原町無線塔、朝日座など福島県南相馬市原町区(旧原町市)の文献を公開

黄金伝説と東北

黄金伝説と東北
 マルコ・ポーロの「黄金郷ジパング」は奥州平泉中尊寺のことだ

アカプルコの夜明け
 二年前に日系移民の取材で北南米を訪問した。その途中、飛行機は給油のためメキシコ空港へ降りるはずであった。南米大陸は夏の真っ盛りであり。私の帰り支度はショートパンツにTシャツという軽装のいでたちで、それでも暑い程であった。ロサンゼルスで飛行機を乗り換えるので、そこで着替えるつもりでいた。
 ところが、かんじんのメキシコ空港は世界でも類例のないほどの高地にある首都メキシコシテイーの郊外にあり、大気は希薄で、夏でも夜間は寒いことを失念していた。
 しかも高地の飛行場の例にもれず、しばしば霧がかかる。ブエノスアイレスを夜八時に出発し、チリのサンチャゴとペルーのリマに寄ったのは夜間であり、緯度と経度の上を、地上的時間を無視して飛ぶ飛行機にとっては、今何時だろうか、という素朴な疑問は意味をなさない。
 機内放送で機長が何かをアナウンスしているがスペイン語訛りの強い英語だということが聞き取れるだけで、あとは分からない。いくつかの数字が続くので、到着時間だと判る。
 機内の警告灯が灯され、乗客がシートベルトを付け始める。覚えたてのスペイン語の片言で隣の乗客に聞いてみる。
 「ケ・オーラ?」(今何時だい?)
 「ドウス」(二時だよ)
 真夜中の午前二時。いくら何でも早すぎる。メキシコ空港到着は朝だと思っていたが、外は真っ暗だ。
 隣席の客は、四歳の女児を連れた若い夫婦で、父親はウルグアイ人、母親はメキシコ人で、合衆国のカリフォルニアに住んでいるという。子供がアメリカ生まれなのでアメリカ国籍だ。
 「グッド・ミキシング(ちょうどいい混ざり具合だよ)」
 と父親はウインクしてみせた。
 旅は道ずれ。ロサンゼルスまでは長いので世話話した。つたない英語で短い旅の感想を話した。向こうはいろいろと日本のことを質問したりする。
 雑談にも飽きてきたので、
 「ここはメヒコ(空港)か」
 と聞いてみた。
 「いや。アカプルコ空港だ。メキシコ空港が高地で霧のため視界が良くないらしい。それで手前のアカプルコで待機しているんだ」
 予定外の場所ではあったが、急に好奇心がふくれあがった。
 アカプルコ。アメリカやヨーロッパの金持ち連中たちが、のんびり遊びに来る観光地で、自然の景観も美しく良港にも恵まれている。
 そんな楽しみには全く縁のない身の上ではあるが、天候のいたずらによって足止めされている。

支倉常長の軌跡
 イライラしはじめて待つ時間は長く、浅く短い眠りを繰り返しては目覚めてしまう。まるで不愉快な物質がまぶたの裏や四肢の筋肉にゆきわたってゆくようだ。
 出発のサインが出たのは、ちょうど窓の外がほの明るくなって暁の頃合いにさしかかってのこと。
 闇の底の滑走路から一気に空に身体がもち挙げられる感覚をシートに沈んだまま味わいながら、この北南米旅行の間で最も美しい光景に出会ったのである。
 メキシコ空港の霧は、まるで我々の飛行機を、この荘厳な眺めを目撃させるために時間を定めてかっきりと遅らせたかのようだった。
 アカプルコの夜明けのさまを、我々は空中から見た。いや、目を覚ましていた乗客だけが、神秘的なほどの朝を見たのである。
 見ていた私の頭蓋骨が、美しさの感動でしびれた。私は口を開けたまま髪の毛が逆立って、総身の毛穴が開いているのを感じた。
 歴史の軸の何本かが組み合って頭の中に黄金のピラミッドの幻影が、たちまちのうちに完成してゆく思いであった。
 アカプルコ……支倉常長……残された仙台の武士たち……キリシタン禁制……といったキイ・ワードが、その頂点や底辺で輝いている。
 そんな幻想が、頭の中でチラチラしながら浮かんだ。
