名花とうたわれた会津着松出身の山川捨松の半生を描いたドラマ「鹿鳴館の貴婦人」がテレビ朝日系KFBで2月6日放映。(民友H2.1.20.)
●島尾敏雄原作の「死の練」松竹が映画化 平成2年(1990年)
小栗慶平監督。平成2年。キネ旬ベスト7位。カンヌ映画祭グランプリ受賞。岸部一徳が主演男優賞を受賞。松坂慶子が主演女優賞を受賞。島尾敏雄原作。島尾は横浜生まれだが両親が小高町出身。幼時には小高町で過ごすことが多かった。「死の械」は病妻ものと呼ばれる著者代表作で、夫の不倫がきっかけで精神に病をきたすようになった妻との葛藤の生活に、転機を求めて福島県小高町の親威を訪問する場面があるが、この部分で福島市民家園でのロケ撮影を行っており、堂々たる民家が東北福島の田舎の豊かで平和なイメージをつくっている。
●「天と地と・黎明編」平成2年 1990
戦国の武将・上杉謙信の若き日を大沢樹生が主演で描く「天と地と・黎明編」のロケが3月半ば、二本松市と相馬郡飯館村などで行なわれた。
●飯坂温泉ドラマロケ花盛り 平成2年・1990「おく病刑事の湯けむり大追跡」(朝日放送・松竹芸能製作)と「湯けむり純情物語」(東京放送・東宝製作)(双方とも仮題)のロケが飯坂温泉の鯖湖湯・医王寺などで行われた。「おく病刑事・・」は二枚目俳優の名高達郎、若手の相川恵理らが主演。ロケは17日から十綱橋、穴原の吉川屋、公衆浴場の鯖湖湯などを舞台に進められ、一部土湯、磐涕熱海、東山でも撮影。「湯けむり」は風間杜夫、平田満、石野真子らが出演。旅館吉野屋、医王寺、ストリップの飯坂演芸場などが登場。(12.21。艮報)
●「忠臣蔵」赤穂浪士が会津でロケ 平成3年1991
赤穂浪士が会津入り。会津若松市の会津武家屋敷で4日午後、フジテレビが年末に放送する特別時代劇「忠臣蔵」の吉良邸討ち入り等のロケ撮影が行われた。大石蔵助に仲代達矢、番組は4時間。中井貴一、北大路欣也、古手川祐子ら豪華キャスト。(民報3.5。)
●会津でロケ 旅情サスペンス「魚葬」 山口美江ら3日間 平成3年・1991
福島テレビが毎週月曜日に放送している人気番組の旅情サスペンス第六話「初夏の磐梯高原・魚葬」(森村誠一原作、関西テレビ制作)のロケが会津若松市の東山温泉や猪苗代湖など会津を舞台に十七日までの三日間行われた。主演の山口美江・鈴木ヒロミツ、根本りつ子らが出演。福島テレビで5月6日夜10時から放映。(産経H3.4.18。)
●「奥土湯でロケ片平なぎさ」平成3年
テレビ朝日系(KFB)で毎週土曜日午後9時から放送の土曜ワイド劇場。福島市奥土湯温泉「東海温泉」でロケ。「ヘッドハンター殺人事件」主演は片平なぎさ、村田雄治、大空真弓、江守徹。片平はそば屋の看板娘を演じる。土湯では刑事が犯人を逮捕するまでの場面を撮影。エキストラも出演した。片平の父親は福島市の出身。子供のころよく親戚の家に遊びに来ており、「田舎は」と聞かれると「福島です」と答えていたという。9月に放送。(民報3.6.1.)
●モックンを一目・・白河ロケに市民1000人 平成3年・1991
「モックン」の愛称でおなじみの本木雅弘さん(25)の主演映画「遊びの時間は終わらない」(萩庭貞明監督)のロケが26日、白河市総合運動公園多目的広場で行われた。まじめな警察官を主人於にしたコメディーアクション。警官隊に囲まれた中、ヘリコプターで脱出するラストシーンを撮影した。弁当一個で駆りだされた市職員が25名、機動隊員に扮し集まった市民はそのままエキストラとして出演。撮影は午後6時から開始。モックンを一目みようと女子高生ら1000人近い市民が人だかりを作ったが、最初は群衆シーンの撮影ばかり。主没のモックンの登場は午後10時すぎからだった。(読売3.6.30。)
●飯坂ロケ 喜多嶋舞さんら 平成3年・1991
テレビ朝日系列(福島放送)の二時間ドラマ、土曜ワイド劇場「尼さん探偵事件帖3」がこのほど飯坂温泉のお寺・天王寺でロケを行った。尼さん役の浜木締子、弟子役の喜多嶋舞さんらが出演。(朝日3.8.8.)
