原町無線塔、朝日座など福島県南相馬市原町区(旧原町市)の文献を公開

ふくしま映画100年 平成編

 

昭和が死んだ日に映画館は生きていた

テレビはときどき死ぬ。最近死んだのは、昭和が死んだ日にテレビが殉死した昭和六四年のことである。平成が生まれる瞬間、テレビ画面が凍り付いたように天皇薨去のニュースだけを報じ、各局一斉に喪に服したときである。
昭和の終わりの日に、テレビが死んだとき、映画館は生きていた。
教育放送の子供向き番組を除いてすべての局が右にならえ。歌舞音曲が自粛され、すべての娯楽番組が停止した。これは明治天の、大正天皇の薨去のときにも同様であった。全国で、この年、運動会まで自粛しようという空気に日本中が包まれたのだ。二月の大喪の礼の前後に、人々は手持ち無沙汰で町に出た。見るべきテレビ番組がないので、しかたなくビデオ店に出かけた。そのとき思い出したように気づいたのは、映画館はあいているだろうか、ということだった。問い合わせの電話が久しぶりに映画館にかかってきた。映画館はあいていた。すでに当局は映画館を取り締まるほどの影響力を認めていなかった。皮肉なことだ。かつて戦後の税収の多くを担って連日すし詰め状態で人々が殺到した映画館に、日々の娯楽を求める要求が復活した一瞬だった。
国家のシンボルである天皇を悼まないわけではない。映像を求める健全な精神が、同じ画面しか放映しないテレビに違和感と疎外感を感じたのだ。
佐藤栄作首相が退任するとき、記者会見で新聞記者を排除したのを思い出す。テレビは信用できるからと言って、テレビカメラだけ残した。この人の精神が健全であるかどうかはともかく、言論には歪曲があるが、テレビは事実をそのまま伝えるという信仰があったのではないか。
リクルート疑獄事件では、国会喚問の中継では証人となった江副さんや中曽根さんの映像が静止画面に切り替わり、凍り付いてしまった。
テレビはよく死ぬ。ときどき仮死状態になって、この国が一旦緩急のときに死ぬことを思い出させる。

平成元年(1989)
1月、福島東宝プラザと福島日活ロマンが相次いで閉館。原町シネマ閉館。
東宝プラザで観た「ギャラクテイカ」のコンクリートにとどろく音響の響き、原町シネマでみた「恐竜の島」「続恐竜の島」「スーパーガール」を思い出す。日活ロマンはついに入ったことがないが、薄いコンクリート壁を通して、プラザの方にも日活女優の喘ぎ声が漏れ聞こえてきたものだった。なつかしや。
8月、倉本聡脚本・反戦ドラマ、本名小校舎に白羽の矢。学童疎開の舞台。金山町民も協力。主演する中井貴一らが5日からロケ。緒方拳、郷ひろみなどのキャスト。疎開した学童の喧嘩シーンの舞台は金山町営玉梨牧場。フジテレビで制作。(8.4.友)
「大霊界・死んだらどうなる」が霊界ブームつくる。
洋画トップ収益は「インデイ・ジョーンズ」第二位「レインマン」。
「敦煌」「黒い雨」「どついたるねん」「千利休」「魔女の宅急便」「利休」「その男、凶暴につき」「あうん」
「ダイ・ハード」「紅いコーリャン」「レイン・マン」「ニュー・シネマ・パラダイス」
「敦煌」の中国ロケは迫力あった。佐藤浩一、西田敏行。ノーベル賞候補の井上靖も天上で喜ぶだろう。「魔女の宅急便」は原作の味とラストでかなり違う。

平成2年(1990)
2月、「蔵シック映画祭」が開催。「太陽の帝国」「八月の濡れた砂」「卒業」「ピーターパン」「不思議の国のアリス」「MOMO」「銀河鉄道の夜」「マイフェアレディー」「プロジェクトA2」の9本上映。前年のアンケートで要望の高かった上位の作品が選ばれた。6回目。
山川捨松の半生がドラマ化。火曜スーパーワイド「鹿鳴館の貴婦人」放映。原作者久野明子は捨松の孫。名取裕子主演。大山巌に露口茂、津田梅子に紺野美佐子、ほかに檀ふみ、樹木希林、西村晃、田村亮、加藤治子ら。一本のドラマには破格の制作費二億円をかけた。テレビ朝日。2月6日放送。(1.20.友)
すかがわ国際短編映画祭第二回 6ヶ国の21本(河北H2.4.28.)
「桜の園」「少年時代」「死の棘」「夢」「3-4×10月」「あげまん」
「非常城市」「フィールド・オブ・ドリームス」
「死の棘」は私の卒論作家島尾敏雄の代表作。少年時代を過ごした小高町に夫婦で心中しようとやって来るが未遂に終わる。岸部一徳と松坂慶子は秀逸。あの文学をよく映画化した。「フィールド・オブ・ドリームス」は心に響く。あぶくま新報に映画評を書く。編集長の独断で、朝日座の映画広告を毎回大きく入れた。
原町朝日座はファンの要望で閉館をとどまる。しかし閉館は秒読み段階だった。
平成3年(1991)
広瀬座は梁川町の河川改修のため福島市の民家園に移転することになり解体される。浜通りで、いわき以外では唯一の映画館だった朝日座(原町・布川雄幸社長)が9月30日に閉館した。創立70周年で、閉館記念に選ばれたのは「ニューシネマパラダイス」だった。
閉館の日には「シザーハンズ」「ホームアローン」が上映され、最後のセレモニーが行われた。ぼくは夢中で8ミリビデオのカメラを回した。画面の中で、館主の布川雄幸氏は、チャップリンのような影をバックのスクリーンに映して、自分の人生を振り返っていた。
「福本耕平かく走りき」ヘラルドエース配給(久保田傑監督)が決定。
東映教育映画「野口英世の少年時代」や「若き日の豊田佐吉」などビデオで復刻。(3.22.友)
「戦争と青春」市民から一口10万円の資金集め市民プロデューサー制度で堂々完成(今井正監督。工藤夕貴主演)福島フォーラムで関係者ら試写会20日夜(8.22.毎日)
「息子」「大誘拐」「8月の狂詩曲」「無能の人」「おもひでぽろぽろ」
「ダンス・ウイズ・ウルブズ」「羊たちの沈黙」「ターミネーター2」

平成4年(1992)年
1月、白河友楽座が閉館。
10月限りで栄町の福島東宝劇場と福島スカラ座の二館が閉館。「影武者」「天と地と」もここで見た。
10月25日、福島フォーラムに3,4スクリーン開館。
平成5年(1993)
4月、福島の東宝とスカラ座が閉館したものが復活。しばらく息を吹き返した。
4月、金山町で「あひるのうたがきこえてくるよ」ロケ。作家椎名誠と町民との温かい交流は県民をホットさせた。友の会ができて文庫設立や野球試合などが行われた。
原町市における亀井文夫の全作品上映はすべて完了。
平成6年(1994)
7月、いわき市内の全映画館で一人につき200円駐車料金割引サービスをスタート。好評。
10月、高羽哲夫撮影監督の故郷湯川村公民館で「寅さん」映画のポスター展示会。
短編映画で日本映画界に参入した萩本欽一が11月福島に来訪。映画と講演の会が行われ、萩本氏が「せっかくだから」と講演時間延長し上映予定の映画を割愛。ファンの顰蹙をかう。
平成7年(1995)
8月、福島市は終戦50周年で記念映画会を開催。中学生900人をアニメ「アンネの日記」に招待した。
9月終戦の時、樺太版ひめゆり部隊といわれた幻の「氷雪の門」が福島で監督みずから上映会。
平成8年(1996)
映画伝来百年の記念映画会が郡山などで開催される。
6月6日、郡山でリュミエール映画祭が開催され、世界初の映画や日本初の映像が次々に上映され、映画史を研究中のぼくには頭がくらくらするほどの刺激だった。
平成9年(1997)
須賀川で唯一の映画館「中央館」(宮先町、石井敬三社長)が3月末に閉館。同館は繁華街の中心地にあり、大正8年2月に会社を設立して開館。昭和32年に火災にあって建てて直した一部鉄骨の木造二階建てで客席は320席。映画全盛の30年代には日活の裕次郎や小林旭、加山雄三主演の映画、東宝の「ゴジラ」など上映時は満員で、入場者が列をなしたこともある。しかし建物が老朽化したうえ、映画人口は激減。下水道化を控えて新たな設備投資による収支改善も見通しがつかず、78年間にわたって夢と文化を提供しつづけてきた歴史に幕を閉じた。
平成9年4月、福島県映画センターが閉鎖された。
福島でも東宝、東映が閉館し、そこへ集約的なシネマ・コンプレックスというシステムを取り入れたワーナーマイカルが進出して、新時代を迎えた。
4月、相馬郡鹿島町にホームステイしている映画好きのドイツ人高校生ヨハネス君が「インデペンデンス・デイ」をホストの栗原さんと仙台で見てきた、という。
あれはドイツ人の監督がハリウッドで作った映画なんだよと指摘すると「ええ? 本当ですか。知らなかったなあ」と目を輝かせた。後年、栗原宅には別なドイツ人留学生ガブリエル君が滞在したが、留学生同士でドイツ語のビデオを融通しあってはドイツ語の刑事ドラマを見ていた。ぼくはドイツ語の響きを勉強したくてレンタル・ビデオ・ショップでドイツ映画を探したが、「Uボート」ぐらいしかなく、あとはドイツで作っても英語バージョンばかり。「インデペンデンス・デイ」は宇宙人侵略ものだが、ラストは7月4日のアメリカ建国記念日に人類が大反撃して勝利するというたあいのないストーリーで、程度の低いアメリカ人にはうけるだろうがここまでハリウッド的に撮ったエメリッヒ監督には疑問を感じた。もともとヨーロッパで、気象兵器を使って世界中で軍事介入するアメリカに批判的なSF映画「ノア」を撮って注目された彼は、その映画的才能を認められアメリカに招請されるやいなやこんな迎合的な映画を作る。「ゴジラ」の手際の良さも認めるが、この人は無定見すぎる。

平成10年(1998)
大林宣彦監督作品「風の歌が聴きたい」のモデルは飯坂町出身の高島良宏さん。同じ聴覚障害を持つ妻の久美子さんと夫婦でトライアスロンに参加する姿が描かれた。9月、福島フォーラムで本人を迎えて上映。
福島民家園で絵於けした「二宮金次郎物語」が完成、公開される。
自主上映の機運

