原町無線塔、朝日座など福島県南相馬市原町区(旧原町市)の文献を公開

98朝日座館主布川雄幸さんを悼む

朝日座館主布川雄幸さんを悼む

 南相馬市の国の登録文化財、芝居小屋兼映画館「朝日座」の館主布川雄さんが7日亡くなられた。
 朝日座は、大正12年7月2日に開館。12名の旦那衆による組合経営の初代支配人は布川実。戦後、組合から布川家に譲渡され、二代目義雄、三代目の雄幸と経営され、平成3年に閉館した。特に雄幸氏の手で理想的状態で映画館として保存されてきた。
 朝日座を愛する市民グループと行政の協力で市と県の補助を受け、改修されてきた。調査の結果、芝居小屋時代の原型を保っていることが判明し、2015年浜通りで第一号の近代建築として国・文化庁の登録文化財として認定された。
 布川さんとは2003年には「朝日座全記録」を共同出版。昭和32年以降、閉館までのすべての上映映画を記録してきたメモをもとに70歳を越してから独学でパソコン操作を学び、データを入力。。
 氏は原町市憲法を守る会の事務局、朝日ジャーナル友の会などの事務局を担当し昭和40年代に初めて原町市で全戸に「日本国憲法」の冊子を配布する事業を実現させた原動力となった。91歳。

90歳を越えて雄幸氏が家の中で、あるいは外に出て転倒して市立病院に入院したあたりから、肉体的衰えが進み、できるだけ訪問回数を増やすようになった。比較的元気な和子夫人から事情を聞くことが多くなった。くわえて2015年の終戦70年で特攻隊員を下宿させたエピソードや。いままで聞いてこなかった和子夫人の出生と、佐藤と言う石神の父が布川実の養子に出したのが2歳のときのだったことや、晩年を飯坂温泉で暮らした父の死の前後に飯坂に訪ねたことなどのライフ・イベントについても聞き出した。布川実の娘キミに朝日座二代目の義雄が入籍し雄幸が石神の渡辺滝蔵から和子の婿に入籍した。

朝日座おめでとさん祝会にも参加          楽しむ会の支持者に囲まれた布川さん

102年の本宮(映画)劇場も、伊達郡梁川の広瀬座も、原町の朝日座も、映画愛で映画館を守り通して90年以上100年以上の風雪に耐えた建築を守り通して、ついに近代文化財になった。すべて民間の情熱が遺したものです。いま行政さえ、その努力のおかげで町の誇りとして胸を張る時代。
2017.7.16、民友

