原町無線塔、朝日座など福島県南相馬市原町区(旧原町市)の文献を公開

ふくしま映画100年 昭和編 トーキー登場

キネトフォンの登場

最も早い時期のトーキーは、映画の発明史の当初から存在した。日本で音声付きの映画が初開されたのは大正2年12月6日、帝国劇場で「物云ふ不思議の活動キネトフォン」と呼ばれた。福島県にやって来た最初はかなり早く、若松市の若松館と福島市の新開座で大正4年に特別興行されている。
これは鑞管式レコードに連動した方式による日本キネトフォン社のもの。
●若松にものいふ活動写真来る
〔○若松館特別興行 ものいふ活動写真来る 原名キネホン
日本キネトホン株式会社巡回部にては今回優秀なる発声活動写真をもたらし来る廿一日より当地七日町若松館に於て特別興行として華々しく開場することとなれり。同会社はさきに支配人を米国に派し発明者たるトーマスエーエーヂソン氏と会見して遂に東洋に於ける興行権を獲得し、数名の米国人技師と共に各機械をもたらし帰り去る大正二年十二月初めて東洋に名乗りを揚げ日本活動写真界の新紀元を画するに至れり。次で翌年学習院に於て皇太子殿下及び二皇子殿下の麻布御殿にて内親王および各宮殿下の台覧の光栄を担ひて名声斯界に喧伝し殊に帝国劇場にて開演せる際の如きは未曾有の盛況を喚び非常の喝采を博したり。今回当地に来るべ機動写真の特長は幾多の日本物を蒐めたることにして中にも旧劇廿四孝、仙台萩の如きは竹本朝重、素雪等の義太夫に伴ひ音響あいまって一団の興趣を添ふ。其の他新橋芸妓連の手踊り松・家一派の深川踊り等は各地にて高評を得たりと云ふ。自然の音楽人声鳥語より紙を破る音靴の響きに至るまで寸毫異なる処なき此の不思議なるものいふ活動写真のいよいよ当地に開場の暁は亦又活動写真界の人気を呼ぶことならん〕
(会津日報大正4年5月20日)
〔●物言ふ写真 新開座のキ子トホンは愈々本日から
本日から愈々新開座に開演するキネトホン即ち発声活動写真は既報の通り地方では全く珍しいので前景気頗る盛だが同写真は先に畏くも天覧の栄を辱なうした程で帝国劇場有楽座其他知名の劇場などで開演し非常の喝采を博したものでありフィルムに現はれた人物や其他の会話や楽器の音色其他総ての音響は映画に適合した実に微細を極めて居るもの〕
(大正4年民友)
キネトホンはまだ珍しいだけのもので、一般化せず、音の出る映画トーキー出現が社会問題になったのは昭和初期だ。
昭和3年にはアメリカで発声映画をトーキーとかトーカーと呼んでいた。7月の民報には、「発声映画の出現で米映画界大狼狽・現在の監督俳優は喰い上げ・楽士連盟では抗議」という記事がみえる。日活で反トーキーゼネストがあったのは昭和7年のこと。設備投資に多額が必要で、弱小館の多い地方でのトーキー普及は遅れた。

国産トーキーの「上陸」

国産トーキーの最初が県都福島に最初にきたのは昭和3年2月。初めて公開されたのは、政治家の演説だった。
福島座で田中首相以下、各閣僚の出演による発声映画が上映された。これはイギリスの前例に倣ったもの。
「諸君、今回行われる総選挙は・・・」と、実際の演説よりは、やや押さえた声量だったが、上背のある岡田首相のゼスチャー入りの映像があたかも臨場感があって、好評、盛況だった。
選挙の前であり入場無料で閣僚の演説が聞けるとあって多数がこれを見た。平成の御代にインターネットによる選挙運動が禁止された硬直化の今日とは違って、この当時は好奇心のほうが強かった。

国産トーキーが郡山に登場した最初は昭和3年5月。当時の新聞に、こうある。

〔郡山で発声映画
郡山市活動写真館清水座では来る十九、二十、二十一日の三日間特別興行として北日本発声映画株式会社の松本幸四郎丈と其一門初出演にかゝる発声映画「素襖落」を上映公開する事になつた〕(民友5.11.)

しかし、トーキーとはいっても様々な方式が試行錯誤され、初期のものは性能が悪かった。
●「トーキー来る 二十五日から栄館へ」
(昭和4年10月22日民報)
〔福島市栄館では来る二十五日よりトーキー映画を公開することになったが右トーキー映画は何れもマキノの作製によるもので戻橋(南光明、マキノ智子主演)マキノオールトーキー(歌舞伎劇の発声映画化)明鳥夢残雪(沢村国太郎、松浦築枝主演)等であるが、このほかに松竹もの、多情仏心、観音丹次(ママ)女性の力等の普通映画を公開する筈であるが料金は平常通りであると〕

初めて本格的なオールトーキーアメリカ映画「シンギング・フール」は昭和5年に福島で公開された。
栄館の広告によると、ワーナー・ブラザーズ社の歌手アール・ジョンソン主演。同時上映は阪妻の「高野長英伝」と、「紅唇罪あり」。
〔莫大なる権利金を以て米国製ヴィタホン機の設備を致しました。いながらに外国の言葉も音も歌も音楽も聴かれます〕とふれこんでいる。
福島におけるトーキーは栄館がリードするが、導入には多大の投資が必要で、県下すべてに浸透するには昭和10年代まで時間がかかった。つづいて県内各地でも次々にトーキーが出現したが、観客は弁士の名調子による説明の方がはるかにすぐれていると感じたようだ。

花形弁士は去りゆく

福島市を本拠に活弁をふるって活躍していた西村魁天は、自分の経営する福島座で三週間にわたって引退興行をおこなっている。
昭和4年3月21日民友。
〔福陽映画界の大御所として又説明界の唯一人者としての重きを為して居た福島座経営者西村魁天君は今回 営業拡張のため山形、秋田、新潟方面に出張、とかく期待されてゐる説明が事欠きがちなので後援者諸氏に対して期待を裏切るやうなことがあっては遺憾なりとして今後は経営者として独特の手腕を振るべく説明界を引退の決意を為し〕
トーキー到来を予感し、興行界再編を目指していたが、じっさいには、活弁活動はトーキー普及の広がる昭和10年代まで続けた。

トーキー映画の普及

昭和5年11月11日の紙面には
〔白河のトーキー、十日から三日間白河改良座において公開されることになった。映画は国産田中式トーキー「乃木将軍と涙の廃兵」全十四巻でファンの興味と期待はすばらしいものである〕とみえる。これが県南初である。
昭和5年11月には、帝キネ最初のトーキー「子守歌」が公開された。歌手としてデビューした関谷敏子は、この映画に主演。関谷は明治37年東京生まれ。親が二本松の出身で、福島県人として扱われることが多い。父は二本松藩の侍医頭の家系に生まれた事業家・祐之介。明治初年に来日したアメリカ人軍事顧問リゼンドル将軍と芸者たま(池田糸)の間に生まれた愛子が母親。エキゾチックな容貌で幼時から才能を発揮しオペラ歌手になったが、昭和16年ゾルゲ事件に関係したとも噂され謎の自殺を遂げた。
「子守歌」〔日本トーキー・帝国キネマ提携作品。原作脚色・川口松太郎。監督鈴木重吉。音響松本四郎。撮影三木茂。主演関谷敏子、中野英治。全発声版。〕(昭和5.10.1.大阪松竹座)
蓄音機とレコードはすでに早くから知られていたが、音声の入った活動写真を「喋る写真」と表現した当時の人は、今度は歌う写真を体験したのだ。

浜通り初のトーキー上映

浪江では島田有造によると「上陸第一歩」が最初のトーキーだったという。これは平館から取り寄せ、原町へも出張して掛けた。福島市の高橋圭子(旧姓松浦)は、原町出身で父が旭座の株主。幼い記憶に「トーキー来る」という幟が立ったのを覚えている。原町の松永七之助は原町座の株主で孫の輝彦は無料入場券の木札で初めてのトーキーを見たが「何だこんなものか。これなら活弁のほうがよい」と思ったという。原町座は旭座よりも古い館なので、島田有造の証言にある旭座がトーキーの最初との説とは異なる。片野桃子と青田秀子の姉妹は原町の佐藤政蔵元町長の娘で、最初に見たトーキーは「大尉の娘」だったという。「大尉の娘」は昭和4年の発声映画社大森作品と、昭和11年の新興キネマ大泉作品とがあり、どちらも舞台女優の水谷八重子が出演した。もともと芝居の当たり狂言の映画化だった。昭和10年の秋市興行では松竹の「隣の八重ちゃん」をかけた記念写真が残っている。
「浪江近代百年史」の「私の知る浪江の映画史」(島田有造)によると、〔昭和六年にはトーキー「上陸第一歩」が浪江町に登場した〕とある。
〔当時(トーキーが)神谷キネマで設備されていないため、平館(いわき市)巡業部の出張、オールトーキー版となると映写機、音響用の機器と今までの無声時代の映写機とうって変わり大変な機械の数が増えたのです。とにかく都市の常設館で使用する映写機なのでトラックに積んで搬入、これを映写室に設置して上映するようにしたのです。この平館巡業部の巡業先は浪江座と原町市の朝日座の二館、どちらが先になっても、終映を待って次の上映館に搬入したので、午前一時が二時頃までかかって翌日上映の準備をしたものです。平館が巡業するようになってから洋画も見られるようになり、たしか「制服の処女」という映画が浪江では初上映だった〕
島田氏の記憶によれば、原町最初のトーキー映画は浪江で上映されたのと同じ「上陸第一歩」(岡譲二と水谷八重子の作品)だが、当時の新聞を調べてみると「上陸第一歩」は昭和7年の完成。この頃、浪江原町で上映と推察される。トーキー洋画の最初は「制服の処女」(昭和8年)といったところだろう。

昭和8年の映画状況

昭和8年に大評判になったのが、大河内伝次郎主演・伊藤大輔監督「丹下左膳」だ。日活第一回トーキーで「その巧妙な音響駆使が、さながら彼のサイレント時代に見るような自由自在なカメラワークと同様に扱われて、時代劇ファンを喜ばせた」(日本映画発達史)
【この年の県下の映画ニュース】
二本松では双松座で昭和8年にトーキーが出現したという。
「キングコング」は、円谷英二を感激させ、彼の人生を決めた。のちに特撮の神様といわれた円谷英二監督である。
当時、栄館は福島高商や福島師範の学生やインテリに支持されて賑わった。
トーキーの波に乗って、お盆や正月には、きまってアメリカ・トーキーが登場した。
1月、「本県の映画界 トーキー設備は三館 昨年の観覧者343万人」の記事。
新開座で伝明田中絹代の「緑の騎手」メトロ「荒武者キートン」「南八郎幕末大剣戟」など上映。清水座「くも」「白夜は来る」「鬼水」、富士館「煩悩秘文書」「日の丸若衆」「父を尋ねて」「社長さんはお人よし」、昭和館「謎の百万両」「嘆きの青春」「白幕浪人会」「村松天国」、大正座「傷の功名」「旗本六法組」「嘆の狂酒」「脱線白虎隊」
2月、大正館「天狗回状」栄館「忠臣蔵」福島劇場「大忠臣蔵」上映。安達郡農会は双松座で小麦宣伝映画会。郡山で映画教育研究会発会。二松座と二本松劇場で二本松信用活動写真会。相馬農校は鹿島座で映画会。大谷日出男・田中絹代の「伊豆の踊り子」上映。中村で結核予防映画。
3月、喜多方で万朝映画上映。梁川トーキー慰安映画会。昭和館で「日章旗の下に」。白河常設館の給料不払い問題に。栄館「青春の夢今いづこ」「隊士斬り弥三」「腰弁頑張れ」、大正館「神変麝香猫」「島の娘」「口笛を吹く武士」、大福座「日章旗の下に」「紅騎一香隊」「渚に□ふ島の娘」、福島劇場「春秋上州路」「一九三二年の母」「国士無双」。栄館広告に椿姫、粟島すみ子 都会の世紀末、やくざ道「女給」逢初夢子。白河劇場で音楽と映画会で軍事講演。「ヨーヨーガール」話題に。須賀川中央館で音楽会。
4月、郡山大正座で映写中のフィルム「鞍馬天狗」「明暗白波」を紛失する盗難事件。栄館「眠れ男の胸に」「研辰」「ロイドの活動狂」、大福座「突進花形」「□天狗無頼陣」、大正館「神変麝香猫」「よみがへる暁」「流転の雁」。花の信夫山で宝捜し映画「進軍喇叭」広場で映画。茶臼山でも映画大会「刀を抜いて」「風来坊」。原釜熊谷座で衛生普及映画。栄館でロイドの活動狂。二本松郵便局が慰安防火宣伝活動写真。福島署庭で映画と講演の夕「豚の花盛り」。
5月、「もう子どもの生活から映画は奪へない」と記事。
浪江で軍事講演と映画大会。栄館で田中絹代・大日向伝の「伊豆の踊り子」。郡山大正座で又もフィルム紛失。栄館トーキー「紐育の舗道」上映。
6月、栄館で田中絹代のトーキー「応援団長の恋」。検閲期限切れフィルム違反で双葉検束。栄館「嵐の中の処女」、「情炎旅のこがらし」「隼組捕物帳」「スーキー」「与太者と芸者」、大正館「山を守る兄弟」「大学の人気者」「どくろ頭巾」、大福座「やきもち合戦」「江戸染め紫 」、福島劇場「薩摩飛脚」「長脇差風景」「擬音情話」「恋すればこそ」。大福座「昭和人情噺」「辻占売の少女」「天保捕物奇談」、大正館「若殿大学」「右門捕物帖」栄館広告「爆弾三勇士」「ジャズ大将」「発声漫画」「情怨旅のこがらし」「制服の処女」「菊五郎格子後編」「東京の女」
7月、福陽映画界を観るファンが「洋画が少ない」と批判。大谷日出夫が福島劇場で初御披露目。大谷日活入り初の帰郷。帰郷中の大谷の消息が記事に。このころ県下でも人気上昇。映画俳優志願の二少年平駅で補導。「涙の渡り鳥」の佐々木俊一氏郷土演奏会、浪江町で。原釜青年団は青年会館で浴客のため活動写真会。富士館試写会。米国メトロ特作トーキー大空中映画「太平洋爆撃隊」全十五巻。火防宣伝の映画会郡山で。栄館広告「群衆の喚呼」「恋ざんげ」「やくざ双六」。郡山で火防宣伝の映画会。
8月、ヒットラーのドイツ映画人気。栄館広告。発声「港の日本娘」(清水宏監督)
ワイズミューラー「ターザン」「侠客春雨傘」林長二郎。県社会事業協会と電灯会社が納涼映画大会。日活のスター須賀川中央館と郡山富士館で挨拶。耶麻郡で馬匹活動写真「満州の軍馬活動の実況」
9月、映画国策計画の具体化策決まり首相も共鳴。出版・映画検閲など新制度拡充案決定。デートリッヒ主演「ブロンド・ビーナス」栄館上映。猪苗代町新開座で無料トーキー大会。小林民報販売店主催。オールトーキー実写、漫画、水谷八重子「浪子」「空中艦隊」実写、マンガなど。プロ文化連盟支部の検挙で元映画監督石川署に取調べ。大正座「インチキ金鉱」「天蓋浪々記」「幸よ女性にあれ」「鳴子八天狗」、富士館「三万両五十三次」「お前とならば」「かづら」、昭和館「瀧の白糸」「富□政談」「羊の笑顔」、栄館「十九の春」「類人猿ターザン」「侠客春雨笠」、福島劇場「国定忠治」「二人の新学者」「霧のホテル」、大福座「三原は晴れて」「四谷怪談」「鳴子八天狗」
10月、オールトーキー「太平洋爆撃隊」、サウンド版「天龍下れば」(野村芳亭)発表。「処女よさようなら」公開。二本松で思想善導映画会。渋川村、太田村でも。鉄道の映画飯坂で。川俣中央劇場で春日神社祭礼奉祝特別興行。田村郡二瀬村の同志会が栃山神の映画会。福島劇場「田原坂最後の偵察」「振分け小平」「蒼穹の門」、大福座「どくろ」、栄館「夜盗と青春」「偽国の下に」「処女よさよなら」「フランケンシュタイン」、郡山富士館「戯れに恋はすまじ」、昭和館「山を守る兄弟」「感激の人生」「月形半平太」、大正座「悲惨の鉄路」「風流やくざ節」「累が淵物語り」、川俣中央劇場で春日神社祭礼奉祝特別興行「三万両五十三次」「サラリーマン」「愛は何処までも」。三函座の映画帰り湯本の少女暴行犯人逮捕。福島の映画館でスリ。二本松双松座で「東京音頭」「暴風雨の薔薇」「まぼろし峠」後編。東白川在郷軍人分会が国防映画会。下足料十銭徴収。福島でロシア事情講演と映画の夕。クラブ白粉トーキー映画の会を磐城座、平館、塙劇場、三函座、須賀川中央館、四倉座、白河劇場、三春昭和館、双松座、帝国館、本宮座、会津館、飯坂旭座、清水座、広瀬座、中村座、栄館で「血戦高田の馬場」「マダムと女房」「間諜X27」招待。
11月、「さすらいの乙女」公開。活動写真興行全国統一でフィルムに制限、四時間以内に。保原町海軍班が保原劇場で非常時国防映画会。観衆八百余名。伏黒町でマキノ映画東北配給所大内勇の無料映画会。クラブ歯磨本部主催。二本松双松座で国民保険体操講演と映画会。川俣町で健康保険講演と映画。栄館「暴君ネロ」デミル。木幡青年団針道部が活動写真会。「マタハリ」広告、福島連合青年映画会。東白川郡鮫川村赤坂中野共楽座でフィルムの魅力にとりつかれた少年窃盗を働く。富士館「鼠小僧次郎吉」「海のない港」、昭和館「黄金騎士」「銀嶺富士に甦る」「旅の研辰三百六十五日」、清水座「或る母の姿」「鼠小僧次郎吉」、大正座「神風八幡隊」「銀蛇」、平館「ジキル博士とハイド氏」「娘十六」「国定忠治」、世界館「一心太助」「仇なさけ」「山を守る兄弟」。銃器購入のため田人で軍事活動写真会。
12月、福島署で思想・防火・衛生講演映画。平町の漫談とトーキーの夕。聚楽館で西村楽天が漫談。四倉で日鮮融和映画会上映。満新報社長が原町浪江へも出張。浪江座で産婆映画。平館「白波れんじ格子」「二人の新学士」「シカゴ」、世界館「江戸城心中」「花嫁の寝言」「無宿佐太郎」。白河劇場で妙閑寺主催「日蓮上人」。レビューとジャズ川俣中央劇場で。レビュー保原劇場でも公演。新開座落成。喜多方帝国座で選挙報告演説中桟敷墜落し重軽傷24名。福島公会堂で愛国映画の夕。飯豊村青年団で活動写真会。「昭和8年の映画を観る」記事で丹下左膳予想以上の出来との評。栄館オールトーキー「忠臣蔵」(衣笠監督)、蒲田現代劇オールサウンド「いろはにほへど」「和製キングコング」、福島劇場「水戸黄門奥羽の巻」「鞍馬天狗」、大福座「宝塚時代劇キング・コング」、「緑の道化師」。栃木青訓映画会、背嚢購入のため二瀬村で。福島市内の新春映画予告。栄館で「足軽笑撃隊」「動物園の殺人」「非常時結婚」松竹ニュース「想ひ出の唄」「北村大吉」「和製キングコング」、福島劇場「赤蠣源蔵と堀部安兵衛」「母と子」「鼠小僧次郎吉」「燃ゆる花片」「二番手赤穂浪士」、大福座「銀蛇」宝塚時代劇「キング・コング」「百人目の花嫁」「幽冥の巷」