●平成3年、「秋の駅」柳津町ロケ。福島テレビの開局三十周年記念。山田太一脚本。田中好子主演。
●渡辺淳一原作「遠き落日」が映画化 平成4年・1992
野口英世の伝記映画の最近の映画化では平成4年の「遠い落日」が記憶に新しい。猪苗代湖畔の野口博士の生家でのロケーションを行った。三田美子が主演し野口英世の母シカになりきって話題になった。英世役には歌手三上博士が扮した。若松出身の女子医学生に恋慕する女性関係を描いたり、借金王だった青年時代の人間くさい姿を滴いた渡辺淳一の原作による。興行成績日本映画ベスト6位。15億円。
「シカになりきった三田美子さん」(民報H3.5.15。)「遠い落日撮影快調に」(毎日H3.8.28.サンケイ8.30.民報9.15.)
●「福本耕平かく走りき」磐梯山麓でロケ平成4年・1992年
猪苗代と磐梯の両町で毎年・農村実習をしている日本映画学校(今村昌平校長)の卒業生らが磐梯山麓ロケで映画製作した。平成元年猪苗代で実習し平成3年春に卒業した久保田傑さんが当時の体験を脚本にした作品「福本耕平かく走りき」が今年、シテリオライターの登龍門「城戸賞」を受賞。約20人の若手スタッフが映画化実行製作委員会を結成。今村氏や配給元のヘラルド・エースのバックアップで実現。7月に磐梯山麓でロケを敢行。
め、坂下分校の児童の出演で昨年夏に撮影された。〕(H8.10.11.民友)
助演女優の小松美幸(「福島の女優」の項に記載)はいわき出身。
●「あひるのうたがきこえてくるよ」平成5年
椎名誠原作脚本。金山町沼沢湖でロケ。全町あげてロケに協力。有名作家と地方との暖かい交流が話題になった。
「金山で里帰り上映 椎名誠さん講演 地元のロケ協力に感謝」「沼沢湖で映画撮影 観衆役800人募集」(民友H5.11.19.)
●平成7年、「朝顔の夏休み」中嶋昌雄監督脚本。会津坂下ロケ。
●「釣りバカ日誌8」いわき市でロケ1995年(平成7)
人気シリーズの第8作。全国7ケ所からロケの誘致があったが、最後まで残っていた兵庫県、山形県と競合し、いわき市がロケ地になった。磐城七浜を宣伝していきたいとしていたが、実際には海釣りではなく山釣の場面が採用されている。11月ロケ開始。
平成8年に完成。6月25日、いわきで試写会が開催された。〔試写会後、会見した栗山富夫監督は「いわきに残っている自然を少しでも生かして撮るよう心掛けた」〕
全国の封切に先立ち県内では8月3日から公開。一般公開に先立ちいわき市の勿来、常磐、平各市民会館で7月27日から3日間上映。(朝日H8.6.27)
●平成8年、「樹の上の草魚」郡山、原町ロケ。「郡山で映画ロケ 来年公開予定」(民友H8.6.11.)
