○逃亡兵逃走事件
 渡辺寅雄の回想。「二十年四月下旬、原町蹄鉄工所に不審な兵隊がいる、との通報で非常線を張り、原町駅で乗り込むところを逮捕、拘留して取り調べた」。
 訊問では「いわき生まれで親に勘当された」と涙ながらに訴えていたが、うその証言で、実際には本宮の小学校からの逃亡兵だった。(当時の学校校舎は伝部隊の兵員宿舎に使用された)
 五月初旬、逃亡兵を拘留していたところ、ある朝、監視の補助憲兵が便所掃除のため、戸外に連れ出した折に逃走されるという事件が起きた。すぐに追跡したものの見失った。隊内にいた補助憲兵が班長に報告。ただちに追跡捜査したが発見できなかった。
 監視勤務の渡辺憲兵が班長に報告。ただちに捜査班を編成し、青田材木店の飼い犬シェパードを借りて逃亡兵の残置した私物の匂いを嗅がせて追跡させたが、近所の新築の建物床下に犬が潜り込もうとするので、急ぐ班長は綱を牽いて先に進んだ。ところが、後に自白したところでは逃亡兵はまさにこの床下に潜んでいたという。
 町内に情報がないので、川内村まで行ったが手がかりがなく、翌日になって高平村に不審な兵隊が馬耕を手伝っているとの通報あり、渡辺幸太郎憲兵以下数名が急行して逮捕した。留置場に正座させたという。取調べで自分の姓名を「山川春吉」と名乗っていたが、班長が入室してからじっと睨み付けてから大声で「山田利徳」と呼ぶと、反射的に「ハイ!」と返事して脱走を認めた。「茂庭小僧」と当時仇名のあった常習犯であった。
 最初に不審人物の通報をしたのは高平村の在郷軍人分会長である。二度目に、蹄鉄屋にいるという通報も同人物。さらに留置場から脱走した後に、高平村の農家で手伝いをしていると通報してくれたのも同人物だった。
 渡辺幸太郎の回想。「その夜、私と古山君と他に五六人位で逮捕に向いました。最初、高平村の駐在所の巡査に頼んでその農家に案内してもらい、本人が寝ていたのを本人を起してもらって、出てきた所を古山君がいきなり「貴様ッ」と殴りつけました。私もこの件では神経を尖らせていたので一発殴りました。どちらかのパンチで鼻血が出て、白いシャツが血で汚れました。分隊を出る時、分隊長殿が「荒縄で縛って来い」との事でしたので、分隊を挙げて頭に来ていましたから、私もつい殴るような事になったのだと思います。
 帰隊しましたら、分隊の入り口で八木原さんがまた一発喰らわせました。分隊に入ったら、分隊長殿がシャツの血を見て「ちょっとやり過ぎたな」と言われました。
 ○多かった朝鮮人逃亡兵捜査
 渡辺幸太郎や斉藤雄一の回想によると、逃亡兵の捜査は日常茶飯事であったらしい。特に朝鮮人青年が多かった。
 阿部喆哉も「米軍の上陸に備え、海岸防備のために陣地構築に狩り出されたのは朝鮮人青年が多かった」と証言している。
 遠藤泰一の回想。「朝鮮人の問題で常磐炭鉱に出張した。徴用工員の逃亡で富岡警察署に出向したことがあります」
 渡辺幸太郎の回想 「ある時、常磐炭鉱好間鉱で朝鮮人労務者が暴動を起しそうだとの事で、濁沼軍曹と共に実弾を渡され現地に行った事や、帰路江名港に寄り、敵機の漁船に対する銃撃等の状況調査をして来た。
 信州小諸出身の逃亡兵で、亜炭の鉱山等に紛れ込んでいた兵隊の父親が学校の校長で、分隊に挨拶に来た時は、この父親が気の毒だった」
 逃亡兵といえば小林君と二人で、隊近くの民家に泊まりこんでいた逃亡兵を取り押さえに言ったことも忘れられません。
 それと小高町辺りだったかに海軍の兵長で逃亡して来た柔道場の息子で柔道二段の猛者を逮捕に行ったり、朝鮮人の兵士で逃亡したのを、川内村の山中に小林君と夜通し追跡した事を思い出します。夜の森からの行動が不明でやむなく帰隊し、後日何らかの情報により分隊に留置する事となり、この二人の逃亡兵を取り調べましたが言葉が分からず、憲兵補の清宮時政君に通訳してもらい取り調べしたことを思い出します。
 注。清宮というのは、朝鮮出身の補助憲兵で、朝鮮語通訳を行った。
 斎藤雄一の回想。「朝鮮人の兵隊が逃亡しましたので、その捜索願いがあり、命を受け分隊から二名、平分遣隊から二名出しまして広野駅集合、その部隊に行き説明を聞き、二班に分かれ、私たち二人は駅の奥に入り地図を頼りに折木温泉経由、夕方久の浜に出ましたが、今日の結果報告と今後の事を分隊に連絡しました所、帰るようにとの事。夜十時頃帰隊しました。その時は逮捕できませんでしたが、後日二名の逮捕がありました。」
 阿部喆哉の回想。「海岸近くの松林の中には本土決戦に備えて盛んに陣地構築が行われているとの事であったが、その作業をしたのは、ほとんど朝鮮から来た若い人たちであった。
 苛烈なる作業と食料の不足に耐えられず、時折逃げ出す者もあり、そのつど分隊に通報されて我々も捜索に行き、富岡より山林に入り、龍田の山から遠くは都路あたりまで探しに出向いたが、大抵は無駄であった。それでもたまに逮捕したものもいた。この逮捕した者の取調べは同じ朝鮮から来て分隊に配属になっていた清宮という憲兵補で日本の大学を卒業した好青年であった。しかし一旦取り調べが始まるとその厳しさは部屋の外で聞いていても物凄かった。平常は我々と親しく話も交わしてくれたのであったが、八月十五日の終戦と同時に分隊から立ち去ってしまった。

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