昭和9年の映画状況

【この年の県下の映画ニュース】
福島座は、前年に改築して10月には開館予定だったが、工事費不足でしばしば工事が中断し、閉鎖されたままだった。予定より約一ヶ月あまり遅れて竣工。だが重役三浦勇氏と経営を任された西村魁天との間に経営権について話し合いがこじれて開館未定になった。配給会社の日活がごうをを煮やして配給を拒絶。関係者が驚いて妥協し、1月26日日活本社の平石門弥氏、仙台市日活館主末松誠科氏の立ち会いで、三浦氏と無関係の管野伊夫氏と西村との共同経営ということになり、西村は経営する福島劇場の従業員全部を福島座に引き入れた。これまで日活系は福島劇場であったが、松竹栄館のトーキー導入に水をあけられていた。映画そのものも松竹と日活しかトーキーを作っておらず、大正館は新興系だが、相変わらず無声映画を上映して昔日の繁栄ぶりはなかった。
1月、栄館広告「猛獣王国」予告。福島劇場「蒼い黒牛」伝明。栄館「出来ごころ」小津保次郎。栄館広告22日から「蝙蝠の安さん」。白河劇場でトーキー「生き残った新撰組」「太平洋爆撃隊」上映。仁科熊彦監督の大谷日出夫「艶影法師」。栄館「不如帰」。大正座「宝塚時代劇」福島劇場レビュー。
2月、福島座が24日新築開館。「丹下左膳」を封切る。ブラジル事情講演と映画が信夫郡と安達郡で開催。平館トーキー「ミッキーのお化け屋敷」。二本松男女青年団が双松座で映画会。栄館で逢初夢子「理想の夫」。郡山警察署後援「警察官」郡山で上映。白河劇場「燃える富士」阪妻「眠れ母の胸に」外上映。
3月、平館「丹下左膳」世界館「おなじみ一心太助」上映。富岡で映画会。相農創立三十周年記念でROYAL BALRY16ミリ映写機購入。栄館広告「弥次喜多」「街の流れ鳥」。本郷町荒池倉庫でフィルム火事。栄館でルネ・クレール「パリー祭」、福島座で伝明主演「金色夜叉」。橋本酒店主催の歌舞伎大衆座で公演。
4月、栄館で久米正雄原作「双眸」(成瀬三喜男監督・田中絹代主演)上映。山都の都座で国防映画会。船引の船引劇場で軍事映画会。平館「ふるさと晴れて」伝明。川俣座で川俣の演芸会。伊達郡柱沢青年団が映画会。青年団主催正光堂後援で「無頼漢編笠」市川歌衛門・「紙芝居」荒木忍北・阪妻の「鯉名の銀平」上映。清水座新築落成30日開館。夜桜の信夫山で民報社映画大会。馬匹共進会の映画化で日活俳優が郡山へ来訪。平館で「心の太陽」。
5月、福島劇場「神風連」・福島座「女曼陀羅」。田島劇場弁天座が焼失。12日郡山清水座開館。磐城劇場根城にスリ.湯本小名浜の事件。ブラジル事情講演と映画会が東白川郡石川町で開催。
6月、「月よりの使者」福島劇場で上映。関谷敏子独唱会が福島で開催。福島市で映画「月よりの使者」みて自殺事件。白河商業映画。栄館でオールサウンド「情炎の都市」逢初夢子。磐城郡渡辺村の釜戸諏訪神社「奴っ子踊り」が米パラマウント社がトーキー撮影に来訪。栄館ワイズミュラーの「猿人ターザン」田中絹代「婦系図」広告。福島高商で軍事映画会。
7月、栄館「上陸第一歩」上映。
8月、栄館広告「無敵タルザン」。
9月、産業組合青年会は高田信富座で映画会。福島座で伝明「潮」。
10月、栄館広告で月形半平太、ナガナ予告。。
関谷敏子嬢の独唱会が若松で開催。福島若松郡山でウテナ化粧品の夕で映画上映。
11月、新開座で舞踊と映画の会「貨物船と女」(ゲーリー・クーパー)を上映。徳川夢声が来平。清水座で「喰うか喰はれるか」グロ珍奇映画「月夜鳥」。
12月、福島劇場で月よりの使者大会。「板下公会堂」が新興直営に。鈴木伝明が展墓のため来平。母堂の葬儀を執行。栄館は久米正雄原作オールサウンド映画「沈丁花」(田中絹代・岡譲二・花村蘭子出演)。勿来劇場全焼す。栄館広告「一本刀土俵入り」。

昭和10年の映画状況

【この年の県下の映画ニュース】
1月、滝口新太郎や人気女優ら日活スターが福島市で挨拶。逢初夢子主演「わたしがお嫁にいったなら」人気。野沢劇場で「警察官」上映。浪江座に米若来る。石川座で愛国婦人会が貧困児童救済に日本及び日本人、一九三六年、防空と婦人、愛は輝く、お猿の大漁、。
2月、「躍進の郡山」と題して郡山の沿革地勢、人口その他郡山市一般の情勢を広く天下に紹介するというふれこみで東洋キネマ撮影所を騙り郡山市長にトーキー吹込をさせたが、これはインチキでのちに検挙。ほかに二本松、福島、飯坂も詐欺だった。
2月、キネマは夜通し興行。中村で活動につかうため賽銭専門に盗む少年逮捕。東京に憧れ人力車夫の娘が家出。活動写真の帰り道補導。活動見たさに三度放火した須賀川の男公判。坂下公会堂旧正月興行で久米正雄原作男の掟、右門三十八番手柄。須賀川座で紅蓮地獄、染血鬼面、前科者二人9女、親三人。中央館で歓楽の夜は更けて、旅姿桂小五郎、大村鉄太郎、前線部隊、松竹ニュース。白河劇場で丹下左膳、さくら音頭、日米野球戦等。福島劇場で子を持つ処女、恩讐の子守唄、渦巻、聖林レビュー団東京紅団のレビューと福引。栄館で旧正月興行金環蝕、空中レビュー時代、林蔵出世旅、なめられた彼奴、発声漫画黒い羊。雨は夕焼け、殴られた河内山、松竹発声ニュース、発声漫画お伽の国、空飛ぶ悪魔。福島座で広野の果、朝日発声ニュース、青春よいづこ、伊藤大輔監督の忠臣蔵。大福座で田舎娘手連の早業、やきもち喧嘩。
3月、福島座「天保忠臣蔵」「お笑い猿蟹合戦」朝日発声ニュース、「ロイドの大勝利」。栄館「瓦版かちかち山」「コングの復讐」松竹発声ニュース、発声漫画、サウンド「浮草物語」。福島劇場「われもし戦はば」「花婿突進」福引きと新興専属レビュー、帰去来峠。大福座「椿咲く島」「天蓋浪々記」「都会と街の巨人」「日本厳窟王」。喜多方帝国館「忠臣蔵」。二本松双松座で猛獣サーカス・レビュー来る。郡山日活常設の富士館は岡崎未亡人より管野氏へ一万二千円支払うことで後継問題が解決。「コングの復讐」「ターザンの復讐」が人気。白河の活弁林海之助(37)がカルチモン60錠のみ自殺を図る。
5月、双葉相馬まで伯国移民映画と講演会。釜戸の奴祭をパラマウント、フォックス社などの映画班出張撮影。
6月、百尺観音ユ社のトーキーに撮影。伯国移民移民映画が中村で上映。栄館が差押えられる。福島の納涼野外映画会で満州事変トーキー実写朔北の野戦、漫画爆撃隊、鉄道省映画を上映のほか」安宅千代の相馬民謡など。郡山尚武祭を東京朝日新聞が撮影、富士館で上映。
7月、伝明の「愛憎峠」福島座広告。相馬農蚕校が国防映画会。現役将校配属教練実施十周年記念映画会。新開座で「漫画」「北進日本」「北満の落花」「日本郷十舞踊第二編」オールトーキー、会費二十銭。錦村に常設興行館計画。まだ一つの娯楽機関もなく山崎登氏から県に常設興行館設置を出願し認可。栄館で金環食、天一坊と伊賀亮、嬉しい頃、東洋の母、鯉名の銀平、松竹ニュース、大学の若旦那。福島劇場で剣鬼の三人旅、嫁ヶ淵、桂小五郎「晴れじ左門」「修羅時鳥」。大福座で暁の復讐、怪腕火花を散らして、名馬黒旋風、定九郎破れ笠、「小金井小次郎」「旋風も荒鷲」「魔刃紅とかげ」「誉れの旅人」。福島座で多情仏心、東京港祭り、剣雲薩摩歌。栄館と福島座が休業。。
8月、大福座「悲しき操」「名金」。福島劇場「大高源吾」「貞淑問答」「長崎留学生」。福島座で富士の白雪、雲とつばさ、乃木将軍、オールトーキーダンシング・レディー、丹下左膳・余談百万両の壷を上映。白河劇場で「激情の嵐」「家なき児」「南極探検映画バンサ」。県下十六ヶ所で粛選映画巡回上映。福島市鳩屋に映画女優来る。大谷日出夫、白河の親戚へ避暑。
9月、福島座広告、地雷火組、ジンギスカンの仮面。
栄館いよいよ更正「福島松竹館」として五日開館。7月以来休館を続けファンから忘れられ様としていた栄館は、山田勘左衛門氏が事を引き前営業主任生田氏が経営にあたる。広田劇場全焼す。
10月、中村座で琵琶と映画の夕。「雪の丞変化」松竹福島で上映。「家なき児」松竹館で上映、「或る夜の出来事」福島座で上映。「エノケンの魔術師」福島で上映。郡山三小で満州映画の夕、入場無料。
11月、東洋キネマがトーキー「東北遊覧案内」を製作。福島市長が「福島紹介」でレコードにナレーションを吹き込んだ。
12月、レンズ窃取犯検挙。
年末から新春にかけて31日から4日までマチネー。5~9日第二週。10日から第三週。松竹栄館で「夜の看板娘」岡田嘉子のトーキー「一本刀土俵入り」逢初夢子の「街の暴風」「与太者と花嫁」右太衛門の「三日月の□」RKO発声日本版「世界大洪水」阪東橋之助「お江戸日本橋」サウンド版「夢のささやき」上映。日活福島座で千恵蔵の「雁太郎街道」新入社水久保澄子「愚連隊の唄」メトロ「ヘルビロー」「旭世界ニュース」大河内の「水戸黄門」伝明水久保の「若夫婦試験別居」フォックス日本版クララ・ボウ主演「フーブラ」オールトーキー「日本民謡集第三」「朝日発声ニュース」オールトーキー寿々木米若特別吹き込み「佐渡情話」山路ふみ子「結婚寝台列車」「日本民謡集第四」「朝日世界ニュース」福劇で「雪の肌蜻蛉組」「巨人街」「馬子唄時雨街道」「花嫁選手」「伊勢音頭」「熱風」「花嫁大学」「七宝の柱」大谷日出夫、月形龍之介の「本所小普請組」、大福座で「八軒夜店」「兄弟からす」「希望の丘」「仁和賀富士」「生活の断片」「踊る鬼神」ナンセンス「アフリカ探検」「大城峠」「港そだち」

昭和10年の福島映画街
上映されたヒット映画

年末の民友新聞から、昭和十年に上映されたものを列挙してみると次のようだ。
「モナリザの失踪」「会議は踊る」「モンブランの王者」「或る夜の出来事」「ベンガルの槍騎兵」「家なき児」「黒騎士」「乙女の湖」「空中レビュー時代」「ボレロ」「クレオパトラ」「外人部隊」「未完成交響楽」「トト」「商船シナシチー」「肉弾鬼中隊」「怪人マゼブ博士」
邦画「或る夜の女」「恋愛修学旅行」「生きとし生けるもの」「雪之丞変化」「浮草物語」「気まぐれ□者」「裏街の交響楽」「富士の白雪」「関の弥太ッペ」「ネズミ小僧次郎吉」「箱入娘」
圧倒的に洋画の方に人気をさらわれがちであった。トーキーならではの、流麗な音楽が、なくてはならぬ要素だった。

昭和10年の映画入場者1日700人

映画入場人員調(昭和10年)福島県史
署別 大人 小人 大人平均 小人平均
中村 16,543    6,619     45       18
原ノ町39,540  12,297    108       33
平    244,822  135,063   671     370
福島  425,768  129,616  1,164    355
郡山  235,263   66,418   643     181
若松  629,690   96,156  1,725    265
(その他町村略)
合計 2039,123  588,156  5,586  1,611

福島県の映画人口300万人超す

昭和5年の常設館は、福島毎日6年1月17日記事によると30館。
昭和6年の福島県内の映画観覧総数は231万人。福島県には弁士が103人もいた。常設館は32館あったが、トーキー設備館はたった1軒。
昭和7年の入場者総数は272万7000人にのぼった。入場者数は一人当たり年間二回。盆と正月に見るくらいの唯一最高の庶民の娯楽だった。常設35。
昭和8年の映画観覧者数は343万人。常設館32。トーキー設備は3館。映画従業員は説明者男101名、女4名。うち中学卒業の学歴は男12名、女1名。映写技師77名。中学4名、小学校を卒業していない者9名。官公署、学校、公共団体、新聞社による映画会667回。
昭和9年にはようやくトーキー常設が9館になった。しかし、地方館にトーキーが導入されるにはかなり遅れて昭和十年代までずれこんだ。トーキーと名がつけばそれだけでニュースになった。農村で映画を見ることができたのは、無料の巡回映画ぐらいのものだった。当時の庶民にとって、映画スターはまさに暁天の星だった。
昭和10年の映画館調べでは県下に46館あるという。同年9月、福島映画館の8月成績では福島劇場18627人、大人11378 小人26739.50円。福島座10469人、大人48891 小人 1847.60円。大福座13433人、大人5757 小人1847.60円となっている。
地元映画の撮影

河野広中一代記の活動写真

昭和2年1月から、河野広中映画が話題になった。勿論、河野は政党人なので、属する憲政党の機関紙で福島民友と分裂した福島毎日新聞の紙上だけでのことだが。
一年前の春以来、三春町の磐州青年会長佐久間広治氏が同志とはかって河野磐州一代記の映画化を計画。県下と中央の諸氏の応援を得て、マキノ映画プロダクションの手で製作した。
三島県令が福島自由党員を検挙して弾圧した福島事件や武装蜂起が鎮圧された加波山事件などの歴史をふまえたストーリーで構成。
完成したフィルムは二班にわかれて県営を1月20日から福島座と三春座を始めとして郡山、二本松、白河と会津、浜通りを巡回上映。次のような熱狂的信奉者の趣意書をばらまいた。
「趣意書
河野広中先生 三歳の童子も其の名は知る福島県の生める自由民権の先駆者普通選挙の主唱者憲政神の如き河野磐州翁の伝記は既に中山先生の筆に成り
天覧の栄を賜ふ不肖吾等は斯に観る処あり文学士直木三十五氏の脚色監督に牧野省三氏の総指揮の下に約壱ヶ年の歳月を費し巨額の宝を投じて以つて漸く完成せる大映画河野磐州翁伝全巻を公開する事に成れり文部省 推選(ママ)映画の出願中にして本県下各学校を筆頭に三府五十三県津々浦々に至る迄生ける教科書として本編を提供する次第幸に教育資料の一旦ともなれば吾等の面目是に過ぎず何卒振って御来会先生の偉風に接せらん事を乞願
敬白
磐州青年主事
主催者  佐久間広治」
脚色 直木三十五
監督 古間礼一
撮影 相田敏雄
字幕 橋垣虹二郎
配役
河野広中  東明二郎
同甥広身  吉村哲哉
田母埜秀□ 香川 遼
平島松尾  長田恒夫
宇田一成  町井平八
鯉川久八郎 中 東吾
芸妓    香川梨枝
お梅    松本喬子
同志    牧圭二
同       長尾 信
捕吏頭     大木 清
おりしも大正天皇の薨去で、巷には大喪実況の活動写真が喧伝されていたので、石陽社の地元の石川町では、石川座において2月9、10の両日、河野映画と大喪映画の二本立てで上映された。河野は青年時代に戸長として石川郡役所にあり、同志を糾合して石陽社を創立したという聖地だ。
しかし、一党一派に偏した宣伝映画と受け取られたらしく、他陣営の福島民報、民友新聞、福島新聞とも沈黙している。直木の筆力なら、脚色も面白く、専門の映画スタッフが製作したフィルムだから映画としては完成度が高いような印象であるが、まだ現物が見つかっていない。今後の発掘を待つしかないだろう。

俳優抜き地元で「川中島」撮影

昭和3~4年に「川中島」という無声映画が原町で撮影されている。これがおそらくは地元の俳優が出演した映画撮影としては現存する初の劇映画であろう。
昭和4年原町の民謡振興功労者岡和田甫が主役で、その娘婿が監督する「川中島」が昭和4年に製作され、2月に天覧に供したことが話題を呼んだ。俳優抜きで出演者全員が地元の原町の人々。野馬追に出場する騎馬武者たちと、小町娘らが演技した。相馬郡真野川を川中島に見立てて撮影。陸前浜街道には江戸時代の名残の松並木があり、疾走する騎馬武者のシーンなどはロケーション効果に適していた。のちに野馬追の里は日本映画の多くの時代劇でロケ撮影されている。鎧、甲、馬と、大道具小道具の揃った相馬ならではの映画である。
予算をかけずにノースターで俳優抜きの映画には、地元の出演者だけ。主役の武田信玄を演じた民謡研究家岡和田甫が尽力していた歴史的遺構の報徳殿移築保存を目的に資金捻出で活用するため製作した(自伝)。
御大典が行われた昭和3年、原町から大挙して相馬野馬追一行が上京して帝都市民を驚かせた。これを見た教育映画専門の太陽キネマ社長五味正智氏が目にとめたのがきっかけであった。
このフィルムは昭和50年代に再発見されて16ミリフィルムに複写され、しばしば上映された。
昭和4年には、「霊山の顕家」の撮影も行われた。原町から野馬追の騎馬武者たちが霊山ロケにかけつけ、岡和田は一族をあげてこれに出演している。

昭和5年 活動写真 霊山の顕家

「川中島」にヒントを得て企画された福島市と掛田町、石戸村、霊山村の伊達郡町村との共同製作。騎馬武者および予算の半分を相馬に負担してもらい、脇役に当時の佐藤澤福島市長が忠臣伊達行朝役に扮して出演した。 「川中島」にヒントを得て企画された福島市と掛田町、石戸村、霊山村の伊達郡町村との共同製作。騎馬武者および予算の半分を相馬に負担してもらい、脇役に当時の佐藤澤福島市長が忠臣伊達行朝役に扮して出演した。
昭和3年から霊山町長をつとめた管野善一郎は、日誌の中に霊山映画の準備のために奔走した記録を残している。
〔昭和四年十月十三日午前十一時石戸村長管野太郎氏・管野松吉氏・岡和田甫氏等来ル。白木屋ニテ霊山映画ノ件ニテ相談ス。
十月十八日石戸村長、掛田町助役等ト共ニ霊山撮影ニ関シ相談ノタメ電鉄社、福島市役所、青田直衛氏訪問、橘内条之助氏モ依頼。
十月二十四日石戸村長、掛田町長ト共ニ福島市役所、県庁・電鉄会社・飯坂町役場等訪問。飯坂町ニ一泊ス。橘内条之助氏依頼。
十月三十日、石戸村長ト共ニ霊山映画ノ件ニテ福島市並湯野町役場訪問。
十一月六日、霊山映画ノ件ニテ出福。霊山史蹟調査会ノ理事会ヲ開ク
十二月一日二日霊山映画撮影会計打合セノ為協議会ニ出福セリ〕
すなわち、この記述でみると霊山町村は伊達郡町村に協力を求め福島市と協議会を構成してプロデュースしたことが分かる。ノーギャラで全体の経費を浮かせ、スポンサーだからこそ映画の主要な脇役に当時の福島市長が忠臣伊達行朝役に扮して出演したのだ。
会津と違って時代劇の素材に払底する福島にとって、霊山を舞台に戦った北畠顕家は数少ない全国区の有名武将である。日本全国をサッカー場のようにして激しく移動、戦闘した生涯のこの部分だけを取り出して映画にしたのは、地元ならではの工夫である。
ストーリーは、本県の女師校の池内相城氏が調査した内容を高木監督が脚色した、という。桑折の城主伊達行朝、白河城主結城宗広が相馬氏の忠誠をたより、霊山に立て籠もった顕家に精忠を尽くすというもの。中幕に、付近の宗呼院の重職良順の娘松代姫と顕家とのロマンスをさしはさんで盛り上げた。
福島の市長はじめ市会議員、県会議員、財界人らが出演し、民報、民友ともに新聞はその名を詳報しているが、主要な部分の原町の騎馬武者については全く言及なく、主役にもふれていない。
主役を演じたのは、岡和田一男という原町の若者で、相馬民謡の紹介者で文化人だった岡和田甫の長男であった。
岡和田は、「岡和田翁回想 八十五路」という記録の中に、原町側の配役と出演した騎馬武者全員を列記している。
またこのフィルムが、台本ともども福島市役所の火事で焼失してしまったとも記している。

瓜生岩子伝記映画

昭和4年瓜生岩子の伝記映画も作られた。
昭和4年1月10日民友。
〔瓜生岩子の映画成る 近く公開
東京発=社会事業矯風事業に努力した瓜生岩子刀自生前の功労を広く世に知らしむるため瓜生会の中で『瓜生岩子刀自』五巻を製作することになり昨年八月下旬より着手撮影中であったが近く完成し公開の運びに至ると、なほ瓜生岩子刀自は勿論主なる登場人物すなはち板垣退助、三島通庸、河野広中、渋沢栄一、下田歌子その他の配役についてゃ非常に注意を払、ことに会津戦争の如きが、わざわざ福島県にロケーション-同地方の在郷軍人、青年団、処女会などの応援を得て大砲数門を備へて撮影を行ったものである〕
大正13年にも瓜生会による伝記映画が作られて公開されている。