平成8年5月31日、「樹の上の草魚」の原町朝日座ロケでクランクイン。6月1日からは郡山市の南東北病院など市内一円でロケ。永島扮する医者が努める病院で診察を受ける場面や、ビデオ店、町並み、団地、マンションの一室などで全体の八割を撮影。薄井ゆうじが第十五回吉川英治文学新人賞を受賞した原作は、男性として生まれながら、思春期に女性へと変化する不思議な体質の宿命を持った主人公と、その友人から、やがて恋人へと発展してゆく青年をめぐるファンタジー・ラブストーリー。桂千穂脚本。石川淳志監督演出。出演はJR東海の「クリスマス・エキスプレス」CMでデビューした吉本多香美、西川きよしの長男西川忠志、永島敏行、筒井康隆、映画監督鈴木清順、元ミス日本の菊池則江。
●「秋桜-コスモス-」本宮町で自主製作
もとみや青年会議所が創立10周年を機に、30年前の「こころの山脈」に心を動かされた世代がリードして映画を創る喜美を通じて町民の心を一つにまとめあげるため製作した。すずきじゅんいち監督。小田茜、松下恵主演。本宮町、白沢村、大玉村の南達地方でロケを敢行。多くのボランテイアが裏方を支えた。9月14日クランクイン。10月6日クランクアップ。県内では97年4月12日から福島フォーラム、郡山テアトル、会津東宝、平テアトル、サンライズもとみやで上映され、4月下旬から全国6都市で公開。
ブラジルで交通事故に遭い輸血のためHIVに感染した少女が本宮町にやってくる。いわれのない差別やイジメにあいながらも明るく生きようとする姿を描いた。かつて「こころの山脈」で好演した山岡久乃が、再び銀幕に登場。30年の年月を越えて本宮の人々の心の交流を果たした。しかし主人公が今時珍しくあまりに優等生すぎてリアルさがないなどの批判も。南米でエイズにかかったという設定にしても、日本のエイズをばらまいたのが国内の厚生省と製薬会社であった事実を放っておいて遠くの外国を悪者にした安直なシナリオにも疑問が残る。
●NHK朝のテレビ小説「ひまわり」
平成8年平成8年4月1日~10月5日放送。井上由美子作・東京谷中と福島のロケで、弁護土をめざす南田のぞみ役は松嶋菜々子主演。母親役の南田あづさの実家が安達町の長沢牧場という設定。統括製作の高橋幸作は福島局勤務の経験がある。福島方言指導は渡辺啓子。
●「二宮金次郎物語」民家園でロケ 平成8年(H8.10.17民友)
若松出身守田康司さんプロデュース。後藤秀司監督。民家園でのロケは二宮金次郎家周辺などの場面。主演する俳優は寺尾聡、真野響子、林泰文ら。福島演劇鑑賞会が窓口で18日をのぞく5日間、男20名、女7名、子供5人(男児3、女児2)の延べ32人のエキストラを募集。
平成9年11月7日民友「東京映画祭の招待作品」福島民家園の福島ロケで昨年10月、2週間にわたって撮影された「二宮金次郎物語/愛と情熱のかぎり」が第10回東京国際映画祭に招待作品として上映。
●NHKテレビ小説「はね駒」と「ひまわり」
本県出身ではないが、ことさら本県にこだわりを持って入れあげている作家もいる。シナリオライターの寺内小春は二本松に疎開したことで、青春時代に鮮やかな福島の思い出を胸に刻んだ。
NHK朝のテレビ小説「はね駒」のシナリオを担当した時に、主人公のモデルが相馬出身であるにもかかわらず、ファーストシーンには二本松のちょうちん祭の映像を無理矢理使った。これは作家の役得といってよいだろう。おかげで二本松商店街がわきかえった。はね駒まんじゅう、はね駒最中を先に売り出したのは相馬市ではなく二本松市だったのだ。主人公のおりん(斎藤由貴)が、物語の冒頭で二本松から相馬中村へ引っ越すという不必要で不自然な寄り道が付け加えられた。あれもこれも、みな作家寺内小春の、青春時代の二本松での思い出がなした偏向的えこひいきであった。
戦前の昭和15年に、二本松ロケで撮影された「歴史」という作品は、作家榊山潤の代表作。榊山は福島県出身にされる場合が多い。しかし実際には二本松は夫人の出身地で、夫人の父親をモデルに、戊辰戦争から西南戦争にかけての古武士風の人物の気骨ある生涯を小説に描いたのである。榊山は会津の歴史的展開を冷静な眼で描いてもいる。外部からの視点は、福島県への愛情ある眼差しになり、すぐれた文学や映画も生まれたのである。
