大熊町の双葉病院の悲劇
大惨事の二次被害として、医療の壊滅は最大の影響を及ぼす。原発事故が起きた際、大熊町の双葉病院に100人以上の患者を置き去りにして、病院職員が医者も看護師も全員逃げたというショッキングなニュースを朝日新聞が報道したのは3月19日のことだった[★1]。同病院と系列の介護施設の入所者、計438人の入院患者のうち、事故の起きた3月中だけで50人が死亡した事件である。
記事は自衛隊側からの一方的なコメントだけで取材された誤報で、実際には3月12日に200名あまりの第一陣の避難が行われた後も、院長らは病院に残っていた。その必死で孤独な献身的営為を無視した欠席裁判的な断罪だった。後年の事故調査で検証されて初めて当時の状況が詳細にわかったものの、すでにマスコミの集中豪雨のごとき誤報によって、わずかな人員で100人を超える重症患者を数日間介護しつづけた院長の人生を狂わせるほどの影響を与えた後のことであった。当時の事実が明らかになったのは、『週刊ポスト』に「双葉病院の真実」(森功)というレポートが載ってからのことだ。[★2]
食料や水、医療器具、輸液も不足する中、ベッドに寝たきりの多数の患者の点滴の調整に付ききりで当たった孤独な数日間、情報の齟齬で町から要請されていた自衛隊の緊急の救援活動は、忘れられたままだった。14日には院長やスタッフもなかば強制的に避難させられ、残留患者の人数や病状を把握できていないまま自衛隊による移送が行われた結果、原発事故発生から3月末までに50人の患者が次々に死亡した。
移送に使用されたのはワゴン車やバスであって、医療器具の完備した救急車ではない。しかも、放射能を警戒して原発から半径20kmの円弧の外側を、大熊町から原町まで大きく迂回して北上し、飯舘村を経由して国道114号を県都福島市、さらには東北自動車道を南下して磐越自動車道でいわき市の指定された避難先の体育館や各個の病院へと、直線距離20kmで行ける行程を200kmもの迂回距離と長時間をかけて、瀕死状態の者を含む患者を搬送したのである。
14日の搬送では移送中・移送先で24人もの患者が死んだという新聞記事に驚愕したが、その後も各地の搬送先で死者が相次いだ。隣接する伊達市の病院で移送後に亡くなった者の中に、わが身に近い患者がいた。この双葉病院の事件については、すでに幾つかドキュメンタリー番組や書籍も出ているが、50人それぞれの個別の死を追って行けば紙幅は足りない。この件に関して、わたしが直近に見て火葬に立ち会ったのは、移送先の伊達市松ヶ岡病院で絶命した高野一郎氏の一件である。

高野一郎氏の火葬
高野一郎氏は、以前にこの連載でも取り上げた、福島からブラジルに移民した高野兄弟の長兄にあたる[★3]。一郎氏は兄弟の中で唯一姉妹とともに日本に残っていたが、この事件で亡くなるまで、30年もの間、音信不通で、どこに暮らしているのかも判明しなかったという。一郎氏は鈴木三郎という変名で入院していたが、死後、身元引受人の項目に、現在は群馬県在住の弟・光雄氏の住所氏名があったため、松ヶ岡病院のスタッフが死亡を告知し、遺体の引き受けを要請してきたのだという。
「福島まで行かなければならない。伊達市の松ヶ岡病院まで行くのだが不案内で道も分からない。案内してくれないか」と頼まれた。
高野光雄氏は息子の光太郎君と2人で3月25日にやってきた。粉雪の舞い散る日だった。
火葬場が立て込んで空かないので順番待ちだという。到着した日に遺体を引き取り、翌日まで待つことになった。その日は火葬場に隣接する葬祭場の宿泊場で、遺体に高野親子が付き添った。私は翌日、あらためて火葬場を再訪した。
山中の火葬場は、地震で天井が落ちていた。焼却炉が2つしかなく、片方には東隣りの相馬市の海岸に打ち上げられたで津波による溺死者の遺体が、相馬市内で処理しきれずに続々と運びこまれ、24時間どころか数週間ずっと稼働しっぱなしの状態だった。片方の炉が空いた隙間を待って、ようやく順番に割り込ませてもらった。火葬は27日に決まった。
火葬の日の朝、ホテルで高野氏を拾って、わたしの所属教会である福島聖書教会に寄った。高野夫妻が運営する群馬の日系ブラジル人学校・日伯学園からの差し入れで、ちょうど季節物の復活祭のチョコレート・ボンボンのつまったブラジルのお菓子をどっさり教会に届けた。聖書教会には、女世帯の家庭や、幼児のいる若い夫婦などが、地震以来ずっと礼拝室に合宿で寝泊まりしていたから、チョコレート菓子は珍しく、評判が良かった。礼拝の始まる10時半には隣市の山中の火葬場まで行かねばならない。欠席を告げてホテルで待つ光太郎君と合流して現場に向かった。
火葬場で骨の焼きあがるのを待って、型通りの僧侶の読経を上げてもらい簡単な儀式が行われた。抜け落ちた天井の下の葬儀室は暗かった。浜通りの集中原発基地はもとより、原町火力発電所も地震と津波のダブルパンチにより火災で停止しているので、節電措置にしてあるのだという。
ひどく寒かった。言葉数すくなく、あわただしい3人だけの火葬が終わり、夫妻は群馬の日伯学園での仕事も立て込んでいることだろう、
「それじゃあ」「また」
しんみりしている暇もなくやるべきことをやり遂げ、ホテルの車まで2人を送り届けて、そこでわれわれは別れた。粉雪がまた舞ってきた。
2013年の暮れに再び高野氏から電話があったのは、福島市の高湯温泉のホテルで開かれた、往年の東京五輪重量上げ金メダリスト・三宅義信じ選手を囲む「金メダリストを育てる会」の懇親忘年会に招いてくれた時だった。友人夫妻は、元気を取り戻していた。