昭和4年1月23日友
「大蛇記映画」 二月十日から公開

映画は見るものから、作るものになった。

昭和5年、「信達騒動記」が撮影

昭和5年「信達騒動記」が撮影される。
嘉永6年のペリーの黒船来航を目撃し、近代の到来を感じて思想的社会的に目覚め、農民運動のリーダーとして慶応2年に信達騒動と呼ばれる一揆を指導するなど先鋭的に活躍して幕府に捕らわれ、八丈島に流されたのち故郷に帰り、数奇な運命を生きた金原田八郎の伝記映画が、地元である伊達郡でロケ撮影され昭和5年に完成した。金原田というのは村の名前で、菅野八郎(当時は八老という記述が一般的だった)という。
幕末の混乱期に活躍した地元の偉人として描かれたが、社会主義、共産党、ストライキ、小作争議など騒然とした世情にぴりぴりしていた内務省が検閲を長引かせたため、ようやく5月から上映公開した。
原作不知火しげる。福島市出身の大衆作家秦哀民が脚色した。伊達郡太田村の義民『金原田八郎一代記』の映画化。
保原歴史民俗資料館では、平成8年11月に「金原田八郎展」を企画展示し、その機会に映画化されたフィルムについても調査したが、全く情報がなかったという。昭和5年の上映以来、幻の映画としてその名が知られるのみである。

「霞ヶ城の太刀風」 昭和6年

昭和6年、二本松でも時代劇が作られた。
3月、東京春秋映画が三沢監督のもと、二本松郊外でロケーション撮影し、4月に二本松双松座で封切り上映された。
二本松少年隊を題材にした「霞ヶ城の太刀風」がそれだ。全五巻を撮影。
これまで会津の白虎隊に比べて知られてこなかった二本松少年隊が、映画になったとあって、地元の熱の入れようはひとかたならぬものがあった。
少年隊の隊長木村銃太郎と同門の弓道師範佐倉強哉翁が主催者代表となり、福島市では新開座で5月11、12の両日上映された。福島民報と福島民友が後援。昼は小学生、夜は大人。入場料は十銭均一。佐倉は「戊辰の役で死んだ戦友への弔い興行の気持ちだ」とインタビューに答えている。
県内各地で上映されたあと6月20日から二本松双松座で、三沢監督が多少の改訂を加えた「新版霞城の太刀風」を上映。同時上映はマキノ映画「敷設列車」「乱刃花吹雪」松竹ナンセンス「落第はしたけれど」。
昭和6年には、野口博士の映画が撮影されている。1月、ロケ隊が会津津に入り、翁島の生家をロケ。若松では博士が師事した渡辺鼎氏自宅を撮影。俳優一行は大和館でファンにお目見えした。6月16日、積達新報社主催野口博士映画会を二本松双松座で開催。
昭和6年「モロッコ」にスーパー・インポーズが初めて採用され、以後洋画では一般的になる。ベストテン第一位。福島では松竹栄館で12月31日から上映された。
昭和7年「上陸第一歩」松竹蒲田。島津保次郎監督。この作品は平で上映された後、浪江と原町でも相馬双葉で最初のトーキー上映となった。会津坂下でトーキー化。「爆弾三勇士」が各社から出て全国で大ブーム。
昭和8年の松竹「沈丁花」は久米正雄原作。年度最高の興行成績を上げた。
昭和9年、福島の福島座が新築落成。トーキー「丹下左膳」で開幕した。

昭和9年 松竹独走
「隣の八重ちゃん」と「月よりの使者」

松竹は昭和9年に作った「隣の八重ちゃん」がトーキーの人気作。主演は逢初夢子というシンデレラ・ガール。このお嬢様スターは本名横山八千代。福島県生まれの女優第一号。猪苗代出身である。同じ年に「月よりの使者」が評判になった。
「隣の八重ちゃん」松竹蒲田作品。脚色監督島津保次郎、撮影桑原昂、出演大日方伝、岡田嘉子、逢初夢子、磯野秋雄。トーキー作家としての島津の代表作。昭和9年のベストテン第二位。
逢初は健康なお色気で、松竹カラーにぴったりだった。この年は、松竹がベストテンの第一、二、三、七、八位を独占した独走状態だった。
同じ年じ話題になったが、久米正雄原作の「月よりの使者」だ。
昭和9年6月、福島劇場で上映中の「月よりの使者」を観劇した二十歳の女性が、ヒロインを中心に若い男女が愛欲の葛藤の末に何人も自殺するのを見て服薬自殺するという事件が起きた。
りんどう咲く白樺の高原の恋、運命のもつれが涙を誘う悲恋映画。
「月よりの使者」は昭和9年雑誌「婦人倶楽部」に連載された通俗メロドラマ小説だが、その年に新興キネマ社から映画化されている。同社に入社した田坂具隆監督が第一回作品としてつくった。主演は当時の人気第一位の入江たか子、高田稔。
戦後、大映が二度再作しており、第二作は昭和24年、大映の加戸敏監督作品。最も有名なのが第三作目で昭和29年の作品。鈴木重吉監督。ミス日本の山本富士子が野々村道子役を演じた。菅原謙二、船越英二、根上淳、若尾文子、高松英郎などが出演。94分カラー。
原作の久米正雄は、熊本生まれだが、母親の実家が郡山。父親が中学校長で、校舎火災で天皇の肖像写真を焼いてしまった責任をとって切腹、自決した。この事件のために母親の郷里・郡山に転居し、中学まで少年期を過ごした。郡山を舞台にした数多くの名作を残したほか、安積中学野球部に援助を続けるなど郡山との絆が強かった。
新聞雑誌に流行小説を発表し続け、文壇の大御所となった。しかし、芥川龍之介とともに夏目漱石の門下となった同期生ながら、芥川が文庫で古典として読み続けられる一方、久米の作品は今では過去の映像などでしか知られないのは残念だ。

伊藤大輔の「丹下左膳」

昭和2年に初めて発表された林不忘の小説「大岡政談」に、怪奇な脇役の悪人が登場し、たちまちこっちの方が人気を呼んだ。片腕に片目の剣豪、丹下左膳という。やがてすぐに独立した主人公になって、続々と物語が発表され、翌年には映画化されて全国を沸かせた。
大河内伝次郎の研究家梶尾章氏は「日活映画が伊藤大輔監督の巧みな脚色と演出、唐沢弘光の驚嘆すべきカメラワーク、丹下左膳に扮した大河内伝次郎の凄愴極まる演技により他社作品を圧倒した。大河内伝次郎という不世出の時代劇スターに傾倒し続けた筆者は、この無声映画を戦前戦後を通じ最もすぐれた剣戟時代劇映画として推奨することをはばからない」と激賞している。
題名、スタッフ、配役のタイトルに続いて乾雲、坤龍二刀にまつわる因縁が格調高い伊藤監督の字幕によって語られ、江戸の小野道場の家宝となっていた大小二刀が、盗まれる場面が映る。黒装束の武士二名が刀を奪って逃げるが、門弟たちに追われ、逃げ切れずに刀を捨て、一人は自決し、一人は逃げる。
場面変って奥州中村藩の遠景に、堀にかかる橋を蹌踉とした足取りで渡り城中に入る武士の姿。
寝所で引見する刀剣狂の藩主相馬大膳亮に、刀剣奪取の失敗を報告した武士は、そのまま切腹して絶命。
「丹下左膳を呼べ」
やがて裃姿で膝行し殿も御前に進み出る左膳の後ろ姿。殿から何事か命じられる左膳の姿から、橋を渡って縄文から出ていく道中姿の武士の遠景に変わる。
これが映画の冒頭部分。すなわち悪人の藩主は相馬の殿様。主人公は中村藩士なのである。
昭和の初期、不景気に苦しむ庶民にとって、ヒーローとは正義の味方のベビーフェイス(善玉)ではなく悪役こそが、胸すく活躍で権力に立ち向かってあばれまくるヒーローだったのである。
林不忘(長谷川海太郎)は、牧逸馬、谷譲次などのペンネームを使い分けて、時代劇、メリケン物(アメリカ放浪体験を小説化)、現代物などを多作し早逝した。
昭和初年に中村町(現相馬市)を訪れ、宇多川べりの伊勢屋旅館に泊まって取材、構想を練ったという。
中村城下には、丹下姓のサムライが住んでいたことがあり、異常なお宝マニアの藩主のモデルもある。(相馬昌胤と思われる)
平成元年には、林不忘の長男一家を招いて、相馬市に丹下左膳の碑も建立された。
「架空人名事典」にも、丹下左膳の名が載っており、中村藩士となる。福島県人として著名な名士なのだ。

祐天上人一代記

昭和十年十二月、いわき出身の祐天上人の一代記が映画になり、ロケーション撮影された。東洋映画製作所が作製。大沢恒夫監督作品。
祐天が三之助という幼い日に、旅の僧侶から、この子は短命になる、僧にすれば運命を変えられると聞いた母親が、芝増上寺に送った。
のち成田山新勝寺で大悟。綱吉母子の帰依と庇護を受けて、文化財復興と保護に力を尽くした。東大寺や鎌倉の大仏が今日まで遺されているのは、祐天の功績である。
トーキーに殺された男

いわき出身の鈴木伝明

昭和の初め、石原裕次郎と加山雄三を足したような福島県出身の青年スターが、日本全国の銀幕の人気を一身に集めていた。
鈴木伝明(つぐあきら、あるいはつたあき)が本名だが、通称でんめいと呼ばれた。別名、東郷是也。明治大学在学中に水泳の新記録を出し、乗馬も球技も万能。学生スポーツ界から日本の初期映画界にスカウトされ、華麗なる転身をとげ、一躍スターダムにのし上がった。福島県内ではいわき出身ということで、戦前の銀幕ファンにとってはおなじみだった。
日本映画史の一齣を演じた伝明が昭和六十年五月十三日に肺気腫で長逝した時に、当時の新聞は次のような見出しの評言で彼の人生を蓋棺し、飾った。
読売は「エキゾチックな二枚目 鈴木伝明さん死去」、朝日は「無声時代の石原裕次郎 鈴木伝明氏が死去」と。
しかし「地元」の福島民報も福島民友も昭和五十年代に編纂出版した百科事典には、鈴木伝明の項目を載せてはいなかった。すでに遠い過去の人だったのだ。無理もない。鈴木伝明が東郷是也の名でデビューしたのは、日本映画史初期の本格的劇映画「路上の霊魂」で大正十年のこと。活動写真と呼ばれ卑俗な娯楽だった輸入見世物が、近代芸術として評価され、「映画」という言葉が生まれたのもこの頃だ。
民報の福島大百科をよくよく調べてみると、鈴木伝明の名は演劇、スポーツの項目にいわき出身の人物として出てくる。民友の数々の郷土史書籍にも、いわき出身とある。実際には東京生まれなのだが、福島県との縁は両親がいわき出身であり、伝明自身、戦後いわきで炭坑主という実業家の時期もある。
〔一九〇〇年三月一日、東京府上野桜木町に生まれる。祖先は代々福島県石城郡泉村下川で石炭、醸造暁を営む。神田順天中学より明治大学商学部に学び、松竹キネマ研究所に入り、東郷是也の名で「路上の霊魂」に出演。ただし、伝明は「でんめい」と読まれ、これが通称となる。日本では最初のスポーツ学生ドラマというべき「吾等の若き日」に快演して、純映画俳優としての松江アイを期待された。二十五年より松竹へ転じて牛原虚彦監督のもとで「彼の人生」その他に好演、一時は伝明ブームを作る〕(「日本俳優名鑑」・キネ旬)
昭和四年には田中絹代と福島市を訪問し、花水館に泊まって福島地方のファンに観客サービスしている。
昭和五年の「進軍」というサイレント映画で、伝明はスポーツ万能の若者が軍の重要書類を、乗馬、水泳、自動車、飛行機を乗り継いで参謀本部に届ける、という格好いい役どころを演じる。ヒロインの田中絹代と組んだアクションもの。実はアメリカ映画の名優ダグラス・フェアバンクスのコピーだったが、当時の日本人にはスーパースターに見えた。こうした役どころが、後の湯次郎のアクションや加山雄三の若大将のスポーツものに引き継がれた。
有名になった伝明は渡米したり、自分のプロダクションを持ったり、監督業に転身しようとするが、既存の映画大資本に妨害されて満足な活躍はできなかった。
〔独立して不二映画製作所を主宰したが、一年で解散、その後はフリーで各社に出演。監督作品は戦後の「思ひ出の東京」以外に見るべきものはない〕(キネマ旬報日本映画監督全集)
戦後は父親の死去をきっかけに実業界に転身しようと、家業の炭坑主となって福島県にくるが、これも性格に合わず、再び俳優になった。

郡山出身の大谷日出夫

昭和初期には、郡山から大谷日出夫が映画界入りしている。この人もまた無声映画時代のスターで、おもに時代劇の主役として活躍した。
大谷日出夫は、昭和八年ころから日本映画の主役として県内はじめ全国で大いに人気を呼んだが、ちょうどトーキーが登場しはじめた頃で、やがて東北出身ゆえのズーズー弁が災いしてトーキー化に乗り切れず、銀幕から消え去ってしまった。
〔新興キネマ時代劇の強いヒーローだった大谷日出夫は、明治四十二年郡山生まれ。国鉄勤務ののち昭和六年、不二映画の吉川英蘭に師事。ニューフェイス募集に応じて日活入りしたが、同期には中田弘二、深水藤子、松平不二也(のちの新田実)らがいた。
昭和八年、辻吉朗監督に抜擢されて「霧行燈」「万太郎暴風雨」「広野の果」に連続主演。健康明朗型のマスクで柄もあり、海江田譲二に代わる新スタアとなった。大河内伝次郎がやるはずだった「振り分け小平」に主演して嘱望されたが、突然、宝塚キネマへ転社。「艶姿影法師」「からくり帖奇譚」を残して、さらに新興キネマに鞍替えした。
「本所小普請組」「仇討妻恋坂」「お江戸春化粧」に豪快な小金井勝と共演。野村胡堂原作「万太郎青春記」と「江戸の坩堝」では鈴木澄子と組んだ。「怪傑黒頭巾」の青江下野と「虚無僧系図」の関根蕭々で当て、白頭巾シリーズに主演するなど、スポーツマンタイプの剣戟スターとして新興の客層に受け、大衆時代劇の花形となった。
原田甲斐と松前鉄之助の二役をやった「伊達競艶録」でトーキー初出演。リメイクの「地雷火組」に桂小五郎、「照る日くもる日」に白雲堂を演じ、往年の河辺五郎の役を一手に引き受けたが、エロキューションに難があり、昭和十六年トーキー俳優としての限界を感じて「孤城の桜」を最後に引退した。戦時は一時、大日向国照の名前で東映時代劇に出演。「怪傑黒頭巾」にかつての同僚大友柳太郎のわき役で出ていた。彼もまた、トーキーの関門に阻まれた俳優の一人であった。〕(「日本俳優名鑑」・キネ旬)
エロキューションとは、発声法、台詞まわしのこと。つまり、大谷は福島人特有の東北弁が抜けなかったため、トーキーによって俳優生命を絶たれたのである。
新興キネマは、日活や松竹とは異なり、庶民的娯楽であることに徹した映画会社で、現代物から時代劇まであらゆるジャンルの作品を提供し、地方ファンにも人気があった。
俳優よりも弁士の方が偉かった時代は終わり、昭和十年頃から、座付きの楽団員も失業した。これらが生活のために町の広告媒体となり、東西屋とか広目屋とか呼ばれたチンドン屋の起源となった。

(政経東北1999.1.トーキーに殺された男)

銀幕の中の福島
撮影された郷土の姿

●ベストセラー政治小説「佳人の奇遇」の映画化
劇映画としての福島県関係の映画には、日本映画史の最初期の「佳人の奇遇」があり明治38年8月に県内で日露戦争実写フィルムとともに上映された記録がある。これは会津若松出身の柴四郎(東海散士)の明治17年のベストセラー政治小説の映画化。会津でロケが行われたかどうか不明。県人作家原作の映画化としての嚆矢。明治38年に福島座で上映された。
物語は、アメリカ独立宣言の記念すべき都市フィラデルフィアの独立記念塔の楼上から始まるという国際的なシチュエーション。しかもアイルランドとイタリアの革命の志士を父に持つ二人の西洋美女と出会う日本青年の話というからすばらしくロマンチックではないか。しかし心配なのはこの当時、日本に女優は存在せず、歌舞伎の女形が女を演じる段階なので、どのようなキャストだったか不安でもある。
●「彦内映画」の上映 大正5年
福島と伊達地方で「彦内映画」が上映された。小説「天狗回状」で知られる伊達郡の農民一揆の映画化。
●「連鎖劇白椿」のバックを飾った活動写真のロケーション撮影
大正10年、福島民報に連載の小説「白椿」が劇化され、一部活動写真を福島市内で撮影したものを利用して、芝居と映画をつなぐ「連鎖劇」にして上演した。連鎖劇は大正時代に流行した演し物で、舞台劇の途中に関連する場面や広がりをもった場面を活動写真に撮影したものを上映した。有名なものでは「忠臣蔵」などを演じた。
福島では、大正10年5月3日に、黒岩伏拝などで俳優の実演するところをロケーション撮影。当時の話題となった。〔三日午前九時田村写真館の庭園に面した洋館一階から逃れ出した扮装の河合由喜衛が伊達巻のまま逃れ去る場面を最初として松齢橋の身投げ紅葉山の格闘、信夫橋の追っ掛け等壮快な場面や悲惨な場面を撮影して午後一時伏拝、黒岩から四台の自動車に『白椿劇』の大旛四旛を翻かせて市内を疾走したが扮装した二十余名の俳優が真剣に演ずるのを早くも知った物見高い見物人は昨紙の場所々々に集まって黒山の如く各所共に一時は負傷者の出す程の大騒ぎで取締りのため福島署の警官が出た程で高浜一行の人気は素破らしいものであった〕5日夜から新開座で公演。(5月4日民報)
●「魔の渦巻」福島芸者の探偵活劇
大正12年9月には、福島の北裡芸者が登場する探偵映画を地元で作ったという記事がある。当時の上映作品(震災被災地を撮影した実写)に飽いたので、自分たちで映画を作ろうということで制作してしまったという。タイトルは「魔の渦巻」で製作と上映は大福座。福島における自主製作と自主上映の先駆けである。
●日活「石田刑事の温情」一世を風靡
大正13年、昭和天皇が東宮の時に新婚旅行として猪苗代の翁島用邸に滞在。そんな時に福島市中に陸軍の脱走兵山本佐助が拳銃を帯びたまま逃走潜入した。福島県警はあげて探索しついに8月24日、山本を発見。ところがすずらん通りで山本は石田吉五郎巡査部長に発砲。石田は胸を撃ち抜かれて瀕死の重傷を負う。のち石田は獄中の山本に、病床から更生を願って何くれと金品を送って慰問。しかし療養むなしく警察に復帰できずに引退。山本は軍法会議で14年の刑を受けた。山本は石田の温情に感激し以後二人の間には心の交流が続いた。日活がこれを映画化し大正13年には全国の話題となった。福島では映画と芝居を組み合わせた連鎖劇として新開座で上演された。
●大正13年「京助と卯吉」安達郡白沢で起きた親友殺し事件をいちはやく映画化したきわもの。地元ほか県内各地で上映された。
●大正13年「大正弥次喜多」福島の摺上川上流の鉄橋で汽車に追われてぶらさがる場面をロケーション撮影中に主役の清水真蔵が列車事故で川に落下、頭部打撲する事故が起きた。
●大正13年「瓜生岩伝記映画」
昭和天皇が東宮の時、ご成婚を祝して瓜生岩に贈位があったため、耶麻郡熱塩示現寺住職主唱の瓜生彰徳会が結成され、社会施設のため3万円の浄財が募られ記念誌を発行したほか映画(全4巻)を依頼製作。10月に熱塩示現寺で試写、喜多方朝日座で封切り、若松大和館ほかで瓜生岩子の伝記映画上映。14歳、若松の伯父山内氏の許で堕胎を懇願している貧困な女の話を物陰から聞いて、この産婦に金品を恵み、社会事業に立つことを発願。熊野神社に参籠して神仏の加護を祈ると一巡礼を救ったことに黙示を受けて仏道に依って事業の発展を誓う。示現寺に懇願して受戒の法会を受け、不撓不屈の生涯に邁進した。刀自の努力で堕胎の蛮風も漸次蔭をひそませたが、村役場収入役が公金費消の罪を糊塗し娘を売ろうとする処を刀自がもらい受け、孤児も受け入れ、福島に出て三島県令の援助を受けて社会福祉事業を推進。戊辰戦争でも敵味方なく負傷した兵を介護したことから日本のナイチンゲールと評された。映画には示現寺、長楽寺、浅草の銅像なども映し出される。説明は大和館の佐藤浪涯(東北活動写真弁士教会理事)。年内、中通り、浜通り県内で巡回上映された。
●大正13年、島津安次郎監督が「新己が罪」飯坂でロケーション撮影。スター女優も来訪した。14年に公開された。
●大正13年、飯坂ロケーションで「村の先生」撮影。
●大正15年の県内ロケ
「孝子掃不関三君 いよいよの映画になる 幾世橋村に出張」(民報2.9.)
「ロケーションに賑わった猪苗代 牛原監督 伝明」(民報7.5.)
などがあるが、タイトル不明。