 支倉常長が伊達政宗の命によってヨーロッパ目ざして東北を出発したのは十七世紀のことである。壮大な東西の交流のために準備された礎石をたどってゆくと、意外にも黄金と東北という要素がそこに秘められている。
 アカプルコの夜明けの燦然たるさまは歴史の謎と秘密を、みずから解き明かす啓示のごとき光景であった。
 入り組んだ多島海の鏡のような海面にその朝生まれたばかりの光が、新鮮なまぶしさで旅行者の目を射た時に、私の思いの中には、「世界史の中の日本」という意識がふくれあがっていた。
 アカプルコは、メキシコ南部太平洋岸ゲレロ州の港町で、北米太平洋岸では最古の港だ。一五五〇年にスペイン人たちの手で開かれ、植民地時代はフィリピンへの出発点だった。首都メキシコ・シテイーからは南南東一九六キロの位置にある。天然の良港であり最近はサンフランシスコとパナマを結ぶ汽船の寄港地で、観光地として有名だが、江戸初期の日本からの使者田中勝助や、慶長の支倉常長が上陸した地点として知られる。

「東方見聞録」の黄金の国
 支倉常長は言うまでもなく、東北に覇をとなえて一大独立王国を築いた伊達政宗が慶長十八年(一六一三年)直接遣欧使節を送った。その使者であり、帰国した時には日本の幕府は鎖国政策を断行していたため、悲運の家臣となった。
 常長はローマに赴いて教皇パウルス五世と会見し、スペインとの通商を願い出ることには成功したが、肝心のスペイン国王フェリペ三世とも会見したものの、貿易と通商は拒絶された。
 明和六年(一六二〇年)には失意のうちに帰国し、翌々年に没している。
 しかし例え、伊達政宗がの遠大な企てが実現しなかったとしても、彼がなげかけた行為は歴史の中にありえた数多くの可能性の選択肢の一つとして、現代の東北にある我々を鼓舞する。
 世界史の中においてヨーロッパに初めて日本をジパング・あるいはチパンぐという名で紹介したのはマルコ・ポーロの「東方見聞録」であえう。
 十三世紀に発表された著作としては破格の正確な地理書といってよいこの画期的な紀行文は、実際にマルコ・ポーロが踏破し、また遠征に参加した実見と、各地で耳にした風聞による伝聞の紹介から成っているが、日本紹介は後者に属する。
 しかし大方の日本人は、マルコポ-ロが聞いた黄金の国ジパングの噂は、単なる中国人の間のホラ話か、夢のような伝説として片付けている。
 まず、日本が紹介されているその部分を実際に抜き出してみよう。
 「ジパングは東海にある大きな島で大陸から二千四百キロの距離にある。住民は色が白く、文化的で、物資にめぐまれている。偶像を崇拝し、どこにも属せず、独立している。黄金は無尽蔵にあるが、国王は輸出を禁じている。しかも大陸から非常に遠いので、商人もこの国をあまりおとずれず、そのため黄金が想像できぬほど豊富なのだ。
 この島の支配者の豪華な宮殿についてのべよう。ヨーロッパの教会堂の屋根が鉛でふかれているように、宮殿の屋根はすべて黄金で葺かれており、その価格はとても評価できない。宮殿内の道路や部屋の床は、板石のように、四センチの厚さの純金の板をしきつめている。窓さえ黄金でできているのだから、この宮殿の豪華さは、まったく想像の範囲を越えているのだ」(「東方見聞録」より)
 黄金の国ジパングはこうしてヨーロッパ人の憧れの的となった。やがてスペイン・ポルトガルが大航海時代輝かしいも十五世紀を迎えた時、文字通り一攫千金を夢見た海賊まがいの船乗りたちにとって、黄金とスパイスのありかは東方であり、南方であった。
 彼らの頭には、つねに黄金光輝くジパング島が浮かんでいたのだ。
 さて、コロンブスはどうであったかといえば、彼は今でこそアメリカ大陸の発見者ということになってはいるが、彼自身は厳密なる意味で冷静な学者ではなく一個の狂信者であったから、レヴィ=ストロースによれば次のように考えていた。