エピローグ 朝日座は死なず

 布川氏は60周年にあたって、その記念誌の「あとがき」で、
「初代布川実は旭座(旧称)の設立の加わり、経営には傍役でしたが、仮設興行と称して、夏・秋の町祭りには衆楽園(現・原町シネマの地)にサーカス小屋を並べ、大日本相撲協会の部屋巡業の勧進元をやり、義理人情に生きて世を去りました。二代目、義雄キミ子は太平洋戦争で大衆娯楽の跡絶えた結果、廃れたままの小屋を譲り受け、朝日座と改め、映画の戦後復興の時代に全精力を傾けながら、先代からの仮設興行も昭和30年代半ばまで兼ね、東映・大映系の大衆路線映画に徹して激動を乗り切りました。その間小生はサラリーマンから興行界へ足を踏み入れることにはためらいもあったが、映画への愛着によってどうにか今日までの朝日座を続けることができました。これが「われらが興行師三代」の姿です。」
 と、しるしている。
 その10年前の朝日新聞のインタビューを受けて、理想と現実のはざまで悩みながらも、「映画館主は、さしずめ文化の媒体だ。興行主とは違う」と、記者は書いた。しかしそれは記者の表現ではなく、布川氏の気迫が記者にそう書かせたのであった。地方文化の旗手たらんとする自説がそこにはあった。
 10年後の同じ人物は「これがわれら興行師三代の姿」と言いきっている。単なる理想論ではなく、困難な状況の中でいかに理想を曲げずに苦悩しつつも大衆娯楽の提供に徹しようとの役割を、決意のこもった言葉で自らを「興行師」と規定し引き受けたのだと思う。
 興行師、という言葉に、ただ金儲けに走るだけの商売人ではなく、自分のビジョンが時にはリスクを抱えて、余人に知れぬ孤独をみずからの宿命として受け止めるというロマンを、自分の旗にしたのだ。
 そしてまた10年後の70周年を迎えて、私は興行師の聞き役として彼の言葉を聞いた。ジャンパーに登山帽を被って木枯らし吹く町の闇に溶け込んでゆく後姿は、健さんのように、シェーンのようにカッコよく見えた。
 「生れ変わっても朝日座を守る」
 と彼は言った。もはや、興行師は時代を越えて生きてきた「朝日座」に擬人法以上に人格をみとめ、その文化的人格に命を捧げ、殉ずる覚悟と姿勢である。いやはや。
 かくて私は書いた。朝日座は、この大正青年の双肩の上に存在したのだ、と。いまや存在せぬと思われた朝日座は、彼の魂の中に生きている。そして、わたしの、あなたの思い出の中にも・・・・。
 平成14年11月11日に、朝日座の映写技師だった薄葉実さんが逝去された。薄葉さんは50年記念誌に、映写室の暗がりと人生の陰影を絶妙なタッチでエッセイに残している。東京で人形師の修行をしていた人物で、手先の器用さは映写技師となって遺憾なく発揮された。朝日座で扱うフィルムは点検の必要のないほどだった、と配給会社に定評があった。その信用のおかげで、原町市は地方の小都市として珍しく、お蔵入りする希少な芸術映画の貸し出しが特別に許可されていた。我々は知らないところで、奇特な映画館主と器用な指先を持つ映写技師のおかげで、東京でしか上映されない有名監督のギリシャ、イタリア、ユーゴ映画などを見る恩恵に浴した。これまで朝日座を支えてきたすべての関係者に感謝したい。すべての朝日座ファンとともに。
 特に布川雄幸氏は、この2年間、パソコン操作を独習で修得(ワード)。みずから選択して上映した昭和31年以降のすべての朝日座上映作品のデータベースを入力し、この秋に興行記録も完成させた。出版の意向をお聞きしたので、同時にわたしも朝日座物語を出版することを申し出て、筐底から(といっても富士通ワープロOASYS 100Gのハードディスクの中から)朝日座に関する稿本をひっぱり出してマックに移植。OCRでスキャンしたので誤植探しが大変だったがこれをワードに変換。校正では佐藤邦雄氏、ヒロ子ご夫妻のお世話になった。
 東京の立派な映画評論家の映画史の本なら沢山ある。しかし私は私の町の映画館の歴史を語りたいのだ。映画の歴史は偉大な監督や煌くスターだけが作るのではない。むしろ名も無き庶民が百年間にわたって小銭を投じて育てつづけたのだ。平凡な東北の町の娯楽の殿堂朝日座は、庶民の哀歓を映し続けた映画史のターミナルだった。私にとっての青春の教室。情操のカンガルーの袋。そしてすべての原町人の幼児期最初の映像を銀幕に映した揺籃であった。朝日座80年の誕生を祝って、同じ世代の喜寿を迎えられた布川雄幸氏と和子夫人に、まごころをこめて本稿を捧げます。(二上)「朝日座全記録」序文 2003年

昭和23年 原町教会青年会雑誌HHG
クリスマスを称ふ 雄幸
○いくさやみ 三度迎へぬ クリスマス
○ベツレヘム そのかみの星 今もなほ みそらに高く きらめかん
○クリスマス 平和の鐘よ 高らかに 世界の果迄響かん○
○教会の十字架高く星空にめでたき調べ窓にあふれて