戦前のご当地映画のラッシュ
●「白虎隊」映画(戦前作品)
会津の白虎隊ものは繰り返し製作されたが、戦前は10本ほどあり、マキノ省三のものが有名。主演は片岡市太郎だが、予算をかけないいわゆるノースター映画である。
「白虎隊」横田商会。1910年6月15日封切。富士館。主演、尾上松之助。
「白虎隊」1911年7月1日封切。錦輝館。
「白虎隊」日活。1912年11月1日封切。大勝館。
「白虎隊」天活。1915年7月中旬封切。浅草みくに座。
「白虎隊」日活京都。1917年8月12日封切。第二遊楽節。牧野省三監督。
「白虎隊」国活。1921年7月15日封切。浅草大勝館。吉野二郎監督。
「白虎隊」松竹蒲田。1922年10月31日封切。浅草大勝館。吉野二郎監督、主演沢村四郎五郎。
「白虎隊」マキノ御室1925年8月21日封切。大阪第一朝日劇場。京都マキノキネマ。牧野省三監督。助監督勝見正義。脚色中島宝玉。撮影大森伊八。主演片岡市太郎、中村歌三郎、マキノ輝子、泉春子、マキノ正唯。
「白虎隊」松竹蒲田。1927年6月25日歌舞伎座封切り。野村方亭監督。原作者岡本綺堂。脚色野田島梧。撮影小田浜太郎。主演、藤野秀夫、八雲恵美子、松井手枝子、森野五郎、吾妻三郎、久保田久雄、田中絹代、磯野秋雄、高尾光子、岩田祐吉、柳さく子、佐々木清野、松井潤子、小藤田正一、押本映治、鈴木伝明。
「白虎隊」オールキネマ社。(旧内務省検閲審査)受容1939年5月31日。昭和15年に「白虎隊」と題する劇映画が県内を巡回上映されているのはこれか。
●「河野磐州伝」福島座と三春座で封切り 昭和2年
さらに昭和2年には「河野磐州翁伝」がある。こちらは三春町磐州青年会長佐久間広治等が発起人となってマキノ・プロダクションが大正14年から制作し、完成。昭和2年1月20日から福島座で封切り。同時に河野の地元・三春でも封切り興行を行った。監督マキノ省三、脚色直木三十五。加波山事件なども描き出されているもの。その記事の隣に、「大喪滷簿映画を文部省でつくる」という記事がある。大正天皇の葬儀の記録映画のことである。
●「大蛇記映画」小高町の劇映画
昭和4年1月23日友
〔「大蛇記映画」 二月十日から公開
過半郡山プロダクションの手で相馬郡内の名所旧路大悲山の大蛇記を脚色した映画は来る一月十日から二日間小高座に於て公開し引続き郡内各町村を巡業、観覧に供する事となつている〕
製作を担当した郡山プロダクションとは、大正14年に誕生した郡山フィルム商会という会社ではないだろうか。
●原町の素人劇のサイレント映画「川中島」天覧に 昭和4年
昭和2年2月24日の福島民報に「野馬追映画を俳優抜きで撮影・甲州軍記の長尺物近く相馬で公開」という記事が見える。
〔野馬追振興会の岡和田長円氏と某り旧冬中原町及び其の付近に於て野馬追騎馬武者を駆り集め甲越軍記の長尺物近を映画に収め足たるが其出来栄頗る見事にして殊に出場人員一千二百名場面に現はるし上杉武田の両大将を始め下歩卒に至る迄一名の俳優をも用えず何れも相馬武士が之を扮したと云ふ頗る振ったもので相馬藩が多年練りに練った甲州流兵法の奥義魚鱗の備ひ鶴翼の陣、十二段構へから甲、越両将の一騎打ちに至るまで宛然実物を観るに異ならず賢くも去る一六日天覧の光栄に浴したとの報地元に到着したので関係者一同歓喜その極に達してゐるが右映画は東京の大劇場に於て封切をなしたる上地元に於て公開する筈であるが長円氏はこの映画を以て予て計画中の二宮尊徳翁の報徳殿建立の資金募集に当ると云ふことである〕(昭和4年民報)
1977年(昭和52年)6月14日、原町市芸術文化連絡協議会の主催で史劇「川中島上映会」が1時30分、7時の2回、朝日座で開催された。
無声映画のために、弁士として元朝日座弁士の小島翠峰氏(当時68才)が担当した。
上映当時の朝日座の日程表に印刷された文面によると、監督は昭和3年当時、岡和田甫氏の娘婿の日活監督高木喜智氏が当り、岡和田氏が主役の武田信玄に扮し、ほかに家族や地元の有志約30名、それに相馬野馬の騎馬武者約300名が出演し、3ヶ月を費やして完成。翌昭和4年2月16日には、宮中で天覧されたという。制作費は当時の金額で4700円、フィルムは全8巻1516メートルの大作。 育映社に依頼して16ミリ・フィルムに再プリントして複製を作った。こんにち昭和初期の原町の様子を知る上で大変貴重な史料である。「川中島」は、野馬追の地元で甲冑武具が多数残っているため、これをふんだんに活用しての時代劇である。字幕までついている本格的な作品。発見時には上映会が行われ、私も実見したことがある。
●霊山落城がテーマの「霊山の顕家」 昭和5年
「霊山尽忠悲史あすから栄舘に上映」(昭和5年3月2日民友)
〔例の霊山尽忠史劇『顕家卿』の映画はいよいよ明二十五日から福島市連合団では役員会の決議に基き全団員総動員で会員券の分配と諸般の準備を進めてゐるが、同映画の公開と同時に佐藤福島市長の創作池内口脚色になる「世良修蔵劇」も福島第一小学校同窓会の手で演出公開さるることになり同窓生の連中は目下第一小学校内で大剣戟の練習に余念がない、なほ福島市役所では二十三日霊山映画会の名称のもとに挨拶書を全市民に配付した〕
さらに3月27日付では〔珍劇『世良暗殺』佐藤福島市長の作品目下栄座で上映中〕と報じ、佐藤市長が活動写真に演劇に活躍した姿を描いている記事の中に霊山映画の消息がある。
〔原作が佐藤市長といふのでどんなものかと人気を呼んでゐる新劇『世良暗殺』は目下栄館に於て映画『霊山の顕家』を映写する前に上演し喜怒愛楽一派が決死的猛演で観客を喜はしてゐる劇は二幕からなり一幕は『暗殺の密議』で二幕目は『暗殺の場』であるが原作者佐藤市長の言はんとする処は官軍参謀世良を暗殺するに当って福島青年の意気を見せると言ふにあり脚色も全然史実を無視してゐるので一寸奇異な感じを抱かせ郷土研究の権威として聞こえてゐる佐藤市長にも似合はず世良暗殺の顛末を歪めて紹介して居りそれに両刀をたばさんだ福島青年連が何れも町人髷で登場して更に又観客をうれしがらせてゐるがとにかく背景が福島だけに珍劇『世良の暗殺』としてやんやのかっさいを受けてゐる〕
世良暗殺の劇は、福島第四小学校の創立20周年祝賀式で行った。福島市民には顕家よりも世良暗殺の方が人気があったようだ。
(高田龍鋒著「岡和田甫翁回想録 八十五路」)〔霊山の顕家! 全六巻 六〇〇〇尺
出場騎馬武者五十騎 此の撮影費概算金四千弐百八拾円
主演 岡和田一男 吉井真佐子
参加者氏名
主演 岡和田一男
吉井真佐子
助演 佐藤 沢
(中略・出場した騎馬武者の氏名が列挙)
以上の如き豪華な顔ぶれにて原作池内相成 脚色監督高木喜智 撮影は松本保次郎にて使用した馬の数延二百余頭 出場参加人数延千二百名の大きに達したのである。
惜しむらくは此の画期的な記録映画のフィルムも台本も福島市役所の火災により焼失して仕舞ったことであります。今ここに当時の記録を元にして此の記事を認めるとき在りし日の様子が眼前に浮び出て来るのであって当時の参加者との会談も一度はと思考するも無理なことではないと?〕
・当時の新聞は、民報4年10.26.「藩祖伊達公に扮し佐藤市長が映画に」
・民報4年11.15.「霊山史実の映画/撮影の準備成る/お歴々の配役も決って/繰り出す相馬武士七百余/池内教諭の調査を土台にして脚色」
・民報4年11.19.「市長さんなかなかお立派」など写真キャプションを付けてロケ風景を紹介している。
・登場主要人物=岡和田一男、日下金兵衛、佐藤澤(福島市長)、青田常政(電鉄社長)、岡野善三郎、岡野吉郎、吉井広吉(福島市議)、管野松吉、青田国繁、松本富郎、岡和田信子、正木尉、岡和田甫、岡和田嗣男、佐藤卓(県議)その他敵将多数。
●「信達騒動記」描いた『金原田八郎一代記』 昭和5年
「義民の『八郎』の野外撮影福島を振り出しに」(昭和5年3月21日民友)〔原作不知火しげる氏で本県出身の大衆作家秦哀民氏が脚色した伊達郡太田村の義民『金原田八郎一代記』は過般来映画化すべく準備中であったがいよいよ機が熟して春秋映画社の手に依り製作されることになり元東亜キネマ時代劇部長本間直司氏、山本日出子、大倉光子、六条浪子、其の他の諸優が二十日午前来福平松館に一先づ宿り市内各新聞社を歴訪したが午後から撮影を開始することになり扮装せる各優か二台の自動車に分乗して紅葉山付近に場面を求めたが天候不良のため不可能となって宿に引上げた撮影日程について聞くと本廿一日は稲荷公園を振り出しに信夫山、紅葉山、須川、岩谷観音等で撮影し二十二日は川俣、飯野、松川、二本松方面で二十三、四の両日は保原、梁川、桑折、藤田、飯坂、湯野庭坂の各所を廻ることになってゐる、尚ほ二十四日中には市内仲間町料亭大亀に於て大がかりの城主遊興の場面を撮影することになってゐる〕
八郎映画がかかった当時、ほかの館では洋画の「ポンペイ最後の日」(栄館)や、いわゆる傾向映画「何が彼女をさうさせたか」(大正座)などを掛けており、4月10日の民友は「人気映画揃へに面食らふファン」と報じている。〔さらに十一日からは過般福島を中心として信達二郡にわたって大々的なロケーションを行った。本間直司主演の信達騒動記『金原田八郎』を封切り上映することになってゐるから果然此処に巴状態が描かれた〕と。封切りは一週間おくれたようだ。4月18日の民友には、映画「信達騒動記金原田八郎」が完成し4月17日から福島座で上映中という記事がある。
〔映画『信達騒動記』義民金原田八郎を劇化 昨日から福島座で上映」〔去月下旬東亜時代劇部長本間直司一行が来福して福島を中心に信達一郡にわたり大々的ロケーションを行った信達騒動記『金原田八郎』はその後東京に於てセットの撮影を続行してゐたがこの程完成検閲中であった、ストーリーが農民一揆に取材してゐるので思想的に問題になり検閲に手数を要し本月初旬に封切の予定であったが延々待って居たものでいよいよ昨日(十七日)より福島座に於いて上映されてゐるが、福島を中心にロケを行っただけに馴染の場面が現れて居り圧倒的な人気を博している〕
●「霞ケ城太刀風」二本松の双松座が製作 昭和6年
昭和6年には二本松でも双松座が「霞ヶ城太刀風」という時代劇サイレント映画を制作している。約50分ものの作品で二本松市内の渡辺弥(わたる)氏が所蔵しており、安達ロータリークラブがビデオ化し平成8年7月11日の例会で上映。
●昭和15年「二本松少年隊」松竹映画に
安藤信は、作家志願だったが父祖の跡の神主を継ぐため文学を諦めて二本松に帰郷。代用教員などをして生計を立て、童話や歴史ものを書くようになった。朝日に勧められて二本松落城を題材とした小説を執筆、連載。これを原作にした松竹映画「二本松少年隊」はトーキー時代劇。昭和13年に東宝から厚生閣を通して原作者の安藤信に映画化の要望を伝えてきたが出版社に任せていた。ある日いきなり新聞に「松竹が安藤信の二本少年隊の映画化決定」と報じ、その翌日下加茂の撮影所から「大松竹が発表してしまったのですから他社に取られては面目が立ちません。他社との交渉を打ち切って松竹に任せて下さい」と言ってきた。安藤は昭和36年「北陽芸術」に「田舎の神主は夢みるような気分で口をぽかんとあいた」と当時の映画化をめぐる挿話を回想している。民報10.24.〔「二本松少年隊」松竹京都でシナリオ決定 廿八日から現地ロケ〕10.30.〔原作者安藤氏が設計 二本松少年隊〕10.31.〔木村隊長に高田浩吉 二本松少年隊のキャスト〕12.19.〔二本松少年隊映画雑感 坂本六良 二本松からはことし三本の映画が生まれている〕
後年二本松市内の旅館からシナリオも発見された。主題歌もあった。松竹京都作品。1940年12月16日松竹系封切り。監督秋山耕作。原作者安藤信。脚色土井逸雄。撮影片岡清。主演高田浩吉、乃木年雄、北見礼子、松浦築枝、梅若礼三郎。
昭和62年7月13日民友は〔甦った「二本松少年隊」JCが顕彰運動戦前の映画復刻〕と題して、発掘と復刻の経緯について詳述している。東京・京橋の国立近代美術館フィルムセンターに依頼してダビングした。二本松青年会議所によると二本松少年隊の映画化は4本が確認されているという。高田浩吉は隊長の木村銃太郎の役。喜劇王と呼ばれた藤山寛美、ちょい役で出ている赤木春恵はこの映画でデビューした。〔二本松藩内が勤皇と佐幕の二派に分かれて混乱するなか、安達太良山麓で訓練を重ねる姿や少年同士の友情、城下に押し寄せた西軍と決戦を交えるべく、出陣するまでの様子を描いている〕〔鑑賞後、「若干史実とは違う」「戦闘シーンがないのは残念」という声も聞かれたが「フィルムの状態の良いのには驚いた」「これならエキストラとして出演した市民の顔もはっきり分かる」と、ぽぽ満足した様子〕
●二本松藩士を主人公に「歴史」ロケ
昭和15年「歴史」は昭和14年に出版された榊山潤の長編小説の映画化。榊山夫人が二本松出身で岳父佐倉強哉がモデル。明治10年に下級官憲となって西南戦争に出兵。戦争が終わると馘首された東北武士の目からみた明治維新を描く。
〔日活多摩川作品。原作榊山潤。脚色永見隆二。監督内田吐夢。撮影横田達之。主演小杉勇、中田弘二、轟タ起子、花柳小菊。東北二本松藩士を主人公に、戊辰より明治初年へかけての維新の胎動を描く大作。(昭和十五・五・一五、富士館)〕(発達史)
〔紀元二六〇〇年の奉祝映画コンクールで最高の文部大臣賞を得た作品で、日本映画史に残る作品であろう〕(「目でみる二本松安達」写真集より)と地元向けの本にはあるが映画評論家佐藤忠男は〔まじめなだけで面白くない時代劇だった。〕と断じている。(「日本映画史2」岩波)
当時の新聞には「二本松町を舞台に『歴史』のロケ」という記事がある
[榊山潤氏原作“歴史”は日活多摩撮影所の手により二千六百年記念コンクール出品作品として廿万円を投じて映画化される事になり同社では内田吐夢監督、永見隆二脚色、横田達之、碧川道夫撮影により十三日二本松町に出張、主人公片倉新一郎の小杉勇を主としてロケーションを行ってゐる〕(東京日日新聞福島版昭和15年2月15日)
民報7.27.〔日活の「歴史」その郷土色彩〕という尾形亀吉の論評。9.28.〔大作「歴史」来福〕で写真が紹介。「歴史」は福島座で上映された。
●「或る馬の一生」白河で撮影 昭和6年
帝国馬匹協会懸賞募集一等当選映画の「或る馬の一生」は日本キネマ株式会社に製作を委嘱し同社の男女優一行二十余名が来白し、日本一を誇った白河馬市を前後一週間に亘って同馬市並に軍馬補充部白河支部付近でロケーションを行った。
●昭和6年、最初の野口博士の伝記映画の消息がある。(福島毎日1月24日)
教育映画製作専門の東京映画社と日本教育映画研究所との合同で、野口英世博士の少年時代を描くため若松市内の渡辺医院や磐梯山麓でロケーション撮影が23日おこなわれた。一行20名。山根幹人監督、主演国島荘一、佐々木清野、カメラ持田米彦ら。
●昭和7年にも野口博士の伝記映画の消息がある。
〔野口博士の一生 いよいよ映画化
ユ社近く技師派遣 猪苗代湖や磐梯山も
世界的の偉人会津の産んだ故野口英世博士の映画化については米国ユニバーサル社で計画中であったがいよいよ実現することになり近く技師が来ることになった、野口博士は南米アフリカの蛮地で発生する黄熱病を研究中これに罹り彼の地で遂に黄泉の客となったが世界学会からいたく惜しまれその死が医学に貢献したこと絶大であるために斯く映画化することになったが我が邦人の映画化は同博士を以て嚆矢とする〕
(昭和7年10月25日民友)
ただし、昭和8年に発表されたアメリカ映画「ナガナ」は、アフリカで原住民のために眠り病の研究にたずさわる日系アメリカ人医師という設定で、主役は野口のそっくりさん森田幹という俳優ではあるが、野口の生涯にヒントを得たフィクションで厳密には野口の伝記映画とは言えまい。
●「残月の歌」昭和11年、新興キネマ。川手二郎監督。いわきロケ。
●いわき出身の名僧を描いた「祐天上人一代記」 昭和11年
祐天上人とは夏井川畔の神谷村出身で徳川五代将軍の御代に芝壇上等の住職となった名僧。いわき出身の最大偉人として描かれた。いわき名物じゃんがら念仏踊りは祐天上人が創始したものと伝えられる。
昭和10年末、東洋映画の一行がロケのため来平の記録がある。(いわき市史)
昭和11年12月19日東京日日新聞には、「祐天上人一代記」映画封切り明春平世界館で〔磐城が生んだ名僧祐天上人の一代記を映画化する計画は上人誕生の石城郡大浦村最勝院住職阿部崇順師原作平町高木喬氏の映画製作によって着々進行してゐたがこのほど上人の前半生をサウンド版五巻に収めて撮影を終わったので来月十四、五両日平町世界館で封切り上映することになったが東京芝増上寺では同映画のために上人由縁の国宝三十数点の撮影に便宜を与へた〕という報道がある。
●「地熱」昭和12年日活。瀧沢英輔監督。いわきロケ。
●「野口博士の伝記映画」ロケ 昭和14年
〔本県の生んだ医聖野口英世博士の伝記が松竹の手で映画化されることとなり新進の脚本家武井紹平氏がシナリオ編作中であるが同氏は廿一日から三日間博士の生家である会津翁島及び恩師小林栄一等を訪ね途中博士伝の著者である郡山市橘輝政氏を訪ねて種々打合せをなした、来る四月下旬頃松竹大船からロケーションに来県六月下旬頃封切される予定である〕(東京日日新聞福島版・昭和14年記事)
●昭和15年5月、映画「野口英世伝」江川宇礼男が監督転向第一回着手。近くロケハン来訪。名声ある一流スター中野英治が主演。
●8月、東宝は俳優大河内伝次郎、高瀬実乗、岡譲二外オールスターを福島県に派遣。高湯温泉、熱海温泉、高玉鉱山及び猪苗代湖を背景とする中山宿などで、高瀬氏は「孤馬」、岡氏は「太陽の街」、大河内氏は「緑の朝」、それぞれ今井、成瀬、清川の監督が指揮撮影。
●「村の託児所」昭和15年
文化映画の制作者として名前を残しているのが映画人ではないが映画プロデューサーとしての小高町の平田良衛がいる。故郷の小谷をロケした。共産党員の平田は赤狩を逃れ理研映画を隠れ蓑にして戦時中は中国へ緊急避難。理研撮影班の演出担当山口晃監督、カメラマン石川某、古矢正吉、海老澤龍三が昭和15年6月に金房村に来訪してロケ撮影した。
●「楠公夫人」中村城でロケ 昭和15年
11月には国策映画「楠公夫人」のロケが中村町の中村域趾で行われた。10月8日東京日日新聞に〔相馬野馬追騎馬武者姿の地方エキストラ五十名も動員する東京興亜商事の教育映画「楠公の母」製作は台本の検閲も済みおそくも廿日頃一行五十余名がロケーションに中村町に来ることになった〕とあり、また12月1日の民報には「人出野馬追以上・『楠公夫人』ロケ見物に賑はふ」という記事が見える。
●「家に三男二女あり」。昭和18年松竹大船作品。瑞穂春海監督。いわきロケ。
●松竹の「激流」ロケ内郷で 昭和19年
内郷はわが国炭鉱映画の発祥の地(「内郷郷土史」より)といわれる。昭和19年8月には「激流」のロケが内郷で行われた。
〔松竹大船作品。原作・脚色森本薫。演出家城巳代治。撮影西川亨。主演小沢栄太郎、高峰三枝子、水戸光子、丸山定夫。石炭増産が主題。(昭和19・8・17、白系)〕(発達史Ⅲ-158)
「激流」は松竹1944作品。家城巳代治監督。〔石炭増産をテーマとしたものだが、予定されていた渋谷実監督が応召のため、一番弟子の家城巳代治が代わった。劇作家森本薫のシナリオだけに、増産を正面きって謳わず、そこに働く人々の家庭問題や人間関係を主に描いた点に特色がある〕(「大東亜戦争下の映画界」)
●「敵は幾万ありとても」ロケで古川ロッパが坂下に 昭和19年
昭和19年5月に坂下町に古川ロッパら撮影班一行が来訪。「敵は幾万ありとても」のロケーションが行われた。「目でみる明治大正昭和の会津」(歴史春秋社)によると陸軍練習機を迎える場面のロケ風景写真が紹介。キャプションに〔この時飛行機を操縦していた一人は坂下小学校出身の佐竹誠氏で、後に大尉にまで昇進したがおしくも戦死した〕〔陸軍練習機三機がロケ応援のために飛来して坂下の上空を数回旋回した。その際の校庭の歓迎風景〕の写真が掲載されており飛行機は撮影用のハリボテ模型である。東宝砧作品。脚色伏見晃、山形雄策。演出斎藤寅次郎。撮影木塚誠一。主演古川緑波、花井蘭子、徳川夢声。少年航空兵徴募を明朗喜劇風に描く。(昭和19・8・31、紅系)(発達史Ⅲ-159)
この時の様子は古川緑波が自伝的な「悲食日記」に克明に書き残している。「悲食日記」の朗読をもとに江戸家猫八のナレーションと解説によるラジオ番組がラジオ福島から1984年に放送されている。当時、ロケの様子を見学したり、緑波に食事を出した坂下町の住民が、思い出を語る貴重な証言である。