「みたい映画を自分たちの手で」という気持ちは誰にでもあるが、その一歩を踏み出す人が、映画文化を豊かにする。さまざまな種類の映画がさまざまな目的で、市民運動のの一環として個人、団体の主催で上映された。昭和40年代の太陽族映画の氾濫に反発した本宮方式の母親運動や、原町市の「良い映画を見る会の自主上映や推薦映画の選定、県文化センターの上映会などがあるが、ここでは50年代以降の自主上映の流れを追ってみる。
昭和56年(1981)
いわき市の「シネマテーク81」自主上映グループ(依袋慎二代表)はそれまで数年間市内のホールを借りて「やさしい日本人」「田園に死す」などの独立プロ作品やゴダール作品などの自主上映を試みてきたが、平松竹の協力を得て第一回8月「白昼の通り魔」(大島渚)「約束」(斎藤耕一)など4本の邦画を上映した。9月12日には「泥の河」の試写会を小栗康平監督自身を招いて開いた。第二回上映は「清順・蜷川の映像美学の世界」、鈴木清順「悲愁物語」「魔性の夏」を予定。映画の日を前に「水上勉の世界」と題する上映会も計画。「飢餓海峡」もノーカット上映をやりたい。「人間の条件」全6部の一挙上映が当面の夢だという。(56.9.25.朝日)
昭和57年(1982)
反核映画の自主上映が県内各地で展開された。10フィート・フィルム運動で、アメリカから購入した原爆フィルムを構成し全国で上映された。第一作「にんげんをかえせ」の上映会を予約していた原町公民館が高度に政治的だとして施設使用を認めず大問題となった。
3月、郡山いわきの2映画館で反核映画第一作上映。
8月、いわきで反核映画第二作を自主上映。
9月、相馬市の荒川新太郎中学教諭が原町朝日座の協力で自主上映開始。
10月若者のパワーで梁川広瀬座の復活運動展開。郡山の会社員が自主上映会を主催。
11月いわきのキネマ館で、大森監督迎え映画とトークの集い。
昭和58年(1983)
5月、いわきの喫茶店「キネマ館」で16ミリ「市民ケーン」上映。10月キネマ館で石井正人監督を招いて作品上映とトークの会。
6月、福島北高校で「東京裁判」上映。
県の医師グループが福島市で8月反核映画を自主上映。
福島市に映画一座が誕生。「映画一座通信」を発行など活動。
福島大学の学生が自主製作映画を見る会結成。
昭和59年(1984)
1月梁川広瀬座で若者の手で高橋竹山公演。
東北過疎をテーマにした長編記録映画「ニッポン国古屋敷村」が郡山市公会堂で上映。。57年に映画雑誌で人気投票第一位。上映時間は三時間半。福島市でも県文化センターで上映。(59.1.18.友)
都教祖と日本電波ニュース社が製作した「子どもたちの昭和史」第一部「大東亜戦争」第二部「十五年戦争と教師たち」上映。(11.23.朝日)
12月、16ミリで「廃市」自主上映。(朝日12.1.)
昭和60年(1985)
町民製作映画「こころの山脈」は55年に青年学級祭で上映したきり。20年ぶり公開上映。フィルムは本宮中央館に保管されていた。16ミリ。(民報60.3.16.)
福島茂庭、天戸座の復活の機運。(民報1.7.)
昭和61年(1986)
6月、広瀬座でマルセ太郎の形態模写公演。ロードショーのハイライトシーンをひとりで再現。(朝日6.7.)
7月、ニカラグアに愛の手をと市民が医療救済を目的に「アルシノとコンドル」上映会。益金で衣料品を贈った。(7.26.友)
9月、いわき福島郡山で「山谷(やま)」自主上映。(朝日9.2.)
昭和62年(1987)
埋もれた名作を再上映しようと「よい映画を楽しむ会」が福島に発足、定期的に鑑賞会。「砂の器」などを16ミリで。(62.1.21.友)
ニカラグアの医療救済を目的に昨年秋に「アルシノとコンドル」を福島駅前東映で上映。
郡部でも「霊山映画を観る会」などが活動。第一回は前年6月「中央公民館で「砂の器」上映。(1.23.朝日)
県立美術館も「エデンの東」「戦艦ポチョムキン」「道」「死刑台のエレベーター」など多彩な名画を上映。16ミリで無料。(8.19.友夕刊)ベスト5は「エデンの東」「赤と黒」「誰がために鐘は鳴る」「メアリーポピンズ」「自転車泥棒」
福島中央テレビ主催で移動演劇隊殉難の記録映画「さくら隊散る」県内4ヶ所で一般公開。7月から8月にかけて上映。(6.9.友)
渡辺浩子「路」トルコ・スイス合作「エル・スール」「田舎の日曜日」上映。(友8.11.)
「小津映画」の魅力もっと多くの人にと福島でファンが手作り企画で「東京物語」フォーラムで上映。(11.15.朝日)
3年後の3月に予定されている河川改修工事の立ち退きを迫られた梁川町の広瀬座で大みそか徹夜上映。石原裕次郎復活祈願オールナイト映画会(12.24.友)、広瀬座で仮面ライダー、ラーメンマン、ドラゴンボール2回「蒲田行進曲」「太陽の季節」「嵐を呼ぶ男」「青春の樹」4本立てを4回。阿武隈急行もイベントに逢わせて臨時列車を増発。(12.26.河北「大みそかは眠らない」)
昭和63年(1988)
相原さんら5人グループ夢工場「ゆきゆきて神軍」「家庭教師」上映。(民報63.2.16.)
原町で中年世代が結集してなつかしの裕次郎映画など上映。(河北5.31.)
「アニメ琉子」完成。(6.21.河北)
平成1年(1989)
原町市で2月「白い旗の少女琉子」で上映会。求められて私も子供達の感想文コンクールに景品を提供した。
すかがわ国際短編映画祭スタート。
トリュフォーファン手作り企画が実現。 福島の映画館フォーラムで1988「TOKYO POP」81年アカデミーー外国映画賞「モスクワは涙を信じない」米映画「アンナ」「恋のエチュード」「突然炎のごとく」上映。(1.13.朝日)
アルメニア、タジク大地震の被災者救援しようと市民がソ連の名作「モスクワは涙を信じない」を福島フォーラムで上映、カンパや浄財も贈る。(民報1.30.)
親子でアニメ楽しむ会がが郡山で初の日ソ合作「小さなペンギン・ロロの冒険」を郡山市文化センターで上映。(2.7.民報)
県アジアアフリカ・ラテンアメリカ連帯委員会が反アパルトヘイトのビデオ21日に福島中合デパートで上映。(4.14.読売)
11月、日本キリスト教団原町教会主催のマザー・テレサ映画会、朝日座で。
平成2年(1990)
会津労映が再建大会。会津労映は商業ベース以外の良い映画を安く鑑賞しようと昭和41年に発足。再建問題が持ち上がったのは、それまで一手に会運営を引き受けていた曽根啓介前事務局長が2月に急逝したため。例会は月一回5月「タスマニア物語」6月「あげまん」9月「千利休 本覚坊遺文」が用意。(民友4.26)
福島在住の沖縄県人会が沖縄戦の悲惨さ知ってと栄町の沖縄料理店「ぱいなっぷる家ハウス」で「沖縄戦、未来への証言」上映。フィルム1フィート運動の会がアメリカワシントン国立公文書館から買い取ったもの。(8.21.友夕)
この年、記録映画「べンポスタ 子ども共和国」いわきの主婦グループが翌年2月めざし準備。いわき市文化センターで2月、福島郡山でも主婦グループが3月上映を計画。
原町キリスト教会で16ミリアパルトヘイト・ドキュメンタリー映画会。
平成3年(1991)
飯館村公民館で二組の高校生カップルの妊娠や中絶を扱った生命の尊厳を訴えた作品「若人よ」(槙坪多鶴子監督)の講演映画会。第一回若妻の翼団員で構成する「いいたてウイング19」メンバー主催。(1.17.友)
平成4年(1992)
第七回あいづ映画祭参加で二年前松竹映画に出演した村山功さん資金提供した瀬戸慎吾監督第一回作品「幸せの続く様に」16ミリ上映。(9.3.毎日)
平成5年(1993)
「阿賀に生きる」坂下中央公民館で上映会 。(3.28.河北)
「月光の夏」(神山征二郎監督)特攻隊訓練基地のあった矢吹町の有志が文化センターで7月自主上映。8月郡山、9月福島でも上映。(6.24.読売)
8月、石井正人の「CUT」川俣と福島で無料上映会。

亀井文夫監督の全作品上映

原町生まれで「戦ふ兵隊」などの監督亀井文夫の全作品が平成5年4月から11月にかけて原町市で上映された。
「人間よ傲るなかれ」 3月6日
「上海 支那事変後方記録」「小林一茶 信濃風土記第二部」4月3日
「戦ふ兵隊」「日本の悲劇」5月1日
「女ひとり大地を行く」6月5日
「生きていてよかった」「流血の記録 砂川」7月3日、「世界は恐怖する」「死の灰」の正体」「荒海に生きる~マグロ漁民の生態」8月7日
「人間みな兄弟~部落差別も記録」「みんな生物みなトモダチ パート1」9月4日
最終回「トリ・ムシ・サカナの子守歌~生物みなトモダチ パート2」10月2日(以上、有隣館)
10月3日の日曜日は朝日座で午前9時30分から子供達に最終回分を無料公開。午後3時20分、亀井文夫伝記「鳥になった人間」著者の都築政昭氏の講演会が行われた。

平成6年(1994)
青いえんぴつの会主導で「こころの山脈」25年ぶりに上映。(9.26.民報)
伊達町ふるさと会館で49年に開成山公園で開催されたロックコンサートの記録映画「ワンステップ・フェステバル」フィルム上映。(民報9.14.)
福島市の海野志ん子さんが7月に仙台で見て感動。主婦二人の熱意が映画館を動かし「水からの速達」「地球交響曲第一番 ガイアシンフォニー」フォーラムで上映。(6.10.22.民報)
平成7年(1995)
30年以上、昭和34年から毎年続いているクリスマスプレゼントで宮川善弘さん(若松市職員)が児童園でデイズニー作品上映。(12.27.民報)
平成8年(1996)
労働運動での女性の足跡を追った作品「女たちの証言」(羽田澄子監督)を郡山で上映。(朝日11.22.)
平成9年(1997)
郡山の市民らが重度障害テーマのアニメ映画「どんぐりの家」制作費協力呼びかけ各地で上映。(1.17.読売)
フィリピンのスラムで暮らす子供たちの記録、郡山で上映。(7.13.読売)