NHK朝のテレビ小説「ひまわり」は、昨年の半年間、福島弁で全国の茶の間で愛された。NHK福島放送局は、県民にひまわりの種をプレゼントし、福島市内はひまわりの歩道を実現しようと、町内会が種まきに励んだ。
主人公は弁護士を目指す若い女性が東京と田舎を往復しながら逞しく生きてゆく姿を描いたが、なぜ福島が選ばれたのだろう。実はNHKのドラマ班のチーフプロデューサーで「ひまわり」を製作統括した高橋幸作氏は、NHKに就職して初めて地方勤務したのが福島局だったのだ。渡利のNHK宿舎に住み、金がなくなると安くてボリュームのあるラーメン店、運転手してのドライブイン金山食堂などでやり過ごした。福島市内の穴場をとく知り抜いていたし、福島弁も福島人の人情にも通じていた。
青春時代を過ごした土地というのは、生涯にわたって刻まれる最良の思い出となるのであろう。
●2003年8月15日「らくだ銀座」白河ロケ
民間のロケ支援組織がある白河市で、商店街を舞台にした娯楽映画「らくだ銀座」のロケが10日から始まった。地元から約300人がエキストラで参加、今月下旬まで同市の商店街や矢吹町、西郷村などで撮影が続く。
主演は伊崎充則さん。吉田日出子さん、田口トモロヲさんも出演する。配役の決定が7月と遅れたため、5月下旬に予定していた撮影開始が遅れていた。11日は同市大工町の商店街で撮影。通行人で登場した同市巡り矢、警備員望月光義さん(66)は「天候や機材の条件がそろわないと撮影はうまくいかない。大変な仕事だね」と感心していた。
16日夜にクライマックスのシーンを市立白河第二小学校で撮影する。引き続きエキストラを募集している。問い合わせはカルチャーネットワーク(0248・22・5271)へ。
(8/12)
●テレビのサスペンス二時間ドラマのロケとして会津や県内温泉の映像は枚挙にいとまがないので割愛。「寅さん」シリーズで福島が舞台の巻はないが、ワンショットで柳津虚空蔵尊の縁日のシーンは使われている。

野馬追の里のロケーション

●日活「私が・棄てた・女」原町ロケ
日活映画「私が棄てた女」は、一部原町ロケが行われた。原作遠藤周作。脚色山内久。監督浦山桐郎。撮影安藤庄平。音楽黛敏郎。主演河原崎長一郎。全編モノクローム。ヒロインが悲しく新相馬節をうたう場面は、緑したたる相馬野馬追のカラー・シーンがかぷさるといった叙情的手法もある。ベストテンニ位。(昭和44年9月3日)(映画発達史)
この年、浦山桐郎は相馬野馬追を見物し、ひそかに彼の監督作品に野馬追の一場面を使用することを思い立った。昭和44年制作の「私が棄てた女」のラストシーンに、パートカラーの野馬追のシーンが挿入されている。主人公ミツの出身地が原町という設定で、駅前のそば屋の店員をしていたという台詞がある。野馬追の場面はミツの働く養老院での慰問の民謡「新相馬節」を歌う場面で、望郷の回想シーンとして出てくる。
浦山監督は昭和42年の夏期大学の講師として来市しており、この時、相馬野馬追を見物している。この年出馬した三船敏郎とともに、溝山監督の心象にも相馬野馬追は強く残ったようだ。

●三船プロ「風林火山」の大ブーム
昭和44年の話題作は「風林火山」三船プロ作品。東宝配給。原作井上靖。脚本橋本忍、国弘威雄。監督稲垣浩。撮影山田一夫。音楽佐藤勝。主演三船敏郎、佐久間良子、中村錦之助、緒方拳、石原裕次郎。有名な川中島合戦をヤマ場として、武田の諏訪攻略の挿話をロマンとして取り入れた。2時間45分の壮大な戦国絵巻。錦之助の信玄、裕次郎の謙信、三船の山本勘助、佐久間の由布姫。興行ヒット。(昭和44年2月1日)
昭和43年(1968)に「風林火山」撮影ロケーションが原町で行われている。戦後・黒沢映画が国際的に評価されるのに伴って世界的なスターとなった三船が原町でロケーションを行うとあって「風林火山」は製作前から話題を呼んだ。翌44年に原町市でも原町文化劇場で上映。これは東京の封切館と同時封切り上映であった。三船は昭和42年の相馬野馬追に出馬している。この時の印象を強く抱いてのロケハンであったろう。