記録された福島県

戦前の記録映画から郷土の姿を追う
●明治39年に「相馬の馬追」が上映された、と谷川義雄編の映画史年表にある。明治43年の民報には、フランス人の映画撮影者が相馬野馬追祭に来訪して撮影する予告が出ている。フィルムの存在は調査中で、まだ確認できていないが、文献上最古の福島県の映像である。
●大正7年には双松座の撮影により二本松で商店街を撮影した35ミリフィルムが存在する。現存する最古のフィルムであるが、現物を歴史資料博物館の倉庫で見せてもらったが可燃性のうえ相当に痛んでいる。幸いなことに、昭和53年に二本松商店連合会の10周年記念行事として、ライオンズクラブの協力とNHKのあっせんで、双松座当主斎藤豊吉の所有になるこの幻のフィルムは16ミリに複写されている。上映時間20分。大正7年の撮影が一部と、主に大正13年の撮影だが、「実写・二本松商況」「県社二本松神社祭礼実況」というタイトルで、7年撮影の安達家原黒塚・供中橋・ガソリンポンプ放水状況・大通りなども含まれている。「秋祭」では町長ら氏子総代の宮参りに始まり、本祭の神輿渡御に供奉して六町内の太鼓台と、関東大震災の翌年でもあり、大なまずを大国主人がかかえている山車や、干支にちなんだネズミ、えびす大黒の山車など四台が和歌集に引かれて続く。「二本松商況」では、旧町内の人力車の通る商店街の主だった商店、子守する少女、役場、銀行、郵便局、電気会社等々が写されている。
●本宮でも大正14年に撮影した、町の名所を紹介する「花の本宮」というフィルムがある。新聞販売店経営の冬室八郎の呼びかけで、協力者には伊藤幟(県会議長・衆議院議員)、三浦倉治郎(清月荘初代)、菊田芳雄(記者)、野内雄一(シミズ自動車)らがおり、日活から専門家を招いて撮影した。
昭和2年民友(5.20.)「蛇の鼻を映画で紹介/牡丹は廿二日が見頃/菊田洋路監督作製の「花の本宮」を若松市を振り出しに平町続いて十九日よりは郡山市富士館に三日間上映し、次に福島市某座に上映する」
とある。
●大正14年大正天皇の銀婚奉祝「四倉実況」
四倉町の海盛座と四倉座のオーナー斎藤常松氏が大正天皇の銀婚祝って四倉の名所や商店街を撮影。旅館、芸妓の載る山車やほっき貝の加工光景、四倉セメント工場の操業などが撮影されている。16ミリフィルム。平成14年にビデオに複写され7月12日、公民館でまちづくり講演会で公開された。25分。
●「磐梯山麓の実弾射撃を撮影」大正10年
福島新聞社若松支局主催活動写真隊は8月15、16日の両日耶麻郡磐梯山下の実弾射撃をフィルムに収めて、17日から栄楽座で上映した。
●「日活撮影隊が中沢スキー場実写」
大正15年民報2.8.
●昭和2年に「野馬追/第二日目の盛況 活動写真隊も数組みえた」(7.15.民報)とある。県畜産係が農林省に映画撮影を依頼していたものを、畜産局で撮影するという民報の記事がある。さらに昭和13年の民友には前日の野馬追祭の開幕を伝えて「この日の盛観は仙鉄映画班によって映画に撮影されることになっている」と報じている。仙鉄とは国鉄常磐線仙台鉄道局のこと。観光宣伝用の映画を撮影するセクションを持っていた。
●昭和3年、原町に映画協会が設立されて、御大典記念「原町地方紹介」という17分のフィルムを撮影している。完成したばかりの無電局の鉄塔をはじめ町内の主な商店、駅の汽車の到来、医院、神社、工場、市場、銭湯、遊郭、官公庁、学校、競馬場、飛行機、町の功労者などがスナップされている。駅前や本町の光景はオートバイからのランニング・ショットで珍しい。
●昭和3年11月「白虎隊建碑除幕式」を活動写真に撮影。
●昭和5年、鉄道省と日活が裏磐梯を撮影。この当時、県内で唯一国立公園の候補にになっていた裏磐梯がロケ地に選ばれた。
●昭和5年4月、郡山の清水座と大正座のオーナー柏木貞三郎が、消防団の検閲式と開成山での観桜宴会の様子を撮影。市内で上映した。
●須賀川の名所牡丹園を映画に
〔須賀川町平栗欽一、安田政孝の両氏発起となり須賀川を全国に照会すべく過般松竹キネマより男澤技師長を招き名所の牡丹園其他愛宕山、妙見山、旭ヶ岡公園、乙字瀧及び小学校等を撮影せるが十八九日頃須賀川座に於て上映する予定である〕(昭和5年5月27日民友)
●昭和6年、「飯坂情調」と題する小型映画を福島の愛好家が撮影。夏の納涼映画会で市民に上映して見せた。パテーベビーという9.5ミリのフランス製のカメラと映写機が使われた。
●昭和7年、郡山新聞社が「伸びゆく郡山」を撮影。35ミリで14分もの。市内のデパートなどを紹介。のんきな父さんが娘二人と郡山市内を見物してショッピングするという滑稽味を持たせたもの。
●昭和8年「白河道中」撮影。地元新聞社によるもの。
●昭和9年2月、パラマウント映画社が、外務省情報部を通じて会津中学校のスキー体操を撮影。
●昭和10年5月、いわき「釜戸の奴祭」全世界に紹介するためパラマウント、フォックス社などの映画班出張撮影。
●昭和10年5月、ユニバーサル社が、いわきの奴行列を撮影した。また同社は相馬郡日立木の名所百尺観音をトーキーに撮影した。
●昭和10年6月、地元有志の柏木ら劇場主が郡山の尚武祭(戦前の郡山の名物)をトーキー映画に撮影。
●同年7月、郡山少年国防団を映画に撮影。
●富士映画撮影所は昭和10年7月、相馬野馬追と百尺観音を撮影。
●昭和11年1月、地元温泉組合が熱海温泉をトーキーに撮影。
●昭和11年6月、福島県社会課が農繁期託児所の設置奨励のため、県内の託児所を撮影。
●昭和11年11月、雪の会津をトーキーに撮影。
●昭和11年、須賀川の松明明かし
東京日日トーキーニュースで撮影。同町妙見、赤頽両山頂に松明を担ぎ上げるところや全山火の海と化す壮絶さをカメラに収めて帰京。東日大毎国際ニュースとして須賀川、会津館などで上映された。(東京日日12月)
●昭和13年、文部省社会教育映画班が「日本の湖沼」のテーマで半田沼、檜原湖、五色沼を撮影。トーキー。
●昭和13年10月、仙台鉄道局が会津を舞台に16ミリ映画を撮影。教師一人と女学生二人をモデルに使って今泉正路カメラマンが担当。観光誘客用に全国に紹介した。湯煙紀行の元祖である。
仙台局では県内、桑折町桑折座、三春町昭和座、坂下町栄楽座で旅行映画を上映したという記事があり、上映したのはこの年の相馬野馬追。
●昭和13年12月、浪江の軍医少尉大井不二男が監督して「白衣の記録」製作。仙台陸軍病院映画班が撮影した。
●昭和14年6月、軍人援護会福島県支部は、前線の郷土部隊兵士に送るため県内各地を撮影。第一回は信夫郡瀬上町桜桃採取、同郡清水村農学校田植え奉仕、大沼軍新鶴村、北会津郡神指村養鶏、耶麻郡喜多方町授産所、同郡松山村農繁期託児所、若松市鶴ヶ城白虎隊、石城郡草野村託児所、同郡四倉町繭市場、同郡神谷村田植えなどを撮影した。
●昭和14年6月上旬には、東北温泉協会が飯坂温泉を撮影した。十綱橋からの眺望、赤川沿岸の旅館群、時局柄傷病兵の入湯の情景などや、赤川滝、穴原温泉も収録。
同年6月13日から四日間、仙台工芸指導所の撮影で会津の漆塗り工程を立木から製品になるまでを海外に宣伝するため産業映画に収録。田島町から針生村まで出張撮影。
同年、農林省畜政課は産業映画「黄金の蹄」「綿羊」を日本一の産地だった伊達と安達で撮影。昭和14年7月東京日日は「綿羊国策の本拠を映画に収めて宣伝伊達郡安達西部をバックに」と題する記事を掲げている。
〔農林省畜政課では綿羊を国策として明年度から全国に普及宣伝することになりその手段として綿羊飼育を奨励映画「綿羊」一環「黄金の蹄」三巻を撮影地を全国一の綿羊県である本県の伊達、安達の両郡としさきに作製を依頼された芸術映画社山上紀夫氏外二名が川俣方部で農村をバックに撮影した十三日から三日間と廿四日から四日間飼育状況をフィルムに収めることになった、なほ黄金の蹄といふのは綿羊を飼育するところ必ずその地は富んだといふところから生まれた言葉でこの映画は明春三月頃歓声全国に配給綿羊飼育奨励のため映写される筈〕
この年、職業紹介所は郡山と平で求人活動に映画を活用し映画で職業紹介をした。
●昭和15年、仙台鉄道局が観光用に「若アユの放流と会津柳津」を撮影。2月封切り。
●昭和15年、福島女子師範学校は「非常時」の物資節減のため県下で初めてスカートからもんぺ着用とされた。最初は道行く市民に振り向かれて恥ずかしかった乙女たちも、この年3月、国の宣伝に使われる。「もんぺ部隊」が厚生省軍事保護院から前線慰問のための映画用に撮影されたのだ。
●またこの年、文化映画「会津桐」の撮影もあった。鉄道省映画班は「岩瀬の枝豆」を撮影。9月、明月祭の須賀川情緒など須賀川の枝豆を全国的に紹介するため仙鉄局で生産地から駅構内に搬入、貨車積み込みの実況を撮影した。
●供出フィルムを購入。福島県では8月内閣情報部が撮影した耶麻郡月輪、長瀬両村の米穀供出状況のフィルムを購入し精勤の宣伝映画中に組み入れることになった
●9月、温泉撮影。東北温泉協会が映画宣伝乗り出し、岩代熱海温泉、熱塩、東山温泉の温泉情緒を撮影。
●昭和16年8月、国防婦人会本部が陸軍省嘱託映画製作所に委嘱して、福島支部の活動を撮影、映画にして全県を巡回上映した。8月22~24日撮影。(毎日)
●昭和17年6月、郡山の市会議員多田暢氏が、県内銃後の姿をトーキーに収めて前線将兵に慰問上映する「郷土福島」を完成。仙台の師団司令部、福島、郡山で試写会を開催。白虎隊の墓、二本松少年隊の碑、相馬野馬追、平の炭坑、開成山の桜、郡山商業の軍事教練、矢吹修練農場などを七巻のフィルムに収めた。翌18年、多田市議は中支の郷土部隊を訪問し、現地の陣中生活を映画「戦塵便り」に撮影。12月7日から郡山市大正座で上映し軍人遺家族、傷痍軍人、白衣勇士を招待。
●昭和17年、相馬郡福浦村(現南相馬市)で祖院長の天野秀延が農村風景を自前のパテーベビー・カメラで撮影、上映した。
「共同作業を撮影 福浦村で 青年村長天野秀延氏 八ミリ映画に」(17.9.4.)と朝日新聞福島版に載ったが、実際には九ミリ半のフィルムである。
●昭和17年、「戦ふ石炭」を石城で撮影。アジア文化映画社カメラマン三名来山。
●昭和19年8月14日から三日間、日本映画社は三春の八幡町で開催の盆踊りを前線慰問ニュース映画に撮影。全国に紹介した。
●昭和20年1月、朝日映画社が国土防衛に挺身する白河女子警防団の自動車ポンプ操作、消火、救護、交通整理などの訓練ぶりを撮影。12日に白河町で初公開。(昭和20年1月11日毎日)

●福島のプライベート・フィルム

NHK仙台放送局が平成7年8月24日放送の「東北スペシャル私たちはこう生きてきた/市民が映像が語る“東北と戦争”」製作で発掘したフィルムに、福島県からは、昭和17年の小高の天野秀延が撮影した福浦村の農村改良運動の光景と、福島の駅前旅館福島館主の南条重治郎が昭和7年に撮影した献納愛国福島号の命名式の様子が採用された。
いずれも9ミリ半のパテーベビーという小型カメラである。1920年、フランスのパテ社から9.5ミリの小型映画用フィルムが開発され、同時に撮影機と映写機が発売された。「パテーベビー」の名前で世界中に普及し、とりわけ通常の35ミリフィルムを家庭用に再編集・短縮したものが今日のビデオのように人気を呼んだという。このカメラ、映写機を入手して、昭和6年、飯坂で芸妓を撮影する会が行われた。
昭和7年、折しも陸軍愛国福島号の献納命名式が福島市で行われ、その撮影許可が下りたため、福島パテー会員が募集された。
南条は、銀座伴野商店(貿易商)が輸入した映画撮影機と映写機を、天神町にあった福陽社を通して取り寄せた。
撮影機は当時の金額で140円したという。映写機は手回しのアーバン式。80円。両方で、家が一軒買えたほどだ。どちらもフランス製。古関裕而もパテーベビーを持っていた。昭和初期に福島で持っていたのは三瓶秀三、管野末治郎、羽田善一(医大)、富谷某(日通)といった人々ぐらいのものだった。
「愛国福島号」の撮影は、前半の組立と後半の命名式からなりう。最後に滑走して飛び立つ飛行機の雄姿が収められ、同僚機がこれを追って飛び出す様子がとらえられている。
南条がパテーベビーを入手したのが昭和7年。以後、14年まで撮影し9巻を残した。
旅館の夕食のなごやかな時間に、館主みずから映写して説明し客の無りゅうを慰めた。
娯楽の少なかった当時の客は珍しい映画上映を楽しんだことだろう。
第1巻 須川鉄橋、仙台より常磐線岩沼の長い鉄橋。福島市内チンチン電車(曽根田)。飯坂。県下中学校野球大会、剣道大会(昭和10年)。
第2巻 福島国鉄仮装行列(昭和8年)、出羽三山(昭和14年)。
第3巻 山寺、湯之浜。旧県庁。駅前通り。出羽三山。
第4巻 蔵王巡り、鉄道の仮装行列。県社護国神社のお祭。三原山。東京にて、青年団の集り(昭和10年)。
第5巻 福島駅前風景。クラシック・カーの駅前勢揃い。福島館の客引き光景。国鉄の仮装行列(昭和11年)。
第6巻 愛国号命名式(昭和7年)、会津柳津お参り、松島巡り、市制25周年大名行列。
第7巻 略。
第8巻 山形善宝寺。霊山(紅葉)(昭和12-13年)
第9巻 出羽三山祭。相馬野馬追、輸入自動車キャラバン隊(シボレー、フォード等福島モーター駅前勢揃い)、金光教岡山本部大祭、伊勢見物(昭和14年)
南条重治郎は昭和15年4月に死去したので、撮影フィルムは14年までのものとなった。
●天野秀延のプライベート・フィルム
「昭和11年の浪江町少年海水浴映画と17年の福浦村農村の記録」
相馬郡福良村(現小高町)の富農地主天野秀延はイタリア音楽研究家として有名。パテーベビーのカメラ、映写機を所有していた。裕福な家庭に生まれた天野は高級な趣味として個人映画を撮影していたが、昭和11年ごろ、福浦の海岸に遊びに来ていた浪江町の少年達が海水浴している姿を撮影し、浪江座で公開している。
のちに福浦村長に迎えられ、村の農業を改革する運動を展開し、その記録を残した。昭和17年ごろの村づくりのために農作業の様子を撮影したフィルムが平成7年、NHK仙台放送局の特別番組「東北の民衆と戦争」で紹介された。
●古関裕而のパテーベビー
この時代、作曲家古関裕而もまたパテーベビーを愛用する一人だった。彼の自叙伝「鐘よ 鳴り響け」には、昭和12年頃のこととして「当時私はフランスのパテー社の九ミリ半のフィルムを使うホーム・ムービーを撮っていた。その頃はパテーベビーといって大いに愛用していた。16ミリの撮影面積と大差がなく、私のご自慢の一つであった」と回想している。
●戦前のいわきの映像を残した四倉の長谷川久の16ミリ
昭和10年ころ、四倉の長谷川久が撮影。久さんは昭和24年に死去。昭和54年に妻の文子さんが死んだ時に久さんの遺書と一緒に押し入れを整理しているうちこのフィルムが発見された。文子さんの七回忌にあたる昭和61年に遺族が映写してみようと、東京の現像会社にフィルムの汚れを落としてもらい、60年10月に自宅で初めて映写。フィルムは無声の白黒で、約三十秒から一分間隔でタイトルが入っており、桜とツツジの名所松ヶ岡公園、勿来の関、波立海岸、薄磯海水浴場、磐城炭鉱、四倉セメント工場、四倉町の旅館や商店、学校などが写っている。ほかに東京で撮影した当時の女優、いわき出身で製薬会社をおこした星一らの人物の姿や、久さん本人も一部に登場している。
上映時間は一巻約二十分で、合計一時間二十分。
●ペルー移民が郷里福島の防空演習を撮影
昭和11年9月9日東京日日新聞福島版「異郷へ非常時移植・愛国の燈に点火」では、大正7年に南米ペルーへ移民し、リマ市で写真店を経営する青年白坂寅作氏(45・福島市外清水村出身)が20年ぶりに帰国した祖国で防空演習が行われているのを知り、この非常事態を海外同胞に伝えるため、郷里福島の棒九上京を撮影し10月にペルーに帰国して在留邦人に公開することを演習統監に申し出て許可され、撮影禁止部分の詳細な注意を受けて演習を撮影することになった、と報じている。
●16ミリで疎開児童を撮影
「阿賀川畦学寮生活」と題する福島県に学童疎開していた子供達の生活する姿を撮影した16ミリ・フィルムが残っている。東京都豊島区立千早小学校蔵。

