大地震・原発事故
 武藤トクイ 津島
 3月11日、地震が来たときは炬燵に入っていた。驚いた長女が戸外に出たが、私はそのうち止むだろうと思った。ところがなかなか止まないどころかさらに大きく揺れたので、怖くなって何とか外に飛び出すと、屋根瓦がガラガラと音たてて落ちた。寒いので娘に服を出してもらい、愛犬のメル(ダックスフント)と一緒にビールのケースに腰掛けて呆然としていた。丁度宅急便が届いて、ドライバーは一体何があったのかと驚いていた。
 下津島・尻合の齋藤友香さん(義弟の息子の嫁)が、怖くていられないと子供達と一緒にやって来た。夕方までいて、夫がいる町内に向かった。
 小高の塚原から次女の夫が、家族と連絡がとれない、津島に来ているかも知れないと一人で来た。電話が通じないため家族同士の連絡も取れなかったのだが、北海道にいた北海道にいた息子を中継して連絡がつき、次に地区の避難所から浮舟会館へ次女一家も浪江経由で津島にやって来た。平成5年頃に新築した塚原の次女宅は、すぐ近くの公会堂が津波に流されても、道路が津波を防いで奇跡的に被害を免れたそうである。結局この日は、長女夫妻(りつ子・茂)、孫・七重に次女一家5人と夜を過ごした。
 12日には、町内から親戚が大勢避難してきて、総勢25人ほどに膨れ上がった。藤橋の甥が、母が見当たらない、連絡がつかないと探しに来た。東京に行っていることが後で判明したが、それほど混乱していた。
 電気は通じたが、水に困った。井戸水のため、真っ黒に濁ってしまい、澄むまで二日ほどかかった。この間、小坂の紺野忠治さん宅に水をもらいに行った。11、12日ともテレビはつけっぱなしにし、皆で炬燵に入って見ていた。
 13日、地域の店は商品が無くなってしまい、川俣まで買い物に行った。入場制限されて、並んで15人ずつ店に入って買い物したと聞いた。14日もテレビを見るなどして同様に過ごした。
 15日早朝、消防団に入っている奴だの義妹の息子が、原発が危ないので避難しろと教えてくれた。このため、急いでご飯を炊いておにぎりを作り、家族ごとに避難することとした。私、長女夫妻・孫、それに次女の家族4人、計8人が2台の車で埼玉・川越の義兄宅を目指した。午後1時Kロ出発したが、渋滞していて、着いたのは16日の午前3時だった。
 川越には52日間世話になって、5月5日に土湯温泉の小滝旅館に移った。その後、6月20日に現在の蓬莱団地内の家に移転した。
 原発事故のことはテレビを見て分かっていたが、放射能のことは何も分からず、何で避難しなければならないのか疑問だった。避難する当時は、せいぜい2、3日で家に帰れると思っていたのに。

 川越の義兄宅は手広く鉄工所を営み、従業員もいて食堂もある。紺野忠治さんなど津島からも多くの人が働いていたこともある。私は畑仕事を、娘たちは炊事を手伝ったりして過ごした。丁度親戚が選挙に立候補したので、その手伝いに行った。私が4升の米を炊いて太巻き寿司を作って振る舞ったところ、皆さんがその出来に驚き喜んでくれたこともある。
 土湯では旅館の5階に入った。浪江の人が大勢避難していた。その殆どは津波に家を流され、気の毒で何と声を掛ければいいのか分からなかった。何もすることがなく、外に出て川べりを歩き、足湯に浸った。近く野ホテルや旅館に避難している友人・知人に会いに行ったりした。あとはテレビを見るしかなかった。
 蓬莱団地の家に入って何とか落ち着いて生活できるようになった。初めに草むしりや家の内外の掃除をした。
 京都出身の隣の家の山辺さんと知り合った。山辺さんは警察学校近くのデイサービスほまわり荘に勤めていたそうで、たまたま近くに畑を借りていた。山辺さんが野菜作りをしたいというので、トマトの芽かきやピーマン、ナス、スイカ、カボチャ、白菜などの作り方を教えた。畑で一緒になって体を動かすのは本当に楽しいものである。
 昨年6月から、二本松市内の安達運動場仮設住宅内に設けられたデイサービスセンターに、バスの送迎で週一回通っている。バスで通うのは、同じ団地内にいる末永アキ子さんや、紺野静子、加藤キミヨ、吉田スエ子さんなどで、センターでは石井ヒサヨ、末永春治、今野マツヨ、瀬賀タケヨ、五十嵐ユキさんなども一緒である。
 25.12.16聴き取り
3.11 ある被災地の記録 浪江町津島地区のこれまで、あのとき、そしてこれから

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