原町無線塔、朝日座など福島県南相馬市原町区(旧原町市)の文献を公開

 今野洋一 津島の暮らし 青年会活動など

今野洋一 青年会活動など

 大学に進学したかったので受験し、合格した。先生は大へん喜んでくれたが、同級生からは奇跡だとからかわれた。だが、進学は諦めた。長男であり家を継がなければならない立場もあってなりゆきと諦めた。何か夢が無くなったように気落ちした思いがある。

 農家である家業を継いだが、この頃から農業は斜陽になった。そんな状況を少しでも活性化しようと、青年会活動を再結成した。以前あったのだが当時は解散されて無くなっていたのだ。自ら会長になり、地区ごとに支部長を置いて組織化し、各種の事業を展開した。会長を2期務めた。当時の支部長は、津島・松村一郎、下津島・三瓶肇、南津島上・紺野忠治、南津島下・小林博、赤宇木・今野義人、羽附・窪田栄、大昼・佐々木保彦さんの面々である。副会長として松木山の紺野智子さんが頑張ってくれた。
 農作業を合理化するため農休日を設けた。宣伝カーを走らせ啓蒙した。また、この頃から野鵜かの嫁不足が深刻化してきた。女性会員も数多くいたので、結婚問題も取り上げた。青年会主催で、盆踊りは3日間行った。二十日盆にも踊った。寄付は各世帯一律に500円をお願いし、会員が集めて廻った。踊りの手配は会員が手分けして実施した。
 また、町民祭を復活した。浪江町と合併後、津島独自の体育祭が無くなったので町全体の体育祭に参加してきたが、次第に参加者が減少してきたので、津島地区の体育祭として復活させたのだ。部落対抗形式で競技を行い、総合優勝を目指して鎬を削り大いに盛り上がった。ダンス教室など文化的な事業にも力を入れた。
 当時、行政のみでは何事も動かず、物事を進める上で青年会・婦人会の存在は非常に大きかった。大概の行事には声が掛かって参画し、実施に協力した。
 家では戦後の農地解放によってかなりの農地を失ったが、それでも2町歩余の水田が残された。しかし、腎臓病を患ってしまった。医師からは、まず社会復帰することが大切だと助言されたため、病院に通いながら農作業や会長を務め、それ以外にも体育協会長、野球・ソフト大会長などを務めた。

 29歳から36歳までの間、開拓農協に勤めた。農協はその後解散してしまったが、建物は現在も松木山地内に残されている。私は、国有林活用による飼料基盤整備補助事業を担当した。総事業費が非常に大きく、県から会計検査院が必ず入ると言われたとおり工事終了と同時に検査員一行が津島に入った。浪江での検査対象は津島地区だけだった。農協の2階で受検した。会計検査院は独立した機関で権限も強く、誰も口出しできない雰囲気の下、担当として私一人で対応した。県合同庁舎の農政担当だった有賀さんや役場の米田係長が側面支援してくれ、大変世話になった。当時会計検査院の検査官は食事を辞退すると聞いていたのだが、婦人会員に総動員を掛けて松茸ご飯を提供したところ喜んで食べてくれ、そのせいかどうか検査は指摘もなく無事終了し、大変貴重な体験をさせてもらったことがある。
 ただ、その後畜産も斜陽になったため、事業で整備した草地は一部が町の森林ボラン�テイアとして残されたが、それ以外はほとんど山林に戻ってしまった。あれだけの公費を注ぎこんで実施した事業なのに残念である。
 昭和50年代、県の開拓農協連合会が解散し、津島の開拓農協も同様に解散し開拓行政は終焉した。

つづき 腎臓病と結婚(別掲)

3.11 ある被災地の記録

3.11南相馬

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