 「コロンブスがアンていーる諸島の海岸に着いた時、彼はおそらく日本に到着したのであろうと考え、そしてさらに、地上の楽園を再発見したのではないかとさえ考えた。その時代以来経過した四百年は、この大きなずれ・・・そのおかげで、新世界は一万年、または二万年のあいだ、歴史の動乱から離れていたのだ・・・を消滅させることができたとは思えない。このずれのいくらかは、異なる面で、まだ残存しているにちがいない。」

コロンブスの誤解
 レヴィ・ストロースは一九〇八年生まれのフランスの文化人類学者で、未開社会における親族関係、象徴体系等の調査を行い、構造主義人類学を確立した。その業績が与えた知識人への影響は計り知れないが、そのきっかけは一九三五年に新設されたブラジルのサンパウロ大学に社会学教授として赴任し、南アメリカを再発見したことによる。
 その代表的著作が、あまりにも有名な「悲しき熱帯」である。この「悲しき熱帯」は、地質学や考古学的な視点と論考を多用していることはよく知られているため万人に愛された。
 今なおラテンアメリカを理解するための最良の一冊である。
 コロンブスが確信をもって世界の海の西の果てに出かけて行った根拠として彼が持ちえた文献は、紀元前五世紀のユダヤ教の儀典「エスドラスの第二の書」か、あるいは十五世紀初期のフランス人神学者ピエール・ダイイの著書「世界像」の中の、前書の引用部分によって大海の広さを算出している。これによれば海は地表の七分の一を占める、とされている。
 コロンブスはイタリアのジェノバ生まれということになっている。マルコ・ポーロはベニスの商家の生まれだが、ベニスとジェノバは地中海貿易ではライバルどおし。
 マルコ・ポーロがフビライ汗の帝国から故国に帰還したのは一二九五年。ベニスを留守にすること二十六年。一二七一年以来のことだ。極東のタタール人(蒙古民族の一つだが、マルコポーロは蒙古人一般をこう呼んだ)の国のウソのような話はベニス人にとって興味尽きない話題であったが、我々現代人が彼の見聞録にあずかることができるのは別な事情による。
 すなわち一二九八年に、ベニスとジェノバの海軍がクルツオラ沖で海戦し、ベニスが敗れた。この時マルコも捕虜となり、一年半ジェノヴァの獄舎につながれた。同じ捕虜の中にピサ出身の物語作家ルステイケロという人物がいたため、記念すべき「東方見聞録」は文字となったのである。
 それはきわめて粗野拙劣なフランス語で書かれ、ルステイケロ自身が頭の簡単な人物であったとされる。
 そのためもあって、マルコ・ポーロの旅行記も信ぴょう性が低くなった。しかしそんな訳で、東方の黄金のジパング島の存在は、ヨーロッパ人の間に定着した。
 コロンブスが日本を発見したと思っても無理からぬところであった。
 マルコ・ポーロの捕虜体験もルステイケロなる人物との同獄も、感謝すべき事件といわねばならならぬものである。
 マルコ・ポーロとクリストファー・コロンブスとの因縁は、そんな地中海沿岸の、ちいさいイタリア半島の二都市の競争関係と結びついている。
 ついでに加えておけば、クリストファー・コロンブスをスペイン語風で呼べば、クリストーバル・コロンである。キリストを運ぶものの意味がある。
 アメリカ大陸のことをコロンビアと呼ぶのもコロンブスに由来する。もっとも、アメリカの名称の起源はイタリア人のアメリゴ・ベスプッチの南米大陸発見に由来しているのではあるが。
もう一つの「土産」
 コロンの姓は、みずからもこの姓コロンボスを改姓したもので「あらためて人を住まわせるもの」の意味があるという。(ラス・カサス著「インデイアス史」)。植民地(コロニア)とは、コロンの国ということである。しかもコロン自身は、自著「諸々の預言の書」序文で、「インデイアスの事業の実行にあたっては、理性も数学も世界地図も私にとっては何の役にも立たなかった。それはイザヤの預言の成就に他ならなかったのである」と述べている。
 イザヤ書の預言とは同書六十六章十八~十九節の次の部分をさす。