〔「風林火山」爆発的な人気/あす原町で特別試写会(昭和44年2月25日の福島民報)
原町市を中心にロケを展開、野馬追いが出場し戦国時代を再現した映画「風林火山」は爆発的人気でロードショーは新記録を樹立。原町市では二十六日午後一時から原町文化劇場で関係者を招き、特別試写会を行う。この日は製作の三船プロ社長、グランプリ俳優三船敏郎、稲垣浩監督などが顔を見せ盛大なレセプションも計画されている。映画情報によると東京の日比谷劇場で封切りに先立って、さる一日から一週間行われたロードショーで大作といわれた独立プロの意欲作品とさわがれた「黒部の太陽」を上回る観客を動員、大きな興行成績をあげた。
「黒部の太陽」では同じ期間中に三万五千四百二十一人を動員し、収入は一千六百十五万五千四百十二円だったが「風林火山」は四万六千四百六人を動員、二千百十四万一千二百三十三円の収入があり、動員でも一三一%の好成績を示したという。
また京浜、阪神地区でも八日から十一日までの累計は「黒部の太陽」の一八二%の動員増で、収入も一五四%と大きくひらきがあり、文部省、青少年映画審議会、優秀映画鑑賞会、中央児童福祉協、全日本教育父母会議などの推薦をうけた。/原町市でロケが行われただけに、映画で観光開発され野馬追いにはこのムードでいっきょに盛り上げ、戦国時代の圧巻を展開したいと、いまや「風林火山」の話題でもちきりだ。〕
三船は自分の製作だけあってがんばったが、ビデオで確認したら全編説明的な台詞をしゃべりっぱなしで、武士があんなに喋るのかと閉口した。
○昭和44年「天と地と」「風と雲と虹と」
NHK大河ドラマでは昭和44年(1969)に「天と地と」(石坂浩二主演)、昭和48年には「国盗り物語」(平幹二郎主演)、昭和51年(1976)には「風と雲と虹と」(加藤剛主演)が放送された。原町では、これらの番組の合戦シーンなどが撮影された。
昭和50年(1975年)7月23日・24日に、つまり野馬追シーズンに、雲雀ケ原で「風と雲と虹と」のロケ撮影が行われ、私の母もこれを見物。俳優の待ち時間の長さと忍耐強さ、順序不同でバラバラに撮影されたカット場面が、編集によって作品になって放送されるといきいきと描かれていることに感嘆していた。
●昭和47年「国盗り物語」の原町ロケ
昭和47年(1972)10月19日から23日まで、「国盗り物語」のロケが原町市で行われ、10月21日の福島民報に、「国盗り物語」の原町ロケに関する記事がある。
〔NHKが正月七日から放映を始める「国盗り物語」のロケは、十九日の原町市新田川河畔から始められた。この日のロケはエキストラによる斉藤道三軍と織田信秀軍の戦いで、落ちのびる信秀軍、われ先に敗走する落ち武者、それに火急を信秀に告げるシーン、月下の行軍渡河など。/午前中は新田川の鮭川橋下流堤防一帯で行ない、午後は同橋上流の中洲付近。/合戦や敗走、渡河など騎馬武者具は野馬追い出陣の中の郷騎馬会の二十騎。/しかし、雑兵役の徒兵組は、ワラジばきながらヒザまでぬらしての渡河行軍。リハーサル、本番、やりなおしの繰り返しに「昼食付きはいいけれど、二千円の日当では…」とボヤキながら、のぽりをなびかせながら新田川の流れにひたっていた。同日のスターは信秀役の千秋実一人だけ。十一時に東京から飛んでくると、すぐロケの現場にやってきてメーキャップにあたっていたが、甲ちゅう、ヨロイをつけ、大柄のクリ毛馬にまたがったものの、手綱さばきに自信がなく、係員にクツワを取られての“殿様”ぷりだった。/同ロケは二十四日まで相馬郡清水や新地町塩田跡、原町市の新田川河口、折ケ沢池一帯などで行なわれる。〕
折ヶ沢というのは我が家のすぐ近く。母もこのロケを観て、できあがった劇はすんなり筋が流れているが撮影は細切れで、現場の大変さに感心していた。
●手塚治虫原作「火の鳥」映画化と松鶴家千とせの「トラック野郎」出演