●行政による上映や自主上映も

映画館という施設そのものが経営難で次々に閉鎖されるに従って、逆に静かなブームになったのが、自治体の文化施設(会館やホール)の建設だ。
今日では、文化行政が映画上映に取り組むというスタイルがある。また、自主上映という形で、国際交流事業の一環として外国事情をPRする行事もある。以下は去年(95年)、県内で行われた自主上映などから。(子供向けを除く)
(一月)「未知との遭遇」いわき市立美術館、「芙蓉鎮」福島市民会館(日中友好協会福島支部)、「天平の甍」郡山市立美術館。
(二月)台湾映画「非常城市」福島市民会館(日中友好協会福島支部)。
(三月)「それから」郡山市立美術館。
(四月)「寺山修司実験映画特集」郡山市立美術館。
(五月)「すかがわ国際短編映画祭」須賀川市文化センター、「映画創生期」県立美術館、「ひばり映画祭」豊間中学校体育館。
(六月)「国民の創世」県立美術館、「シンドラーのリスト」伊達町ふるさと会館。
(七月)「會津風雅堂シネマ・ウイーク」會津風雅堂、「イントラレンス」県立美術館、「スペインからの手紙、ペンポスタの子どもたち」喜多方プラザ文化センター(県教組耶麻支部)。
(八月)「月光の夏」いわき市勿来市民会館、「美女と野獣」国見町観月台文化センター、「哀恋花火」喜多方プラザ(喜多方日中友好協会)。
(九月)「耳をすませば」船引町文化センター、「からむしと麻」三島町文化センター、「木を植えた男」郡山市立美術館、「今を生きる」県立美術館、「ベトナムのダーちゃん」会津若松市文化福祉センター(実行委)。
(十月)「弁天小僧」県立美術館。
(十一月)「本宮8ミリ倶楽部映写会」本宮町勤労青少年ホーム、「薄桜記」県立美術館、「エイジアン・ブルー」福島市公会堂(コープふくしま)。
(十二月)「戦後50周年記念映画鑑賞会」大熊町文化センター、「長内美那子と映画の夕べ」須賀川市文化センター。
なお、講演会として、須賀川市文化センターでは「映画は明日の結城と希望だ」と題して映画評論家の水野晴郎氏を十一月二十二日に招いている。
今年(1996)に入ってから、福島銀行本店大会議室で福島日仏協会が、仏映画「イヴォンヌの香り」(1994年作)を上映。また福島東宝スカラ座で、県国際友好協会が中国映画「息子の告発」を上映した。
平成8年 寅さん死す
会津が産んで会津が撮った寅さん

母多津のエピソード

「わたくしィ・・・生まれも育ちも葛飾柴又です。帝釈天で産湯を使い、姓は車、名は寅次郎、人呼んでフーテンの寅と発します」
映画の寅さんは確かに東京生まれである。それで俳優渥美清はどうか。昭和三年三月十日、上野駅に近い東京・上野車坂(現在上野七丁目)の棟割り長屋で生まれた田所康雄というのが、のちの渥美清である。やはり東京生まれだ。父親は友次郎といって、若い頃には宮下愛山というペンネームで、ある地方紙で活躍していた政治記者だった。が、酒でつまづいて康雄が物心ついた頃には、すでに惰眠をむさぼる日々であった。
母親の多津という女性は、会津の士族出身であることを自慢にしていた。(九月のFTVで、渥美清の伝記ドラマが放送され、母親役は池内淳子が演じた)
康雄一家は、この多津が仕立物の内職で生計のたしにしていた。
康雄には六歳年上の兄がおり、会社勤めのかたわら九鬼幽太郎のペンネームで小説を書く文才の持ち主だった。惜しいかな二十五歳で早逝している。肺結核であった。
多津の、康雄に対する愛情は、そのまま康雄の母への愛情を育てた。亡き兄の分までも。
「ある秋日和の日のことだった。おとうさんが勤めていた新聞社の玄関のとこにサル回しが来て、サル回しのおじさんがトントコ、トントコ太鼓を叩くと、赤い帽子をかぶったサルがトコトコ、トコトコ踊ってたんだよ。おとうさんは、いつも吸っているタバコを吸いながら、サルの踊りを眺めてニコニコ、ニコニコ笑ってた。わたし、それを見てね、ああ、この人がやさしそうな人なんだなあと思って、一緒になったんだよ」
このエピソードは、サンデー毎日昭和五十一年の新年号から連載された「渥美清のフーテン旅日記」の告白的半生記にある。
ところが、多津が友次郎と一緒になってしばらくすると、友次郎の態度はガラリと変わる。友次郎の文句に多津が口答えでもしようものなら、いきなり水をぶっかけられたり、頭を叩かれたりするようになった。その後間もなく酒でつまづき、惰眠をむさぼる夫への不満は、小さな康雄に向けられるようになる。
「おとうさんがこんなふうになっちまったのは、おとうさん自身が高い理想ばかり持ち続けていて、友だちがせっかく仕事を世話してくれても、断ってばかりいるからなんだ。いいかい、康雄、男というものは、あれがいやだ、これがいやだと言わないで、自分の道は自分ですすんで開拓していくものなんだよ」
と、訴えるような表情で話しかけたのを少年時代の康雄は聞いた。
世捨て人のような夫の姿を横目でにらみながら、口をゆがめて言う。
「まったく、よく寝てばかりいるよ」
そんな姿を覚えている。一方で、母多津は明るく、自意識が強かった。康雄が子供の頃、仕立物を届けてお得意先からかえってくると、多津は決まってこうたずねたという。
「あの人、おかあさんのこと何て言ってたい」
康雄は、そこで母の気に入るようなストーリーを考え出して言う。
「うん、田所んとこの康雄はバカだけど、お前の母親は、なかなかのしっかりもんだねえ、なんて言ってたよ」
多津はたちまち破顔して、その話の先を聞きたがったという。

渥美の死後、付き人だった篠原靖治氏が書いた評伝「生きてんの精いっぱい/人間・渥美清」によると、次のような言及がある。
〔「おふくろかい? おふくろは教育者でね。ほんとうにうるさかったよ」
渥美さんの母親は、小学校の代理教員をしていたそうです。
「でも、可愛がってくれたな。それなのに、おれはね、まあ・・・」
遠くを見つめるような目をして、ふいに黙り込んでしまいました。
実は、渥美さんの実家は裕福なほうではなく、職を転々とした父親に代わって、母親が内職までして息子二人を育てたのだそうです〕
また母親との関係については、次のように言及する。
〔もしかすると、渥美さんが引け目を感じているのは母親ぐらいで、案外、若気のいたり程度のいい思い出なのかもしれません。(不良だったことに関して)
とはいえ、渥美さんは大人になってから、母親の好物を見つけては持ち帰ってあげていたそうです。ところが、前科のおかげで、母親はなかなか信用してくれず、
「おまえ、それ、どこから持ってきたんだ」
逆に叱られる始末だったそうです。
「そのときは、ちょっと寂しそうでしたよ」
「ずうっと大きくなるまで、そういう点は信用しなかったみたいだぞ」
肩をすくめて見せました。〕
「フーテン旅日記」は渥美清の前半生について詳述しているのに対し、「生きてんの」は「壮絶ガン闘病と家族愛」というサブタイトルのとおり、晩年の渥美清の姿と、芸能界では決して明かさなかったプライバシーについて、特に彼の妻、そして息子と娘が登場する。
最後の痛みが来た時に、渥美清はこう言った。
「おれにもしものことがあったら健太郎、おまえは男だから、家を守れ。お母さんと幸恵は女だから、みんなのいない、分からない所に行け。健太郎、頼むよ」
「おれのやせ細った死に顔を、他人に見せるな。家族だけで荼毘にしてくれ。頼んだぞ、正子」
平成八年夏、山田洋次監督が、寅さんの死を知ったのは、翌日のことだった。ファンがその死を知ったのは、さらに後のことだった。
渥美清は永遠のスターとしてファンの心に生き、田所康雄は六十八歳の生涯を終えた。