俺はもういい、と言って死んでいった透析患者の恩師
外岡秀俊著の『3・11複合災害』(岩波新書)を読んでいたら、南相馬の知人が登場し「かわいそうなのは透析患者だ」と指摘していた。知人の身内の透析患者は相馬市に避難し「もういっぱいだ」と断られ、福島市に家を借りてようやく透析できたという。しかし息子は仕事があるので別々に暮らさなければならない。また別の透析患者は、関東までずっと受け入れ病院を探し回ったが、けっきょく17日間も透析を受けられず「俺はもういい」と、南相馬に戻って死んだと書いてある。
亡くなったのは、私のかつての母校・原町高校で硬式テニス部の顧問だった、但野宗彦先生だった。色黒でクロちゃんとあだ名されて、百人一首が得意。気取った喋りの授業で親しまれ、懐かしい人物だったが、「福島民友」の死亡欄で、震災後の死去を知った。本にはその最期のドラマが描かれていたのだ。
私の通う病院でも、浪江町から二本松の仮設住宅に避難中の7人の透析患者が治療中だが、どんな思いでこの1年を過ごしてきたことか。彼らに但野先生の面影が重なり、無念さは限りない。
2012年5月、但野先生の奥様を訪問し、最期の様子をつまびらかに聞いてきた。先の書籍に紹介された伝聞の消息とは、やはり違うニュアンスだった。
奥様によれば、最初は避難することになった小野田病院の紹介で、富山県の病院に受け入れるといわれたが、介護者の同伴はできず、患者だけの受け入れだというので、寝たきりで移動も車椅子の夫をやるわけにゆかずに、断った。結果的に国立宇都宮病院に受け入れてもらえたものの、2週間以上も透析ができなかったことにより病状が悪化し、最後は「意識のあるうちに帰宅したほうがよい」と院長から説明されたとのこと。同院は、死去すると翌日に火葬する規約だそうで、未知の土地で骨にされるよりも、「意識あるうちに家族に囲まれて最期を迎えたほうが」という配慮で院長みずから助言してくれたので、受け入れた。しかも、ガソリンもなく、一般車両も東北自動車道を入れないときに、わざわざ手配して、別のセンターから救急車で自宅まで搬送してくれた人情ある配慮に「納得」もあったらしい。81歳だった。17日間も透析できずに生き延びた例は珍しいのだとか。しかし、救えた命が、あの混乱で消え去ったことは事実だ。他人事ではない。
震災直後の混乱のとき、透析中に腕に刺した針がずれて、出血したまま気付かなかったというトラブルについても聞いた。わたしも一度、小野田病院で透析したが、若い看護師が多かった。施設は伊達の公立藤田病院を見習って、耐震・免震の建築だったが、3.11の直後はパニックだった。
但野先生が戻って来た原町区本町の妻の実家は、かつて日露戦争に奉天会戦の勇士だったという、元町長の祖父が営む商店だった。先生は3月28日に最期の息を引き取った。双葉病院から搬送された高野氏の遺体を、伊達の火葬場で骨にしていた頃とほぼ同時期であった。南相馬市原町で生まれた2人の人物が、こうして混乱した医療に助けられずに死んだ。

「充分に生きた。ここで死んでもいい」
我が家の逃避行についても言及しておく。最初の原発爆発で一斉に人口の9割が脱出した12日から数日間を、私の83歳の母は「逃げない。自分は十分に生きた。ここで死んでもいい」と言って、同居の姉夫婦の運転する車に乗ることを拒否して自宅に残った。
実は隣家の90歳の実の姉が、ほとんど臨終に近い状態だった。最後の介護をすべく従兄夫婦が近くの小野田病院に入院させようと依頼したが、病院側はそれどころではなく、むしろ「病院は全館閉鎖する」と宣言して、すべての入院患者を市外の病院に搬出する手配にてんてこ舞いの状況だった。透析患者として入院していた但野家にも、富山の関連病院に搬出する案を打診していたのは先述のとおりである。ただし患者のみとの条件だった。
従兄弟の佐藤志一は、一人息子の自分を独身で育ててくれた実母の人生最後の数日を、完璧な態勢で見送ってやりたいと思ったものの、街中が原発事故により、地球最後の日のような騒ぎに湧き立って混乱していた。わたしの母は、役には立たなくとも肉親としてせめて側にいてやりたいとの思いだったろう。結局のところ、13日に従兄夫妻が私の伯母と母とを福島市まで、比較的大きめの軽自動車に、布団を一緒に積みこんで連れて来た。

