原町無線塔、朝日座など福島県南相馬市原町区(旧原町市)の文献を公開

s21 補記 憲兵の旧悪

 補記
 昭和二十年十一月二十四日福島民報によれば原町憲兵分隊は二十五日より原町保健所に払下げになった。
憲兵残党の旧悪  昭和二十一年三月五日民報
 権力偽って強奪 元憲兵五名が悪事の数々
元憲兵分隊分遣隊曹長(編注・四名実名と年齢列挙)等は二月八日以来、平市才槌小路に日本商業社と看板を掲げ、ここを根城に県下各地の民家押入り、憲兵の名のもとに相馬郡熊町村双葉郡新山町等からガソリン、アルコール、飛行隊用部品等を強奪した、志賀等は二月八日以来熊町村の高松忠男ほか五軒を捜索、飛行機用ゴムタイヤ五本その他を強奪、長塚村田中満太郎ほか一軒に押入ったほか熊町村根本明義方よりガソリン入ドラム缶二本、アルコール二升を強奪、新山町の・・・・・次郎方から現金六千余円の貯金通帳を窃取、三日平署に検挙されたが、家には刀剣、小銃等隠匿してゐた、彼等はあらゆる角度から警察・に対して攻撃を加えへ・・・してゐたもので余罪追求中である
 注。才槌小路というのは、憲兵隊の分遣隊分駐所の所在地。原町から昭和廿年中に人員が派遣され新設された。
 昭和二十二年十一月二十八日付官報による「公職追放令」が社会党政権の内閣総理大臣片山哲によって発せられ、同二十六年十月三十一日付での五年間の公職追放解除の公示が同年十一月十七日官報に掲載されている。
 ○憲兵の服装について
 終戦後に補助憲兵となった松井政男は、阿部班長から服装を丹精にせよ、外出時は正装で威儀を正せ、といわれたことを強烈に覚えている。
 地元飯舘出身の松井には、隣町の原町には親戚がいた。従兄を訪問すると、居留守を決めこんでいた。従兄の言うには、
 「何だ政雄、ビックリしたよ。憲兵がおら家に来るなんて何か悪い事でも見つかったのかと思ってつんぼのふりをして黙っていたんだ。まったく脅かしやがって、この野郎。人に見られると都合悪いから、上着を脱げよ。憲兵が着ていたとなると俺の立場がない」と説明したという。
 一般住民の平均的な憲兵に対する恐怖心とを言い表していよう。
 また阿部班長自身と夫人の回想に「マッカーサーが日本憲兵の姿に畏怖した」「凛凛しい姿」等、憲兵の軍装に信仰的な帰属感情を持った憲兵たち自身の意識と、自己愛の深い感情とが横溢している。
 阿部分隊長夫人の回想にも「あの頃は皆様は輝くように若くて軍服がよく似合い凛々しくて、今で言う格好良く見えたものでした。朝礼の声、体操する声、人を呼ぶ大きい声、馬のいななき等思い出は途切れながら脳裏に浮かびます。」と、青春への懐旧を記している。
 ○編纂を終えて 憲兵の特権意識について
 この稿には天皇制、軍国主義にも、まったく疑問や批判の私見を加えずに、戦友会という親睦団体が懐旧と親睦の根底にある人々の回想、手記、インタビューをもとに、当時は一般民衆に見えなかった原町憲兵分隊という軍の最下部の機関の沿革を時系列に沿ってまとめたものであるので、当時の感情、印象、本人たちの価値観、思想のまま引用されている。戦争や体制に対する是認も自画自賛も話者本人のもので編者の意図ではない。当時の空気を受け止めて、できるだけ加工せずに事実を後世に残すための記録作業と考えている。
 濁沼氏の「警察署長を出頭させて説諭」には、警察以上の権限を匂わせた印象がある。軍と警察とは、昔から犬猿の仲だった。警察の側からの歴史記述なら、おそらく正反対の書き方になるだろう。