  「わたし(主)は来て、すべての国民と、もろもろのやからを集める。かれらは来て、わが栄光をみる。私は彼らの中にひとつのしるしを立てて……わが名声を聞かず、我が栄光を見ない遠くの海沿いの国々につかわす。彼らは我が栄光をもろもろの国民の中に伝える」
 従って自分の名前の中に神意を読み取った彼が(本名であれば)、神意に従って行動したにすぎない訳である。
 当時の常識は、世界の果てに行けば海はこぼれてしまうという地球像だった。
 この常識を破る狂信者は、旧約聖書の預言をみずから再発見し再確認したのであった。
 彼は次々に重要な順から発見した島に命名してゆく。サンサルバドール(聖なる救世主)。サンタマリア・デラ・コンセプシオン(処女懐胎の聖マリア)島。フェルナンデナ(スペイン国王)島。イサベラ(同女王)島。ファナ(同王女)島。
 スポンサーの名前を、発見した島々につけていった訳だ。
 さて、キリストを運ぶ者は、聖なる使命を果たしつつ、今度は逆にヨーロッパ文明社会に、このエデンの園の風土病である梅毒という土産をもたらした。
 やがて全ヨーロッパから、漸次日本へもこれは伝えられ、地球を一周することとなる。
 さてマルコ・ポーロに話は戻って日本でもポピュラーな社会思想社刊の教養文庫「マルコ・ポーロ東方見聞録」(青木富太郎訳)の巻末解説にはこう書かれている。
 「彼がのべているような黄金の存在、豊富な黄金をもちいた宮殿の存在は、いかなる文献によっても証明できない。彼が何によってこの記事を書いたかわからないが、しいて想像すれば、古来中国に存在する「東方海中に神仙の住む島がある」という伝説をもとにして、その地の王者の富を、フビライの豪華な宮殿を念頭において、想像的に語ってものがあり、彼はこれを聞いてしるしたのではなかろうか。「宗史」の日本伝には、日本は黄金をおびただしく産すると伝えており、当時の中国人がそのように考えていたので、日本の国王の宮殿に黄金がおびただしく使用されているとの噂もできたのであろうが、もちろん彼は中国語を知らかったし、蓬莱山式な伝説が古くからあることもしらなかったので、これらの噂を無批判に信じたのであろう」
 いとも簡単に青木氏は断じているが、彼が探した「宮殿」も「文献」も、おそらくは奈良、京都、大阪といった畿内の都ばかりであったことだろう。
 そこが古来日本の中心地であったのだから仕方ないのであるが、彼の視野からは「東北」という要素は全く欠けているのが特徴的だ。
 黄金の宮殿は実在したのである。しかもマルコ・ポーロが耳にした噂は、嘘や作り話などではなくて、本物の感触までよく伝えており、よく伝聞であれほどまでに特徴をとらえていると私には驚きなのだ。
 ジパング島についてのマルコ・ポーロの記述は、前に引用した黄金宮殿の部分に次いで、真珠を多産すること、死体が土葬と火葬でおこなわれること等を記している。
 黄金の宮殿は実在した
 蒙古軍がこの島を占領しようと大軍を派遣したが、上陸して平坦な地方と村を占領しただけで、都市や城砦を占領できなかったこと。しかも嵐によって災難がふりかかったこと。
 このほか、神秘的な魔法のような話や捕虜を殺して肉を食うことなどを付け足しているが、「ジパング関係のことはこれくらいにしておこう」と記しており、情報としては雑多な日本関係の伝聞はもっと聞いている風である。
 東方大海中の島々について、「これらの諸島は、航路からはずれた非常に遠いところにあって、マルコ・ポーロも行かなかったのだから、話はこれくらいにしておこう」と、なかなか謙虚な筆ではないか。
 前述のルステイケロとは同業のような筆者にとって、マルコ・ポーロの旅行記は、むしろこうした良心的な抑制的筆法のゆえに、誇大妄想狂的記述であるよりは」、より信ぴょう性を高く買いたいところなのである。
 繰り返していう。
 黄金の宮殿のエピソードは本当に架空の伝説や噂に過ぎなかったのであろうか。
 否。断じてそうではない。