私の身内には看護師が多い。従兄の妻はかつて大熊町の県立大野病院の看護師をしていた。娘は南相馬市総合病院の看護士。すでに「赤子を持つ身の若い女性看護師は自己判断で職場を離脱してよし」との指示を受けて山梨の知人を頼って避難していた。
わが家に同居していた叔母も看護師で、東京で退職したあと、小高の赤坂病院で働いていたが、患者をすべて避難区域外に搬出させて看護師も避難を指示された。鹿島区に住む私の2人の従姉妹も看護師だが、津波で家を流されて山形へ避難したことを後に知った。2人の弟の妻は相馬市の立谷病院で透析患者を担当している看護師で、「黒い壁のようなものが白く砕けながら迫ってくるのを見た」と、3階の廊下の窓から津波の第一波が海から押し寄せてくる目撃談を聞いたのは、昨年の母の米寿の祝いの席でのこと。このように、身内が地元の看護師ばかりなので、集まった際の会話は、医療の現場の波打ち際における生々しい実話ばかりだった。
被災地の医療壊滅の問題は各種メディアで多く取り上げられているが、そこでも再三指摘されちるように、現在の大きな問題は、医師・看護士の不足。地元では「注射も打てないような研修医がボランティアで来て給料1000万円かよ」と言った陰口もある。復職した看護師たちに立ちはだかる、「あなたは逃げた人、私たちは残った人」というカチーンと音立てるような、戦線を守り切った戦友意識でがっちりスクラムを組んだ人間関係という見えない壁があることもぬぐいがたい事実だ。

避難先はホットスポットだった
私の母と伯母一家とともに避難した先は、幼時から往来のあった山手の農家だった。親戚一同が集まったのは、昭和20年夏の原町空襲のあった直後から、実に66年ぶりのことだった。ふだん自室で一人、嫁の介護を受けていた伯母には、見慣れぬ人の多さに「きょうは何かお祭りなのか」と、怪訝な光景に見えたようだった。この避難先の大谷地区というのが、放射能プルームが風向きで多くフォールアウトしたホットスポットであったことを知ったのは、1ヶ月後のことだった。
その後、自宅に戻った伯母の体調は急変し、入院を拒絶され、遠隔の嫁の実家で息をひきとった。5月のことであった。近所の誰も帰宅していないので、伯母の葬儀はまだしていない。死んだ場所がどこであれ、看取ってくれたのが長男と嫁であったことは、昔の人だった伯母にとっては、かろうじての救いだったろうと思う。
最近、「自業自得の人工透析患者は死ね」と失言したフジテレビのアナウンサー長谷川豊が番組降板に追い込まれたり、麻生太郎財務大臣の高齢者に対する「90歳でまだ生きるつもりか」との暴言の報道が相次いだ。これこそ医療の崩壊だろう。

私自身も当時、透析できずに亡くなった被災者の報道を見るたびに危機感を覚えた。私は3.11の日も福島市内の蓬莱東クリニックに通院していたが、あの激震が続いた瞬間に、咄嗟に布団をかぶせて落ちそうな掛け時計からベッドの私を守ってくれた、武田看護師の姿が強烈な記憶に残る。
蓬莱東は断水し、私は市内の他の透析医院に回されたが、「市役所から頼まれてよその緊急患者まで引き受けたんだ。命がかかってんだ。彼らが死んだらお前らの責任だぞ。早く水を届けてくれ」と必死の形相で水道局に罵声を上げて電話している院長の姿も目撃した。「この医者になら任せられるな」と、医療現場の神聖な献身に感謝した。まさに野戦病院だった。蓬莱東の水道が回復するまでの1ヶ月間、大量の水の運搬補給は緊急車両の消防タンク車や、岐阜自衛隊施設部隊の給水車両によって行われた。
全区域が退去させられた双葉郡浪江町の被災透析患者ら7人が、県内各地の体育館や公共施設の応急的な避難所の7、8か所を転々とたらい回された後で、この蓬莱東クリニックにたどり着いたのは、さらに数か月後のことであった。
更衣室で「おめえ、最近パチンコ屋にばっかり行ってるんだってな」「だって、ほかに行くとこなんかあるもんか」と仮設暮らしの老人たちがやり取りする光景は、その後、シャッター街となった南相馬の街角でも見ることとなった。

★1 「双葉病院長『避難迫られた。責任ない』 患者21人死亡」、朝日新聞3月19日付。
http://www.asahi.com/special/10005/TKY201103190139.html
★2 森功「原発から4.5キロ 『双葉病院』の真実――『患者21人見殺』の大誤報の裏で」、『週刊ポスト』2011年7〜8月。
★3 本連載第5回「秘密の隣県ショー──山形・群馬・新潟に囲まれて3.11で助けられた福島県民」、『ゲンロン観光通信 #2』。

(初出:『ゲンロンβ #13』2017年4月14日号)

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