高羽哲夫カメラマンの死

渥美清の死の前年、会津出身のカメラマン、高羽哲夫が死去した。
高羽は大正十五年八月十五日、湯川村湊字上田丁に生まれた。旧制会津中学から米沢工専に進み、昭和二十三年に卒業、松竹撮影所に入社した。
昭和三十九年の「馬鹿まるだし」でデビュー。四十年には「霧の旗」を撮った。四十二年には、松竹の契約撮影監督となる。
四十四年以来、山田洋次監督の全シリーズを担当し、「幸福の黄色いハンカチ」「息子」「学校」など数々の名作を撮った。
昭和四十年には「霧の旗」で三浦賞、平成三年度の第四十六回毎日映画コンクールでは「息子」が撮影賞を受賞した。
平成四年には紫綬褒章を授賞。
平成六年十月二十一日から三日間、故郷の湯川公民館で、フーテンの寅さんシリーズ四十六作品のポスター展が開催された。これを記念して、ユートピアゆがわで「男はつらいよ」第一作「家族」、第二十五作「寅次郎ハイビスカスの花」を無料上映した。
寅さん映画のシリーズは、フジテレビのテレビ版が先行するが、劇場版の映画は四十八作を数えた。
このうちの四十六本を、高羽哲夫カメラマンが撮影したのである。
高羽の郷里湯川公民館での寅さんポスター展は、勲章まで受けた撮影監督高羽の「故郷に錦」の晴れ舞台であった。終生の師であった山田洋次監督も、愛情を込めた文章をこのポスター展に寄せている。
一九八八年十二月二十三日付朝日新聞には、東京葛飾区柴又の帝釈天の界隈の変貌ぶりに対して
〈高羽哲夫カメラマンなんか、こぼしていたな。「背景に夾雑物が入る。山門がかくれてしまう」とね〉
と出てくる。
ところで、、寅さんは福島県を訪問したことがあるのだろうか。日本全国を旅して回る香具師の寅さんは、ヨーロッパは音楽の都ウイーンにまで足を伸ばしたことがあるのだが、肝心の福島県が舞台となった巻は一作もない。
自然に恵まれ、これを誇る観光立県の福島だが、寅さん映画全四十八巻のうち、一度も福島県が登場しないのは淋しいかぎりである。
全国には四十七都道府県があり、全作品が四十八本。少なくとも、一本ぐらいは主要ロケの舞台になって欲しかったものだ。
一九九二年の九月四日付朝日新聞の西部版には「寅さん、未踏の地で四十五作目の撮影開始」という記事があり、宮崎県ロケを報じている。寅さんが一度も立ち寄っていない県は、これで高知県だけになった」(「車一家の不思議」徳間書房)という。
しかし、第八作の中で、寅次郎が台詞の中で「ああ、ここは、四国の高知か」と語る場面が登場しており、国民栄誉賞的寅さんは、かくして日本全県を踏破したことになる。
物語の虚構と、ロケという政策上の行為とは全く別物なのだが、第二十作あたりからタイトル・クレジットの中に、ロケ地が紹介されるようになると、ファンの間で「わが県」が登場する、しないは大問題となる。
寅さん倶楽部編の「男はつらいよ寅さん読本 監督、出演者とたどる全足跡」(PHP出版)によれば、主要ロケ地マップとして寅次郎の旅の足跡が記されており、アメリカのアリゾナまで登場している。
しかし、福島県は記述なし。そればかりか、宮城県も空白であり、九州、近畿など西日本に足跡が集中し、あとは長野県や北海道に飛ぶ。
山田洋次監督にも寅さんにも、東北のロケーションは魅力がなかったようだ。これは(暑い寒いの)お盆と正月という二度の封切り時期にも関係するかもしれない。
寅さんは一年を通して、回遊魚のように同じ場所を基点として動く。時々フラフラと、恋する女にひかれて、離れ小島を訪問したりするのだ。第三十六作「柴又より愛をこめて」では、伊豆七島の式根島が舞台になった。栗原小巻が島の女教師という、二十四の瞳のパロディである。この巻では、浜名湖でタンカバイ(露店売り)をするシーンもあるが、あるムック本によると、会津若松でもロケを行ったという記述がある。しかし、会津の場面としてではなく、撮り漏らしの場面を補完するための便宜的撮影らしい。たしかに、会津柳津の虚空蔵様の縁日の光景がちらりと挿入されてはいた。
「車寅次郎の秘密」(双葉社)では、寅次郎が訪れていない場所として「福島県」とはっきり明記されてしまっている。
渥美清が元気だったなら、海外編ではハワイロケかブラジルの可能性が高い。ブラジルのリベルダーデ日系商店街ではロケ誘致運動が起こり、役者渥美も乗り気だったという。NHKの大河ドラマと朝の連続テレビ小説に匹敵するPR力を、男はつらうよのロケ地は持っていた。首都機能やオリンピック、サッカーでも全国で誘致合戦が展開する時勢なのだ。寅さん映画のロケ地誘致運動がなかったのは、福島県の盲点だった。
(「政経東北」1997年12月号ふくしま意外史)

映画伝来百年イベント続々と開催

96年から97年にかけて、県内でも次々と映画百年を記念する行事が開催され、映画史に残る貴重な作品をみることが出来た。

●フォーラムがクラシックス・フェア・セレクト100本上映 1996年

映画館フォーラムは、クラシックス・フェアと題して、人気の高い作品をリクエストし100本選び出して上映した。
第一回上映「サウンド・オブ・ミュージック」「誰がために鐘は鳴る」「ローマの休日」「汚名」「アメリカの夜」「道」「モロッコ」「未知との遭遇特別編」「ドクトル・ジバゴ」「アメリカン・グラフィティ」「ナイアガラ」「ニノチカ」「見知らぬ乗客」「ブルース・ブラザーズ」
第二回上映「マイ・フェア・レディ」「華麗なるギャヅビー」「理由なき反抗」「ガス燈」「美女と野獣」「ティファニーで朝食を」「鳥」「戦場にかける橋」「ロリータ」「雨に歌えば」「鉄道員」「フィラデルフィア物語」「旅情」「或る日の出来事」など。
第三回以下略。
この機会に見逃していた作品を集中的に見た。「短くも美しく燃え」というスエーデン映画は高校生時代に見逃したので出向いた。「ロリータ」は珍しいキューブリックの旧作。すでに見ていたものも、あらためて見返した。
第六回のチラシでは「アラビアのロレンス」「翼よ・あれが巴里の灯だ」「グランド・ホテル」「スミス都へ行く」「ピクニック」「ラスト・ショー」「E.T.」「北北西に進路を取れ」「女と男のいる舗道」「情婦」「オペラ・ハット」「わが命つきるとも」(これだけ米英合作)
ただし「風と共に去りぬ」「ベン・ハー」のタイトルに抹線が引いて消してある。配給権の関係で上映できないとのこと。大正時代から今日まで日本の映画界はアメリカ映画ばかりである。
95年8月から97年4月までの1年8ヶ月の期間に上映したクラシックス100の記念すべきベスト20の中からベストヒット特集として96年9月現在、日本で上映可能な作品ベスト1の「カサブランカ」ほか「シャレード」「ひまわり」「道」「雨に歌えば」上映。

フォーラム1997年上映作品

福島フォーラムの存続・発展を支援する会が98年「今、福島の映画館が問われています!」と市民に呼びかけるビラを配布したが、これに97年のフーラム上映全作品のリストを掲げている。
全国のロードショー作品「インデペンデンス・デイ」「グース」「マチルダ」「天使の贈りもの」「ジャイアントピーチ」「デイライト」「バードゲイジ」「評決の時」「ジングルオールザウエイ」「ファイナルプロジェクト」「ザ・クラフト」「モスラ」「グリマーマン」「パラサイト・イヴ」「エビータ」「フェノミナン」「身代金」「クラッシュ」「痩せゆく男」「アンフェオゲタブル」「101」「マーズアタック!」「ジャック」「ファーストコンタクト」「ダンテズ・ピーク」「ドラえもん・ねじ巻都市冒険記」「ザ・ドラえもんズ」「スリーパーズ」「デビル」「マイケル・コリンズ」「ロミオ+ジュリエット」「MISTY」「BOYS」「クレヨンしんちゃん惑星タマタマ大追跡」「名探偵コナン」「ロングキス・グッドナイト」「SPACE JAM」[恋は舞い降りた」「ザ・エージェント」「スター・ウォーズ特別編」「クルーシブル」「目撃」レリック」「香港」「誘拐」「ファーストワイフクラブ」「ライアー・ライアー」「悪魔たち天使たち」「ロスト・ワールド」「もののけ姫」「学校の怪談」「乱気流タービュランス」「フーネラル」「スター・ウォーズ」「スター・ウォーズジェダイの復讐」「セイント」「ヘラクレス」「演歌の花道」「CATsEYE」「スピード2」「ラリーフリント」[愛さずにはいられない]「バットマン&ロビン」「17」「マイ・ルーム」「コンタクト」「フィフス・エレメント」「スクリーム」「イングリッシュ・ペイシェント」「素晴らしき日」「アナコンダ」「マルタイの女」「ベストフレンズ・ウエデイング」「ラブアンドウオー」「東京日和」「コン・エアー」「ボルケーノ」「ザ・ターゲット」「ホワイトハウスの陰謀」「フェイク」「スノーホワイト」「マグニチュード」「ラジオの時間」エアフォース・ワン]「セブンイヤーズ・イン・チベット」「MIB」「金田一少年の事件簿」「タイタニック」「モスラ2」「るろうに剣心」
・フォーラムスタッフ企画「トレインスポッテイング」「エンパイヤレコード」「ウォレスとグルミット」「デカローグ」「レオン」(再映)「シャロウ・グレイヴ」「太陽と月に背いて」「リービング・ラスベガス」「アトランタ・ブギ」「弾丸ランナー」「カンザス・シテイ」「ジョージア」「FOCUS」「月とキャベツ」「恋の闇・愛の光」「夜半歌声」「マルセリーノ・パーネビーノ」「機関車先生」「カップルズ」「秋桜-コスモス-」「ナッシング・パーソナル」「Shine」「八日目」「大地と自由」「太陽の少年」「フィーリング・ミネソタ」「リデイキュール」「暗殺の森-完全版-」「百一夜」「あなたに逢いたくて」「燃えよドラゴン」「愛のプラハ」「日陰のふたり」「ブエノスアイレス」「世界の涯てに」「バウンド」「ブコバルに手紙は届かない」「20世紀ノスタルジア」妻の恋人、夫の愛人」「ロストハイウエイ」「シドアンドナンシー」「奇跡の海」「天安門(ドキュメンタリー)」「フープドリームス(ドキュメンタリー)」「ユメノ銀河」「人間椅子」「愛する」「ポストマン・ブルース」「モンド」「鉄塔武蔵野線」
・マルチェロ・マストロヤンニ追悼特集「ひまわり」「黒い瞳」
・フィフスエレメント公開記念「サブウエイ」
フォーラム会員企画「砂の惑星」「クレイジーキャッツの大冒険」「君も出世ができる」「ニッポン無責任時代」
・ありすのお茶会(女性会員)「結婚」
・TCC(高校生)企画「ギルバート・グレイプ」「ザ・ロック」「ユージュアル・サスペクツ」などすべて最映。
一般観客持ち込み企画「月桃の花-ガマ-」「サワダ」沢田教一写真展も開催「戦ふ兵隊」「日本の悲劇」「子守歌」「ハーモニー」「キッズ・リターン」
・支援する会上映会「ケス」「泥の河」小栗康平監督がフォーラム支援に来福し講演、「風の谷のナウシカ」
・クラシックスフェア・セレクト100
「大人は判ってくれない」「ベニスに死す」「招かれざる客」「ギルダ」「波止場」「めまい」「愛と悲しみのボレロ」「リュミエール映画の始まり(ドキュメンタリー)」「慕情」「上海急行」「かくも長き不在」「冒険者たち」「グレン・ミラー物語」「暗くなるまで待って」「僕の伯父さん」「ジョニーは戦場へ行った」
3年がかりで挑戦した「クラシックス100本上映」最後の作品を達成。

●映画生誕100年リュミエール映画祭

1996年6月6日、福島放送の創立記念イベント。郡山市文化センターで開催。百年前のリュミエール社が撮影した最初期の無声映画に柳下美枝子のピアノをつけて上映。上映時間は90分。朝日新聞文化企画局の古賀太氏の解説。
このうちの一部のフィルムは「明治の日本」18コマを含む。明治30年頃の日本を撮影したものだ。江戸時代の名残を残した町並みに、人力車が行き交い、屈託のない笑顔で実に自然な表情を見せてくれる日本人たちがそこにいた。活動写真どころか、写真そのものが珍しかったので、カメラを向けられても、たちまち緊張して顔がこわばるような者は誰もいなかった。レンズの前で意識しすぎて凍りつくような日本人の習性が生まれるのは後のことなのである。
リュミエール会社は、ゴーモン式撮影機兼映写機を若い技師に持たせて世界中の珍しい風景や習俗をフィルムに収めさせた。
日本へは、リヨン生まれの富豪の青年ジレルがやってきて、東京のにぎわいや名古屋停車場の雑踏、大阪の歌舞伎俳優、京都の火事、北海道のアイヌなどを撮った。今日、三十三本の短編が保存され、日本にも寄贈されている。郡山で上映されたのはこれらのフィルムだ。

