○郡山空襲の警備応援に派遣
 四月十二日、郡山も空襲され、こちらへも阿部喆哉隊員ら数名が派遣された。分隊からは自転車二台を持って出かけたが、平駅で乗り換えのところ郡山駅までの区間が空襲で不通のためタクシーに自転車を積み込んで郡山に向った。到着した先は清水台のキリスト教会で、空襲で犠牲になった兵士が寝かされていた。
 原町でも空襲警報が鳴って、伊藤増男隊員は「原町分隊は四月から五月の短期間しかいなかったが、ただ一つ覚えているのは、郡山にB29の爆撃があった時、岡分隊長の命令で、留置人を連れて防空壕に入ったことです」という。

仙台俘虜収容所
 1945年4月14日、東北地方を管轄する東北軍管区の創設に伴い、仙台俘虜収容所が開設され、東京俘虜収容所や函館俘虜収容所に所属していた分所の一部も吸収した。
 所長は北原利一中佐。
 戦時捕虜収容所
 本所
 1945年4月14日、仙台市土橋通58に開設。7月、岩手県和賀郡黒沢尻町(現・北上市)に移転。捕虜は収容せず、本部事務所のみ。
 湯本分所
 1943年4月15日、東京俘虜収容所第6分所として、福島県磐城郡湯本町水野谷(現・いわき市常磐水野谷町)に開設。8月1日、第4派遣所と改称。45年4月14日、仙台俘虜収容所に移管、第1分所となる。
 使役企業は常磐炭鉱鹿島鉱業所。
終戦時収容人員567人(英232、加198、蘭135、米2)、収容中の死者32人。
好間分所
 1944年3月30日、東京俘虜収容所第14派遣所として、福島県磐城郡好間村(現・いわき市好間町)上好間に開設。45年4月14日、仙台俘虜収容所に移管、第2分所となる。
使役企業は古河鉱業好間鉱業所。
 終戦時収容人員246人(英101、ポルトガル67、加46、米17、他15)、収容中の死者8人。
 ○原町憲兵分隊最大の事件
 阿部喆哉の回想。「配属になってから初めての大事件が起きた。陣地構築隊(「伝」郷土部隊)の兵隊が逃亡し、逮捕されて分隊に留置中に、再び脱走しました」
 渡辺幸太郎の回想。「山田利徳なる逃亡兵が、分隊長の取調べにもかかわらず虚偽の陳述をなして、山川春吉等と称し、インチキ名刺を原町印刷所で作製し、伝○○部隊・陸軍上等兵・馬匹係長等の肩書きを付け、二等兵にもかかわらず階級章を黄色の糸で上等兵まがいののものにして農家を回り歩いて徴発馬の検査らしき事をしていた大胆な奴でした。この山田が留置場から逃亡し、隊を挙げて大変な思いをしたことが忘れられません。当時関係したのが補助憲兵でしたが、監視の責任者である私だったのですから、あの時は本当に弱りました。班長殿が騒ぎに気付き、早速来隊され、事の責任者である私はお叱りを受けたものでした」