大震災・原発事故 夫の死
末永定子
 3月11日の東日本大震災発生時は家にいた。夫は浪江ブレーキで勤務し不在だった。実は平成22年7月に玄関口で転んで股関節を骨折したので入院し、震災の年の正月に何とか歩けるようになったばかりで機敏に動くことが出来ないため、柱に掴まって我慢し、激しい揺れが治まるまで待つしかなかった。揺れが小さくなってようやく外に出ることが出来た。夫も勤め先から帰ってきた。その日は家で過ごした。
 翌12日、避難指示が出たため夫と一緒に手七郎に行った。国道114号が渋滞し、820人ほどが避難してきた。すでに体育館などの避難所がいっぱいで入れなかったのだ。
 13日は、朝早く加倉の家に行き貴重品や食糧を持ち出した。
 14日、手七郎の家を出て川俣の道の駅で夜を過ごした。手七郎の家には誰もいなくなった。この段階では少しの間家を離れるだけで、何れ帰れると思っていた。加倉の家には現在も米6袋が残されたままになっている。
 15日、二本松の市役所に集合するよう言われたので、番号札を取って並び、二本松市内の大平公民館に避難先を割り振られた。手七郎で一緒に過した約20人の人達も一緒だった。ここで約1カ月過ごした。何度か岳温泉に行き湯に浸ったが、4月2日に、足が不自由なため服の着脱がうまく出来ずに転んで腰を打ち、背骨をつぶしてしまった。桝記念病院に入院して治療し、4月下旬に退院して岳温泉の櫟平ホテルに入った。
 夫が6月12日に心筋梗塞で南東北病院に入院し、バイパス手術を受けた。その過程で、肺に影が見つかって肺ガンと診断され、放射線治療も受けた。ホテルから息子の一郎が送迎して治療に通うなどしたが、この間難度も入退院を繰り返して次第に体力が低下し、食も進まず歩けなくなってしまった。7月2日に孫の運転で救急入院し、翌日病棟に移って治療を受けようとしたその晩に亡くなってしまった。余りの急変に悲しみが追い付かなかった。
 ふるさとから離れ、夫が亡くなってしまい寂しい。夫は直前まで元気に仕事していたのに、事故後は将来のことなど色々と考えて精神的に辛かったのだろうと思う。夫は一代で家を興し、人並み以上に豊かな生活を築き上げた。それ故、なおさら悔しい思いをしたのではないか。私にも、原発事故が無かったらとの思いは当然ある。
 夫の遺骨は今も納骨できないまま、長安寺に預かってもらっている。手七郎は放射線量が高く、墓石も建てられない。高い放射線量や壊されてしまった地域の状況を考えれば、手七郎にはもう戻れないと思う。息子の一郎が大玉村に家を建てるので、こちらに墓を作って供養しようと思う。
 ふるさとに帰って、家が荒れてゆくのを見るのはつらい。ふるさとは、帰りたいけど帰れない。2、3度帰ってみたが、懸命に働いて築き上げた生活が原発事故で全て破壊され、荒れ果てた家は昔の面影さえない。野生動物の巣、お化け屋敷と言うしかない状況で、本当に虚しく、涙なしには話せない思いだ。津波で流されたなら諦めがつく。だが、そのままの姿なのに手が出せずに荒れ果てていくのを見るのは本当に辛い。今の避難生活は、むしろ開拓に励んだ頃より酷い状況である。若い頃にも苦労したが、これほどの辛さはなかった。田畑や露地があれば楽しみもある。山で山菜やキノコ採りするのが喜びだったのにそれもできない。私達ばかりでなく、原発で避難した人は皆同じ思いだろう。
 できてしまったことは仕様がないが、原発事故さえなければほれほどの苦労はしなかったろう。原発を恨んでも仕様がないので、開き直って生きていくしかないと思う。
  
 平成25年11月12日聴取
3.11 ある被災地の記録 浪江町津島地区のこれまで、あのとき、そしてこれから

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