●ビデオ・ショップの隆盛つづく

平成8年5月の連休直前、巨大な倉庫を改造した「Zig zag」というビデオ・レンタル・ショップが我が家のすぐ近所に誕生した。
入会金は無料。開店後一週間は集客をねらって一本一円という低料金キャンペーンで貸し出したので、太平寺一本柳の南福島界隈は連休中ずっと交通渋滞をきたしていた。さらに二週目も、一本百円という低料金で混雑は続いた。臨時に雇われた警備員たちが周辺の道路に配置されて交通整理にあたっていたが殺到するマイカーの量は変わらず、夜遅くまで賑わっていた。二十四時間営業で年中無休。在庫は洋画、邦画、アダルトもの、アニメなど7万本。新作は二泊三日で三百五十円。旧作は一週間で三百円。全商品に百円割引の優待券をサービス。両手に五本、十本とまとめて借りて行く姿が見られた。
洋画コーナーの一画を最も多く準備されていたソフトは「マディソン郡の橋」。数えてみたら330本あった。なおかつそれがすべて貸し出し中で、パッケージはみな空っぽ。前年から大宣伝され、ふだん映画館へ行かない主婦が殺到するという珍現象を現出した。
明るい店内は家族連れの健康的な雰囲気にマッチしている。学齢前の幼児に機関車トーマスやディズニーのアニメが用意され、若い母親は軽快なアメリカン・ラブコメディを手に取り、若い父親はアクション、SF、サスペンス、ホラーなど、ありとあらゆるジャンルのビデオに夢中になっている。
床面積の奥半分は、めくるめくようなアダルト・ビデオが開陳。若い男性も若くないオトーサンも、真剣な眼差しで桃色の人肉乱舞する煌めきに見入って選択に悩んでいる光景があちらこちらに展開。若夫婦に連れられた幼児たちが店内を走り回り、アダルトコーナーに紛れ込んでは大声で「アッ、オッパイ!、オッパイ!」と嬉々とした歓声を上げている。ここには淫靡さも猥雑さもなく、あっけらかんとしたものだ。
平成4年と5年に万引き防止のためにいわき市の書店が万引きの実写ビデオを販売したが、この年4月、再び販売を開始。福島地方法務局、いわき市教育委員会は「人権侵害のおそれがある」と問題視し販売中止を求めたが、書店主は「万引きの被害が大きく、ビデオ販売は自己防衛。」と主張。全国の書店では万引きのため倒産する書店が相次いでいる。

●話題の映画

月刊「政経東北」に福島鏡子のペンネームで月一本ずつ気ままに選んだ映画に半ページ、ストーリーとコメントをつけて掲載された「話題の映画」から、抜き出してみると次のような作品評がある。
・平成7年 (1995)
11月「マディソン郡の橋」
12月「8月のメモワール」
・平成8年(1996)
1月「太陽に灼かれて」
2月「007/ゴールデンアイ」
3月「セブン」
4月「Shall we ダンス?」
5月「ベイブ」アカデミー賞視覚効果賞とゴールデングローブ最高優秀作品賞受賞!
6月「陽のあたる教室」
7月「いつか晴れた日に」アカデミー賞最優秀脚本賞受賞。
8月「ジェイン・エア」
9月「眠る男」
「泥の河」でキネマ旬報日本映画ベストテン一位などの賞に輝いた小栗康平監督が、群馬県の人口が二百万人になったことを記念する映画として制作した。
10月「ノートルダムの鐘」
11月「デッドマン・ウオーキング」
12月「真実の行方」
・平成9年(1997)
97.1.「インデペンデンス・デイ」
ワーナー・マイカル社が福島県興業組合にあてた手紙で「インデペンデンス・デイ」はアメリカで四千二百万人以上の入場者、しかし日本では七百万人。人口比からして三倍の入場者があってもいい。マイカル社が七館オープンすればもっとマーケットが広がる」などと堂々と書いている。それを読むと、映画は商売なんだなと思う。(福島鏡子)
3月「ファーゴ」カンヌ国際映画祭では最優秀監督賞を受賞。
97.4.「ケス」
97.5. 「秋桜(コスモス)」本宮青年会議所が創立十周年を記念して制作した。
97.6.「ロミオとジュリエット」レオナルド・デカプリオ、クレア・デーンズ主演。
97.7.「八日目」ベルギーの監督ジャン・ヴァン・ドルマン監督。
97.8.「もののけ姫」
97.9.「カーマ・スートラ」
ハーバード大学で映像を勉強したインドの女性監督ミラ・ナイール。「性に関して、策略や媚、ゲームのない女性側からの表現をしてみたかった」という美しいヌードのラブシーンいっぱいの映画。
97.10.「イングリッシュ・ペイシュント」
97.11.「マルタイの女」
97.12.「東京日和」
・平成10年(1998)
98.1.「エアフォース・ワン」
98.2.「タイタニック」
98.3.「ゲーム」
98.4.「G・I・ジェーン」デミ・ムーア主演。
98.5.「グッド・ウィル・ハンティング」
98.6.「ジャッキー・ブラウン」クエンチィン・タランティーノ監督。
98.7.「絆-きずな-」
98.8.「レインメーカー」
98.9.「L・A・コンフィデンシャル」
98.10.「ムトゥ・踊るマハラジャ」
98.11.「プライベート・ライアン」
98.12.「モンタナの風に抱かれて」
・平成11年(1999)
99.1.「始皇帝暗殺」

100年目の映画館

96.8.(平成8年)
10年目のフォーラム危機
福島映画界は風前の灯

福島市の映画館フォーラムが七月二十五日で満九周年を迎え、この秋には十年目を記念してフォーラム3、4館の右隣の空き地駐車場に二七〇席から六四席の新館を建設し、一挙に四スクリーンが増えるはずだった。
来年早々にはフォーラム5、6、7、8として開館し、福島市に根付いた地道な映画文化の花を咲かせるものと期待されていた。だが、この計画を無残に破ったのが、降って湧いたような駅前にある福島ビブレの曽根田移転という大ニュース。
曽根田駅前の東開工業跡地に移転するビブレ本館の中には、三〇〇席から一〇〇席の映画館が七館新設されるという計画だからたまらない。
福島市内には現在、四館の映画館が七スクリーンを稼働させているが、ビブレが映画部門にアクセスすれば生き残れるのは独自配給ルートを持つ東映だけ、という見通しだ。
フォーラム運営委員会(代表・長澤裕二氏)では、存亡の危機にめぐりあわせて「ビブレ移転に伴うアメリカの商業映画館進出によって、フォーラムは運営できなくなる。文化性の高い映画や、市民参加の上映活動ができる唯一の映画館であるフォーラムが福島から消えてしまう」と、市民に存続を訴えかけ、ビブレの映画館進出に反対する署名運動を展開中だ。
ビブレの映画館経営に当たることになっているのは、ワーナー・マイカルという、アメリカの大手映画会社と日本のニチイの合併会社。三年前から、郊外型ショッピングセンターを中心に七ヶ所四八スクリーンのシネマ・コンプレックスを経営しており、一ヶ所で六から八スクリーンを稼働する方式。
東北では一昨年九月に、弘前に六館をオープンさせている。弘前市は人口二〇万人足らずの小都市であるため、地元映画館が大反対したが、自由競争の名の下で、計画通り六館が建設され、一年足らずのうちに市内の既存六館は閉館に追い込まれてしまった。
福島市では弘前市より一館多い七館。ビブレの経過卯が七館というのも、ワーナー・マイカルの地方都市攻略の戦略なのかもしれない。
フォーラムでは、新館建設の計画はもちろん白紙に戻したが、最悪の場合で、現在のフォーラム1、2、3、4がすべて消滅してしまう。
東宝とスカラ座は、近い将来に取り壊しが予定されている建物なので、これらはすべて消え去る運命。黒沢明の作品や数々の名作、大作を福島市民に提供してきたスクリーンは、時代の波に呑み込まれようとしている。
フォーラムは、もともと観客がみずから上映映画の選定に参加できる形式の映画館運営で、営業を度外視して環境問題や人権、反核などをテーマにした作品を自主上映するなど積極的な文化活動も推進してきた。
こうした十年間の市民の努力によって育ててきた歴史まで、踏みにじらないでほしい、という市民ボランティアが、市内や学校で反対署名を集めている状況。
東宝スカラ座では、折しも日本映画特選と銘打って、八月五日から九日「また逢う日まで」、十二日から十六日ま「私は貝になりたい」、十九日から二十三日「夫婦善哉」、二十六日から三十日「浮雲」などの名作を上映する。
こうした企画は、巨大資本による米系映画館では無理。福島市内で守ってきた映画の灯火は、もはや風前の灯だ。

