14 ともに歩んだ妻に感謝  紺野武雄

 私の妻は農家出身ではない。皆さまの細君も同じ出身と思ふ。
 終戦後、食糧増産に開拓事業に辛苦の中を私と共に一家の主婦として母としての影の力となって五十年もの永い間働いて来た妻、御苦労であった。感謝の気持ちでいっぱいである。今後は健康に注意されいつまでも生きてほしいと念願するものである。

 
15 ホッと気づくと早83歳  紺野信義

 今の床尾に入植する以前はコオシン坂に居ましたが拓地が少なくて二十六年に土地の再配分を受けて現在地に移りました。二十七年四月二家を新築して幼い子供たち五人もいる中で資金ぐりに苦しみました。
 食べるために朝早くから夜遅くまで開拓をしました。今は水田になって食べることには困らなくなり、四十六年に嫁をもらい孫も五人いてほっとしている毎日です。八十三歳になりました。

16 マッチ棒も分けて使う  紺野吉一

 入植時は物資が不足し、生活に不自由した。マッチの棒は皆で分けて使った。今の生活からは良そうもつかないことである。
 ロシアは中立条約を結んでおきながら侵入し、女子供を殺害して、人情のないひどい奴等だと今でも思っている。

17 家や食糧…心配尽きず   坂下光郎

 入植と同時に住み家の心配でした。近く原野にてかやを刈り取って掘っ立て小屋作り、また食糧の心配、朝明けきらない中より開墾に夢中でした。
 日中は山にて炭の原木(たなぎ)一間(二尺四寸×六尺)を一二〇円で鋸を使って日に二間位で当時の日東を働き、店に米など売ってなく麦のいも飯を食べての苦労した開墾生活が思い出になります。
 また昭和三十年頃、青年十数名にて農事研究会を普及所の指導により肥料の使い方や土地の改良、麦や馬鈴薯や作物の生育状態の研究発表など、また土壌改良など農作物の増産、また開墾の進んでいない農家に研究会全員にて応援に鍬をかついで汗を流した事など、また日本農業という雑誌社に農作物研究発表を送り農業賞を受けた思い出も記憶に残っています。

18 自分の田になった歓び  三瓶栄樹

 私は昭和二十年入植。地元出身です。先ず住まいからと仮小屋を建て父母兄弟五名家族。耕地が川沿いなので田圃作り、食糧がないので毎日糧て飯(大根、豆、芋)腹の減っての田圃作りは全く大変でした。
 今入植当時を考えると何でも出来る様な木が致します。
 昭和二十八年結婚。お陰様でみな身体が丈夫、開墾に精を出し昭和三十二年成功検査に合格。自分の土地となり本当に嬉しかった。
 今現在隣同志仲良く野菜がぐったなと言えば貰ったり、また呉れたりしています。

19 資金積み立て電気灯る   三瓶明雄

 昭和二十年八月十五日終戦になり、当時片山内閣で国有林開放と共に開拓地を取り原始林を切り炭を焼き、営林署に収めてその後山をおこし麦、大豆、アワ、キミを作り、夜昼なく増産にと励んでまいりました。
 また産十年に家内を迎え三十一年に若い人達で沢先農事研究会を結成し、三十四年に電気導入資金として個人別に資金を積み立て、ようやく電気導入がみのり、三十五年五月十五日に電気の光が見ることが出来ました。
 その後、出稼ぎブームがおとずれ出稼ぎへと向かった。今は子供達も大きくなり、世の中もかわり昭和六十三年石材業へと移り、平成になって円高が進み、また第二の開拓がやって来たと思いながら営んでおります。

三瓶明雄氏は、DASH村で大工指導をして出演。

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