木乃幡 木幡喜久雄

被災の現実と闘いながら 木幡喜久雄
 震災時、木幡は本社にいた。外に飛び出ると目の前の自宅がしさまじく上下していた。しかし家は大丈夫だった。「家の中も全然見傷でした」と木幡は話す。
 地震も怖かったが、本当の恐ろしさはそれからだった。
 市の沿岸に巨大地震が襲いかかった。高校の卒業式を終えた娘と車で走っていたいとこが、娘と一緒に亡くなった。浪江町請戸の消防団員だった長女の夫も亡くなった。
 「叔父、伯母、いとこ、いとこの子……、親戚が23人死にました。ずいぶん亡くなりました」
 津波が去ったと思ったら放射能がきた。
「3月12日の朝に静岡県警のバスが小高に来たんです。警察官は防護服を着て、放射線を計ってたんですよ。そのときはまだ事態がよく分からなくて、『おっかしいなあ』『どうしたんだ』って」
 12日の午後3時半、そのバスが家の近くに来た。
「拡声器で騒ぎながら来たんですよ。ところがその声がよく聞こえない。じっと聞いていると、どうも逃げろといっている。こりゃ放射線のことかもしれない、と」
 通帳と金庫の現金、毛布2枚をもって車で逃げた。12日の夜は福島市にある「木乃幡福島店」の駐車場で夜を明かし、13日は福島市内の避難所に入った。避難所にもテレビはなかった。情報は何も入らなかった。 
 15日午前2時半、一緒に逃げていた長男の携帯電話にメールが入った。友人が、原発で働いていた知人の情報をメールしてくれた。そこにはこうあった。
「間もなく4号機が爆破する。100キロ以上離れろ」
 これはもうだめだ、と思った。お世話になった人たちは「こんなメールが来たので私たちは避難します」とあいさつしてさらに遠くへ逃げた。開いているガソリンスタンドを見つけてはナラんでガソリンを入れた。津波の被災現場を走り回っていたため、車は泥だらけだった。それを見たガソリンスタンドの店員が「この車、特別に入れてあげて」といってくれることもあった。長男の知人を頼り、群馬まで逃げた。
 福島に戻ったのは3週間後。孫の事を考え、仙台に通って家を探した。仙台市の郊外に建売住宅を買い、となりの建売住宅を長女が買った。
 6000万円でつくった自宅は地震でびくともしなかった。その家は無傷のままあるのに住めない。住む人がいないまま、家は荒れていく。
 不条理としかいいようがない現実だった。
 東電からは月10万円の慰謝料すらまったくもらっていない。
「2年近くも収入ゼロでやっているのですから、本当に苦しい。この苦しさは誰にも分らないと思います」と木幡はいう。
 木幡にとって、前を向いて進む道が新工場の建設だ。2013年の夏には完成させたいと思っている。
P152 プロメテウスの罠4 朝日新聞特別報道部    2013年4月9日

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