 我々の東北には、平泉中尊寺というまばゆいばかりの黄金郷が実在するではないか。屋根も窓も柱も内部も、みな黄金で飾られている宮殿が今も実在しているではないか。
 確かに、マルコ・ポーロは、ジパングは多くの点で日本のことを誤って記述している。しかし、この黄金の宮殿の描写はなんと平泉の中尊寺金色堂の姿に酷似していることか。
 平泉こそマルコ・ポーロのジパングの姿であると、断言している歴史家は残念なことに高橋富雄氏(福島県博物館長)(注1986年当時)ぐらいしか存在しない。
 高橋氏は山川出版社刊、風土と歴史シリーズ第二巻「東北の風土と歴史」(昭和五十一年刊)で次のように述べている。
 (五丈三尺五寸。大毘盧遮那仏(大仏)完成を目前にして」「塗金の資料が、まったく底をついてしまったところへ、みちのくの国守百済王敬福から「早馬の朗報がとどけられた」「天平二十一年七九四年正月四日のことである。「本朝始めて黄金を出す」。正史の「続日本紀」にもそうある。
 東北の黄金伝説
 「平安後、末期の日本は、中国において事実「黄金の国」と考えられていたのである。」志田不動麿氏「東洋史上の日本」が指摘しているように、そのころの日本は、中国全領土から鉱税として納入される金の総収入よりもはるかに多い金を中国に輸出していた」
 マルコ・ポーロが聞いた噂は本当だったのだ。平泉中尊寺の完成は天治三年(一一二六年)。マルコ・ポーロの帰還は一二九五年。」まだあったかい噂である。
 「わたくしは、あらためて、これは平泉の皆金色文化がモデルになっての所伝であろうということをここで強調しておきたい。そして平安末期の東北文化が、日本を代表する世界的な話柄となり、大航海時代の夢を誘う遠い魅惑の光源ともなったのだ」
 高橋氏は同書の七章「黄金の誘い」と題して、東北の産金がいかに世界史の中で重要な位置を占めたかについて右のように述べておられる。
 私は南米取材から帰国して、二年後のこの夏、偶然に高橋氏の同書を古書店で求め、確かな論考を得て大いに満足することができた。
 それというのも、断片的な知識のかけらは何の意味もなさないが、今や南北アメリカ大陸には百万人を越える日本人および日系人が住んでいる。こういう時代に、ジグソーパズルが完全な世界史の中の日本人の位置を、正確に教えこんでくれる視点に巡りあえたからであった。
 メキシコにはサムライの子孫がいるという伝説がある。もともとベーリング海峡を渡って南北アメリカ大陸でインデイアンやインデイオになったのは我々モンゴロイドの祖先であるから顔が似ている者がいても不思議ではない。
 しかし、話は支倉常長の遣欧使節に随行した武士で、アカプルコに残された者があって、その地で果てたサムライの子孫だというのである。
 そんな伝説が頭の片隅にあった。アカプルコという地名はだから激しく日本を呼び覚ます響きがあるのだ。
 ブエノスアイレス市内の映画館ではあの時「ニンジャ」という映画が上映中であった。覆面もおかしな風にかぶっており、さっぱり忍者らしくない。出演しているものも日系人などではなく中国系米人ばかりである。つまりロサンゼルスで作っているニセ日本映画なのだ。
 世界中に日本人が雄飛して日本の商品を売りまくり、工業原料を買い漁っている今日、かつて世界が」単一でなかった頃の日本へ、ヨーロッパの息吹が届き、また日本からヨーロッパへ好奇心と冒険心を以て出発していった交流初期の感動は、日本人の姿を照らしだす。
 東西の壮大な交流の原動力が、東北の生み出す黄金であったことは、愉快な皮肉ではないか。
 開発は日本においては西南からということになっている。そのとおりであろう。
 足元に黄金を埋めながら、しかし東北が貧しいままに植民地のように支配されてきたかげろいは一層濃い。
 その原点に戻ってきたという思いがますます強い。
政経東北1986年

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