昭和53年(1978)には東映映画「トラック野郎」(菅原文太主演)県内で撮影され原町出身の松鶴家千とせがチョイ役で出演、朝日座で放送された。また実写とアニメを駆使した意欲的で実験的な東映映画「火の鳥」(手塚治虫原作・若山富三郎・由芙かおる主演)のロケーションが6月に原町で行われ、相馬農業高校生らがエキストラ出演して話題を呼んだ。10月に原町文化劇場で上映。
“野馬追いの馬’大活曜 古代ヤマタイ国を摘く「火の鳥」原町でロケ〔東宝映画「火の鳥」のロケは二十四、二十五日の両日、原町市一帯で行われた。映画は、吉代ヤマタイ国を舞台にしたもので、手塚治虫の原作を市川昆●が監督、八億円を投ずる超大作。制作は四月初めからアニメーションをまじえて開始した。八月中旬会開される。テーマ音楽は「シェルブールの雨傘」のミッシェル・ルグランが作曲、ロンドン交響楽団の演奏、出演者は若山冨三郎、仲代達矢、草苅正雄、田中健、江守徹、林隆三、加藤武、大滝秀治、伴淳三郎、小林昭二の男優陣に、高峰三枝子、草笛光子、由美かおる、大原麗子、風吹ジュン、木原光知子の女優陣、それにカルーセル麻紀、ピーターの華麗なキャスト。ナギ少年役には全国二千六百三十人の中から選ばれた尾美トシノリが扮する。/相馬野馬追いの原町市は「天と地と「風林火山」のロケで育名。二十四日は畦ケ原で朝早くから中ノ郷騎馬武者五十人と、野馬追い出場の“馬”五十頭がエキストラに駆り出され出演した。/午後は荒野をゆく騎馬隊、軍列の最後尾には、首になわをかけられ、大きな荷物を背負わされた若山富三郎扮する猿田彦、由美かおるのウズメ、尾美トシノリのナギが歩くシーンを鍛影した。/二十五日は渋佐浜で軍船のシーンなどのロケを行った。/このロケを一目見ようと見物人が押しかけ、Tシャツにまでサインを書いてもらうファンもいた。〕(昭和53年6月26日民報)
しかし、実写とアニメの合成は同調せず傍目にも成功したとはいえず、実験的試みは技術的に失敗。監督自身も失敗作だったとFM番組で語っていた。
●巨匠黒沢明が原町市をロケハン訪問
「原町でロケ候補地を視察・巨匠、黒沢明監督」(昭和53年9月9日民報)
〔映画監督の黒沢明氏が六日、原町市を訪れロケの候補地を視察した。今回の作品の内容は十四、十五目ごろ東京で記者会見して発表することになっているため明らかにされていないが、風林火山の二、三年後が題材で、武田信玄が死んだのを秘密にし、影武者を仕立てて大合戦を行うシーンのロケとみられる。
原町市は相馬野馬追発祥地でよろいや馬があるため、これまでにも「天と地と」「風林火山」のロケ地に選ばれている。黒沢監督は原町市役所を訪れ、鈴木功助役に協力を要請、宮川カメラマンも同行、佐藤市観光係長の案内で市内大原、畦原、飯舘村小宮、蕨平ほかを回ったが、同村臼石の大火山牧草地が育力だという。
二百から三百の騎馬武者を縦横にかけめぐらせる大合戦シーンのため、七日も各地を見て回った。/なお、映画は東宝系で来年五月上映される予定になっている。〕
惜しいかな、この作品「影武者」のロケは、原町市では行われず、黒沢作品の舞台としてはロケハンのみ。幻のロケーションとなった。
○昭和54年「戦国自衛隊」ロケ
昭和54年(1979)には出版界から映画界に新規参入した角川映画「戦国自衛隊」(千葉真一主演)のロケが原町市・飯館村で行われた。現代日本の自衛隊が戦国時代にタイムスリッブして、近代兵器とサムライとの闘争を通じて時代を越えた友情をはぐくむというストーリーだ。突如、出現した戦車にビックリ。撮影用の大道具と知って二度ビックリ。当時、角川映画はテレビ雑誌の大々的な広告で映画を売出し、日本の映画界に活気を与えていた。この映画のラストシーン近くでも野馬追のシーンが使用され、また新田川河口などや、原ノ町駅のプラットホームの場面が使用されている。「戦国自衛隊」は、ベストテンや賞とは無縁の作品で、完全な娯楽編。しかし、強烈な個性を時った日本SF映画の一つといってよい。
この年、TBS「関ケ原」放映。飯館村などでロケ撮影。
「野馬追い武者も参加」飯舘で