試練の光栄 渡辺雄幸
 九月二十四日、私はゆるされそして神の子とせられ 只喜びと感謝にみたされて新しき生命に歩み出した此の日を生涯忘れる事が出来ないであろう。
 私はそれ以来常にペテロ前書四・12-14を拝読致して居ります
「愛する者よ 汝ら試みんとて来れる火の如き試練を異なる事として惜しまず反ってキリストの苦難にあずかればあづかる程喜べ、なんぢら彼の光栄のあらはれん時にも喜びたのしまん為也 もし汝らキリストの名のため謗られなは幸福なり 栄光の御雲すなはち神の御霊なんぢの上に留まり給へばなり」
 クリスチャンの生活は苦難と試練の生活である けれども苦難より反って光栄が来るのだから悲観してはならない。
 苦しみが天の御国の入り口であると ペテロは書かれました。本当に正しき者は今も相変わらず苦しみを受けて居ります けれども私達はクリスチャンです、世なのです。常に感謝し「我々に豪胆なる意志をあたへ凡てが十字架に従ひ迫害を充分担ひ得るものとして育て上げて下さい」と祈らずには居られません。
 われらこそ十字架の つわものなれ
  いかでか恥ずべきイエスの御名を(386番)

 布川雄幸は、石神の渡辺滝蔵の息子として誕生。相馬農業学校を卒業して、海軍へ。呉で訓練を積み、戦艦長門に乗り組み、横須賀の鎮守府で潜水艦乗りに転じた。「わたしは特攻要員だったんですよ」、あと半年戦争が続いたら、震洋、伏龍などの終戦間際の特攻兵器で命を捨てたかも知れなかった。戦後、宮城県農業試験場の技師になったが、映画好きが昂じて給料のほとんどを名作に費やした。朝日座の経営者に気に入られて、跡継ぎの和子さんの婿になって、朝日座の後継者に。こんにちの国登録文化財指定まで、歴史的建造物として守り通してきた。原町および相馬地方で唯一の映画館芝居小屋が残ったのは彼の功績である。
健さん映画と青春の朝日座よ永遠なれ

 かつて東映映画の常設館であった南相馬市の原町朝日座が国の指定文化財になって一年。  網走番外地や唐獅子牡丹などで一世を風靡した高倉健さんの雄姿も、この銀幕で上映された。テレビ出現前の戦後黄金期に地方最大の税収だった映画興行税は十割。入場料と同額の税金を支払って、庶民は唯一の娯楽の殿堂で貧しい日常から逃れたが、輝くような青春があった。
 高倉健は高度経済成長の時代の、日本人が置き忘れた伝統美と、忍耐と献身を体現するスターだった。
 1958年には最大188館が県下に存在した。時に文化財は、個人の営為と信念で保存される。
 梁川町から福島市民家園に移築された広瀬座が荒川家によって、本宮市の本宮劇場も有志の手で百周年を迎えたように、朝日座は南相馬の株主たちが組合立で創建し、布川実、義雄、雄幸の三代館主が90年間守り通して残った。
 名優は世を去ったが、田舎の映画館の思い出は青春とともに永遠である。
 大正の近代建築として映画館も文化財と認められ、これを残した民間の努力と情熱があらためて再評価される。
布川和子さんの話
 実の父親という人は、飯舘で生まれ、石神に来て(蚕の)糸取りをしていた。(養蚕家だった)佐藤〇之助といった。二歳の時に再婚し、私は布川家に幼女に入った。十二才の時に、飯坂で死んだ。葬儀に行った記憶がある。キミと義雄は、同棲していた。
 原町飛行場から出撃していった特攻隊員たちから遺書がわりに出した最後の手紙に、謝辞を述べて当てたホストファミリーの家の名前の中に、丸川という名も出てくる。朝日座の興行師で、芸妓置屋の布川実の娘きみ夫妻の家だ。
 午後から布川和子さんにインタビューしに行った。
 御主人の雄幸さんが、朝日座社長として興行の仕事を一手に仕切っていたが、考えれば和子さんが跡継ぎ娘なので、布川家の歴史は全般部分について和子さんにかかわる家族史である。要所要所で夫がコメントを加えるカッコウだったが、本日は和子さんを中心に仕事をさせてもらった。自分の家庭のように若いときから出入りしていた私にとって、いよいよ集大成の時期に入った。

朝日座わが青春の活動写真館

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