 高野寅男氏は、下士官の軍装であっても将校と間違われた体験を、こそばゆい感情であっても小気味よい世間からの敬意を楽しんだことを正直に告白して民間人に対する優越意識を滲ませている。阿部喆哉の回想にもあるとおり下級の補助憲兵の感情にはあっけらからんとした庶民的な空気が強く、特に敗戦と知って憲兵の規律がゆるんでゆく様子は、むしろ人間くさく正直に語られている。終戦の翌日に、原町憲兵分隊の道場で、(飛行隊から勝手に頂戴して)豊富な食糧を調理して食べ、航空燃料用のアルコールを酒盛りをする場面がある。いささかのためらいもなく、当然の権利のような意識だった印象さえある。罪悪感はなかったであろう。
 阿部班長は統率と治安維持担当者の責任感から米軍到着を待って処置したが、復員にあたって郷土部隊から毛布や食糧の供与を受けたことを記述している。一般住民の物資困窮に比較して、軍である伝部隊には実に豊富な物資が備蓄されていたことが分かる。弾薬も鉄砲もなく、蛸壺と呼ばれた塹壕掘り作業で明け暮れた部隊だったが、いちおう師団として最後に誕生した軍である。これまで漠然と語られた終戦間際の偽兵隊の逸話の実話も扱われている。青田材木店で飼っていたシェパード犬を借りて逃亡兵を捜索した話などは、当事者は史上最大の危機だったらしいが可笑しくもユーモラスである。
 終戦前の原町憲兵分隊の仕事の多くが、伝部隊の朝鮮人兵士の逃亡などの捜索に費やされたことも興味深い。通訳を担当した朝鮮半島出身者で日本の大学を卒業した青年が、終戦を境に忽然と姿を消した事実にかつての同僚たちはあまり関心を払わないが、その心情たるや複雑なものであったことだろう。
 日ごろの航空隊員の優越感とは裏腹に飛行隊員たちが、終戦の放送を聞いて直後すぐに、正規の手続きをすることもないまま軍需物資を掠めていち早く勝手に職場を離脱して行った様子は注目に値する。飛行場の関係者からは決して語られない秘話が、当たり前の事実だった。
 大東亜共栄圏、日本民族の優秀性、万世一系の天皇を頂く特別の使命といったプロパガンダの一方で、大日本帝国のモラルハザードは、内側から腐敗していたようにも感じられる。
 もともと補助憲兵のほとんどは、終戦間際の昭和二十年以降に、年配の補充兵や郷土部隊の伝部隊から転用された庶民出身の人間が多かった。原町が憲兵で溢れたのは、実はむしろ終戦後の8月28日以降である。国家の権威を背景にしていた治安組織の弛緩や反政府的な国民の反発を警戒した、予備的な対応だったろう。

 漢数字は、時系列で追った記述や当時の関係者の回想などの引用で、現時点からの歴史俯瞰としての記述にはアラビア数字や西洋暦を、編者の便宜上混在させてある。
 本稿の編纂執筆は、2011年3月11日の東日本震災の発生時にほぼ脱稿していたものの、発表するいとまなく筐底に眠っていたものだが、すでに満四年がたち、終戦70周年を迎えるに至った。区切りをつけて、研究家と市民のご高覧に供したい。
 かつて、1996年に「原町憲兵隊秘話」と題して雑誌「月刊政経東北」の「ふくしま意外史」に掲載した文中に、誤りがあったので改訂しておく。次の箇所である。
 注・須賀川市史に描かれた二機の撃墜機と二人の戦死パイロットは、蛍飛行団のグラマンであろう。また須賀川市内に墜落したのはコルセア機らしい。
 20014年夏には、須賀川在住の矢吹陸軍飛行場研究家である高橋紀子さんのご案内をいただき、須賀川市に墜落した英軍艦載機パイロットの追跡調査を行った結果、くだんの機種が英国海軍艦載機のファイヤフライという機種であることが判明した。これを引用した「元原町憲兵分隊憶い出集」168頁の箇所も、訂正しておく。

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