1997 福島フォーラムの研究
もののけ姫が恐竜を喰った

この夏、福島名物の連日の猛暑をものともせず、炎天下の道路上に人の列が出来た。映画館フォーラムで「もののけ姫」を見ようという人々の並んだ列である。
宮崎駿の最後の劇場用アニメ映画と銘打ったPRがよほど効果があったのか。マンガ雑誌とテレビのアニメで育った世代が親になり、日本映画の人気ベストワンは毎年、アニメーションが占める時代になった。マスコミの「もののけ姫」特集や、集中豪雨的な「もののけ姫」ヒットという報道が、さらに輪をかけてのブームを巻き起こした。
前評判の高かったアメリカ映画の「ロストワールド」を完全に喰ってしまった格好だ。「もののけ」人気は、夏休み中ずっと衰えず、上映を待つ親子や友人連れなどの人の列も絶えることがなかった。
驚きはもう一つ。福島ヴィヴレのテナントとして進出が決まっているアメリカ映画資本マイカルの新七館に反対する署名運動がまだ続いていることだ。
これまで東京だけでしか見られないような興行的に難しい映画も上映してきた市民の文化的拠点の映画館フォーラムをつぶすな、というスローガンで展開してきたマイカル進出反対のシュプレヒコールは、そのまま同じトーンで新聞各紙の紙面の記事に増幅し読者の目に触れる時点ですでにマイカルは完全無欠の悪役という役どころになっている。こんなパターンが定着して誰も異を唱えない。
安易な図式化が、正義の御旗のように振られているが、これは異常なながめだ。
フォーラムは被害者の顔で、つねに正義の側の文化擁護の旗手であり、新規参入のマイカルは悪逆非道な侵略者である。単純明快なアメリカ映画みたいなこんな図式で本当に良いのか。
ちょうど十年前の一九八七年に時間を戻してみると、フォーラム1、2という新しいタイプの映画館がオープンした年である。市民が共同出資して館を支え、上映映画についての出資メンバーが積極的にリクエストを出していくという市民参加型運営システムのスタイルは、一つの理想的な映画館のあり方だ。かつて山形県酒田市のグリーンハウスという館がそれだった。この館が火元で酒田大火になったとき、誰もこの館を責めなかったという。それほど世論は市民型映画館というのに弱いのだ。フォーラムはその再来といってよい。
フォーラム館が福島市の興行界に新規参入してきた時、誰もが諸手をあげて歓迎した。この時福島市内には七館の映画館があったが、フォーラム1、2館がこの年七月にオープンしたことで、国際パール、駅前国際、国際名画座の三館は廃館の引導を渡された格好になり、九月に銀幕の灯火を消した。しかし誰もフォーラムの進出を責めたりしなかった。
なじみの館には歴史があり、思い出がある。市民は去りゆく館に郷愁を感じながらも静かにさよならを告げて見送るだけである。
その二年後の一九八九年一月には東宝プラザと日活の二館が相次いで廃館してゆく。東宝プラザは収容人員三百四十五席という堂々たる大型劇場で、昭和五十四年二月にオープンし「フラッシュダンス」「ランボー」「スターウオーズ・帝国の逆襲」など、洋画の話題作を中心に上映。また地方では興行の難しい「フィッツカラルド」「メフィスト」といった渋い洋画作品や、黒沢明の「生きる」、山本薩夫の「真空地帯」などの問題作、名作、異色作をワンナイト・ショーと名づけて上映し、映画ファンの人気を集めたものだった。
日活ロマン劇場は成人映画の上映専門館として固定客に支持されてきたが、東宝プラザとは同一の建物で経営。ここの閉館にともなって、県都でのアダルト専門館は消滅した。日本最古の映画会社日活の名も福島市から消えた。
同時期のいわき市には十一館、郡山市には十二館の映画館があったが県都の福島市がたった五館というのは寂しい限り。というより異様なほどの少なさである。
一九九二年には、十月限りで栄町の福島東宝劇場と福島スカラ座の二館が閉館。二百十六席ずつの中堅映画館だった。この場所はかつて大正時代には松竹栄館という常設映画館のあったところ。昭和四十一年(一九六六)に、福島日本劇場(福島日劇)という館だった時、福島東部興行(本社東京)が借り受け、東宝直営館にした。昭和五十三年(一九七八)に改築し、ビルの二階に東宝、スカラ座の二館がテナントとして入り、一時は置賜町の東宝プラザと三館体制で経営した。
平成四年度には「紅の豚」「ミンボーの女」が大ヒット。押すな押すなの盛況だったが、安定経営がむずかしくなり、テナント契約の更新を機会に値上げを言い渡され東宝東部興行が廃館を決意。これで邦画専門上映は福島東映一館だけになった。
そして東宝とスカラ座の二館の閉館と入れ替わるように同じ月にフォーラム3、4が新築開館している。翌年にはフォーラムの手で閉館したこの二館が復活。福島市では、フォーラムは既存の館を追い出した侵略館ではなく、つねに不足気味の福島の映画館を補填するような形で感謝されながら館を増やしてきたのだ。この二館が今年解体され、フォーラムは5、6館を建設。
フォーラム1、3が定員百四十四席で新作を上映。4が七十二席で、アート系映画を上映。というふうに、機能別に作品も分けて並行して多様な作品の上映をこころがけてきた。
当時の東映劇場の佐藤昇氏は、
「興行界は不思議なところで、映画館が減った分、どこかの別な館に客が増えるというわけではない。映画館は館が多い方がよい」と指摘している。
フォーラムにしても、最初に福島市に進出した時には、代表の長沢裕二氏が次のようなコメントを語っている。
「福島市に映画館が少なすぎます。東北地方の県庁所在地の中で八館は最低。人口二十七万人の都市なら十館あっても経営は成り立つはず。」と指摘した。
「映画館が少ないと公開作品は収益性が高い話題作、大作に占領されてしまう。フォーラムのオープン前、山形市内の映画館に足を運ぶ人は年間延べ四十万人ぐらい。ところが十館になると利用者は五十万に増えた。十二館体制の現在は六十万人ぐらいになって、地元映画興行界に活気が出てきた」
一九八七年当時の民報は、
「福島市内の映画館に入場する人は現在、年間四十数万人。幅広い作品が上映されれば映画館に足を運ぶ回数もひんぱんになり、五十万人を超えると見込んでいる」と報道している。
こうした新規参入の時の説得材料は、実は今回のマイカルにも言えること。七館が進出すれば在来館はやっていけない、と理不尽な侵略を受ける側の論理で反対運動が始まった時、マイカル側は「共存できる」と答えている。
「それではその根拠を示せ」と、強硬な調子で反対運動のビラはかみつき「我こそは文化の担い手」という、まるで錦の御旗をかざすような鼻息だった。攻める時と守る時とは、方法が違えども、客にとっては、映画館が増えて選択肢が増えることはありがたいことだ。反対署名にサインしなかったからといって、その客がこれまでのフォーラムの多様な作品上映を評価しないわけではない。声を上げない一般客にも意見はあり、デパートで奥さんが買い物をしている間にシネマコンプレックスの映画を楽しみたい客だっていることを、なぜ新聞までが無視してしまうのか不思議だ。新規参入してくる企業の論理が気に喰わぬといって、支援者が感情的になってしまうのも困る。
映画興行がビジネスである以上、共存できないとしても資本主義下で商売をする上で、新規参入したい企業を止めるわけにはいかぬ。その調整についてはその社会のルールと制度があり、フォーラムおよびこれを支援するグループも、自治体、政治家や商工機関に働きかけたわけだ。
フォーラム運営委員会、という名にも、何かアマチュアのような匂いを含ませてあるが、実のところは、歴然たる株式会社であり、個人財産である。
たしかに市民参加型企業の成功例として目覚ましい実績をあげた。
しかし、郡山市における興行者たちは、大資本によるシネマコンプレックス方式の参入が予想される前に、果敢に新館を建設し、アートパレスとテアトル系にスクリーンを集中させ、独自のシネマコンプレックス方式を取り入れている。アートパレスの建設は平成六年のこと。新聞が報じた紙面はごくふつうの商業記事として、予告記事と完成の記事ぐらい。のちのフォーラムに関する記事の頻度とスペース、およびマイカル進出反対運動の詳報や、これの関連の福島女子高校のビデオ番組で反対運動を取材しているとの記事など。ほとんど興味本位で本質の底流と無関係な集中豪雨的なワンパターン記事ばかり。
まじめに業界の本道で、映画の将来を見据え磐石の経営に努力している郡山の映画界について、新聞でその知恵と工夫が紹介されたためしがない。
テレビで活躍する映画評論家と称する人々が、すべてただの映画の宣伝マンであるように、本物の映画批評など語れる人物もない。地方の記者諸君も招待券の世話になっている関係上、ただの宣伝記事だけを書いているのが実態なのだ。
古くはいわき市での県下初のシネマビル建設。郡山での地獄の黙示録シンポジウム実施など、果敢な興行者が映画と観客を守ってきた。
福島市でそれだけの器量の興行者がいなかったために、県都の映画界が衰微し、その結果が大資本の進出先としてねらわれただけのことだ。
その背景には単に福島映画界の衰微だけでなく、商業近代化に不熱心なために商業界全体を陥没させて県都の魅力を減衰させた責任があり、行政人、商業人の怠慢のせいでもある。
平成四年までに原町市の朝日座が閉館。白河市の白河劇場が閉館。これで福島、郡山、いわき、会津若松の四市以外の市部からはすべて映画館が消滅し、映画館のある都市が都会なら、福島県は完全無欠の田舎になったことになる。県南と相馬双葉地方には映画館が皆無という状態になった。
映画を愛し、文化を守っているのはフォーラムとその支持者だけではない。声高に「我こそは」と文化の擁護者を宣言する者でなく、テレビや雑誌などのマスコミに煽られながらも、あこがれに小銭を投じようと黙って炎天下で列をなす庶民である。こうした大作や話題作で、映画館は稼がせてもらうのではないか。フォーラムのこれまでの努力は貴重である。生き残る権利もある。今後もマイカルとの戦いで大いに火花を散らしてほしいものだ。
福島東映の閉館
(政経東北98.4.「任侠映画の福島東映閉館」マイカルVSフォーラムの谷間)

