原町無線塔、朝日座など福島県南相馬市原町区(旧原町市)の文献を公開

人工的命名の双葉論・相馬論

2 双葉郡は人工的な名称で出来た

 かつて自然発生的に地域を統括した権力は、楢葉氏と標葉氏という2つの士族がそれぞれ楢葉地方(概ね現在の楢葉町・富岡・川内など。鎌倉時代なかばごろまでほぼ磐城領)と標葉地方(概ね現在の葛尾村・浪江町・双葉町など鎌倉ごろほぼ相馬領に)を支配していた。
 双葉郡という行政区域が誕生したのは明治以後の事で、楢葉と標葉の2つの士族以来の地域を人工的に線引きしてふたつの葉で象徴される古くからの地域を「双葉」という新たな造語で無理やり結び付けた行政ゆらいの新造語なのだ。近代の太政官の発想であった。
 さらに、昭和になって新山村と長塚村とが合併させられるにあたって、新しい町名を必要とした時に、まだどこでも採用していなかった「双葉町」という、郡と同じ町名に冠したので紛らわしくなった。古くから住んで居た古老たちには、なじみの良くない新造語の双葉よりも、古くから慣れ親しんだ「新山」「長塚」のほうが、ぴったりくる。
 この気分は、鹿島、原町、小高の3自治体が合併した新「南相馬市」の住民の気分によく似ている。
 どこも自主的に合併を臨んだ名称ではなかったからだ。お仕着せの行政改革という太政官ゆらいの発想ゆえに、歴史性を無視し、東京の机上の人口と綿製の数字の組み合わせによる「効率」が目的だった。
 そのたびに、地名が抹殺され、歴史と名残と愛着が削ぎ落とされて、地域個性が喪失されてきた近代史がある。
 その集大成が、原発事故による、故郷喪失という地域の死だった。

 相馬郡の北辺を成す新地町は、もともと宮城県側の仙台藩の気風と言葉で成り立つ。相馬藩の引力との緩衝地域であった新地は、双方の領地として行ったり来たりの運命を辿って明治になって現在の位置に落ち着いた。
 戦後のGHQ主導のシャウプ勧告による昭和の合併で市にならなかった鹿島町と小高町と山中の飯舘村とが、ばらばらに飛び地でありながら、新地と組み合わされて「相馬郡」として平成の御代まで残った。
 かつて旧相馬郡中村町が、相馬市と改名した時に、かつて相馬藩領全域の首府だったという誇らしさが、比較的少数の相馬市が、「双葉」命名と同じように大相馬郡全体の名称である「相馬」を1自治体に冠したのと似ている。
 なじみある古くて懐かしい呼び名に対する執着や、おのれが中心地としての自負と自尊心、はては他より高尚と思い込む嫉妬の感情などに、複雑な思いが込められて来た。
 たとえば相馬市に所在する「相馬高校」は、原町区に所在する「原町高校」よりも、格が上だという刷り込みもそうだ。もともと旧制中学から新制孝行になった伝統ある相馬高校は、ずっと見下してきた。比較的に若い「原町高校」は、もとは「相馬商業学校」という格下の実業学校だったから仕方がない。内実はともあれ、気分というものは、どこまでも肉体的に付いて回るのだ。
 双葉郡の首府は、郡都富岡町とされた。富岡に富岡高校があり、浪江に浪江高校、双葉に双葉高校がある。しかし双葉郡が相馬郡とともに県庁から相双地区と一括りにされたときから、中心核のない、市を持たぬ空白域になってしまった。県の出先機関である「相双」地方事務所は、相対的に最大人口を擁する旧原町市(現南相馬市原町区)に置かれてきた。
 双葉郡の最大人口は、浪江町に集中している。国道4号線と国道114号線が結束するポイントだから、交通の便がもっともすぐれているからである。

3.11南相馬

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