今野幸四郎 原発事故、避難 築いたものを失う痛切さ 赤宇木
 原発事故で全てが覆されてしまった。
 平成23年3月11日の東日本大震災、それに続く東電福島第一原発事故のため、私の家には約30人もの避難者が押しかけた、町内の親戚、知人など6家族で、更に赤宇木の集会所にいた知人2人も家に案内した。当初、原発事故の情報がない私たちは何事が起きたのかと驚いた。
 事故のため、郡山の工場が機能せず牛乳の出荷が出来なくなってしまった。このため、有り余る生乳を大きなクーラーバックに入れて避難所に届けた。小中高校、活性化センターなどの避難所には大勢の人がいて、食糧が不足していたこともあり、皆さん行列を作って争うように飲み、喜んでくれた。連日、食事も採らず何回も運び、夕方にはヘタヘタになってしまった。

 津島からは3月15日夜に、皆一斉に避難した。布団などは敷きっぱなしのままだった。牛の世話をしなければならないので、私と息子の剛は残った。妻、息子の嫁と孫2人が、とりあえず西へ向けて逃げ、須賀川の嫁の実家の世話になった。その際、先に避難する6家族に、農業用に備蓄していた携行缶のガソリンを分けたため、自分たちが逃げる段になって不安だったが、何とか逃げるだけのガソリンは残されていた。私と剛は、翌16日の真夜中に石川の知人宅に牛一頭を連れて避難した。震災の年に、歴代でも府県7頭目の94点という優秀な得点を挙げた、ホルスタイン種のÝにオンデール・ダンデイ・ガール号を放っておけなかったのだ。同じ酪農家の知人夫妻は親族に逃げろと強く言われて千葉に避難した後で、息子だけが残っていたため、合流した妻と剛、それに知人の息子の4人で2日ほど過ごした。
 牛が心配なので、18日に剛とダンプで家に戻った。心配を掛けないよう、地域内に嫁いで酪農をしている長女達には内緒だった。牛舎では餌が無く、辛うじて水がわずかに残るだけで、牛たちの鳴き声は凄まじいものだった。その後、剛は何回か須賀川から通いながらも津島に残って、5月27日まで牛の世話を続けた。私たち夫妻は、19日に和歌山の従兄弟宅へ避難した。
 従兄弟宅は和歌山県海草郡紀美野町。3~4年ほど前にミカン狩りに行ったことがある。飛行機で福島から伊丹間を飛び、列車を乗り継いで行った。避難した私たちのことを気遣って、近所の人達が食べ物や服、水、その他色々なものを提供し、援助してくれありがたかった。中でも、阪神大震災の状況を熟知している元警官だった従兄弟の友人は、水、ホッカイロ、食糧などその経験を踏まえた援助を現在も続けてくれ、本当に助かったいる。原発事故発生当時は寒かったが、次第に暖かくなっいぇきて、他にすることもない私たちは近隣農家の桃やミカン、ハッサク、柿などの摘花作業を手伝った。
 
 4月25日、農場の牛を移動できるかも知れないと聞き津島に戻ったが、放射能に対する懸念からなかなか取引先が見つからず、結局再度和歌山へ戻って農家の手伝いをするしかなかった。5月16日には、当時東和の旧役場庁舎に移転していた浪江町役場に行って色々対策を協議し、どうにか5月27日に牛を移動することが出来るようになった。放射能の規制が一度はかかったが、検査した結果移動してよいと許可された。
 当日は県内外から30人を超える人が手伝いに来てくれた。本宮市糠沢に数年間使われていない牧場があったので、そこを借りて修理し、長女の嫁ぎ先である三瓶利仙及び私の農場から各30頭、計60頭を運び出した。その他、北海道に育成牛を、また石川の知人の所にも一部預けたが、受け入れる場所が限定されるため、30頭を越える残りの牛は殺処分するしかなかった。本当に悲しいものである。私たちにとって牛は同居する家族であり、従業員であり、同時に社員でもある。小さい頃からかわいがって育てたのに、殺さざるをえないのは家族を奪われ、身を切られる思いである。酪農仲間は値域内に12戸あったが、どこも牛の避難場所を確保できず飼育を断念するしかなかった。この間、5月27日に本宮市内に借り上げ住宅を確保して引っ越した。和歌山で妻が腰を痛めて手術する思わぬ出来事もあったが、7がつ3日には迎えにいって福島に帰ってきた。
借りた牧場は(株)T・ユニオン・デイリーと名付けた。ボーリングした井戸だけでは水が足りないため、市営水道を配管してもり確保した。近くに牧草畑はあるが県の規制のため使えないので、エサは輸入物に頼っている。すでに昭和58年、長男剛に経営を譲っていたので、牧場は剛が主役になって切り盛りしている。
 現在私は、家主さんの事情のため震災の翌年11月27日に借り上げ住宅を出て、本宮市内の石神題二仮設住宅で生活している。息子夫妻も同じ本宮市内のアパートにいるため、孫にはいつでも会えるのが幸いである。義理の息子利仙は会津を経て現在二本松東和に避難している。

ふるさとへの思い
 苦労して築き、地域に溶け込んで生活していたので、原発事故のため和歌山に「避難していくときは涙が止まらなかった。本宮市・平成大通り近くの酪農組合に避難の挨拶に伺った際は流れる涙を止めようがなく、職員の皆さんは怪訝に思ったことだろう。買い求め耕してきた牧草地や田畑、山林がすべて無駄になってしまうと思うと、悔しくて居ても絶ってもいられない気持ちになった。
 当然のことながら、牛はそのままだったので、息子が残って世話するにしても、これからどうなるのか不安だらけの中、もう帰れないのではないかとの思いも強く、その思いは時間の経過に伴って薄らぎ、避難生活もそれなりに落ち付いてきたとは言え、精神的な苦痛は今も変わりなく続いている。
 今後は、ふるさとへ帰る人、帰らない人の対応を区分けし、戻りたい人への一時帰宅の回数や立場を配慮した政策を進めるべきだと思う。除染は国道沿いを中心に進め、町場に通う人が安心して通行できるようにすべきである。
 また原発事故避難の際、町場から津島まで4時間以上かかっている。避難道路の整備・確保や周知が当然必要だし、情報公開がきちんとされるべきである。事故関連情報が住民に周知されるなかったのは残念に思う。相双方部から福島空港へのアクセス道路が原浪トンネル開通後進んでいない。やはりきちんと整備すべきである。
25.6.17 聴き取り
3.11 ある被災地の記録 浪江町津島地区のこれまで、あのとき、そしてこれから

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