福島市曽根田の大型店の移転新築による商圏再編の激震をまともに受けて、まず最初に倒壊したのは、老舗の東映だった。福島市置賜町の映画館福島東映劇場が三月いっぱいで閉館することになったのだ。
東映といえば、ひところは背中の唐獅子の健さんと緋牡丹のお竜さんの独壇場で、つづく仁義なき戦いなどもっぱらやくざ路線で集客して日本映画界をリードしてきた黄金時代の看板的な映画館。県都福島市には東映と第二東映の二館で客をさばいた時期さえあった。夢のような時代だった。ところが今日ハリウッドからやって来たメイド・イン・アメリカのギャングたちに、日本やくざが駆逐されてしまったようである。
もちろんこれはこのほど開館した新装の福島ビブレの目玉施設ワーナー・マイカル・シネマズ福島(七スクリーン)のオープンという衝撃の影響を直接受けての撤退。映画自体が退潮のところに、アメリカ型の強力なシネマコンプレックス方式(集中管理映写システム)を導入した同館の、資本力をバックにした最新で豪華な雰囲気をふりまくビジネスの全国展開を前に、太刀打ちできないとの判断によるものだ。
三月一日、福島ビブレの開店と同時にどっとおしよせたショッピング客は、マルチコンプレックスと呼ばれる映画館を見て、そこがでディズニーランドやユニバーサルスタジオといったアメリカ西海岸の人気テーマパークの入り口に模してあることに新鮮な感慨を一様に抱いたようだ。
最初に出迎えるのは、まず強烈なポップコーンのにおい。シートの肘掛けにはカップホルダーがついており、ジュースやコーラを飲みながらポップコーンを食べながら、どうぞ映画をお楽しみ下さい、というアメリカ流スタイルの徹底ぶりを象徴する。入り口ロビーには映画のキャラクターグッズが満載され、これでもか、との印象だ。
確かに、コンクリートむき出しの床に、狭い椅子と、古典的な映画館の便所というのが既存の日本の映画館のイメージを作ってきた。そんなことがあったからこそ、福島市のフォーラム館は、ゆったりした椅子にじゅうたんの床、きれいな、おしゃれな市民参加型の映画館として歓迎され、受け入れられたのだ。
東映の存続を脅かすもう一つの強力な勢力は、この既存の映画館フォーラム(六スクリーン)。こちらはワーナー・マイカル・シネマズ福島のオープンの日にも、福島駅前で「フォーラムを支援する会」の会員たちが、フォーラムの存続を訴えて道行く市民にビラを配るなど、ボランティアという異質な助っ人の応援団の援護射撃である。
フォーラムが初めて進出した頃の東映は、まだ余裕があった。しかしフォーラム自身が存亡の危機に面した今回のマイカル進出で、二つの映画館勢力に挟撃されて、福島東映は完全に谷間の存在。福島市内の映画館が講話状態の中、フォーラム側が三万人の署名をつらねてマイカル進出に反対運動を展開していた間、ひっそりと沈黙を守っていた東映が、何も異議を唱えずに撤退を決めたのには当然すぎる理由がある。
民大はソフト面にある。入れ物があっても、見せるものがない。
海外の有名映画コンクールで久々に日本映画が授賞。「うなぎ」「HANA-BI」が話題になったが、興行成績は全く悪い。レンタル・ビデオ見せでの回転立も思ったほどではなく、次々にリリースされるアメリカ映画のビデオが何十本と準備されている一方で、こうした作品はわずかに二、三本あるだけ。しかも新作にかかわらず、いつでも貸し出しOKという状態だ。アメリカ映画の話題作にいたっては三百本人美してなお、全巻貸し出し状態という例がごくふつう。邦画の劣勢と、新作への話題性低下の悪循環が続くわけだ。
二月、三月は映画賞ラッシュで、ハリウッドも話題作作りに余念がない。しかし華やかな雰囲気が伝えられても、実際の興行収益には関係がないのが実態。
時代劇が全盛だった昭和三十年代の半ばには、福島東映館が一手に時代劇ファンをのみこんで時代劇専門館としてフル稼働していた。現代劇の方を、現在の福島東映劇場になる駅前東映(当時)が上映していた。宮町にあった福島東映は、昭和四十一年に閉館。
会社側が、テレビに押され気味の映画から人気上昇中のボーリング場への転換を決定。社員に突然通告したことから、組合と会社が対立、紛糾した。「もののけ姫」で一躍史上最大のヒットメーカーになった宮崎駿監督と、「平成狸合戦ぽんぽこ」の高畑勲監督の二人は当時、東映動画に勤務していたので、組合支援のため福島市に来訪したことがある。この時、両氏らとともに劇場前で閉館反対のシュプレヒコールを上げた体験を持つ佐藤昇るさんは現在の福島東映劇場の支配人代理。複雑な心境で今回の推移を見守ってきた。
それ以降は、駅前東映が直営館としてすべての東映作品を上映。客の需要もあり日本映画はまだまだ健在だった。
駅前東映はその後、古くなった劇場のロビーやトイレ、床などを全面改装して経営努力し、劇場名も現在の福島東映劇場とあらため、長年福島の映画興行の分野で県都周辺の住民に娯楽を提供し続けてきた。大手映画会社が経営する直営館は福島県内では福島市に集中。東京と同時封切りし話題をリードした。さながら福島市は映画の県都でもあった。
しかし昭和六十年に福島松竹が閉館し、平成四年には東宝東部興行(本社・東京)の経営する東宝の準直営館であった福島東宝も閉館。同劇場は市民の要望もあって、福島フォーラムがこれを引き継いで復活させ、平成五年から九年まで延命したが、入居ビルの所有者からビル撤去を通告されて、これも閉館。同じビルの東宝スカラ座も閉館し、フォーラム館のほかは在来の館は福島東映のみとなっていた。
福島東映は、フォーラムが洋画とアート系の作品を中心に上映する市民運営型の館で、ほかに邦画を上映する館がないため、ときどきは松竹作品なども上映してきたが、最近のヒットは乏しく「学校の怪談」ブームや、東映まんがまつりの子ども向けアニメで息つく程度だった。建物の老朽化と経営環境の悪化を考慮して三月三十一日で閉館した。最後の上映作品はアニメ映画「銀河鉄道999 エターナルファンタジー」と「長靴をはいた猫」。
ワーナー・マイカル・シネマズ福島はアメリカ直輸入の洋画オンリー。フォーラムは大学教授らがリードする市民の文化拠点を主張する教養派。これら二大勢力の谷間で任侠映画愛好家の労働者とまんが映画ファンの子どもたちの「映画を見る機会と施設と権利」を保証する映画館がなくなれば、映画文化の多様性において県都福島は、またひとつ豊かさを失うことになるだろう。
反戦や芸術や地球環境問題といったテーマのまじめな映画こそが文化だという議論と、ハリウッド産のワンパターンな商業主義アクション娯楽大作で暴力の商品化を見せつけられ、アメリカ的で独善的な価値観を押しつけられることしか選択肢がないというのも、多様な映画を求めるごくふつうの映画ファンにとては、どっちにしても悲劇である。
「松川事件を考える講演と映画の夕べ」で
「にっぽん泥棒物語」上映 平成10年

松川事件は米軍占領下という特殊な政治状況のもと、しかも定員法という首切り法案で大量馘首で社会問題となっていた労働界の嵐の中でおきた一連の列車事故のひとつ。
事件を風化させないで語り継いでいこうと、松川事件運動記念会の主催で八月十九日午後七時から福島市曽根田町六の七、映画館フォーラムで「松川事件を考える講演と映画の夕べ」が開催された。(中略)
松川事件を扱った映画「にっぽん泥棒物語」は五時、七時五十分、十時からの三回上映された。(昭和四十年東映東京作品)
義助(三国連太郎)は、きわめて綿密な計画を立てて泥棒に入る「破蔵師」である。苦手は安藤警部補(伊藤雄之助)で、追いつ追われつしている。
ある仕事の夜、この地方では見られぬ一団に出会ったが、この夜、列車転覆事件が起こったのであった。あの一団に関して、義助が耳にし目撃したことを法廷で証言すれば、無実の罪をでっち上げられている被告たちは救われる。しかし、自分は、犯罪がばれてムショ送りになる。迷いに迷うが、意を決して真実を明らかにする。
松川事件目撃者が陥った、こっけいに見えてシリアスなジレンマをやま場に、抜け目なく見えて、実はへまとごまかしのなかで綱渡りしている泥棒人生を描き出して笑わせる。でっちあげ松川事件の批判劇としても秀逸。(キネマ旬報日本映画作品全集より)
歴史は語り継がれることで歴史たりうる。現在を見る目が失われるのは、歴史を忘却した時なのである。
(「政経東北」1998.9月号「松川事件49年目の真実」からの一部抜粋)

「松川事件」から50年で記念行事
(「政経東北」99年9月号 平成11年)

この夏は福島市を中心に、松川事件50年を記念する行事があいついだ。
福島市松川町で起きた列車転覆事故松川事件の発生から50年にあたり、証拠品や裁判記録を一堂に集めた資料展示や映画会、事件の元被告や支援者ら関係者が現場で記念集会を行うなど歴史的イベントが相次いだ。
七月三十一日、八月一日の二日間、記念行事のトップを切って裁判資料の展示会と、記録映画の上映会が県教育会館で開催された。
支援運動の中で制作された四本の松川事件記録映画の上映会が行われ、三時間にわたる上映がおこなわれた。当時、エキストラとして出演した当時の組合活動家なども会場をおとずれ、数十年ぶりに当時の活動の様子を描いた映画に見入った。
この日上映されたのは全部で四本。当時字制作された十六ミリフィルムのドキュメントと劇映画をビデオに変換したもの。
昭和二十七年に制作された「フィルムによる証言」は四十五分、虚偽の自白にもとづく犯行を再現し、赤間自白にもとづいて実際に犯行経路を歩いてみたが、とても足の悪い人間が暗い山中の夜道を時間どおりに脱線事故現場までたどりつくことができない、と論証する。
当夜は闇夜で踏み切りにはテントが張ってあり、寝ずの番をしていた人たちは、誰も見ていないと証言している。こうした不自然な点を指摘しつつ、被告たちの無罪を訴えるもの。
「真実は勝利する、松川事件」は1952年制作。25分もの。松川事件の第一審判決がおりて、いやがうえにも緊張した社会情勢。松川事件の真実の勝利のために家族たちもまた熱心に訴えつづけた。そして、国の内外から反響があり、国民救済会に支援の波が起こった。
「九年の歳月はかえらない」、は1959年制作。20分もの。
松川事件から九年たった時点で、家族たちの生活のと、「あけない夜はない」と被告たちが獄中から励ます様子が描かれる。仙台高裁二審で一部無罪が出たものの、一審どおりの死刑を含む判決が下りて裁判は大きな山場を迎える。
被告たちが無罪になった人々とともに全員無罪を勝ち取るまで、全国中を訴えつづける家族の姿を描いた。
劇映画「手をつないで」は、1960年制作。50分もの。新藤兼人監督作品。出演は主演が渡辺美佐子。平和な家庭がある日とつぜん、夫が警官につれて行かれる。「すぐに帰ってくるから」、と言ったきり、身に覚えのない逮捕で、列車転覆事件の被告にされ、やがて死刑の判決が出る。鈴木信被告の家族の生活をえがきながら、無実の罪で一家の主人が獄中に隔てられた家族の試練をえがく。支援者や福島の町の人々の協力で家族はこぶ巻きをつくって生活をつないだことは有名だが、その映画化である。
映画の製作にあたっては福島市で全面ロケーションを行った。映画の最後には、うっくつした家族が、明るく生きようとつとめる。
エキストラには福島の労働者が参加し、教育会館を舞台に撮影したという。この会館は占領軍の福島軍政部の本部となった歴史的な建物でもある。
理不尽な裁判、と感じた宇野浩二、広津和郎ら日本を代表する作家らが参画して弁護活動に加わってのちは、全国的注視の中での国民裁判ショー化していった。
新藤兼人監督らもかけつけてマイクをとった。綺羅星のような映画スターたちが出演する映画が制作された。