燃える映画館

映画館はよく燃えた。フィルムの材質がセルロイド製であったので、フィルムそのものが可燃性で、電灯式の光源からアーク灯になったため、火花がフィルムに着荷しやすく、映画館の建物が木造でふるい小屋が多く、そこから壁や天井に燃え広がりやすかった。
ざっと見わたしてみても、
昭和2年4月、白河の友楽座で映写中のフィルムが燃上り大騒ぎ。11月、田村郡大越村大越農村娯楽場において活動写真を映写中フィルムに点火、一巻を焼失。
昭和3年8月、福島劇場でフィルム火事。呼物「水戸黄門」二巻、鮨詰の観客大騒ぎ。
11月、御大典記念興行の高山彦九郎を上映中福島座で火事騒ぎ
12月、平劇場全焼。
昭和4年、若松市中大和町の大和舘が焼失。
昭和5年坂下公会堂で火事騒ぎ。坂下町松竹直営公会堂で出張野外活動映写中フィルムが発火。上映助手の手落ちからフィルム「愛人」二巻が焼失。昭和5年2月、若松市栄町活動常設舘栄楽座が焼失。昭和5年2月、平有声座の上映中に機関室から発火。4月、石城郡川辺で上映中に失火。
昭和7年2月に石川劇場焼失。12月に湯本町でフィルムが車に引火。
昭和9年5月11日、田島劇場弁天座焼失。3月16日、本郷町フィルム火事。12月25日、勿来劇場全焼す。
昭和10年9月に廣田劇場全焼。
昭和14年11月、電熱フィルムに引火して川部劇場全焼。
昭和15年3月、勿来共楽座全焼。
昭和15年ころ原町旭座で小火。映写幕に炎上するフィルムが投影されて観客が驚いて騒いだが、映写技師が機転を利かせ、マガジンごと土間に放り捨てたため鎮火した。
昭和16年3月、郡山会館全焼。
戦後も映画館はよく燃えた。
昭和23年2月「富岡座焼く」
28年8月、本宮で中央劇場火事。
31年4月、山都文化映画劇場に放火。
31年5月、須賀川中央館焼失。
32年9月、第二いわき映画劇場で映写室焼く。
33年10月、若松で映画館シネパレス全焼。
34年3月、映画からヒントを得た少年が須賀川で巧妙大胆な放火。12月、瀬上で映画館焼く。
36年1月、会津高田の信富座を全焼。
38年2月、原町の文化劇場を半焼。原町映画教室の五百人無事。
48年、平聚楽館焼失。

東北大凶作とブラジル移民映画

昭和9年の東北冷害はひどく、娘身売りが社会問題になった。翌10年の第一回芥川賞には石川達三の「蒼氓」が入選。すぐに映画化もされた。東北出身の移民家族を中心に全国から集まった民の生態をドキュメンタリータッチでブラジル移民を描いた。石川が実際にブラジル移民船に乗ってブラジルへ渡航した体験を小説化した作品。12年に日活で映画化され福島でも上映。
「蒼氓」日活多摩川作品。脚色倉田文人、監督熊谷久虎、撮影永塚一栄。出演島耕二、見明凡太郎、山本礼三郎、黒田紀代。ベストテン第二位。(昭和12.2.18.富士館)
峠三作という人が、これを観て〔先々週福島座で上映された日活の「蒼氓」はどの角度から見る批評家からも悪口されなかった傑作である、事実あの位ひ問題の真相に対して正直な映画がこれまでの日本にあっただらうか〕と絶賛している。(民報5.3.)
しかし、インテリには高い評価を受けたが庶民には娯楽的な映画の方がよかった。
移民船の中で、石川自身がブラジル事情映画を見ており小説中で「夢のような光景」と評している。これは昭和5年に制作された「行けブラジルへ」だろう。異国の南国の姿は、冷害で苦しむ東北の農民にとって、どのように映じたであろうか。
現実に昭和10年前後には、福島県下で樺太、北海道、満州、ブラジル移民を奨励する講演会映画会が開かれた。これは農村の余剰人口を海外に振り向けようという政府の国策で、現地説明の映画である。移住先はやがてパラグアイなどにも展開してゆく。
昭和4年
民報9.20.原町座で樺太移民募集映画盛況
昭和6年
民報4.24.海外事情講演と映画 福商で
民友10.14.満蒙問題の講演映画の夕 福島市公会堂 福島市教育会
昭和7年
民報4.13.「行けブラジルへ」講演会と映画会 伊達安達
8.3.ブラジル事情講演映画会 大沼田島
民友11.10.海外移住事情講演映画会 十六日から一周間
昭和8年
民友8.5.行け南米へ 講演と映画 第三回目の行脚 耶麻郡 南会津
昭和9年
民友2.9.ブラジル移民の映画と講演会 県内各地で催す
民報2.9.ブラジル事情 講演と映画 信夫郡と安達郡
民友10.1.ブラジル移民の映画講演を会津地方で開く
民友10.6.伯国移民映画 中村で
5.23.ブラジル事情講演と映画会 東白川郡 石川
民友11.22.凶作会津各地でブラジルへ移民 講演と映画会を開く
昭和10年
民友5.30.双葉相馬まで伯国移民映画と講演会 6.7.
民友6.6.伯国移民映画 中村で
昭和13年
民報12.25.満州国策大映画
昭和14年
民報2.27.ブラジル移民奨励映画会 安達郡下川崎小学校で27日開催
昭和15年
民報8.7.パラグアイ移住奨励 講演と映画 県と海外移住組合結成 夏井 岳下 大越 上川油井
民報12.2.南米移民奨励映画会 福島公会堂
六日南米と本邦人の移住 南十字星は招く
昭和16年、ブラジルは入国禁止となり、移民は廃止された。この結果、満州や南方への移住がますます促進された。
戦ふ映画館 銀幕の昭和史

昭和11年(1936)の映画状況

「ミモザ館」「白き処女地」「幽霊西へ行く」などの外国映画公開。また東和商事とドイツのテラー映画の提携による「新しき土」が撮影される。ドイツ版は「サムライの魂」。邦画では「家族会議」「人情劇場・青春編」「赤西蠣太」が好評。いっぽう「怪傑白頭巾」の珍妙な紛争の高瀬実乗が「あーのねえおっさん、わしゃかなわんよ」を連発し一世を風靡。
福島にも来演した。
【この年の県下の映画ニュース】
1月、映画スター五月信子が新開座に来訪。熱海温泉をトーキーに撮影。郡山の原県議の映画「拓き行く道」撮影。福島座でトーキー緑の地平線、激走急行列車、大福座で狂乱雪女郎、松竹館で喇叭は響く、上映。
2月14日、浪江座で天野秀延のパテーベビー映画「浪江少年団のキャンプ」上映。
2月16日東京日日「白河映画会2月20日から5日間、青年学級の資金募集映画会」。
2月24~26日の3日間、富士館で「にんじん」「会議は踊る」。
4月8日「国際ニュース 巣立ちも近く少年航空兵の猛訓練」若松市会津館封切り。
4月22日「ドイツ科学の偉業ツエ飛行船」国際一二九号 同。
4月29日「ドイツ軍ラインラントへ進駐」同。
5月21日「アメリカ大リーグ戦」同。
6月6日「漫談と映画の夕 廿日 大辻伺郎」平 聚楽館。6月、坂下公会堂をめぐり19歳の娘が株主に脅迫状。県社会課が16ミリで農繁期託児所を撮影。
6月30日「平青資金 平町青年団の資金造成で「バード少将第二回南極探検」上映。
8月13日「オリンピック開会式状況」。
8月29日「青年団映画 新山青年団が9月2日同町青年会館に映画会」。
9月3日「防空映画大会  平町連合防護団では3、4日世界館で防空映画会」。
10月4日「貨物輸送の夕 仙台局主催福島市新開座で満州事情其の他の映画」。
10月23,24日「オリンピック開会式、陸上競技、水上競技、閉会式、無限の宝、キートンの獣人撃破ほか東日ニュース23日三函座、24日植田菊田座、25日四倉座」。
11月12日「ニュース12日より ナチス党大会の行事炬火行進など」会津館。
12月「東日大毎国際ニュース10日から天正の落城哀史を偲ぶ火の奇習」会津館上映。
12月17日浜通り。
〔泉村映画会 14日午後 泉座で同村巡査調剤所に備品寄付のため。〕
〔植田映画会 植田産婆会で23日、菊田座で映画会を開き純益を尾法沢鉱山の惨事見舞いのため。〕
12月17日〔銃器購入のため映画会 原の町青年学校 朝日座で〕東京日日。
12月23日民友〔亡き館主を忍び追善供養 坂下栄楽館のゆかしい催し
河沼郡坂下町栄楽館長谷川、加藤の両氏は同館が未だ降(柳ヵ)盛館と称した当時の館主中島甫次郎氏が逝去して丁度七年忌に当る処から故人の嗣子甫吉市とともに二十四日から六日間名残深い同館でその追善興行することになり前売券の発売やら招待の発送に忙殺されているが堂町近来の盛会を見るであらうと今より可成りな前人気を呼んでいる〕
12月24日民報宮城版。〔興行界の美談
坂下町の活動常設「柳盛館」を引受けた若松市栄町興業師長谷川次郎吉氏(六○)は栄楽館と改めて華々しく開演しているが数代に渡る前経営者が何れも失敗して困窮の立場に在るのに同情し第一回は蓮沼忠五郎氏の為め第二回は加藤勘次郎氏の為め第三回は川島新三郎氏等のためそれぞれ特別興業を連続的に行ひ其収益を全部贈与して師走の興業界に珍らしい美談を提供している〕

村にもニュース映画がやってきた

戦時下の映画事情

昭和12年(1937)の映画

7月9日の民報夕刊には、トップ見出しで
「北平城外に突如砲声 今暁・日支両軍衝突す 八時二十分尚ほ激戦中」と報道している。これが7月7日に廬溝橋で勃発した宣戦なき泥沼の日中戦争の開幕であった。
当時の新聞では映画のコーナーが人気を呼び、同日の紙面にはドイツ映画「新しき土」阪妻の「恋山彦」そして嵐寛寿郎の「鞍馬天狗」などの紹介が全面を使って紹介されている。映画は当時最高の娯楽だった。7月1日の映画欄は日活の「宮本武蔵」、溝口健二の「愛怨峡」、洋画の「ベンガルの槍」などを紹介。7月16日の映画欄には「実に四百八十本・上半期の封切映画百六十三本は洋もの」と報じている。週に一度は映画特集をやっている勘定になる。全体的に、戦争は国際面、政治面だけの扱いで、県内版や文化面では、平和な暮らしが続いており、戦争の記事はだんだん増えてはきたが、中学野球(今の高校野球)などに紙面を費やすなどのんびりしている印象である。
「1937年7月に日中戦争が始まると、ニュース映画の専門館がたくさんできた。戦争の状況を知るためにニュース映画を見るという観客がふえたのである。日本軍が中国のどこかの都市を占領するたびに、その城門の上でバンザイを叫ぶ日本兵たちの記念写真ふうの場面が見られた」(岩波「戦争と日本映画」)
「女だけの都」「我等の仲間」「どん底」「オーケストラの少女」「テムプルちゃんの上海脱出」などが封切られる。邦画では「蒼氓」「裸の町」「人情紙風船」「風の中の子供」などのほか、テムプルちゃんに対応する「悦ちゃん」ものが上映された。
1936年秋から映画に対する検閲方針が強化される。国のいずれを問わず、皇室の尊厳を傷つける内容や、軍隊の威信を冒涜する内容、国際的紛糾から戦争に突入する内容、日本の儒教的風俗習慣にもとるもの、中でも接吻・姦通は絶対的タブーとなる。内務省はその後、検閲方針に抵触するようなものは申請を受け付けないか、あるいは自発的取り下げを勧奨し、とくに外国映画輸入に対する態度を厳しくする。4月、内務省は活動写真フィルム検閲規則内容改正を行って外国映画検閲手数料の増徴を計った。従来1m1銭であった手数料を1銭5厘としたものであるが、外国映画輸入業者はこれを外国為替管理法を適用して外画の輸入を制限し、さらに9月にはニュース映画以外の外画の一切の外画の本年中の輸入を不許可とする。
【この年の県下の映画ニュース】
1月、ラジオドラマで水木京太作「野口英世」放送。「新しき土」話題に。
2月、福島市内六小学校で無料映画公開。渡利船場青年団映画と音楽の夕。
3月、大福座で丹下左膳後編。マキノ映画にタイトルがゴチック活字で表示される。若松栄楽座で朝日世界ニュース封切り。
4月、福島商業卒業者の同仁会主催優秀映画鑑賞会で「トップパット」「ジンジャーロバーツ」「フレッドアステア」「ますらお」「銀界の野次喜多」「煙る銀嶺」上映。花の信夫山でトーキーの夕。18日、福島で粛正映画上映。原町駅は機関庫で健康座談会前に映画会。
5月、川俣中央劇場が新興シネマに。朝日国際ニュース「ヒンデンブルグ号爆発」上映。
7月、福島座で「ああそれなのに」。
9月、ホノルル航空隊、歴史は夜作られる、話題に。
11月、わかもと本舗の健康映画の夕、福島と郡山で。郡山防空講演映画会が金透小で。郡山二校に映写設備。
12月、軍歌と軍事映画の夕、福島市公会堂で。人情百万俵、話題に。「上映は一日三回三時間に」と県から通達。南京陥落映画トーキーが巡回上映。

昭和13年(1938)の映画状況
「モダンタイムス」「舞踏会の手帳」などが上映される。前年末封切りの「オーケストラの少女」が空前の大ヒットで9週間の連続上映。外国映画は輸入が制限され、1937年295本であったものが1938年は144本と激減し、外交映画興行界は名作・大作の選抜に力を注ぐ。
邦画では「五人の斥候」「阿部一族」「泣き虫小僧」「太陽の子」「愛染かつら」「鶯」などが封切られる。田中絹代・上原謙主演の「愛染かつら」は女性の紅涙をしぼり、この後一年半ばかり、前編・後編・完結編と追作する。
セルロイドに代わるアルミの新フィルム登場。独逸映画早すばらしき躍進。
【この年の県下の映画ニュース】
2月、松竹館でママの縁談。大福座(大都)は正午から夜十時通し興行。燃え立つ戦線、伝法葵くづれ、忍者百地三太夫。新婚玉手箱、佐日国際ニュース航空時代、笑ふ半月魔。福島座(日活)であたし幸福よ、メトロ双子合戦、国定忠治、チェコ「巨人ゴーレム」「シュバリエの放浪児」朝日ニュース、まごころ万歳、幽霊何処へ行く、飛龍の剣上映。福島劇場で奴の小萬、パラマウント世界ニュース、翼賛ニュース、強者の恋、浪花節。大谷日出夫、鈴木澄子と結婚。本宮で時局講演と映画会。双松座で二本松軍事思想普及映画会。松竹館で湖上の霊魂(水戸光子出演)、東日ニュース、読売ニュース、暁は遠けれど。栄館が田子健吉の手にわたる。上映3時間体制の実施にあたり福島常設館協会が発足し、甲乙二級に分け最低料金15銭と8銭に決める。
3月、川俣座で事変映画詐欺。渋川村で講演映画の夕「あかつき・三公と蛸・乙女橋」上映。安達郡油井で「北支全線総攻撃」。富岡郵便局は簡易保険慰安映画会。女子師範校で雪害防除講演と映画会。活動映写規則が公布され映写技師は4月から無許可で上映できなくなったため、県保安課は第一回活動映写技手試験を行う。試験映写機は携帯用デブライなど。
4月、松竹館で花形選手。栗島すみ子福島市公会堂来演。猿飛旅日記、宮本武蔵、進軍ラッパ話題に。信夫山映画会で五千余の観客。福島劇場で露営の歌、福島座で鞍馬天狗、大福座で死の中隊。
5月、福島で遺族慰安の映画会。福島座で田中絹代の舞踏大会。松竹で東日、読売ニュース。大福座で各社ニュース。福島座は朝日ニュース、読売ニュース上映。
6月、「舞踏会の手帳」話題に。福島座でオーケストラの少女、松竹館で黒い瞳、戦ひの前夜、モスコーの夜、福島で大谷日出夫と森静子の「仇討彦山権現」氷上乱舞上映。福島座で街の灯。松竹で海の巨人、福島劇場で母の魂、大福座で千両飛脚。
7月、文部省社会教育映画班が半田沼をトーキーに撮影。「度胸千両」新興キネマ「妻の魂」話題に。戦時中の日本映画はフィルム全部国産使用し一社七八本ずつ国策映画製作。梁川小学校庭で防空映画会。
9月、檜原湖、五色沼を文部省で撮影した文化映画「日本の湖沼」完成。「親なればこそ」話題に。仙鉄局今泉正路氏が会津名所を16ミリに撮影。
10月、「土と兵隊」映画化話題に。桑折座、三春昭和座、坂下栄楽座で本年の相馬野馬追など仙台の旅行映画上映。郡山金透小で怪事件、映写の夜にフィルム「夏のハルビン」盗難。
11月、映画館時間割は本興行三十分繰り上げ。本興行の直後にすぐナイトショーに入場させていたので仙台で一斉摘発。納税奨励映画、県下で上映。
12月、映画法で洋画も国策線へ沿う。満州国策映画、県内で上映。仙台陸軍病院映画班が「白衣の記録」映画完成。監督は軍医少尉大井不二夫博士(浪江町出身)。

昭和13年の朝日新聞社の南京陥落映画会

10月29日には次のような映画会の社告がある。
〔武漢陥落第一報 公開
漢口へ怒濤の進撃 漢基地一角に突入漢口入城、武昌占領・・・
二十九日 平市 (平館)
三十 日 湯本町(湯本座)
三十一日 原町(現地決定)〕
この日の紙面には「祝戦捷 歓喜の中に 銃後の誓ひ固し」という記事があり、県下の各都市の戦勝ムードが報告されている。
朝日新聞福島版に、11月のニュース映画の反響の大きさについての報告がある。
「映画の益金 中村町映画常設館中村座では一日夜の本社ニュース映画「漢口陥落」並に「武昌入城」第一報映写に超満員になったので益金十円を軍用機献納資金として二日中村直配所を通じ寄託」

映画法の制定と巡回トーキー映画会

昭和14年の映画状況
昭和14年10月1日から映画法が制定実施。その施行令第42条に「常設の映画興行館において興行を為す映画興行者は、一映画興行場に付一年を通じ五十本を越えて劇映画を上映することを禁ず」という項目が挿入され、外国映画の営業も制限された。
映画法第十六条の「主務大臣は必要ありと認むる時は命令の定むる所により映画興行者に対し外国映画の上映に関し其の種類又は数量の制限をなすことを得」の規定から出たもので、日中戦争の進行とともに、国内世論の統一をはかるための必要から、この種の鎖国措置に出たものと見える。(日本映画発達史Ⅲ)
「望郷」「格子なき牢獄」「ブルク劇場」の外国映画ベストスリーはじめ「少年の町」「わが家の楽園」「ハリケーン」「地球を駆ける男」などが公開。
邦画では水戸光子の「暖流」が公開。
【この年の県下の映画ニュース】
1月、野口英世伝が松竹大船で映画化。
「太陽の子」上映。
2月、13年度映画のベストテン決定。
「ボッカチオ」独ウファ映画や苦心半蔵、荻生天泉、顕家像など話題に。東宝で丹下左膳上映。福陽映画界は松竹が再出現以来ますます盛況。松竹映画劇場が復活。6日初日で第一回上映は「愛染かつら」大会(前後編同時上映)で開館記念に翌7日まで二日間は松竹少女歌劇オリエ津坂一行の特別出演。
原町営林署がニュース映画を上映。映画法いよいよ来週中に議会提出。福島座経営魁天に。安達郡下川崎小で27日県主催ブラジル移民奨励映画会。
3月、日活福島座「土と兵隊」上映。福島市公会堂で時局講演会と映画の夕。福島劇場で日の丸行進曲(逢初夢子)。東宝3月8日から一ヶ月休館。東宝内部改造。松竹で母の歌、大福座で女片平無念流、二本松の老狐上映。貯金の映画、最初の野球映画話題に。平世界館で新興の「新月の歌」フィルム盗難。
4月、福島東宝開館。郡山で納税少女の映画化。福島でエノケンのチャッキリ金太上映。
5月、松竹「父よあなたは強かった」11日から上映。夏場所大相撲の実況15日間毎日映画で上映。11日からの大相撲日報14日から福島東宝に上映。化粧品商工組合は郡山公会堂で22日出征兵士遺家族慰安のため慰安映画会。福島日活18日からAOK文化映画社「大自然と創造」。かつて福島映画街で上映された幼稚な文化映画を遙かに凌ぐ、と映画評。松竹25日から愛染かつら大会。大福座では東宝の「大相撲日報」の向うを張って朝日ニュース班撮影の「六日までの実況ニュース」を上映。
6月、東宝「忠臣蔵」上映。洋画「ロイドのエジプト博士」評判。会津漆器の海外宣伝で仙台工芸指導所が漆工程をフィルムに撮影。福島東宝「エノケンの猿飛佐助」東日ニュース、松竹同盟ニュース、忠治旅日記。日活福島座は読売ニュース、福島劇場は読売ニュース、大福座は朝日ニュース、郡山松竹清水座は同盟ニュース、日活富士館は東日ニュース、大都大正座が読売、新興新興館で読売ニュース、東宝郡山会館が読売ニュース上映。軍人援護会本県支部は前線の郷土部隊に贈る福島の銃後活躍を映画化。
7月、日活「清水港」話題に。福島で軍事郵便映画会。石川実高女で納涼唱歌と映画の夕。郡山商会所は映画で求人の開拓。
8月、福島のお盆興行は松竹新女性問答、他の四館は何れもナンセンス映画。
9月、トヨタ自動車が福島にトーキー車来訪。「父よあなたは強かった」「ガソリン一滴、血一滴」「ミッキー自動車大暴れ」上映。
10月、1日から施行される映画法の第15条で文化映画指定。郡山で防空演習を前に防空映画上映。会津東部司法保護委員会は国防思想講演と映画会で時局映画上映。「農村にまず映画を送れ」のスローガン叫ばれる。平職業紹介募集に映画で宣伝。
11月、福島市公会堂講演と映画「満州の夕」で国防全線千キロ12巻、壮烈肉弾一等兵3巻、新しき村、漫画一巻を上映。
12月、県教育会は若松栄楽座で白衣勇士招待映画会。「泣き虫小僧」「うぐいす侍」「残菊物語」話題に。
戦争は映画を模倣する