「戦国自衛隊」ロケ(昭和54年・民報)〔戦国時代を露台に自衛隊の近代兵器が登場して戦闘シーンなどを繰り広げる映画「戦国自衛隊」の県内ロケは原町市などを中心に十五日から行われているが、この中でも出演者数が最大規模となる行軍シーンの撮影が十九日相馬郡飯舘村の大火山牧場で行われた。同作品は「人間の証明」「野性の証明」などの映画化で話題を呼んだ角川春樹事務所が直木賞作家・半村良原作の同名SF小説を脚本化したもので、十億円の製作費をかけた角川映画の第六作。
同日は相馬野馬追いで活曜する騎馬武者約百人、地元飯舘村の青年団員と高校生ら約二百人がエキトスラとして出演、主演の千葉真一、夏木勲らとともに七、八百人の行列を作った。“本番”の合図とともに戦車の力強い響きとともに旗さし物が左右に揺れ、壮大な行軍シーンがカメラに収められた。公開は十二月十五日から全国一斉に行われる予定。〕
地元原町では昭和55年2月2日に朝日座で上映されている。

●昭和55年「若き日の北条早雲」ロケ
原町で時代劇ロケ/テレビ朝日「若き日の北条早雲」(民報55年3月30日)〔相馬野馬追いで知られる原町市でテレビ朝日の大型時代劇「若き日の北条早雲」のロケが二十八日から地元民をエキストラに始まった。
ロケが行われているのは同市片倉字羽山地内の広大な牧草地。この物語は北条早雲がまた伊達新九郎と名のっていたころの勇猛果敢な若武者ぶりをロマンと勇壮な合戦シーンを交えて描く。新九郎役に北大路欣也が扮し、藤岡琢也、江波杏子らベテラン陣のほか叶和喜子ら新人がドラマを盛り上げる。
今度のロケでは早雲と今川範義、足利茶々丸との合戦シーンが撮影されているが、相双地方の相馬野馬追い騎馬会会員と春休みに入った高校生もエキストラとして登場している。ロケ初日の二十八日は、北大路欣也など主な俳優は出演しなかったが、原町市内の中野(中ノ郷が正しい)騎馬会から馬四十騎と自前のよろいを身につけた会員、それに足軽役の地元高校生など約八十人が登場、人馬入り乱れての合戦シーンを演じた〕
「若き日の北条早雲」はテレビ朝日で五月八日午後九時から放送の一時間ドラマ。
●TBSの7時間ドラマ「関ケ原」
TBSが年末年始の特別番組として、7時間にわたる大型時代劇を制作放送。そのロケーションが、初秋の飯館村大悲山牧場で行われた。
10月22日民報「きょうから『関ケ原』TBSテレビロケ飯館」
12月21日民報「7時間ドラマ「関ケ原』年末年始のFTV特別特別放送」
●「女風林火山」「独眼竜政宗」昭和61年
TBS「女風林火山」が昭和61年10月12日から日曜夜のゴールデンアワーに放映。
これの撮影ロケが、原町市大磯の旧大磯シーサイドゴルフ場(東北電力原町火力発電所関連用地)で行われた、9月14日には主演の鈴木保「奈美(新人・カネボウキャンペーンガール)、伊藤かずえ、松村雄基、若林豪らがスチール写頁撮影のため来原した。14、15の両日、相馬各郷の騎馬会が全面的に協カして豪壮な戦国絵巻が収録。地元アルバイト出演の高校生のギャラは徒歩兵が日当5000円、馬付きだと五万円。出演騎馬総数はのぺ200騎だった。ざっと2000万円が地元に落ちた。
同61年、翌年のNHK大河ドラマ「独眼竜政宗」の撮影ロケが12月5~6日、原町市大磯で行われた。こちらは、猪苗代湖畔でのロケで撮影したものに不足があって、追加撮影を原町市の相馬野馬追執行委員会に、協力依頼があったものだ。畦原でのロケを見学していたら政宗に手ほどきする家臣で乗馬の名手片倉小十郎という設定の西郷輝彦が落馬する瞬間を目撃してしまった。
●「樹の上の草魚」朝日座が映画のロケ舞台に 平成8年
平成8年5月31日クランクイン、原町市の朝日座がロケの現場になった。小宮慎二監督の「樹の上の草魚」の撮影を行った。スタッフの一行は25人。1997年夏に武蔵野館で公開。

●「梟の城」原町でロケ 平成11年(1999)
久しぶりに大型時代劇のロケーションが原町市で行われた。
「梟の城」製作=「梟の城」製作委員会。配給=東宝。1999.10.30公開。138分カラーワイド。監督篠田正浩。脚色篠田正浩 成瀬活雄。原作司馬遼太郎 。撮影鈴木達夫。音楽湯浅譲二。主演中井貴一、鶴田真由、葉月里緒菜、根津甚八。

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