国登録文化財になった南相馬のシンボル

朝日座は、原町の土地の上にではなく、この大正青年の双肩に載っていたといえる。布川雄幸、三代目の経営者にして浜通り相馬双葉地方唯一の映画館の興行師。文化財の保存は、ときに個人の信念と営為によって達成される。これに箔をつけて誇るのは、たいてい政治屋である。そうでなかったら、あの朝日座を潰す結果にはならなかった。閉館のセレモニーにかけつけた200人のあなたがた朝日座ファンたちが、定期的に映画を見ておれば、朝日座は回転し、地域のサロンでありつづけ、町の芸能文化センターでありつづけたのだ。しかし、もう言うまい。文化財として自治体が保存に関与し、学者や政治家たちが、なんだかんだと美辞麗句をならべたてるのであろうが、ぼくが朝日座で過ごし、息詰まるような、この小宇宙から最終脱出できる外部への窓を開放しつづけてくれたトンネルへの入り口こそは、わが青春の活動写真館朝日座であった。思い出だけが美しい。現実には、小便くさい田舎の場末の、芝居小屋兼常設館の、知的なキリスト教徒の二代目の婿さんは、中学生の小遣いを握り締めて「パンフレットがあったら、下さい」と声をかけた、あの日の幻が、いまのボクを形成してる。若い、地方の文化人を自認するかれ布川雄幸氏は、ぼくの父親と同年齢ではあったが、先輩として可愛がってくれた。都会で評判になった映画を、客が少なくとも生きがいとして上映しつづけ、きょうは、見てゆけよ、感想を聞かしてくれ、と言った。何度かは、新地町から浪江町まで、いわゆる相馬地方の津々浦々の学校の校門でビラを配り、看板を立てるアルバイトにも同行した。上映スケジュール票に写真をレイアウトする小遣いさせてもくれた。朝日座、ぼくを育ててくれた学校は、原町2中でも原町高校でもなかった。映画館朝日座だった。

風俗産業に籍をおく興行、映画館は、いまも風俗営業の分野にあり、環境衛生という行政の括りで管轄されるサービス業態である。
布川家は、芸妓置屋丸川という斡旋業者、兼興行者の家業である。地元の親分と呼ばれる任侠の世界に生きるアンダーグランド社会とも接点を持ち、中央の芸能資本との下請け関係のような配給会社との関係もある。
このような昔ながらの業態の映画館に、二代目、三代目に、いわゆるお堅い商売であったサラリーマンから転身した婿を迎えて、堅実・健全な経営によって、庶民的で文化的なラインをクリアーし続けたことが、芝居小屋兼映画館朝日座が存続し、90年も継続した鍵だった。

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