戦争が映画を普及させた。
日露戦争が、日本人に最初の映画体験をもたらしたように、昭和の戦争は映画の宣伝効果を最大限に拡大させた。
その一例がニュース映画であり、戦意昂揚映画であった。
「自然は芸術を模倣する」といったのはオスカー・ワイルドだが、「戦争は映画を模倣する」ともいえた。
庶民の戦争のイメージは、作られたかっこよさであり、とうてい真実の姿とはいえない。連戦連勝の常勝日本軍のイメージは、ニュース映画として地方の津々浦々にまで運ばれ、兵士を送り込んだ農村でも再創造されたのだ。
たとえば、南京陥落を報じた昭和12年12月のニュースフィルムは、もちろん戦闘の終わった後で、南京城を攻略した兵士たちを撮影した「やらせ」場面だったが、日本国中が戦争の臨場感を味わった。
喜多方町相原新聞店では南京陥落を祝して朝日座で読者慰安の朝日トーキーの夕べを催し、南京陥落のニュース映画を上映したほか、県内各地でも年末にかけて同フィルムが次々と巡回上映された。
ところで、大本営発表として真珠湾攻撃の勝利を報ずるニュース映画の画面は、実際に12月8日朝のラジオで発表した時のものではなく、映画のために再現して撮影されたものである。のではなく、ニュース映画のために再現したバンザイで、あらためて撮影した。軍そのものが、大衆を意識してポーズをとった。いわば、再現のやらせである。幻の反戦映画として名高い「戦ふ兵隊」という記録映画ですら、中国軍との戦闘を指揮する場面は、事実を再現劇にして撮影。監督は、こういうドキュメンタリーのやらせは必要なもの、と後年述懐している。
ニュース映画に群がった人々は、自分の父か兄弟を探した。それが画面に映っていれば、申し出ると、映画館は焼き回してサービスしてくれた。映画法が制定された昭和14年「農村に映画を送れ」と叫ばれたゆえんである。
昭和14年に映画法ができた。
映画法は、ナチスドイツの映画技術の高さに羨望した日本がドイツを見習って作ったものである。ナチスはまた大政翼賛会のモデルにもなった。軍国日本の地方の母親や小国民にみせる映画は、忠勇なる兵士の大量製造器でもあった。
昭和14年に「戦ふ兵隊」というドキュメンタリー映画を撮った亀井文雄は、軍部の忌避に直面し、上映禁止の憂き目にあった。太平洋戦争の直前には逮捕拘留された。ほとんどの映画人が、戦争協力をして迎合的な作品を撮ったのに対して、亀井は侵略される中国人民の側に立って日中戦争で苦しみ現地の民衆の怨嗟の眼差しや、疲れ果てて眠りこける兵隊の映像を皇軍宣伝の映画に紛れ込ませたからである。軍馬が捨てられ、よろめきながら倒れてゆくシーンは長回しで写され衝撃的で圧巻だ。
戦後はいちはやく反戦的な作品を撮ったが、これも今度は吉田茂が天皇批判の場面に驚いて発禁処分とした。
昭和16年の真珠湾攻撃では、海軍が撮影した実写フィルムよりも、むしろ翌17年に制作された「ハワイ・マレー沖海戦」という劇映画の方がはるかに庶民の戦争イメージを醸成した。
ここで頭角をあらわしたのが特撮で有名な円谷英二である。円谷は須賀川生まれで飛行機乗りにあこがれたが、映画の道に入り、特撮という分野で日本の映画界に独自の技術を開拓した。
空母を発進する戦闘機や、大プールで撮影した爆撃の場面など臨場感のある画面は、さながら現実の戦争かと思わせる程のリアリティがあった。

福島県トリオで「暁に祈る」

昭和15年、陸軍馬政局が愛馬思想普及のため松竹に映画を製作させた。古関裕而が主題歌を造り、作詞は野村俊夫、歌が伊藤久雄という福島県トリオでできたのが「暁に祈る」。映画はさほどヒットしなかったが、主題歌が大ヒットした。
「暁に祈る」の詩碑は福島市の信夫山第一展望台に、昭和49年10月に建立された。
昭和15年には、1936年のベルリン・オリンピック記録映画「民俗の祭典」「美の祭典」や、ジョン・フォード「駅馬車」が封切られた。邦画では「宮本武蔵」「歴史」「支那の夜」「小島の春」等公開。出動航空機900機の「燃ゆる大空」、陸軍機械化部隊出動の「西住戦車長伝」など、軍の協力映画が上映され興行的に好成績をあげた一方、「戦ふ兵隊」が、軍部の要求する戦記映画と異なるため参謀本部に没収される。
【この年の県下の映画ニュース】
3月から6月まで、皇紀記念の「海軍の夕」東日映画会が県下を巡回。上映は「上海陸戦隊」「輝く軍艦旗」など。
仁井田劇場、棚倉劇場、三春座、夏井会館、小野新町新開座、滝根村神俣旭座、常葉公会堂、都路都座、大越村娯楽場、船引劇場、小浜安達座、川俣座、飯野共楽座、日和田日乃出座、桑折座、広瀬座、保原劇場、庭坂天戸座、喜多方帝国館、野沢劇場、大寺座、西方村公会堂、日橋村広田座、猪苗代新開座、川桁駅繭市場、熱海座、錦町呉羽人絹工場、上遠野座などの劇場、公会堂が会場になったほかは国民学校で開催されている。この会は6月4日に新山(現双葉町)5日中村新開座、6日原町旭座で終了。
さらに8月15日から10月、12月にも巡回上映があり、滑津座、須賀川中央館、塩川町新栄座、奥川村公会堂、田島町弁天座、石川座、日出座、本宮座、平劇場跡広場、錦町錦座、四倉海盛座、大野会館、浪江座、小高座、矢吹幸楽座(公楽座)、藤田劇場などで開催され、旭座で19日、中村新開座で30日に行われた。ほかには国民学校。
12月中は「白虎隊」が柳津福満座、本郷町天狗座、日橋広田座、梁川広瀬座、竹貫村公会堂などで上映された。映画館、劇場の上映は少数で、ほとんどが国民学校会場だ。
むろんこれらは、戦時多くの兵士を送り出している農村では都会に比して娯楽が少ないことを配慮して政府の肝いりで展開された新聞社の政策対応事業であり、都市部ではさかんに映画上映があったし、映画法による文化映画の強制上映も行われていた。
4月、東宝「彦六殴らるる」「春よいづこ」。福島松竹「三人よれば」「忠治と頑蔵」「感激の頃」。福島劇場「近藤勇」「花団の結婚」。福島座「忠僕直助」「幸福の窓」「花見の仇討」。大福座「黒潮に咲く花」「ガンバランド」「龍騎地雷火組」「キートンのドンデン腕競べ」。郡山大正座「奉納長脇差」「黒潮に咲く花」「忍術武勇伝」。清水座「母は強し」「海を行く武士」。富士館「故郷の誇り」「父なきあと」「空の彼方へ」「乱れ伽女仇討」。新興館「涙痕」「狸御殿」「放浪の王者」。郡山会館「白蘭の歌」上映。
5月、県警防団並に商工課が主催、富岡劇場で闇取引防止と防空思想普及のフィルム上映。映画「野口英世伝」江川宇礼男が監督転向第一回着手。ロケハン来訪。
6月、郡山尚武祭が撮影、郡山会館で上映される。文化映画配給決定、ニュースも復活。「村の託児所」相馬郡金房村ロケ撮影。
7月、野馬追祭をHKで録音放送。仙台放送局が野馬追の模様を録音して即夜これを放送。県下の常設42館でも文化映画の上映実施。福島劇場「女人峠」。中村役場と警防団主催二小で防空講演と映画。映画検閲強化。文化映画「会津桐」撮影。日活の「歴史」話題に。
8月、中村町中村座は今春来フリーの映画を短期間づつ公開していたが東宝と正式契約し従来通り活動常設館として復活開館。24日郡山の東宝郡山会館に「撃英気勢」の巨大なポスターが出現した。「二本松少年隊」仙台放送局から児童劇放送。東宝「緑の朝」福島県ロケ。大河内伝次郎一行ら大挙来福。高瀬実乗は「孤馬」、岡譲二は「太陽の街」を高湯温泉、熱海温泉、高玉鉱山及び猪苗代湖を背景とする中山宿でそれぞれ今井、成瀬、清川の画監督下に撮影。
9月、正月、お盆、日曜祝日を除き映画が午後からの興行だけになり、公定料金を導入。内閣情報部が撮影した耶麻郡月輪、長瀬両村の米穀供出状況のフィルムを県が購入。精勤宣伝映画に組み入れ。東北温泉協会は映画宣伝に乗出し岩代熱海温泉、熱塩、東山温泉の温泉情緒を撮影。高瀬実乗東宝で実演。鉄道省仙鉄局では明月祭の須賀川情緒など撮影。須賀川の枝豆を全国的に紹介。生産地から駅構内に搬入、貨車積込み実況撮影。福島座「歴史」、福島松竹「家庭教師」水戸光子、東宝「続蛇姫様」高瀬実乗「笑ふ地球に朝がくる」、大福座は真山くみ子の「嘆きの花傘」上映。
10月、堀切イタリア大使に「白虎隊の墓に詣でる大使」「白虎少年団に訓話する大使」「ム首相寄贈の記念碑前に於ける大使」その他の光景を16ミリ映画におさめ、大使はイタリアへ持参して渡航。さらに若松市は制作中の「白虎隊自刃の図」を制作。これも堀切大使を通じてムッソリーニ首相に贈る。本宮座でコロンビアの楽人等が郷土訪問演芸会。23日橋本青年知事は映画ファン福島にきた評判の映画「燃ゆる大空」の試写にも長男を連れて東宝三階に姿を現した。橋本知事は大日本映画協会役員で内務省時代に映画法を草案した人物。「二本松少年隊」松竹京都でシナリオ決定。現地ロケ始まる。福島座で「転落の詩集」「護国の鬼」、福島劇場「明治の女」「ヴァアリテの乙女」「最後の七人」、大福座「エノケンの猿飛佐助」「ロッパの子守歌」「エノケンのビックリ大会」「ロッパのお父ちゃん」。松竹「木石」「浩吉唄双六」。
11月、往年のスター鈴木伝明が炭鉱経営から映画に復帰。「楠公夫人」中村町で撮影はじまる。
12月、松竹「二本松少年隊」完成。17日に、映画関係者が福島に集まった。「映画館主、および映画取り扱い者が百五十名が参加。警察部長が会長に」なった。映画法にもとづく映画館の国家管理の一環である。映写時間短くなる。西住戦車長伝特別試写会福島松竹映画劇場で上映。原町所管内防空映画。東宝のメロドラマ「嵐に咲く花」話題に。明年の外国映画75本程度に決る。
12月17日から福島、郡山の放送局(日本放送協会)で試験放送が開始された。

アメリカ映画が禁止された日

昭和16年1月1日から、全国の映画館でニュース映画の強制上映が始まる。6大都市ではすでに昭和14年10月1日から実施。12月8日の大東亜戦争の開戦により、アメリカ映画は上映が禁止された。つまりその前日までアメリカ映画は日本中の映画館にかかり、庶民を楽しませていたのだ。
「勝利への歴史」「ジェロニモ」「スミス氏都へ行く」などが封切られる。12・8対米宣戦布告とともに、アメリカ映画社は閉鎖を命じられる。各地の洋画専門館は、すでに7日限りでアメリカ映画の興行を中止し、ドイツ・イタリア・フランスなど友好国映画上映に切り替えた。邦画では「みかえりの塔」「戸田家の兄妹」「江戸最後の日」「次郎物語」や愛馬映画「馬」などが上映される。文化映画には「鷹匠」や亀井文夫監督「信濃風土記」第二部の「小林一茶」、「富士の地質」「土に生きる」などの佳作がある。
社団法人映画配給会社、4・1より全国一元配給を開始。原則として劇映画1、文化映画1、ニュース映画1を組み合わせた番組を、情報局内の映画配給連絡会議にかけて決定、主要地区より配給する。
「父ありき」「母子草」などのほか「マレー戦記」「ハワイ、マレー沖海戦」などの記録映画が公開される。「マレー戦記」は、開戦と同時にマレー半島に上陸した日本軍の記録映画。弟二五司令官山本奉文中将と、英国軍司令官パーシバル中将が会見、英軍は無条件降伏をするが、この時山下司令官は「イエスかノーか」と語気鋭くパーシバル司令官に詰め寄る」。その気迫ある場面では全国民の血を踊らされるが、後年、この山下司令官の再度は武断一辺以外の何ものでもないという批判が起こる。この場面はコマ落としの技法でより状況描写の強調が行われたものであり、二人の位置や人柄などの特長がはっきりとあらわれた。
「ハワイ・マレー沖海戦」は、東宝撮影所内に180坪、実物の600分の1の真珠湾の模型を、千葉県館山に航空母艦の実物大セットを作製、大クレーンの移動により空中場面を撮影した。これらの特殊撮影は円谷英二の手によるもの。
【この年の県下の映画ニュース】
2月「最初の女映写技師」誕生。若松市の湊元シマさんが本県最初。
4月「郷土勇士慰問の映画班出発。
6月、映画館にも防空壕。
新築中の郡山東宝劇場では県下でトップを切って防空壕を設置した。
上映時間短縮「7月1日から一斉に実施」従来の映写時間三時間を二時間半に。ニュース映画や文化映画は30分を限度として上映を許可。
9月、郡山劇場竣工。
この年、県内で上映された映画
「国民進軍歌」「白虎隊」東日トーキー映画会(無料)県下巡回。1月

開戦の日の映画館

福島の映画街 映画館では増税は影響なかったが開戦と共に入場者は依然お三分の一となた。日米戦のニュース映画が到着すればこれを回復すると予想され、休憩中ラジオのニュースを放送しているところもあった。某館では英米映画排撃であわてて「平原児」をドイツ映画に切り替えて上映していた。

●西条八十、奉戴日に熱海座で映画を見る
詩人の西条八十は飯坂小唄など福島の歌も作詞しているが、彼の回想によると、県下の熱海温泉の劇場で映画を見たエピソードが残っている。
〔自分の関係した歌が入っている映画を見たのは「愛染かつら」と、それに福島県の熱海温泉の小さな映画館で見た「純情二重奏」の日本だけ。この見物の時は、大勢の芸妓衆に取り囲まれ、座布団を何枚も重ねた上に、沢山のごちそうという華やかさ。ところが、その日は12月8日にちなむ大詔奉戴日。あとで、不謹慎と組合の人が兼併にしかられたそうで、こちらは頼まざるも結果はこれで、すまないことをした〕と、内海久二氏に述懐している。(ふくしま文庫35巻「ふくしまのうた」より)

翼賛郡山文化協会

郡山市史資料編には昭和16年から20年にかけて郡山市に文化協会が設立され定期的に映画上映を行った記録が載っている。
〔一六年九月八日 郡山映画劇場開場式ニ幹部全部招待
一〇月三〇日 午後七時 郡山映画鑑賞会設立準備 郡山無尽
一二月一一日 学芸部分科会タル郡山映画鑑賞会(会員六〇〇名)
第一回「ブルク劇場」観覧 郡山映画劇場ニテ
一二月一二日ヨリ一七日ニ至ル六日間
同ジク文部省推薦「故郷」(ズーデルマンの「マグダ」)観覧
昭和一七年五月二三日 学芸委員会(二)文化映画ヲ観ルノ会月四回催スコト
六月一七日 映画教育座談会 郡山映画劇場 映写 鉄の戦士 飛弾人 他一本 時局ニュース 一〇八号
七月二五日 第三回文化映画の会 富士館 二五〇名
勝利の基礎運輸戦 安波の木偶(東日本海)日本ニュース 一一一号
八月八日 第五回文化映画の会 清水座
八月一五日 第六回文化映画の日 富士館
八月二二日 第七回文化映画の会
八月二九日 第八回文化映画の会 清水座停電ノ為休
九月五日 第九回文化映画の会 清水座 ゴビ砂漠探検(読売)日本ニュース 軍用兎
九月一二日 第一〇回文化映画の会 郡山映画劇場 「龍神剣」日本ニュース 文化映画
一一月一五日御前九時半ヨリ正午迄 郡山映画劇場 第十一回文化映画の会 郡山文協主催「マレー戦記」日本ニュース 文化映画
一一月二九日正午ヨリ 第十二回文化映画の会 新興館 文化映画本年度ベストテン「空の神兵」中華映画「西遊記」日本ニュース 大詔奉戴一周年記念行事(九)文化映画の会(第十三回)九日午後六時 郡山映画劇場 ビルマ戦記 文化映画 日本ニュース
昭和一八年一月二四日午前九時三十分-正午 富士館 第十四回文化映画の会(会員全部無料)情報局国民映画作品 ハワイマレー沖海戦 五月二〇日午後六時半 第十五回文化映画の会 郡山映画劇場 防空航空戦記 文化映画「撃ちてし止まん」日本ニュース(一五三号 東条首相比島訪問)
八月五日 午後六時半 第十六回文化映画の会「シンガポール総攻撃」文化映画「明るい村」日本ニュース
一〇月三日午前十時-正午 富士館 第十七回文化映画の会(会員招待)入場四百余名
一〇月二二日午後六時半 第十八回文化映画の会 郡山文化会館
①「世界に告ぐ」
②日本ニュース 大東亜会議
③文化映画 北方の健兵 入場四〇〇名
同映画ニ招待セシ白衣勇士十二名付添五名ハ 夜間外出富農ナルヲ以テ 翌二三日午後〇時三十分ヨリ観覧
セシメタリ
昭和一九年一月三一日(日)午後六時文化映画の会 清水座
「海軍」軍神横山少佐の生ひ立ちの記 ◎三五〇名出席 感銘深キモノアリ
一〇月二八日 福島東宝支配人佐藤隆治君と日映支配人に逢ひ 郡山文協の手にて毎月定期的に日本ニュースの会を開き得る事に決
一一月二八日 ニュース映画の会 通知及び招待状発送
一二月一日 ニュース映画の会 午後四時 富士館 ニュース 二三〇号 二三一号 二三二号 二三三号 二三五号
一二月三〇日 ニュース映画の会 郡山映画劇場(第二一回文化映画の会)
昭和二〇年一月四日-一〇日迄 第二二回文化映画の会 藤田進 高峰秀子を囲む座談会
一月二六日 第二三回文化映画の会 日本ニュース 二三九 二四〇 二四一 二四三 文化映画
三月七日午後四時-六時 第二十四回文化映画の会 開催
三月一九日 第二十五回文化映画の会開催通知発送
「雷撃隊出動」期日 三月二二日ヨリ一八日マデ 於 郡山映画劇場
三月二八日 第一航空隊映画慰問
五月七日 文化映画の会「対空射撃」民報ト共催〕

小高町の映画常会

また20年には、大政翼賛会が小高町に映画常会を作り町民に娯楽を提供した。
戦争中の各町村には、翼賛体制の文化活動があった。小高町には模範的な翼賛運動の一つとして映画常会の存在があったことを、昭和20年の民報が伝えている。
〔増産の糧 娯楽 小高の誇「映画常会」 明朗敢闘譜 応募話題(2)〕

昭和17年
4月、映画配給が一元化され紅白2系統に。5月、大映第一作「維新の曲」封切り。12月、東宝「ハワイ・マレー沖海戦」が大ヒット。
1月から3月までの東京日日福島版から巡回ニュース映画会場を拾ってみると、豊里村の東館仮設劇場のほかはすべて国民学校で開催。上映作品は「父なきと」文化映画「落下傘部隊」など。
【この年の県下の映画ニュース】
7月、郡山で文化映画研究会が11日に郡山映画劇場で第一回上映会を決定。
8月、須賀川署では盆踊りを自粛した代わりに「農村映画会」を実施。
8月、映画教育研究会で「母子草」を鑑賞。
11月、「燃料節約指導講演と映画」県労政課が全国一斉に県下福島、桑折、原町、平、郡山で上映会。

ガ島敗退で映画館鳴り物自粛

ガダルカナル、という地名は福島県人にとって、呪わしい。多くの家族がそこで肉親を失った。昭和17年から18年にかけて南太平洋のガダルカナル島をめぐる日米の攻防戦で、日本軍首脳は無謀な戦闘を指揮し、その結果この島に投入された福島県出身の兵士はジャングルで全滅する敗退を喫した。新聞は戦死者の氏名を新聞に公表。紙面をびっしりと埋め尽くす県人の名前の中に父親や兄弟の名をみつけた人々はいかばかりであろう。
昭和18年7月、ガ島の撤退が報知されると県内の映画館はただでさえ沈滞した雰囲気の時代に、鳴物自粛という事態を迎えた。
〔「興行鳴物禁止」県保安課ではガダルカナル島の戦没者が六日発表となるや県下各花柳界並に映画興行界の自粛を促すべく県下各署に通牒を発し映画館興行所では幕間に感謝と冥福を祈る黙祷を捧げ花柳界では当分の間鳴り物を禁ずることになった〕(昭和18年7月7日東京日日)