●福島県ロケ映画を上映

平成12月10月、県文化センターが開館30周年で「うつくしま、ふくしま名画鑑賞会」を郡山市、いわき市、原町市、会津若松市、福島市の県内5ヶ所で開催。
上映されたのは、福島県を舞台としたストーリーでしかもロケーションが行われた30から40年代の作品6本。
「警察物語」「一粒の麦」「裸の太陽」「キクとイサム」「惜春鳥」「こころの山脈」
のちに福島出身の千葉茂樹監督が福島市で自作のマザーテレサのドキュメンタリー映画を上映した時に「一粒の麦」を見たことを伝えると、「私も見たかったなあ」と懐かしがっていた。

12年11月25日、「住民が選択した町の福祉」羽田澄子演出、16ミリカラー129分。サンライフ原町で。上映する会主催。
プリント貸し出し料金は一回上映につき20万円。同日二回上映で30万円。

「マザーテレサとその世界」上映

平成13年3月17日、福島市上町の福島テルサで、千葉茂樹監督の「マザーテレサとその世界」の上映会と講演会が開催。

「徳川慶喜」の高橋幸作が会津で講演

平成13年3月21日、会津若松市観光協会主催によるNHK大河ドラマ「徳川慶喜」のチーフプロデューサー高橋幸作氏の講演会が行われた。
「配役の一人、会津若松市出身の佐藤慶さんは史実にない役で想像上の人物ですが、ドラマの最後まで登場します。つい最近、一緒に飲む機会があったが、彼の酒豪ぶりには負けました。朝の四時まで飲んで私がダウンしたと、五時半からの撮影にも臨んでいた。会津若松の市役所に黒い腕当てして事務の仕事をするところを、彼は赤い腕当てをして勤めていたそうですね。いま七十歳だそうですが、本当にお元気です。」
と、郷土出身の俳優の近況をエピソードをまじえて披露。開場の爆笑を誘っていた。また、歴代の大河ドラマの変遷を紹介しながら、志津が舞台となった「算しまい」「獅子の時代」「独眼竜政宗」などにもふれ、会津の歴史ファンにサービス。
「獅子の時代では菅原文太さんは仙台出身の俳優さんですが、会津藩士の役だった。最後には斗南藩に移るところまでやりましたね。今回は水戸斉昭公の役でしたが、役者さん全体の雰囲気をやわらげてくれる座長的な人物。容保役の畠中洋さんは、山形出身。銃口というドラマに出演した役者で、今回場的した。」
畠中洋は、7月からの「慶喜と容保」展にも参加し、会津観光に一役買った。

●飯坂で活弁つきの無声映画上映 平成13年

2001年11月3日、パルセ飯坂で無声映画の企画。「瞼の母」「チャップリンの消防士」などに楽団付きで現代の女流弁士が活弁を実演、見事なシンクロナイズだった。
かつて平成7年(95)に喜多方風雅堂で活動弁士による無声映画の上映会が行われたときに、うらやましく思ったものだが、こうして実際に見てみると、今では見られない無声映画がこんなにも芸術性の高いものであったのかと驚いた。「瞼の母」は若き日の片岡千恵蔵と山田五十鈴の主演による稲垣浩監督作品。画面の千恵蔵の台詞の口の動きを見ていると、弁士は同じ言葉を喋っており、字幕もそのまま読んで時間的にぴったり符合していたので、ちゃんと台本が別にあることがわかる。音楽もプロが楽譜どおりに演奏して、アドリブはなし。雰囲気作りではなく、全く作品に没入できるような舞台仕掛けであった。なるほどこれは完璧なシステムになっているので、トーキーでなくとも不自由を感じない。弁士の有名無名やうまい下手で客の入りが決まるというのも分かるし、淀川長治氏がサイレントに執着してトーキーになってもサイレントの良さを捨てきれなかったということがうなづける。明治大正時代から昭和初期まで日本人が親しんだ無声映画は、トーキーに駆逐されてしまったが、当時を覚えている人に聞くとトーキーが初めてやってきた時には、「なあんだこんなものか」と思ったほど、それほど活弁は完成度が高かった。これは日本独特の芸の世界である。
当夜は、映画が何より好きだったという中高年世代と、それを送ってきた息子の親子などがつめかけたが、若い世代は僅少だった。
地元の初老の女性客に尋ねるてみると、具体的なストーリーは忘れたが、林長二郎とか入江たか子を覚えており、当時の映画館のあこがれのつまった雰囲気を伝えてくれた。

●矢吹町で「雨ニモマケズ」上映 平成14年
昭和32年に矢吹町でロケ撮影された宮沢賢治の伝記映画を、45年ぶりに地元矢吹町で上映。なんと1500人もの町民が集まった。11月24日の日曜日だというのに、町制30周年記念行事とかで、このコムニティの周密さは驚くほど。ほかの行事がまったく無くて町民全部がここに集まったのかとびっくり。竹橋の国立フィルムセンターで特別に複写したものを上映しエキストラとして出演した町民が舞台上でトークした。雨の中で苦闘する場面が延々と続く。「雨ニモマケズ」の詩は本来のタイトルが「十一月三日」だから、梅雨ではないと思うが、農民の水田をはいつくばるような姿を描くために、梅雨のシーズンを描いたらしい。
上映会は大成功で、好評につき再上映した。

●「CINEMAの時間」創刊
2002年、福島大学の行政社会学部の清水修二と久我和巳が編集するほぼ月刊のミニ映画評論冊子「CINEMAの時間」が創刊された。俎上に上げられたのはおおむね次のような作品と論考。インテリ集団の高尚な内容で、東京や仙台など市外の館で観た新作映画や旧作名画、ビデオ鑑賞や思い出の感想などもあり千差万別。
平成14年(2002)
1)02.10.31.「鬼が来た!」「ロード・トゥ・バーティション」「折り梅」
2)02.11.20.「チョコレート」「パニック・ルーム」「早乙女家の一週間」
3)02.12.10.「たそがれ清兵衛」特集
4)02.12.30.「ロイヤル・デネンバウムズ」「チョムスキー9.11.」予告
平成15年(2003)
5)03.1.30.「追悼深作欣二監督」「雄呂血と活弁」
6)03.2.20.「キネ旬ベストテンに異議あり」
7)03.3.7.「ニューシネマパラダイス」「レクター三部作」「マークスの山」
8)03.3.20.「戦場のピアニスト」「ホワイト・オランダー」
9)03.4.30.「美女と野獣」「荒野の七人」「シカゴ」「アカルイミライ」
10)03.5.20.「濡ラックホール・ダウン」
11)03.6.10.「ハリウッドなんか怖くない」昨年一年間フォーラムで上映された187本のうち半分94本がアメリカ映画と指摘。
12)03.6.25.「二重スパイ」「マトリックス」「ソラリス」「8Mile」
13)03.7.16.「「めぐりあう時間たち」「斬人斬馬剣」
14)03.8.5.「赤西蠣太」論。
15)03.8.21.「アマデウス」「忠治旅日記」「春の惑い」
16)03.9.20.「HERO」
17)03.10.10.「ロボコン」
18)03.12.20.台湾映画「藍色夏恋」
平成16年(2004)
19)04.2.17.「キル・ビル」と「修羅雪姫」
20)04.4.27.「韓国映画についての対話」「関西弁の功徳」「さらば独立愚連隊」「殺人の記憶」「ドッグウィル」
21)04.6.25.「ジェーン・カンピオンの挑戦状」「小津安二郎と黒沢明」「21グラム」
22)04.7.30.「上海家族」「ブラザーフッド」「スパイダーマン2」
23)04.11.17.「スターウォーズ展もう一つの楽しみ方」このころ県立美術館でスターウォーズ展公開中。「ヴェロニカ・ゲリン」論、「誰も知らない」「弱いサムライに出番はないのか」
24)04.12.22.「04年の映画から」山口文彦選ベスト5は①真珠の首飾りの少女②シルミド③アマンドラ!希望の歌④シービスケット⑤インザカット、「2004年・今年見た映画」ヒデパロ選は、オアシス、シルミド、子猫をお願い、がベストスリー。続いてラブ・レター、僕の彼女を紹介します、ほか、名もなきアフリカの地で、飛ぶ教室、グッド・バイ・レーニンなど。邦画では草の乱、隠し剣鬼の爪、笑の大学、美しい夏キリシマ、機関車先生、ハウルの動く城、精霊流し、ホテル・ヴィーナス、赤目四十八瀧心中未遂、この世の外へ。このほか、僕セザール10歳1m39cm、ドッグ・ヴィル、イン・アメリカ、コールド・マウンテン、華氏911、わが故郷の歌。
平成17年(2005)
25)05.3.10.「マルホランド・ドライブ」「東京物語の企画書」「パッチギ!な日々」
26)05. 4.7.「きみに読む物語」「ローレライ」「デジタルで名作は甦るか?」「キム・ギドク論」「トニー滝谷」
27)05.7.6.「追悼岡本喜八」「パッチギ」「北の零年」「草の乱」「岸辺の二人」
現在、休刊中。

朝日座で吉本漫才とシンポジウム

平成15年2月23日、朝日座は久しぶりに活気を呈していた。吉本興行から新進漫才を2組呼んで、お笑いライブ・ショーを昼夜の二部構成で開催。また昭和3年撮影のサイレント映画「原町地方紹介」と原町高校放送部制作の無線塔ビデオ番組を上映した。これは原町市の新時代のシンボルとして利活用できないか歴史的建物として研究され、朝日座の存在価値を見なおそうという機運の高まりを受けて、市のTMO構想推進助成事業として栄町共栄会が主催したイベント。夜の部では「朝日座を考えよう」というテーマでミニ・シンポジウムも行われた。
パネリストとして地元の女性が「映画を見るのは仙台に行けばよい。朝日座をビア・ホールにすれば客も集まる」など発言するなか、福島大学の荒木田岳氏は、朝日座が原町の象徴的存在であることを指摘。ニュールンベルクの例をあげて改造せずに町個性の核にすべき、と発言した。

平成20年8月2日から9月7日まで、南相馬市博物館で、企画展「朝日座の軌跡 地方の映画館が遺したもの」が開催され、朝日座ポスターと旭座時代の芝居の小道具なども展示された。
8月16日には生誕百年を迎えた南相馬市原町区生まれの亀井文夫監督の作品「女一人大地を行く」「日本の悲劇」「生きていてよかった」を上映。
17日は「朝日座の世界」と題する布川雄幸氏の講話と、北大路欣也主演の「葵の暴れん坊」が上映された。

この年、「朝日座を楽しむ会」が発足して、県の補助を受け、シャンソン、万歳、フランス映画上映などのイベントが展開された。

ふくしま映画100年

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