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1 津島の歴史
 津島地区は、その昔は、標葉(しねは)氏が支配する地域であり、標葉氏は中世初期から岩城氏と相馬氏の支配地域に挟まれながら、現在の双葉郡大熊町・双葉町・浪江町・葛尾村を支配していた。岩城氏、標葉氏、相馬氏は、いずれも桓武平氏の流れをくむ。標葉氏は、相馬氏と争っていたが、1492年(明応元)年、相馬氏に滅ぼされ、標葉領は相馬領となった。
 そのような歴史的経緯から、津島地区を含む現在の原発被災地一帯は、標葉氏の支配地域という共通した歴史的遺産を吸収しながらも、相馬と密接な関係を持ち続けた。

2 津島村の誕生
 明治22年4月、市町村制が施行され、小村であった津島、南津島、赤宇字、昼曽根、羽附、下津島が合併して標葉郡津島村が誕生した。初代村長は今野美寿であった。津島村は葛尾村と組合村を作り、葛尾村は大正7年に分村独立したが、その後も紺野美寿が津島村長として条件の悪い山村を経営し、模範村長として藍綬褒章を授与されている。津島は相馬とも関係が深く、今野美寿はのちに「相馬藩政史」1940年、太郎舎)を執筆している。
 明治29年4月、標葉郡と楢葉郡が合併し、双葉郡が発足し、双葉郡津島村となる。
 津島村は、山村であり、農業技術が未発達な時代の東北は、6年ごとに不作があり、60年ごとに大凶作があると言われ、度々冷害に見舞われた。例えば明治35年は、平均気温21度、土用中の降雨日数は18日、日照時間20時間と少なく、米作高54石2斗(平均反収穫6斗2升)であり、側、雑穀は収穫できず、義援金を受け、また官木払い下げによる炭焼き等によってようやく餓死を免れる状況であった。
 戦争になると、若者は徴兵により、労働力が不足する状況の中で、懸命に生き抜き、戦後は農地改革とともに満州などの外地からの引き揚げ者が入植した。津島地区には380戸が入植した。

3 浪江町津島の誕生
 昭和31年4月、浪江町、大堀村、刈野村、津島村が合併し、津島地区は浪江町の中に含まれることとなった。合併後の浪江町長は津島村長の石井登が就任した。
 津島地区は浪江町の行政区長設置法令に基づき、羽附(大字羽附の区域)、(上)津島(大字津島の区域、なお住民は津島地区全域と区別するため上津島地区と呼んでいるため、以下、「上津島地区」という)
 南津島上(大字南津島のうち大宮地区以西の区域)、」南津島下(大字南津島のうち大宮地区以西の区域)、赤宇木(大字赤宇木のうち手七郎に入る区域を除く区域)、手七郎(大字赤宇木のうち手七郎に入る区域を除く区域)、大昼(大字川房及び大字昼曽根の区域)の8つの行政区に別れている。
 津島地区には、事故当時、約430世帯約1400人が居住していた。

ふるさとを返せ津島原発訴訟「訴状」
平成27年(ワ)第255号
「故郷を返せ、津島原発訴訟」原状回復等請求事件」
福島原発事故津島被害者原告団
福島原発事故津島被害者弁護団
による。

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