「決戦の大空へ」と「若鷲の歌」

昭和18年5月、古関裕而はコロムビアから、海軍航空隊の予科練習生を主題とした映画を東宝で制作することになったので、その主題歌の作曲を依頼された。
一、 若い血潮の予科練の
七つボタンは桜に錨
今日も飛ぶ飛ぶ霞が浦にや
でかい希望の雲が湧く
二、 燃える元気な予科練の
腕はくろがね心は火玉
きっと巣立てば荒海越えて
行くぞ敵陣なぐり込み
この西条八十の歌詞につけられた曲が生まれたのは、土浦の海軍航空隊へ向かう常磐線の車中であった。
「決戦の大空へ」という題の映画には、別な歌が用意されていたが、車中で出来た即興の曲の方が隊員たちに支持され、主題歌「若鷲の歌」として採用された。準備していた曲は、レコードのB面に映画と同題の「決戦の大空へ」と題して収録された。
〔映画は九月十六日に全国一斉に封切られ、レコードと同時発売。主演は高田稔、原節子、黒川弥太郎である。その頃は山本五十六司令長官の戦死、アッツ島の山崎舞台玉砕等、戦局の悪化が国民の胸中に重くのしかかていた。この封切りの初日、日劇に行った私は、早朝興行で市内の小学生の団体のための試写があって、しばらく外で待たされた。
映画が終わって外に出て大勢の小学生が“若い血潮の予科練の――”と歌っているのに驚いた。映画の中で何回か歌われている主題歌だが、観終わった子供たちが覚えて出て来るとは想わなかった。この単純で明快、短調でありながら暗さのない曲は、少年達の胸に飛び込んで行ったのである。〕(「鐘よ 鳴り響け」)
「若鷲の歌」と同じ月に発売された「海を征く歌」は、大木惇夫の「戦友別杯の歌」に古関が大木に頼んで大衆が唱和しやすく書き換えてもらって曲をつけたもの。歌はやはり福島県出身の伊藤久雄が担当した。

「戦友別杯の歌」大木惇夫
言うなかれ、君よ、別れを
世の常を、また生き死を
海ばらのはるけき果てに
今や、はた、なにをか言わん・・・
「海を征く歌」大木惇夫 歌 伊藤久雄
一、 君よ わかれを言うまいぞ
口にはすまい 生き死を
遠い海征く ますらをが
なんで真荷駄を 見せようぞ
二、 暑い血潮を 大君に
さげて遂ぐる この胸を
がんと叩いて 盃に
くだいて飲もう あの月を

古関はまた「海の進軍」「ラバウル海軍航空隊」「ビルマ派遣軍の歌」などに作曲し、多くの軍歌を生み出した。多くの若者が、これらの軍歌に憧れ、みずから鼓舞し、また慰撫されながら戦場に散っていった。
その古関が自伝の中で「幻の、いやな歌」と題する一節を書き残している。
〔昭和十九年十月二十日、「神風特別攻撃隊の歌」を発売した。その当時、米軍はレイテ島に上陸。そして二十四日、フィリピン沖海戦となった。その頃読売新聞社は国民の志希(士気?)を鼓舞するために、新作戦時歌謡を簿主によらず依嘱で制作することにした。そして作詞を西条八十氏、作曲を私に依頼してきた。〕(前掲書)
昭和19年9月5日、郷里福島で母の葬儀を行った。亡くなってから一ヶ月目だった。
「比島決戦の歌」の歌詞の中の、
〔レイテは地獄の三丁目 出て来りゃ地獄へさか落とし〕
というところを、軍部からの圧力で
〔出て来いミニッツ マッカーサー 出て来りゃ地獄へさかおとし〕
と改変、訂正させられた、という。
〔歌詞も楽譜も何もなくなってしまって、かろうじて前記二行だけを記憶している。この歌は私にとってもいやな歌で、終戦後戦犯だなどとさわがれた。今さら歌詞も楽譜もさがす気になれないし、幻の戦時歌謡としてソッとしてある。〕

昭和18年(1943)
4月、連合艦隊司令長官山本五十六大将が戦死。学徒動員決定。文部省は学生の自由な映画鑑賞を禁止。映画研究会を解散。
「姿三四郎」が公開。「マライの虎」「シンガポール総攻撃」そして日本映画史上に残る「無法松の一生」が生まれる。
戦争中は、戦争未亡人に人力車夫ごときが恋慕するのはけしからんと軍部が検閲し、主人公がヒロインを慕う場面にハサミを入れた。戦後は占領軍が、子供の学芸会で「青葉の笛」を吹くところが封建主義を懐かしんでおり民主主義時代にふさわしくない、とこれまたハサミを入れた。誰から強制されることなく、自然にみずから愛する者に対して抗し切れぬ愛情で尽くそうとする人間の姿こそ至高の美であることを、かえって検閲という野蛮な行為は際だたせた。戦争中と戦後の日米双方の検閲はけっきょく映画にハサミを入れることがどんな理由であれ愚かな行為であったことを物語っている。
「姿三四郎」は原作が発売されるや黒沢明が東宝にかけあって映画化権を買い取らせたという。会津出身の西郷四郎を、モデルにした三四郎は、日本人好みのストイックなスポーツマンを造型し、くりかえし映画化された。
映画雑誌の第二次東郷により「映画旬報」は昭和18年12月限りで廃刊。日本映画雑誌協会も解散。ベストテン選考は行われなくなった。
この年「海軍」「決戦の大空へ」「愛機南へ飛ぶ」など上映。

日本ニュース、神風特別攻撃隊出撃を映す
昭和19年(1944)

決戦下の娯楽機関は次第にその数が減少。各種の芸能人は兵士として、また慰問部隊として戦地に派遣された。逆に、娯楽は映画興行のみになって命脈を保った。
この年「加藤隼戦闘隊」(昭和19年3月23日、白系)。4.1.映画興行、平日三回に。
11.24.東京空襲で神田・南明座焼失。12・7フィルム欠乏で全国731館へ配給停止。
昭和19年2月19日民報によると、相馬郡で「海軍」が上映された。
〔中村町実業壮年団の戦意昂揚映画会は二十四、十五の両日午前十時、午後二時、同七時の三回「海軍其他を上映、昼間男女中等学校及び国民後、夜間は一般に無量で開催、同郡下開催日割を二十日福田 廿二日駒ヶ峰、二十三日大野、廿四、五日日中村村、廿五日〕
「海軍」は松竹大船作品。大本営報道部企画。原作者岩田豊雄。脚色沢村正。演出田坂具隆。撮影伊佐坂三郎。主演山内明、小杉勇、風見章子。ハワイ攻撃に参加した海軍特別攻撃隊の生い立ちを描く。(昭和19年12月22日、紅系)(発達史Ⅲ)

●神風特別攻撃隊ニュース映画を上映

昭和19年、神風特攻隊のニュース映画が上映され、異様な興奮をもたらした。
10月25日、フィリピン戦線で最初の海軍特攻隊敷島隊が出撃し戦果を挙げた。同年11月21日毎日新聞福島版は〔原町銃後奉公会ほか二団体では十八日昼間二回、夜一回と町内二映画館で同町が産んだ特攻隊敷島隊中野磐雄飛行兵曹長等五勇士が基地で体当りの訓練をうけ、また晴の壮途を決行する門出等の実況映画を公開したが、観客は異常な感動を覚え、いやが上にも米英撃滅の戦意を昂揚した〕と報じている。
また原町陸軍飛行場からは、特攻隊員が次々に出撃して行ったが、その最後の姿はニュース映画にとどめられた。陸軍特攻「勤皇隊」の山本卓実もまたその一人。復座戦闘機屠龍(双襲)に炸薬を詰めて出撃する姿がニュース映画に残された。
米空母に突入する瞬間の映像は、アメリカ側によって撮影され、こんにち我々はカラー映画でこれを見ることが出来る。戦争も革命も死も、映像で記録される世紀なのだ。
南京陥落も漢口陥落のニュース映画も、陥落の一番乗りそのものを撮ったものではない。銃後の国民を意識して撮影された再現映像の「やらせ」だった。

敗戦までの日々

昭和20年1月一日毎日新聞福島版は「観劇で士気を鼓舞」という記事を載せて、郡山で人気俳優の藤田進と高峰秀子の実演劇「姿三四郎」を上演すると予告。
〔日東鉱業某工場では新春に当り今年も全従業員に力一杯増産に努力して貰ふため四日午後二時から郡山市みどり座に来演の東宝俳優高峰秀子、藤田進一行の実演劇「姿三四郎」を観劇させ慰安を兼ねて士気を振ひ立たせることとなった〕
4日、早朝から入場者が列をなし、人力車で楽屋入りする有名女優の顔を一目見ようという群衆が殺到し、女優の母親の乗った人力車が横倒しにされ、めちゃくちゃに押しつぶされた。

生フィルム不足で県下7館が整理

昭和20年1月23日福島民報「映画館整理県下で七館」という記事によると、
〔県下の映画常設館二十五館のうち七館が閉鎖される、これは最近映画館に於ける生フィルムの減少から映画の配給が不足を告げ各常設館の経営が困難になるところから整理を行ふものである
整理館は福島市大福座、郡山市新興館、若松市映画劇場、東亜館、新興館、白河町白河劇場、須質川町須賀川座で、
このうち白河劇場、須賀川座、若松新興館は大衆演劇に転換するなほ現在県下の映画館の観覧料金がまちまちなのでこれを機会に協定料金が決ることになる〕
国内物資の欠乏のため生フィルムの製造は困難をきわめ、映画配給会社も全国で731館に配給休止を宣言。これにより全国の約40パーセントの映画館が営業中止となった。

昭和20年の映画状況

空襲と映画館
2月25日、ついに決戦非常措置要項が閣議決定。高級興行場(大劇場)は3月5日から閉鎖された。日劇では風船爆弾が製造され、福島県小名浜海岸から打ち上げられた。
3月10日、東京大空襲で映画館45館が焼失。7月9日、仙台空襲で仙台の5館がすべて焼失。
戦災による焼失映画館 アメリカ軍の爆撃によって焼失した映画館は、全国で513。
映画配給社を改組した映画後者の調査によると、空襲で焼失した映画館は五百十三に達した。その内訳は、東京百十八、大阪五十一、名古屋三十三、神戸二十五、横浜十九、その他の都市百六十七である。これを罹災の時期で分けると、千九百四十四年十一月二十九日の東京最初の夜間空襲に始まって、四五年二月末までに焼失した館は東京五、名古屋四だけ。それが三月には一躍百二十に増えるが、被害はすべて前記の六大都市に限られている。四月から六月十五日までにさらに百三十五館が罹災するが、それも六大都市とそれに隣接する川崎と尼崎の範囲を出ない。
ところが、六月十七日からは目標がはっきり津法都市に切り替えられ、大阪の二館以外は、六題都市の罹災館はなくなり、それからしゅせんまでに地方都市の映画館ばかり二百五十五が被災している。その中には一日の空襲で映画館全部を焼失した都市が、広島の十四をはじめ、豊橋七、高松七、水戸六など、実に二十五都市におよんだ。
残った映画館は終戦の放送のあった八月十五日から一週間、全国いっせいに興行を中止した。〕(清水晶「戦争と映画」社会思想社)
10.10.連合軍司令部、映画制作禁止条項を指示。
10.11.松竹、戦後第一作「そよ風」封切り。
11月、反民主主義映画225本を消却。

昭和史を綴った古関裕而

(1988年)十月十二日には、福島市音楽堂に隣接して吉関裕而記念館がオープンした。歌は世につれ世は歌につれ、というが、まことに古関メロディほど昭和史の全般をカバーして、各時代の民衆の心を歌っているものも少ない。古関の活躍した分野は、作曲という芸術の範疇であり、歴史の表面で最も華やかな部分で民衆に愛された仕事をなした。
十一月中には、TUFとNHKとが特集番組を放送し、古関の生いたちや生涯は詳細に紹介されたので、これによって福島県が生んだ偉大な作曲家の存在はいやます再認識されたに違いない。
古関裕而は明治四十二年(一九〇九)福島生れ。生家が呉服店であったため商売を勉強するのに福島商業を卒業したが、この店が倒産。古関は二十才の時、川俣銀行に勤めたりしているが、作曲家を志して上京。菅原明朗、山田耕筰に師事した。音楽之友杜刊の「標準音楽辞典」によると、一九二九年イギリス国際作曲家協会募集曲に入賞。第二次世界大戦中、戦争に取材する哀調を帯びた流行歌で人気を集め、この傾向は戦後もつづいている。主要作品としては、《紺碧の空》《船頭かわいや》《露営の歌》《暁に祈る》《若鷲の歌》《鐘の鳴る丘》などがあり、一九六四年には《東京オリンピック・マーチ》を発表した、となっている。いわゆる軍歌に名曲が多いのは周知の事実であり、TUFの特集番組では古関自身の真情を、長男が代弁する形で、きちんと説明していた。すなわち、軍国主義に迎合して好戦的な曲を書くよりは、戦争中の民衆の気分を反映した民衆の歌を書いたのだ、と。従って、それがいわゆる軍歌として歌われたにせよ、必然的に哀調を帯びているのだ、と。日本の民衆全体が好戦的であった時代は確実に存在したのだから、民衆の気分を反映すれば、威勢の良い《若鷲の歌》などが誕生するのは当然のことだろう。しかも、それは今になって否定したり、隠蔽したりする必要もないほどに一時代の日本人の感情を率直に伝える「名曲」であることに間違いはない。この事実は、古関の才能を示す経歴となっても、汚点ではない。ところが、NHKの古関特集「福島スペシャル」の放送では、あえて戦時下の「代表歌」はカットしてあり、番組全体の構成がNHKのPRか、福島的部分に偏りすぎた内容に堕しており古関の全人像を伝えているとは、とても言えないようなものであった。NHK福島放送局の、制作を担当したディレクターのレベルでそうなのか、制作部長のレベルなのか、局長レベルの考え方なのか、どのレベルでの判断なのか、ともかく欠落の大きい番組であったという印象をぬぐいきれない。〈古関さんにとって、戦時中はつらい時代だった〉という意味のナレーションが流れ、西条八十とともに前線の兵士を慰問するために出発する姿を写した写真が一枚ブラウン管に出て、さらに「暁に祈る」の歌碑がチラリと映し出されただけで、昭和史の民衆の最も熱い時代を、はしょって過ぎたのである。一体、何のためにテレビ人をやっているのだろうか。あきれてしまう。我々の財布から聴視料を集めておいて、あの程度の番組しか作れないとは憤飯ものである。現在もラジオのバックとして流される「昼のいこい」のテーマが、古関が故郷福島の田園風景を思って作曲したものであるというイントロや、ことあることに福島にこだわりつづけた作曲家であるという解説も、まあ良い。しかし、福島だのNHKだのにこだわりすぎて、日本人の魂を創造した芸術家である事実を落っことして、古関の実像を、わい小化してしまった。ディレクターないしプロデューサーが描かねばならぬのは、古関の「内なる福島」が、いかに日本人の中の郷愁の原像であったか、なのである。ワサビを抜いた、役場広報のごとき番組であったと言わざるをえない。
(「政経東北」98.「昭和史に棹さしたジャーナリスト群像」より)

日本を越えた映像作家の昭和史
「たたかう映画」
亀井文夫著 岩波新書

亀井文夫は戦前から戦中、戦後にかけて自らの思想をまげず変節することなく映画を作りつづけてきた日本の映画人としてはただ一人の希有な存在であると、門下生の一人で記録映画作家の谷川義雄氏は最大限の評価をしている。
幻の反戦映画の名作「戦ふ兵隊」の監督、亀井文夫は福島県原町市生まれ。戦前のジャーナリストや文筆家、映画人などが翼賛的変節をとげ、戦後も豹変した中で、日本にも良心を貫いた映画人が存在したことを立証している。「戦ふ兵隊」は、日中戦争の戦意を高揚するために陸軍が東宝に命じて、漢口作戦を撮影させた映画で、昭和十四年の作品。
「戦争を賛美する映像ばかりがあふれていた当時ぼくは無駄で悲しい賤其の非人間的な凶暴さを伝えたかった」と亀井は語る。
日本軍の侵攻で村を追われる中国の農民の姿や、疲れきってくさむらで眠りこける日本兵、川を渡るトラックを懸命に押し、不安で眠れぬ夜を過ごし、戦死した戦友の妻から来た手紙を読む兵たち、破壊された駅、荒れた田畑などのほか部隊に置き去りにされた病気の軍馬が力尽きて倒れる場面など、ありのままの戦場や日常的な面に視線を配り淡々と描いた。しかし試射会では陸軍省、内務省の係官が、亀井の映画の厭戦的タッチに激怒し、上映禁止処分にし、亀井は太平洋戦争開戦の年には治安維持法で投獄されてしまう。
昭和八年に東宝の前身のP・C・Lに入社。十二年に新会社東宝で文化映画「上海」を構成、会社側の不満をはねのけて公開し好評だったが、軍部からにらまれ、続く作品が「戦ふ兵隊」で発禁処分。戦後は「戦争と平和」(山本薩夫と共同監督)、「女の一生」を手がけたが、東宝争議でフリーに。五十四年に日本ドキュメント・フィルム社を創立し再び「生きていてよかった」「世界は恐怖する」「ヒロシマの声」などの原爆映画や「基地の子たち」「流血の記録・砂川」などの基地問題を世に問うた。カトリック信者の母から、弱者に対する温かい手をさしのべる姿を学び、社会問題を硬派の目でとらえ、弱者の側に立った反骨のヒューマニストとしての一生を貫いた。戦後、亀井は戦前戦後のニュースフィルムを集めて編集し「日本の悲劇」を製作。財閥が軍部と結んで大陸を侵略していった経緯を明らかにし、特に天皇の軍服姿が、ソフト帽と背広姿にオーバーラップしてゆくシーンで天皇の戦争責任を追及し、時の吉田茂首相を驚愕させた。民主化をはかるGHQの指示で作られたが、検閲の段階で没収。闇から闇へと葬られた。
「(昭和)天皇はいま愛すべき象徴になっているが、その責任は記憶すべきだ」と亀井は語気強い。
晩年の監督は「生物みなトモダチ――トリ・ムシ・サカナの子守歌」(六十一年)を撮影し、自然破壊を告発。遺作となった。二年前に七十八歳で病没。岩波新書「たたかう映画」は実際には愛弟子谷川の編。民衆への同情と核兵器の告発そして自然破壊への警告。つねに先見の明を実証しながら昭和史を現役で生き抜いてきた映像作家の実録である。
歴史は緩急いずれの速さでも、人間を呑み込みながらに流れてゆくが、これに抗して自己の電波を発し、節を曲げずに貫く生き方が、困難であった時にこそ、人間の営為は真価を発する。
軍の検閲で、「戦ふ兵隊」がひっかかり、没収になったのは当然のなりゆきだったろうが、奇しくもフィルムは目黒のスタジオのスクリーン裏から、三十六年後の五十年に発見された。
こうした人間のありようは、過去のことではなく、現在を生きるわれわれも問われているのである。
(「政経東北」今月の書棚)

「日本の悲劇」

昭和二十一年には、いちはやく軍国主義告発のドキュメンタリー作品が発表された。
(亀井文夫は)日中戦争中に「戦ふ兵隊」を発表したため軍部に忌避され、太平洋戦争が開戦する昭和十六年に拘束された映画監督として唯一人、見せしめ的に投獄されたが、ついに解放の時代が到来したと確信したのが「日本の悲劇」だ。
軍部がいかに日本を戦争に駆り立てていったかを解説し、戦後の政治体制でも生き残っている人物を告発した映画である。なかんずく天皇こそ戦争犯罪人の最たるものとして、戦時中の元帥服姿から、戦後のソフト帽をかぶった背広姿の天皇へと転身するさまを、フェードインの技法で描いた場面はあまりにも有名だが、時の吉田首相は官邸でこの試写を見て激怒。アメリカ軍は民主主義奨励で軍部の告発の啓蒙につとめており、最初このフィルムの上映を禁止してはいなかったが、占領軍最高司令部にかけつけて上映禁止を嘆願。たちまちフィルムを没収された、といういわくつきの作品だ。
亀井の反骨的な作品は、戦中、戦後を通じて、ついに政治的に弾圧され続けたのである。しかし、万事が権力に迎合してきた映画界にあって、亀井の一貫した良心的姿勢は、希有にして偉大だった。
地元の野馬追の里博物館では毎年八月二十一日の県民の日に、この監督をしのんで亀井作品の無料上映を行っている。
(政経東北1998.9月号「ふくしま意外史」より)

ふくしま映画100年

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